楠木正成と護良親王の奮闘、後醍醐天皇の隠岐脱出。崖っぷちの幕府は、出陣を
渋っていた足利家を半ば脅迫するようにして京都に向かわせた。が、その足利家が
反旗を翻して京都の六波羅探題(幕府の西の拠点)を攻撃。これが決め手となって、
一気に全国の武士たちが立ち上がった。機は熟した、今こそ幕府を打ち倒せ! と。
その勢いの中、足利家と並ぶ名門中の名門、新田家が幕府の本拠地・鎌倉に向けて
進軍を開始。もはや西の反乱軍鎮圧どころではなくなって、幕府遠征軍は大混乱、で
崩壊、撤退、壊走、消滅。跡形なく消え失せた。
楠木正成と護良親王は、天下の鎌倉幕府を向こうに回して見事戦い抜いたのである。
「……で。あのさ、お兄さん。この戦、オレたちの大勝利と言っていいと思うんだ」
正成が最初に戦いの旗を掲げた、赤坂の地。小高い丘陵に大和と正成がいた。
二人の前には、戦死者慰霊の為に正成が立てた大きな墓が二つ並んでいる。
「何をしている。お前も手を合わせろ」
「いや、あの、その前に。このお墓について一つ質問が」
大和は目の前に立つ二つの墓を指して、正成に尋ねた。
「『身方塚(みかたづか)』と『寄手塚(よせてづか)』って書いてあるけど。この差は何?」
二つとも、これといって特徴のない墓だ。が、身方塚は小柄な女の子程度の大きさ
なのに対し、寄手塚は大和が遥かに見上げている。かなり大きい。
「ずっと一緒に戦ってきたくせに、そんなこともわからんのか」
「わかるよ。寄手ってのは敵、幕府軍のことだろ。なんで敵の慰霊碑が味方のより大き」
「幕府軍の方が死者が多かったんだ。当然だろ」
大和にみなまで言わせず、正成は言い切った。
「俺は乱れた世を治める為に戦った。皆が平和に暮らせる世を築く為にだ。が、その為
に多くの死者が出た。いや、俺がこの手で殺したんだ」
「うん、万人が認める大活躍だったよね。でも戦なんだから、敵を殺すのは当たり前で」
「戦をなくす為に、また戦だ。死ななくていい人々が大勢死んだ」
大和に大勝利だと言われても、正成は手を合わせたまま、何だか沈んだ顔をしている。
「だから敵なんだってば。それに、これで幕府が倒れて帝が天下を治めれば世は変わる
って言ってたのはお兄さんだよ。もうすぐ、全部終わるんだから元気出して」
「そうだな。この戦で散っていった者たちの為にも、俺たちでそういう世を創らねば。
というわけだから陸奥、お前も手を合わせろ。寄手塚の方にもだぞ」
「……はい」
この人は何というか……その……いい人、なんだなぁ。とか思いつつ大和も手を合わせた。
「約束したから最後まで手伝うけど。オレともう一度やるっていう約束も忘れないでくれよ」
「ああ、ちゃんと覚えてるから安心しろ。幕府が倒れるのも時間の問題だ、長くは待たせん」
「ならいいけど。約束を破ったら、我が国に古来より伝わる厳罰を課すからそのつもりで」
「?」
くい、と正成の小指に自分の小指を引っ掛けて、大和はそれを目の高さで上下に振った。
「針千本。飲ませるからね」
「……ははっ」
正成が小さく笑った。
「わかったわかった。伝説の陸奥との約束、違えるのは武人として恥だからな」
「ん、よろしい」
二人は並んで、丘陵を降りていく。
……二つの墓に祀られた霊たちは、大和と正成の行く末を見通しているかのように、
重い沈黙で二人を見送っていた。
腐っても幕府、本拠鎌倉の守りはやはり並ではなかった。鎌倉へと続く稲村ガ崎の海岸
には幾重にも逆茂木(人馬を阻む罠)が仕掛けられ、砂浜の進軍は不可能。といって
