とっさの身じろぎは間に合わなかった。強靭な顎が、サイの頭部を噛み砕いた。
頭蓋が砕けるめりっという音を聞いたとき、怪盗の体は振り捨てられて、ゴム鞠のように吹っ飛んで
いた。ベテラン船員を模した体は貨物庫の壁に叩きつけられ、人体の構造を無視した形に歪んだ。
通信の向こうでアイが叫ぶ。
『サイ!』
折れた首が、皮と肉だけに支えられてだらんと垂れ下がった。
目は先ほどまでの光を失い、舌のちぎれた口からはどす黒い血が溢れる。穴の開いた頭からは血と
脳漿がこぼれ、床にしたたり汚い染みを作る。
跳躍とともに鮮やかなフックを放った虎は、その巨躯からは信じがたいほどの身軽さで着地した。
耳まで裂けた口からまず黄色い牙が覗き、続いて赤い歯茎が剥き出しになる。紫がかった舌まで晒して、
虎は高らかに咆哮した。忌まわしい檻から解き放たれ、自由を取り戻したことを宣言する吠え声だった。
ぴくりともしなくなったサイに、≪我鬼≫は一瞥もくれず歩き出す。
サイが扉に向けた大穴は、この虎がくぐるにはいささか小さい。五メートル近いこの体躯では無理もない。
≪我鬼≫はグルッと低く唸った。
唸り、そして穴めがけて床を蹴った。
恐ろしい速さで扉に激突する500キロの質量。鋼鉄の引き裂かれる音が船底を揺るがす。
小柄な船体を震撼させた振動がおさまったとき、扉はひしゃげた鉄塊と化し、船倉の片隅にただ転がった。
巨体の突撃は扉のみならず、周囲の壁まで破壊した。穴の空いた船底から、勢いよく海水が噴き出してきた。
流れ込んでくる奔流に構わず、エゴの名を持つ虎は悠然と進む。
約束された玉座へと歩む王者のごとく。
『……サイ?』
一方で打ち倒された怪盗は、再三の呼びかけにも答えない。
頭は三分の一まで破砕され、片方の目まで巻き込んで完全に潰れていた。頚椎は完全に折り砕かれて
いるし、見ればそれ以外にも腕や脚などあちこちの骨が折れてはいけない方向に曲がっている。
ひしゃげた体。開いた瞳孔。停止した心臓。
『サイ、どうかご返答を……』
虎が歩く。優美ささえ感じさせるその身のこなしは、この獰猛な獣が確かに猫から枝分かれした
生き物だと納得させるに足るものだ。
向かう先など決まっている。
船の上へ。
『サイ!』
虎の姿が遠ざかっていく。
それでも怪盗は動かない。
船底に空いた穴からは、恐ろしいほどの勢いで海水が流れ込んでくる。
『サイ……!』
アイの呼びかけが悲痛さを帯びたとき、ミシ、と軋む音がした。
身を貪る蟲が体内で蠢いているようなこの音は、≪我鬼≫が記録映像で響かせたものと寸分たがわぬ音。
胴体からぶら下がり揺れていた首が、ゆっくりと時間をかけて再び持ち上がる。ねじ曲がっていた
手首も、関節のすっかり砕けた膝から下も、ネジ巻き人形のように小刻みに震えながら元の位置へと戻っていく。
砕けた頭部も再生した。まずは土台となる頭蓋骨が、次にそれを取り巻く肉と保護する皮膚が。
最後に髪の毛、そして巻き添えを食って潰れた眼球と復活は続く。
再生が目指すのは壮年の船員ではなく、しなやかな活力に満ちた少年の肉体。
頬がふっくらと丸みを帯びる。ポンプのように打つ心臓から瑞々しい血が次々に送られ、皮膚も
若々しく蘇っていく。
老齢に濁っていた瞳に宿るのは未成熟な輝きと――
「やってくれるじゃん、あのクソ猫」
憤怒に彩られた目で怪盗は呻き、口に溜まった血反吐をプッと吐いた。
五本の指が拳を作る。尖った爪は刃の鋭さを帯びて、やわらかな手のひらに突き刺さった。
頭蓋が砕けるめりっという音を聞いたとき、怪盗の体は振り捨てられて、ゴム鞠のように吹っ飛んで
いた。ベテラン船員を模した体は貨物庫の壁に叩きつけられ、人体の構造を無視した形に歪んだ。
通信の向こうでアイが叫ぶ。
『サイ!』
折れた首が、皮と肉だけに支えられてだらんと垂れ下がった。
目は先ほどまでの光を失い、舌のちぎれた口からはどす黒い血が溢れる。穴の開いた頭からは血と
脳漿がこぼれ、床にしたたり汚い染みを作る。
跳躍とともに鮮やかなフックを放った虎は、その巨躯からは信じがたいほどの身軽さで着地した。
耳まで裂けた口からまず黄色い牙が覗き、続いて赤い歯茎が剥き出しになる。紫がかった舌まで晒して、
虎は高らかに咆哮した。忌まわしい檻から解き放たれ、自由を取り戻したことを宣言する吠え声だった。
ぴくりともしなくなったサイに、≪我鬼≫は一瞥もくれず歩き出す。
サイが扉に向けた大穴は、この虎がくぐるにはいささか小さい。五メートル近いこの体躯では無理もない。
≪我鬼≫はグルッと低く唸った。
唸り、そして穴めがけて床を蹴った。
恐ろしい速さで扉に激突する500キロの質量。鋼鉄の引き裂かれる音が船底を揺るがす。
小柄な船体を震撼させた振動がおさまったとき、扉はひしゃげた鉄塊と化し、船倉の片隅にただ転がった。
巨体の突撃は扉のみならず、周囲の壁まで破壊した。穴の空いた船底から、勢いよく海水が噴き出してきた。
流れ込んでくる奔流に構わず、エゴの名を持つ虎は悠然と進む。
約束された玉座へと歩む王者のごとく。
『……サイ?』
一方で打ち倒された怪盗は、再三の呼びかけにも答えない。
頭は三分の一まで破砕され、片方の目まで巻き込んで完全に潰れていた。頚椎は完全に折り砕かれて
いるし、見ればそれ以外にも腕や脚などあちこちの骨が折れてはいけない方向に曲がっている。
ひしゃげた体。開いた瞳孔。停止した心臓。
『サイ、どうかご返答を……』
虎が歩く。優美ささえ感じさせるその身のこなしは、この獰猛な獣が確かに猫から枝分かれした
