李美那。通称『飛行機落とし』のイミナ。
落とした飛行機は大小数知れず、それによって暗殺した要人もこれまた数知れず。
『ならず者国家』としての某国を語る際、必ずといっていいほど引き合いに出される名前だった。
数年前、マニラ発サンフランシスコ行きの航空機に搭乗したのを最後に、ぷっつりとその消息を絶っている。
祖国の腐った内情に嫌気がさしてどこかに亡命したのか、あるいは内部抗争か何かの犠牲になったのか、
真相は謎に包まれたまま風化していくかと思われたが――
「まさかこんな極東の島国で、虎と追いかけっこの最中とは」
早坂は手にした資料をめくった。一番上のページには見覚えのある写真。二ページ目以降には、
分かっている限りでの彼女の経歴。
いや正しくは、『犯歴』といったほうがふさわしい。惨殺された無数の要人と、その数百倍にも及ぶ
巻き込まれた無辜の人々の記録。生み出された屍の山と血の河を合わせたら、東京ドームの一つや二つは
余裕で埋まるだろう。
「スマートとは程遠いな。やはり気に食わん」
組んだ手と手の上に、まばらに髭の生えた顎を乗せて早坂は呟いた。
傍らにはウイスキー・グラス。中の氷山を透かした金色の液体は、つい五分前に注がれたばかりで、
にもかかわらず既に四分の一近くまで減っている。アルコールが体を浸していくのをゆっくり愉しむ
タイプの彼としては、珍しいまでにハイペースな飲み方だった。
あの女の、人形めいた硬質な顔が頭から離れずにいる。もちろん好いた惚れたの魅了されたのとは
真逆の意味でだ。
グラスを傾けた。残り四分の一をひと息に干した。グラスを置くと、机にクリスタルの当たる音が
予想していたより大きく響いた。
「アニキ……」
ウイスキーボトルを取り上げたのはユキだ。
普段は吊り気味の眉をひそめ、常にない兄のペースの速さに明らかに気圧されている。それでも早坂が
グラスを向けると、いつも通りボトルを傾け中身を注ぐ。
火酒を口に運ぶ兄の喉が、ゴクリと上下するのを見計らって口を開いた。
「その、アニキ、ゆうべは……その」
「何だ? ユキ」
「その……何つーか……ええと」
口ごもる弟を、早坂はあえて急かそうとはしなかった。
一回り以上年の離れた弟、幸宜。文字通りオシメも取れない年の頃から見守り続けてきた。
両親が蒸発さえしなければ、もっと余所余所しい関係になっていたかもしれない。だが父はユキが
母の腹にいる間に事業に失敗して雲隠れし、母は母でユキがつたい歩きもしないうちに男と逃げた。
残された二人きりの兄弟は、ひどく寒い北の地で身を寄せ合って生きていくしかなかったのだ。
この世の誰より、早坂は弟のことを理解している。
冷めた態度のせいで落ち着いて見えるが、ユキの内面はその実かなり不安定だ。こうと決めたら思い込みが
激しく、それ以外のことはなかなか見えなくなる猪突猛進型である。それでいて事がうまく運ばなければ、
指針を見失って大きく揺れてしまう思いつめやすい性格でもある。
最近になって幾らか安定してはきたが、長年培ってきた気性をそう簡単に変えられるわけもない。
「アニキ……その、ゆうべは悪かった。俺がもっとしっかりしてれば、あんなことにはならなかったはずだ」
しどろもどろの謝罪。
昨夜のあの女との一件が心に引っ掛かっていたらしい。
「結局向こうの要求呑むはめになっちまってよ……アニキの部下としてアニキを守るのが俺の役目なのに、
部下失格だよなこんなんじゃ。もう何て言ったらいいのか、」
「ユキ」
下を向いた弟の言葉を早坂は遮った。
「過ぎたことだ、気にするな。そもそも自分の力不足を悔やむなら、あのクレーンに気づかなかった私もそうそう変わらん」
「アニキ?」
弟が目をしばたいた。
「後ろを見て一度の失敗を悔やむより、前を向いて次の機会に備えて牙を磨け。そのほうがよほど効率的だ。
――あの時だってそうだっただろう?」
彼ら兄弟が古巣であった大手調査会社を離れ、今の形で独立するに至ったきっかけについて言っている。
敗北の味は初めてではない。落胆する必要など少しもないのだ。
「一癖どころか百癖二百癖はありそうな女だが、例のあの化物に比べれば遥かに与しやすい相手のはずだ。
今は大人しく従っておいてやるさ」
グラスを傾けてウイスキーを煽る。
「そのうち隙をついて背後から刺しに行くぞ、ユキ。その時はゆうべの分も役に立ってもらう」
「! アニキ」
「期待してるぞ」
沈んだ状態のこの弟に一番効くのが、他ならぬ自分の激励であることを早坂は知っている。
ユキの顔に、ようやく安堵の笑みが浮かんだ。
早坂はボトルを指して尋ねた。
