──その日、キース・レッドは音の洪水の真っただ中にあった。
名前は知らないがとにかく有名そうな楽団が、名前は知らないがとにかく有名そうな曲を大音響で奏でている。
その楽団を指揮する初老の男性は明らかに巨匠然とした重厚な雰囲気を身にまとい、その楽団が生み出す旋律は明らかに高尚な趣を醸し出していた。
しかしクラシックどころか音楽そのものに興味のないレッドにとっては、その最高に贅沢な(だと思われる)演奏も単なるノイズでしかない。
それどころか、生演奏独特の、なんの調整も施されていない複雑怪奇な音波の反響は、レッドのARMS『グリフォン』の振動能力に干渉して彼に不快感を与えていた。
(……あー、うっせーっつーの。音が欲しけりゃCDでも鳴らしてろよ)
彼の頭上から降り注ぐのは、絢爛豪華を絵に描いたようなシャンデリアの放つ輝き。
カクテルグラスを盆に載せたウェイター(あるいはウェイトレス)たちは忙しく彼の前を行き交っている。
本当なら野球くらいはできそうな広さのホールのいたるところに料理の並べられたテーブルが置かれ、その隙間にはとんでもない数の人間がひしめいていた。
そいつらは思い思いの飲み物を片手に、もう片方の手で握手したり口元を隠して笑ったり、そういうあまり実のなさそうな行動を繰り返している。
つまるところ──ここはパーティー会場だった。
(……なんでオレはこんなところにいるんだ?)
血と殺戮の戦闘領域が主な居場所であるレッドには、この生ぬるい空間は馴染みの薄い──まるで異境であった。
いや、これが本当の異境なら……自分にはまるで縁のない世界であるなら、まだ良かった。
そこが自分と無関係であるなら、少しでも嫌気がさしたり飽きがくればいつでもそこから離れることができる。
だが、ここはレッドの世界と地続きの──ワンダーランドなんかでは決してない──紛れのない現実だった。
(くそ……なんでオレがこんなきつい服を着なくちゃならねーんだ)
喉にまとわりつく息苦しさを、身につけたタキシード服のせいにして誤魔化し、レッドは喉元の蝶タイを軽くゆすった。
はるか向こうのほうでは、レッドの兄であるキース・シルバーがいかついツラした高級将校らしき一団に交じってなにかを論じ合っている。
また視線を転じれば、長兄のキース・ブラックの姿も見える。テレビの政見放送や記者会見などでよく見かけるようなこの国の政府高官たちを周囲に侍らせ、
この遠距離からでも上から目線だと知れる頭の高さで輪の中心に君臨していた。
この煌びやかな宴の裏にある政治的・財界的思惑の内実などレッドには知るべくもないが、
この場における兄たちの意図が「とにかくエグリゴリの権力を周りに再確認させてやるのだ」ということくらいは容易に想像できる。
そして同時に、エグリゴリがこの国の政府機関や経済システムに干渉するための各種工作のテーブルでもあることを想像することも可能だった。
そう──このパーティーはエグリゴリが主催するものであり、そしてそれに出席することはれっきとした『任務』だったのだ。
(だからってなんでオレまで……)
エグリゴリを支配するキース・シリーズの一員と言えど、一介のエージェントでありなんの実権も握っていない自分がここにいる理由はないだろうとレッドは思う。
その証拠に、シルバーやブラックと違ってレッドの周囲には誰もいない。それどころか、誰もあえて近づこうとはせず、
なにかの拍子で視線が合っても曖昧な会釈を残してそそくさと立ち去って行ってしまう。
それもそうだろう。このパーティーに参列している者たちは、世界のあらゆるシステムの中枢に食い込んでいるエグリゴリの、
その圧倒的な権力に取り入ろうとしているのであり、現状ではなんの力もないレッドのご機嫌を取る必要など存在しない。
そしてまた、なんの必要もないのに悪名高い『キース・シリーズ』に話しかける物好きなどいるはずもない。
(あー、フケちまうかな……だがブラックになに言われるか分かったもんじゃねーし……)
ホールの壁にもたれかかりながら苛立たしく足踏みをしているレッドの前に、
「どうした、キース・レッド。退屈そうだな。ワンダーランドに紛れ込んだアリスのようだぞ」
長身でとてつもなく屈強で、そして若干不自然な体格の男が立つ。
素人目にはただの奇怪なマッチョにしか映らないだろうが、レッドからすれば一目でそいつが四肢の大部分を機械化しているが故の不自然さだと察知できる。
「……いたよ、物好きが」
そいつはレッドにとって見覚えのある男──エグリゴリ機械化実験部隊(マシンナーズ・プラトゥーン)隊長であり、
自身も最新の高機動型サイボーグであるクラーク・ノイマン少佐だった。
「物好きとは、なんのことだ?」
「なんでもねーよ。つーか、何の用だ?」
レッドと彼との因縁とは、とある機密流出疑惑調査のために彼と接触し、ちょっとしたゴタゴタを引き起こしたというだけの間柄である。
レッドにとっては、自身が装着するARMS『グリフォン』の特殊能力「振動」を体得するきっかけとなった相手なので、殊に印象深い人物であるが。
「用は特に無いな。ただお前がパーティーの楽しみ方を知らないようなので、人生の先達として忠告に来ただけだ」
「んなもんいらねーよ」
「ならばこういうのはどうだ? 将来のエグリゴリ最高幹部たるミスター・レッドとのパイプを確保するためご機嫌伺いに参上した、とな」
「アホか? そういうのをな、『取らぬ熊の皮を売る』って言うんだぜ」
「ふん、仮定された可能性における現在への遡及性に対する警句だな。『十二歳のジミー・カーターに三軍の統帥権はあるか?』という問題を知っているか?」
「うざってえな、人間語をしゃべれ。今のがパーティージョークだったら他所でやれよ」
目つきを険しくして「しっしっ」と手を払うレッドへ、クラークは鷹揚に肩をそびやかしてみせた。
「冗談はさておき、現実としてお前はエグリゴリの幹部候補だ。今のうちから仲良くしておくのが先見の明というものだ。違うか?
