寒い夜だった。
天頂には凍ったような円い月。湿度の低い透き通った空気が、空に散らばる星の屑を透かしている。
息を吐くと瞬く間に白くなった。鼻の脇から生えた髭に、まとわりついて凍てつくのではないかと思われた。
たゆたう水や踏みしめる土から這い上がってくるのは、一種痺れにも似た冷たさ。極寒の秘境を
狩場にしていた≪我鬼≫にとっては、皮膚そのものに焼きついた懐かしい感覚だ。
体内では寒さに打ち勝つために絶えず脂肪が燃焼し、凄まじい勢いでカロリーが消費される。
そろそろ狩りに出なければならない。
≪我鬼≫は薄緑色の水の淵から顔を上げた。河とは違う扁平な水底を前脚で強く蹴ろうとしたとき、
冷えた大気に入り混じって嗅ぎ覚えのある匂いを感じた。
脆弱な二本足ばかりのこの地で、彼が出遭った唯一の肉食獣。
≪我鬼≫は歯を剥き出した。≪二本足≫の概念からすれば、ともすれば笑ったようにも見て取れる顔だった。
天頂には凍ったような円い月。湿度の低い透き通った空気が、空に散らばる星の屑を透かしている。
息を吐くと瞬く間に白くなった。鼻の脇から生えた髭に、まとわりついて凍てつくのではないかと思われた。
たゆたう水や踏みしめる土から這い上がってくるのは、一種痺れにも似た冷たさ。極寒の秘境を
狩場にしていた≪我鬼≫にとっては、皮膚そのものに焼きついた懐かしい感覚だ。
体内では寒さに打ち勝つために絶えず脂肪が燃焼し、凄まじい勢いでカロリーが消費される。
そろそろ狩りに出なければならない。
≪我鬼≫は薄緑色の水の淵から顔を上げた。河とは違う扁平な水底を前脚で強く蹴ろうとしたとき、
冷えた大気に入り混じって嗅ぎ覚えのある匂いを感じた。
脆弱な二本足ばかりのこの地で、彼が出遭った唯一の肉食獣。
≪我鬼≫は歯を剥き出した。≪二本足≫の概念からすれば、ともすれば笑ったようにも見て取れる顔だった。
――向かって来るか、小さき我が天敵よ。
≪我鬼≫はまた息を吐いた。高揚が彼の吐息に熱を与えた。
呼気は零度近い気温に即座に冷やされ、白く曇って巨大な顎門(アギト)を覆い隠した。
呼気は零度近い気温に即座に冷やされ、白く曇って巨大な顎門(アギト)を覆い隠した。
夜を駆けるセダンの中は、摂氏二十五度の温風で満たされていた。ドアを開けた瞬間襲ってきた
寒気は極端な温度差とあいまって、ナイフの切っ先めいた鋭さでサイの頬をひと撫でした。
道の脇の柵に据え付けられた看板には、涼しげな青い飾り文字。
『ウォーターゲートパーク』。
ただしところどころ色は剥げ、暴走族によるものらしい下品な落書きがスプレーで吹き付けられている。
「この位置で待機でいいんですかい」
車外に降り立ったサイに、運転席から葛西が尋ねた。
「今のところはね。適当なところで後から来てよ」
言いながら、サイは指で自分の耳を軽くはじく。
通信機。前回密輸船に潜入したときに、アイとの交信で使用したものだ。今回は更に、現在位置を
自動で知らせる機能も付属している。場所を踏まえて防水加工も施されていた。
チャキリと音を鳴らしながら、散弾銃のセーフティを上げる。
身に纏うのはいつものだぼだぼの長衣ではなく、袖も裾もすっきりと身の丈に合う軍服めいたデザインの
衣服だ。更にその下には防刃ジャケット。未成熟な骨ばった体が、これのせいで膨れて見えるほどの厚みがある。
「それじゃ行ってくるよ、葛西」
「行ってらっしゃいませ」