「お前も飲むか?」
「ああ」
ユキはロックよりハイボールが好みだ。新たに出してきたグラスに半ばまでウイスキーを注ぎ、
冷えたソーダ水を勢いよく足して割る。泡の群れが底から涼しげに湧き上がる。
グラスの縁と縁をチン、と合わせあい、同時に口に運んだ。
「一つ、気になることがある」
先に口を開いたのは早坂の方だった。
「あの女は確かに『主人』と言っていた。『上司』でも『ボス』でもなく『主人』と。あのとき交わした
会話がブラフでなければ、あの女が仕えているのは国や企業やシンジケートといった組織的なものじゃなく……」
「単なる一個人、ってことか?」
「言葉尻からの推測に過ぎんがな」
早坂の美学には著しく反する女だが、経歴その他の資料を見る限り、多くの組織が喉から手が出るほど
欲しがる優秀な人材であることは間違いない。本人の望み次第でどうとでも身を振れるだろうし、普通に
考えれば大樹の陰に寄ったほうが得は多いはずだ。
にも関わらず組織に属さず、その『主人』にかしずくことを選択しているのだとしたら。
「気になるな。その主人とやらがどんな奴か。あれほどの女を従わせられるのは、よほどの逸材か、あるいは」
落とした飛行機は大小数知れず、それによって暗殺した要人もこれまた数知れず。
『ならず者国家』としての某国を語る際、必ずといっていいほど引き合いに出される名前だった。
数年前、マニラ発サンフランシスコ行きの航空機に搭乗したのを最後に、ぷっつりとその消息を絶っている。
祖国の腐った内情に嫌気がさしてどこかに亡命したのか、あるいは内部抗争か何かの犠牲になったのか、
真相は謎に包まれたまま風化していくかと思われたが――
「まさかこんな極東の島国で、虎と追いかけっこの最中とは」
早坂は手にした資料をめくった。一番上のページには見覚えのある写真。二ページ目以降には、
分かっている限りでの彼女の経歴。
いや正しくは、『犯歴』といったほうがふさわしい。惨殺された無数の要人と、その数百倍にも及ぶ
巻き込まれた無辜の人々の記録。生み出された屍の山と血の河を合わせたら、東京ドームの一つや二つは
余裕で埋まるだろう。
「スマートとは程遠いな。やはり気に食わん」
組んだ手と手の上に、まばらに髭の生えた顎を乗せて早坂は呟いた。
傍らにはウイスキー・グラス。中の氷山を透かした金色の液体は、つい五分前に注がれたばかりで、
にもかかわらず既に四分の一近くまで減っている。アルコールが体を浸していくのをゆっくり愉しむ
タイプの彼としては、珍しいまでにハイペースな飲み方だった。
あの女の、人形めいた硬質な顔が頭から離れずにいる。もちろん好いた惚れたの魅了されたのとは
真逆の意味でだ。
グラスを傾けた。残り四分の一をひと息に干した。グラスを置くと、机にクリスタルの当たる音が
予想していたより大きく響いた。
「アニキ……」
ウイスキーボトルを取り上げたのはユキだ。
普段は吊り気味の眉をひそめ、常にない兄のペースの速さに明らかに気圧されている。それでも早坂が
グラスを向けると、いつも通りボトルを傾け中身を注ぐ。
火酒を口に運ぶ兄の喉が、ゴクリと上下するのを見計らって口を開いた。
「その、アニキ、ゆうべは……その」
「何だ? ユキ」
「その……何つーか……ええと」
口ごもる弟を、早坂はあえて急かそうとはしなかった。
一回り以上年の離れた弟、幸宜。文字通りオシメも取れない年の頃から見守り続けてきた。
両親が蒸発さえしなければ、もっと余所余所しい関係になっていたかもしれない。だが父はユキが
母の腹にいる間に事業に失敗して雲隠れし、母は母でユキがつたい歩きもしないうちに男と逃げた。
残された二人きりの兄弟は、ひどく寒い北の地で身を寄せ合って生きていくしかなかったのだ。
この世の誰より、早坂は弟のことを理解している。
冷めた態度のせいで落ち着いて見えるが、ユキの内面はその実かなり不安定だ。こうと決めたら思い込みが
激しく、それ以外のことはなかなか見えなくなる猪突猛進型である。それでいて事がうまく運ばなければ、
指針を見失って大きく揺れてしまう思いつめやすい性格でもある。
最近になって幾らか安定してはきたが、長年培ってきた気性をそう簡単に変えられるわけもない。
「アニキ……その、ゆうべは悪かった。俺がもっとしっかりしてれば、あんなことにはならなかったはずだ」
しどろもどろの謝罪。
昨夜のあの女との一件が心に引っ掛かっていたらしい。
「結局向こうの要求呑むはめになっちまってよ……アニキの部下としてアニキを守るのが俺の役目なのに、