生き物だと納得させるに足るものだ。
向かう先など決まっている。
船の上へ。
『サイ!』
虎の姿が遠ざかっていく。
それでも怪盗は動かない。
船底に空いた穴からは、恐ろしいほどの勢いで海水が流れ込んでくる。
『サイ……!』
アイの呼びかけが悲痛さを帯びたとき、ミシ、と軋む音がした。
身を貪る蟲が体内で蠢いているようなこの音は、≪我鬼≫が記録映像で響かせたものと寸分たがわぬ音。
胴体からぶら下がり揺れていた首が、ゆっくりと時間をかけて再び持ち上がる。ねじ曲がっていた
手首も、関節のすっかり砕けた膝から下も、ネジ巻き人形のように小刻みに震えながら元の位置へと戻っていく。
砕けた頭部も再生した。まずは土台となる頭蓋骨が、次にそれを取り巻く肉と保護する皮膚が。
最後に髪の毛、そして巻き添えを食って潰れた眼球と復活は続く。
再生が目指すのは壮年の船員ではなく、しなやかな活力に満ちた少年の肉体。
頬がふっくらと丸みを帯びる。ポンプのように打つ心臓から瑞々しい血が次々に送られ、皮膚も
若々しく蘇っていく。
老齢に濁っていた瞳に宿るのは未成熟な輝きと――
「やってくれるじゃん、あのクソ猫」
憤怒に彩られた目で怪盗は呻き、口に溜まった血反吐をプッと吐いた。
五本の指が拳を作る。尖った爪は刃の鋭さを帯びて、やわらかな手のひらに突き刺さった。
≪我鬼≫は高い知能を有する個体だった。
自分を狭い檻に閉じ込めたのが、あの二本足で歩くぐにゃぐにゃと柔らかい生き物だと理解していた。
自分を狭い檻に閉じ込めたのが、あの二本足で歩くぐにゃぐにゃと柔らかい生き物だと理解していた。
爪も牙も持たぬ脆い彼らにひとときとはいえ制圧されたことに、怒りと屈辱を覚えるだけの矜持もあった。
この場にいる≪二本足≫を一匹残らず根絶やしにする。
自分が味わった屈辱を何十倍にもして返してやる。
今の彼を突き動かしているのは、空腹よりも何よりもその感情。それ以外は何ひとつとして必要ない。
「―――――っ!」
さっき噛み殺した一匹目に続いて、二匹目の二本足を≪我鬼≫は捕捉した。
仲間に緊急事態を知らせようとしたのか、口を開けて一声鳴こうとしたその二本足は、頭部を前足で
軽く撫でてやるとあっけなく地に伏した。みっともなくひくひく痙攣しながら白い泡を吹くそいつに、
喉笛を噛み切ってとどめを刺してやった。
腹を噛み裂くと臓物の味がした。苦い。普段あまり良いものを食っていないらしい。仕方なくその周り
の肉を齧るが、これまた堅くて臭くて食えたものではない。
美食家の≪我鬼≫は、食いかけの二匹目を放置してまた歩き出した。
それにしても、この生き物ときたら何と愚鈍なのだろう。
足はのろく、羽があるわけでも素早く木に登れるわけでもなく、かといって身を守る甲羅や外骨格が
あるわけでもない。こんな連中がなぜ淘汰されず、今日に至るまで生き延びているのか。
「――――!」
「――――――!」
「―――!」
三匹目、四匹目、五匹目。全て瞬きする間もなく終わる。どれも苦く、堅く、臭く、不味かった。
傾ぎはじめた甲板の上で遭遇した六匹目は何か黒いものを持っていて、きいきい甲高い声で鳴きながら
それをこちらに向けてきた。石つぶてのようなものがぴしぴし体に当たったが、猿に木の実を投げつけ
られたほどにも感じなかった。その二本足もやはり不味かったので、足元に広がる黒々とした海めがけて
放り捨ててやった。
七匹目の獲物を探してまた動き出そうとしたそのとき、ふとただならぬ気配を感じて≪我鬼≫は振り向いた。
さっきまでより幾分小柄な二本足だ。子供だろうか。
羊であれ何であれ、子供の肉は総じて大人より柔らかく臭みもない。この二本足ならあるいは、
≪我鬼≫の舌を満足させてくれるかもしれない。
したたる血のうまみを想像して舌なめずりしたとき、ふと妙なことに気づいた。
子供の体から嗅ぎ覚えのある匂いがするのだ。
さっき確かに噛み殺したはずの一匹目の匂いだった。
「楽な仕事と思ってたのに、とんだ見込み違いだったな」
子供が鳴いた。
「随分と舐めた真似してくれたよね、このドラ猫。結構痛かったんだよあれ。目玉まで潰してくれちゃってさ」
なぜ同じ匂いがするのだろう。一匹目の子供だろうか。しかし、たとえ親子といえど、全く同じ匂いの
個体などありえない。
しかし≪我鬼≫はここで浮かんだ疑問を、突き詰めて答えを出そうとは思わなかった。
ただほんの少し警戒を強めただけだ。
「このお返しは高くつくよ!」
≪我鬼≫が動くより、子供が甲板を蹴るほうが先だった。二匹目から六匹目までの半分のサイズしか
ないこの二本足は、彼らとは比較にならないスピードで彼に迫った。
白い前足がひらめく。頼りないほど細いそれが鞭のようにしなり、我鬼の逞しい首に絡みつかんとする。
爪の一撃で打ち払った。小さな体はあっさりはね飛ばされ、生々しい音を立てて潰れるはずだった。
そうはならなかった。その前に、膨れ上がった子供のもう一方の前足が、彼の爪をがっしりと受け止めていた。
血管の浮き出た青黒い皮膚は、めいっぱい剥きだした爪を根元まで飲み込んでいる。とっさに引き
抜こうとするものの、量感のある肉は力を入れれば入れるほど食らいついて離さない。
動けない彼に、子供が牙を剥くのが見えた。それは彼の目に、捕食寸前の肉食獣の顔として映った。
高い知能と本能で≪我鬼≫は悟る。
この目の前の一匹の獣は、今までの獲物とは違う。
自分と同じ食らう側の生き物だ。
――悟った瞬間激痛が走り、大輪の赤い華が咲いた。