波打ち際を進もうとすれば、幾百もの軍船から矢の雨が降ってくる。こちらに船はないし、
もちろん泳いで軍船に向かっていけばいい的。どんな豪傑でもあっという間に針鼠だ。
「ぬぬぅ……」
一族郎党を率いて兵を挙げた新田家の棟梁新田義貞は、進むも退くもならず歯軋りして
いた。先祖代々何かと因縁のある足利家が六波羅を潰そうとしている今、鎌倉占領に
手こずっていては新田の家名が地に落ちる。倒幕後の、天下の主導権も奪われるだろう。
というか、何はさておき足利にだけは負けたくないのだ。もし足利家が天下で一番身分の
低い家柄であれば、新田家は二番目に身分低くていい。天下なんか取れなくてもいい。
義貞は、そういう男なのである。
「くそくそくそくそっ、何とかせねば、何とか……ん?」
浜辺に集結している新田の騎馬軍団。その中から、唐突に一人の少女が進み出た。
紅い髪と紅い衣のその少女……義貞は知らないが勇という名だ……は、その美しい貌に
何の恐怖も昂ぶりも見せず、ただスタスタと浜辺を歩いていく。新田軍のざわめきを背に、
やがて波打ち際に辿り着いた。
さすがに幕府軍も、まさかこんな少女が新田軍の兵だとは思わず、射かけてこない。勇は
ふくらはぎの半ばまで波に洗われる辺りまで来ると、歩を止めて右拳を振り上げた。
そして、
「っりゃああああああああぁぁぁぁっっ!」
轟き響く気合と共に、その拳を海中に打ち込んだ。まるで海を全て粉砕するかのような
一撃だったが、もちろんそんなことは起こらない。勇の拳は海中に突き刺さっただけだ。
幕府軍も新田軍も、少女の気迫に飲まれて声一つなく身じろ一つせず、というかできず、
ただ見守っているが別に何事もない。と思っていたら、
「な、何だっっ!?」
幕府軍も新田軍も、声を上げて身震いした。突然、いきなり、潮が引き始めたのだ。まるで
海が勇の拳に恐れをなしたかのように。
当然の成り行きとして、幕府軍の軍船がみるみる沖へと流されていく。加えて、波打ち際
が後退した為に逆茂木のない砂浜が広く現れた。その場所は、軍船が沖に流されたせいで
矢の射程外となっている。こうなれば騎馬で駆け抜けるのも簡単だ。
そんな天変地異を引き起こした張本人、勇はまたスタスタと歩いて新田の陣へと戻って
きた。兵たちが馬ごと怯える中、義貞は辛うじて馬を押さえ、その場に踏みとどまる。
その義貞の元に勇がやってきて、静かに微笑み語りかけた。
「もう……心配ありません」
と一言。平然と語るその少女を見て、義貞の全身に改めて心から震えが走った。
義貞とて新田家の棟梁、並の武士よりは遥かに教養がある。今、目の前で起こった現象
が本当にこの少女の拳によるものだとは思っていない。おそらくは諸葛孔明が赤壁の戦い
にて行った東南の風の祈りと同じもの、現実は純然たる自然現象だ。そうに違いない。
とは思うのだが、しかしそれにしても、この少女の自信に満ちた微笑はどうだ。
『己の拳をもってすれば海すらも退けられる……一片の曇りもない、天下最強の自負……』
ごくり、と唾を飲み込んで義貞は尋ねた。
「お、お前は何者だ?」
「……勇と申します。が、わたしのことなどどうでもよろしいでしょう。今の新田様に
とっては、足利に遅れを取らぬことこそが肝要なのでは?」
足利。その名に義貞は反応し、一気に冷水を浴びせかけられたかのように気を取り直した。
「そ、そうだっ! この機を逃してはならん! 皆の者、いくぞおおおおぉぉっ!」
流石に天下に響いた新田家の軍団、義貞の号令が響くと一斉に応! を返した。
義貞を先頭に、新田の誇る騎馬軍団が稲村ガ崎を駆け抜け、鎌倉へと突撃していく。