部下失格だよなこんなんじゃ。もう何て言ったらいいのか、」
「ユキ」
下を向いた弟の言葉を早坂は遮った。
「過ぎたことだ、気にするな。そもそも自分の力不足を悔やむなら、あのクレーンに気づかなかった私もそうそう変わらん」
「アニキ?」
弟が目をしばたいた。
「後ろを見て一度の失敗を悔やむより、前を向いて次の機会に備えて牙を磨け。そのほうがよほど効率的だ。
――あの時だってそうだっただろう?」
彼ら兄弟が古巣であった大手調査会社を離れ、今の形で独立するに至ったきっかけについて言っている。
敗北の味は初めてではない。落胆する必要など少しもないのだ。
「一癖どころか百癖二百癖はありそうな女だが、例のあの化物に比べれば遥かに与しやすい相手のはずだ。
今は大人しく従っておいてやるさ」
グラスを傾けてウイスキーを煽る。
「そのうち隙をついて背後から刺しに行くぞ、ユキ。その時はゆうべの分も役に立ってもらう」
「! アニキ」
「期待してるぞ」
沈んだ状態のこの弟に一番効くのが、他ならぬ自分の激励であることを早坂は知っている。
ユキの顔に、ようやく安堵の笑みが浮かんだ。
早坂はボトルを指して尋ねた。
「お前も飲むか?」
「ああ」
ユキはロックよりハイボールが好みだ。新たに出してきたグラスに半ばまでウイスキーを注ぎ、
冷えたソーダ水を勢いよく足して割る。泡の群れが底から涼しげに湧き上がる。
グラスの縁と縁をチン、と合わせあい、同時に口に運んだ。
「一つ、気になることがある」
先に口を開いたのは早坂の方だった。
「あの女は確かに『主人』と言っていた。『上司』でも『ボス』でもなく『主人』と。あのとき交わした
会話がブラフでなければ、あの女が仕えているのは国や企業やシンジケートといった組織的なものじゃなく……」
「単なる一個人、ってことか?」
「言葉尻からの推測に過ぎんがな」
早坂の美学には著しく反する女だが、経歴その他の資料を見る限り、多くの組織が喉から手が出るほど
欲しがる優秀な人材であることは間違いない。本人の望み次第でどうとでも身を振れるだろうし、普通に
考えれば大樹の陰に寄ったほうが得は多いはずだ。
にも関わらず組織に属さず、その『主人』にかしずくことを選択しているのだとしたら。
「気になるな。その主人とやらがどんな奴か。あれほどの女を従わせられるのは、よほどの逸材か、あるいは」
――『あいつ』のような化物だろう。
グラスの中の火酒ごと、早坂はその先を飲み込んだ。
口にしなかった続きは当然、ユキの耳にも届かない。ハイボールを啜りながら怪訝な目を向けてくる弟に、
早坂は黙って肩だけを竦めた。
口にしなかった続きは当然、ユキの耳にも届かない。ハイボールを啜りながら怪訝な目を向けてくる弟に、
早坂は黙って肩だけを竦めた。
悪夢をよく見る。
同じ夢をくりかえし見るわけではない。悪夢の形は毎回違う。夢のなかでサイは大人だったり子供だったり、
時には死を前にした病み衰えた老人だったりする。時間も場所も夢らしく不統一で、馴染みのある場所の
こともあればまったく知らない、知るはずのない空間ということもある。
今回の悪夢で、サイは生温かい粘液の中に浮いていた。
とろみがある。音もなく素肌にまとわりつき、皮膚呼吸のすべを彼から奪う。人によっては、母親の子宮の
羊水をイメージするかもしれない。
だがこの粘液の海に浸される感覚は、胎児を包むゆりかごの心地よさとは程遠かった。海というより
沼である。わずかの波もたゆたいもなく、ただただ濁った液体をたたえている。身を浸した者を飲み込み、
侵食し、どこにあるとも知れぬ奥底へと沈み込ませていく。
室内なのか屋外なのかも判然とせぬほの暗さの中で、サイは鼻腔をくすぐる生臭さに顔をしかめた。
血、ではない。腐臭、でもない。強いていうなら、酒を飲んで嘔吐したあと喉奥に残る、つんと酸っぱい
匂いが最も近い。
ここはどこだ。
俺は誰だ。
僕は。
私は。
息が苦しい。大気はじっとりと湿気をたたえて気管をさいなむ。
不快な匂いを吸い込むことは覚悟で、肺いっぱいに息をしようとしたそのときだった。
同じ夢をくりかえし見るわけではない。悪夢の形は毎回違う。夢のなかでサイは大人だったり子供だったり、
時には死を前にした病み衰えた老人だったりする。時間も場所も夢らしく不統一で、馴染みのある場所の
こともあればまったく知らない、知るはずのない空間ということもある。
今回の悪夢で、サイは生温かい粘液の中に浮いていた。
とろみがある。音もなく素肌にまとわりつき、皮膚呼吸のすべを彼から奪う。人によっては、母親の子宮の
