瑠架の“兼正館”と“桐敷家”に関する話題は、再び歩き出してからも途切れる事は無かった。
引越しの際の家具を積んだトラックの大きさと数、挨拶時に配られた粗品、使用人である辰巳の美青年ぶり、
旦那様のスーツと乗っている車。
まるで近所の噂好きな主婦に近いものがあったが、それらとの違いは彼女の眼に宿る“憧れ”だろう。
自分とは住む世界の違う者達への強烈な憧れが、やや異常とも思える興味や好奇心の源泉になっているのだ。
まひろの方はというと、話の内容ひとつひとつにいちいち感心しながら大きく相槌を打つ。
多分に主観と誇張を含んだ瑠架の話が、幼い頃のおとぎ話を思わせているのかもしれない。
引越しの際の家具を積んだトラックの大きさと数、挨拶時に配られた粗品、使用人である辰巳の美青年ぶり、
旦那様のスーツと乗っている車。
まるで近所の噂好きな主婦に近いものがあったが、それらとの違いは彼女の眼に宿る“憧れ”だろう。
自分とは住む世界の違う者達への強烈な憧れが、やや異常とも思える興味や好奇心の源泉になっているのだ。
まひろの方はというと、話の内容ひとつひとつにいちいち感心しながら大きく相槌を打つ。
多分に主観と誇張を含んだ瑠架の話が、幼い頃のおとぎ話を思わせているのかもしれない。
やがて、一直線に続く道の向こう側から、彼女ら二人へ近づいてくる者がいた。
五分刈りの白髪頭。少し曲がった背中。色褪せたジャンパー。
それはかなりの老齢と思われる男性だった。
買い物帰りなのか、手にはスーパーの袋を提げている。
コミュニケーション可能な距離まで近づくや否や、まひろはつい数分前に房江にも披露した元気一杯の
挨拶を投げかけた。
「こんにちは!」
老人からの返事は無い。
額や眉間、口周りに刻まれた深く長い皺をほとんど動かさず、ジロリとまひろを一瞥しただけ。
「フン……」
老人はまひろらから顔を背けるとそのまますれ違い、歩き去ってしまった。
キョトンと彼を見送るまひろを、瑠架が慌ててフォローする
「き、気にしなくていいよ。山本さんは誰にでもああだから……」
主婦染みたご近所情報はこんな場合にも役に立つ。
「若い頃はあんなじゃなくて、明るくて優しい人だったらしいよ…… 前に木戸さんがそう言ってた……
戦争で南方へ行っている間に、婚約者の女性が空襲に遭って亡くなって…… それ以来、あんな風に
誰とも話さなくなったんだって……」
「そうなんだ……」
まひろは再び振り返り、遠ざかる山本の背中を見つめる。
五分刈りの白髪頭。少し曲がった背中。色褪せたジャンパー。
それはかなりの老齢と思われる男性だった。
買い物帰りなのか、手にはスーパーの袋を提げている。
コミュニケーション可能な距離まで近づくや否や、まひろはつい数分前に房江にも披露した元気一杯の
挨拶を投げかけた。
「こんにちは!」
老人からの返事は無い。
額や眉間、口周りに刻まれた深く長い皺をほとんど動かさず、ジロリとまひろを一瞥しただけ。
「フン……」
老人はまひろらから顔を背けるとそのまますれ違い、歩き去ってしまった。
キョトンと彼を見送るまひろを、瑠架が慌ててフォローする
「き、気にしなくていいよ。山本さんは誰にでもああだから……」
主婦染みたご近所情報はこんな場合にも役に立つ。
「若い頃はあんなじゃなくて、明るくて優しい人だったらしいよ…… 前に木戸さんがそう言ってた……
戦争で南方へ行っている間に、婚約者の女性が空襲に遭って亡くなって…… それ以来、あんな風に
誰とも話さなくなったんだって……」
「そうなんだ……」
まひろは再び振り返り、遠ざかる山本の背中を見つめる。
“戦争”
“愛する者の死”
どちらもまひろは体験した事が無い。
ただし、愛する者を失いそうになった経験ならば、ごく最近に一度。
その時の悲しみに満ちた心境を想うと、それに近いものがあるのかとも考える。
だが、愛する兄カズキは帰ってきてくれた。自分のところへ。
山本老人は失ったまま。そうして心を閉ざしてしまった。
ただし、愛する者を失いそうになった経験ならば、ごく最近に一度。
その時の悲しみに満ちた心境を想うと、それに近いものがあるのかとも考える。
だが、愛する兄カズキは帰ってきてくれた。自分のところへ。
山本老人は失ったまま。そうして心を閉ざしてしまった。
「武藤さん、こっち…… ここが私の家……」
珍しく取り留めも無い思考に陥りかけたまひろに声が掛けられた。どうやら自分でも意識せずに
歩みを進めていたらしい。
気づけば瑠架が一軒の家を指差していた。
然したる特徴も無く、大きくも小さくもない建売住宅の中の一軒。
両隣にはほぼ同じ造りの家が並んでいる。
またもや「いいお家だねっ!」と根拠の無い褒め言葉を上げるまひろと、“彼女の言葉だから”と
素直に受け取って顔を赤らめる瑠架。
二人は仲良く並んで家の門をくぐる。
門に掛けられた表札には、楷書体の太い文字で“柴田 瑠美子 瑠架”とあった。
珍しく取り留めも無い思考に陥りかけたまひろに声が掛けられた。どうやら自分でも意識せずに
歩みを進めていたらしい。
気づけば瑠架が一軒の家を指差していた。
然したる特徴も無く、大きくも小さくもない建売住宅の中の一軒。
両隣にはほぼ同じ造りの家が並んでいる。
またもや「いいお家だねっ!」と根拠の無い褒め言葉を上げるまひろと、“彼女の言葉だから”と
素直に受け取って顔を赤らめる瑠架。
二人は仲良く並んで家の門をくぐる。
門に掛けられた表札には、楷書体の太い文字で“柴田 瑠美子 瑠架”とあった。
“瑠架の自宅”もしくは“柴田家”。
玄関とそこから続く廊下だけを眺めても、家屋内の様子が上記の言葉を表している。
そんな印象を覚えてしまう程、柴田家は眼に入る範囲のどの場所も丁寧に掃除と整頓が為されていた。
玄関口には砂粒ひとつ落ちていないし、廊下にも塵ひとつ落ちていない。
靴箱の中の靴もすべて同じ方向を向き、几帳面に等間隔で並べられている。
まひろは“だらしない”とはいかないまでも、整理整頓には少々ズボラだった。
その彼女にしてみれば、ここまで整った環境というのも却ってそれを乱してしまいそうで、
若干足を踏み入れ難い。
あーうー、と靴を脱げないまま固まっているまひろを、瑠架は不思議そうな面持ちで眺めていた。
玄関とそこから続く廊下だけを眺めても、家屋内の様子が上記の言葉を表している。
