「まいったな。目撃されるのはイレギュラーだ」
──まったく、ついてない。
その日の夜、俺は全死の持ってきた『仕事』──殺人の依頼に従って有栖川健人という高校生を殺害した。
殺害自体は遅滞も瑕疵も無く完了した。背後から襲って拳大の石で殴殺。まったく楽なものだった。その後が問題だった。
こともあろうに、その犯行現場をリアルタイムで目撃されていたのだ。
全死のもたらす『仕事』は、全死の示したプラン通りに遂行する限りに於いてはまず絶対に露見しない。その点に関しては全死を信用している。
だとしたら、これはいったい何の間違いだろうか。
全死だって人間だもの、時に間違いもするだろう──などといった牧歌的な解釈は即座に消えた。
俺としてもそうであって欲しいのはやまやまだが、飛鳥井全死は間違えない。
つまり『人間』の定義をそこに求めるなら、全死は人間ではないのだ。(まあ俺はそんな意味不明の指標で人間性を測ったりはしないが)
ならば、いったい間違えたのは誰だろうか。
俺はややうんざりした気持ちで目の前の二人組を見た。
なんとも不釣合いな男女のカップルだった。
女のほうは一目で学校の制服と分かる衣装に身を包んだ十代後半で、すなわち女子高生だ。女というよりは少女としたほうが正確な表現だろう。
制服を着ているからといってそれが女子高生と必ずしもイコールではないことは承知しているが、それは措く。正直どうでもよかった。
男の方はといえば──今ひとつよく分からない。
まず会社人には見えない雰囲気を漂わせているが、かと言ってじゃあなんだと聞かれても俺にはさっぱり見当もつかない。
やはり「どうでもいい」というのが本音である。
現状の問題は、このイレギュラーにどう対処するか、ということに尽きる。
そして、俺の方針はすでに決定していた。
一度捨てた石を拾い、十歩の距離を五歩で駆けて少女へと近づく。
俺の意図を理解しかねているのか、俺という絶対的な脅威の接近にも関わらず、少女は身じろぎひとつしなかった。
その頭部めがけて石を無造作に振り下ろそうとしたとき、背筋のあたりに敵意を感じた。
ほとんどなにも考えずに屈んだその真上を、風を切る勢いで手刀が通り過ぎていった。
バランスを崩しかけるが足を踏ん張り、体勢を保つ。その反動で二、三歩たたらを踏み、少女の脇をすり抜けるようにして背後に回った。
顔を上げた瞬間、その視界に拳が飛び込んでくる。今しがたの手刀と同じく、カップルの男の方が俺に攻撃を仕掛けていた。
首を捻ってそれをかわし、内心でわずかに感心する。
──へえ、自分の身よりも彼女を守るのか。
だったら、俺はなおさら少女を優先的に殺さなければならない。ここで男に攻撃目標を切り替えたら、少女に逃げられる可能性が大きいからだ。
逆に、俺が少女に狙いを定めている限りは、男は彼女を置いて逃げるような真似はしないだろう。
そう判断し、男と俺の間に少女を挟むような位置に移動する。
少女を盾にするとは我ながら卑怯な発想だと思うが、今のこの状況に騎士道精神を持ち込むほど俺は不真面目な人間ではない。
なにしろ、これは遊びでやってるわけではないのだから。
だが、そこで、俺の想像を超える事態が発生した。
男が再度拳を振り上げ、それに備えて身体の力を抜いた俺の目の前で、男は少女を──殴り飛ばした。
げふ、などという間抜けな息を吐き、少女は地面を転がって道路脇の電信柱に激突した。
「邪魔だ、ヤコ」
目を回している少女に向かって、男はひどくあっさりした口調で告げた。
この男が彼女を守っている、という見解は誤まりだったのかも知れない。
さすがに唖然とするが、新たに敵意が生じるのを感じ、軽くスウェーバックする。眼前一センチを男の指が掠める。
先程から男の動きには淀みが無い。その猛攻に、俺は手にした石を振り下ろす機会を見出せないでいる。
だが、俺は少しも焦ってはいなかった。どうやら男は俺を倒そうとしているらしい。ならば、俺はその攻撃をかわし続けるだけだ。
たとえ今は隙が無くとも、永遠に攻撃を回避していればいずれ隙が出てくるだろう。
俺にはそれが出来る。なぜなら、俺は──。
「……貴様は何者だ?」
