昻昇は思い知り、恐怖し、そして安心した。
これまでの昻昇の経験、戦いの中で磨かれた勘が伝えている。今、目の前にいるのは
とんでもない強敵だと。
公園で会話していた時は気付かなかったが、こうして構えて対峙してみると判る。ドラエの
強さ、というより恐ろしさ。彼女は今、全感覚を駆使して昻昇を頭から爪先まで探りに探って、
自らが襲い掛かるのに最適な隙を見つけ出そうとしている。
まるで得体の知れない怪物が無数の触手を伸ばして、全身に巻きつけてくるかのような
感覚。昻昇に体勢の崩れや無駄な力み、精神的な弛緩などが僅かにでも生じれば、そこに
容赦なく、ドラエの必殺の一撃が打ち込まれるだろう。……外見は天使のように可愛く美しく、
女神のように柔らかな優しげな、清楚可憐そのもののメイドさんなのに、だ。
昻昇は冷や汗を浮かべながら安心した。
『は、はっ、良かったぜ。惚れた女だ、どうしたって手加減してしまうだろうと思ってたが、
杞憂だったな。こんなバケモノを相手に手加減なんて、頼まれたってできるものか』
とにかく、ごちゃごちゃ考えていたら気力を消耗する。まずは一撃! と昻昇は先制の
右ローを放った。とりあえず小手調べ、ガードされても回避されても体勢を崩さず次の
攻撃に入れるように力を加減し、渋川のように踏み込んでくることにも警戒しつつ放った、
いわばジャブ的なキックだ。
とはいえ地下闘技場で名を轟かせる昻昇のこと。この一撃だけで並の空手家やキックボクサー
なら、ガードも回避もできずに脚を折られるところだが……
「ッ!?」
ドラエはガードも回避も、渋川のように踏み込んでくることもしなかった。昻昇の右ローに対し、
左膝を少し上げて膝から下だけを外側に振り、自ら昻昇のローにぶつけた、と思ったら
そのままその足を後方に引いたのだ。ドラエの左足の踵が昻昇の右足の踵に、フックのように
引っかかる。昻昇のローの軌道が曲げられて足が、それにつられて体が、引っ張られた。
ガードされても回避されても体勢を崩さないはずの一撃だったが、これは予想外。片足立ちの
昻昇が前方につんのめるとそこに、文字通り「ひと足早く」足を下ろして体勢を整えた
ドラエがいて、
「甘いっ!」
泳ぐ昻昇の手を取って間接を極め、投げた。一瞬にして昻昇の天地が逆転し、頭から地面に
叩きつけられる、ところだったが昻昇は自ら足を強く振り下ろして遠心力で回転を加速、
地面に激突する箇所を背中へとズラした。
もちろん、加速したせいで投げの勢いそのものは増加してしまったわけで、しかも硬い地面、
しかも平らではない。受け身はとったものの背中を強く打った昻昇は、息が詰まって目も眩む。
強い光で焼き付いたような視界の中でドラエの、ナイフのような手刀が降って来る。昻昇は
地面を芋虫のように転がって距離を取り、乱れた呼吸を整えながら立ち上がって構え直した。
眼前に立つドラエも構えている。だがこちらは呼吸など乱さず、汗の一滴も浮かべていない。
……試合開始直後のたった一発のローから、三秒足らずの間に、これだ。
これまでの昻昇の経験、戦いの中で磨かれた勘が伝えている。今、目の前にいるのは
とんでもない強敵だと。
公園で会話していた時は気付かなかったが、こうして構えて対峙してみると判る。ドラエの
強さ、というより恐ろしさ。彼女は今、全感覚を駆使して昻昇を頭から爪先まで探りに探って、
自らが襲い掛かるのに最適な隙を見つけ出そうとしている。
まるで得体の知れない怪物が無数の触手を伸ばして、全身に巻きつけてくるかのような
感覚。昻昇に体勢の崩れや無駄な力み、精神的な弛緩などが僅かにでも生じれば、そこに
容赦なく、ドラエの必殺の一撃が打ち込まれるだろう。……外見は天使のように可愛く美しく、
女神のように柔らかな優しげな、清楚可憐そのもののメイドさんなのに、だ。
昻昇は冷や汗を浮かべながら安心した。
『は、はっ、良かったぜ。惚れた女だ、どうしたって手加減してしまうだろうと思ってたが、
杞憂だったな。こんなバケモノを相手に手加減なんて、頼まれたってできるものか』
とにかく、ごちゃごちゃ考えていたら気力を消耗する。まずは一撃! と昻昇は先制の
右ローを放った。とりあえず小手調べ、ガードされても回避されても体勢を崩さず次の