そんな印象を覚えてしまう程、柴田家は眼に入る範囲のどの場所も丁寧に掃除と整頓が為されていた。
玄関口には砂粒ひとつ落ちていないし、廊下にも塵ひとつ落ちていない。
靴箱の中の靴もすべて同じ方向を向き、几帳面に等間隔で並べられている。
まひろは“だらしない”とはいかないまでも、整理整頓には少々ズボラだった。
その彼女にしてみれば、ここまで整った環境というのも却ってそれを乱してしまいそうで、
若干足を踏み入れ難い。
あーうー、と靴を脱げないまま固まっているまひろを、瑠架は不思議そうな面持ちで眺めていた。
「瑠架、帰ったの?」
不意に、まひろの耳に癇癖の強そうな中年女性の声が聞こえた。
声の主はすぐに奥から姿を現した。瑠架の母、瑠美子だ。
視力が悪いのは遺伝なのだろうか。彼女もまた度の強そうな厚いレンズの眼鏡を掛けていた。
アップにした硬質的な髪型と、白のブラウスを第一ボタンまでしっかりと留めている姿は、
“清潔感”を通り越して“潔癖”を感じさせる。
「ただいま…… この子は友達の武藤さん……」
母親が迎えに出てきたというのに、瑠架は眼も合わせずにそっぽを向き、帰宅の挨拶も友人の紹介も
手短に済ませる。
まひろはまひろで、瑠美子の持つ神経質な雰囲気も、瑠架の母親に対するよそよそしい態度も、
あまり気にしていない。
綺麗な家には気後れするのに。これを世間ではKYというのか。どうもわからない。
「こんにちは! 武藤まひろです! はじめまして!」
最早恒例となった、三度目を数えるこの町での元気な挨拶。そして、ペコリと頭を下げる。
しかし、瑠美子はまひろには眼もくれず、瑠架に対して早口でまくし立てた。
声の主はすぐに奥から姿を現した。瑠架の母、瑠美子だ。
視力が悪いのは遺伝なのだろうか。彼女もまた度の強そうな厚いレンズの眼鏡を掛けていた。
アップにした硬質的な髪型と、白のブラウスを第一ボタンまでしっかりと留めている姿は、
“清潔感”を通り越して“潔癖”を感じさせる。
「ただいま…… この子は友達の武藤さん……」
母親が迎えに出てきたというのに、瑠架は眼も合わせずにそっぽを向き、帰宅の挨拶も友人の紹介も
手短に済ませる。
まひろはまひろで、瑠美子の持つ神経質な雰囲気も、瑠架の母親に対するよそよそしい態度も、
あまり気にしていない。
綺麗な家には気後れするのに。これを世間ではKYというのか。どうもわからない。
「こんにちは! 武藤まひろです! はじめまして!」
最早恒例となった、三度目を数えるこの町での元気な挨拶。そして、ペコリと頭を下げる。
しかし、瑠美子はまひろには眼もくれず、瑠架に対して早口でまくし立てた。
「最近、遊んでばかりじゃないの? 勉強はしてるの? あなたには絶対国立の大学に行ってもらわなきゃ。
私立なんかに行って、これ以上お金が掛かるようになったら困るのよ」
どうやらまひろはこの場にいないも同然のようだ。
“友達”と紹介した人物がいるにも関わらず、普通はあまり他人に聞かせたくない類の話が出来るのだから。
彼女にとっての現在の関心事は“娘の成長の様子”でも“娘の交友関係”でもなく、“娘の将来
(=自分の生活水準)”らしい。あまり珍しい人種ではないが。
第三者のいるこの状況でこのやり取りである。普段の親子関係も推して知るべし、なのだろう。
「ちゃんとしてるよ…… 成績もテストの点も落としてないでしょ……」
瑠架は相変わらず母親には眼を合わせず、事実のみを淡々と呟くだけ。
あとは沈黙、無視を決め込む。
ここに至り、瑠美子はようやくまひろに眼を向けた。僅かにチラリと。
私立なんかに行って、これ以上お金が掛かるようになったら困るのよ」
どうやらまひろはこの場にいないも同然のようだ。
“友達”と紹介した人物がいるにも関わらず、普通はあまり他人に聞かせたくない類の話が出来るのだから。
彼女にとっての現在の関心事は“娘の成長の様子”でも“娘の交友関係”でもなく、“娘の将来
(=自分の生活水準)”らしい。あまり珍しい人種ではないが。
第三者のいるこの状況でこのやり取りである。普段の親子関係も推して知るべし、なのだろう。
「ちゃんとしてるよ…… 成績もテストの点も落としてないでしょ……」
瑠架は相変わらず母親には眼を合わせず、事実のみを淡々と呟くだけ。
あとは沈黙、無視を決め込む。
ここに至り、瑠美子はようやくまひろに眼を向けた。僅かにチラリと。
「……お友達は結構だけど、棚橋のところの娘みたいなろくでもないのは御免よ」
もう瑠架は答えない。母親の皮肉は黙殺し、まひろを促す。
「上がって、武藤さん……」
「う、うん。お邪魔します」
重い空気にようやく異質なものを感じ始めていたまひろであったが、慌てて二階へ向かう瑠架の後を追う。
瑠美子は階段を上がっていく瑠架の背中を忌々しそうに見つめていたが、やがてフウと溜息を吐き、
聞こえよがしにこう呟いた。
「まったく、もう。お父さんが生きていたら、こんなワガママな子には育たなかったのに」
それを聞いた瑠架もまたボソリと言葉を洩らした。ただし、母には聞こえぬように。
「上がって、武藤さん……」
「う、うん。お邪魔します」
重い空気にようやく異質なものを感じ始めていたまひろであったが、慌てて二階へ向かう瑠架の後を追う。
瑠美子は階段を上がっていく瑠架の背中を忌々しそうに見つめていたが、やがてフウと溜息を吐き、
聞こえよがしにこう呟いた。
「まったく、もう。お父さんが生きていたら、こんなワガママな子には育たなかったのに」
それを聞いた瑠架もまたボソリと言葉を洩らした。ただし、母には聞こえぬように。
「お父さんが生きていたら、こんな息の詰まる家庭じゃなかったわ……」
二階に上がり、二つある部屋の奥側。それが瑠架の部屋。
その室内は玄関を始めとした柴田家の家屋内と同じように、瑠架のパーソナリティを如実に表していた。
ベッドメイキングは完璧で、掛け布団や枕は少しの乱れも無い。
デスクトップタイプのパソコンが置かれた学習机の上もキッチリと整理され、消しゴムのカスすら
落ちていない。
いかにも“優等生の部屋”といった風情だが、部屋全体や本棚に眼を遣ればだいぶ印象も変わる。
前後左右を見渡すと、少年漫画及びアニメに登場するありとあらゆる美形男性キャラクターの
ポスターが壁を埋め尽くさんばかりに(天井にまで!)貼られていた。
