F08は、腹の痛みと、頬の痛みと、地面を這わされた屈辱に怒り狂っていた。人生の中で、ここまで虚仮にされたことはない。
今すぐこの二人を八つ裂きにして、落とし前をつけなければならない。そう思うものの、F08は動けずにいた。金縛りにあったかのように、
指先すら動かせない。じっとりと、額に汗が滲む。
(なんだよ、これは。まさか……)
身体の奥底から冷たいものが湧き出る。その名前を、F08は知っていた。
(恐怖……。恐れているのか……わたしが、あいつを!)
馬鹿な、ありえない、と頭を振る。自分は克服したのだ。一度目の死を経験して、そんなものは。
「ふざけんじゃねえ……ふざけんじゃねえぞ! てめえなんぞ、今すぐ殺してやらあ!」
恐怖を意思の力でねじ伏せ、F08は立ち上がる。
(そうだ、こいつがわたしに勝てるはずがないんだ!)
次の瞬間、F08の姿が掻き消えた。人間の視覚では捉えきれない超高速でヒューリーに迫った。これまで培ってきた技術、経験、それらすべ
てを動員した動きであった。
彼女は、一撃で勝負を決めようとしていた。F08はヒューリーの背後に移動し、ナイフの切っ先を首筋に定める。
だが、その動きを察知していたのか、ぐるりとヒューリーは身体の向きを変え、怒りに凝った視線をF08にぶつけた。
(な……!?)
その視線を気圧されて、F08は踏みとどまり、後ろに跳んだ。
彼女の第六感が囁く。いま踏み込んでいたら、殺されていたのは――自分。
(馬鹿な……!)
F08は愕然とする。
(死んでいた、殺されていた!? あいつじゃなくて、わたしが……!?)
本能が命じている。――今すぐこの場から離れろ、と。
だが、その命令を素直に聞くには、F08は幼すぎた。
F08は攻撃を再開する。だが、やはり――何度後ろを取ろうと、気配を消しても、ヒューリーは必ず自分の居場所を察知する。
「くそ……!」
苦し紛れにナイフを投擲する。だが、それは苦もなくヒューリーに防がれる。
「もう仕舞いか。なら」
そう言ってヒューリーは、ナイフを逆手に構えなおし、
「今度は、こっちの番だ」
一歩踏み出す。
F08の視界の端で何かがきらめいた。理性よりも身体の反応の方が速かった。後ろに姿勢を崩し――迫り来るヒューリーのナイフを回避し
た。だが、完全にはかわしきれなかった。鼻先の肉がわずかに削れ、血が流れる。
(こいつ、わたしに当てやがった……!)
回避には成功したものの、F08は次第に追い詰められていった。
ヒューリーは、F08の行動の先を読み、逃げ道をふさぐ。常に先手を封じられるF08は、回避に専念するしかない。
「おおおおおお!」
ヒューリーの猛攻は止らない。最初鼻先をかすった一撃以来、まだ有効打を与えていないものの、確実にF08の動きに順応してきている。あ
と何手かで、完全にF08の動きを捉えるだろう。
「てめえ……!」
爪先を地面に突き刺し、蹴り上げる。土と砂をヒューリーの目に浴びせる。
「……ッ!」
「なめんじゃねえ!」
視界を奪われた一瞬を突き、F08はヒューリーの首目掛けてナイフを突き出す。だがヒューリーは、目が見えていないのにもかかわらず、
F08の手首を掴んだ。
「く……!」
「電極のある首を狙うと思っていた」
万力の如き握力が、F08の自由を奪う。力で劣るF08は、その拘束を振りほどけない。押せども引けども、びくともしない。
ヒューリーはさらに力を込めて、手首を握り締める。そして――
ごきい、と。怖気が奔るような大きな音が響いた。骨が砕かれる音だ。
――F08の手首が、有り得ない方向に曲がっていた。
「ぎ……がああああ!!」
激痛が全身を駆け巡る。一瞬、意識に空白が生まれる。だから、次の一撃を避けることができなかった。
「ごあっ!?」
ヒューリーの拳が、F08の後頭部に炸裂した。顔面から地面に激突し、土と血の味が口の中に広がる。
「立て」
ヒューリーは襟を締め上げ、強引にF08を立たせる。
そして、F08は間近で見てしまう。
憎悪と、自分に向けられる殺意が燃えさかる、ヒューリーの瞳を――
「あ……ああ……」
その瞬間、身体の深奥から黒く、冷たいものが這い出し、彼女のすべてを支配した。
それは――恐怖。
「うわあああああああああ!!」
F08の喉から悲鳴が迸った。