攻撃に入れるように力を加減し、渋川のように踏み込んでくることにも警戒しつつ放った、
いわばジャブ的なキックだ。
とはいえ地下闘技場で名を轟かせる昻昇のこと。この一撃だけで並の空手家やキックボクサー
なら、ガードも回避もできずに脚を折られるところだが……
「ッ!?」
ドラエはガードも回避も、渋川のように踏み込んでくることもしなかった。昻昇の右ローに対し、
左膝を少し上げて膝から下だけを外側に振り、自ら昻昇のローにぶつけた、と思ったら
そのままその足を後方に引いたのだ。ドラエの左足の踵が昻昇の右足の踵に、フックのように
引っかかる。昻昇のローの軌道が曲げられて足が、それにつられて体が、引っ張られた。
ガードされても回避されても体勢を崩さないはずの一撃だったが、これは予想外。片足立ちの
昻昇が前方につんのめるとそこに、文字通り「ひと足早く」足を下ろして体勢を整えた
ドラエがいて、
「甘いっ!」
泳ぐ昻昇の手を取って間接を極め、投げた。一瞬にして昻昇の天地が逆転し、頭から地面に
叩きつけられる、ところだったが昻昇は自ら足を強く振り下ろして遠心力で回転を加速、
地面に激突する箇所を背中へとズラした。
もちろん、加速したせいで投げの勢いそのものは増加してしまったわけで、しかも硬い地面、
しかも平らではない。受け身はとったものの背中を強く打った昻昇は、息が詰まって目も眩む。
強い光で焼き付いたような視界の中でドラエの、ナイフのような手刀が降って来る。昻昇は
地面を芋虫のように転がって距離を取り、乱れた呼吸を整えながら立ち上がって構え直した。
眼前に立つドラエも構えている。だがこちらは呼吸など乱さず、汗の一滴も浮かべていない。
……試合開始直後のたった一発のローから、三秒足らずの間に、これだ。
「強い」
刃牙が唸った。隣では紅葉も戦慄している。
あのご老公が目をつけた柔術の達人だ、かなりの腕前だろうと思ってはいた。が、
ドラエの技量は刃牙のそんな予想を遥かに上回っていたのだ。
昻昇の攻撃がまるで通じない。クリーンヒットを全く許さない。昻昇の渾身の突きも蹴りも、
投げ返されるか、回避されるか。何発かに一度、ガードさせるのが精一杯だ。
体重差が大きいので、ガードの上から叩くだけでもダメージは通っている。事実、ドラエの
呼吸は少しずつ乱れてきているし、腕にも痺れがあるのだろう、徐々に昻昇の攻撃に対する
捌きが鈍りつつある。
が、昻昇が受けているダメージの方がずっと大きい。何度も何度も地に叩き付けられ、
当身を喰らい、意識を失いそうになりながら気力を振り絞って構える……その繰り返しだ。
このまま続ければ、遠からず昻昇は敗れるだろう。そのことは昻昇自身が一番深く理解
しているはずだ。
『ここから逆転するとなると……あれしかないな。どうする、昻昇さん?』
刃牙が唸った。隣では紅葉も戦慄している。
あのご老公が目をつけた柔術の達人だ、かなりの腕前だろうと思ってはいた。が、
ドラエの技量は刃牙のそんな予想を遥かに上回っていたのだ。
昻昇の攻撃がまるで通じない。クリーンヒットを全く許さない。昻昇の渾身の突きも蹴りも、
投げ返されるか、回避されるか。何発かに一度、ガードさせるのが精一杯だ。
体重差が大きいので、ガードの上から叩くだけでもダメージは通っている。事実、ドラエの
呼吸は少しずつ乱れてきているし、腕にも痺れがあるのだろう、徐々に昻昇の攻撃に対する
捌きが鈍りつつある。
が、昻昇が受けているダメージの方がずっと大きい。何度も何度も地に叩き付けられ、
当身を喰らい、意識を失いそうになりながら気力を振り絞って構える……その繰り返しだ。
このまま続ければ、遠からず昻昇は敗れるだろう。そのことは昻昇自身が一番深く理解
しているはずだ。
『ここから逆転するとなると……あれしかないな。どうする、昻昇さん?』
傾斜も凸凹もある悪路ならぬ悪地を、まるで氷の上を滑るような動きでドラエが奔ってくる。
昻昇は迎撃の手刀を繰り出した。が、これまたバナナの皮で転びでもしたのかという速さで
ドラエの進路が急変、昻昇の手刀をかわしながら自らの拳を、昻昇の腕の下を潜って打ち込む。
人間に備わる二本の腕と二本の脚は、人間に備わる急所の数々を防御するのに充分、かつ
最低限のものである。どれか一つでも欠けては、致命的な隙(防御不可能な箇所)が生じる。