すかさず続いた子供の一撃に、≪我鬼≫の頭はざくろのように弾け飛んだ。
この場にいる≪二本足≫を一匹残らず根絶やしにする。
自分が味わった屈辱を何十倍にもして返してやる。
今の彼を突き動かしているのは、空腹よりも何よりもその感情。それ以外は何ひとつとして必要ない。
「―――――っ!」
さっき噛み殺した一匹目に続いて、二匹目の二本足を≪我鬼≫は捕捉した。
仲間に緊急事態を知らせようとしたのか、口を開けて一声鳴こうとしたその二本足は、頭部を前足で
軽く撫でてやるとあっけなく地に伏した。みっともなくひくひく痙攣しながら白い泡を吹くそいつに、
喉笛を噛み切ってとどめを刺してやった。
腹を噛み裂くと臓物の味がした。苦い。普段あまり良いものを食っていないらしい。仕方なくその周り
の肉を齧るが、これまた堅くて臭くて食えたものではない。
美食家の≪我鬼≫は、食いかけの二匹目を放置してまた歩き出した。
それにしても、この生き物ときたら何と愚鈍なのだろう。
足はのろく、羽があるわけでも素早く木に登れるわけでもなく、かといって身を守る甲羅や外骨格が
あるわけでもない。こんな連中がなぜ淘汰されず、今日に至るまで生き延びているのか。
「――――!」
「――――――!」
「―――!」
三匹目、四匹目、五匹目。全て瞬きする間もなく終わる。どれも苦く、堅く、臭く、不味かった。
傾ぎはじめた甲板の上で遭遇した六匹目は何か黒いものを持っていて、きいきい甲高い声で鳴きながら
それをこちらに向けてきた。石つぶてのようなものがぴしぴし体に当たったが、猿に木の実を投げつけ
られたほどにも感じなかった。その二本足もやはり不味かったので、足元に広がる黒々とした海めがけて
放り捨ててやった。
七匹目の獲物を探してまた動き出そうとしたそのとき、ふとただならぬ気配を感じて≪我鬼≫は振り向いた。
さっきまでより幾分小柄な二本足だ。子供だろうか。
羊であれ何であれ、子供の肉は総じて大人より柔らかく臭みもない。この二本足ならあるいは、
≪我鬼≫の舌を満足させてくれるかもしれない。
したたる血のうまみを想像して舌なめずりしたとき、ふと妙なことに気づいた。
子供の体から嗅ぎ覚えのある匂いがするのだ。
さっき確かに噛み殺したはずの一匹目の匂いだった。
「楽な仕事と思ってたのに、とんだ見込み違いだったな」
子供が鳴いた。
「随分と舐めた真似してくれたよね、このドラ猫。結構痛かったんだよあれ。目玉まで潰してくれちゃってさ」
なぜ同じ匂いがするのだろう。一匹目の子供だろうか。しかし、たとえ親子といえど、全く同じ匂いの
個体などありえない。
しかし≪我鬼≫はここで浮かんだ疑問を、突き詰めて答えを出そうとは思わなかった。
ただほんの少し警戒を強めただけだ。
「このお返しは高くつくよ!」
≪我鬼≫が動くより、子供が甲板を蹴るほうが先だった。二匹目から六匹目までの半分のサイズしか
ないこの二本足は、彼らとは比較にならないスピードで彼に迫った。
白い前足がひらめく。頼りないほど細いそれが鞭のようにしなり、我鬼の逞しい首に絡みつかんとする。
爪の一撃で打ち払った。小さな体はあっさりはね飛ばされ、生々しい音を立てて潰れるはずだった。
そうはならなかった。その前に、膨れ上がった子供のもう一方の前足が、彼の爪をがっしりと受け止めていた。
血管の浮き出た青黒い皮膚は、めいっぱい剥きだした爪を根元まで飲み込んでいる。とっさに引き
抜こうとするものの、量感のある肉は力を入れれば入れるほど食らいついて離さない。
動けない彼に、子供が牙を剥くのが見えた。それは彼の目に、捕食寸前の肉食獣の顔として映った。
高い知能と本能で≪我鬼≫は悟る。
この目の前の一匹の獣は、今までの獲物とは違う。
自分と同じ食らう側の生き物だ。
――悟った瞬間激痛が走り、大輪の赤い華が咲いた。
すかさず続いた子供の一撃に、≪我鬼≫の頭はざくろのように弾け飛んだ。
自分と同じ能力を持つこの虎が、頭蓋を打ち砕いた程度で殺せるとは、サイは思わなかった。
放っておけば再生してしまう。ダメージが回復するより早く、容赦ない攻撃を加え続けるほかない。
頭部を失いバランスを崩す巨体の、頚動脈を踵でねじり切った。逞しい前足も踏み折り、念には念を
入れ後ろ足の関節も破壊した。
『サイ、どうか内臓もお忘れなく』
目の前で見てでもいるかのように、アイが忠告した。船倉を出たためか、電波状態は元に戻っていた。
『代謝のシステムそのものを断ち切れば、変異のスピードは格段に落ちます』
「はいはい分かってるよ。いいとこなんだから横から口出さないでよ」
運び出して箱に詰めるという手もあったが、それでは途中で回復してしまうかもしれない。多少飛び
散ってしまうことは覚悟の上で、この場でバラバラにして中身を観察するのが得策だろう。
あまり時間はない。船底の穴から流れ込んだ水は、じわじわとしかし確実に船を夜の海に引きずり
込もうとしている。甲板の傾きは既に、足を踏ん張らないと立つのが辛いほどになっていた。
バキ、グシャ、と音を立て、虎の体は肉塊と化していく。世界を恐怖に震撼させる殺人鬼の顔は、
見る見るうちに血で汚れていく。
「ふうん、あんまり人間と体内構造変わらないな、意外……」
脂でべとついた手を拭いもせずに感想を漏らす。
「そういや情報じゃ、クスリで眠らされてるって話じゃなかったっけ? 動ける状態だって分かってたら
それなりに準備してきたのに。まさか起きて襲ってくるなんて聞いてないよ」
『申し訳ありません』