軍船に多くの兵力を割いてしまった幕府軍に、それを止めることはできない。あっと
言う間に鎌倉は攻め落とされ、新田家の手に落ちた。
かくして。源頼朝以来、百五十年間続いた鎌倉幕府は滅び去ったのである。
「やれやれ、これからも頑張って下さいよ新田様。あなたは相当に無理をしないと、
自身の実力も家臣の能力も天の運も何かも、足利様には敵わないのですから」
炎に包まれる鎌倉の地を眺めながら、勇は呟いた。
何はともあれ、これで熟れ過ぎて腐りきった果実は落ちた。じきに新しい実がなるだろう。
新田義貞と足利尊氏と、楠木正成と護良親王と、後醍醐天皇と、多くの人々によって。
「ふふ。早く齧りたいものですね……新しい天下の実を」
鎌倉の街を燃やす炎にも負けないぐらいに紅い舌が、勇の唇をチロリと舐めた。
そう、新田には頑張ってもらわねばならない。でないと、実が美味しくならないから……
鎌倉幕府は倒れ、後醍醐天皇の指揮による新しい政権が京の都・平安京にて
立ち上がった。後に、大化の改新・明治維新と並び称されることとなる
日本史上三大革命の一つ、「建武の新政」である。
もちろん、そんなものがそう簡単に順調にいくわけはない。まして今回は、都の周辺が
一番の激戦区となったのだ。街は荒廃し畑は荒らされ、人々は貧窮の中にいる。更に
主君を失った武士、手柄報告に鼻息荒い武士、どさくさに紛れて他人の領地の所有権を
奪おうとか企む武士、などなどが京に集結して戦々恐々。そしてそんな彼らの中から、
夜盗や辻斬りなどをやらかす者が続々出てくる始末。
大化の改新や明治維新もそうだったが、日本の夜明けはまだまだ遠いようである。
夜の平安京。屍肉を貪る野犬の遠吠えが聞こえてくる、とある街角にて。
月の光を弾きながら、白刃が一閃した。確かに一閃だった。が、甲高い金属音が二つ
響いて、叩き折られた刃が二枚、宙を舞う。
その持ち主である二人は、短くなってしまった自分たちの刀を見つめて呆然としていた。
その隙を逃さず、再び白刃が一閃。確かに一閃としか見えないのだが、二人の肩口が
猛烈な力で叩かれた。痛いのを通り越した鋭い麻痺に襲われ、二人は悲鳴を上げて
折れた刀を落とし、後ずさった。その背に、半分壊れた錠前と分厚い扉が当たる。
本来なら今頃、この蔵を破って金品をごっそり頂いていたはずだったのに……。
「お前たちの顔、しかと覚えた。明日までに必ず自首せよ。今ならばまだ未遂で済む。
だが、自首しなかった場合は草の根分けても探し出し厳罰に処す故、覚悟いたせ」
二人は、だんだん熱を帯びてきた肩の激痛に顔を歪めながら言い返した。
「な、何を偉そうにヌカし……」
「……って、え? お前もしかして……」
月明かりの助けを借りて、その若者の人相をよくよく分析した二人は顔色を変えて、
「かっ、かかかか必ず自首しますっっ!」
脱兎の如く逃げ出した。と言ってもお上の追求から逃亡する気などない。言葉通り、
自首するつもりである。でないと、現在この平安京に駐留している軍の何割かが
自分たちを包囲することになる。そういうとんでもない事態が実現しかねないからだ。
だって、この若者はそれができる男なのだから。
「ようやく訪れた新時代。後醍醐帝が平和な世を築くまで、我らは一丸となってそれを支え
ねばならない。と私は思うのだが、そこのお前。もし邪魔するのならお前も叩き伏せるぞ」
「……あはは。何だかこれって、お兄さんとの出会いを思い出すなぁ」
ほりほりと頭を掻きながら、大和が柳の陰から出てきた。
