よぉと声をかけられ、童虎は振り返った。
夜明け前だった。
黄金のマスクに、夜明け前の闇にも鮮やかな金糸銀糸の豪奢で清冽な刺繍の法衣、
長い髪はすっかり白くなってはいるが、その声に老いによる弱さは感じられない。
あの鮮烈な日々から二百と三十の年月が流れ、二人ともに等しく老いていた。
天秤座の童虎、牡羊座のシオン。老師と教皇として聖域の、聖闘士の支柱となっていた二人だった。
夜明け前だった。
黄金のマスクに、夜明け前の闇にも鮮やかな金糸銀糸の豪奢で清冽な刺繍の法衣、
長い髪はすっかり白くなってはいるが、その声に老いによる弱さは感じられない。
あの鮮烈な日々から二百と三十の年月が流れ、二人ともに等しく老いていた。
天秤座の童虎、牡羊座のシオン。老師と教皇として聖域の、聖闘士の支柱となっていた二人だった。
「ホ、珍しいの。
生きておったか、沙汰がないので心配したぞ」
生きておったか、沙汰がないので心配したぞ」
童虎の声には確かに喜びが滲んでいた。
「沙汰がないのは達者の証拠、ともいうぞ。
今年の新酒だ」
今年の新酒だ」
袖の中に隠れていた酒瓶をちゃぽりと揺らす。
シオンもまた喜色を隠さない。
酒瓶の首をつかむ手には、歳月がじっくりと刻まれていた。
節くれだった指の皮膚は張りと生気を失い、肌の色もまたくすんでいる。
それをみて、童虎は苦いものを覚えたが、表に出さず飲み込んだ。
シオンがどっかと彼の目の前に座りこんだからだ。
マスクをとりさると、そこにはあの頃と変わらない表情を浮かべた親友がいた。
「やれやれ、年はとりたくないものだ。
あちこち痛む。
お前、そうして座っていて痛くないのか?」
シオンもまた喜色を隠さない。
酒瓶の首をつかむ手には、歳月がじっくりと刻まれていた。
節くれだった指の皮膚は張りと生気を失い、肌の色もまたくすんでいる。
それをみて、童虎は苦いものを覚えたが、表に出さず飲み込んだ。
シオンがどっかと彼の目の前に座りこんだからだ。
マスクをとりさると、そこにはあの頃と変わらない表情を浮かべた親友がいた。
「やれやれ、年はとりたくないものだ。
あちこち痛む。
お前、そうして座っていて痛くないのか?」
どっこいしょ、という言葉に、苦笑とも自嘲ともつかない笑いを含ませ、
シオンはごぷりと酒瓶を揺らして杯を満たし、童虎に渡す。
シオンはごぷりと酒瓶を揺らして杯を満たし、童虎に渡す。
「なに、馴れじゃ。
しかしな、こうして禅を組んでいるとどうしても腰が曲がるのが難じゃ」
しかしな、こうして禅を組んでいるとどうしても腰が曲がるのが難じゃ」
くっ、と一息で飲み干すと、童虎は酒をとぽとぽと杯に満たす。
シオンは杯を受け取り、くいと飲み干す。
シオンは杯を受け取り、くいと飲み干す。
「旨いな。
まぁ、萎びた爺が注いで旨いのだから、今年は当たり年かな」
まぁ、萎びた爺が注いで旨いのだから、今年は当たり年かな」
憎まれ口も変わらない。
こうして酒を酌み交わすのも変わらない。
ただ、みな彼ら二人より先に逝く。
弟子も、戦友も、想い人も、敵も、味方も、主君も。
…そして、友も。
いくたびか杯を交わすうち、ぽつりと童虎が零した一言に、シオンは唸るようにして黙る。
こうして酒を酌み交わすのも変わらない。
ただ、みな彼ら二人より先に逝く。
弟子も、戦友も、想い人も、敵も、味方も、主君も。
…そして、友も。
いくたびか杯を交わすうち、ぽつりと童虎が零した一言に、シオンは唸るようにして黙る。
「聖戦かね」
アテナの降臨があった事は童虎とて知っている。
「…私は無能な男だ。
先の聖戦においては師の露払いさえできず、冥王を前にして引かねばならなかった。
今でも思う。あの時倒せていれば、とな。
戦友たちは…、死なずにすんだ。」
「…私は無能な男だ。
先の聖戦においては師の露払いさえできず、冥王を前にして引かねばならなかった。
今でも思う。あの時倒せていれば、とな。
戦友たちは…、死なずにすんだ。」
友の告白に童虎はただ黙して聞くのみだ。
「…神の一手先を読んでこその、教皇。
先代セージ様の、わが師ハクレイの、遺志。
継ぐには、私という男は、あまりにも凡愚で…」
先代セージ様の、わが師ハクレイの、遺志。
継ぐには、私という男は、あまりにも凡愚で…」
杯と共にそれから先を飲み込んで、シオンは天を睨む。
「あまりにも、無能だった…。
この二世紀と半、戦の絶えた事はなかった。
その戦に干渉することが禁忌である事は知っていた。
だが、干渉できるだけの力がありながら、あえて触れずにいるには私は若すぎだ」
この二世紀と半、戦の絶えた事はなかった。
その戦に干渉することが禁忌である事は知っていた。
だが、干渉できるだけの力がありながら、あえて触れずにいるには私は若すぎだ」
シオンから受けた杯を童虎は何も言わずに干す。
「戦は、人の世の理。
故に、神の理を代行するアテナの聖闘士は干渉してはならない。
聖闘士の長たるこの私が、一番よくわかっているはずだったのになぁ…。