羊水をイメージするかもしれない。
だがこの粘液の海に浸される感覚は、胎児を包むゆりかごの心地よさとは程遠かった。海というより
沼である。わずかの波もたゆたいもなく、ただただ濁った液体をたたえている。身を浸した者を飲み込み、
侵食し、どこにあるとも知れぬ奥底へと沈み込ませていく。
室内なのか屋外なのかも判然とせぬほの暗さの中で、サイは鼻腔をくすぐる生臭さに顔をしかめた。
血、ではない。腐臭、でもない。強いていうなら、酒を飲んで嘔吐したあと喉奥に残る、つんと酸っぱい
匂いが最も近い。
ここはどこだ。
俺は誰だ。
僕は。
私は。
息が苦しい。大気はじっとりと湿気をたたえて気管をさいなむ。
不快な匂いを吸い込むことは覚悟で、肺いっぱいに息をしようとしたそのときだった。
『……け…………』
皺枯れ、消え入りかけた声が耳をとらえた。
粘液の中で身じろぐ音にさえ掻き消されそうな、頼りない響き。
粘液の中で身じろぐ音にさえ掻き消されそうな、頼りない響き。
『……け……の』
何を言おうとしているのだ。
無視すればいい、そう思う。無視すればいいのに、意識は声を追ってしまう。
研ぎ澄まされた聴覚がその言葉をとらえる。
無視すればいい、そう思う。無視すればいいのに、意識は声を追ってしまう。
研ぎ澄まされた聴覚がその言葉をとらえる。
『ばけもの』
息を呑む。
みぞおちを突かれたような衝撃が走る。
それは、彼が最も向けられるのを忌んでいる言葉だった。
みぞおちを突かれたような衝撃が走る。
それは、彼が最も向けられるのを忌んでいる言葉だった。
『ばけもの』
言葉は続く。いや新たに生まれる。
さっき聞こえたのと明らかに別の方向から、全く異なる響きを伴って。
さっき聞こえたのと明らかに別の方向から、全く異なる響きを伴って。
「あ……」
『ばけもの』
『ばけもの』
『ばけもの』
『ばけもの』
『ばけもの』
『ばけもの』
『ばけもの』
『ばけもの』
『ばけもの』
「あ……あああ……ああああ……」
前後左右斜め前後ろそして真上。
男の声女の声老いた声若い声子供の声。
ぽつぽつぽつぽつと声は湧く。
まばらに響いては消えていた声は、次第に重なりあい高まりあって唱和する。
男の声女の声老いた声若い声子供の声。
ぽつぽつぽつぽつと声は湧く。
まばらに響いては消えていた声は、次第に重なりあい高まりあって唱和する。
『ばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけもの
ばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけもの』
ボコッ、と嫌な音がした。顔の肉が隆起する音だった。
鍋の中で煮え焦げていく飴のように、肉は膨れ上がって醜く歪んだ。
ばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけもの』
ボコッ、と嫌な音がした。顔の肉が隆起する音だった。
鍋の中で煮え焦げていく飴のように、肉は膨れ上がって醜く歪んだ。
「うる、さ……いっ」
サイは耳を塞ぐ。粘液の中で必死に身を縮こめ、声の洪水を遮断しようとこころみる。
だが千も万もの大合唱は、彼の儚い抵抗などなきが如きに踏みにじった。
彼をののしりさわぐ声は、液体も耳を押さえる手もすり抜けてその心臓へと到達する。
だが千も万もの大合唱は、彼の儚い抵抗などなきが如きに踏みにじった。
彼をののしりさわぐ声は、液体も耳を押さえる手もすり抜けてその心臓へと到達する。
『ばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけもの
ばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけもの
ばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけもの
ばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけもの
ばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけもの』
ばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけもの
ばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけもの
ばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけもの
ばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけものばけもの』
「うるさいっ、うるさい、うるさい、うるさいっ!」
噛み締めた唇がぶちっと切れた。苦い味が口内に溢れてこぼれた。
胸をかきむしる爪が肉を抉った。
サイは絶叫した。
胸をかきむしる爪が肉を抉った。
サイは絶叫した。
「俺はっ……俺は人間だ――――――っ!!」
跳ね起きたサイの視界に、まず入ってきたのはソファの表面だった。
ビニール張りの年代物。年月の染みがいくつか浮いている。 サイは深く息を吸って呼吸を整えた。
少し休むだけのつもりが、かなり深く眠り込んでいたらしい。身を横たえて目を閉じたときには昼の
光が漏れていた窓の外が、今はすっかり翳ってしまっている。
全身の細胞がざわめいている。一方で頭の内側には、不快な目覚め特有の中途半端な痺れが残る。
額を押さえて息をついたとき、透明な声が耳朶へとすべりこんできた。
「サイ」
振り返って眼球を動かすと鈍く痛みが走り、無意識に顔をゆがめる形になる。
「……アイ?」
ソファのすぐ脇に従者が立っていた。
真っ直ぐに伸びた背筋、陶器の仮面を被ったかのような無表情が、今の状況では恨めしくさえ思えた。
これまた陶器めいた白い手が伸びて、荒い呼吸に震える主の背をそっと撫でた。
柔らかな接触。ぴくりと、サイの背中が震える。充血しきった目でアイの顔を睨んだ。
「触るな」
アイは無言で、ただ言われるままに伸ばした手を引っ込める。
闇を宿した両の瞳には、いささかの揺らぎも見られない。それがなおのこと忌々しい。
「何か、お飲み物でもお持ちしましょうか」
「要らないよ。――放っといてよ」
体は水分を欲し悲鳴を上げていたが、ここでこの従者の手を借りる気にはならなかった。
「蛭の相談に乗ってたんじゃなかったの?」
「そちらは既に済みました。たった今戻ってきたところです」
飲み込んだ唾だけでは、干からびきった喉を宥めることは難しい。数回軽く咳き込んで、サイは
呟くようにアイに問いかけた。
「アイ……俺はやっぱり……化物、なのかな?」
変異を続けるサイの特異な細胞。常識ではありえぬ彼の能力は、日ごとに進化して人間離れしていく。
昨日はできなかったことも、今日になってみるとできるようになっている。去年なら絵空事として
笑って済ませたことが、今年から決して不可能ではなくなり、来年は更にSFめいた行為すら可能に
なるかもしれない。
それに比例して記憶力の劣化も進む。
下流へと流れ続ける河のように、何もかもが不可逆的に変化していく。
ただひとつ河と違うのは、大元の源流がどこにあったのか、流れが最終的にどこに行き着くのか、
それを確かめるすべがどこにもないことだ。
自分はやはり彷徨える怪物にすぎないのか――
アイの答えは穏やかに、しかし端的に返ってきた。
「見る者によっては、そうも受け取められかねない能力をお持ちなのは事実でしょう」
機械音声めいた声がますます苛立ちを煽った。そんなことを聞いているわけではないのだ。
サイの目が険悪さを帯びたのを、アイは敏感に嗅ぎ取ったようだった。八つ当たりに近い言葉が
投げつけられる前に、花びらのような唇が続きを紡いだ。
「どんな夢をご覧になっていたのかは薄々想像がつきます。随分とうなされていらっしゃいましたから」
今度伸びてきたのは、主人の背を撫でようとしたのとは別の方の手だった。
汗の玉の浮いた額に、氷水で冷やされ、よく絞られたタオルが押し当てられる。
サイは拒もうとした。誰の手のどんな感触も煩わしかった。だが肌にまとわりつくべとつきが拭われ、
ひんやりとした感覚に包まれていく快感が彼の抵抗を押しとどめた。
額をすっかり拭ってしまうと、タオルを握る手は首筋へと下りる。鎖骨のくぼみに溜まった汗が拭き取られていく。
「今この場で、私の口からあなたの問いを否定するのは簡単です。ですが、それでは根本的な解決には繋がりません」
「……何が言いたいの?」
「あなたの迷いを打ち消せるのは、あなた自身しかいらっしゃらないということです」
冷やしタオルが首から離れた。肌に近づけただけで冷気を感じるほど冷えていたはずの布地は、
サイの体温ですっかりぬるくなってしまっていた。
「証明してください、ご自分の手で。あなたが化物ではなく人間だと」
明瞭な声でアイは告げ、ソファの上の主人に背を向ける。
「そのままでは体が冷えます。もう一枚別のタオルを持って参ります」