「まったくだよ、アイ。あとで帰ったらおしおきだからね。罰として粉々になって箱に入ること!」
『それはどうかご勘弁を』
脂の臭気が凄まじいのは、人間を解体するとき同様だ。しかも寒冷地に棲息しているためか、毛皮の
下に相当量の脂肪まで蓄えており、解体を進めるほどにそれが爪の間に入ってぬるぬると滑る。自然と
作業効率も悪くなる。
その間にもギギギと傾いていく甲板。
「ところで、虎でふと思い出したんだけどさ、アイ」
『はい』
「どっかの国の神話に確か、虎が出てくる話なかったっけ? 虎が人間になりたくて神様に頼んでどう
こうってやつ」
どんどん細切れになっていく≪我鬼≫の体。
通信の向こうでアイはしばらく沈黙した。『虎』という要素でしか繋がりのない話題に困惑したのか、
この緊迫した状況でそんな話を持ち出す主人に呆れたのか。
『今度はミソロジーにでも凝り出したのですか、サイ。今は雑談より解体に集中すべきかと存じますが』
「いいじゃんちょっとくらい。で、どんな話だっけ。ちょっと前確かに何かで見たのに、詳しい筋が
思い出せなくてモヤモヤしてるんだよ。あんただったら知ってるでしょ」
優秀な従者は気づかれないようため息をついたつもりだったらしいが、あいにくサイの耳にはしっかり届いていた。
『虎と熊が人間になりたいと天帝の子に願い、願いを叶えてやる代わりに物忌みに励めと言い渡されます。
熊は最後まで真摯に意志を貫いて人の姿を手に入れましたが、虎は途中で投げ出してしまい人間に
なれなかったという物語です。建国神話の常で、熊のほうが今日の人間たちの始祖ということになっています』
「あー、そうそうそうそう、そーいう話。何かのドラマで観たんだった。スッキリしたよ」
『なぜ、突然そんな話を?』
虎が関係する話など他にいくらでもある。アイの疑問はもっともといえばもっともだった。
彼女に見えないのは承知の上で、サイは首を横に振る。
「さあね、俺にもよく分からない。……こないだどっかの魔人に変なこと言われたからかな」
放っておけば再生してしまう。ダメージが回復するより早く、容赦ない攻撃を加え続けるほかない。
頭部を失いバランスを崩す巨体の、頚動脈を踵でねじり切った。逞しい前足も踏み折り、念には念を
入れ後ろ足の関節も破壊した。
『サイ、どうか内臓もお忘れなく』
目の前で見てでもいるかのように、アイが忠告した。船倉を出たためか、電波状態は元に戻っていた。
『代謝のシステムそのものを断ち切れば、変異のスピードは格段に落ちます』
「はいはい分かってるよ。いいとこなんだから横から口出さないでよ」
運び出して箱に詰めるという手もあったが、それでは途中で回復してしまうかもしれない。多少飛び
散ってしまうことは覚悟の上で、この場でバラバラにして中身を観察するのが得策だろう。
あまり時間はない。船底の穴から流れ込んだ水は、じわじわとしかし確実に船を夜の海に引きずり
込もうとしている。甲板の傾きは既に、足を踏ん張らないと立つのが辛いほどになっていた。
バキ、グシャ、と音を立て、虎の体は肉塊と化していく。世界を恐怖に震撼させる殺人鬼の顔は、
見る見るうちに血で汚れていく。
「ふうん、あんまり人間と体内構造変わらないな、意外……」
脂でべとついた手を拭いもせずに感想を漏らす。
「そういや情報じゃ、クスリで眠らされてるって話じゃなかったっけ? 動ける状態だって分かってたら
それなりに準備してきたのに。まさか起きて襲ってくるなんて聞いてないよ」
『申し訳ありません』
「まったくだよ、アイ。あとで帰ったらおしおきだからね。罰として粉々になって箱に入ること!」
『それはどうかご勘弁を』
脂の臭気が凄まじいのは、人間を解体するとき同様だ。しかも寒冷地に棲息しているためか、毛皮の
下に相当量の脂肪まで蓄えており、解体を進めるほどにそれが爪の間に入ってぬるぬると滑る。自然と
作業効率も悪くなる。
その間にもギギギと傾いていく甲板。
「ところで、虎でふと思い出したんだけどさ、アイ」
『はい』
「どっかの国の神話に確か、虎が出てくる話なかったっけ? 虎が人間になりたくて神様に頼んでどう
こうってやつ」
どんどん細切れになっていく≪我鬼≫の体。
通信の向こうでアイはしばらく沈黙した。『虎』という要素でしか繋がりのない話題に困惑したのか、
この緊迫した状況でそんな話を持ち出す主人に呆れたのか。
『今度はミソロジーにでも凝り出したのですか、サイ。今は雑談より解体に集中すべきかと存じますが』
「いいじゃんちょっとくらい。で、どんな話だっけ。ちょっと前確かに何かで見たのに、詳しい筋が
思い出せなくてモヤモヤしてるんだよ。あんただったら知ってるでしょ」
優秀な従者は気づかれないようため息をついたつもりだったらしいが、あいにくサイの耳にはしっかり届いていた。
『虎と熊が人間になりたいと天帝の子に願い、願いを叶えてやる代わりに物忌みに励めと言い渡されます。
熊は最後まで真摯に意志を貫いて人の姿を手に入れましたが、虎は途中で投げ出してしまい人間に
なれなかったという物語です。建国神話の常で、熊のほうが今日の人間たちの始祖ということになっています』
「あー、そうそうそうそう、そーいう話。何かのドラマで観たんだった。スッキリしたよ」
『なぜ、突然そんな話を?』
虎が関係する話など他にいくらでもある。アイの疑問はもっともといえばもっともだった。
彼女に見えないのは承知の上で、サイは首を横に振る。
「さあね、俺にもよく分からない。……こないだどっかの魔人に変なこと言われたからかな」
