しけい荘から徒歩十分、『コーポ海王』には大家劉海王を始め、十一名の海王が暮らし
ている。元は中国で高名を馳せたというオリバたちに負けず劣らずの格闘士(グラップラ
ー)軍団である。
寂海王は彼らの中で唯一の日本人であり、コーポ海王に引っ越したと同時に近所に彼の
流派『空拳道』の道場を立ち上げた。
彼の理想は高い。空拳道という武術を通じて若者を心身ともに鍛え、日本という国自体
をより良い方向へと導こうとしている。
だからこそ彼は優れた人材を望んでいる。共に空拳道を発展させるために。そんな寂に
とってしけい荘のメンバーは文字通り宝の山である。筋肉の権化オリバを筆頭に、オリン
ピック選手を遥かに凌駕する肉体の持ち主が何人もおり、その上なぜか世の脚光を浴びる
でもなく、平凡な生活を営んでいるのだから。
「私は必ず彼らを手に入れてみせるッ!」
寂のスカウト魂に火がついた。ほぼ毎日のようにしけい荘に訪れ、スカウト活動を行う
寂に対し、皆がうんざりしていた。ただ一人を除いて。
ている。元は中国で高名を馳せたというオリバたちに負けず劣らずの格闘士(グラップラ
ー)軍団である。
寂海王は彼らの中で唯一の日本人であり、コーポ海王に引っ越したと同時に近所に彼の
流派『空拳道』の道場を立ち上げた。
彼の理想は高い。空拳道という武術を通じて若者を心身ともに鍛え、日本という国自体
をより良い方向へと導こうとしている。
だからこそ彼は優れた人材を望んでいる。共に空拳道を発展させるために。そんな寂に
とってしけい荘のメンバーは文字通り宝の山である。筋肉の権化オリバを筆頭に、オリン
ピック選手を遥かに凌駕する肉体の持ち主が何人もおり、その上なぜか世の脚光を浴びる
でもなく、平凡な生活を営んでいるのだから。
「私は必ず彼らを手に入れてみせるッ!」
寂のスカウト魂に火がついた。ほぼ毎日のようにしけい荘に訪れ、スカウト活動を行う
寂に対し、皆がうんざりしていた。ただ一人を除いて。
「なぜだ、なぜ俺を空拳道に入門させてくれないッ!?」
寂の袖にすがりつき、シコルスキーが怒鳴った。寂は心底から冷え切った眼で、シコル
スキーを一瞥した。
「君では日本の若者を導くに相応しくない」
「どうして!」
「君はサムワン君と同じだ。類まれな才能と運動能力を持っているが、敗北に慣れすぎて
しまっている。それでは希望に満ちた若者を指導することはできない」
「……分かったよ」
「分かってくれたかね」
シコルスキーのまだ諦めていなかった。
「だったら、せめて……せめて空拳道の技を一つだけでいいから教えてくれッ!」
目と鼻から汁を垂れ流して土下寝をするシコルスキーに、ついに寂は根負けする。
「……仕方あるまい。道場に来たまえ」
意外にも、道場は至って平均的な雑居ビルの四階に居を構えていた。
「……なんかイメージと違うな」
「都内は地価が高くて、一戸建てはなかなか……」
現実的な会話も程々に、道場に入る二人。外観とは一転、古き良き日本武術の道場が広
がっていた。床には畳が敷き詰められており、壁には門下生の名札が幾つも並んでいる。
上座にある掛け軸『護身』の文字にも武道特有の清潔な力強さが漂っている。
心身のうずきを抑えることができないシコルスキー。
「寂海王! じゃあさっそく俺に技を教えてくれッ!」
「むろんだ。ただしこれから私が教える技は、強くなるための技ではない」
「なんだって?」
「シコルスキー君、君のような若者が強さを追い求めるのは分かる。こうして私にすがる
のも、強くなってアパートの友人たちを見返したいという思いが起因しているのだろう。
しかし、しかしだ。強くなって敵を倒し、ふと後ろを振り返ればぺんぺん草も生えておら
ぬような光景を作り出して一体なにが面白い?
