パンチが来る、と身構えてからコンマ一秒未満で、右ストレートはゲバルの顎に到達し
ていた。スクリューを伴った拳の衝撃は甚大であり、たった一撃でゲバルからダウンを奪
うに至った。
アライJrと対戦経験のあるドリアンが叫ぶ。
「私との対戦時にはすでに人体の反応速度を上回っていたが……さらに速くなっている!」
先手必勝を地で行くような、最上級のオープニングヒットだった。オリバが合図をして
からまだ五秒と経っていない。
しかし、一撃で終わるようでは大統領や海賊はもちろんのこと、しけい荘住民など務ま
らない。立ち上がるゲバル。
「オエェ~ップ、船酔いするよりひどいな、こりゃ」
どろどろに溶解した視界においても、ゲバルはアライJrを捕捉し、ハイキックからタ
ックルのコンビネーションで反撃を試みる。が、スウェーバックにいなされ、返しのアッ
パーカットがクリーンヒット。さらにノックアウト率の高い左フックが顎を射抜く。
ゲバルが味わう景色がどろどろからぐにゃぐにゃに変化する。
「タフなゲバルがもうふらついてやがる……数日前とはパワーもスピードも段違いだ!」
発汗するシコルスキーに、ドリアンはこう分析する。
「いや、これが彼本来の実力と見るべきだろう。殺せない甘さ、殺されたくない甘さ、こ
れらを完璧に払拭したことにより、フットワークから迷いが消え、“打たせずに打つ”ス
タイルが真の開花を迎えたのだ」
かつてのアライJrでは決して踏み込めなかった、ほんの数ミリ。数ミリの壁を打ち破
った若き戦士が、実力通りの拳を打つ。
だが防戦一方で劣勢のゲバルを、柳は称賛する。
「あれだけ打ち込まれても動くのを止めようとしない。ボクサー相手に立ち止まることが
どれほどの愚行かを、ゲバルさんはよく分かっている」
絶対に反応できぬ速度、しかもヘビー級以上のパワーを持つ拳が、秒間何発とヒットす
ればひとたまりもない。事実、ドリアンとシコルスキーもラッシュをまともに受けて敗北
している。ゲバルはアライJrのもっとも恐ろしい武器はスピードでもパワーでもなく、
ラッシュであることを知っているのだ。
とはいえ、より踏み込めるようになったということは、よりカウンターを受けやすくな
ったことでもある。
アライJrの左ストレートを喰らいながら、ゲバルはテンプルに強烈な一打を加えた。
ついに被弾したアライJr、追い討ちとして左ハイがまともに顔面へめり込む。
「ナンテェ一撃……」
スペックがこう評すほどの左ハイは、アライJrを仰向けに崩れさせた。
ノックダウン。これで両者とも一度ずつ土にまみれたことになる。
「いつまでも寝ていたいけど……そうもいかねェ。体が勝手に起きちまう」
ボクシングは立って戦う競技。ゆえに立つ。欠けた歯を吐き出し、アライJrも力強く
立ち上がった。
「後悔はあるかい……?」
不意に問いかけるゲバル。
「君が短期間で進化を遂げたというのは周囲の反応でなんとなく分かる。が、おそらくは
今の俺の攻撃──踏み込みが甘かった頃の君ならば、かわせていたかもしれない。しかし
君はあえて勝利のために命を縮める道を選んだ。……後悔はあるかい?」
ゲバルの作戦か、それとも本心か。どちらにせよアライJrの答えは決まっていた。
「あるわけがない。こんな風にパンチを打つなんて生まれて初めてなんだ。楽しくって仕
方ないよ」
「ふっ、今日はいい日だ」
激突。アライJrの右フックが頬を打ち抜き、ゲバルの右ミドルが脇腹を穿つ。
ていた。スクリューを伴った拳の衝撃は甚大であり、たった一撃でゲバルからダウンを奪
うに至った。
アライJrと対戦経験のあるドリアンが叫ぶ。
「私との対戦時にはすでに人体の反応速度を上回っていたが……さらに速くなっている!」
先手必勝を地で行くような、最上級のオープニングヒットだった。オリバが合図をして
からまだ五秒と経っていない。
しかし、一撃で終わるようでは大統領や海賊はもちろんのこと、しけい荘住民など務ま
らない。立ち上がるゲバル。
「オエェ~ップ、船酔いするよりひどいな、こりゃ」
どろどろに溶解した視界においても、ゲバルはアライJrを捕捉し、ハイキックからタ
ックルのコンビネーションで反撃を試みる。が、スウェーバックにいなされ、返しのアッ
パーカットがクリーンヒット。さらにノックアウト率の高い左フックが顎を射抜く。
ゲバルが味わう景色がどろどろからぐにゃぐにゃに変化する。
「タフなゲバルがもうふらついてやがる……数日前とはパワーもスピードも段違いだ!」
発汗するシコルスキーに、ドリアンはこう分析する。
「いや、これが彼本来の実力と見るべきだろう。殺せない甘さ、殺されたくない甘さ、こ