――懲りずに自らの可能性を求めるがいい、人間よ。
――その可能性を、我が輩はいつでも喰ってやる。
――その可能性を、我が輩はいつでも喰ってやる。
『それは一体、』
アイが更に疑問を差し挟もうとしたとき、虎の体内から、家鳴りにも似たミシ、という不吉な音が響いてきた。
「っ! まずっ……」
再生が始まろうとしている。
隆起を始める骨をサイは掌底で叩き割った。増殖していく肉を引きちぎり踏み潰し、回復を阻もうとする。
予想していたより再生スピードが速い。だがまだ何とかなる。完全な再生まではまだまだ時間がかかる。
そう考えてサイは、再生箇所を破壊するべく腕を振り上げた。
だが次の瞬間起こったことが、サイの予想を根底からくつがえす。
剥き出しの骨を晒した脚が、剥き出しのままに甲板を踏みしめた。ゆっくりと、引き剥がすように
その身が起こされた。
「え……」
筋肉も再生していないはずの体が、半トンの重量を支えて立ち上がった。
半裂けの腹から内臓の汁がこぼれる。引きちぎられた腸も傷口からはみ出、先端はまだ床の上。
――頭蓋も肉も、脳髄さえも晒した有り様で、≪我鬼≫は咆哮した。
「うそだ、ろ……ガッ!?」
サイが絶句するのと、虎が彼の喉笛を噛み破るのが同時だった。ただでさえ血まみれだった少年の体
から、穴の開いたホースのように勢いよく血が噴き出した。
ミシミシと再生を続けながら、≪我鬼≫は柔らかい首筋の肉を咀嚼した。
サイに叩き潰された頭はほとんど骨と肉だけ、表皮も毛もまだほとんど戻っていない。
さながら墓所から蘇ったグールの様相。にもかかわらずこの虎は、王者の風格を失っていなかった。
吐き気をもよおすような凄惨な姿で、それでもなお威厳に満ちた目つきで周囲を睥睨した。
「ぅぐ……はん、そくっ……ガボッ……」
地に仰向けに叩きつけられ、喉からひゅうひゅう音を漏らすサイを、≪我鬼≫は高みから見下ろした。
喉に開いた穴からは、恐ろしい勢いで血が溢れ出ていく。赤いというよりどす黒い液体のうねりは、
傾いだ甲板の上を流れて暗く横たわる海へと向かう。水をたたえた地上の川がそうであるように。
急速に体が冷えていく。
暗いところに引きずり込まれるような眩暈が襲ってきた。
動けない――
『サイ? 今度はどうなさったのですか? サイ!』
空しく響く従者の声。
倒れこんだサイの胸に、彼の胴体ほどある前足が乗せられる。
再生の余裕も与えず覆いかぶさってくる虎の巨体。重みに肋骨がメキメキと音を立てる。
カッと開いた口はむせかえるほど生臭かった。視界いっぱいに広がった口内に虫歯が数本見えた瞬間、
激痛が走った。≪我鬼≫の尖った牙が、胸に深々と突き立っていた。
ただでさえ折れていた肋骨を牙は完膚なきまでに砕き、その内側にまで食い込んだ。
何本かは肺を傷つけ、もう何本かは心臓に穴を開けた。頚動脈を損傷したせいで体内の血は少なく
なっていたが、それでも海へと注ぐ赤い川は水かさを増した。
サイは悲鳴を上げなかった。身悶えながら奥歯を食いしばって痛みに耐えた。
犬歯が引き抜かれる。ほどなくまた突き立てられる。
甲板がひときわ激しく、砕けるような響きとともに傾いた。
沈む。
「っ、くぅ……」
通常人なら死んでいる。人間に限らずどんな獣でも、血液のターミナルを引き裂かれ、心臓を噛み
破られれば命はない。にも関わらずしぶとく生きているサイのもがきを、楽しむかのように≪我鬼≫は
ゆっくりと咀嚼した。
アイが更に疑問を差し挟もうとしたとき、虎の体内から、家鳴りにも似たミシ、という不吉な音が響いてきた。
「っ! まずっ……」
再生が始まろうとしている。
隆起を始める骨をサイは掌底で叩き割った。増殖していく肉を引きちぎり踏み潰し、回復を阻もうとする。
予想していたより再生スピードが速い。だがまだ何とかなる。完全な再生まではまだまだ時間がかかる。
そう考えてサイは、再生箇所を破壊するべく腕を振り上げた。
だが次の瞬間起こったことが、サイの予想を根底からくつがえす。
剥き出しの骨を晒した脚が、剥き出しのままに甲板を踏みしめた。ゆっくりと、引き剥がすように
その身が起こされた。
「え……」
筋肉も再生していないはずの体が、半トンの重量を支えて立ち上がった。
半裂けの腹から内臓の汁がこぼれる。引きちぎられた腸も傷口からはみ出、先端はまだ床の上。
――頭蓋も肉も、脳髄さえも晒した有り様で、≪我鬼≫は咆哮した。
「うそだ、ろ……ガッ!?」
サイが絶句するのと、虎が彼の喉笛を噛み破るのが同時だった。ただでさえ血まみれだった少年の体
から、穴の開いたホースのように勢いよく血が噴き出した。
ミシミシと再生を続けながら、≪我鬼≫は柔らかい首筋の肉を咀嚼した。
サイに叩き潰された頭はほとんど骨と肉だけ、表皮も毛もまだほとんど戻っていない。
さながら墓所から蘇ったグールの様相。にもかかわらずこの虎は、王者の風格を失っていなかった。
吐き気をもよおすような凄惨な姿で、それでもなお威厳に満ちた目つきで周囲を睥睨した。
「ぅぐ……はん、そくっ……ガボッ……」
地に仰向けに叩きつけられ、喉からひゅうひゅう音を漏らすサイを、≪我鬼≫は高みから見下ろした。
喉に開いた穴からは、恐ろしい勢いで血が溢れ出ていく。赤いというよりどす黒い液体のうねりは、
傾いだ甲板の上を流れて暗く横たわる海へと向かう。水をたたえた地上の川がそうであるように。
急速に体が冷えていく。
暗いところに引きずり込まれるような眩暈が襲ってきた。
動けない――
『サイ? 今度はどうなさったのですか? サイ!』