そしてなにより、お前は私が認めた戦士だ。勇敢な戦士には敬意を払うのが我々のやり方だ」
その無造作な言葉の裏にある掛け値なしの真摯さを感じ取りながらも、レッドはあえて「へっ」とひねくれた笑いを洩らす。
「……そりゃ、ますます物好きなこって」
クラークはそんなレッドの無作法にも特に気分を害した様子を見せず、黙って口元に渋い笑みを浮かべる。
「んだよ、なに笑ってんだ」
「さて、な──」
それきりクラークはレッドから視線を外し、会場全体を視野に入れて人々の動きを眺めている。
それはまるで戦況を眺める戦士の眼差しにも似ていて、これ以上会話を盛り上げる意思は無いように感じられる。
もちろんレッドにはパーティー向けの小話のストックなどというものは持ち合わせていないので、自分の方からこの無言状態を打破することは不可能であった。
この居心地の悪さを甘受し続けねばならぬ己の不運を深く呪い、またそんな任務を己に課したブラックを深く怨む。
しかし他にできることはないので、クラークの隣に突っ立ったまま、レッドは深く溜め息をついた。
(まったく……大した戦場だぜ)
喧噪のなかに漂う、そんな奇妙な沈黙がしばらく続いた後だった。
「……あの少女はどうしている?」
ぽつりと、クラークは呟いた。
「あ? 誰だって?」
「キース・セピアだ」
「ああ……」
言われてレッドは思い至る。
自分が兄の指令によりこのパーティーに出席しているのだから、当然にしてキース・シリーズの末妹であるセピアもここにいるはずだということに。
だが──会場内に視線を巡らせても彼女の姿は見えない。
人の波の中にあっても、なお凛々しげな風情で立つキース・シリーズの第三席、キース・バイオレットを見つけた。
そして坊ちゃん育ちの高慢さを全力で放射中のキース・グリーンの得意満面も見た。
しかし、あのボブカットで眼鏡をかけた女性型の『キース』だけは……あの日、二人で暗いトンネルを歩いた日、風の出口まで連れ添ったあの『キース』、
『本当の名前』を「セーラ」と名乗ったあの少女の姿だけは……見つけられなかった。
セピアを求めて彷徨う視線が、遠く離れた場所に立つブラックとかちあう。
不意に視線を逸らしたい衝動に駆られたが、こちらから目を伏せるのは「負け」のような気がして、逆にブラックの瞳を睨みつける。
そんなレッドの挑戦的な眼つきに、ブラックは目を細めて穏やかな視線を返していた。
そのことに、レッドは訳もなく不安を感じる。
その不安の根源が、レッドには理解できなかった。
もしかしたら、ブラックがまた良からぬことを企んでいるのかもという危惧だったのかも知れない。
或いは、兄に対して抱いている憎しみが空回りしていることへの虚しさかも知れない。
レッドがどれだけブラックに怒りを募らせても、当人はまるでそれを意に介していない。
キース・ブラック──あの掴みどころのない長兄は、自分のことをどう思っているのか。
そして、自分は彼をどう思っているのか。彼に対して持つべき感情が憎しみでも怒りでもないのだとしたら、どういう心で彼と向き合うべきなのか。
キース・レッドは、キース・ブラックのことをどう思いたいと思っているのか──。
「……どうした、キース・レッド」
自分でもよく分からない葛藤の渦の中にあったレッドは、その言葉で現実に引き戻される。
頭を振って、袋小路の思索を脳裏から振り払った。
「別に。なんでもねーよ」
ふと気づくと、ブラックはすでにレッドのほうを見ていなかった。周囲を取り囲む男たちに向って、何事かを述べている。
また、理由のない苛立ちが胸にこみ上げる。
それはセピアの言動に触発される苛立ちとは別のようであり、また似ているようでもあった。
(くそ、なんだってんだ……なんでこんなにムカついてんだ、オレは……)
「『なんでもない』、か……だがキース・レッド、そんな険しい顔をしていては説得力に欠けるぞ」
「うるせーよ。このツラは生まれつきだ」
「そうかね? それでも自ら進んで不機嫌そうな顔をすることはあるまい。この華やかな場に相応しくないと思わないか?」
「それを言うなら、そもそもオレやあんたみてーな殺人機械がこんな場所にいるのが間違ってんだよ。
てめーもとっととエグリゴリの敵を殺して回る仕事に戻れよ。あんたらポンコツサイボーグはそんくれーしか役に立たねえだろうが」
このときレッドがクラーク・ノイマン中佐に伝えたかったことは、「ちょっと考え事してるから一人にしておいてくれ」という、たったそれだけのことに過ぎなかった。
胸に渦巻く苛立ちの原因をつかめないことが更なる苛立ちを呼び、そんな悪循環で神経を尖らせていたレッドは、
それが不必要なことであると知りながらも、内から膨れ上がる悪感情に任せ、相手を貶して挑発するような言い方をする。
だが、クラーク・ノイマン少佐は乗らない。
「そうだな……我々には我々の戦場がある。こんな夜会服は性に合わんのが本音だ。しかし、社交界に別れを告げる前に用件だけは済ませなければな」
「……用件?」
話の文脈から外れた単語が飛び出したことを訝しむレッドが隣を向こうとすると、
「動くな。そのままで聞け。我々は監視されている」
誰に? という言葉が喉元までせりあがり、それを慌てて飲み下す。
「お前に伝えることは二つある。ひとつ。身体には気をつけろ。『エクスペリメンテーション・グリフォン』はすでに始動している」
なんの前触れもなく、自分のARMS『グリフォン』の名前を聞かされたことで度肝を抜かれた。
こいつはなにを言っている? 『エクスペリメンテーション・グリフォン』?
