SS暫定まとめwiki~みんなでSSを作ろうぜ~バキスレ シュガーハート&ヴァニラソウル 49-1


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『赤ん坊を待ちながら ②』


 六時限目終了のチャイムが鳴り、数学教師が次回の授業の内容を予告して退出すると、教室は俄かに騒がしくなる。
 放課後の開放感というものはどこの世界でも共通らしく、早々に帰り支度を済ませて廊下に駆け出していく者や
当番が回ってきていることに悪態をつきながら掃除を開始する者、額をつき合わせて寄り道の行き先を相談する者など、
つい数分前まで教室中に蔓延していた、どうしようもない倦怠感がまるで嘘のように活気のある光景が広がっていた。
 もちろん静も例外ではなく、先程の授業の尾を引いてオーバーヒート気味の論理回路を強制的に遮断し、
微分が微かに分かり積分を分かった積もりになっている左脳をフラットな状態に復帰させつつ窓際の席の一つに歩み寄る。
「ねえ、帰ろ」
 返事はなかった。
 それもそのはず、その席の主である遠野十和子は机に突っ伏してすうすう寝息を立てていたのだった。
「十和子ってば。起きてよ」
 肩を揺すると、十和子は「あ、ん……」などと無駄に色っぽいうめき声を上げて半分だけ瞼を開く。
「授業、終わっちゃったよ」
「──ん?」
「授業、終わった」
「あら、まあ」
 なにが「あら、まあ」なんだ、と心のうちでぼやく静のそばで、十和子はむっくりと起き上がって伸びをし、口元と机についた涎をハンカチで拭き取る。
「六時限目、なんの授業だったっけ?」
「……数学」
 それすらも知らないということは六時限目の全てを睡眠に費やしていたということだが学生としてそれでいいのか、
とツッコみたい衝動に駆られるが、その穏便な表現が具体的に思いつかなかったので断念する。
「数学ね……どこまでやった?」
「えっと、ええとね──」
 なんとか今日の授業内容を簡潔に総括しようと必死になって脳内をフル回転させる静に、
「あっあー、範囲だけでいいのよ。何ページまでとかそういうの。──あ、なんだまだ黒板に残ってるじゃん」
 そう言い、ほんの数秒ほど黒板を眺めた十和子は次いで机から落ちかけていた教科書を取り上げてぱらぱらめくり、
「ふーん……オッケ」
 と、それを鞄に放り込んで立ち上がった。
 その十和子の一連の行動が理解できなかった静は、思わず首を傾げた。
「……なにが『オッケ』なの?」
「ん? だから数学」
 ますます分からなくなる。
「え、今日の授業の範囲が分かったってこと?」
 だが十和子はそれに答えるようなことはせず、顔をしかめて静の額を指で弾いた。
「あ痛」
「ベンキョーの話なんかもういいじゃん。だって授業は終わってんだから」
「……寝てたくせに」
 デコピンされた額に手をやりながら口を尖らせるが、そうした静の不満げな態度などどこ吹く風で、
十和子は今日一番の朗らかな笑みを見せた。
「よし、帰ろうか。ケーキの美味しい店を教えてあげよう」
 ケーキと聞いて心が動かされる静だが、
「あ、あの、十和子。実は、その──」
「遠野さん」
 振り返ると、そこには一人の男子が立っていた。
 それは大人しそうで真面目な感じで、控えめで目立たなそうで影が薄い、つまりそんな雰囲気の人だった。
 その無害そうである意味如才のない佇まいに、静はかすかに好感を抱く。どことなく自分に似ている気がしたのだった。
「あら秋月。なに? このあたしに告白?」
「違うから」
「あ、じゃあ静に告白だ」
「……もし『そうだ』って言ったらどうする気だよ」
「全力で阻止するね。まあ目の付け所の良いのは褒めてあげるわ」
 文字通りの頭越しに言葉を交わす二人の顔をおろおろと見比べる静は、不意に彼と目が合う。
「え、あの」
 頬の筋肉が音を立てて引き攣る。
 訳の分からない緊張に身を竦ませる静だったが、彼は静かな眼差しを向けているだけだった。
 ふと、その瞳から表情が消えたような気がした。
 だがその違和感もすぐに薄らぎ、
「……はあっ」
 その男子は盛大に溜息をつかれた。
「──遠野さん、悪いけど今日の保健委員の仕事代わってくれないかな」
「やだ」
「いや、頼むよ遠野さん。僕、これから用事があるんだ」
「今度昼飯奢ってよ。こーゆーのってギブアンドテイクでしょ。現金でもいいわよ」
「君、保健委員じゃないか。いつも君の分まで委員の仕事をしてるのは僕だよ」
「頼んだわけじゃないもーん」
「たまには委員として当然の義務を果たしてくれって言ってるんだけど」
「だからぁ、なんかくれたらその義務とやらをやってやるって言ってんのよ、あたしは。
しかも秋月は、さっき『頼むよ』って確かに言ったわ。義務の押し付けと頼みごとは違うんじゃねーの?
さいばんちょーさいばんちょー弁護側は故意に論旨を摩り替えて本件を自己に有利な方向へと誘導しようとしていまーす」
「揚げ足を取らないでくれよ……」
 なおも駄々をこねる十和子と、それをなだめすかす彼の交渉をぼんやりと眺めながら、静は自分の顔が赤くなっていないか心配になる。
(自意識過剰……)
 先のやりとりが単なる冗談だとは分かっていたが、それなのにうろたえてしまった己の子供っぽさを恥じ、そして、
(『はあっ』ってなによ『はあっ』って……その溜息はなによ……)
 と、わずかにプライドを傷つけられた静だった。