空しく響く従者の声。
倒れこんだサイの胸に、彼の胴体ほどある前足が乗せられる。
再生の余裕も与えず覆いかぶさってくる虎の巨体。重みに肋骨がメキメキと音を立てる。
カッと開いた口はむせかえるほど生臭かった。視界いっぱいに広がった口内に虫歯が数本見えた瞬間、
激痛が走った。≪我鬼≫の尖った牙が、胸に深々と突き立っていた。
ただでさえ折れていた肋骨を牙は完膚なきまでに砕き、その内側にまで食い込んだ。
何本かは肺を傷つけ、もう何本かは心臓に穴を開けた。頚動脈を損傷したせいで体内の血は少なく
なっていたが、それでも海へと注ぐ赤い川は水かさを増した。
サイは悲鳴を上げなかった。身悶えながら奥歯を食いしばって痛みに耐えた。
犬歯が引き抜かれる。ほどなくまた突き立てられる。
甲板がひときわ激しく、砕けるような響きとともに傾いた。
沈む。
「っ、くぅ……」
通常人なら死んでいる。人間に限らずどんな獣でも、血液のターミナルを引き裂かれ、心臓を噛み
破られれば命はない。にも関わらずしぶとく生きているサイのもがきを、楽しむかのように≪我鬼≫は
ゆっくりと咀嚼した。
ざぐり、と牙が突き刺さる。
一方的に嬲られ弄ばれる。
玩具のように。
人形のように。
一方的に嬲られ弄ばれる。
玩具のように。
人形のように。
――冗談ではない。
鈍い音がした。食いしばった奥歯が割れた音だった。
口の中に血の味が広がる。苦く塩辛い屈辱の血が。
その屈辱こそが、サイが身を跳ね起こすバネになった。
組みついたのは≪我鬼≫の首。三度目の牙を食い込ませようとしていた虎の、恐らくは最も脆く弱い部分。
グァウ、と≪我鬼≫がもがいた。
血が足りない。酸素を取り込む肺腑もそれを手足に送る心臓も、今やただの肉の塊だ。
何度も振り落とされそうになりながら、それでもサイは華奢な腕に力を込める。血でも肉でもなく、
この不遜な虎への煮えたぎるような怒りこそが彼に燃料を与える。腕をいっぱいに使って、一抱えはある
逞しい首をぎりぎりと締め上げていく。
苦悶の吼え声が上がった。
しがみついた巨躯がめちゃめちゃに暴れだした。
視界が上下左右前後する。ジェットコースターのように激しく揺さぶられる。頭痛と浮遊感と吐き気が
同時に襲ってくる。
だが容赦はしない。ここで狙うのは窒息死ではない。肺をずだ袋にされたサイが今こうして動いている
ように、恐らく≪我鬼≫も呼吸を奪われても行動可能だ。狙いは頚椎を折ることにこそあった。
「こ、の……ドラ猫っ!」
吼えた瞬間、めきっ、と確かな手ごたえが腕に伝わった。
猛虎の首の骨が折れる感触。
重みのある頭がおかしな方向にねじ曲がる。組みついたサイを振り払おうともがき続けていた体から、
すべての抵抗を放棄するように力が抜けていく。
やった、と思った。
だが征服の笑みを口元に浮かべるより早く、虎の後ろ足が甲板を蹴っていた。
「え、」
気づいたときにはもう遅い。
≪我鬼≫の体は、首にしがみついた怪盗とともに、黒くとどろく大海へと飛び込んでいた。
暗い水面が眼前に広がった。弾けるような音とともに叩きつけられた海面は、液体というより板壁の
ように一人と一頭を受け止めた。
喉と胸。大穴と化した傷口から塩水が流れ込む。海水の冷たさに加え、常人ならショック死必至の
激痛がサイを苛む。
酸素と血液の不足を押して動かしていた手足は、もはや言うことを聞いてはくれない。
ゴボッ、と、大きな泡が体から漏れた。口でも鼻でもなく、喉に開いた傷から噴き上がった泡だった。
黒い海の奥底で意識を手放す寸前、金色にきらめく巨体が水面へ昇っていくのを見た気がした。
口の中に血の味が広がる。苦く塩辛い屈辱の血が。
その屈辱こそが、サイが身を跳ね起こすバネになった。
組みついたのは≪我鬼≫の首。三度目の牙を食い込ませようとしていた虎の、恐らくは最も脆く弱い部分。
グァウ、と≪我鬼≫がもがいた。
血が足りない。酸素を取り込む肺腑もそれを手足に送る心臓も、今やただの肉の塊だ。
何度も振り落とされそうになりながら、それでもサイは華奢な腕に力を込める。血でも肉でもなく、
この不遜な虎への煮えたぎるような怒りこそが彼に燃料を与える。腕をいっぱいに使って、一抱えはある
逞しい首をぎりぎりと締め上げていく。
苦悶の吼え声が上がった。
しがみついた巨躯がめちゃめちゃに暴れだした。
視界が上下左右前後する。ジェットコースターのように激しく揺さぶられる。頭痛と浮遊感と吐き気が
同時に襲ってくる。
だが容赦はしない。ここで狙うのは窒息死ではない。肺をずだ袋にされたサイが今こうして動いている
ように、恐らく≪我鬼≫も呼吸を奪われても行動可能だ。狙いは頚椎を折ることにこそあった。
「こ、の……ドラ猫っ!」
吼えた瞬間、めきっ、と確かな手ごたえが腕に伝わった。
猛虎の首の骨が折れる感触。
重みのある頭がおかしな方向にねじ曲がる。組みついたサイを振り払おうともがき続けていた体から、
すべての抵抗を放棄するように力が抜けていく。
やった、と思った。
だが征服の笑みを口元に浮かべるより早く、虎の後ろ足が甲板を蹴っていた。
「え、」
気づいたときにはもう遅い。
≪我鬼≫の体は、首にしがみついた怪盗とともに、黒くとどろく大海へと飛び込んでいた。
暗い水面が眼前に広がった。弾けるような音とともに叩きつけられた海面は、液体というより板壁の
ように一人と一頭を受け止めた。
喉と胸。大穴と化した傷口から塩水が流れ込む。海水の冷たさに加え、常人ならショック死必至の
激痛がサイを苛む。