そんなレッドの動揺にお構いなく、クラーク・ノイマン少佐は先を続ける、
「ふたつ。その際、特に注意しなければならないのは、キース──」
その声が途中で止まった。
「……やれやれ、どうやら時間切れだ」
苦笑交じりの溜息を残して、少佐は背中を預けていた壁から離れる。
そのまま、レッドを残してパーティー会場の人ごみの中に進んでゆく。
「おい、どういうことだ」
「そのままの意味だ。歓談の時間は終わりということだ。シンデレラの魔法が切れる時間と言い換えてもいい」
それはおそらく、少佐が事前になんらかの形で施していた対諜処置が効果を失い、これ以上を話すのは危険になった、そういう意味なのだろう。
だが、レッドが聞きたかったのはそういうことではなかった。
つまり「最後まで言っていけ」、「何色のキースに気をつけりゃいいのか」、それをこそ知りたかったのだが、
その疑問が形となって口から洩れるその前に、
「さらばだ、キース・レッド。良い夜を」
レッドに背を向けて無造作に片手を振るその仕草、大雑把で無骨な後ろ姿は、そんなレッドの無思慮を無言で諫めていた。
名前は知らないがとにかく有名そうな楽団が、名前は知らないがとにかく有名そうな曲を大音響で奏でている。
その楽団を指揮する初老の男性は明らかに巨匠然とした重厚な雰囲気を身にまとい、その楽団が生み出す旋律は明らかに高尚な趣を醸し出していた。
しかしクラシックどころか音楽そのものに興味のないレッドにとっては、その最高に贅沢な(だと思われる)演奏も単なるノイズでしかない。
それどころか、生演奏独特の、なんの調整も施されていない複雑怪奇な音波の反響は、レッドのARMS『グリフォン』の振動能力に干渉して彼に不快感を与えていた。
(……あー、うっせーっつーの。音が欲しけりゃCDでも鳴らしてろよ)
彼の頭上から降り注ぐのは、絢爛豪華を絵に描いたようなシャンデリアの放つ輝き。
カクテルグラスを盆に載せたウェイター(あるいはウェイトレス)たちは忙しく彼の前を行き交っている。
本当なら野球くらいはできそうな広さのホールのいたるところに料理の並べられたテーブルが置かれ、その隙間にはとんでもない数の人間がひしめいていた。
そいつらは思い思いの飲み物を片手に、もう片方の手で握手したり口元を隠して笑ったり、そういうあまり実のなさそうな行動を繰り返している。
つまるところ──ここはパーティー会場だった。
(……なんでオレはこんなところにいるんだ?)
血と殺戮の戦闘領域が主な居場所であるレッドには、この生ぬるい空間は馴染みの薄い──まるで異境であった。
いや、これが本当の異境なら……自分にはまるで縁のない世界であるなら、まだ良かった。
そこが自分と無関係であるなら、少しでも嫌気がさしたり飽きがくればいつでもそこから離れることができる。
だが、ここはレッドの世界と地続きの──ワンダーランドなんかでは決してない──紛れのない現実だった。
(くそ……なんでオレがこんなきつい服を着なくちゃならねーんだ)
喉にまとわりつく息苦しさを、身につけたタキシード服のせいにして誤魔化し、レッドは喉元の蝶タイを軽くゆすった。
はるか向こうのほうでは、レッドの兄であるキース・シルバーがいかついツラした高級将校らしき一団に交じってなにかを論じ合っている。
また視線を転じれば、長兄のキース・ブラックの姿も見える。テレビの政見放送や記者会見などでよく見かけるようなこの国の政府高官たちを周囲に侍らせ、
この遠距離からでも上から目線だと知れる頭の高さで輪の中心に君臨していた。
この煌びやかな宴の裏にある政治的・財界的思惑の内実などレッドには知るべくもないが、
この場における兄たちの意図が「とにかくエグリゴリの権力を周りに再確認させてやるのだ」ということくらいは容易に想像できる。
そして同時に、エグリゴリがこの国の政府機関や経済システムに干渉するための各種工作のテーブルでもあることを想像することも可能だった。
そう──このパーティーはエグリゴリが主催するものであり、そしてそれに出席することはれっきとした『任務』だったのだ。
(だからってなんでオレまで……)
エグリゴリを支配するキース・シリーズの一員と言えど、一介のエージェントでありなんの実権も握っていない自分がここにいる理由はないだろうとレッドは思う。
その証拠に、シルバーやブラックと違ってレッドの周囲には誰もいない。それどころか、誰もあえて近づこうとはせず、
なにかの拍子で視線が合っても曖昧な会釈を残してそそくさと立ち去って行ってしまう。
それもそうだろう。このパーティーに参列している者たちは、世界のあらゆるシステムの中枢に食い込んでいるエグリゴリの、
その圧倒的な権力に取り入ろうとしているのであり、現状ではなんの力もないレッドのご機嫌を取る必要など存在しない。
そしてまた、なんの必要もないのに悪名高い『キース・シリーズ』に話しかける物好きなどいるはずもない。
(あー、フケちまうかな……だがブラックになに言われるか分かったもんじゃねーし……)
ホールの壁にもたれかかりながら苛立たしく足踏みをしているレッドの前に、
「どうした、キース・レッド。退屈そうだな。ワンダーランドに紛れ込んだアリスのようだぞ」
長身でとてつもなく屈強で、そして若干不自然な体格の男が立つ。
素人目にはただの奇怪なマッチョにしか映らないだろうが、レッドからすれば一目でそいつが四肢の大部分を機械化しているが故の不自然さだと察知できる。
「……いたよ、物好きが」
そいつはレッドにとって見覚えのある男──エグリゴリ機械化実験部隊(マシンナーズ・プラトゥーン)隊長であり、
自身も最新の高機動型サイボーグであるクラーク・ノイマン少佐だった。
「物好きとは、なんのことだ?」
「なんでもねーよ。つーか、何の用だ?」
レッドと彼との因縁とは、とある機密流出疑惑調査のために彼と接触し、ちょっとしたゴタゴタを引き起こしたというだけの間柄である。
レッドにとっては、自身が装着するARMS『グリフォン』の特殊能力「振動」を体得するきっかけとなった相手なので、殊に印象深い人物であるが。
「用は特に無いな。ただお前がパーティーの楽しみ方を知らないようなので、人生の先達として忠告に来ただけだ」
「んなもんいらねーよ」
「ならばこういうのはどうだ? 将来のエグリゴリ最高幹部たるミスター・レッドとのパイプを確保するためご機嫌伺いに参上した、とな」
「アホか? そういうのをな、『取らぬ熊の皮を売る』って言うんだぜ」
「ふん、仮定された可能性における現在への遡及性に対する警句だな。『十二歳のジミー・カーターに三軍の統帥権はあるか?』という問題を知っているか?」
「うざってえな、人間語をしゃべれ。今のがパーティージョークだったら他所でやれよ」
目つきを険しくして「しっしっ」と手を払うレッドへ、クラークは鷹揚に肩をそびやかしてみせた。
「冗談はさておき、現実としてお前はエグリゴリの幹部候補だ。今のうちから仲良くしておくのが先見の明というものだ。違うか?