ふと、男が攻撃の手を休め、そんなことを聞いてきた。
答える義理は無いが、おしゃべりに付き合うのも様子見くらいにはなるだろうと思い直す。
「個人的な身分を明かすほど微温的な関係じゃないと思いますけど、お互いに」
男はふむ、と軽く頷き、
「ならば質問を変えよう。貴様の戦闘技術……いや、違うな。そう、回避技術だ。
我が輩の攻撃をそこまで凌ぐ人間など、そうザラにいるものではない。それはどこで身に着けた?」
なんと答えたらいいか迷い、頭を掻くが、用意してある答は一つしかないのでそれをそのまま言う。
「物理的攻撃は俺には通用しませんよ。それが俺の『能力』です。
俺は『不可触(アンタッチャブル)』なんです。『敵意』に敏感な体質なんでね、自動的に回避してしまうんです」
そう──俺は『不可触(アンタッチャブル)』だ。
『能力』という表現を用いているが、それは他人に説明するときの便宜的なものであり、実際はこの世界の法則──摂理に根ざしている、いわば『現象』だ。
俺の意思やスペックとは無関係のところで、俺は敵の攻撃を完璧に回避できるのだ。
それはこの世界の根源によって設定された絶対的な法則であり、この世界がこの世界として存在する以上、俺は無敵なのだ。
「『不可触(アンタッチャブル)』か。実に、実に面白い……」
「そうですかね。俺はあまり面白くありませんが」
肩をすくめてみせようとするが、手にした石がどうにも邪魔だった。
「そんなことより、あなたの連れの女の子、目を覚ましそうですよ」
嘘である。俺の期待通り、男はそちらへ首を巡らせ、ほんのわずかではあるが俺に対して隙をさらけ出した。
それで充分だった。
俺はくるりと踵を返し、後も振り返らずにその場から立ち去った。
男と少女の口を封じることはとっくに諦めていた。
摂理は俺に『不可触(アンタッチャブル)』という真に無敵の能力を与えた。
無敵とはどういうことか。それは言葉通り、「敵を作らない」能力である。
戦闘に勝利するためではなく、そもそも戦場に上がらないための能力なのだ。
目撃者を二人も残していては不安といえば不安だが、 あのままだらだらと戦闘を続けていても、
時間の経過とともに人目を忍ぶことが難しくなり、危険は増大するだけである。
ならば、さっさと見切りをつけて逃走を図ったほうがまだ建設的な選択だろう。
俺は戦闘狂でもなければ殺人狂でもない。合理的な理由もなしに人を殺すほど攻撃的な人間ではないのだ。
走りながら時折振り返るが、追っ手がついている様子は無い。歩調を緩め、周囲を見回して現在地を確認する。JRの駅に続く通りに出ていた。
出来るだけ何気ない風を装って凶器の石を身体の陰に隠し、駅前のターミナルの正面の交番の裏手にそれを捨てた。
呼吸を整え、立ち番の警官の前を通り過ぎ、suicaで改札を抜ける。
ホームで電車の来るのを待ちながら考えることはと言えば──全死は俺の部屋にまだいるのだろうか、ということであった。
いなくなっていたらいいな、というのが俺の希望だ。
本日分の俺の許容値はもう限度いっぱいである。これ以上のイレギュラーは勘弁して欲しかった。
──まったく、ついてない。
その日の夜、俺は全死の持ってきた『仕事』──殺人の依頼に従って有栖川健人という高校生を殺害した。
殺害自体は遅滞も瑕疵も無く完了した。背後から襲って拳大の石で殴殺。まったく楽なものだった。その後が問題だった。
こともあろうに、その犯行現場をリアルタイムで目撃されていたのだ。
全死のもたらす『仕事』は、全死の示したプラン通りに遂行する限りに於いてはまず絶対に露見しない。その点に関しては全死を信用している。
だとしたら、これはいったい何の間違いだろうか。
全死だって人間だもの、時に間違いもするだろう──などといった牧歌的な解釈は即座に消えた。
俺としてもそうであって欲しいのはやまやまだが、飛鳥井全死は間違えない。
つまり『人間』の定義をそこに求めるなら、全死は人間ではないのだ。(まあ俺はそんな意味不明の指標で人間性を測ったりはしないが)
ならば、いったい間違えたのは誰だろうか。
俺はややうんざりした気持ちで目の前の二人組を見た。