酸素と血液の不足を押して動かしていた手足は、もはや言うことを聞いてはくれない。
ゴボッ、と、大きな泡が体から漏れた。口でも鼻でもなく、喉に開いた傷から噴き上がった泡だった。
黒い海の奥底で意識を手放す寸前、金色にきらめく巨体が水面へ昇っていくのを見た気がした。
次に目を覚ましたとき、サイは蛍光灯で照らされたベッドの上にいた。
リネンの感触。詰まった羽毛のやわらかさ。耳元でさらさらと音を立てる蕎麦殻の枕。
船員に化けているとき身につけていた、作業着めいた制服は消失していた。代わりに全身におびただしく
包帯が巻かれ、とりわけ首と胸は執拗なまでに固定されていた。
試しに深く息をしてみる。
吸った空気は喉を通り気管を抜け、肺を介して血液に取り込まれる。心臓は規則正しく脈打って
その血液を全身に送り出す。何ひとつとして問題はない。
変異する細胞が、傷ついた体を完全に治癒していた。
「おはようございます」
通信機ではなく肉声で響いたアイの声に、サイは振り向く。
これが生き方ですとでも言わんばかりにぴんと真っ直ぐ伸びた背筋も、いまどき幼女でもしないような
二つ結びも、何もかもがいつも通りだった。違いといえば、その手の中に替えの包帯があることくらいだ。
「ねえ……」
サイが問いを発するより先に、アイは必要な情報を口にした。
「電波が完全に途絶えたので、不審に思って海中を捜索しました。海草に絡まったおかげで沖に流されず
に済んだようです。早期に発見できたのは幸運だったと思います」
言葉のひとつひとつが淀みなく滑らかだった。
『無事でよかった』とも『心配しました』とも言わず、ただ事実のみを淡々と並べる。美白を求める
世の女たちの嫉妬を買いそうな白い顔は、いっそ仮面のようでさえある。
かつて国家テロリストとして恐れられたこの女には、湿っぽい感情など存在しない。プロの工作員として
実践を積む間に、削ぎ落とされて摩滅してしまった。サイの精神が寄せては返す夏の海なら、この女の
それは凍てついた冬の湖だ。
額に手のひらを押し当て、サイは鼻を鳴らした。
「そう、あんたが見つけたの、俺を」
「はい」
特に礼など口にしない。この女は彼の従者だ。従者として当然のつとめを果たしたにすぎないのだ。
また、感謝を述べたところで喜ぶ顔を見せるような可愛げのある女でもない。
小さく息を吐くサイの前に、水をたたえたグラスが差し出された。
そういえば喉が渇いている。感覚とはおかしなもので、自覚した瞬間に喉がひりつきはじめた。サイは
従者の手からグラスをひったくり、冷えた中身を喉奥に注ぎ込むようにがぶ飲みした。
サイが水を飲み干すのを待ってから、アイはきわめて事務的に続けた。
「海中からあなたを引き上げてから、三十八時間が経過しています。勝手とは思いましたが、意識を
失っている間に種々の検査と、適切と思われる処置を行わせていただきました。具体的には肺の……」
「細かいことは別にいいから。どうせチンプンカンプンだし。そんなどうでもいいようなことなんかより」
空になったグラスをぐいと突き出す。アイがそれを受け取る。
投げかけた問いは、ちぎれる寸前まで引っ張ったゴムのように張り詰めていた。
「あの虎は?」
アイは答えなかった。答える代わりに動いた。
ベッドの脇に、薄型テレビが一台置かれている。アイはリモコンを手に取ると、ディスプレイに向かって
スイッチを入れた。
液晶に灯った光が映像を結ぶ。
映るのは血まみれのアスファルト。
『……きょう早朝六時三十分ごろ、都内の住宅街で、十六世帯八十七人の男女の惨殺体が発見されました』
映像が切り替わる。
チョークの落書きが残るコンクリート塀。全国どこにでもある『花』と書かれた看板。スーパーらしき
建物の荒々しく割れた窓。その全てに激しく飛び散った血。
血の色は一様ではない。大量にしぶきで真っ黒に染まったところから、赤茶けたかすれが残っている
だけの箇所まで様々だった。今はどれもすっかり乾いているが、付着直後はもっとどろどろと粘ついて
いたはずだ。
『警察の調べによるとこの八十七人は、きのう二十三時ごろからきょう未明にかけて殺害されたものと
思われます。類似の事件は、きのう同区のマンションで十一世帯五十一人が殺害された事件に続き、
二度目となります』
アナウンサーが解説する。普段はやけに平べったい声の男だが、今回は興奮しているらしく唾を飛ば
さん勢いで喋っている。
幾重にも貼られた『立入禁止』の黄色いテープが大映しになる。
『一部の遺体に、動物に食い荒らされたような跡があったなどの情報もあり、警察は現在も捜査を進めて
います……』
無表情なアイの顔が、ゆっくりとサイに向いた。
言葉は簡潔だった。
「≪我鬼≫です」
サイの眉毛が跳ね上がった。
画面の中で報道は続く。閑静な住宅街の一角が全滅するというこの凄惨な事件に、局は予定を変更して
特番を組むかまえらしい。加熱しつづけるアナウンサーの声は、しかし少年の耳を素通りしていく。
あの夜歯軋りで割れてしまった奥歯も、肋骨や心臓同様再生していた。エナメル質が互いにすり潰し
あう、不快な音が頭蓋を通して耳に響いた。
「アイ。蛭と連絡はとれる?」
「はい、専用の携帯を渡してあります」
「葛西は?」
「恐れながらサイ、ここで彼を使うのは好ましくないと考えますが」
「あんたの意見なんか聞いてないよ。連絡つくかつかないかって聞いてるんだよ」
つっけんどんに言い放ちサイは腕を組んだ。
彼を観察し慣れているアイなら気づいただろう。独特のきらめきを振りまく目に、今は不可視の炎が