と同時に、彼女の全身から何かが飛び出した。F08の肉を引き裂きながら閃光のように射出されるそれらは、小型の刃であった。
突然の刃の奇襲に、ヒューリーは仰け反った。咄嗟に首元をかばい、電極へのダメージは免れたものの、顔から胸にかけてナイフが
針山のように刺さっている。がくり、とヒューリーは膝を付く。
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
衣服をぼろぼろにして、F08は荒く息をつく。
――殺したのか。手ごたえはあった。首元にも何本かナイフが刺さっている。
電極が破壊されたのなら、人造人間は壊れる。なら、自分は、勝ったのか。
「は、はは……ははは……」
F08は乾いた笑い声を上げる。
「やっぱりな! てめえなんぞが、わたしに勝てるわけがねえんだよ! はははは!」
だが、残酷にも、戦いは終わっていなかった。むくりと、ヒューリーは立ち上がる。先程と変わらず、憎悪を瞳に宿して。
「あ……あ……」
これだけやっても、死なない――
そのとき、F08の中で、何かが切れた。
「うあああああ!!」
息を整える暇もなく、F08はヒューリーに襲い掛かった。滅茶苦茶にナイフを振り回す。
機微も何もあったものではない、乱暴な動きであった。
「死ね、死ねよ! さっさと死んで黙っちまえよォ!」
先ほどまでの余裕と驕慢はどこにいったのか――F08は、恐慌状態に陥りながら、攻撃を繰り返す。
もはやなりふり構う余裕はなかった。自分の全存在を賭けて、こいつを殺さなければならない。失敗すれば、死。
「死ね、死ね! 死ね死ね死ね死ね!」
F08は冷静な判断力を失っていた。体格で劣る自分が、ヒューリーの間合いにいることの危険性も失念していた。
たしかにナイフの一撃は脅威ではあるが、人造人間を一撃で仕留められるほどの殺傷力はない。
ナイフの応酬には一切構わずに、ヒューリーは手を伸ばし、F08の頭を鷲掴みにする。そして、ゆっくりと力をこめる。
「ぎ……ぃ、あ……」
ぎりぎりと頭蓋が悲鳴を上げる。あまりの激痛に、F08はナイフを取り落とした。
両者の目が合う。
「ひぃ……」
F08はか細い悲鳴をあげた。彼女の目尻には、涙が溜まっていた。
――何だ。目の前にいるこいつは。
「何なんだお前はァ!」
「はは」
嘲弄。紫煙をくゆらしながら、ヒューリーの背後で、ピーベリーが嗤っている。
「教えてやろうか。そいつはな、かのポーラールート製"究極の八体"を超えるべくして、わたしが全身全霊をかけて造った人造人間だ。お前のよ
うな、一世紀近く前の人間が造り出した、かびの生えた骨董品なんぞに負けるわけがない」
さらに力が込められた。このままでは、自分の頭は、トマトのように握りつぶされてしまうだろう。
たまらずF08は叫んだ。
「お、おいお前ら! F機関! 見ているんだろう!? はやく助けろ!」
返答はない。F機関――彼らは<装甲戦闘死体>をサポートする組織だが、戦闘に介入する権限は与えられていない。
彼らの任務は、あくまで<装甲戦闘死体>の監視のみ。だからF08の懇願は、空しく宙に響くのみ。
「助けは来ないようだな。――なら、終わりだ」
ヒューリーが見たところ、F08には電極がないようだ。人造人間には起動の為の電極が不可欠なのだが、人造人間の始祖を創造したフランケ
シュタイン博士が、電極を用いない起動方法を知っていてもおかしくはない。
――ともかく、F08の身体には人造人間的な弱点らしい弱点は存在しない。
だからヒューリーは、人間の急所を狙う。すなわち、心臓を。
「や、やめ……」
F08の懇願は、聞こえないふりをした。
どすっ、と鈍い音がした。
おそらくF08は、身体に何かがぶつかったとしか認識していなかったはずだ。
けれど、ナイフは確かにF08の胸部に突き刺さっていて、その切っ先は心臓にまで到達していた。
ややあって――
F08の瞳から、光が失われた。
今すぐこの二人を八つ裂きにして、落とし前をつけなければならない。そう思うものの、F08は動けずにいた。金縛りにあったかのように、
指先すら動かせない。じっとりと、額に汗が滲む。
(なんだよ、これは。まさか……)
身体の奥底から冷たいものが湧き出る。その名前を、F08は知っていた。
(恐怖……。恐れているのか……わたしが、あいつを!)