そして本棚はといえば(本棚そのものの大きさや数にも眼を瞠るものがあったが)、書籍や辞典の類は
まったく見当たらず、漫画単行本のみが隙間無く並べられている。
こちらも集英社や講談社等のメジャーな少年漫画から、聞いた事も無いマイナーな出版社の漫画まで、
漫画専門店なみの無駄な豊富さである。
同年代の女子高生と比較すれば大分漫画好き、アニメ好きなまひろも、これには眼を丸くして驚くばかりだ。
その室内は玄関を始めとした柴田家の家屋内と同じように、瑠架のパーソナリティを如実に表していた。
ベッドメイキングは完璧で、掛け布団や枕は少しの乱れも無い。
デスクトップタイプのパソコンが置かれた学習机の上もキッチリと整理され、消しゴムのカスすら
落ちていない。
いかにも“優等生の部屋”といった風情だが、部屋全体や本棚に眼を遣ればだいぶ印象も変わる。
前後左右を見渡すと、少年漫画及びアニメに登場するありとあらゆる美形男性キャラクターの
ポスターが壁を埋め尽くさんばかりに(天井にまで!)貼られていた。
そして本棚はといえば(本棚そのものの大きさや数にも眼を瞠るものがあったが)、書籍や辞典の類は
まったく見当たらず、漫画単行本のみが隙間無く並べられている。
こちらも集英社や講談社等のメジャーな少年漫画から、聞いた事も無いマイナーな出版社の漫画まで、
漫画専門店なみの無駄な豊富さである。
同年代の女子高生と比較すれば大分漫画好き、アニメ好きなまひろも、これには眼を丸くして驚くばかりだ。
そして、部屋に入った瑠架はまるで別人のようだった。
声の小ささや低さに変わりは無いが、学校にいる時よりも遥かに能動的なのだ。
声の小ささや低さに変わりは無いが、学校にいる時よりも遥かに能動的なのだ。
「ねえ、この動画を見てみて。これ、オススメなんだよ――」
「難しいよね。東京タワーとエッフェル塔、どっちが受けでどっちが攻め――」
「その作品の作者さんだったら、こっちも面白いよ――」
「やっぱりキャラの立ち位置もそうだけど、心理描写が――」
「武藤さんの好きなキャラって何? 良かったらイラスト描こうか――」
「そういえば、お兄さんと早坂秋水先輩って仲がいいよね。もしかして――」
ネットの動画サイトや本棚から持ち出した漫画等を話題にして、実によく話し、よく動く。
まひろにはよくわからない話題も多いものの、こうして普段よりもずっと活発に接されると、
それだけで楽しくなってしまう。
“打てば響く”性格であり、“物事を最大限楽しむ”性格のまひろにとって、この瑠架の変化は
非常に喜ばしいものと言える。
一方の瑠架もまひろのリアクションに気を良くしてか、次第に声のトーンが明るくなり、控えめな話し方も
テンポが良くなっていく。
実力以上の力を発揮できるホームグラウンドというものは、やはり重要な要素だ。スポーツにおいても
対人関係においても。
まひろにはよくわからない話題も多いものの、こうして普段よりもずっと活発に接されると、
それだけで楽しくなってしまう。
“打てば響く”性格であり、“物事を最大限楽しむ”性格のまひろにとって、この瑠架の変化は
非常に喜ばしいものと言える。
一方の瑠架もまひろのリアクションに気を良くしてか、次第に声のトーンが明るくなり、控えめな話し方も
テンポが良くなっていく。
実力以上の力を発揮できるホームグラウンドというものは、やはり重要な要素だ。スポーツにおいても
対人関係においても。
お喋りに花が咲き、時間を忘れてはしゃぐ二人。
やがて、まひろが何の気無しに移した視線の先にあるものが映った。
それは色紙。
マジックか何かで表面をグシャグシャと塗り潰された色紙が、机のすぐ横に飾られている。
意味の無さそうなものがキチンと飾られているのは一種異様な風景だった。
まひろは立ち上がると机に近寄り、色紙を手に取る。
「これって……?」
その行動に、瑠架は表情を僅かばかり曇らせた。
「あ、それ……? 小学校卒業の時の寄せ書き……」
「どうして消しちゃったの?」
また少し瑠架の声が暗くなる。
「別に…… 見たくないから……」
見たくない程、塗り潰してしまう程、嫌な品物ならば普通は捨てるか、押入れの奥にでも仕舞う筈。
わざわざ飾っておくのは、嫌悪の中に嫌悪に勝る価値が秘められているからなのだろう。
まひろの眼はそれをすぐに探し出した。
放射状に並ぶ文章があったと思われる位置はすべて黒く塗り潰されていたが、色紙の右下の隅に
横書きの小さな小さな一文があった。
やがて、まひろが何の気無しに移した視線の先にあるものが映った。
それは色紙。
マジックか何かで表面をグシャグシャと塗り潰された色紙が、机のすぐ横に飾られている。
意味の無さそうなものがキチンと飾られているのは一種異様な風景だった。
まひろは立ち上がると机に近寄り、色紙を手に取る。
「これって……?」
その行動に、瑠架は表情を僅かばかり曇らせた。
「あ、それ……? 小学校卒業の時の寄せ書き……」
「どうして消しちゃったの?」
また少し瑠架の声が暗くなる。
「別に…… 見たくないから……」
見たくない程、塗り潰してしまう程、嫌な品物ならば普通は捨てるか、押入れの奥にでも仕舞う筈。
わざわざ飾っておくのは、嫌悪の中に嫌悪に勝る価値が秘められているからなのだろう。
まひろの眼はそれをすぐに探し出した。
放射状に並ぶ文章があったと思われる位置はすべて黒く塗り潰されていたが、色紙の右下の隅に
横書きの小さな小さな一文があった。
『I ain't gonna live foever. I just want to live while I'm alive. Akira』
英文である。まひろには読めない。
しかし、最後に書かれたローマ字の署名だけは理解が出来た。
「あ、き、ら……? もしかしてここのとこって、棚橋さんが書いたの?」
「うん……」
俯き加減の瑠架は小さく頷く。心なしか頬が赤いようだ。
その反応を受けて、まひろは色紙の本当の価値を見出すと同時に、瑠架と晶を繋ぐ絆を感じ、
少し嬉しくなった。
「これって何て書いてあるの? どういう意味?」
「晶ちゃんがその頃好きだったバンドの歌に出てくる歌詞みたい…… 何て言ったっけ、ボン・ジョヴィ、
だったかな……? 『永遠になんて生きられないから、命ある限りは精一杯生きていたい』って意味……」