帽子を押さえて頭を下げる葛西に、サイは背を向ける。
アスファルトの一蹴りで細い体が宙を舞う。道路とパークの内部を隔てる、高い柵の上に着地する。
そして更に一蹴り。
荒れ果てた園内にサイは足を踏み入れた。
月明かりしかない闇の中を、彼の目は暗視スコープさながらに映し出す。
敷き詰められたタイルの隙間から、全体を覆うようにびっしりと雑草が生えている。
水槽にたたえられた水はどんよりと淀んでいた。流れそのものは完全に止まっており、
目玉アトラクションだったらしい螺旋型ウォータースライダーも乾ききった表面を晒している。
南国をイメージして植えられたらしい椰子の木が、長細い葉を冬の寒気に震わせていた。
地を這うように密集したイヌフグリなど、放置された場所から生えてきたありふれた草たちも、
ここは日本だと声なき声で訴えている。
人間が演出した虚構の世界など、自然の前には無為なるものにすぎない。
サイは五感を全開にして気配を探った。
寒気は極端な温度差とあいまって、ナイフの切っ先めいた鋭さでサイの頬をひと撫でした。
道の脇の柵に据え付けられた看板には、涼しげな青い飾り文字。
『ウォーターゲートパーク』。
ただしところどころ色は剥げ、暴走族によるものらしい下品な落書きがスプレーで吹き付けられている。
「この位置で待機でいいんですかい」
車外に降り立ったサイに、運転席から葛西が尋ねた。
「今のところはね。適当なところで後から来てよ」
言いながら、サイは指で自分の耳を軽くはじく。
通信機。前回密輸船に潜入したときに、アイとの交信で使用したものだ。今回は更に、現在位置を
自動で知らせる機能も付属している。場所を踏まえて防水加工も施されていた。
チャキリと音を鳴らしながら、散弾銃のセーフティを上げる。
身に纏うのはいつものだぼだぼの長衣ではなく、袖も裾もすっきりと身の丈に合う軍服めいたデザインの
衣服だ。更にその下には防刃ジャケット。未成熟な骨ばった体が、これのせいで膨れて見えるほどの厚みがある。
「それじゃ行ってくるよ、葛西」
「行ってらっしゃいませ」
帽子を押さえて頭を下げる葛西に、サイは背を向ける。
アスファルトの一蹴りで細い体が宙を舞う。道路とパークの内部を隔てる、高い柵の上に着地する。
そして更に一蹴り。
荒れ果てた園内にサイは足を踏み入れた。
月明かりしかない闇の中を、彼の目は暗視スコープさながらに映し出す。
敷き詰められたタイルの隙間から、全体を覆うようにびっしりと雑草が生えている。
水槽にたたえられた水はどんよりと淀んでいた。流れそのものは完全に止まっており、
目玉アトラクションだったらしい螺旋型ウォータースライダーも乾ききった表面を晒している。
南国をイメージして植えられたらしい椰子の木が、長細い葉を冬の寒気に震わせていた。
地を這うように密集したイヌフグリなど、放置された場所から生えてきたありふれた草たちも、
ここは日本だと声なき声で訴えている。
人間が演出した虚構の世界など、自然の前には無為なるものにすぎない。
サイは五感を全開にして気配を探った。
ちゃぷん
ほどなくその耳をとらえたのは、流れを止めたはずのプールの水がうねる音。
歩を進める。下草に覆われたタイルの上を音を立てないように歩くのは一般人には困難だが、
彼にとっては造作もない。
歩を進める。下草に覆われたタイルの上を音を立てないように歩くのは一般人には困難だが、
彼にとっては造作もない。
ひちゃん