武術には強くなるための手段、という以上の意味がある。君にも今にきっと分かる日が
来るはずだ。……シコルスキー君、強くなるだけではつまらんぞ」
いきなり図星を突かれ、さらには自らが格闘術に求める意味まで否定されてしまったシ
コルスキー。空いた口が塞がらない、とはまさに今の彼を指し示していた。
「さてお説教はこれくらいにして、君には我が空拳道の奥義を授けようと思っている」
「お、奥義?! い、いきなり……」
「サンダル履きでも陸上競技で世界新記録を出せそうな君に、今さら基本を教えてもかえ
って逆効果だろう」
「でも、だからって……」
「さぁ始めるぞ」
途端、寂の目から甘さが消えた。スカウトマンから一流派を担う師範の眼差しに変貌し
た。
寂の凛々しい指示を、真剣な面持ちでシコルスキーが受ける。
「まず膝をついて」
「はいっ!」
「首の後ろに両手を回して、押さえて」
「はいっ!」
「頭を下げて背中を丸めるのだ」
「はいっ!」
出来上がったポーズに寂が微調整を加え、
「よくやったぞ。空拳道の奥義、伝授完了だ」
「えぇっ?!」
あっけなく奥義が完成してしまった。
いくらシコルスキーでも疑問に思わないわけがない。当然の如く訴える。
「からかってるのか! こんな亀みたいなポーズのどこが奥義なんだッ!」
「いったはずだよ。強くなるための技を教えるわけではない、と」
「だけど、奥義なんだろ……?」
「うむ。今君が取っている構えこそが──奥義。護身の究極形なのだよ」
「こ、これが……!」
「背面の耐久力は前面のおよそ七倍といわれる。つまり、君は立っていた時に比べ七倍強
くなったのだ」
体を丸めるシコルスキーに雷鳴が轟いた。
たったこれだけの動作で力量が七倍になってしまうとは。深夜にやっているインチキダ
イエット器具も裸足で逃げ出すほどの効果だ。
「寂海王……いえ寂先生ッ! スパスィーバッ!」
「いやいや、君のような虐げられている若者を救うのも私の役目。しばらくそうしていれ
ば、もっと強くなれるだろう」
「はいっ!」
程なくして、道場にか「本当」の門下生たちがぞろぞろと集結し始めた。老若男女の玉
石混交。まだ数は少ないが、寂の温和な人柄と丁寧な指導を慕って門を叩いた面々である。
一人も休むことなく勢ぞろいした十数名の愛弟子を前に、寂は丸まっているシコルスキ
ーを指差した。
「さて今日はここで丸まっているロシアの人を使って突きと蹴りの稽古をしましょう」
寂の袖にすがりつき、シコルスキーが怒鳴った。寂は心底から冷え切った眼で、シコル
スキーを一瞥した。
「君では日本の若者を導くに相応しくない」
「どうして!」
「君はサムワン君と同じだ。類まれな才能と運動能力を持っているが、敗北に慣れすぎて
しまっている。それでは希望に満ちた若者を指導することはできない」
「……分かったよ」
「分かってくれたかね」
シコルスキーのまだ諦めていなかった。
「だったら、せめて……せめて空拳道の技を一つだけでいいから教えてくれッ!」
目と鼻から汁を垂れ流して土下寝をするシコルスキーに、ついに寂は根負けする。
「……仕方あるまい。道場に来たまえ」
意外にも、道場は至って平均的な雑居ビルの四階に居を構えていた。
「……なんかイメージと違うな」
「都内は地価が高くて、一戸建てはなかなか……」
現実的な会話も程々に、道場に入る二人。外観とは一転、古き良き日本武術の道場が広
がっていた。床には畳が敷き詰められており、壁には門下生の名札が幾つも並んでいる。
上座にある掛け軸『護身』の文字にも武道特有の清潔な力強さが漂っている。
心身のうずきを抑えることができないシコルスキー。
「寂海王! じゃあさっそく俺に技を教えてくれッ!」
「むろんだ。ただしこれから私が教える技は、強くなるための技ではない」
「なんだって?」
「シコルスキー君、君のような若者が強さを追い求めるのは分かる。こうして私にすがる
のも、強くなってアパートの友人たちを見返したいという思いが起因しているのだろう。
しかし、しかしだ。強くなって敵を倒し、ふと後ろを振り返ればぺんぺん草も生えておら
ぬような光景を作り出して一体なにが面白い?
武術には強くなるための手段、という以上の意味がある。君にも今にきっと分かる日が
来るはずだ。……シコルスキー君、強くなるだけではつまらんぞ」
いきなり図星を突かれ、さらには自らが格闘術に求める意味まで否定されてしまったシ
コルスキー。空いた口が塞がらない、とはまさに今の彼を指し示していた。
「さてお説教はこれくらいにして、君には我が空拳道の奥義を授けようと思っている」
「お、奥義?! い、いきなり……」
「サンダル履きでも陸上競技で世界新記録を出せそうな君に、今さら基本を教えてもかえ
って逆効果だろう」
「でも、だからって……」
「さぁ始めるぞ」
途端、寂の目から甘さが消えた。スカウトマンから一流派を担う師範の眼差しに変貌し
た。
寂の凛々しい指示を、真剣な面持ちでシコルスキーが受ける。
「まず膝をついて」
「はいっ!」
「首の後ろに両手を回して、押さえて」
「はいっ!」
「頭を下げて背中を丸めるのだ」
「はいっ!」
出来上がったポーズに寂が微調整を加え、
「よくやったぞ。空拳道の奥義、伝授完了だ」
「えぇっ?!」
あっけなく奥義が完成してしまった。
いくらシコルスキーでも疑問に思わないわけがない。当然の如く訴える。
「からかってるのか! こんな亀みたいなポーズのどこが奥義なんだッ!」
「いったはずだよ。強くなるための技を教えるわけではない、と」
「だけど、奥義なんだろ……?」
「うむ。今君が取っている構えこそが──奥義。護身の究極形なのだよ」
「こ、これが……!」
「背面の耐久力は前面のおよそ七倍といわれる。つまり、君は立っていた時に比べ七倍強
くなったのだ」
体を丸めるシコルスキーに雷鳴が轟いた。
たったこれだけの動作で力量が七倍になってしまうとは。深夜にやっているインチキダ
イエット器具も裸足で逃げ出すほどの効果だ。
「寂海王……いえ寂先生ッ! スパスィーバッ!」
「いやいや、君のような虐げられている若者を救うのも私の役目。しばらくそうしていれ
ば、もっと強くなれるだろう」
「はいっ!」
程なくして、道場にか「本当」の門下生たちがぞろぞろと集結し始めた。老若男女の玉
石混交。まだ数は少ないが、寂の温和な人柄と丁寧な指導を慕って門を叩いた面々である。
一人も休むことなく勢ぞろいした十数名の愛弟子を前に、寂は丸まっているシコルスキ
ーを指差した。
「さて今日はここで丸まっているロシアの人を使って突きと蹴りの稽古をしましょう」