馬鹿な、ありえない、と頭を振る。自分は克服したのだ。一度目の死を経験して、そんなものは。
「ふざけんじゃねえ……ふざけんじゃねえぞ! てめえなんぞ、今すぐ殺してやらあ!」
恐怖を意思の力でねじ伏せ、F08は立ち上がる。
(そうだ、こいつがわたしに勝てるはずがないんだ!)
次の瞬間、F08の姿が掻き消えた。人間の視覚では捉えきれない超高速でヒューリーに迫った。これまで培ってきた技術、経験、それらすべ
てを動員した動きであった。
彼女は、一撃で勝負を決めようとしていた。F08はヒューリーの背後に移動し、ナイフの切っ先を首筋に定める。
だが、その動きを察知していたのか、ぐるりとヒューリーは身体の向きを変え、怒りに凝った視線をF08にぶつけた。
(な……!?)
その視線を気圧されて、F08は踏みとどまり、後ろに跳んだ。
彼女の第六感が囁く。いま踏み込んでいたら、殺されていたのは――自分。
(馬鹿な……!)
F08は愕然とする。
(死んでいた、殺されていた!? あいつじゃなくて、わたしが……!?)
本能が命じている。――今すぐこの場から離れろ、と。
だが、その命令を素直に聞くには、F08は幼すぎた。
F08は攻撃を再開する。だが、やはり――何度後ろを取ろうと、気配を消しても、ヒューリーは必ず自分の居場所を察知する。
「くそ……!」
苦し紛れにナイフを投擲する。だが、それは苦もなくヒューリーに防がれる。
「もう仕舞いか。なら」
そう言ってヒューリーは、ナイフを逆手に構えなおし、
「今度は、こっちの番だ」
一歩踏み出す。
F08の視界の端で何かがきらめいた。理性よりも身体の反応の方が速かった。後ろに姿勢を崩し――迫り来るヒューリーのナイフを回避し
た。だが、完全にはかわしきれなかった。鼻先の肉がわずかに削れ、血が流れる。
(こいつ、わたしに当てやがった……!)