髪の毛先の一本までが、水音を受容する器と化した。
吸い寄せられるように自動的に体が動いた。小鳥でも小動物でも枯葉でもない、もっと巨大な
生き物の気配を追いかけた。
向かう先は『流れるプール』。もっとも水も電力も供給が絶たれた今は、普通のプールと何ら変わらない、
単なる深夜の闇を映した澱んだ水だ。
深さは場所による。アイに渡された図面によれば、この辺りは最も深いはずだった。
風が吹く。椰子の枝が寒さに震えるようにさわさわと鳴る。
雑音を無視してサイは進んだ。
求めるのは、塩素臭い闇の底にきらめく金色の瞳。
吸い寄せられるように自動的に体が動いた。小鳥でも小動物でも枯葉でもない、もっと巨大な
生き物の気配を追いかけた。
向かう先は『流れるプール』。もっとも水も電力も供給が絶たれた今は、普通のプールと何ら変わらない、
単なる深夜の闇を映した澱んだ水だ。
深さは場所による。アイに渡された図面によれば、この辺りは最も深いはずだった。
風が吹く。椰子の枝が寒さに震えるようにさわさわと鳴る。
雑音を無視してサイは進んだ。
求めるのは、塩素臭い闇の底にきらめく金色の瞳。
ざぶん
ひときわ大きな水音が上がった。
サイの聴覚でなくても捕捉可能なその音は、いっそ聞こえよがしでさえあった。
銃を構え直し、黒い銃口を音の方向に向ける。
プールサイドへと僅かずつにじり寄る。
水際まであと三メートル。二メートル。
サイの聴覚でなくても捕捉可能なその音は、いっそ聞こえよがしでさえあった。
銃を構え直し、黒い銃口を音の方向に向ける。
プールサイドへと僅かずつにじり寄る。
水際まであと三メートル。二メートル。
残り一メートルまで迫った瞬間感じたのは、プールの底を魚雷のごとく泳ぎ来る殺気だった。
タイルを蹴って後ろに跳んだ。
視界を水しぶきが支配した。
巨大な体がプールから躍り上がった。
眼前に広がる裂け広がった顎門。
視界を水しぶきが支配した。
巨大な体がプールから躍り上がった。
眼前に広がる裂け広がった顎門。
「≪我鬼≫……!」
黄色い牙が並ぶ口めがけ引き金を引いた。
散弾がバラ撒かれた。一つ一つが肉をちぎり、内臓を引き裂く鉛の塊だった。
爆音とともに散る血と肉と脳漿。プールの水とは違う生温かい飛沫。塩素と混ざったむっとする臭気。
もたついてなどいられなかった。反動に耐えつつ続けざまに連射した。炸裂音が耳をつんざいた。
再生の暇など与えない。中身を見るのに支障のない程度に、手早く粗微塵にするのが最も上策。
散弾がバラ撒かれた。一つ一つが肉をちぎり、内臓を引き裂く鉛の塊だった。
爆音とともに散る血と肉と脳漿。プールの水とは違う生温かい飛沫。塩素と混ざったむっとする臭気。
もたついてなどいられなかった。反動に耐えつつ続けざまに連射した。炸裂音が耳をつんざいた。
再生の暇など与えない。中身を見るのに支障のない程度に、手早く粗微塵にするのが最も上策。
虎の頭蓋を半ば以上吹き飛ばし、四発の弾は瞬く間に尽きた。
シェルの入ったチューブを、マガジンに当てそのまま押し込む。
スピード・ローダーによる全弾の装填。
シェルの入ったチューブを、マガジンに当てそのまま押し込む。
スピード・ローダーによる全弾の装填。
一瞬傾いだ≪我鬼≫の体は、しかし倒れることなく地を踏みしめた。
ほぼ下顎のみになった口から、鼓膜を突き破るような咆哮が溢れた。
ミシミシと音を立てて傷口から肉が隆起していく。