“学校で習う英語がよく出来る子”にしては、割とロックミュージックが持つ雰囲気のままの意訳だ。
その言葉には、当時の晶が考えていた事、そして友人の瑠架へ伝えたかった事がよく表れている。
まひろは暫し色紙を見つめていた。
しかし、最後に書かれたローマ字の署名だけは理解が出来た。
「あ、き、ら……? もしかしてここのとこって、棚橋さんが書いたの?」
「うん……」
俯き加減の瑠架は小さく頷く。心なしか頬が赤いようだ。
その反応を受けて、まひろは色紙の本当の価値を見出すと同時に、瑠架と晶を繋ぐ絆を感じ、
少し嬉しくなった。
「これって何て書いてあるの? どういう意味?」
「晶ちゃんがその頃好きだったバンドの歌に出てくる歌詞みたい…… 何て言ったっけ、ボン・ジョヴィ、
だったかな……? 『永遠になんて生きられないから、命ある限りは精一杯生きていたい』って意味……」
“学校で習う英語がよく出来る子”にしては、割とロックミュージックが持つ雰囲気のままの意訳だ。
その言葉には、当時の晶が考えていた事、そして友人の瑠架へ伝えたかった事がよく表れている。
まひろは暫し色紙を見つめていた。
(永遠には生きられない……)
確かにそうだ。
生きていられる時間に限りがあるからこそ、後悔の無いように生きていきたい。
普段から考えている訳ではないとはいえ、自分もそれには共感出来る。
兄や斗貴子、親友の沙織と千里、そして新たに友人となった瑠架。
皆とずっと一緒にいたいが、いつかどこかで別れの時が訪れるかもしれない。
己の人生だって目減りを繰り返し、いつか死んでしまう。
ならば、せめていつも楽しく。せめていつも全力で。
晶の想いは現在の自分に置き換えても大いに頷けるところである。
生きていられる時間に限りがあるからこそ、後悔の無いように生きていきたい。
普段から考えている訳ではないとはいえ、自分もそれには共感出来る。
兄や斗貴子、親友の沙織と千里、そして新たに友人となった瑠架。
皆とずっと一緒にいたいが、いつかどこかで別れの時が訪れるかもしれない。
己の人生だって目減りを繰り返し、いつか死んでしまう。
ならば、せめていつも楽しく。せめていつも全力で。
晶の想いは現在の自分に置き換えても大いに頷けるところである。
短い間、グルグルと彼女の頭を廻っていた思考を整理・変換し、読みやすくするとすれば上記のようになる。
単純に嬉しかったのだ。
いつも冷たく拒絶ばかりする晶が、実は自分と似たような想いを胸に秘めていた事が(“小学生当時の”という
事実にまで考えが及んでいないのはまひろらしいと言うべきか)。
それともうひとつ。
まひろは晶の語学力に対しても感心していた。
「でも、すごいなぁ。棚橋さんって小学生の頃から英語が出来たんだね」
「え? う、うん…… だって晶ちゃんは……――」
瑠架は“何を当たり前な事を”と言わんばかりの表情の後に、慌てて口を閉ざした。
明らかに不自然な振る舞いに、まひろは首を傾げている。
「な、何でもない…… それより武藤さん、ケーキ買っておいたから一緒に食べようよ……」
「食べるー!」
微かに湧いた疑問も魅力的な提案の前には色褪せてしまった。
ついでに言うならば、その疑問は瑠架が一階から持ってきたケーキと共に咀嚼、嚥下されて
二度と戻ってくる事は無かった。
単純に嬉しかったのだ。
いつも冷たく拒絶ばかりする晶が、実は自分と似たような想いを胸に秘めていた事が(“小学生当時の”という
事実にまで考えが及んでいないのはまひろらしいと言うべきか)。
それともうひとつ。
まひろは晶の語学力に対しても感心していた。
「でも、すごいなぁ。棚橋さんって小学生の頃から英語が出来たんだね」
「え? う、うん…… だって晶ちゃんは……――」
瑠架は“何を当たり前な事を”と言わんばかりの表情の後に、慌てて口を閉ざした。
明らかに不自然な振る舞いに、まひろは首を傾げている。
「な、何でもない…… それより武藤さん、ケーキ買っておいたから一緒に食べようよ……」
「食べるー!」
微かに湧いた疑問も魅力的な提案の前には色褪せてしまった。
ついでに言うならば、その疑問は瑠架が一階から持ってきたケーキと共に咀嚼、嚥下されて
二度と戻ってくる事は無かった。
相対性理論を持ち出すまでも無いが、友人と共に過ごす時間は楽しければ楽しい程、あっという間に
過ぎてしまうものだ。
ふと気づけば西の空は既に赤く染まっており、東の空からは夕闇が迫りつつあった。
門限。夕食。届けが無ければ認められない外泊。
こういう時は寄宿舎生活を恨めしく思わないでもない。
それに、自室の押入れではもうひとりの友人がそろそろ眼を覚ます頃だ。
過ぎてしまうものだ。
ふと気づけば西の空は既に赤く染まっており、東の空からは夕闇が迫りつつあった。
門限。夕食。届けが無ければ認められない外泊。
こういう時は寄宿舎生活を恨めしく思わないでもない。
それに、自室の押入れではもうひとりの友人がそろそろ眼を覚ます頃だ。
まひろと瑠架は再び玄関に立っていた。
学校指定のコートを羽織ながら、靴を履くまひろ。
危なっかしくバランスを保つ友人を、瑠架は心配そうな面持ちで眺めている。
まひろは靴を履き終え、ようやく身体を起こすと、それぞれ両手で二つの物を持ち上げた。
右手に鞄。左手に瑠架オススメの漫画がギッシリと詰め込まれた“とらのあな”の紙袋。
向かい合う二人の顔は名残惜しげな表情に満ちている。また明日になれば会えるというのに。
「じゃあね、武藤さん……」
「うん、今日はありがとう。また遊びに来るね」
後ろ髪を引かれつつも、背中を向けてドアを開けようとしたまひろは突然――
「あっ、そうだ!」
――素っ頓狂な大声を上げた。
そして、慌ててクルリと瑠架の方へと向き直る。
「ねえねえ、柴田さんの事、“瑠架ちゃん”って呼んでいい? 友達を苗字で呼ぶのって何だか苦手だから」
「えっ……? あ、ええと…… その、別に、いいけど…… じゃあ、あの…… えっと……」
突然の申し出は言葉を喉につかえさせる。飛び上がる程に嬉しい気持ちと自分の望みを伝えたいのに。
彼女の言いたい事がわかったのか、それとも最初からそう言うつもりだったのか、まひろは更に
こう付け加えた。
「私の事も名前で呼んで! “まっぴー”でもいいよ!」