サイは口を開こうとして、できなかった。遠ざかっていく細い背影に置いてけぼりにされた。
戸口のところで立ち止まり、深く頭を下げてアイは退室した。
灯かりのついていない部屋は既に薄暗かったが、廊下には既に蛍光灯がしらじらと灯っていた。
ドアの隙から漏れた光は、一瞬だけサイの頬を撫で、閉まる勢いに吸い込まれて消える。
薄暮の闇の中に一人取り残される。
跳ね起きたサイの視界に、まず入ってきたのはソファの表面だった。
ビニール張りの年代物。年月の染みがいくつか浮いている。 サイは深く息を吸って呼吸を整えた。
少し休むだけのつもりが、かなり深く眠り込んでいたらしい。身を横たえて目を閉じたときには昼の
光が漏れていた窓の外が、今はすっかり翳ってしまっている。
全身の細胞がざわめいている。一方で頭の内側には、不快な目覚め特有の中途半端な痺れが残る。
額を押さえて息をついたとき、透明な声が耳朶へとすべりこんできた。
「サイ」
振り返って眼球を動かすと鈍く痛みが走り、無意識に顔をゆがめる形になる。
「……アイ?」
ソファのすぐ脇に従者が立っていた。
真っ直ぐに伸びた背筋、陶器の仮面を被ったかのような無表情が、今の状況では恨めしくさえ思えた。
これまた陶器めいた白い手が伸びて、荒い呼吸に震える主の背をそっと撫でた。
柔らかな接触。ぴくりと、サイの背中が震える。充血しきった目でアイの顔を睨んだ。
「触るな」
アイは無言で、ただ言われるままに伸ばした手を引っ込める。
闇を宿した両の瞳には、いささかの揺らぎも見られない。それがなおのこと忌々しい。
「何か、お飲み物でもお持ちしましょうか」
「要らないよ。――放っといてよ」
体は水分を欲し悲鳴を上げていたが、ここでこの従者の手を借りる気にはならなかった。
「蛭の相談に乗ってたんじゃなかったの?」
「そちらは既に済みました。たった今戻ってきたところです」
飲み込んだ唾だけでは、干からびきった喉を宥めることは難しい。数回軽く咳き込んで、サイは
呟くようにアイに問いかけた。
「アイ……俺はやっぱり……化物、なのかな?」
変異を続けるサイの特異な細胞。常識ではありえぬ彼の能力は、日ごとに進化して人間離れしていく。
昨日はできなかったことも、今日になってみるとできるようになっている。去年なら絵空事として
笑って済ませたことが、今年から決して不可能ではなくなり、来年は更にSFめいた行為すら可能に
なるかもしれない。
それに比例して記憶力の劣化も進む。
下流へと流れ続ける河のように、何もかもが不可逆的に変化していく。
ただひとつ河と違うのは、大元の源流がどこにあったのか、流れが最終的にどこに行き着くのか、
それを確かめるすべがどこにもないことだ。
自分はやはり彷徨える怪物にすぎないのか――
アイの答えは穏やかに、しかし端的に返ってきた。
「見る者によっては、そうも受け取められかねない能力をお持ちなのは事実でしょう」
機械音声めいた声がますます苛立ちを煽った。そんなことを聞いているわけではないのだ。
サイの目が険悪さを帯びたのを、アイは敏感に嗅ぎ取ったようだった。八つ当たりに近い言葉が
投げつけられる前に、花びらのような唇が続きを紡いだ。
「どんな夢をご覧になっていたのかは薄々想像がつきます。随分とうなされていらっしゃいましたから」
今度伸びてきたのは、主人の背を撫でようとしたのとは別の方の手だった。
汗の玉の浮いた額に、氷水で冷やされ、よく絞られたタオルが押し当てられる。
サイは拒もうとした。誰の手のどんな感触も煩わしかった。だが肌にまとわりつくべとつきが拭われ、
ひんやりとした感覚に包まれていく快感が彼の抵抗を押しとどめた。
額をすっかり拭ってしまうと、タオルを握る手は首筋へと下りる。鎖骨のくぼみに溜まった汗が拭き取られていく。
「今この場で、私の口からあなたの問いを否定するのは簡単です。ですが、それでは根本的な解決には繋がりません」
「……何が言いたいの?」
「あなたの迷いを打ち消せるのは、あなた自身しかいらっしゃらないということです」
冷やしタオルが首から離れた。肌に近づけただけで冷気を感じるほど冷えていたはずの布地は、
サイの体温ですっかりぬるくなってしまっていた。
「証明してください、ご自分の手で。あなたが化物ではなく人間だと」
明瞭な声でアイは告げ、ソファの上の主人に背を向ける。
「そのままでは体が冷えます。もう一枚別のタオルを持って参ります」
サイは口を開こうとして、できなかった。遠ざかっていく細い背影に置いてけぼりにされた。