なんとも不釣合いな男女のカップルだった。
女のほうは一目で学校の制服と分かる衣装に身を包んだ十代後半で、すなわち女子高生だ。女というよりは少女としたほうが正確な表現だろう。
制服を着ているからといってそれが女子高生と必ずしもイコールではないことは承知しているが、それは措く。正直どうでもよかった。
男の方はといえば──今ひとつよく分からない。
まず会社人には見えない雰囲気を漂わせているが、かと言ってじゃあなんだと聞かれても俺にはさっぱり見当もつかない。
やはり「どうでもいい」というのが本音である。
現状の問題は、このイレギュラーにどう対処するか、ということに尽きる。
そして、俺の方針はすでに決定していた。
一度捨てた石を拾い、十歩の距離を五歩で駆けて少女へと近づく。
俺の意図を理解しかねているのか、俺という絶対的な脅威の接近にも関わらず、少女は身じろぎひとつしなかった。
その頭部めがけて石を無造作に振り下ろそうとしたとき、背筋のあたりに敵意を感じた。
ほとんどなにも考えずに屈んだその真上を、風を切る勢いで手刀が通り過ぎていった。
バランスを崩しかけるが足を踏ん張り、体勢を保つ。その反動で二、三歩たたらを踏み、少女の脇をすり抜けるようにして背後に回った。
顔を上げた瞬間、その視界に拳が飛び込んでくる。今しがたの手刀と同じく、カップルの男の方が俺に攻撃を仕掛けていた。
首を捻ってそれをかわし、内心でわずかに感心する。
──へえ、自分の身よりも彼女を守るのか。
だったら、俺はなおさら少女を優先的に殺さなければならない。ここで男に攻撃目標を切り替えたら、少女に逃げられる可能性が大きいからだ。
逆に、俺が少女に狙いを定めている限りは、男は彼女を置いて逃げるような真似はしないだろう。
そう判断し、男と俺の間に少女を挟むような位置に移動する。
少女を盾にするとは我ながら卑怯な発想だと思うが、今のこの状況に騎士道精神を持ち込むほど俺は不真面目な人間ではない。
なにしろ、これは遊びでやってるわけではないのだから。
だが、そこで、俺の想像を超える事態が発生した。
男が再度拳を振り上げ、それに備えて身体の力を抜いた俺の目の前で、男は少女を──殴り飛ばした。
げふ、などという間抜けな息を吐き、少女は地面を転がって道路脇の電信柱に激突した。
「邪魔だ、ヤコ」
目を回している少女に向かって、男はひどくあっさりした口調で告げた。
この男が彼女を守っている、という見解は誤まりだったのかも知れない。
さすがに唖然とするが、新たに敵意が生じるのを感じ、軽くスウェーバックする。眼前一センチを男の指が掠める。
先程から男の動きには淀みが無い。その猛攻に、俺は手にした石を振り下ろす機会を見出せないでいる。
だが、俺は少しも焦ってはいなかった。どうやら男は俺を倒そうとしているらしい。ならば、俺はその攻撃をかわし続けるだけだ。
たとえ今は隙が無くとも、永遠に攻撃を回避していればいずれ隙が出てくるだろう。
俺にはそれが出来る。なぜなら、俺は──。
「……貴様は何者だ?」
ふと、男が攻撃の手を休め、そんなことを聞いてきた。
答える義理は無いが、おしゃべりに付き合うのも様子見くらいにはなるだろうと思い直す。
「個人的な身分を明かすほど微温的な関係じゃないと思いますけど、お互いに」
男はふむ、と軽く頷き、
「ならば質問を変えよう。貴様の戦闘技術……いや、違うな。そう、回避技術だ。
我が輩の攻撃をそこまで凌ぐ人間など、そうザラにいるものではない。それはどこで身に着けた?」
なんと答えたらいいか迷い、頭を掻くが、用意してある答は一つしかないのでそれをそのまま言う。
「物理的攻撃は俺には通用しませんよ。それが俺の『能力』です。
俺は『不可触(アンタッチャブル)』なんです。『敵意』に敏感な体質なんでね、自動的に回避してしまうんです」
そう──俺は『不可触(アンタッチャブル)』だ。
『能力』という表現を用いているが、それは他人に説明するときの便宜的なものであり、実際はこの世界の法則──摂理に根ざしている、いわば『現象』だ。
