退屈な午後だった。予定もなければ気力もない。中途半端な暑さだけが大気中を漂って
いる。時計の針までもが気だるく動いているような錯覚を受ける。
シコルスキーは部屋で寝転がりながら小説に目をやっていた。読んでいるわけではない。
単に目で追っているだけ。字を読む活力すら失われている。
一方、同居人であるゲバルは小さな瓶に耳を当てていた。身体を一切動かさないという
点ではシコルスキーと同様だが、こちらは真剣な表情で耳を澄ませている。
退屈に耐えかねたシコルスキーが尋ねる。
「ゲバル、さっきから何をやっているんだ?」
ゲバルが瓶から耳を離し、答えた。
「故郷の音を聴いていたんだ」
「故郷の音?」
「雨と風と波と雷が、この中には詰まっている」
再び耳を瓶にくっつけるゲバル。
「もし、蓋を開けたらどうなるんだ?」
「決して開けるな。しけい荘を水没させたいなら別だが」
忠告するゲバルの目は本気(リアル)だった。
結局これ以上瓶について知ることはできず、日は暮れ、退屈な午後は終わりを告げた。
いる。時計の針までもが気だるく動いているような錯覚を受ける。
シコルスキーは部屋で寝転がりながら小説に目をやっていた。読んでいるわけではない。
単に目で追っているだけ。字を読む活力すら失われている。
一方、同居人であるゲバルは小さな瓶に耳を当てていた。身体を一切動かさないという
点ではシコルスキーと同様だが、こちらは真剣な表情で耳を澄ませている。
退屈に耐えかねたシコルスキーが尋ねる。
「ゲバル、さっきから何をやっているんだ?」
ゲバルが瓶から耳を離し、答えた。
「故郷の音を聴いていたんだ」
「故郷の音?」
「雨と風と波と雷が、この中には詰まっている」
再び耳を瓶にくっつけるゲバル。
「もし、蓋を開けたらどうなるんだ?」
「決して開けるな。しけい荘を水没させたいなら別だが」
忠告するゲバルの目は本気(リアル)だった。
結局これ以上瓶について知ることはできず、日は暮れ、退屈な午後は終わりを告げた。
禁止されると実行したくなる。並外れた自制心がなければ抑えられぬ、人間心理の一種。
シコルスキーは瓶の中身が気になって仕方なかった。
普段、小瓶はロッカーの中に無造作に置かれている。厳重に保管されているわけではな
いので、開けるだけなら簡単にできるはず。
「……やってやる」
シコルスキーの決意はセメントのようにいとも簡単に固まった。
夕食後、ゲバルは必ず夜道を十五分ほど散歩する。決行はその時だ。
この日の献立は食パンと梅干し。和と洋が絶妙にブレンドされた一品である。あっとい
う間に平らげると、
「ちょっと散歩してくるよ」
ゲバルは出かけて行った。
シコルスキーの胸が高鳴る。十五分あれば「蓋を開けて中身を確かめて蓋を閉じる」一
連の行動を済ますことはたやすい。
「よし……開けるぞ」
なぜか忍び足でロッカーに近づくシコルスキー。
直後、いきなり部屋のドアが開いた。喉から心臓が飛び出しそうになりながら、あわて
てシコルスキーは元の位置に戻る。
入ってきたのは、ついさっき散歩に出かけたゲバルだった。
「全然月が見えなくてさァ……雨も降りそうだったし、散歩は止めたよ。あれ、なんで体
育座りしてるんだ」
「え?! いや、あ、好きなんだよ、体育座り」
「ふぅん……」
掴みかけたチャンスが一瞬にして水泡と化した。掴めるのはいつもナットやスプリンク
ラーばかり。シコルスキーは己の運命(さだめ)を呪った。
今夜はもう無理だと判断し、布団を敷くシコルスキー。こういう日は早く諦めて寝るに
限る。
するとまたもドアが開かれた。今度はドイルだった。
「二人とも、起きてるか? 上等なアードベッグが手に入ってたんだ。私の部屋で一杯や
らないか?」
嬉しそうに立ち上がるゲバル。
「いいねぇ、是非」
「シコルスキーは?」
「インフルエンザなんで遠慮するよ」
「そうか。じゃあゲバル、201号室に来てくれ」
まもなく二人ともドアの外に消えていった。再度興奮状態に陥るシコルスキー。
「ふ……ふしゅる……ふしゅ……。きっとスプリンクラーの神が味方してくれたに違いな
いッ!」
彼くらいしか信仰者がいそうもない神に感謝しつつ、シコルスキーは再びロッカーの前
に立った。
──迷いはない。
ロッカーを開く。小瓶を取り出す。蓋を開ける。神速の三動作であった。
「こ、これは……ッ!」
世界が変わった。
猛烈な嵐が飛び出した。この世に災厄をもたらしたパンドラの箱のような、絶望的な勢
い。雷雨がシコルスキーを穿ち、津波がシコルスキーを呑み込む。
とはいえシコルスキーも歴戦の勇者、冷静に対処しようとする。
「そ、そうだ……死んだふりだ」
全く冷静ではなかった。
しかし嵐は程なくして収まり、ずぶ濡れになったはずの体も乾いていた。
「──あれ?」
瓶は空っぽ。散らかったはずの部屋も何事もなかったかのように落ち着いている。シコ
ルスキーは一つの結論に至った。
「い、今のは……イメージだったのか……?」
あとは瓶を元通りにしまっておけば、もうゲバルに発覚することはない。だが無断で瓶
を開けてしまった罪悪感が、シコルスキーを内側から責め立てる。
シコルスキーはあることを閃いた。
「お詫びに代わりのものを詰めておこう」