 結局、十和子に非常に有利な条件で交渉は成立したようだった。
 彼が学生鞄の他に茶色のケースを手に持ちながら、顔色悪くまるで財布でも落としたかのような暗い足取りで
教室を後にする一方、十和子は上機嫌に手を振ってそれを見送っていた。
「つーわけで、もう一働きしてきますか。……ところで静、さっきはないを言いかけたの」
 今のごたごたで忘れかけていたことが瞬時に思い起こされ、静は十和子に言わなければならないことをも思い出すが、
その勇気はすでに挫けてしまっていた。今更改めて言うには──ちょっと重すぎた。
「……え。べ、別に」
「別にってこたないでしょ」
「もう忘れちゃった」
「思い出せよ」
「ううん、きっとなんでもないことだから」
 十和子はキナ臭そうな顔をするが、浅く息をついて静の両頬を指先でつまむ。
 そして思いっきり引き伸ばされた。
 面食らって「やめて」と言う静だったが、左右に引っ張られる唇からは「ふぁふぇへ」という意味のない息が漏れるだけだった。
「静ちゃん。あんたねえ、そんな捨てられた子犬みたい目をして『なんでもない』はねーんじゃねーの?」
 わたわたと両腕を振る静へ、十和子は不機嫌と意地の悪さがない交ぜになった視線を向けてくる。
「言ったでしょ、『カスタード・パイ』に嘘はつけないって。つーか、あんたの場合はそれ以前の問題よね。
そんな分かりやすい顔していったい誰が騙されるっていうのよ? 
嘘をつくなら完璧につかなきゃ意味がないのよ。口先だけの嘘なんて最低よ、紙切れ一枚の価値もない。
それこそ自分の心の全てすら騙すような、魂からの嘘でもなければ、『カスタード・パイ』は突破できないわ」
 頬を引っ張る力が消え、そして静は本日二度目のデコピンを食らう。
「痛」
「お仕置きよ。あたしは保健室入ってくるから、一人で帰りなさい。帰れるわよね?」
「か、帰れるよ。子供じゃないもん」
「さあ、どうだか。ケーキはまた今度ね」
 十和子はそれきり静に目もくれず、自分の鞄をつかんで教室を出て行く。
 静は「さよなら」を言うべきか迷ったが、結局その言葉は喉を通らなかった。
 十和子が戸口で一度立ち止まり、振り返った。
「静」
「なに?」
「『嘘』のプロフェッショナルとして、一つ教えてあげる」
 そう言い、十和子は両手の人差し指をぴんと立てて顔の横まで持ち上げた。
「──笑いなさい」
 と、口の両端を押し上げた。

「はあ……」
 静は沈んだ気持ちに苛みながら、放課後の廊下をとぼとぼ歩く。
 その原因は考えるまでもなく、十和子のことだった。
 彼女を前にすると、静はなんとも言えない劣等感を抱いてしまう。
 軽薄を装ってはいるが自分とは比べ物にならないほど大人びた態度もそうだし、
それになにより、彼女の眼差しは決定的に静のそれとは一線を画していた。
 夜の闇すら見通すような、この世界の全てを敵に回しても怖じることのない、といった瞳。
 わずか一週間ばかりのつきあいだが、それでも静はよく思う。
 十和子は地に足を付けて立っている、と。
 静が日頃から感じている、自身への不安感や内面の情緒不安定などとは全く縁のない場所に、十和子は存在しているような気がする。
「わたし、やっぱり子供なのかな」
 背も低く、実年齢よりさらに子供に見られがちな(一度、十和子にファミリーレストランに連れて行ってもらったとき、
ウェイトレスから明らかにエレメンタリースクール向けの安っぽい玩具をもらったのはさすがに落ち込んだ。十和子はげらげら笑っていたが)
静とは真逆で、十和子は「二十四歳の雑誌記者です」と言っても通用しそうなスタイルと容貌の持ち主だった。
 そして、十和子はよく笑う。
 それは意地の悪いチャシャ猫笑いから、女の自分ですらどきりとするような爽やかで屈託のない笑顔まで多岐に渡っており、
生きることの喜びをすべてそこから発散しているように感じられる。
 静は窓にうっすらと浮かぶ自分の顔を見た。
 窓と校舎の境界の、半透明の世界の中には、浮かない表情をした辛気臭い童顔の少女がいた。
「はあ……」
 再び溜息をつこうとしたとき、窓に映る朧の像の、その自分の背後を黒い影が横切るのを見た。
「────?」
 振り返ると、そこは視聴覚室で、扉はわずかに開かれていた。
 こんこんこん、と硬い靴が床を叩く音が聞こえる。
 その音のするほうに首を向ける。
 階段の踊り場へ続く廊下の曲がり角の向こう側に、今見た黒い影が吸い込まれるように消えていくところだった。
 学校指定の上履きとは似ても似つかない異質の靴音は、どんどん遠ざかっていた。
 ──階上へ。