回避には成功したものの、F08は次第に追い詰められていった。
ヒューリーは、F08の行動の先を読み、逃げ道をふさぐ。常に先手を封じられるF08は、回避に専念するしかない。
「おおおおおお!」
ヒューリーの猛攻は止らない。最初鼻先をかすった一撃以来、まだ有効打を与えていないものの、確実にF08の動きに順応してきている。あ
と何手かで、完全にF08の動きを捉えるだろう。
「てめえ……!」
爪先を地面に突き刺し、蹴り上げる。土と砂をヒューリーの目に浴びせる。
「……ッ!」
「なめんじゃねえ!」
視界を奪われた一瞬を突き、F08はヒューリーの首目掛けてナイフを突き出す。だがヒューリーは、目が見えていないのにもかかわらず、
F08の手首を掴んだ。
「く……!」
「電極のある首を狙うと思っていた」
万力の如き握力が、F08の自由を奪う。力で劣るF08は、その拘束を振りほどけない。押せども引けども、びくともしない。
ヒューリーはさらに力を込めて、手首を握り締める。そして――
ごきい、と。怖気が奔るような大きな音が響いた。骨が砕かれる音だ。
――F08の手首が、有り得ない方向に曲がっていた。
「ぎ……がああああ!!」
激痛が全身を駆け巡る。一瞬、意識に空白が生まれる。だから、次の一撃を避けることができなかった。
「ごあっ!?」
ヒューリーの拳が、F08の後頭部に炸裂した。顔面から地面に激突し、土と血の味が口の中に広がる。
「立て」
ヒューリーは襟を締め上げ、強引にF08を立たせる。
そして、F08は間近で見てしまう。
憎悪と、自分に向けられる殺意が燃えさかる、ヒューリーの瞳を――
「あ……ああ……」
その瞬間、身体の深奥から黒く、冷たいものが這い出し、彼女のすべてを支配した。
それは――恐怖。
「うわあああああああああ!!」
F08の喉から悲鳴が迸った。
と同時に、彼女の全身から何かが飛び出した。F08の肉を引き裂きながら閃光のように射出されるそれらは、小型の刃であった。
突然の刃の奇襲に、ヒューリーは仰け反った。咄嗟に首元をかばい、電極へのダメージは免れたものの、顔から胸にかけてナイフが
針山のように刺さっている。がくり、とヒューリーは膝を付く。
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
衣服をぼろぼろにして、F08は荒く息をつく。
――殺したのか。手ごたえはあった。首元にも何本かナイフが刺さっている。
電極が破壊されたのなら、人造人間は壊れる。なら、自分は、勝ったのか。
「は、はは……ははは……」
F08は乾いた笑い声を上げる。
「やっぱりな! てめえなんぞが、わたしに勝てるわけがねえんだよ! はははは!」
だが、残酷にも、戦いは終わっていなかった。むくりと、ヒューリーは立ち上がる。先程と変わらず、憎悪を瞳に宿して。
「あ……あ……」
これだけやっても、死なない――
そのとき、F08の中で、何かが切れた。
「うあああああ!!」
息を整える暇もなく、F08はヒューリーに襲い掛かった。滅茶苦茶にナイフを振り回す。
機微も何もあったものではない、乱暴な動きであった。
「死ね、死ねよ! さっさと死んで黙っちまえよォ!」
先ほどまでの余裕と驕慢はどこにいったのか――F08は、恐慌状態に陥りながら、攻撃を繰り返す。
もはやなりふり構う余裕はなかった。自分の全存在を賭けて、こいつを殺さなければならない。失敗すれば、死。
「死ね、死ね! 死ね死ね死ね死ね!」
F08は冷静な判断力を失っていた。体格で劣る自分が、ヒューリーの間合いにいることの危険性も失念していた。
たしかにナイフの一撃は脅威ではあるが、人造人間を一撃で仕留められるほどの殺傷力はない。
ナイフの応酬には一切構わずに、ヒューリーは手を伸ばし、F08の頭を鷲掴みにする。そして、ゆっくりと力をこめる。
「ぎ……ぃ、あ……」
ぎりぎりと頭蓋が悲鳴を上げる。あまりの激痛に、F08はナイフを取り落とした。
両者の目が合う。
「ひぃ……」