そしてなにより、お前は私が認めた戦士だ。勇敢な戦士には敬意を払うのが我々のやり方だ」
その無造作な言葉の裏にある掛け値なしの真摯さを感じ取りながらも、レッドはあえて「へっ」とひねくれた笑いを洩らす。
「……そりゃ、ますます物好きなこって」
クラークはそんなレッドの無作法にも特に気分を害した様子を見せず、黙って口元に渋い笑みを浮かべる。
「んだよ、なに笑ってんだ」
「さて、な──」
それきりクラークはレッドから視線を外し、会場全体を視野に入れて人々の動きを眺めている。
それはまるで戦況を眺める戦士の眼差しにも似ていて、これ以上会話を盛り上げる意思は無いように感じられる。
もちろんレッドにはパーティー向けの小話のストックなどというものは持ち合わせていないので、自分の方からこの無言状態を打破することは不可能であった。
この居心地の悪さを甘受し続けねばならぬ己の不運を深く呪い、またそんな任務を己に課したブラックを深く怨む。
しかし他にできることはないので、クラークの隣に突っ立ったまま、レッドは深く溜め息をついた。
(まったく……大した戦場だぜ)
喧噪のなかに漂う、そんな奇妙な沈黙がしばらく続いた後だった。
「……あの少女はどうしている?」
ぽつりと、クラークは呟いた。
「あ? 誰だって?」
「キース・セピアだ」
「ああ……」
言われてレッドは思い至る。
自分が兄の指令によりこのパーティーに出席しているのだから、当然にしてキース・シリーズの末妹であるセピアもここにいるはずだということに。
だが──会場内に視線を巡らせても彼女の姿は見えない。
人の波の中にあっても、なお凛々しげな風情で立つキース・シリーズの第三席、キース・バイオレットを見つけた。
そして坊ちゃん育ちの高慢さを全力で放射中のキース・グリーンの得意満面も見た。
しかし、あのボブカットで眼鏡をかけた女性型の『キース』だけは……あの日、二人で暗いトンネルを歩いた日、風の出口まで連れ添ったあの『キース』、
『本当の名前』を「セーラ」と名乗ったあの少女の姿だけは……見つけられなかった。
セピアを求めて彷徨う視線が、遠く離れた場所に立つブラックとかちあう。
不意に視線を逸らしたい衝動に駆られたが、こちらから目を伏せるのは「負け」のような気がして、逆にブラックの瞳を睨みつける。
そんなレッドの挑戦的な眼つきに、ブラックは目を細めて穏やかな視線を返していた。
そのことに、レッドは訳もなく不安を感じる。
その不安の根源が、レッドには理解できなかった。
もしかしたら、ブラックがまた良からぬことを企んでいるのかもという危惧だったのかも知れない。
或いは、兄に対して抱いている憎しみが空回りしていることへの虚しさかも知れない。
レッドがどれだけブラックに怒りを募らせても、当人はまるでそれを意に介していない。
キース・ブラック──あの掴みどころのない長兄は、自分のことをどう思っているのか。
そして、自分は彼をどう思っているのか。彼に対して持つべき感情が憎しみでも怒りでもないのだとしたら、どういう心で彼と向き合うべきなのか。
キース・レッドは、キース・ブラックのことをどう思いたいと思っているのか──。
「……どうした、キース・レッド」
自分でもよく分からない葛藤の渦の中にあったレッドは、その言葉で現実に引き戻される。
頭を振って、袋小路の思索を脳裏から振り払った。
「別に。なんでもねーよ」
ふと気づくと、ブラックはすでにレッドのほうを見ていなかった。周囲を取り囲む男たちに向って、何事かを述べている。
また、理由のない苛立ちが胸にこみ上げる。
それはセピアの言動に触発される苛立ちとは別のようであり、また似ているようでもあった。
(くそ、なんだってんだ……なんでこんなにムカついてんだ、オレは……)
「『なんでもない』、か……だがキース・レッド、そんな険しい顔をしていては説得力に欠けるぞ」
「うるせーよ。このツラは生まれつきだ」
「そうかね? それでも自ら進んで不機嫌そうな顔をすることはあるまい。この華やかな場に相応しくないと思わないか?」
「それを言うなら、そもそもオレやあんたみてーな殺人機械がこんな場所にいるのが間違ってんだよ。
てめーもとっととエグリゴリの敵を殺して回る仕事に戻れよ。あんたらポンコツサイボーグはそんくれーしか役に立たねえだろうが」
このときレッドがクラーク・ノイマン中佐に伝えたかったことは、「ちょっと考え事してるから一人にしておいてくれ」という、たったそれだけのことに過ぎなかった。
胸に渦巻く苛立ちの原因をつかめないことが更なる苛立ちを呼び、そんな悪循環で神経を尖らせていたレッドは、
それが不必要なことであると知りながらも、内から膨れ上がる悪感情に任せ、相手を貶して挑発するような言い方をする。
だが、クラーク・ノイマン少佐は乗らない。
「そうだな……我々には我々の戦場がある。こんな夜会服は性に合わんのが本音だ。しかし、社交界に別れを告げる前に用件だけは済ませなければな」
「……用件?」
話の文脈から外れた単語が飛び出したことを訝しむレッドが隣を向こうとすると、
「動くな。そのままで聞け。我々は監視されている」
誰に? という言葉が喉元までせりあがり、それを慌てて飲み下す。
「お前に伝えることは二つある。ひとつ。身体には気をつけろ。『エクスペリメンテーション・グリフォン』はすでに始動している」
なんの前触れもなく、自分のARMS『グリフォン』の名前を聞かされたことで度肝を抜かれた。
こいつはなにを言っている? 『エクスペリメンテーション・グリフォン』?