「“まっぴー”は、ちょっと…… じゃ、じゃあ、“まひろちゃん”って……」
まひろは満面の笑みで、瑠架は気恥ずかしげな笑顔で、お互いに見つめ合う。
“苗字ではなく名前で呼ぶ”という大した事の無い行為も、彼女らにとっては大いなる“繋がり”と
“特別性”を含んでいた。
学校指定のコートを羽織ながら、靴を履くまひろ。
危なっかしくバランスを保つ友人を、瑠架は心配そうな面持ちで眺めている。
まひろは靴を履き終え、ようやく身体を起こすと、それぞれ両手で二つの物を持ち上げた。
右手に鞄。左手に瑠架オススメの漫画がギッシリと詰め込まれた“とらのあな”の紙袋。
向かい合う二人の顔は名残惜しげな表情に満ちている。また明日になれば会えるというのに。
「じゃあね、武藤さん……」
「うん、今日はありがとう。また遊びに来るね」
後ろ髪を引かれつつも、背中を向けてドアを開けようとしたまひろは突然――
「あっ、そうだ!」
――素っ頓狂な大声を上げた。
そして、慌ててクルリと瑠架の方へと向き直る。
「ねえねえ、柴田さんの事、“瑠架ちゃん”って呼んでいい? 友達を苗字で呼ぶのって何だか苦手だから」
「えっ……? あ、ええと…… その、別に、いいけど…… じゃあ、あの…… えっと……」
突然の申し出は言葉を喉につかえさせる。飛び上がる程に嬉しい気持ちと自分の望みを伝えたいのに。
彼女の言いたい事がわかったのか、それとも最初からそう言うつもりだったのか、まひろは更に
こう付け加えた。
「私の事も名前で呼んで! “まっぴー”でもいいよ!」
「“まっぴー”は、ちょっと…… じゃ、じゃあ、“まひろちゃん”って……」
まひろは満面の笑みで、瑠架は気恥ずかしげな笑顔で、お互いに見つめ合う。
“苗字ではなく名前で呼ぶ”という大した事の無い行為も、彼女らにとっては大いなる“繋がり”と
“特別性”を含んでいた。
「また明日ね、瑠架ちゃん!」
「うん、また明日…… まひろちゃん……」
太陽はその身体を半ば以上まで、遥かな地平へ隠そうとしていた。
オレンジと濃紺のグラデーションが見事な空には星の瞬きすらも見え始めている。
まひろは胸いっぱいの幸せと遅くなってしまった焦りを抱えて帰路を急ぐ。
ここから乗り継ぎ等が上手くいって、帰り着くのは夕食時間ギリギリ、いや僅かに過ぎるのではないか。
時が経つのを忘れる程の楽しさは、やはり代償が大きい。
そもそも平日の下校後に遊びに行くには少々無理のある遠さとも言える。
オレンジと濃紺のグラデーションが見事な空には星の瞬きすらも見え始めている。
まひろは胸いっぱいの幸せと遅くなってしまった焦りを抱えて帰路を急ぐ。
ここから乗り継ぎ等が上手くいって、帰り着くのは夕食時間ギリギリ、いや僅かに過ぎるのではないか。
時が経つのを忘れる程の楽しさは、やはり代償が大きい。
そもそも平日の下校後に遊びに行くには少々無理のある遠さとも言える。
(瑠架ちゃんってすごいなぁ。こんなに遠いのに毎朝ちゃんと通ってるんだもんね。私だったら
絶対寝坊しちゃうよ)
絶対寝坊しちゃうよ)
(このままだと夕食時間に間に合わないかも…… ブラボーに怒られちゃうなぁ。斗貴子さんと
ちーちんにも怒られそう……)
ちーちんにも怒られそう……)
そんな事を考えながら、両手の荷物を交互にブンブンと振り、早歩きで先を急ぐまひろ。
やがて、小さな公園に差しかかった辺りで、奇妙な光景が視界の端に入ってきた。
公園の隅にあるベンチに、一人の少女が俯き加減で腰掛けていたのだ。
夕闇の迫る時刻。誰もいない公園。一人寂しげな少女。
まひろでなくとも気には掛かるだろう。
まひろなら尚更だ。
やがて、小さな公園に差しかかった辺りで、奇妙な光景が視界の端に入ってきた。
公園の隅にあるベンチに、一人の少女が俯き加減で腰掛けていたのだ。
夕闇の迫る時刻。誰もいない公園。一人寂しげな少女。
まひろでなくとも気には掛かるだろう。
まひろなら尚更だ。
せわしく動かしていた両脚の回転数を下げ、そのまま公園の中へと足を踏み入れる。
その途端、接近の気配を感じたのか、少女は素早く顔を上げ、まひろを食い入るように見つめ始めた。
会話が可能な距離まで近づくと、少女の幾分育ちが良さそうな服装が見て取れる。
どんな素材かまひろにはわからないが、前をしっかりと閉めた白いコートは柔らかく暖かそうだ。
二月の寒さが身に染み入るのか、フードが深々と頭に被せられ、コートの色と同じ白の手袋が
両手を覆っている。
水色のスカートからは白いタイツに包まれた細い脚が続き、その先は茶色のローファーで終わっていた。
まひろは膝を曲げて少女の目線に高さを合わせると、顔を覗き込むようにして穏やかに問い掛けた。
「こんにちは。どうしたの? 誰かを待ってるの?」
背格好や顔の造りから察するに、年の頃は十一、二歳くらいであろうか。
しかし、表情そのものは冷たさを感じさせる大人びたものだ。
まひろの問いに、“透き通る程”という表現が似合う白い肌の中、ひどく血色の悪い唇が小さく動く。
その途端、接近の気配を感じたのか、少女は素早く顔を上げ、まひろを食い入るように見つめ始めた。
会話が可能な距離まで近づくと、少女の幾分育ちが良さそうな服装が見て取れる。
どんな素材かまひろにはわからないが、前をしっかりと閉めた白いコートは柔らかく暖かそうだ。
二月の寒さが身に染み入るのか、フードが深々と頭に被せられ、コートの色と同じ白の手袋が
両手を覆っている。
水色のスカートからは白いタイツに包まれた細い脚が続き、その先は茶色のローファーで終わっていた。
まひろは膝を曲げて少女の目線に高さを合わせると、顔を覗き込むようにして穏やかに問い掛けた。
「こんにちは。どうしたの? 誰かを待ってるの?」
背格好や顔の造りから察するに、年の頃は十一、二歳くらいであろうか。
しかし、表情そのものは冷たさを感じさせる大人びたものだ。
まひろの問いに、“透き通る程”という表現が似合う白い肌の中、ひどく血色の悪い唇が小さく動く。
「あなた、この町の人?」
質問には答えてもらえず、妙な質問が返ってきた。見慣れぬ人間に警戒しているのかもしれない。
ここで、まひろはある事に思い当たった。
(あ、もしかしたらこの子が瑠架ちゃんの言ってた丘の上の……)
そう考えると、“お嬢様”を思わせる服装にも合点がいくし、見知らぬ者への強い警戒心も頷ける。