F08はか細い悲鳴をあげた。彼女の目尻には、涙が溜まっていた。
――何だ。目の前にいるこいつは。
「何なんだお前はァ!」
「はは」
嘲弄。紫煙をくゆらしながら、ヒューリーの背後で、ピーベリーが嗤っている。
「教えてやろうか。そいつはな、かのポーラールート製"究極の八体"を超えるべくして、わたしが全身全霊をかけて造った人造人間だ。お前のよ
うな、一世紀近く前の人間が造り出した、かびの生えた骨董品なんぞに負けるわけがない」
さらに力が込められた。このままでは、自分の頭は、トマトのように握りつぶされてしまうだろう。
たまらずF08は叫んだ。
「お、おいお前ら! F機関! 見ているんだろう!? はやく助けろ!」
返答はない。F機関――彼らは<装甲戦闘死体>をサポートする組織だが、戦闘に介入する権限は与えられていない。
彼らの任務は、あくまで<装甲戦闘死体>の監視のみ。だからF08の懇願は、空しく宙に響くのみ。
「助けは来ないようだな。――なら、終わりだ」
ヒューリーが見たところ、F08には電極がないようだ。人造人間には起動の為の電極が不可欠なのだが、人造人間の始祖を創造したフランケ
シュタイン博士が、電極を用いない起動方法を知っていてもおかしくはない。
――ともかく、F08の身体には人造人間的な弱点らしい弱点は存在しない。
だからヒューリーは、人間の急所を狙う。すなわち、心臓を。
「や、やめ……」
F08の懇願は、聞こえないふりをした。
どすっ、と鈍い音がした。
おそらくF08は、身体に何かがぶつかったとしか認識していなかったはずだ。
けれど、ナイフは確かにF08の胸部に突き刺さっていて、その切っ先は心臓にまで到達していた。
ややあって――
F08の瞳から、光が失われた。
「あわれだな」
それがヒューリーの感想であった。彼の視線の先には、F08だったものが転がっている。
魂が抜けた残骸は、何も語らず、ただそこにある。
あれほどに憎んでいたのに、今となってはF08に哀れみを感じる。一抹の寂しさすらある。
自分は何を得たのか。この戦いに、意味はあったのか。
それは復讐を完遂したものが総じて経験する感情なのだが、ヒューリーはそれに気づかない。
そして、敵を斃した安心からか、緊張の糸がほどけ、ヒューリーは倒れそうになった。その身体を背後にいた人物が抱きとめる。
「ピーベリー」
「しゃべるな。傷は深い」
大柄な体格をいつまでも支えるのは酷だったのか、ピーベリーはヒューリーを地面へと寝かせた。
そして、鞄から医療器具を取り出す。
「歩けるようになるまでは修理してやる。だが、本格的な修理は、ここでは無理だ。専用の設備が必要になる」
つてがある、とピーベリーは言った。
「ポーラールート――私の抜けた組織ならば、お前を完璧な状態に修理できる。歩けるようになったら、そこに向かうぞ」
そう言ってピーベリーは、手際よくヒューリーを修理し始めた。身体に刺さっている刃物を引き抜く。その痛みに顔をしかめながら、ヒュー
リーは思った。彼女は何のために、ここまでしているのか。復讐のためと言ったが――いったい彼女の復讐とは、なんなのか。
知らないことばかりだった。考えるべきことはいくらでもあった。
ヒューリーの復讐の対象――レイスのこととか。目的地であるロンドンのこととか。
だが、ヒューリーには、まず言わなければならない言葉があった。
「あんたの言葉で、目が醒めたぜ」
そうヒューリーは言った。思いがけない言葉に、ピーベリーは目を丸くする。
「どうやら、俺はまだ覚悟をしっかり決めていなかったようだ。これからも、さっきのような戦い――いや、それ以上に苦しい戦いが待っている
かもしれない。だが、俺は諦めない。レイスを殺すまで――エーデルを殺したあいつを殺すまで、復讐を遂げるまで、俺は戦い続ける。あんたの
復讐も、俺がかなえてやるさ。あんたと俺は、共犯者だからな」
「……」
ピーベリーはしばらく無言であった。静かな時間が流れる。そしてカチャカチャと鞄の中を探り、一本の注射器を取り出した。
その注射器をヒューリーの眉間に投擲する!