俺の意思やスペックとは無関係のところで、俺は敵の攻撃を完璧に回避できるのだ。
それはこの世界の根源によって設定された絶対的な法則であり、この世界がこの世界として存在する以上、俺は無敵なのだ。
「『不可触(アンタッチャブル)』か。実に、実に面白い……」
「そうですかね。俺はあまり面白くありませんが」
肩をすくめてみせようとするが、手にした石がどうにも邪魔だった。
「そんなことより、あなたの連れの女の子、目を覚ましそうですよ」
嘘である。俺の期待通り、男はそちらへ首を巡らせ、ほんのわずかではあるが俺に対して隙をさらけ出した。
それで充分だった。
俺はくるりと踵を返し、後も振り返らずにその場から立ち去った。
男と少女の口を封じることはとっくに諦めていた。
摂理は俺に『不可触(アンタッチャブル)』という真に無敵の能力を与えた。
無敵とはどういうことか。それは言葉通り、「敵を作らない」能力である。
戦闘に勝利するためではなく、そもそも戦場に上がらないための能力なのだ。
目撃者を二人も残していては不安といえば不安だが、 あのままだらだらと戦闘を続けていても、
時間の経過とともに人目を忍ぶことが難しくなり、危険は増大するだけである。
ならば、さっさと見切りをつけて逃走を図ったほうがまだ建設的な選択だろう。
俺は戦闘狂でもなければ殺人狂でもない。合理的な理由もなしに人を殺すほど攻撃的な人間ではないのだ。
走りながら時折振り返るが、追っ手がついている様子は無い。歩調を緩め、周囲を見回して現在地を確認する。JRの駅に続く通りに出ていた。
出来るだけ何気ない風を装って凶器の石を身体の陰に隠し、駅前のターミナルの正面の交番の裏手にそれを捨てた。
呼吸を整え、立ち番の警官の前を通り過ぎ、suicaで改札を抜ける。
ホームで電車の来るのを待ちながら考えることはと言えば──全死は俺の部屋にまだいるのだろうか、ということであった。
いなくなっていたらいいな、というのが俺の希望だ。
本日分の俺の許容値はもう限度いっぱいである。これ以上のイレギュラーは勘弁して欲しかった。
──なにか、「今すぐ目を開けないときっと死ぬ」という猛烈な悪寒を感じ、はっと目を覚ますと、そこには小鳥がいた。
ただしその小鳥はハリネズミのように全身から鋭い針を無数に生やしており、今まさにわたしの顔に降り立とうとしていた。
「うおおおい!」
反射的に振り払い、手の甲に鋭い痛みとぐさぐさぐさっという嫌な感触が走る。
「痛ぁぁぁぁぃ!」
七転八倒しながらなんとか身体を起こすと、ネウロがつまらなさそうな顔をしていた。
「なんだ、起きたのかヤコ。せっかく我が輩が特製の目覚ましで貴様の意識を呼び戻してやろうと思ったのに。
その鳥は魔界の愛玩動物でな。口から楔型の針を吐き、ホチキスにもなる優れものだ」
剣山みたいな小鳥がコココココココと気味の悪い鳴き声をあげた。その嘴から飛び出すコの字型の針がコンクリートの塀に突き刺さる。
「…………」
なんかもうツッコむ気力も失せた。
「──あの人は?」
ネウロは答えなかった。
恐る恐る路地を覗くと、やはりそこには死体があった。
ぐちゃぐちゃの挽き肉みたいになってしまった顔の中央の二つの窪みが、恨めしそうに虚空を見上げている。
「笹塚さん……呼んだほうがいいよね」
わたしはポケットから携帯電話を取り出し、知り合いの刑事さんに連絡を取ろうとする。
「ヤコ」
「え?」
「『謎』の気配は確かにあったのだ。だが『謎』は生まれなかった」
「……それなんだけどさ」
と、わたしはちょっと言葉を切った。
その先を言うには、それは──あまりにも不可解すぎた。
だけど、『あの人』を……あの殺人者を見て、わたしが思ったのは、
「あの人……『悪意』が無かったんじゃないのかな。だから『謎』が生まれなかった」
やはり、ネウロは答えなかった。ただ、どこを見るでもなく空へ視線を移しただけである。
携帯からは「もしもし……あー、弥子ちゃんか?」というどこかだるそうな感じの声が聞こえていた。
ただしその小鳥はハリネズミのように全身から鋭い針を無数に生やしており、今まさにわたしの顔に降り立とうとしていた。
「うおおおい!」