フードや手袋、タイツも寒さをしのぐだけではなく、難病を患う身体を日光から守る為だろう。
まひろは少女の前で完全にしゃがみ、下から見上げる姿勢を取る。
子ども扱いするつもりは無い。少しでも安心してもらいたいのだ。
「身体の具合は大丈夫? 気分が悪いんだったら誰か――」
「あなたが緑青町の人間なのかどうか聞いているのよ。さっさと答えて」
表情だけではなく、言葉や態度までが大人びている。それもひどく高圧的だ。
年少者による無礼な振る舞いであったが、まひろは特に腹を立てる事も無く、にこやかに少女の
知りたい答えを返す。
「ううん、私が住んでるのは隣の銀成市だよ。今日はお友達の家に遊びに来たの」
その言葉を聞き、硬かった少女の表情がやや緩んだ。どことなく安堵しているようにも見える。
ここで、まひろはある事に思い当たった。
(あ、もしかしたらこの子が瑠架ちゃんの言ってた丘の上の……)
そう考えると、“お嬢様”を思わせる服装にも合点がいくし、見知らぬ者への強い警戒心も頷ける。
フードや手袋、タイツも寒さをしのぐだけではなく、難病を患う身体を日光から守る為だろう。
まひろは少女の前で完全にしゃがみ、下から見上げる姿勢を取る。
子ども扱いするつもりは無い。少しでも安心してもらいたいのだ。
「身体の具合は大丈夫? 気分が悪いんだったら誰か――」
「あなたが緑青町の人間なのかどうか聞いているのよ。さっさと答えて」
表情だけではなく、言葉や態度までが大人びている。それもひどく高圧的だ。
年少者による無礼な振る舞いであったが、まひろは特に腹を立てる事も無く、にこやかに少女の
知りたい答えを返す。
「ううん、私が住んでるのは隣の銀成市だよ。今日はお友達の家に遊びに来たの」
その言葉を聞き、硬かった少女の表情がやや緩んだ。どことなく安堵しているようにも見える。
「そう――」
フードが取り去られ、少女の長い髪が露わとなった。まひろよりもずっと色素の薄い栗色の髪が。
「――じゃあ早く帰りなさい、完全に日が暮れてしまう前に。そして二度とこの町に来ちゃダメよ」
突然、申し渡された即時帰宅と出入り禁止の言葉。それも町の行政や法執行に関わっている筈も無い、
ただの子供からの。
まひろはただ戸惑うばかりだ。
「ええっ? ど、どうして?」
少々混乱気味のまひろに対し、少女は視線を逸らしたまま、もう何も語ろうとはしない。
否、“語れない”と言った方が適切か。
眼前のまひろではなく、その後方を凝視している凍りついた表情が状況を物語っている。
フードが取り去られ、少女の長い髪が露わとなった。まひろよりもずっと色素の薄い栗色の髪が。
「――じゃあ早く帰りなさい、完全に日が暮れてしまう前に。そして二度とこの町に来ちゃダメよ」
突然、申し渡された即時帰宅と出入り禁止の言葉。それも町の行政や法執行に関わっている筈も無い、
ただの子供からの。
まひろはただ戸惑うばかりだ。
「ええっ? ど、どうして?」
少々混乱気味のまひろに対し、少女は視線を逸らしたまま、もう何も語ろうとはしない。
否、“語れない”と言った方が適切か。
眼前のまひろではなく、その後方を凝視している凍りついた表情が状況を物語っている。
「こんなとこにいたのね、沙子」
声のした後方へまひろが振り向くと、いかにも高級そうな毛皮のコート(やはり何の材質かまひろには
わからない)を羽織った婦人が二人から少し離れた場所に立っていた。
溢れる笑顔と口紅の赤が、ベンチに腰掛けている少女とは対照的である。
わからない)を羽織った婦人が二人から少し離れた場所に立っていた。
溢れる笑顔と口紅の赤が、ベンチに腰掛けている少女とは対照的である。
「ママ……」
少女の口から洩れ出た言葉を聞き、まひろは慌てて立ち上がり、頭を下げる。
この人物こそが丘の上の“兼正館”に住む、“桐敷家”の奥方なのだ。
「あっ、こんばんは。ええっと、沙子ちゃん? 沙子ちゃんが具合悪そうだったので……」
「沙子がお世話になったみたいね。どうもありがとう。私は母の千鶴よ」
まひろの眼にはどうしても彼女が“お母さん”よりも“お姉さん”に映る。
とても十一、二歳の子供を持つ母親には見えない若々しさだ。
彼女の持つ美貌に気を取られていたまひろに、千鶴が少しずつ歩み寄ってくる。
満面の、少しわざとらしいと思えるくらいの笑顔で。
この人物こそが丘の上の“兼正館”に住む、“桐敷家”の奥方なのだ。
「あっ、こんばんは。ええっと、沙子ちゃん? 沙子ちゃんが具合悪そうだったので……」
「沙子がお世話になったみたいね。どうもありがとう。私は母の千鶴よ」
まひろの眼にはどうしても彼女が“お母さん”よりも“お姉さん”に映る。
とても十一、二歳の子供を持つ母親には見えない若々しさだ。
彼女の持つ美貌に気を取られていたまひろに、千鶴が少しずつ歩み寄ってくる。
満面の、少しわざとらしいと思えるくらいの笑顔で。
「ところで……―― あなたはこの町の人?」
“また同じ質問”
まひろの背すじにゾッと寒気が走った。まるで襟首から氷柱を突っ込まれたように。
何に対してこんな恐怖を感じているのか、自分でもまったく理解出来ない。
元来、まひろは“恐怖”という感情には縁遠い性格だ。
遊園地のお化け屋敷に入っても、ケラケラ笑って楽しんでしまう。
また、窮地に陥った親友を助ける為に、恐怖に打ち勝って我が身を呈した経験もある。
これまでの短い人生の中で“驚いた”事は幾度もあったが、“怖がった”事はほとんどと言って良い程に無い。
では、何故?
つい先程、沙子という少女からされた質問と同じなのに。
明るく朗らかな笑顔の持ち主からの質問だというのに。
「い、いいえ……」
答えた自分の声すら遥か遠くに聞こえた。夕闇とは無関係に周りの風景が真っ暗になっていく。
千鶴の瞳から眼が離せない。
本能が『すぐにここから逃げなきゃダメだよ!』と喚き散らしているのを微かに感じる。
何に対してこんな恐怖を感じているのか、自分でもまったく理解出来ない。
元来、まひろは“恐怖”という感情には縁遠い性格だ。
遊園地のお化け屋敷に入っても、ケラケラ笑って楽しんでしまう。
また、窮地に陥った親友を助ける為に、恐怖に打ち勝って我が身を呈した経験もある。
これまでの短い人生の中で“驚いた”事は幾度もあったが、“怖がった”事はほとんどと言って良い程に無い。
では、何故?