「いてェ!」
「無駄口を叩いている暇があったら、さっさと眠れ」
注射器の麻酔が眠気をさそう。戦いで疲弊したヒューリーの身体は、すぐさま睡眠を受け入れた。意識が霞におおわれていく。
そのまどろみのなかで――ヒューリーは聞いた。
「よくやった、ヒューリー」
冷たい、だがわずかに温かみが込められた、ピーベリーの言葉を。
それがヒューリーの感想であった。彼の視線の先には、F08だったものが転がっている。
魂が抜けた残骸は、何も語らず、ただそこにある。
あれほどに憎んでいたのに、今となってはF08に哀れみを感じる。一抹の寂しさすらある。
自分は何を得たのか。この戦いに、意味はあったのか。
それは復讐を完遂したものが総じて経験する感情なのだが、ヒューリーはそれに気づかない。
そして、敵を斃した安心からか、緊張の糸がほどけ、ヒューリーは倒れそうになった。その身体を背後にいた人物が抱きとめる。
「ピーベリー」
「しゃべるな。傷は深い」
大柄な体格をいつまでも支えるのは酷だったのか、ピーベリーはヒューリーを地面へと寝かせた。
そして、鞄から医療器具を取り出す。
「歩けるようになるまでは修理してやる。だが、本格的な修理は、ここでは無理だ。専用の設備が必要になる」
つてがある、とピーベリーは言った。
「ポーラールート――私の抜けた組織ならば、お前を完璧な状態に修理できる。歩けるようになったら、そこに向かうぞ」
そう言ってピーベリーは、手際よくヒューリーを修理し始めた。身体に刺さっている刃物を引き抜く。その痛みに顔をしかめながら、ヒュー
リーは思った。彼女は何のために、ここまでしているのか。復讐のためと言ったが――いったい彼女の復讐とは、なんなのか。
知らないことばかりだった。考えるべきことはいくらでもあった。
ヒューリーの復讐の対象――レイスのこととか。目的地であるロンドンのこととか。
だが、ヒューリーには、まず言わなければならない言葉があった。
「あんたの言葉で、目が醒めたぜ」
そうヒューリーは言った。思いがけない言葉に、ピーベリーは目を丸くする。
「どうやら、俺はまだ覚悟をしっかり決めていなかったようだ。これからも、さっきのような戦い――いや、それ以上に苦しい戦いが待っている
かもしれない。だが、俺は諦めない。レイスを殺すまで――エーデルを殺したあいつを殺すまで、復讐を遂げるまで、俺は戦い続ける。あんたの
復讐も、俺がかなえてやるさ。あんたと俺は、共犯者だからな」
「……」
ピーベリーはしばらく無言であった。静かな時間が流れる。そしてカチャカチャと鞄の中を探り、一本の注射器を取り出した。
その注射器をヒューリーの眉間に投擲する!
「いてェ!」
「無駄口を叩いている暇があったら、さっさと眠れ」
注射器の麻酔が眠気をさそう。戦いで疲弊したヒューリーの身体は、すぐさま睡眠を受け入れた。意識が霞におおわれていく。
そのまどろみのなかで――ヒューリーは聞いた。
「よくやった、ヒューリー」
冷たい、だがわずかに温かみが込められた、ピーベリーの言葉を。
「もういいぞ。でてこい」
ヒューリーが眠ったことを確認したピーベリーは、そう言った。
闖入者が、F08の残骸の隣にいた。
全身黒のスーツに、白い仮面が殊更際立っている、一つの影。無機質な、どこか人形めいた雰囲気をまとっている。
「影人間。――《結社》の者、か」
《結社》。あるいは西インド会社、西方碩学協会。ヨーロッパはおろか全世界の闇を支配すると言われている秘密結社である。
影人間とは、その《結社》の構成員であり、《結社》に在籍する数多の碩学が作り上げた一種のロボットであるらしい。
その影人間が、語り始める。
『ええ、ええ。そうでございます、美しく聡明なる方。偽りの命の作り手、呪われた人造人間創造者であるあなた』
「影人間はしゃべらないと聞いていたが、そうか。代理人、というわけか。」
『いかにも。我輩の本当の身体はここより遠くの地、ロンドンに在ります。自己紹介が遅れました。我輩は《バロン》。