れらを完璧に払拭したことにより、フットワークから迷いが消え、“打たせずに打つ”ス
タイルが真の開花を迎えたのだ」
かつてのアライJrでは決して踏み込めなかった、ほんの数ミリ。数ミリの壁を打ち破
った若き戦士が、実力通りの拳を打つ。
だが防戦一方で劣勢のゲバルを、柳は称賛する。
「あれだけ打ち込まれても動くのを止めようとしない。ボクサー相手に立ち止まることが
どれほどの愚行かを、ゲバルさんはよく分かっている」
絶対に反応できぬ速度、しかもヘビー級以上のパワーを持つ拳が、秒間何発とヒットす
ればひとたまりもない。事実、ドリアンとシコルスキーもラッシュをまともに受けて敗北
している。ゲバルはアライJrのもっとも恐ろしい武器はスピードでもパワーでもなく、
ラッシュであることを知っているのだ。
とはいえ、より踏み込めるようになったということは、よりカウンターを受けやすくな
ったことでもある。
アライJrの左ストレートを喰らいながら、ゲバルはテンプルに強烈な一打を加えた。
ついに被弾したアライJr、追い討ちとして左ハイがまともに顔面へめり込む。
「ナンテェ一撃……」
スペックがこう評すほどの左ハイは、アライJrを仰向けに崩れさせた。
ノックダウン。これで両者とも一度ずつ土にまみれたことになる。
「いつまでも寝ていたいけど……そうもいかねェ。体が勝手に起きちまう」
ボクシングは立って戦う競技。ゆえに立つ。欠けた歯を吐き出し、アライJrも力強く
立ち上がった。
「後悔はあるかい……?」
不意に問いかけるゲバル。
「君が短期間で進化を遂げたというのは周囲の反応でなんとなく分かる。が、おそらくは
今の俺の攻撃──踏み込みが甘かった頃の君ならば、かわせていたかもしれない。しかし
君はあえて勝利のために命を縮める道を選んだ。……後悔はあるかい?」
ゲバルの作戦か、それとも本心か。どちらにせよアライJrの答えは決まっていた。
「あるわけがない。こんな風にパンチを打つなんて生まれて初めてなんだ。楽しくって仕
方ないよ」
「ふっ、今日はいい日だ」
激突。アライJrの右フックが頬を打ち抜き、ゲバルの右ミドルが脇腹を穿つ。
互いに退かぬ猛攻に、息を呑む李海王と範海王。
「兄さんは、どちらが勝つと……?」
「技術面では拳闘家に分がある。幼い頃から英才教育を受けてきたのだろう。攻防ともに
無駄がない。しかししけい荘の新入り、バンダナの方が筋力は上だ。まだ奥の手があるよ
うにも感じられる」
「……つまり?」
「ワケ分かんねェ……」
毒手をぶち込んでやろうか、と李は本心から思った。
さて広いグラウンドを存分に駆使し、試合を展開するゲバルとアライJr。
アライJrのハンドスピードは反射神経を超える。ゆえに打たれれば最後、被弾率は実
に九割以上を誇る。
だがゲバルとて並ではない。アライJrの左ジャブ、右ストレート、左フックの三連打
をかすりながらも全てかわしてみせた。
微弱な風を感じ取り、アライJrの攻撃軌道を発射と同時に予測したのだ。
「初めてだ……こうも完璧に外されるなんて」驚くアライJr。
「海賊やってた時分、天候を読み切れなければ待つのは死だった。気まぐれなお天道様に
比べりゃあ、君の正直なパンチの方がまだ読みやすいッ!」
ゲバルの豪快なアッパーが、アライJrを打ち上げた。
「ぐあぁっ!」
続く人中を狙った一本拳もまともに突き刺さる。
この試合で初めて、ゲバルが神の遺伝子を一歩先んじた。
「アライJrの動きが明らかに精彩を欠いている……ゲバルが勝つ!」
興奮し、独りごちるドイル。
彼のいうとおりアライJrが唱える全局面的ボクシングの要である足が、度重なるダメ
ージで動きを鈍らせていた。
ダメ押しの右ハイキックがアライJrを直撃──ダウン。
上段蹴りを十八番とするサムワンが震えた。
「ムエタイのハイキックよりすげぇ、あんなもん喰らったら立てるはずがない!」
安堵するゲバル。審判のオリバすら「勝負あり」を告げようとした。
しかし、烈海王のみが決着を認めていなかった。
「いや──まだだ!」
「兄さんは、どちらが勝つと……?」
「技術面では拳闘家に分がある。幼い頃から英才教育を受けてきたのだろう。攻防ともに
無駄がない。しかししけい荘の新入り、バンダナの方が筋力は上だ。まだ奥の手があるよ
うにも感じられる」
「……つまり?」
「ワケ分かんねェ……」
毒手をぶち込んでやろうか、と李は本心から思った。
さて広いグラウンドを存分に駆使し、試合を展開するゲバルとアライJr。
アライJrのハンドスピードは反射神経を超える。ゆえに打たれれば最後、被弾率は実
に九割以上を誇る。
だがゲバルとて並ではない。アライJrの左ジャブ、右ストレート、左フックの三連打