そんなレッドの動揺にお構いなく、クラーク・ノイマン少佐は先を続ける、
「ふたつ。その際、特に注意しなければならないのは、キース──」
その声が途中で止まった。
「……やれやれ、どうやら時間切れだ」
苦笑交じりの溜息を残して、少佐は背中を預けていた壁から離れる。
そのまま、レッドを残してパーティー会場の人ごみの中に進んでゆく。
「おい、どういうことだ」
「そのままの意味だ。歓談の時間は終わりということだ。シンデレラの魔法が切れる時間と言い換えてもいい」
それはおそらく、少佐が事前になんらかの形で施していた対諜処置が効果を失い、これ以上を話すのは危険になった、そういう意味なのだろう。
だが、レッドが聞きたかったのはそういうことではなかった。
つまり「最後まで言っていけ」、「何色のキースに気をつけりゃいいのか」、それをこそ知りたかったのだが、
その疑問が形となって口から洩れるその前に、
「さらばだ、キース・レッド。良い夜を」
レッドに背を向けて無造作に片手を振るその仕草、大雑把で無骨な後ろ姿は、そんなレッドの無思慮を無言で諫めていた。
月の奇麗な夜だった。
パーティー会場の騒々しさに音をあげ、無性に静けさが欲しくなったレッドは、そこを抜け出すことを決意した。
その逃避先として選んだのが、カリヨンタワーの最上層、ヘリポートを兼ねた広大な屋上だった。
はるか下の足元で今も続いているはずの宴の熱気も、ここまでは届いていない。
冷涼な夜風に頬を撫でさせながら、レッドは眼下に広がる百万ドルの夜景として名高いニューヨーク市街のネオンライトを眺めていた。
喉を締め付ける蝶タイを放り捨て、シャツのボタンの上二つを外し、やっと人心地のついた風情で息を吐く。
「ったく……」
これって任務放棄になるのか? という疑問が胸中に去来し、誰かに一言残しておくべきだったかと微かに後悔する。
と言っても、いったい誰に断わりを入れるべきだったのか。
ブラックに対してはハナから問題外で、シルバーに言えば無下に却下されることは明白で、変なところでお堅いバイオレットにも気が引ける。
グリーンに申し出ようものなら……「ああ、いいとも。君みたいな戦闘狂にはこの文化的で知性と教養が要求される環境は辛いだろう。
君の社交界デビューが失敗に終わっても誰も君を責めないさ。ここは僕に任せるといいよ。ふふん」
とかなんとか彼の屈託のない無遠慮な嘲笑に拳で応えそうな気がした。
となると、セピアくらいしかいないわけだが……。
「いないんじゃ話になんねーしな──」
ごしゃごしゃと髪を掻き毟る手を、ふと止める。腕を掲げ、月の光に照らしてみた。
この腕は普通の腕ではない。
腕の形を模してはいるが、微細な機械群の集合体、ナノマシン兵器『ARMS』なのだ。
そのコードネームは『グリフォン』。
装着者、すなわちレッドの意志に呼応して自在に形態を変え、敵を殺す。
だが──、
「『エクスペリメンテーション・グリフォン』だと? くそったれ、なんの冗談だ?」
レッドの意志とはかけ離れた『なにか』が、『グリフォン』を操ろうとしている、らしい。
クラーク・ノイマン少佐のもたらしたその単語は……まるで、レッドこそが『グリフォン』のためのパーツに過ぎないのだと、
エグリゴリにとってはキース・レッドなどただの歯車の一つに過ぎないのだと、そう囁く呪詛のように響く。
(誰が、なにをしようとしているんだ?)
まっとうに考えるなら、最高責任者のブラックが噛んでいるのだと想像できる。
だが、その情報を伝えに来たのがクラーク・ノイマン少佐であることも考えに入れるなら、軍事関係にコネクションを持つシルバーを疑うこともできる。
いや……疑ってしまうなら、バイオレットすら同様だ。『エクスペリメンテーション(実験計画)』──彼女はエグリゴリ内外、特に各種研究所に幅広い人脈を持っている。
『すでに始動している』、彼はそのように言っていた。
つまり、徴は目に見える部分に顕れているのだろうか?
セピアの情報制御用ARMS『モックタートル』が暴走しかけた事件は記憶に新しい。
あれもまた、誰かの差し金で人為的に誘発されたことなのだろうか?
最高顧問であるドクター・ティリングハーストはその計画についてなにかを知っているのだろうか?
(くそ、頭ん中ごちゃごちゃでまとまんねえ……!)
服を緩めてもなお苛まれる息苦しさに、レッドは叫び出したくなる。
この世界は、いったい自分をどこへ連れて行こうとしているのか、と。
「──いい夜だな、レッド」
背後で、静かな声がした。
不用意に接近された迂闊さよりも、その聞き覚えのある声への驚きが先に立つ。
「あんた……!」
月の光の陰、その薄闇に溶けるように、黒く、音もなく、床から立ち上がった影のように、無機質ともいえる佇まいで彼はそこにいた。
「私も少々、人いきれに当てられてね。気分転換に来たのだ」
キース・ブラックその人だった。
パーティー会場の騒々しさに音をあげ、無性に静けさが欲しくなったレッドは、そこを抜け出すことを決意した。
その逃避先として選んだのが、カリヨンタワーの最上層、ヘリポートを兼ねた広大な屋上だった。
はるか下の足元で今も続いているはずの宴の熱気も、ここまでは届いていない。
冷涼な夜風に頬を撫でさせながら、レッドは眼下に広がる百万ドルの夜景として名高いニューヨーク市街のネオンライトを眺めていた。
喉を締め付ける蝶タイを放り捨て、シャツのボタンの上二つを外し、やっと人心地のついた風情で息を吐く。
「ったく……」
これって任務放棄になるのか? という疑問が胸中に去来し、誰かに一言残しておくべきだったかと微かに後悔する。
と言っても、いったい誰に断わりを入れるべきだったのか。
ブラックに対してはハナから問題外で、シルバーに言えば無下に却下されることは明白で、変なところでお堅いバイオレットにも気が引ける。
グリーンに申し出ようものなら……「ああ、いいとも。君みたいな戦闘狂にはこの文化的で知性と教養が要求される環境は辛いだろう。
君の社交界デビューが失敗に終わっても誰も君を責めないさ。ここは僕に任せるといいよ。ふふん」
とかなんとか彼の屈託のない無遠慮な嘲笑に拳で応えそうな気がした。
となると、セピアくらいしかいないわけだが……。
「いないんじゃ話になんねーしな──」
ごしゃごしゃと髪を掻き毟る手を、ふと止める。腕を掲げ、月の光に照らしてみた。
この腕は普通の腕ではない。
腕の形を模してはいるが、微細な機械群の集合体、ナノマシン兵器『ARMS』なのだ。
そのコードネームは『グリフォン』。
装着者、すなわちレッドの意志に呼応して自在に形態を変え、敵を殺す。
だが──、
「『エクスペリメンテーション・グリフォン』だと? くそったれ、なんの冗談だ?」
レッドの意志とはかけ離れた『なにか』が、『グリフォン』を操ろうとしている、らしい。
クラーク・ノイマン少佐のもたらしたその単語は……まるで、レッドこそが『グリフォン』のためのパーツに過ぎないのだと、
エグリゴリにとってはキース・レッドなどただの歯車の一つに過ぎないのだと、そう囁く呪詛のように響く。
(誰が、なにをしようとしているんだ?)