「そういや、あの時はそのまま、お兄さんと戦ったんだっけ」
「む。貴殿は確か、楠木殿の」
「陸奥大和、だよ。オレはあんたのことはよく知ってるぜ、足利家の棟梁尊氏さん」
尊氏は、刀を鞘に収めた。大和が楠木正成の臣下として幕府軍との戦いで手柄を挙げた
(と世間では思われてる)のは知っているからだ。
その正成は、畿内の散発的な反乱を鎮めるべく、倒幕後も休みなく軍を率いている。
「これは失礼した。して陸奥殿、貴殿は楠木殿と共におられるとばかり思っておりましたが」
「オレもそうするつもりだったんだけどね。お兄さんがさ、この辺りの地勢は知り尽くしてるし、
小規模な賊の反乱如き恐れるに足りない。お前は足利殿の手助けをし、都の治安回復に
努めてくれって」
「ほう、それはそれは。心強いことです」
「でも手伝えなんて言われちゃ、足利さんと戦えないよなぁ。あんな腕前見せられたのにさ」
残念そうに言う大和の様子に、尊氏はぷっと吹き出した。
「なるほど。楠木殿から聞いていた通りの御仁ですな、貴殿は」
「って、どんな風に聞いてたのか気になるんだけど」
「ん、まあ、純粋な武人だと」
絶対それだけじゃなさそうな声と顔で尊氏は答える。
「しかし元々、挑まれても受ける気はありませんぞ陸奥殿」
「だろうなと思うよ、オレも」
え、と尊氏が聞き返すまでもなく、先の二人が逃げ去った方を見ながら大和は言った。
「本気で後醍醐帝の天下を死守しよう、とだけ考えてるなら、あの二人はこの場で
斬り殺せば良かったんだから。足利さんもお兄さんと同じく、ムダに人は殺したくない、
できれば戦いなんてやりたくないってクチでしょ?」
「……そうですが、それだけではありませぬ」
尊氏も大和と同じ方を見つめて、言葉を続ける。
「彼らとて被害者なのです。今、日本中の武士たちが鎌倉幕府の悪政と此度の戦とに
よって傷つき、苦しんでいる。そんな彼らを救うことこそが為政者たる者の使命」
「ふうん。為政者、か。足利さんは身分が高いから、そういうことも考えなくちゃ
いけないってわけだ」
「左様。私は日本中の武士たちに対して責任があります。源氏の正統を継ぐ者として、
旧幕府に代わって皆の生活を守る責任が」
源氏を継ぐ者。それは、遡れば天皇家にも繋がる者ということだ。正成や、まして大和
(つまり陸奥家)から見れば、身分的には雲の上のお星様の話である。
だから、そういう話をされても大和にはピンと来ない。
「ま、オレはお兄さんとの約束があるから。後醍醐帝の治める平和な世が実現すれば、
また戦うって約束がね。その日の為に、手伝うよ足利さん。よろしくっ」
「こちらこそ。その日が一日も早く来るよう、共に励みましょう」
天下の平和の為に、まずは首都たる京の平和を確固たるものにする。大和は尊氏と
誓い合って別れた。一刻も早く一人でも多く、苦しむ人を助けて悪人を成敗して、
そして何より、道を踏み外そうとする人を引き止めねばならない。
しかしまあ、それはそれとしてだ。
「む~。足利さんとも戦ってみたいなぁ。鎌倉幕府には大した奴はいなかったし……
あ、そこのお前っ! 待てぇい!」
ぶつぶつ言いながらも、大和は街の巡回を続ける。尊氏に協力して、正成との約束を
果たすために。幕府が倒れて訪れた、この新時代を立派に築き上げるために。
建武新政府は未だ完全なものではなく、まだまだ世は乱れている。だが皮肉なことに、
今この時こそが尊氏と正成、そして大和の三人にとっては、一番平和で楽しかった
時代となってしまう。