そう簡単には倒れてくれないらしい。ならば続けて散弾を撃ち込み、完全に行動不能に追い込むまで。
ほぼ下顎のみになった口から、鼓膜を突き破るような咆哮が溢れた。
ミシミシと音を立てて傷口から肉が隆起していく。
そう簡単には倒れてくれないらしい。ならば続けて散弾を撃ち込み、完全に行動不能に追い込むまで。
引き金にかけた指に力を込める。
五発目を放つべく引き絞る。
金色の閃光が眼前をかすめたのは、その瞬間だった。
五発目を放つべく引き絞る。
金色の閃光が眼前をかすめたのは、その瞬間だった。
「ガッ!?」
激しい衝撃が脳を揺らした。
横殴りに数メートル跳ね飛ばされ、サイの体は宙を舞った。散弾銃が手から離れ、タイルに当たって
硬質な音を立てた。プールサイドに叩きつけられ、へし折れる骨を感じたとき、ようやく何が起こったのか理解した。
一条の閃光かと見えた『それ』は、むろん光ではなく実体を伴っている。
金色と黒の縞を帯びた細長いもの――
「尻尾……!」
再生中の半崩れの顔面で、≪我鬼≫が笑ったのが確かに見えた。
横殴りに数メートル跳ね飛ばされ、サイの体は宙を舞った。散弾銃が手から離れ、タイルに当たって
硬質な音を立てた。プールサイドに叩きつけられ、へし折れる骨を感じたとき、ようやく何が起こったのか理解した。
一条の閃光かと見えた『それ』は、むろん光ではなく実体を伴っている。
金色と黒の縞を帯びた細長いもの――
「尻尾……!」
再生中の半崩れの顔面で、≪我鬼≫が笑ったのが確かに見えた。
腕をバネにして半身を起こす。
≪我鬼≫の尾の先がまた閃いた。恐ろしい速さで疾るそれは、空を切りながら形状を変えた。
しなる鞭から槍の穂先へ。
サイの脳天を貫こうと一直線に向かい来る。
≪我鬼≫の尾の先がまた閃いた。恐ろしい速さで疾るそれは、空を切りながら形状を変えた。
しなる鞭から槍の穂先へ。
サイの脳天を貫こうと一直線に向かい来る。
「っ!」
跳んで避けている暇はない。腕を振り上げ頭部を庇う。
風切り音とともに槍と化した尾が迫る。
風切り音とともに槍と化した尾が迫る。
血がしぶくかと思われた。
しかし赤い花は咲くことなく、ただ硬い音が辺りに響き渡った。
甲殻類の殻のごとく変化したサイの右腕が、≪我鬼≫の尾の槍をめり込ませて受け止めていた。
「……っ痛ぅ」
力任せにそのまま振る。あっけないほど簡単にへし折れる槍。
腕に刺さった穂先を、歯を食いしばって引き抜いた。
放り捨てる。金属と変わらぬ質感のそれは、タイルの上で数度跳ねてプールの底へと落ちていく。
しかし赤い花は咲くことなく、ただ硬い音が辺りに響き渡った。
甲殻類の殻のごとく変化したサイの右腕が、≪我鬼≫の尾の槍をめり込ませて受け止めていた。
「……っ痛ぅ」
力任せにそのまま振る。あっけないほど簡単にへし折れる槍。
腕に刺さった穂先を、歯を食いしばって引き抜いた。
放り捨てる。金属と変わらぬ質感のそれは、タイルの上で数度跳ねてプールの底へと落ちていく。
≪我鬼≫の再生はまだ続いていた。散弾四発をもって吹き飛ばしたはずの頭蓋は、徐々に形を
取り戻しつつある。薄ピンク色の骨を赤と白の筋が覆い、毛皮が更にそれを包んでいく。
取り戻しつつある。薄ピンク色の骨を赤と白の筋が覆い、毛皮が更にそれを包んでいく。
プールサイドに転がった散弾銃との距離は、ざっと五メートル。跳躍一つで取りに行けないことはない。