反射的に振り払い、手の甲に鋭い痛みとぐさぐさぐさっという嫌な感触が走る。
「痛ぁぁぁぁぃ!」
七転八倒しながらなんとか身体を起こすと、ネウロがつまらなさそうな顔をしていた。
「なんだ、起きたのかヤコ。せっかく我が輩が特製の目覚ましで貴様の意識を呼び戻してやろうと思ったのに。
その鳥は魔界の愛玩動物でな。口から楔型の針を吐き、ホチキスにもなる優れものだ」
剣山みたいな小鳥がコココココココと気味の悪い鳴き声をあげた。その嘴から飛び出すコの字型の針がコンクリートの塀に突き刺さる。
「…………」
なんかもうツッコむ気力も失せた。
「──あの人は?」
ネウロは答えなかった。
恐る恐る路地を覗くと、やはりそこには死体があった。
ぐちゃぐちゃの挽き肉みたいになってしまった顔の中央の二つの窪みが、恨めしそうに虚空を見上げている。
「笹塚さん……呼んだほうがいいよね」
わたしはポケットから携帯電話を取り出し、知り合いの刑事さんに連絡を取ろうとする。
「ヤコ」
「え?」
「『謎』の気配は確かにあったのだ。だが『謎』は生まれなかった」
「……それなんだけどさ」
と、わたしはちょっと言葉を切った。
その先を言うには、それは──あまりにも不可解すぎた。
だけど、『あの人』を……あの殺人者を見て、わたしが思ったのは、
「あの人……『悪意』が無かったんじゃないのかな。だから『謎』が生まれなかった」
やはり、ネウロは答えなかった。ただ、どこを見るでもなく空へ視線を移しただけである。
携帯からは「もしもし……あー、弥子ちゃんか?」というどこかだるそうな感じの声が聞こえていた。
「どうした、ヤコ。なにをそんなに浮かない顔をしている」
ネウロが目の前の『謎』を取り逃がした日から数日経ったある日の昼下がり、わたしとネウロは繁華街の喫茶店にいた。
ネウロは定期的に『謎』を解く(くう)ために、わたしを矢面に立たせたかたちで「桂木弥子探偵事務所」というなんとも剣呑な事業所を開設している。
そこに持ち込まれる雑多な事件の中からネウロのお気に召す『謎』を見繕っては、わたしをそこまで引きずり出すのだ。
「我が輩は魔人ゆえ人間界で目立つのを好まない」という傍迷惑な理由でもって、それらの『謎』はわたしが解決したことにされている。
今日も、その『謎』を一つ解決したばかりである。
主食であり好物である『謎』を解いた(くった)ばかりのネウロは上機嫌だった。
だが、わたしは少しも面白くなかった。
「うっさい」
言ってから失言に気付くが遅かった。
ネウロはにこにこ笑いながらわたしの飲みかけのコーヒーカップを手に取る。
と、すでにぬるくなっていたはずのコーヒーがネウロの手の中でごぼごぼと活発な沸騰を始めた。
「なにが不服なのだ?」
相変わらず満面の笑みを崩さず、その煮えたぎった漆黒の液体をわたしの口に注ぎ込もうとする。
「え、ちょ、唇、熱、熱いっていうか痛──ぎゃー!」
半狂乱でお冷を飲み干し、なんとか生きた心地を取り戻したわたしは、まだ喉に違和感を残しながらも唇を尖らせる。
「だって訳分かんないよ! なんで笹塚さんに連絡したらダメなの?」
あの日の夜、わたしとネウロは殺人現場に遭遇した。おまけに、(多分、口封じのために)殺されかけた。
わたしはなぜか気を失ってしまったので詳細は分からないが、ネウロはその殺人犯を取り逃がしてしまったらしい。
息を吹き返したわたしが警視庁捜査一課に所属する知り合いの刑事さんに電話しようとしたら、ネウロはいきなりそれを妨害したのだった。
「結局、他の誰かが警察に通報したみたいだけどさ……わたしたち、犯人の顔を見てるんだから笹塚さんに教えてあげた方がいいと思うんだけど」
「このペンペン草め」
ペンペン草。学名、知らない。和名、ナズナ。春の七草の一種であり、おかゆはもちろんお浸しにしても美味い。
意外と知られてないがレモン汁を垂らした醤油と和えると乙なものである。
「だ、誰がペンペン草だ!」
「我が輩が誰か忘れたのか? 『謎』を解く(くう)ことこそを至上とするこの我が輩が、
何ゆえにみすみす『謎』を刑事ごときの手に渡さなければならないのだ?