バロン・ミュンヒハウゼンと申します。影人間を経由してのご挨拶、まことに失礼と存じ上げてはおりますが、
我輩は多忙の身であるが故に』
「ふん。戯言を楽しむ趣味はない。さっさと用件を済ませろ」
『これは、これは。美しく聡明なるあなたの機嫌を損ねてしまったようですね』
「《結社》最高幹部の《三博士》の一人と世話話――この世界の暗部に生きるものとしては、ぞっとしない話だ。あまり関わりを持ちたくない
んだよ、お前達とは。それに、多忙の身なのだろう? さっさとこの<装甲戦闘死体>を回収したらどうだ」
『おや、おや。我輩の目的に気づいていたとは』
「影人間はその気になれば人一人縊り殺せることくらいは容易くできる。すぐさま私達を殺しにかからない以上、お前の目的は別にある。とすれ
ば、お前の目的は、大破したそこの<装甲戦闘死体>の回収であると考えるのは自然だ」
『さすがは聡明なる方。実はですね、<装甲戦闘死体>の方々と《結社》は現在、同盟関係にあるのですよ。全世界の闇に枝葉を伸ばす《結社》
といえども、吸血鬼の存在には手を焼いておりましてですね。彼らの排除のために、我輩どもは手を結んだのですよ。であるからして、かの大碩
学フランケンシュタイン博士の叡智の結晶である<装甲戦闘死体>、これが欠員するとなると、我輩どもとしてましても手痛い損失でして。《結
社》最高幹部の権能を使い、影人間を操り、こうしてここに参上した次第です』
「そうか。わかった。ならこちらから話すことはない。さっさと消えろ」
『我輩を止めないのですかな?』
「言っただろう? お前達と関わりを持ちたくないと」
『成る程。それでは、我輩は義務を果たすとしましょう』
闇が、F08の残骸の周辺から沸き立っていた。
黒い水溜りのようなものが、F08を飲み込む。物言わぬ形骸はずぶずぶと沈んでいく。
『それでは最後に』
と、影人間の向こう側にいる人物は告げた。わずかに、嘲笑めいたものが混じっている。
『復讐とは、純粋なる人間の情念につきますれば――美しく聡明なる方。深淵は常にこちらを覗いています。知らぬ間に自身が怪物となっている
ことにならないよう、ゆめゆめ注意なさることです。では、機会があればロンドンで会うこともあるでしょう。そのときまで、どうかご健勝に』
その言葉とともに、どぷんという音がして、F08も、影人間も黒い水溜りの中に消えた。
残されたピーベリーは、一人呟く。
「――言われずとも、承知している」
復讐の覚悟は、とうに済ませてある。どんな結末が待っているのだとしても、自分が醜い怪物に成り果てるのだとしても、悔いはない。
何故なら――復讐を果たすまで、自分は、前へ進むことが出来なくなってしまったから。
自分の"これから"には、喜びが無く、希望も無い――そんな"明日"を否定したから、復讐の道を歩むことを選んだ。
だから彼を人造人間にした。だけど。
「お前には……安らかな死を選ぶ権利があった。だが、お前は夜の道を行き、復讐を遂げることを選んだ。しかし……お前がいつか復讐を完遂
し、人造人間が自分だけになった後、何を思い、何を考え、何を後悔しながら自分の胸に刃を突き立てるのか……それを想像するのが、怖い。そ
して、そんな運命をお前に背負わせた私は――悪魔に違いない」
ヒューリーが眠ったことを確認したピーベリーは、そう言った。
闖入者が、F08の残骸の隣にいた。
全身黒のスーツに、白い仮面が殊更際立っている、一つの影。無機質な、どこか人形めいた雰囲気をまとっている。
「影人間。――《結社》の者、か」
《結社》。あるいは西インド会社、西方碩学協会。ヨーロッパはおろか全世界の闇を支配すると言われている秘密結社である。
影人間とは、その《結社》の構成員であり、《結社》に在籍する数多の碩学が作り上げた一種のロボットであるらしい。
その影人間が、語り始める。
『ええ、ええ。そうでございます、美しく聡明なる方。偽りの命の作り手、呪われた人造人間創造者であるあなた』