だが悠長なことをしていては、向こうの体の再生が終わってしまう――
サイの判断は迅速だった。
甲殻を模した二の腕を、ミシリと再び変異させる。
肉の柔らかさを取り戻した腕の、内側から突き出すのは尺骨を変化させた鉤爪。右だけに留まらず左腕も。
強靭な脚でタイルを蹴った。
研ぎ澄まされた爪で太い首を狙う。
だが悠長なことをしていては、向こうの体の再生が終わってしまう――
サイの判断は迅速だった。
甲殻を模した二の腕を、ミシリと再び変異させる。
肉の柔らかさを取り戻した腕の、内側から突き出すのは尺骨を変化させた鉤爪。右だけに留まらず左腕も。
強靭な脚でタイルを蹴った。
研ぎ澄まされた爪で太い首を狙う。
散弾で潰れた≪我鬼≫の眼球は、まだ再生の半ばだった。機械部品を思わせる金の眼が、周囲の筋肉の
リアルな色を見せつけながらサイへと向いた。
サイの右の爪が虎の首を抉る。同時に虎の巨大な顎が、華奢な彼の右肩を食いちぎる。異形の牙は
防刃ジャケットを易々と破った。
肉を抉る感触と抉られる感触。
痛みにも派手な出血にも、今更怯むようなサイではない。すかさず左の爪を閃かせる。
素材こそ自身の骨のカルシウムだが、変異する細胞によって匠の居合刀のごとき鋭利さを備えている。
再生途中の脆い頭部を一刀で切り落さんと――
リアルな色を見せつけながらサイへと向いた。
サイの右の爪が虎の首を抉る。同時に虎の巨大な顎が、華奢な彼の右肩を食いちぎる。異形の牙は
防刃ジャケットを易々と破った。
肉を抉る感触と抉られる感触。
痛みにも派手な出血にも、今更怯むようなサイではない。すかさず左の爪を閃かせる。
素材こそ自身の骨のカルシウムだが、変異する細胞によって匠の居合刀のごとき鋭利さを備えている。
再生途中の脆い頭部を一刀で切り落さんと――
だが≪我鬼≫も黙ってはいない。
牙が粘着質な輝きを放った。肋骨をへし折る音とともにサイの胴に食らいついた。
「グァッ!」
穴の空く肺、押し潰される心臓。
牙が粘着質な輝きを放った。肋骨をへし折る音とともにサイの胴に食らいついた。
「グァッ!」
穴の空く肺、押し潰される心臓。
≪我鬼≫はプールサイドのタイルを蹴った。
悶えるサイを咥え込み、汚水を溜め込んだプールに飛び込んだ。
悶えるサイを咥え込み、汚水を溜め込んだプールに飛び込んだ。
「………っ!」
塩素混じりの水が気管に流れ込む。
水中でも≪我鬼≫はサイの体を離さなかった。硬い水底に押し付け、のしかかりながら牙を深く
食い込ませた。
生命維持に必要な器官をこのまま破壊する気か。
もがく体内の奥深くで、骨と内臓が再生の軋みを上げ始める。一方で虎の顎と体重による圧迫は、
回復する端からミリミリとそれらを押し潰していく。
ブクッと口から気泡が漏れる。
傷口から血が溢れ、プールの澱んだ水を赤黒く汚していく。
この均衡はそう長く保たない。
水中でも≪我鬼≫はサイの体を離さなかった。硬い水底に押し付け、のしかかりながら牙を深く
食い込ませた。
生命維持に必要な器官をこのまま破壊する気か。
もがく体内の奥深くで、骨と内臓が再生の軋みを上げ始める。一方で虎の顎と体重による圧迫は、
回復する端からミリミリとそれらを押し潰していく。
ブクッと口から気泡が漏れる。
傷口から血が溢れ、プールの澱んだ水を赤黒く汚していく。
この均衡はそう長く保たない。
見開いたサイの目に、水面越しに白い月が映った。
涙で滲んだかのように溶け崩れた形だった。