燃えていることに。
「大至急あの二人を連れてきて。あのドラ猫に目に物見せてやる」
唇の間から覗いた歯先は、肉食獣のそれのように鋭く尖っていた。
リネンの感触。詰まった羽毛のやわらかさ。耳元でさらさらと音を立てる蕎麦殻の枕。
船員に化けているとき身につけていた、作業着めいた制服は消失していた。代わりに全身におびただしく
包帯が巻かれ、とりわけ首と胸は執拗なまでに固定されていた。
試しに深く息をしてみる。
吸った空気は喉を通り気管を抜け、肺を介して血液に取り込まれる。心臓は規則正しく脈打って
その血液を全身に送り出す。何ひとつとして問題はない。
変異する細胞が、傷ついた体を完全に治癒していた。
「おはようございます」
通信機ではなく肉声で響いたアイの声に、サイは振り向く。
これが生き方ですとでも言わんばかりにぴんと真っ直ぐ伸びた背筋も、いまどき幼女でもしないような
二つ結びも、何もかもがいつも通りだった。違いといえば、その手の中に替えの包帯があることくらいだ。
「ねえ……」
サイが問いを発するより先に、アイは必要な情報を口にした。
「電波が完全に途絶えたので、不審に思って海中を捜索しました。海草に絡まったおかげで沖に流されず
に済んだようです。早期に発見できたのは幸運だったと思います」
言葉のひとつひとつが淀みなく滑らかだった。
『無事でよかった』とも『心配しました』とも言わず、ただ事実のみを淡々と並べる。美白を求める
世の女たちの嫉妬を買いそうな白い顔は、いっそ仮面のようでさえある。
かつて国家テロリストとして恐れられたこの女には、湿っぽい感情など存在しない。プロの工作員として
実践を積む間に、削ぎ落とされて摩滅してしまった。サイの精神が寄せては返す夏の海なら、この女の
それは凍てついた冬の湖だ。
額に手のひらを押し当て、サイは鼻を鳴らした。
「そう、あんたが見つけたの、俺を」
「はい」
特に礼など口にしない。この女は彼の従者だ。従者として当然のつとめを果たしたにすぎないのだ。
また、感謝を述べたところで喜ぶ顔を見せるような可愛げのある女でもない。
小さく息を吐くサイの前に、水をたたえたグラスが差し出された。
そういえば喉が渇いている。感覚とはおかしなもので、自覚した瞬間に喉がひりつきはじめた。サイは
従者の手からグラスをひったくり、冷えた中身を喉奥に注ぎ込むようにがぶ飲みした。
サイが水を飲み干すのを待ってから、アイはきわめて事務的に続けた。
「海中からあなたを引き上げてから、三十八時間が経過しています。勝手とは思いましたが、意識を
失っている間に種々の検査と、適切と思われる処置を行わせていただきました。具体的には肺の……」
「細かいことは別にいいから。どうせチンプンカンプンだし。そんなどうでもいいようなことなんかより」
空になったグラスをぐいと突き出す。アイがそれを受け取る。
投げかけた問いは、ちぎれる寸前まで引っ張ったゴムのように張り詰めていた。
「あの虎は?」
アイは答えなかった。答える代わりに動いた。
ベッドの脇に、薄型テレビが一台置かれている。アイはリモコンを手に取ると、ディスプレイに向かって
スイッチを入れた。
液晶に灯った光が映像を結ぶ。
映るのは血まみれのアスファルト。
『……きょう早朝六時三十分ごろ、都内の住宅街で、十六世帯八十七人の男女の惨殺体が発見されました』
映像が切り替わる。
チョークの落書きが残るコンクリート塀。全国どこにでもある『花』と書かれた看板。スーパーらしき
建物の荒々しく割れた窓。その全てに激しく飛び散った血。
血の色は一様ではない。大量にしぶきで真っ黒に染まったところから、赤茶けたかすれが残っている
だけの箇所まで様々だった。今はどれもすっかり乾いているが、付着直後はもっとどろどろと粘ついて
いたはずだ。
『警察の調べによるとこの八十七人は、きのう二十三時ごろからきょう未明にかけて殺害されたものと
思われます。類似の事件は、きのう同区のマンションで十一世帯五十一人が殺害された事件に続き、
二度目となります』
アナウンサーが解説する。普段はやけに平べったい声の男だが、今回は興奮しているらしく唾を飛ば
さん勢いで喋っている。
幾重にも貼られた『立入禁止』の黄色いテープが大映しになる。
『一部の遺体に、動物に食い荒らされたような跡があったなどの情報もあり、警察は現在も捜査を進めて
います……』
無表情なアイの顔が、ゆっくりとサイに向いた。
言葉は簡潔だった。
「≪我鬼≫です」
サイの眉毛が跳ね上がった。
画面の中で報道は続く。閑静な住宅街の一角が全滅するというこの凄惨な事件に、局は予定を変更して
特番を組むかまえらしい。加熱しつづけるアナウンサーの声は、しかし少年の耳を素通りしていく。
あの夜歯軋りで割れてしまった奥歯も、肋骨や心臓同様再生していた。エナメル質が互いにすり潰し
あう、不快な音が頭蓋を通して耳に響いた。
「アイ。蛭と連絡はとれる?」
「はい、専用の携帯を渡してあります」
「葛西は?」
「恐れながらサイ、ここで彼を使うのは好ましくないと考えますが」
「あんたの意見なんか聞いてないよ。連絡つくかつかないかって聞いてるんだよ」
つっけんどんに言い放ちサイは腕を組んだ。
彼を観察し慣れているアイなら気づいただろう。独特のきらめきを振りまく目に、今は不可視の炎が
燃えていることに。
「大至急あの二人を連れてきて。あのドラ猫に目に物見せてやる」
唇の間から覗いた歯先は、肉食獣のそれのように鋭く尖っていた。