故に、相手が突きなり蹴りなりを出したその瞬間に打ち込めば、確実に大ダメージを与え
られる。これが「カウンター」や「交差法」と呼ばれるもの(無論これが全てではないが)だ。
もちろん、そんなものが簡単にできれば誰も苦労はしない。実際、なかなかできない。
だからこそ、できた時はどうなるかというと、
「明道流柔術『丁(ひのと)』……」
自らの攻撃を掻い潜られ、昻昇は脇腹に痛烈な一撃を受けた。咄嗟に胴体を捻って
ダメージを和らげたが、体重の軽さを精密な重心操作で補うドラエの拳は、軽くはない。
何度目かの胃液を吐き散らしながら、昻昇は後退した。
ドラエはというと追撃には移らず、構えたまま昻昇をじっと見つめて。それから、言った。
「……昻昇様。このドラエ=タチバナ=ドリャーエフを相手に、いつまでレディーファーストを
貫かれるおつもりですか?」
「!」
「貴方の、鎬流空手の力はこんなものではないでしょう。この局面からでも逆転を可能とする
何かを、貴方が隠し持っておられること。わたくしには判ります」
その通りだ。そしてこの展開はあの、思い出したくもない渋川戦と同じもの。
そう、渋川戦。今にして思えば、あの眼底砕きは変だった。打撃技の専門家たる昻昇の
攻撃を、組み技の専門家たる渋川は余裕たっぷりで捌いていたのだ。なのに最後のあれに
限って、やすやすと昻昇に「つかまえた♪」を許した。
あれはおそらく、いや絶対に、わざとだろう。義眼だから昻昇にやらせたのだ。昻昇の甘さを
戒める為、あるいは……単にイジワルで。多分、両方だ。あのじーさんならやりかねん。
しかしドラエにそれはない。ここまでの攻防で見せた技量から考えても、昻昇がドラエの
頭部に触れた次の瞬間には投げ倒されることは明らかだ。
となれば、やはりあれしかない。鎬流斬撃拳の真髄、奥義。昻昇が絶対の自信を持ち、
だが破れ、そして鍛え直し磨き上げた必殺技。
『……新・紐切り』
昻昇は迎撃の手刀を繰り出した。が、これまたバナナの皮で転びでもしたのかという速さで
ドラエの進路が急変、昻昇の手刀をかわしながら自らの拳を、昻昇の腕の下を潜って打ち込む。
人間に備わる二本の腕と二本の脚は、人間に備わる急所の数々を防御するのに充分、かつ
最低限のものである。どれか一つでも欠けては、致命的な隙(防御不可能な箇所)が生じる。
故に、相手が突きなり蹴りなりを出したその瞬間に打ち込めば、確実に大ダメージを与え
られる。これが「カウンター」や「交差法」と呼ばれるもの(無論これが全てではないが)だ。
もちろん、そんなものが簡単にできれば誰も苦労はしない。実際、なかなかできない。
だからこそ、できた時はどうなるかというと、
「明道流柔術『丁(ひのと)』……」
自らの攻撃を掻い潜られ、昻昇は脇腹に痛烈な一撃を受けた。咄嗟に胴体を捻って
ダメージを和らげたが、体重の軽さを精密な重心操作で補うドラエの拳は、軽くはない。
何度目かの胃液を吐き散らしながら、昻昇は後退した。
ドラエはというと追撃には移らず、構えたまま昻昇をじっと見つめて。それから、言った。
「……昻昇様。このドラエ=タチバナ=ドリャーエフを相手に、いつまでレディーファーストを
貫かれるおつもりですか?」
「!」
「貴方の、鎬流空手の力はこんなものではないでしょう。この局面からでも逆転を可能とする
何かを、貴方が隠し持っておられること。わたくしには判ります」
その通りだ。そしてこの展開はあの、思い出したくもない渋川戦と同じもの。
そう、渋川戦。今にして思えば、あの眼底砕きは変だった。打撃技の専門家たる昻昇の
攻撃を、組み技の専門家たる渋川は余裕たっぷりで捌いていたのだ。なのに最後のあれに
限って、やすやすと昻昇に「つかまえた♪」を許した。
あれはおそらく、いや絶対に、わざとだろう。義眼だから昻昇にやらせたのだ。昻昇の甘さを
戒める為、あるいは……単にイジワルで。多分、両方だ。あのじーさんならやりかねん。
しかしドラエにそれはない。ここまでの攻防で見せた技量から考えても、昻昇がドラエの
頭部に触れた次の瞬間には投げ倒されることは明らかだ。
となれば、やはりあれしかない。鎬流斬撃拳の真髄、奥義。昻昇が絶対の自信を持ち、
だが破れ、そして鍛え直し磨き上げた必殺技。
『……新・紐切り』