「影人間はしゃべらないと聞いていたが、そうか。代理人、というわけか。」
『いかにも。我輩の本当の身体はここより遠くの地、ロンドンに在ります。自己紹介が遅れました。我輩は《バロン》。
バロン・ミュンヒハウゼンと申します。影人間を経由してのご挨拶、まことに失礼と存じ上げてはおりますが、
我輩は多忙の身であるが故に』
「ふん。戯言を楽しむ趣味はない。さっさと用件を済ませろ」
『これは、これは。美しく聡明なるあなたの機嫌を損ねてしまったようですね』
「《結社》最高幹部の《三博士》の一人と世話話――この世界の暗部に生きるものとしては、ぞっとしない話だ。あまり関わりを持ちたくない
んだよ、お前達とは。それに、多忙の身なのだろう? さっさとこの<装甲戦闘死体>を回収したらどうだ」
『おや、おや。我輩の目的に気づいていたとは』
「影人間はその気になれば人一人縊り殺せることくらいは容易くできる。すぐさま私達を殺しにかからない以上、お前の目的は別にある。とすれ
ば、お前の目的は、大破したそこの<装甲戦闘死体>の回収であると考えるのは自然だ」
『さすがは聡明なる方。実はですね、<装甲戦闘死体>の方々と《結社》は現在、同盟関係にあるのですよ。全世界の闇に枝葉を伸ばす《結社》
といえども、吸血鬼の存在には手を焼いておりましてですね。彼らの排除のために、我輩どもは手を結んだのですよ。であるからして、かの大碩
学フランケンシュタイン博士の叡智の結晶である<装甲戦闘死体>、これが欠員するとなると、我輩どもとしてましても手痛い損失でして。《結
社》最高幹部の権能を使い、影人間を操り、こうしてここに参上した次第です』
「そうか。わかった。ならこちらから話すことはない。さっさと消えろ」
『我輩を止めないのですかな?』
「言っただろう? お前達と関わりを持ちたくないと」
『成る程。それでは、我輩は義務を果たすとしましょう』
闇が、F08の残骸の周辺から沸き立っていた。
黒い水溜りのようなものが、F08を飲み込む。物言わぬ形骸はずぶずぶと沈んでいく。
『それでは最後に』
と、影人間の向こう側にいる人物は告げた。わずかに、嘲笑めいたものが混じっている。
『復讐とは、純粋なる人間の情念につきますれば――美しく聡明なる方。深淵は常にこちらを覗いています。知らぬ間に自身が怪物となっている
ことにならないよう、ゆめゆめ注意なさることです。では、機会があればロンドンで会うこともあるでしょう。そのときまで、どうかご健勝に』
その言葉とともに、どぷんという音がして、F08も、影人間も黒い水溜りの中に消えた。
残されたピーベリーは、一人呟く。
「――言われずとも、承知している」
復讐の覚悟は、とうに済ませてある。どんな結末が待っているのだとしても、自分が醜い怪物に成り果てるのだとしても、悔いはない。
何故なら――復讐を果たすまで、自分は、前へ進むことが出来なくなってしまったから。
自分の"これから"には、喜びが無く、希望も無い――そんな"明日"を否定したから、復讐の道を歩むことを選んだ。
だから彼を人造人間にした。だけど。
「お前には……安らかな死を選ぶ権利があった。だが、お前は夜の道を行き、復讐を遂げることを選んだ。しかし……お前がいつか復讐を完遂
し、人造人間が自分だけになった後、何を思い、何を考え、何を後悔しながら自分の胸に刃を突き立てるのか……それを想像するのが、怖い。そ
して、そんな運命をお前に背負わせた私は――悪魔に違いない」
そう自嘲した時、ピーベリーは、雷鳴が轟くのを聞いた。
錯覚だ。辺りは暗がりに満ちている。だが、雷鳴は、ピーベリーを嘲笑うかのように、何度も何度も鳴り響いて……。
錯覚だ。辺りは暗がりに満ちている。だが、雷鳴は、ピーベリーを嘲笑うかのように、何度も何度も鳴り響いて……。
雷鳴が響く。
雷鳴が響く。
今日もまたどこかで、人造人間が産声をあげる――
雷鳴が響く。
今日もまたどこかで、人造人間が産声をあげる――