涙で滲んだかのように溶け崩れた形だった。
――ケモノ風情が……
塩素とも血とも違う苦い味が口の中に広がった。
――人間様に……
爪の形状が変異する音は、たゆたう水に遮断された。
生物的な緩やかなカーブから、真っ直ぐな刀剣の形へと。いや数ミリにも満たぬそれは、
剣よりむしろ長大な針。
濁りきった水の底、光届かぬあやふやな視界の中でサイは腕を振り上げた。
金に輝く虎の左眼に、針と化した爪をありったけの力で突き刺した。
水晶体を破壊し、一気に脳髄まで貫く。
虎の口から噴き上がる苦悶の泡。
顎の圧迫が軽くなった。悲鳴を上げる肺と心臓を無視し、水面めがけて一気に浮上。
聞こえていないのも聞こえたとして理解できないのも承知で、憎悪を込めてこう吐き捨てた。
生物的な緩やかなカーブから、真っ直ぐな刀剣の形へと。いや数ミリにも満たぬそれは、
剣よりむしろ長大な針。
濁りきった水の底、光届かぬあやふやな視界の中でサイは腕を振り上げた。
金に輝く虎の左眼に、針と化した爪をありったけの力で突き刺した。
水晶体を破壊し、一気に脳髄まで貫く。
虎の口から噴き上がる苦悶の泡。
顎の圧迫が軽くなった。悲鳴を上げる肺と心臓を無視し、水面めがけて一気に浮上。
聞こえていないのも聞こえたとして理解できないのも承知で、憎悪を込めてこう吐き捨てた。
「……勝てると思うな、ドラ猫がっ!」
プールの中では勝算が薄い。先日アイが言っていた通り、アムール虎は水中でも狩りを行う。
人間を超えた人間であるサイだが、水の中での戦闘はいわばアウェイ、百パーセントの実力は発揮できない。
≪我鬼≫が浮上してくる前に早急に地上に――
人間を超えた人間であるサイだが、水の中での戦闘はいわばアウェイ、百パーセントの実力は発揮できない。
≪我鬼≫が浮上してくる前に早急に地上に――
『サイ、俺です』
「葛西?」
唐突に耳に入ってきたのは放火魔の声だった。
後から来いと言っておいた通り追いかけてきたらしい。
『十秒で水から上がって下さい。危ねぇんで』
「危ない?」
『ええ。……説明は後です、とにかく地上に。できれば濡れてねえ乾いたトコに』
言われなくともそのつもりだ。だが単に不利というだけならともかく、危ないとはどういうことか。
つべこべ考る暇はない。じき金色の巨体が浮かび上がってくる。また水底に引きずり込まれ、同じ
轍を踏むのは御免だった。
プールサイドへとサイは跳躍した。
両の足がタイルを踏んだ瞬間、月灯かりのみの暗闇にオレンジ色の光が走った。
振り向いたサイの目を火照りが焙った。
プールの水面を炎が覆い、高熱の舌を覗かせて燃え盛っていた。
「葛西?」
唐突に耳に入ってきたのは放火魔の声だった。
後から来いと言っておいた通り追いかけてきたらしい。
『十秒で水から上がって下さい。危ねぇんで』
「危ない?」
『ええ。……説明は後です、とにかく地上に。できれば濡れてねえ乾いたトコに』
言われなくともそのつもりだ。だが単に不利というだけならともかく、危ないとはどういうことか。
つべこべ考る暇はない。じき金色の巨体が浮かび上がってくる。また水底に引きずり込まれ、同じ
轍を踏むのは御免だった。
プールサイドへとサイは跳躍した。
両の足がタイルを踏んだ瞬間、月灯かりのみの暗闇にオレンジ色の光が走った。
振り向いたサイの目を火照りが焙った。
プールの水面を炎が覆い、高熱の舌を覗かせて燃え盛っていた。