シコルスキーは瓶の中身が気になって仕方なかった。
普段、小瓶はロッカーの中に無造作に置かれている。厳重に保管されているわけではな
いので、開けるだけなら簡単にできるはず。
「……やってやる」
シコルスキーの決意はセメントのようにいとも簡単に固まった。
夕食後、ゲバルは必ず夜道を十五分ほど散歩する。決行はその時だ。
この日の献立は食パンと梅干し。和と洋が絶妙にブレンドされた一品である。あっとい
う間に平らげると、
「ちょっと散歩してくるよ」
ゲバルは出かけて行った。
シコルスキーの胸が高鳴る。十五分あれば「蓋を開けて中身を確かめて蓋を閉じる」一
連の行動を済ますことはたやすい。
「よし……開けるぞ」
なぜか忍び足でロッカーに近づくシコルスキー。
直後、いきなり部屋のドアが開いた。喉から心臓が飛び出しそうになりながら、あわて
てシコルスキーは元の位置に戻る。
入ってきたのは、ついさっき散歩に出かけたゲバルだった。
「全然月が見えなくてさァ……雨も降りそうだったし、散歩は止めたよ。あれ、なんで体
育座りしてるんだ」
「え?! いや、あ、好きなんだよ、体育座り」
「ふぅん……」
掴みかけたチャンスが一瞬にして水泡と化した。掴めるのはいつもナットやスプリンク
ラーばかり。シコルスキーは己の運命(さだめ)を呪った。
今夜はもう無理だと判断し、布団を敷くシコルスキー。こういう日は早く諦めて寝るに
限る。
するとまたもドアが開かれた。今度はドイルだった。
「二人とも、起きてるか? 上等なアードベッグが手に入ってたんだ。私の部屋で一杯や
らないか?」
嬉しそうに立ち上がるゲバル。
「いいねぇ、是非」
「シコルスキーは?」
「インフルエンザなんで遠慮するよ」
「そうか。じゃあゲバル、201号室に来てくれ」
まもなく二人ともドアの外に消えていった。再度興奮状態に陥るシコルスキー。
「ふ……ふしゅる……ふしゅ……。きっとスプリンクラーの神が味方してくれたに違いな
いッ!」
彼くらいしか信仰者がいそうもない神に感謝しつつ、シコルスキーは再びロッカーの前
に立った。
──迷いはない。
ロッカーを開く。小瓶を取り出す。蓋を開ける。神速の三動作であった。
「こ、これは……ッ!」
世界が変わった。
猛烈な嵐が飛び出した。この世に災厄をもたらしたパンドラの箱のような、絶望的な勢
い。雷雨がシコルスキーを穿ち、津波がシコルスキーを呑み込む。
とはいえシコルスキーも歴戦の勇者、冷静に対処しようとする。
「そ、そうだ……死んだふりだ」
全く冷静ではなかった。
しかし嵐は程なくして収まり、ずぶ濡れになったはずの体も乾いていた。
「──あれ?」
瓶は空っぽ。散らかったはずの部屋も何事もなかったかのように落ち着いている。シコ
ルスキーは一つの結論に至った。
「い、今のは……イメージだったのか……?」
あとは瓶を元通りにしまっておけば、もうゲバルに発覚することはない。だが無断で瓶
を開けてしまった罪悪感が、シコルスキーを内側から責め立てる。
シコルスキーはあることを閃いた。
「お詫びに代わりのものを詰めておこう」
ゲバルは次の日も小瓶に向かって耳を澄ませていた。ところが違和感があるのか、時折
首を傾げている。内心でビクビクしながら同じ部屋で本を読むシコルスキー。むろん、内
容を楽しむどころではない。
「……おかしいな」
「どうしたんだ?」
「音がまるで聴こえないんだ。シコルスキー、もしかして蓋を開けたか?」
「いや、知らないな」
平然といってのけた。もう少しで心臓を吐きかけるところだったが。とにかくこうして
しらばっくれていれば、絶対にバレることはない。なにせ証拠がないのだから。
「仕方ない、開けてみるか」
瓶に起きた事態を確かめるべく、ゲバルは自ら封印を解いた。
──すると。
もわっとした臭気を伴い、瓶から巨大なシコルスキーが召喚された。
唖然とするゲバル。
巨大シコルスキーはゲバルに巨大な尻を向けると、思い切り屁をこいた後、満足したよ
うに消滅した。
全てを察したゲバルが目を向けると、シコルスキーはすでに逃げ出す準備をしていた。
「ヤイサホォォォォッ!」
「ダヴァイィィィィッ!」
時刻は正午、命がけの鬼ごっこが開始された。
首を傾げている。内心でビクビクしながら同じ部屋で本を読むシコルスキー。むろん、内
容を楽しむどころではない。
「……おかしいな」
「どうしたんだ?」
「音がまるで聴こえないんだ。シコルスキー、もしかして蓋を開けたか?」
「いや、知らないな」
平然といってのけた。もう少しで心臓を吐きかけるところだったが。とにかくこうして
しらばっくれていれば、絶対にバレることはない。なにせ証拠がないのだから。
「仕方ない、開けてみるか」
瓶に起きた事態を確かめるべく、ゲバルは自ら封印を解いた。
──すると。
もわっとした臭気を伴い、瓶から巨大なシコルスキーが召喚された。
唖然とするゲバル。
巨大シコルスキーはゲバルに巨大な尻を向けると、思い切り屁をこいた後、満足したよ
うに消滅した。
全てを察したゲバルが目を向けると、シコルスキーはすでに逃げ出す準備をしていた。
「ヤイサホォォォォッ!」
「ダヴァイィィィィッ!」
時刻は正午、命がけの鬼ごっこが開始された。