既にこの平安京の中で、災いの種は育てられていたのだ……彼女の手によって。
渋っていた足利家を半ば脅迫するようにして京都に向かわせた。が、その足利家が
反旗を翻して京都の六波羅探題(幕府の西の拠点)を攻撃。これが決め手となって、
一気に全国の武士たちが立ち上がった。機は熟した、今こそ幕府を打ち倒せ! と。
その勢いの中、足利家と並ぶ名門中の名門、新田家が幕府の本拠地・鎌倉に向けて
進軍を開始。もはや西の反乱軍鎮圧どころではなくなって、幕府遠征軍は大混乱、で
崩壊、撤退、壊走、消滅。跡形なく消え失せた。
楠木正成と護良親王は、天下の鎌倉幕府を向こうに回して見事戦い抜いたのである。
「……で。あのさ、お兄さん。この戦、オレたちの大勝利と言っていいと思うんだ」
正成が最初に戦いの旗を掲げた、赤坂の地。小高い丘陵に大和と正成がいた。
二人の前には、戦死者慰霊の為に正成が立てた大きな墓が二つ並んでいる。
「何をしている。お前も手を合わせろ」
「いや、あの、その前に。このお墓について一つ質問が」
大和は目の前に立つ二つの墓を指して、正成に尋ねた。
「『身方塚(みかたづか)』と『寄手塚(よせてづか)』って書いてあるけど。この差は何?」
二つとも、これといって特徴のない墓だ。が、身方塚は小柄な女の子程度の大きさ
なのに対し、寄手塚は大和が遥かに見上げている。かなり大きい。
「ずっと一緒に戦ってきたくせに、そんなこともわからんのか」
「わかるよ。寄手ってのは敵、幕府軍のことだろ。なんで敵の慰霊碑が味方のより大き」
「幕府軍の方が死者が多かったんだ。当然だろ」
大和にみなまで言わせず、正成は言い切った。
「俺は乱れた世を治める為に戦った。皆が平和に暮らせる世を築く為にだ。が、その為
に多くの死者が出た。いや、俺がこの手で殺したんだ」
「うん、万人が認める大活躍だったよね。でも戦なんだから、敵を殺すのは当たり前で」
「戦をなくす為に、また戦だ。死ななくていい人々が大勢死んだ」
大和に大勝利だと言われても、正成は手を合わせたまま、何だか沈んだ顔をしている。
「だから敵なんだってば。それに、これで幕府が倒れて帝が天下を治めれば世は変わる
って言ってたのはお兄さんだよ。もうすぐ、全部終わるんだから元気出して」
「そうだな。この戦で散っていった者たちの為にも、俺たちでそういう世を創らねば。
というわけだから陸奥、お前も手を合わせろ。寄手塚の方にもだぞ」
「……はい」
この人は何というか……その……いい人、なんだなぁ。とか思いつつ大和も手を合わせた。
「約束したから最後まで手伝うけど。オレともう一度やるっていう約束も忘れないでくれよ」
「ああ、ちゃんと覚えてるから安心しろ。幕府が倒れるのも時間の問題だ、長くは待たせん」
「ならいいけど。約束を破ったら、我が国に古来より伝わる厳罰を課すからそのつもりで」
「?」
くい、と正成の小指に自分の小指を引っ掛けて、大和はそれを目の高さで上下に振った。
「針千本。飲ませるからね」
「……ははっ」
正成が小さく笑った。
「わかったわかった。伝説の陸奥との約束、違えるのは武人として恥だからな」
「ん、よろしい」
二人は並んで、丘陵を降りていく。
……二つの墓に祀られた霊たちは、大和と正成の行く末を見通しているかのように、
重い沈黙で二人を見送っていた。
腐っても幕府、本拠鎌倉の守りはやはり並ではなかった。鎌倉へと続く稲村ガ崎の海岸
には幾重にも逆茂木(人馬を阻む罠)が仕掛けられ、砂浜の進軍は不可能。といって
波打ち際を進もうとすれば、幾百もの軍船から矢の雨が降ってくる。こちらに船はないし、