まっとうに考えるなら、最高責任者のブラックが噛んでいるのだと想像できる。
だが、その情報を伝えに来たのがクラーク・ノイマン少佐であることも考えに入れるなら、軍事関係にコネクションを持つシルバーを疑うこともできる。
いや……疑ってしまうなら、バイオレットすら同様だ。『エクスペリメンテーション(実験計画)』──彼女はエグリゴリ内外、特に各種研究所に幅広い人脈を持っている。
『すでに始動している』、彼はそのように言っていた。
つまり、徴は目に見える部分に顕れているのだろうか?
セピアの情報制御用ARMS『モックタートル』が暴走しかけた事件は記憶に新しい。
あれもまた、誰かの差し金で人為的に誘発されたことなのだろうか?
最高顧問であるドクター・ティリングハーストはその計画についてなにかを知っているのだろうか?
(くそ、頭ん中ごちゃごちゃでまとまんねえ……!)
服を緩めてもなお苛まれる息苦しさに、レッドは叫び出したくなる。
この世界は、いったい自分をどこへ連れて行こうとしているのか、と。
「──いい夜だな、レッド」
背後で、静かな声がした。
不用意に接近された迂闊さよりも、その聞き覚えのある声への驚きが先に立つ。
「あんた……!」
月の光の陰、その薄闇に溶けるように、黒く、音もなく、床から立ち上がった影のように、無機質ともいえる佇まいで彼はそこにいた。
「私も少々、人いきれに当てられてね。気分転換に来たのだ」
キース・ブラックその人だった。
「最近、調子はどうだ?」
「……別に」
「『タイ・マスク』文書の件は良くやってくれた。お前の報告書にあった襲撃者は、『風(ウィンド)』と呼ばれる凄腕の傭兵だ。
文書の内容を一部リークしてしまったのは残念だが、それでお前とセピアが無事に戻って来たのならそれで私は満足だ。
……私はそのとき、敵性組織の手に落ちたままだった重要な実験所の奪回作戦を指揮していたので、お前たちを助けに向かうことは出来なかった。
そんな状況でも、お前とセピアは自らの力で生還を果たした。そのことが私にはなによりも嬉しい」
「……別に」
あのブラックと並んで立っていることがレッドには信じられなかった。
普段のブラックとレッドは、あの執務室の上座と下座の……要するに、王様の下知を拝命する家来、そういう位置関係だったのだから。
「さっき、クラーク・ノイマン少佐となにごとかを話していたな」
「あんたにゃ関係ないだろ」
「かも知れないな。だが……いや、やめておこう。これ以上聞くと、私はエグリゴリの責任者としてお前と彼を処罰しなければならなくなる。
それはエグリゴリにとっても、私にとっても、大きな損失だ」
「なんでもお見通しでござい、ってか」
「そう言うな。心配なのだよ、兄としてな」
なにか、妙な気分だった。
いつもブラックに対してはぞんざいな口をきいているレッドだったが、それは権威を振りかざすブラックへの
(正確に言うなら、そう感じさせるエグリゴリの体質への)反発心がそうさせているだけのことだ。
だが、今ここでは、そんな感じはしない。
あくまで対等に、同じ目線でブラックは語りかけている。
そのいつもとは違う雰囲気に戸惑って、レッドはぶっきらぼうに応えている。
そう、この感じは以前にも覚えがある。
それは、キース・セピアと出会い、彼女のキースらしからぬ振る舞いに対してぶっきらぼうに応えていたときに。
「……あんた、オレになにをさせたいんだ?」
「どういう意味だ?」
「とぼけるなよ、あんたなんだろ。オレのグリフォンをどうこうしようって裏でコソコソしてんのは」
「ああ、そのことか……」
ブラックは言葉を切り、月を見上げた。
そうするつもりはまったくなかったのだが、レッドもつられて同じ月を見る。
月面のクレーターの陰が、レッドには人の顔に見えた。
「──私は、お前に強くなって欲しいと思っている」
「すべては我等が母『アリス』のために、だろ。耳タコだっつの」
「そうだ。だが──」
「だが、なんだよ」
「お前は我等キース・シリーズの希望だ」
「はあ?」
「そう、お前に過酷な任務を与え続けることに疑問が無いわけではない。しかし、これは試練なのだ。
私たちは皆、試験管の中から生まれた合成生物だ。はじめから行くべき道をプログラムされた存在にすぎない。
それは私とて例外ではない。だが、歯車に歯車の意地がある。
与えられた運命を全うし、その先へ進むことで、見えてくるものもある」
風が少し強くなった。空の雲は流れ、星を隠す。
そのせいで、月はよりいっそうの輝きで二人の頭上に振り注いでいた。
「それは細い道だ。足を踏み外せばそこには死が待っている。私も、お前も、全てのキースも、その屍の道の上に立っている」
「……オレもいずれはその道の仲間入りにしようってんだろ」
「そうなるのかも知れない。ならないのかも知れない。私は、私の行っていることの罪深さは自覚しているつもりだ。
だが、これだけは言える。私は、お前たちすべての兄弟を心から愛している」
なんと答えればいいのか、レッドには見当もつかなかった。
これまでのひねた口ぶりで混ぜっ返すのは、容易い。
だが、レッドの奥底はそれを拒んでいた。
言葉を見つけられないまま、雲の動きを眺める。
「…………」
これまでレッドは戦い続けてきた。これからも戦い続けるだろう。
その果てになにがあるのか、レッドは知らない。
しかし、ブラックはその『先』を見ているのだろうか。
レッドの血みどろの戦いも、セピアの哀しみも、数々の非人道的実験も、すべては『なにか』に……本当に価値のある事柄に繋がっているのだろうか。
屍となって道を作るに値する、『本当のもの』が。
「あの、よ」
「なんだ、レッド」
「セピアのARMSの起動実験も、あんたの指示だったのか?」
聞くも愚かなことだった。
エグリゴリの活動の根幹を成すARMSについて、ブラックが関わっていないことなど皆無のはずである。
そう、セピアの心を傷つけ、カラーネームを与えられる前に死んでいった少女──「シャーロット」の事故についても、ブラックは知っているはずである。
「実験……?」
月の光に目が眩んでいるかのように、ブラックは眉を寄せてレッドを見る。顔をしかめて手を額に当てまでした。
「だからよ、セピアの『モックタートル』が暴走してシャーロットのARMSを侵食した事故だよ。あんた、そうなるって知ってて、わざとやったんだろ?」
──このときのレッドには、怒りも憎しみも無かった。
ただ、確かめたかった。
セピアが語って聞かせたお伽噺が、過去に起こった現実であるということを。
それは必要なことだとレッドには思われた。セピアときちんと向き合うために。