つい先程、沙子という少女からされた質問と同じなのに。
明るく朗らかな笑顔の持ち主からの質問だというのに。
「い、いいえ……」
答えた自分の声すら遥か遠くに聞こえた。夕闇とは無関係に周りの風景が真っ暗になっていく。
千鶴の瞳から眼が離せない。
本能が『すぐにここから逃げなきゃダメだよ!』と喚き散らしているのを微かに感じる。
その時、まひろと千鶴の間に沙子が素早く割って入った。
そして、千鶴を一睨みした後にまひろの方へと振り返る。
沙子はまひろを見上げながら彼女の手を握り、初対面時とは随分かけ離れた子供っぽい口調で言った。
「お姉ちゃん、早くしないと銀成市行きのバスが行っちゃうよ」
恐怖の呪縛が解け、途端に己の感覚や周りの風景が現実味を帯びた。
まひろはハッと眼が覚めたように腕時計を確認する。
「あ! ホントだ! すみません、失礼します。沙子ちゃん、またね」
まひろは千鶴に深々と礼をして、返す刀で沙子の頭を撫でる。
既に恐怖は完全に消え去ったか、ただの錯覚だったと思い直しているのだろう。
最後に沙子の顔を見遣り、小さく手を振ったまひろは急いで駆け出した。
公園を出て、バス停へ続く道へ。
未だ太陽は欠片を地平に留め、薄赤い光を以って彼女を照らしてくれている。
この町を“逃れる”バスに乗り込むまで。
沙子はまひろを見上げながら彼女の手を握り、初対面時とは随分かけ離れた子供っぽい口調で言った。
「お姉ちゃん、早くしないと銀成市行きのバスが行っちゃうよ」
恐怖の呪縛が解け、途端に己の感覚や周りの風景が現実味を帯びた。
まひろはハッと眼が覚めたように腕時計を確認する。
「あ! ホントだ! すみません、失礼します。沙子ちゃん、またね」
まひろは千鶴に深々と礼をして、返す刀で沙子の頭を撫でる。
既に恐怖は完全に消え去ったか、ただの錯覚だったと思い直しているのだろう。
最後に沙子の顔を見遣り、小さく手を振ったまひろは急いで駆け出した。
公園を出て、バス停へ続く道へ。
未だ太陽は欠片を地平に留め、薄赤い光を以って彼女を照らしてくれている。
この町を“逃れる”バスに乗り込むまで。
沙子は拗ねたような顔で撫でられた頭に手を遣り、別れ際のまひろの言葉を耳の中で反芻していた。
「警告してあげたのに……」
そう呟きながら口惜しげに唇を噛む沙子の傍らに、千鶴が立った。
“母親”らしく目線の高さを合わせる事も無く、腕を組んだまま下目使いに見下ろしている。
「あのお姉ちゃんと何を話してたの? ママにも教えてよ」
態度には少しの愛情も感じられないが、表情と話し方はまひろがこの場にいた時のものと変わっていない。
不自然なまでの明るい笑顔と優しげな口調。
一方の沙子は、話しかけられると同時に冷たく無感情な元の顔貌へと立ち戻っていた。
「二人きりの時まで母親面しないで。あくまで“人間の前では親子の役を演じる”ってだけの取り決めでしょ。
それに、あなたよりも私の方がずっと年上だって事を忘れないでほしいわね」
「あらあら……」
“娘”から吐き捨てられた冷淡な言葉に困り顔で首を傾げ、頬に人差し指を当てる千鶴。
しかし、次の瞬間には、頬にあった右手が沙子の喉を鷲掴みにしていた。
「ぐっ!」
悲鳴が上がるか早いか、沙子の両足が徐々に地面から離れていく。
綺麗に磨かれてマニキュアの施された五指は皮膚に深く食い込み、筋肉を押し潰さんとしている。
呼吸を必要としない種族でも、首を千切り落とされるとなれば話は別だ。
両手で千鶴の腕を叩き、かろうじて伸ばした足先で千鶴の腹を蹴りつけるも、びくともしない。
千鶴は笑顔を崩さず、ゆっくりと肘を曲げて己の口元へ沙子の耳を近づけた。
「じゃあ、その“ずっと年上”のアンタの面倒を見てるのはどこの誰かしら?」
手に込められた力は弱まる気配を見せない。
それどころか肉の破れた首筋から血が伝い始めている。
「私が気に入らないなら、とっとと出て行ってもいいのよ? あの“馬鹿犬”と一緒にね。
まあ、『人間は襲いたくない』なんてくだらない事ばかり言ってるアンタ達がマトモにやっていけるとは
思えないけど」
「は、離し……て……」
最早、抵抗する力も薄れ、狭まった気管から声を絞り出すしか出来ない。
ぐったりとしていく沙子の姿を間近にした千鶴は抑制を失いつつあった。
暴力によって湧き上がる快感に、下腹部は熱さを覚え、大腿の間は潤いを増していく。
興奮を抑えきれず、また抑えようともしない。
千鶴は完全に忘我の境地に至り、最後の一捻りを加えようと力を込める。
「警告してあげたのに……」
そう呟きながら口惜しげに唇を噛む沙子の傍らに、千鶴が立った。
“母親”らしく目線の高さを合わせる事も無く、腕を組んだまま下目使いに見下ろしている。
「あのお姉ちゃんと何を話してたの? ママにも教えてよ」
態度には少しの愛情も感じられないが、表情と話し方はまひろがこの場にいた時のものと変わっていない。
不自然なまでの明るい笑顔と優しげな口調。
一方の沙子は、話しかけられると同時に冷たく無感情な元の顔貌へと立ち戻っていた。
「二人きりの時まで母親面しないで。あくまで“人間の前では親子の役を演じる”ってだけの取り決めでしょ。
それに、あなたよりも私の方がずっと年上だって事を忘れないでほしいわね」
「あらあら……」
“娘”から吐き捨てられた冷淡な言葉に困り顔で首を傾げ、頬に人差し指を当てる千鶴。
しかし、次の瞬間には、頬にあった右手が沙子の喉を鷲掴みにしていた。
「ぐっ!」
悲鳴が上がるか早いか、沙子の両足が徐々に地面から離れていく。
綺麗に磨かれてマニキュアの施された五指は皮膚に深く食い込み、筋肉を押し潰さんとしている。
呼吸を必要としない種族でも、首を千切り落とされるとなれば話は別だ。
両手で千鶴の腕を叩き、かろうじて伸ばした足先で千鶴の腹を蹴りつけるも、びくともしない。
千鶴は笑顔を崩さず、ゆっくりと肘を曲げて己の口元へ沙子の耳を近づけた。
「じゃあ、その“ずっと年上”のアンタの面倒を見てるのはどこの誰かしら?」
手に込められた力は弱まる気配を見せない。
それどころか肉の破れた首筋から血が伝い始めている。
「私が気に入らないなら、とっとと出て行ってもいいのよ? あの“馬鹿犬”と一緒にね。