をかすりながらも全てかわしてみせた。
微弱な風を感じ取り、アライJrの攻撃軌道を発射と同時に予測したのだ。
「初めてだ……こうも完璧に外されるなんて」驚くアライJr。
「海賊やってた時分、天候を読み切れなければ待つのは死だった。気まぐれなお天道様に
比べりゃあ、君の正直なパンチの方がまだ読みやすいッ!」
ゲバルの豪快なアッパーが、アライJrを打ち上げた。
「ぐあぁっ!」
続く人中を狙った一本拳もまともに突き刺さる。
この試合で初めて、ゲバルが神の遺伝子を一歩先んじた。
「アライJrの動きが明らかに精彩を欠いている……ゲバルが勝つ!」
興奮し、独りごちるドイル。
彼のいうとおりアライJrが唱える全局面的ボクシングの要である足が、度重なるダメ
ージで動きを鈍らせていた。
ダメ押しの右ハイキックがアライJrを直撃──ダウン。
上段蹴りを十八番とするサムワンが震えた。
「ムエタイのハイキックよりすげぇ、あんなもん喰らったら立てるはずがない!」
安堵するゲバル。審判のオリバすら「勝負あり」を告げようとした。
しかし、烈海王のみが決着を認めていなかった。
「いや──まだだ!」
父がささやく。
今は米国(ステイツ)にいるはずなのに、なぜ。
──息子(ジュニア)よ。
拳筋は読まれ、スウェーも満足に機能していない。スタイルを変えるべきだ。ガードを
上げ、拳以外の攻め手に活路を見出すべきだ。
父から愛する息子への、もっともな忠告だった。しかし、
「ありがとう、父さん。でもダメなんだ。いくらファイトスタイルを変えたって、彼は全
てを叩き潰すだろう。だから僕は父さんから受け継いだ両拳(こいつら)を信じて、最後
まで戦う。
──そう、死ぬまで!」
真っ向から子は否定した。
父は無言で背中を向けた。いったいどんな顔をしているのか、息子には知る由もない。
直後、夢から覚め、跳ね起きるアライJr。烈以外の皆が信じられないといった表情を
浮かべた。
「しょう……ぶ」目を丸くし、照れ臭そうに咳払いするオリバ。「失礼」
ゲバルが嬉しそうに再び構える。
「本当にいい日だ」
テンポ良くステップを踏むアライJr。
「読まれてるのなら、もっと速く打てばいい……かわせないのなら、もっと速く動けばい
い……。僕のスタイルは崩さない」
アライJrが消えた。
「これが僕の結論だァッ!」
大地を蹴る。ボクシング唯一の足技で得た推進力を、ほぼノーモーションで右腕に伝え、
異常なまでの接近速度を経て、右ストレートはゲバルを真正面から捉えた。
世界遺産級とさえ評せられる一発に、全員が同じ感想を抱いた。
今は米国(ステイツ)にいるはずなのに、なぜ。
──息子(ジュニア)よ。
拳筋は読まれ、スウェーも満足に機能していない。スタイルを変えるべきだ。ガードを
上げ、拳以外の攻め手に活路を見出すべきだ。
父から愛する息子への、もっともな忠告だった。しかし、
「ありがとう、父さん。でもダメなんだ。いくらファイトスタイルを変えたって、彼は全
てを叩き潰すだろう。だから僕は父さんから受け継いだ両拳(こいつら)を信じて、最後
まで戦う。
──そう、死ぬまで!」
真っ向から子は否定した。
父は無言で背中を向けた。いったいどんな顔をしているのか、息子には知る由もない。
直後、夢から覚め、跳ね起きるアライJr。烈以外の皆が信じられないといった表情を
浮かべた。
「しょう……ぶ」目を丸くし、照れ臭そうに咳払いするオリバ。「失礼」
ゲバルが嬉しそうに再び構える。
「本当にいい日だ」
テンポ良くステップを踏むアライJr。
「読まれてるのなら、もっと速く打てばいい……かわせないのなら、もっと速く動けばい
い……。僕のスタイルは崩さない」
アライJrが消えた。
「これが僕の結論だァッ!」
大地を蹴る。ボクシング唯一の足技で得た推進力を、ほぼノーモーションで右腕に伝え、
異常なまでの接近速度を経て、右ストレートはゲバルを真正面から捉えた。
世界遺産級とさえ評せられる一発に、全員が同じ感想を抱いた。
アライJrが完成した。
のけぞった上半身を立て直し、ゲバルが前を向く。すると見渡す景色一面が、びっしり
と黒一色に覆われていた。
「こ、これは……?」
ぞわぞわと足元がうごめく。土ではない。土が動くわけがない。ならばこれは──
「蟻……ッ!」
百万匹どころではない。地平線を埋め尽くすほどの蟻の大群が、ゲバルめがけてよじ登
る。
と黒一色に覆われていた。
「こ、これは……?」
ぞわぞわと足元がうごめく。土ではない。土が動くわけがない。ならばこれは──
「蟻……ッ!」
百万匹どころではない。地平線を埋め尽くすほどの蟻の大群が、ゲバルめがけてよじ登
る。