そして、ブラックと正面から向き合うために。
これまでの関係を踏まえ、そして、その先を……。
「……なんのことだ?」
ブラックが頭を微かに振る。
「なんのことって、おい──」
月が雲に隠れ、ブラックの表情が陰った。
それはわずかな間のことで、それと思った次の瞬間には、ブラックの顔が再び月に照らされる。
「分からないな、レッド……」
「なに……?」
「……別に」
「『タイ・マスク』文書の件は良くやってくれた。お前の報告書にあった襲撃者は、『風(ウィンド)』と呼ばれる凄腕の傭兵だ。
文書の内容を一部リークしてしまったのは残念だが、それでお前とセピアが無事に戻って来たのならそれで私は満足だ。
……私はそのとき、敵性組織の手に落ちたままだった重要な実験所の奪回作戦を指揮していたので、お前たちを助けに向かうことは出来なかった。
そんな状況でも、お前とセピアは自らの力で生還を果たした。そのことが私にはなによりも嬉しい」
「……別に」
あのブラックと並んで立っていることがレッドには信じられなかった。
普段のブラックとレッドは、あの執務室の上座と下座の……要するに、王様の下知を拝命する家来、そういう位置関係だったのだから。
「さっき、クラーク・ノイマン少佐となにごとかを話していたな」
「あんたにゃ関係ないだろ」
「かも知れないな。だが……いや、やめておこう。これ以上聞くと、私はエグリゴリの責任者としてお前と彼を処罰しなければならなくなる。
それはエグリゴリにとっても、私にとっても、大きな損失だ」
「なんでもお見通しでござい、ってか」
「そう言うな。心配なのだよ、兄としてな」
なにか、妙な気分だった。
いつもブラックに対してはぞんざいな口をきいているレッドだったが、それは権威を振りかざすブラックへの
(正確に言うなら、そう感じさせるエグリゴリの体質への)反発心がそうさせているだけのことだ。
だが、今ここでは、そんな感じはしない。
あくまで対等に、同じ目線でブラックは語りかけている。
そのいつもとは違う雰囲気に戸惑って、レッドはぶっきらぼうに応えている。
そう、この感じは以前にも覚えがある。
それは、キース・セピアと出会い、彼女のキースらしからぬ振る舞いに対してぶっきらぼうに応えていたときに。
「……あんた、オレになにをさせたいんだ?」
「どういう意味だ?」
「とぼけるなよ、あんたなんだろ。オレのグリフォンをどうこうしようって裏でコソコソしてんのは」
「ああ、そのことか……」
ブラックは言葉を切り、月を見上げた。
そうするつもりはまったくなかったのだが、レッドもつられて同じ月を見る。
月面のクレーターの陰が、レッドには人の顔に見えた。
「──私は、お前に強くなって欲しいと思っている」
「すべては我等が母『アリス』のために、だろ。耳タコだっつの」
「そうだ。だが──」
「だが、なんだよ」
「お前は我等キース・シリーズの希望だ」
「はあ?」
「そう、お前に過酷な任務を与え続けることに疑問が無いわけではない。しかし、これは試練なのだ。
私たちは皆、試験管の中から生まれた合成生物だ。はじめから行くべき道をプログラムされた存在にすぎない。
それは私とて例外ではない。だが、歯車に歯車の意地がある。
与えられた運命を全うし、その先へ進むことで、見えてくるものもある」
風が少し強くなった。空の雲は流れ、星を隠す。
そのせいで、月はよりいっそうの輝きで二人の頭上に振り注いでいた。
「それは細い道だ。足を踏み外せばそこには死が待っている。私も、お前も、全てのキースも、その屍の道の上に立っている」
「……オレもいずれはその道の仲間入りにしようってんだろ」
「そうなるのかも知れない。ならないのかも知れない。私は、私の行っていることの罪深さは自覚しているつもりだ。
だが、これだけは言える。私は、お前たちすべての兄弟を心から愛している」
なんと答えればいいのか、レッドには見当もつかなかった。
これまでのひねた口ぶりで混ぜっ返すのは、容易い。
だが、レッドの奥底はそれを拒んでいた。
言葉を見つけられないまま、雲の動きを眺める。
「…………」
これまでレッドは戦い続けてきた。これからも戦い続けるだろう。
その果てになにがあるのか、レッドは知らない。
しかし、ブラックはその『先』を見ているのだろうか。
レッドの血みどろの戦いも、セピアの哀しみも、数々の非人道的実験も、すべては『なにか』に……本当に価値のある事柄に繋がっているのだろうか。
屍となって道を作るに値する、『本当のもの』が。
「あの、よ」
「なんだ、レッド」
「セピアのARMSの起動実験も、あんたの指示だったのか?」
聞くも愚かなことだった。
エグリゴリの活動の根幹を成すARMSについて、ブラックが関わっていないことなど皆無のはずである。
そう、セピアの心を傷つけ、カラーネームを与えられる前に死んでいった少女──「シャーロット」の事故についても、ブラックは知っているはずである。
「実験……?」
月の光に目が眩んでいるかのように、ブラックは眉を寄せてレッドを見る。顔をしかめて手を額に当てまでした。
「だからよ、セピアの『モックタートル』が暴走してシャーロットのARMSを侵食した事故だよ。あんた、そうなるって知ってて、わざとやったんだろ?」
──このときのレッドには、怒りも憎しみも無かった。
ただ、確かめたかった。
セピアが語って聞かせたお伽噺が、過去に起こった現実であるということを。
それは必要なことだとレッドには思われた。セピアときちんと向き合うために。
そして、ブラックと正面から向き合うために。
これまでの関係を踏まえ、そして、その先を……。
「……なんのことだ?」
ブラックが頭を微かに振る。
「なんのことって、おい──」
月が雲に隠れ、ブラックの表情が陰った。
それはわずかな間のことで、それと思った次の瞬間には、ブラックの顔が再び月に照らされる。
「分からないな、レッド……」
「なに……?」
「マテリアルナンバーで言ってくれないか……?」
月光の下で、薄く嗤っていた。
「……てめぇっ!!」
目の前が真っ赤に染まる。
身体中が沸騰しそうな怒気に突き動かされ、レッドはブラックに掴みかかっていた。
爪が食い込むほど握りしめた拳で頬を殴り飛ばす。
傾いだブラックの胸元を引きよせ、さらに拳を落とそうとしたとき、
「遅い」
レッドの死角から飛んできた衝撃が、顎を突き抜ける。
「ぐうっ……!」
宙を舞い、そのまま床にもんどり打つレッド。
「なにを怒っているのだ、レッド。なぜこの私が、出来損ないの失敗作の名前までいちいち覚えていなければならない?