もちろん泳いで軍船に向かっていけばいい的。どんな豪傑でもあっという間に針鼠だ。
「ぬぬぅ……」
一族郎党を率いて兵を挙げた新田家の棟梁新田義貞は、進むも退くもならず歯軋りして
いた。先祖代々何かと因縁のある足利家が六波羅を潰そうとしている今、鎌倉占領に
手こずっていては新田の家名が地に落ちる。倒幕後の、天下の主導権も奪われるだろう。
というか、何はさておき足利にだけは負けたくないのだ。もし足利家が天下で一番身分の
低い家柄であれば、新田家は二番目に身分低くていい。天下なんか取れなくてもいい。
義貞は、そういう男なのである。
「くそくそくそくそっ、何とかせねば、何とか……ん?」
浜辺に集結している新田の騎馬軍団。その中から、唐突に一人の少女が進み出た。
紅い髪と紅い衣のその少女……義貞は知らないが勇という名だ……は、その美しい貌に
何の恐怖も昂ぶりも見せず、ただスタスタと浜辺を歩いていく。新田軍のざわめきを背に、
やがて波打ち際に辿り着いた。
さすがに幕府軍も、まさかこんな少女が新田軍の兵だとは思わず、射かけてこない。勇は
ふくらはぎの半ばまで波に洗われる辺りまで来ると、歩を止めて右拳を振り上げた。
そして、
「っりゃああああああああぁぁぁぁっっ!」
轟き響く気合と共に、その拳を海中に打ち込んだ。まるで海を全て粉砕するかのような
一撃だったが、もちろんそんなことは起こらない。勇の拳は海中に突き刺さっただけだ。
幕府軍も新田軍も、少女の気迫に飲まれて声一つなく身じろ一つせず、というかできず、
ただ見守っているが別に何事もない。と思っていたら、
「な、何だっっ!?」
幕府軍も新田軍も、声を上げて身震いした。突然、いきなり、潮が引き始めたのだ。まるで
海が勇の拳に恐れをなしたかのように。
当然の成り行きとして、幕府軍の軍船がみるみる沖へと流されていく。加えて、波打ち際
が後退した為に逆茂木のない砂浜が広く現れた。その場所は、軍船が沖に流されたせいで
矢の射程外となっている。こうなれば騎馬で駆け抜けるのも簡単だ。
そんな天変地異を引き起こした張本人、勇はまたスタスタと歩いて新田の陣へと戻って
きた。兵たちが馬ごと怯える中、義貞は辛うじて馬を押さえ、その場に踏みとどまる。
その義貞の元に勇がやってきて、静かに微笑み語りかけた。
「もう……心配ありません」
と一言。平然と語るその少女を見て、義貞の全身に改めて心から震えが走った。
義貞とて新田家の棟梁、並の武士よりは遥かに教養がある。今、目の前で起こった現象
が本当にこの少女の拳によるものだとは思っていない。おそらくは諸葛孔明が赤壁の戦い
にて行った東南の風の祈りと同じもの、現実は純然たる自然現象だ。そうに違いない。
とは思うのだが、しかしそれにしても、この少女の自信に満ちた微笑はどうだ。
『己の拳をもってすれば海すらも退けられる……一片の曇りもない、天下最強の自負……』
ごくり、と唾を飲み込んで義貞は尋ねた。
「お、お前は何者だ?」
「……勇と申します。が、わたしのことなどどうでもよろしいでしょう。今の新田様に
とっては、足利に遅れを取らぬことこそが肝要なのでは?」
足利。その名に義貞は反応し、一気に冷水を浴びせかけられたかのように気を取り直した。
「そ、そうだっ! この機を逃してはならん! 皆の者、いくぞおおおおぉぉっ!」
流石に天下に響いた新田家の軍団、義貞の号令が響くと一斉に応! を返した。
義貞を先頭に、新田の誇る騎馬軍団が稲村ガ崎を駆け抜け、鎌倉へと突撃していく。