戸口のところで立ち止まり、深く頭を下げてアイは退室した。
灯かりのついていない部屋は既に薄暗かったが、廊下には既に蛍光灯がしらじらと灯っていた。
ドアの隙から漏れた光は、一瞬だけサイの頬を撫で、閉まる勢いに吸い込まれて消える。
薄暮の闇の中に一人取り残される。
サイは唇を噛んだ。
青ざめた指先が、ソファのビニールに深く食い込んだ。
青ざめた指先が、ソファのビニールに深く食い込んだ。
「しかし悪趣味なモンを造りますねえ、あなたも」
『誉めているんだろうね?』
「もちろんですよ。最高の誉め言葉です」
笑いを含んだ声が響き渡った。
日暮れの直後。濃紺に染まった空の地平線に、夕日の名残の紅色がうっすらとにじんでいる。つい十分前まで
アスファルトにくっきり伸びていた影も、広がりはじめた夜との境を曖昧にしはじめていた。
住宅街の冷えたコンクリート塀に身を預け、携帯電話を耳に押し当てているのは、アジトを抜け出して
きた葛西である。
「見てるこっちとしちゃあ、面白ぇことこの上ありませんや。笑いをこらえるのはなかなか骨が折れますがね」
携帯を通して葛西の耳に響く声は、低く太く威厳に満ちている。一度電子的に分解されて再構成される過程を
経てさえ、聞く者を威圧するプレッシャーが感じられる。これが生の音声で、かつ本人を目の前にしたなら、
その場に膝を折り頭を垂れ、服従を示さずにはいられないだろう。
葛西はある程度耐性を持っていたが、それでもこの声の主を前に己を保つには多大な努力を必要とする。
奥歯を噛み締め、足元にしっかと踵をつけて、折れないように揺れないように背筋を伸ばしていなければ耐えられない。
今この場で余裕を保っていられるのは距離を隔てているからだ。
『それにしても懐かしいな』
ク、という愉悦の声が耳を嬲る。
『≪あれ≫を造ったのは、そう、もう二十年ばかり前のことになるか。久しく存在すら忘れていたよ。
まさか≪あの子≫と接触することになるとはね』
「バラして中身を見る気満々のようですよ、あなたのお子様は。これが本当の『共食い』ってやつですか。
あーやべえやべえ、笑いが止まらねえ。どっちが勝っても糞面白ぇ展開になりそうだ」
火火火火、と響き渡る独特の笑い声。
『まあ待ちなさい葛西。今回はそう面白がってばかりもいられないんだよ』
ニヤつく葛西に、しかし電話の相手はたしなめるように言った。
『≪あの子≫に≪あれ≫の中身を見られるのは困るんだ。とても困る。ただでさえ散々あの女に阻まれて
連れ戻すのに手間取っているというのに、本人にまで私たちの存在を気取られてしまっては……
分かるだろう?』
「――はい」
歪んだ口元が真一文字に引き結ばれる。
打って変わって神妙な顔で葛西は頷いた。
『かといって公権力の手に渡るのも望ましくない。お前の祖国の警察は厄介だ。上層部はともかく、末端の
捜査員は優秀で勤勉で、且つ正義感の強い者を揃えているからね』
「はあ、『優秀』で『勤勉』ですか? 素顔さらして歩いてる俺に職質もしてこねぇボンクラ揃いの連中が?
お言葉ですがそいつぁ、ちょいとばかし過大評価じゃないですかねえ」
『人間の割には、という意味だよ。何を基準として見るかで、評価なんていくらでも変わるものさ。
――とにかく、≪あれ≫を産み出した技術が外部に漏れるのは非常に都合が悪いんだ』
逸れかけた話題を元に戻し再度強調する。
声音がひときわ重みを帯びた。
『葛西。潜入中に悪いが、緊急の任務だ。≪あれ≫を始末しなさい』
王侯のような口調だった。常に臣下にかしずかれ、彼らに奉仕させることを呼吸するより当然としている
男の言葉だった。
放火魔の頬の筋肉が、ぴくり、と震えた。
住宅の森林の隙間からのぞく、わずかな地平線に視線をやる。薄くにじんでいた紅色は、今や全き紺碧に
駆逐されてしまっていた。
『骨一本、肉の一片たりとも残してはいけない。灰と化すまで燃やし尽くしなさい。≪あれ≫が地上に
存在した証を一つ余さず抹消するんだ』
電話の向こうで相手が歯を剥く気配。
『得意だろう? そういうのは』
葛西は沈黙した。
相手がその静寂をどう解したかは分からなかった。ただ部下に短く激励を送った。
『期待しているよ』
そしてそれきり、通話は途切れる。
夜闇を抱きはじめた住宅街に葛西は一人、切れた携帯を手にしたまま立っている。
季節は冬。ただでさえ低いこの時期の気温は、日が落ちると更に急降下する。手袋をつけていない手は
既にかじかんでいた。シガーマッチを取り出し箱の縁で擦ると、乾ききった空気を灼くかのように、指に馴染んだ暖かさが灯る。
「やれやれ……」