それを、動物並の知能を持ち合わせていない貴様が愚かにもあの刑事に協力しようとしたから、やむなく制止したまでだ」
「口で言えよ口で! なんでわたしのケータイ逆折りにすんのよ、なんでそんな乱暴なわけ!?」
「失敬な。きちんと折り目を合わせて四つ折りにしたではないか。これほど礼儀正しい魔人も魔界にはそういないぞ」
「なおさら悪いわ! ケータイショップに持っていったらね、『こういう故意による破損は補償の対象外です』って言われたのよ!」
そんな抗議に耳を貸さず、ネウロは椅子の前足を浮かせてギシギシやっていた。お前は授業に退屈してる中学生か。
わたしがさらなるツッコミスキルを発動させようとしたとき、
「なあ、そこのお嬢ちゃん」
と、背後から肩を叩かれた。
「?」
振り向くと、それは見知らぬ女性だった。帽子からブーツまで黒づくめの異様な風体の、怖いくらいの美人だった。
いや、実際、物凄く怖い目をしていた。
「お嬢ちゃん、あんた辺境人(マージナル)の知り合い?」
「……マ?」
「いやさ、あの愚鈍のメタテキストがちらっと見えたもんだから」
「……メ?」
「メタテキストはメタテキストさ。そいつの視座っていうのかな。わたしにはそれが見えるんだ」
意味が分からず黙っていると、女性はこっちのことなどお構いなしでしゃべりだす。
「ん、いやま、あんなうすのろのことはどうでもいいわな。しかし──あんた、中々面白いメタテキストしてるね。
ランク付けするならBダブルプラスってとこかな。五段階評価ね。普通に生きてりゃ滅多に会えない逸材だよ。
なあ、お嬢ちゃん、わたしとお茶しない? あ、そっちの席に座ってもいい?」
ついにはナンパまがいのことを言い出した。
「名前教えて? わたしは飛鳥井全死」
「へ、あの?」
状況が飲み込めずに目を白黒させるわたしへ、飛鳥井全死と名乗る女性は軽く手を振った。
「言いたくないなら別にいいさ」
そして、何事かをぶつぶつつぶやき出した。
わたしは困惑してネウロに視線を向ける。
「……ネウロ、店出よう」
そう言って立ち上がりかけたわたしを、ネウロは鬼のような力で椅子に引き戻した。そして、千切れんばかりの勢いでわたしの耳を口元に引き寄せた。
「待て、ヤコ。……この女から件の『謎』と同じ匂いがする。我が輩が逃した『謎』の気配だ」
驚くわたしの横で、飛鳥井全死なる女性はなおも何事かを口の中でつぶやき続けている。
「仔牛のブイヨン(フォン・ド・ヴォー)……鳩の血(ピジョン・ブラッド)……紅海(エリュトゥラー・シー)……オーケー、把握した」
「なにを……ですか?」
「んん? だから名前だよ。桂木弥子ちゃん、か。いい名前じゃないか」
今度こそはっきりと意味不明だった。
「どうしたい、そんなリョコウバトが散弾銃喰らったような顔して。言ったろ? わたしはメタテキストが読めるんだ。
弥子ちゃんのメタテキストをちょっと読ませてもらったのさ。メタテキストが読めれば、名前を言い当てるんなんざわけはないよ。
名は体を現すって言うだろう。逆もまた然り。その相関関係を読み取る術さえあれば誰にでもできることさ」
返す言葉を無くしてわたしが途方に暮れていると、ネウロが横合いから朗らかな声で割り込んできた。
「おお! 先生のお名前をご存知ですか! テレビ・雑誌・新聞で売名行為にいそしんだ甲斐がありますね、先生!」
と、外面のよさを表に出して、にこやかに飛鳥井さんに語りかける。(それにしてはあんまりな言い様だけど)
彼女は急に不機嫌そうになってネウロを一瞥する。
「お前には話しかけてないよ。黙ってろ。それにな、わたしはマスコミだなんて屑の塊に興味はないよ。
わたしの言ったこと聞いてなかったか? 弥子ちゃんのメタテキストを読んだって言っただろうが」