軍船に多くの兵力を割いてしまった幕府軍に、それを止めることはできない。あっと
言う間に鎌倉は攻め落とされ、新田家の手に落ちた。
かくして。源頼朝以来、百五十年間続いた鎌倉幕府は滅び去ったのである。
「やれやれ、これからも頑張って下さいよ新田様。あなたは相当に無理をしないと、
自身の実力も家臣の能力も天の運も何かも、足利様には敵わないのですから」
炎に包まれる鎌倉の地を眺めながら、勇は呟いた。
何はともあれ、これで熟れ過ぎて腐りきった果実は落ちた。じきに新しい実がなるだろう。
新田義貞と足利尊氏と、楠木正成と護良親王と、後醍醐天皇と、多くの人々によって。
「ふふ。早く齧りたいものですね……新しい天下の実を」
鎌倉の街を燃やす炎にも負けないぐらいに紅い舌が、勇の唇をチロリと舐めた。
そう、新田には頑張ってもらわねばならない。でないと、実が美味しくならないから……
鎌倉幕府は倒れ、後醍醐天皇の指揮による新しい政権が京の都・平安京にて
立ち上がった。後に、大化の改新・明治維新と並び称されることとなる
日本史上三大革命の一つ、「建武の新政」である。
もちろん、そんなものがそう簡単に順調にいくわけはない。まして今回は、都の周辺が
一番の激戦区となったのだ。街は荒廃し畑は荒らされ、人々は貧窮の中にいる。更に
主君を失った武士、手柄報告に鼻息荒い武士、どさくさに紛れて他人の領地の所有権を
奪おうとか企む武士、などなどが京に集結して戦々恐々。そしてそんな彼らの中から、
夜盗や辻斬りなどをやらかす者が続々出てくる始末。
大化の改新や明治維新もそうだったが、日本の夜明けはまだまだ遠いようである。
夜の平安京。屍肉を貪る野犬の遠吠えが聞こえてくる、とある街角にて。
月の光を弾きながら、白刃が一閃した。確かに一閃だった。が、甲高い金属音が二つ
響いて、叩き折られた刃が二枚、宙を舞う。
その持ち主である二人は、短くなってしまった自分たちの刀を見つめて呆然としていた。
その隙を逃さず、再び白刃が一閃。確かに一閃としか見えないのだが、二人の肩口が
猛烈な力で叩かれた。痛いのを通り越した鋭い麻痺に襲われ、二人は悲鳴を上げて
折れた刀を落とし、後ずさった。その背に、半分壊れた錠前と分厚い扉が当たる。
本来なら今頃、この蔵を破って金品をごっそり頂いていたはずだったのに……。
「お前たちの顔、しかと覚えた。明日までに必ず自首せよ。今ならばまだ未遂で済む。
だが、自首しなかった場合は草の根分けても探し出し厳罰に処す故、覚悟いたせ」
二人は、だんだん熱を帯びてきた肩の激痛に顔を歪めながら言い返した。
「な、何を偉そうにヌカし……」
「……って、え? お前もしかして……」
月明かりの助けを借りて、その若者の人相をよくよく分析した二人は顔色を変えて、
「かっ、かかかか必ず自首しますっっ!」
脱兎の如く逃げ出した。と言ってもお上の追求から逃亡する気などない。言葉通り、
自首するつもりである。でないと、現在この平安京に駐留している軍の何割かが
自分たちを包囲することになる。そういうとんでもない事態が実現しかねないからだ。
だって、この若者はそれができる男なのだから。
「ようやく訪れた新時代。後醍醐帝が平和な世を築くまで、我らは一丸となってそれを支え
ねばならない。と私は思うのだが、そこのお前。もし邪魔するのならお前も叩き伏せるぞ」
「……あはは。何だかこれって、お兄さんとの出会いを思い出すなぁ」
ほりほりと頭を掻きながら、大和が柳の陰から出てきた。
「そういや、あの時はそのまま、お兄さんと戦ったんだっけ」