マテリアルナンバーさえ分かれば、レポートを元にそれが誰のことを指しているか特定できる。
なあ、私はなにかおかしいことを言っているかな?」
「黙れ! それ以上、その汚ねえ口を開くな!」
地面を蹴って立ち上がり、再度ブラックに飛びつこうとするレッドの全身に、強烈なARMS共振波が駆け抜ける。
為す術もなく倒れ伏したレッドへ、ブラックは非常にゆっくりした歩調で歩み寄る。
捻じ切れるような暴力的な共振波に打ちのめされるレッドを見下すその顔は、先ほどとは打って変わって冷酷そのものだった。
「私に対してそんな口の利き方が許されると思っているのか? 貴様のような欠陥品、生かしておいているだけでありがたく思うのだな」
「殺してやる……!」
「ふん……出来るものならやってみるといい」
うすら寒い笑みを浮かべながら、ブラックは言い放つ。
「貴様のような出来損ないを見ていると虫唾が走る。貴様はあの裏切り者のにそっくりだ。『出来損ない』という点に於いてもな。
だが安心しろ。私は寛容だ。その傲慢な物言いも許そう。せいぜい私の目的のために役立ってくれ。それが唯一の──」
目の前が真っ赤に染まる。
身体中が沸騰しそうな怒気に突き動かされ、レッドはブラックに掴みかかっていた。
爪が食い込むほど握りしめた拳で頬を殴り飛ばす。
傾いだブラックの胸元を引きよせ、さらに拳を落とそうとしたとき、
「遅い」
レッドの死角から飛んできた衝撃が、顎を突き抜ける。
「ぐうっ……!」
宙を舞い、そのまま床にもんどり打つレッド。
「なにを怒っているのだ、レッド。なぜこの私が、出来損ないの失敗作の名前までいちいち覚えていなければならない?
マテリアルナンバーさえ分かれば、レポートを元にそれが誰のことを指しているか特定できる。
なあ、私はなにかおかしいことを言っているかな?」
「黙れ! それ以上、その汚ねえ口を開くな!」
地面を蹴って立ち上がり、再度ブラックに飛びつこうとするレッドの全身に、強烈なARMS共振波が駆け抜ける。
為す術もなく倒れ伏したレッドへ、ブラックは非常にゆっくりした歩調で歩み寄る。
捻じ切れるような暴力的な共振波に打ちのめされるレッドを見下すその顔は、先ほどとは打って変わって冷酷そのものだった。
「私に対してそんな口の利き方が許されると思っているのか? 貴様のような欠陥品、生かしておいているだけでありがたく思うのだな」
「殺してやる……!」
「ふん……出来るものならやってみるといい」
うすら寒い笑みを浮かべながら、ブラックは言い放つ。
「貴様のような出来損ないを見ていると虫唾が走る。貴様はあの裏切り者のにそっくりだ。『出来損ない』という点に於いてもな。
だが安心しろ。私は寛容だ。その傲慢な物言いも許そう。せいぜい私の目的のために役立ってくれ。それが唯一の──」
そこでレッドの視界は暗転した。
意識を取り戻したとき、すでにブラックの姿はなかった。
下界からのライトは遠く、星も月も雲に隠れ、ただ茫洋とした薄闇が辺りを包んでいた。
「ちくしょう……ちくしょう……」
意識を取り戻したとき、すでにブラックの姿はなかった。
下界からのライトは遠く、星も月も雲に隠れ、ただ茫洋とした薄闇が辺りを包んでいた。
「ちくしょう……ちくしょう……」
──いつしか、雨が降り始めていた。
ぽつりぽつりと落ちる温かい水滴が、仰向けに寝転ぶレッドの頬を濡らしていた。
ぽつりぽつりと落ちる温かい水滴が、仰向けに寝転ぶレッドの頬を濡らしていた。
雨が土砂降りになり始めたころ、また屋上に来るものがいた。
今度はかなり事前に接近を察知できた。
その歩調から推測できる人物像は、戦闘訓練を受けた経験は皆無、やや背の低い老齢の男性で、杖をついており、つまり脚が悪い。
武装はしておらず、荷物は持っておらず、傘の類も持っていない。
「ここにいたか、レッドよ」
そんな声が背中から掛けられても、レッドは振り返らなかった。
「……ドクターか。こっちくんな。オレは今最悪の気分なんだ。近づいたら殺すぞ」
「ふん、こんな老いぼれを殺して気が済むなら好きにすればええ」
肩に置かれたドクター・ティリングハーストの手を、レッドは過剰とも言える反応で振り払う。
「触るな!」
だが、ドクターはそれに怯むことなく、逆にレッドの頬を杖で殴り飛ばした。
「いいや、そうはいかんぞ。ワシはお前に用があるのじゃ。──セピアが倒れたぞ」
「…………っ!」
今度はかなり事前に接近を察知できた。
その歩調から推測できる人物像は、戦闘訓練を受けた経験は皆無、やや背の低い老齢の男性で、杖をついており、つまり脚が悪い。
武装はしておらず、荷物は持っておらず、傘の類も持っていない。
「ここにいたか、レッドよ」
そんな声が背中から掛けられても、レッドは振り返らなかった。
「……ドクターか。こっちくんな。オレは今最悪の気分なんだ。近づいたら殺すぞ」
「ふん、こんな老いぼれを殺して気が済むなら好きにすればええ」
肩に置かれたドクター・ティリングハーストの手を、レッドは過剰とも言える反応で振り払う。
「触るな!」
だが、ドクターはそれに怯むことなく、逆にレッドの頬を杖で殴り飛ばした。
「いいや、そうはいかんぞ。ワシはお前に用があるのじゃ。──セピアが倒れたぞ」
「…………っ!」
レッドの耳の奥で、なにか不穏な音が鳴り響いた。
それは、この残酷な世界を支配する、悪魔の意志の声だったのかも知れない。
それは、この残酷な世界を支配する、悪魔の意志の声だったのかも知れない。