私利私欲のために、聖闘士の業を用いるものを暗黒というのなら、
この私は、どこまでも黒く澱んだ存在だろうよ…」
故に、神の理を代行するアテナの聖闘士は干渉してはならない。
聖闘士の長たるこの私が、一番よくわかっているはずだったのになぁ…。
私利私欲のために、聖闘士の業を用いるものを暗黒というのなら、
この私は、どこまでも黒く澱んだ存在だろうよ…」
童虎の注いだ杯を受け取るシオンの手は、震えていた。
「…こんなはずじゃなかった。こうなるべきだ。
人は誰しもそう思う。
己ならば、巧くいくだろう。それが、巧くやれるはずだ、
そうなるには時間はかかるまいよ。
そして多くの者は己の理想しか見えず、信じず、揺るがない。
シオン、お前はそうはならなかった。
だれにもできることではないじゃろう。
人の世は虚しいと嘯いて無為に沈むことは、所詮はこんなものと諦める事は、
どうにもならないと切り捨てる事は、誰にだってできる。
だがシオン、お前はそうしなかった。
常に己の正義を問い続ける事、それこそが普遍の正義じゃ。
この世の誰もが、お前を恨もうとも、蔑もうとも、憎もうとも、わしはお前を赦そう。
無明の彼方、善悪の彼岸を越えて幾星霜。
もしお前を赦せるものがあるならば、それはアテナではない。お前の友たるこのわしじゃよ」
「…こんなはずじゃなかった。こうなるべきだ。
人は誰しもそう思う。
己ならば、巧くいくだろう。それが、巧くやれるはずだ、
そうなるには時間はかかるまいよ。
そして多くの者は己の理想しか見えず、信じず、揺るがない。
シオン、お前はそうはならなかった。
だれにもできることではないじゃろう。
人の世は虚しいと嘯いて無為に沈むことは、所詮はこんなものと諦める事は、
どうにもならないと切り捨てる事は、誰にだってできる。
だがシオン、お前はそうしなかった。
常に己の正義を問い続ける事、それこそが普遍の正義じゃ。
この世の誰もが、お前を恨もうとも、蔑もうとも、憎もうとも、わしはお前を赦そう。
無明の彼方、善悪の彼岸を越えて幾星霜。
もしお前を赦せるものがあるならば、それはアテナではない。お前の友たるこのわしじゃよ」
シオンの震える手が杯をうけ、童虎はとつとつと語る。
くっと杯を干し、童虎は最後に「それが、わしの知るシオンという男だ」と締める。
くっと杯を干し、童虎は最後に「それが、わしの知るシオンという男だ」と締める。
「買いかぶりすぎだ…。
酔ったか?」
酔ったか?」
シオンは杯を干すと、悪戯めいた声で応えた。
「ホッホッホ…。
このくらいで酔うほどわしは弱くはないぞ」
「ホッホッホ…。
このくらいで酔うほどわしは弱くはないぞ」
童虎もまた、笑って応えた。
「ならば老いたか?」
「老いもしよう。わしもお前もな」そう童虎は笑ってみせた。
シオンもまたつられたように笑ってみせた。
ことりと童虎の前に杯を置くと、シオンは、邪魔をしたなと立ち上がる。
シオンもまたつられたように笑ってみせた。
ことりと童虎の前に杯を置くと、シオンは、邪魔をしたなと立ち上がる。
「なに、冥闘士どもを監視せねばならんとはいえ、こうして禅を組んだままというのは暇での。
いい暇つぶしになったわい」
いい暇つぶしになったわい」
酔いも老いも感じさせぬ足取りで、シオンはまたなと一声かけて童虎に背を向け歩き出した。
童虎は、おうと一声かえすだけだ。
二人共に分かっているのだ。
「シオン!
次はワシから訪ねよう!
その時にはこの杯をもって行く、良い酒を用意して待っておれ!」
童虎は、おうと一声かえすだけだ。
二人共に分かっているのだ。
「シオン!
次はワシから訪ねよう!
その時にはこの杯をもって行く、良い酒を用意して待っておれ!」
童虎はこらえきれずに叫ぶ。
シオンは振り返らない。
シオンは振り返らない。
「さて、それは楽しみだ」
シオンの声色には、僅かばかりの湿りがあったが、それに触れるほど童虎は無粋ではなく、
それを指摘するほど付き合いの短い相手ではなかった。
それを指摘するほど付き合いの短い相手ではなかった。
「モイライの紡ぐ糸が如何様なものであれ、私は私だ。
クローソーが如何に過酷に編み上げようとも、
ラキシスが如何に奔放に定めようとも、
そして、アトロポスが如何に残酷に断ち切ろうとも、な。
お前のおかげで気づけた。
お前の信じる私ではなく、私の信じるお前でもなく、私の信じる私であればよいのだ…
童虎、ありがとう」
クローソーが如何に過酷に編み上げようとも、
ラキシスが如何に奔放に定めようとも、
そして、アトロポスが如何に残酷に断ち切ろうとも、な。
お前のおかげで気づけた。
お前の信じる私ではなく、私の信じるお前でもなく、私の信じる私であればよいのだ…
童虎、ありがとう」
朝陽の中に溶けるようにして、シオンの姿が消えていく。
友が逝く。
ただ声だけが童虎の耳に残った。
友が逝く。
ただ声だけが童虎の耳に残った。