「む。貴殿は確か、楠木殿の」
「陸奥大和、だよ。オレはあんたのことはよく知ってるぜ、足利家の棟梁尊氏さん」
尊氏は、刀を鞘に収めた。大和が楠木正成の臣下として幕府軍との戦いで手柄を挙げた
(と世間では思われてる)のは知っているからだ。
その正成は、畿内の散発的な反乱を鎮めるべく、倒幕後も休みなく軍を率いている。
「これは失礼した。して陸奥殿、貴殿は楠木殿と共におられるとばかり思っておりましたが」
「オレもそうするつもりだったんだけどね。お兄さんがさ、この辺りの地勢は知り尽くしてるし、
小規模な賊の反乱如き恐れるに足りない。お前は足利殿の手助けをし、都の治安回復に
努めてくれって」
「ほう、それはそれは。心強いことです」
「でも手伝えなんて言われちゃ、足利さんと戦えないよなぁ。あんな腕前見せられたのにさ」
残念そうに言う大和の様子に、尊氏はぷっと吹き出した。
「なるほど。楠木殿から聞いていた通りの御仁ですな、貴殿は」
「って、どんな風に聞いてたのか気になるんだけど」
「ん、まあ、純粋な武人だと」
絶対それだけじゃなさそうな声と顔で尊氏は答える。
「しかし元々、挑まれても受ける気はありませんぞ陸奥殿」
「だろうなと思うよ、オレも」
え、と尊氏が聞き返すまでもなく、先の二人が逃げ去った方を見ながら大和は言った。
「本気で後醍醐帝の天下を死守しよう、とだけ考えてるなら、あの二人はこの場で
斬り殺せば良かったんだから。足利さんもお兄さんと同じく、ムダに人は殺したくない、
できれば戦いなんてやりたくないってクチでしょ?」
「……そうですが、それだけではありませぬ」
尊氏も大和と同じ方を見つめて、言葉を続ける。
「彼らとて被害者なのです。今、日本中の武士たちが鎌倉幕府の悪政と此度の戦とに
よって傷つき、苦しんでいる。そんな彼らを救うことこそが為政者たる者の使命」
「ふうん。為政者、か。足利さんは身分が高いから、そういうことも考えなくちゃ
いけないってわけだ」
「左様。私は日本中の武士たちに対して責任があります。源氏の正統を継ぐ者として、
旧幕府に代わって皆の生活を守る責任が」
源氏を継ぐ者。それは、遡れば天皇家にも繋がる者ということだ。正成や、まして大和
(つまり陸奥家)から見れば、身分的には雲の上のお星様の話である。
だから、そういう話をされても大和にはピンと来ない。
「ま、オレはお兄さんとの約束があるから。後醍醐帝の治める平和な世が実現すれば、
また戦うって約束がね。その日の為に、手伝うよ足利さん。よろしくっ」
「こちらこそ。その日が一日も早く来るよう、共に励みましょう」
天下の平和の為に、まずは首都たる京の平和を確固たるものにする。大和は尊氏と
誓い合って別れた。一刻も早く一人でも多く、苦しむ人を助けて悪人を成敗して、
そして何より、道を踏み外そうとする人を引き止めねばならない。
しかしまあ、それはそれとしてだ。
「む~。足利さんとも戦ってみたいなぁ。鎌倉幕府には大した奴はいなかったし……
あ、そこのお前っ! 待てぇい!」
ぶつぶつ言いながらも、大和は街の巡回を続ける。尊氏に協力して、正成との約束を
果たすために。幕府が倒れて訪れた、この新時代を立派に築き上げるために。
建武新政府は未だ完全なものではなく、まだまだ世は乱れている。だが皮肉なことに、
今この時こそが尊氏と正成、そして大和の三人にとっては、一番平和で楽しかった
時代となってしまう。
既にこの平安京の中で、災いの種は育てられていたのだ……彼女の手によって。