そして、再び、何事かをつぶやく。
「絶対零度(アブソルート・ゼロ)……琥珀雷(エレクトロン)……恋の炎(ゲヘナ・フレイム)……紙片(ペイパーカット)……。
おっと、こっちはこれまた変な名前だな。漫談師でもやってるのか? なあ──脳噛ネウロ」
──ネウロの顔から取って付けたような笑顔が消えた。
その代わりに、心底から嬉しそうな、そして邪悪さに満ちた……本物のネウロの笑みが浮かび上がる。
「ク……ククク……ヤコよ、これだから人間は面白い……先日の『不可触(アンタッチャブル)』とやらに続いて、今度はこの女だ」
「なんだよ、やっぱり辺境人(マージナル)を知ってるんじゃないか。そうならそうと、もったいぶってないで言えよ。
……ん? 『不可触(アンタッチャブル)』まで知ってるってことは、それなりに深い仲なのか?」
深い仲というか、殺されかけた訳ですけど。
「クハハ……それこそ貴様の言う『メタテキスト』とやらを『読ん』だら良かろう。
その能力がいったいどういう類のものかは特定できぬが、おそらくは個人の本質に関わる情報を表面から解読出来るようだな……違うか?」
その言葉に、飛鳥井さんも──実に禍々しい笑顔で応える。
「当たらずとも遠からず、と言ったところかな」
ネウロが目の前の『謎』を取り逃がした日から数日経ったある日の昼下がり、わたしとネウロは繁華街の喫茶店にいた。
ネウロは定期的に『謎』を解く(くう)ために、わたしを矢面に立たせたかたちで「桂木弥子探偵事務所」というなんとも剣呑な事業所を開設している。
そこに持ち込まれる雑多な事件の中からネウロのお気に召す『謎』を見繕っては、わたしをそこまで引きずり出すのだ。
「我が輩は魔人ゆえ人間界で目立つのを好まない」という傍迷惑な理由でもって、それらの『謎』はわたしが解決したことにされている。
今日も、その『謎』を一つ解決したばかりである。
主食であり好物である『謎』を解いた(くった)ばかりのネウロは上機嫌だった。
だが、わたしは少しも面白くなかった。
「うっさい」
言ってから失言に気付くが遅かった。
ネウロはにこにこ笑いながらわたしの飲みかけのコーヒーカップを手に取る。
と、すでにぬるくなっていたはずのコーヒーがネウロの手の中でごぼごぼと活発な沸騰を始めた。
「なにが不服なのだ?」
相変わらず満面の笑みを崩さず、その煮えたぎった漆黒の液体をわたしの口に注ぎ込もうとする。
「え、ちょ、唇、熱、熱いっていうか痛──ぎゃー!」
半狂乱でお冷を飲み干し、なんとか生きた心地を取り戻したわたしは、まだ喉に違和感を残しながらも唇を尖らせる。
「だって訳分かんないよ! なんで笹塚さんに連絡したらダメなの?」
あの日の夜、わたしとネウロは殺人現場に遭遇した。おまけに、(多分、口封じのために)殺されかけた。
わたしはなぜか気を失ってしまったので詳細は分からないが、ネウロはその殺人犯を取り逃がしてしまったらしい。
息を吹き返したわたしが警視庁捜査一課に所属する知り合いの刑事さんに電話しようとしたら、ネウロはいきなりそれを妨害したのだった。
「結局、他の誰かが警察に通報したみたいだけどさ……わたしたち、犯人の顔を見てるんだから笹塚さんに教えてあげた方がいいと思うんだけど」
「このペンペン草め」
ペンペン草。学名、知らない。和名、ナズナ。春の七草の一種であり、おかゆはもちろんお浸しにしても美味い。
意外と知られてないがレモン汁を垂らした醤油と和えると乙なものである。
「だ、誰がペンペン草だ!」
「我が輩が誰か忘れたのか? 『謎』を解く(くう)ことこそを至上とするこの我が輩が、
何ゆえにみすみす『謎』を刑事ごときの手に渡さなければならないのだ?