まあ、『人間は襲いたくない』なんてくだらない事ばかり言ってるアンタ達がマトモにやっていけるとは
思えないけど」
「は、離し……て……」
最早、抵抗する力も薄れ、狭まった気管から声を絞り出すしか出来ない。
ぐったりとしていく沙子の姿を間近にした千鶴は抑制を失いつつあった。
暴力によって湧き上がる快感に、下腹部は熱さを覚え、大腿の間は潤いを増していく。
興奮を抑えきれず、また抑えようともしない。
千鶴は完全に忘我の境地に至り、最後の一捻りを加えようと力を込める。
「何をされておいでです、奥様」
男性の声が千鶴を我に返した。
そして、真っ先に感じたのは己の手首を締めつける強い圧力。
そのあまりの力強さに、掴み上げていた沙子を取り落としてしまった程だ。
千鶴のすぐ真横には一人の男が立っていた。
「あぁら、噂をすれば」
背の高い精悍な顔つきの美青年だ。苦みばしった、とでも言おうか。だが、それにしては目元は
涼しげである。
MA‐1ジャンパーの中は白のカッターシャツ、下は薄いアイボリーのスラックスと、地味な服装故に
余計それらが引き立つ。
地面に投げ出された沙子はすぐに立ち上がると男の懐に飛び込み、抱きついた。
「辰巳!」
「沙子様……」
男もまた、千鶴から手を離し、涙でシャツを濡らす沙子をしっかと抱き締める。
千鶴の方はと言えば、解放された右手をふてくされた顔で眺めていた。
明らかに関節ではない場所からブラリと垂れ下がった前腕部は骨が粉々に砕け、肉が醜く捩じじくれている。
「あ~あ、骨が折れちゃった。ちょっと辰巳ぃ。アンタ、使用人の分際でご主人様に暴力を振るうワケ?」
幼稚な抗議と共に、頬を膨らませて辰巳の眼前で折れた腕を振る。
彼女の頭には“原因と結果”や“因果関係”等という言葉は存在しないらしい。
手前勝手な主人の叱責に対し、使用人は涼やかな雰囲気を持つ眼を糸のように細めた。
そして、真っ先に感じたのは己の手首を締めつける強い圧力。
そのあまりの力強さに、掴み上げていた沙子を取り落としてしまった程だ。
千鶴のすぐ真横には一人の男が立っていた。
「あぁら、噂をすれば」
背の高い精悍な顔つきの美青年だ。苦みばしった、とでも言おうか。だが、それにしては目元は
涼しげである。
MA‐1ジャンパーの中は白のカッターシャツ、下は薄いアイボリーのスラックスと、地味な服装故に
余計それらが引き立つ。
地面に投げ出された沙子はすぐに立ち上がると男の懐に飛び込み、抱きついた。
「辰巳!」
「沙子様……」
男もまた、千鶴から手を離し、涙でシャツを濡らす沙子をしっかと抱き締める。
千鶴の方はと言えば、解放された右手をふてくされた顔で眺めていた。
明らかに関節ではない場所からブラリと垂れ下がった前腕部は骨が粉々に砕け、肉が醜く捩じじくれている。
「あ~あ、骨が折れちゃった。ちょっと辰巳ぃ。アンタ、使用人の分際でご主人様に暴力を振るうワケ?」
幼稚な抗議と共に、頬を膨らませて辰巳の眼前で折れた腕を振る。
彼女の頭には“原因と結果”や“因果関係”等という言葉は存在しないらしい。
手前勝手な主人の叱責に対し、使用人は涼やかな雰囲気を持つ眼を糸のように細めた。
「私があなたの使用人でいるのは沙子様の安全が確保されている場合に限る、とお約束した筈です。
それが守られないのであれば……」
それが守られないのであれば……」
辰巳の眼光が鋭さを増す。
未だにしがみついたまま泣きじゃくる沙子を己の背後に回し、腰の辺りに位置していた両の十指を
鉤爪の如く折り曲げた。
硬質化された手背の筋肉は歪に盛り上がり、太い血管が幾つも浮き出ている。
しかし、膨れ上がる殺意は、再び浮かんだ例の胡散臭い“満面の笑み”によって軽くいなされた。
千鶴はやれやれとばかりに肩をすくめて、軽く舌を覗かせる。
「やだわぁ、せっかく公園に来たから仲良く遊んでただけじゃない。“親子”なら当然でしょ?」
そう悪びれも無く千鶴が言う頃には、粉砕骨折を負った前腕部はバキバキと音を立てて元の形に
戻ろうとしていた。
辰巳も沙子も警戒は解いていない。
千鶴はふと空を仰ぎ見た。
太陽は完全に地平へ没していた。彼女らの頭上は既に漆黒の天蓋に覆われ、周囲にも闇の帳が下りている。
「さてと…… そろそろ“お食事”の準備をしなきゃねぇ」
ますます口角の吊り上がった不気味な笑顔が沙子に向けられる。
「お夕飯までには帰ってくるのよ? す・な・こ・ちゃん♪ ウフフッ」
沙子へヒラヒラと右手を振ると、千鶴は瞬く間に夜の闇へ姿を消してしまった。
未だにしがみついたまま泣きじゃくる沙子を己の背後に回し、腰の辺りに位置していた両の十指を
鉤爪の如く折り曲げた。
硬質化された手背の筋肉は歪に盛り上がり、太い血管が幾つも浮き出ている。
しかし、膨れ上がる殺意は、再び浮かんだ例の胡散臭い“満面の笑み”によって軽くいなされた。
千鶴はやれやれとばかりに肩をすくめて、軽く舌を覗かせる。
「やだわぁ、せっかく公園に来たから仲良く遊んでただけじゃない。“親子”なら当然でしょ?」
そう悪びれも無く千鶴が言う頃には、粉砕骨折を負った前腕部はバキバキと音を立てて元の形に
戻ろうとしていた。
辰巳も沙子も警戒は解いていない。
千鶴はふと空を仰ぎ見た。
太陽は完全に地平へ没していた。彼女らの頭上は既に漆黒の天蓋に覆われ、周囲にも闇の帳が下りている。
「さてと…… そろそろ“お食事”の準備をしなきゃねぇ」
ますます口角の吊り上がった不気味な笑顔が沙子に向けられる。
「お夕飯までには帰ってくるのよ? す・な・こ・ちゃん♪ ウフフッ」
沙子へヒラヒラと右手を振ると、千鶴は瞬く間に夜の闇へ姿を消してしまった。
“母親”が去っても未だ恐怖は去らないのか、沙子の嗚咽と震えはなかなか止まる気配を見せなかった。
辰巳はその場に跪き、今度は胸の中でしっかりと彼女を抱き締めた。
沙子も彼の首筋にしがみつき、必死で涙を抑えようと眼を固く瞑る。
辰巳はその場に跪き、今度は胸の中でしっかりと彼女を抱き締めた。
沙子も彼の首筋にしがみつき、必死で涙を抑えようと眼を固く瞑る。
「申し訳ありません、沙子様。私があの桐敷千鶴に保護を求めたばかりに……」
「辰巳のせいじゃない。私がいけないのよ。私が……――」
[続]