葛西はジョーカーに火を移し、口に咥えて煙を吐いた。
「あっちもこっちもそっちも全く、面倒臭いったらありゃしねえ」
二つ折りの携帯をパチンと畳む。
そのままポケットに突っ込んで、サイのアジトに戻るべく歩き出した。
『誉めているんだろうね?』
「もちろんですよ。最高の誉め言葉です」
笑いを含んだ声が響き渡った。
日暮れの直後。濃紺に染まった空の地平線に、夕日の名残の紅色がうっすらとにじんでいる。つい十分前まで
アスファルトにくっきり伸びていた影も、広がりはじめた夜との境を曖昧にしはじめていた。
住宅街の冷えたコンクリート塀に身を預け、携帯電話を耳に押し当てているのは、アジトを抜け出して
きた葛西である。
「見てるこっちとしちゃあ、面白ぇことこの上ありませんや。笑いをこらえるのはなかなか骨が折れますがね」
携帯を通して葛西の耳に響く声は、低く太く威厳に満ちている。一度電子的に分解されて再構成される過程を
経てさえ、聞く者を威圧するプレッシャーが感じられる。これが生の音声で、かつ本人を目の前にしたなら、
その場に膝を折り頭を垂れ、服従を示さずにはいられないだろう。
葛西はある程度耐性を持っていたが、それでもこの声の主を前に己を保つには多大な努力を必要とする。
奥歯を噛み締め、足元にしっかと踵をつけて、折れないように揺れないように背筋を伸ばしていなければ耐えられない。
今この場で余裕を保っていられるのは距離を隔てているからだ。
『それにしても懐かしいな』
ク、という愉悦の声が耳を嬲る。
『≪あれ≫を造ったのは、そう、もう二十年ばかり前のことになるか。久しく存在すら忘れていたよ。
まさか≪あの子≫と接触することになるとはね』
「バラして中身を見る気満々のようですよ、あなたのお子様は。これが本当の『共食い』ってやつですか。
あーやべえやべえ、笑いが止まらねえ。どっちが勝っても糞面白ぇ展開になりそうだ」
火火火火、と響き渡る独特の笑い声。
『まあ待ちなさい葛西。今回はそう面白がってばかりもいられないんだよ』
ニヤつく葛西に、しかし電話の相手はたしなめるように言った。
『≪あの子≫に≪あれ≫の中身を見られるのは困るんだ。とても困る。ただでさえ散々あの女に阻まれて
連れ戻すのに手間取っているというのに、本人にまで私たちの存在を気取られてしまっては……
分かるだろう?』
「――はい」
歪んだ口元が真一文字に引き結ばれる。
打って変わって神妙な顔で葛西は頷いた。
『かといって公権力の手に渡るのも望ましくない。お前の祖国の警察は厄介だ。上層部はともかく、末端の
捜査員は優秀で勤勉で、且つ正義感の強い者を揃えているからね』
「はあ、『優秀』で『勤勉』ですか? 素顔さらして歩いてる俺に職質もしてこねぇボンクラ揃いの連中が?
お言葉ですがそいつぁ、ちょいとばかし過大評価じゃないですかねえ」
『人間の割には、という意味だよ。何を基準として見るかで、評価なんていくらでも変わるものさ。
――とにかく、≪あれ≫を産み出した技術が外部に漏れるのは非常に都合が悪いんだ』
逸れかけた話題を元に戻し再度強調する。
声音がひときわ重みを帯びた。
『葛西。潜入中に悪いが、緊急の任務だ。≪あれ≫を始末しなさい』
王侯のような口調だった。常に臣下にかしずかれ、彼らに奉仕させることを呼吸するより当然としている
男の言葉だった。
放火魔の頬の筋肉が、ぴくり、と震えた。
住宅の森林の隙間からのぞく、わずかな地平線に視線をやる。薄くにじんでいた紅色は、今や全き紺碧に
駆逐されてしまっていた。
『骨一本、肉の一片たりとも残してはいけない。灰と化すまで燃やし尽くしなさい。≪あれ≫が地上に
存在した証を一つ余さず抹消するんだ』
電話の向こうで相手が歯を剥く気配。
『得意だろう? そういうのは』
葛西は沈黙した。
相手がその静寂をどう解したかは分からなかった。ただ部下に短く激励を送った。
『期待しているよ』
そしてそれきり、通話は途切れる。
夜闇を抱きはじめた住宅街に葛西は一人、切れた携帯を手にしたまま立っている。
季節は冬。ただでさえ低いこの時期の気温は、日が落ちると更に急降下する。手袋をつけていない手は
既にかじかんでいた。シガーマッチを取り出し箱の縁で擦ると、乾ききった空気を灼くかのように、指に馴染んだ暖かさが灯る。
「やれやれ……」
葛西はジョーカーに火を移し、口に咥えて煙を吐いた。
「あっちもこっちもそっちも全く、面倒臭いったらありゃしねえ」
二つ折りの携帯をパチンと畳む。
そのままポケットに突っ込んで、サイのアジトに戻るべく歩き出した。