それを、動物並の知能を持ち合わせていない貴様が愚かにもあの刑事に協力しようとしたから、やむなく制止したまでだ」
「口で言えよ口で! なんでわたしのケータイ逆折りにすんのよ、なんでそんな乱暴なわけ!?」
「失敬な。きちんと折り目を合わせて四つ折りにしたではないか。これほど礼儀正しい魔人も魔界にはそういないぞ」
「なおさら悪いわ! ケータイショップに持っていったらね、『こういう故意による破損は補償の対象外です』って言われたのよ!」
そんな抗議に耳を貸さず、ネウロは椅子の前足を浮かせてギシギシやっていた。お前は授業に退屈してる中学生か。
わたしがさらなるツッコミスキルを発動させようとしたとき、
「なあ、そこのお嬢ちゃん」
と、背後から肩を叩かれた。
「?」
振り向くと、それは見知らぬ女性だった。帽子からブーツまで黒づくめの異様な風体の、怖いくらいの美人だった。
いや、実際、物凄く怖い目をしていた。
「お嬢ちゃん、あんた辺境人(マージナル)の知り合い?」
「……マ?」
「いやさ、あの愚鈍のメタテキストがちらっと見えたもんだから」
「……メ?」
「メタテキストはメタテキストさ。そいつの視座っていうのかな。わたしにはそれが見えるんだ」
意味が分からず黙っていると、女性はこっちのことなどお構いなしでしゃべりだす。
「ん、いやま、あんなうすのろのことはどうでもいいわな。しかし──あんた、中々面白いメタテキストしてるね。
ランク付けするならBダブルプラスってとこかな。五段階評価ね。普通に生きてりゃ滅多に会えない逸材だよ。
なあ、お嬢ちゃん、わたしとお茶しない? あ、そっちの席に座ってもいい?」
ついにはナンパまがいのことを言い出した。
「名前教えて? わたしは飛鳥井全死」
「へ、あの?」
状況が飲み込めずに目を白黒させるわたしへ、飛鳥井全死と名乗る女性は軽く手を振った。
「言いたくないなら別にいいさ」
そして、何事かをぶつぶつつぶやき出した。
わたしは困惑してネウロに視線を向ける。
「……ネウロ、店出よう」
そう言って立ち上がりかけたわたしを、ネウロは鬼のような力で椅子に引き戻した。そして、千切れんばかりの勢いでわたしの耳を口元に引き寄せた。
「待て、ヤコ。……この女から件の『謎』と同じ匂いがする。我が輩が逃した『謎』の気配だ」
驚くわたしの横で、飛鳥井全死なる女性はなおも何事かを口の中でつぶやき続けている。
「仔牛のブイヨン(フォン・ド・ヴォー)……鳩の血(ピジョン・ブラッド)……紅海(エリュトゥラー・シー)……オーケー、把握した」
「なにを……ですか?」
「んん? だから名前だよ。桂木弥子ちゃん、か。いい名前じゃないか」
今度こそはっきりと意味不明だった。
「どうしたい、そんなリョコウバトが散弾銃喰らったような顔して。言ったろ? わたしはメタテキストが読めるんだ。
弥子ちゃんのメタテキストをちょっと読ませてもらったのさ。メタテキストが読めれば、名前を言い当てるんなんざわけはないよ。
名は体を現すって言うだろう。逆もまた然り。その相関関係を読み取る術さえあれば誰にでもできることさ」
返す言葉を無くしてわたしが途方に暮れていると、ネウロが横合いから朗らかな声で割り込んできた。
「おお! 先生のお名前をご存知ですか! テレビ・雑誌・新聞で売名行為にいそしんだ甲斐がありますね、先生!」
と、外面のよさを表に出して、にこやかに飛鳥井さんに語りかける。(それにしてはあんまりな言い様だけど)
彼女は急に不機嫌そうになってネウロを一瞥する。
「お前には話しかけてないよ。黙ってろ。それにな、わたしはマスコミだなんて屑の塊に興味はないよ。
わたしの言ったこと聞いてなかったか? 弥子ちゃんのメタテキストを読んだって言っただろうが」
そして、再び、何事かをつぶやく。
「絶対零度(アブソルート・ゼロ)……琥珀雷(エレクトロン)……恋の炎(ゲヘナ・フレイム)……紙片(ペイパーカット)……。
おっと、こっちはこれまた変な名前だな。漫談師でもやってるのか? なあ──脳噛ネウロ」
──ネウロの顔から取って付けたような笑顔が消えた。
その代わりに、心底から嬉しそうな、そして邪悪さに満ちた……本物のネウロの笑みが浮かび上がる。
「ク……ククク……ヤコよ、これだから人間は面白い……先日の『不可触(アンタッチャブル)』とやらに続いて、今度はこの女だ」
「なんだよ、やっぱり辺境人(マージナル)を知ってるんじゃないか。そうならそうと、もったいぶってないで言えよ。
……ん? 『不可触(アンタッチャブル)』まで知ってるってことは、それなりに深い仲なのか?」
深い仲というか、殺されかけた訳ですけど。
「クハハ……それこそ貴様の言う『メタテキスト』とやらを『読ん』だら良かろう。
その能力がいったいどういう類のものかは特定できぬが、おそらくは個人の本質に関わる情報を表面から解読出来るようだな……違うか?」
その言葉に、飛鳥井さんも──実に禍々しい笑顔で応える。
「当たらずとも遠からず、と言ったところかな」