『初めての友達、そして転校生 ①』
「静ちゃん、もう朝よ」
「うーん……やめてよメアリ、あともう五分だけ」
肩を揺する手を跳ね除け、静は頭からシーツをすっぽり被った。
メイド長のメアリは静に厳しかった。
メアリは「高齢の大旦那様と大奥様に代わり、自分が彼女を立派なレディーに教育せねば」という使命感に燃えており、
率先して静のプライベートに介入してくる、そんな三十路過ぎのイタリア系の未亡人だった。
まったく仕事熱心なのはいいが、こんな日本くんだりまで来ても自分の世話を焼かなくてもよかろうと、
半睡半醒の状態で静は思う。
ちゃんとお土産を買ってくるし、週に一回は連絡を入れるから心配するなと言ったのに──。
(──あれ?)
そこで完璧に目が覚めた。
がばっと跳ね起きて隣を見ると、三十路過ぎの女性が目をぱちくりさせて静の寝ぼけ顔を眺めていた。
「はれ?」
それはメアリではなかった。明らかに日系の、艶やかな黒髪が印象的な女性で、
今頃ニューヨークで静の夢でも見ているであろうメアリとは似ても似つかない。
「お早う、静ちゃん。よく眠れたかしら?」
「あ、ふぁい。お早うございます、ミズ広瀬」
「そんな堅苦しい呼び方しなくてもいいのよ。『由花子』でいいわ」
「あ、はい。由花子さん」
「着替えたら下に降りていらっしゃい。もう朝食の用意が出来てるから。康一さんもあなたを待っているのよ」
と、由花子はベッド脇のボードに置かれたセーラー服を示し、部屋から出て行った。
静はまだ重い思考のアクセルを徐々に踏み、ギアを入れる。
簡素だが日当たりのいい角部屋で、窓際に据えつけられたベッドの上に自分がいることを明確に思い出す。
外からは早くも眩しい光が差し込んできていて、名も知らぬ小鳥がぴーちく鳴いていた。
ぽつり、つぶやく。
「そっか……わたし、日本に来たんだ……わたしの生まれた町に……」
「うーん……やめてよメアリ、あともう五分だけ」
肩を揺する手を跳ね除け、静は頭からシーツをすっぽり被った。
メイド長のメアリは静に厳しかった。
メアリは「高齢の大旦那様と大奥様に代わり、自分が彼女を立派なレディーに教育せねば」という使命感に燃えており、
率先して静のプライベートに介入してくる、そんな三十路過ぎのイタリア系の未亡人だった。
まったく仕事熱心なのはいいが、こんな日本くんだりまで来ても自分の世話を焼かなくてもよかろうと、
半睡半醒の状態で静は思う。
ちゃんとお土産を買ってくるし、週に一回は連絡を入れるから心配するなと言ったのに──。
(──あれ?)
そこで完璧に目が覚めた。
がばっと跳ね起きて隣を見ると、三十路過ぎの女性が目をぱちくりさせて静の寝ぼけ顔を眺めていた。
「はれ?」
それはメアリではなかった。明らかに日系の、艶やかな黒髪が印象的な女性で、
今頃ニューヨークで静の夢でも見ているであろうメアリとは似ても似つかない。
「お早う、静ちゃん。よく眠れたかしら?」
「あ、ふぁい。お早うございます、ミズ広瀬」
「そんな堅苦しい呼び方しなくてもいいのよ。『由花子』でいいわ」
「あ、はい。由花子さん」
「着替えたら下に降りていらっしゃい。もう朝食の用意が出来てるから。康一さんもあなたを待っているのよ」
と、由花子はベッド脇のボードに置かれたセーラー服を示し、部屋から出て行った。
静はまだ重い思考のアクセルを徐々に踏み、ギアを入れる。
簡素だが日当たりのいい角部屋で、窓際に据えつけられたベッドの上に自分がいることを明確に思い出す。
外からは早くも眩しい光が差し込んできていて、名も知らぬ小鳥がぴーちく鳴いていた。
ぽつり、つぶやく。
「そっか……わたし、日本に来たんだ……わたしの生まれた町に……」
由花子の言ったとおり、広瀬康一は用意された朝食も取らずに静を待ち受けていた。
「やあ、静さん。よく眠れましたか?」
読みかけの新聞を折りたたみながら、彼はにこやかに聞いてきた。
「嫌だ、それもう私が聞いたわよ」
「え、そうなのかい」
「そうよ。康一さんったらいつもそうなんだから。……さ、静ちゃんお座りなさい。冷めないうちに頂きましょう」
言われるままに静は席に着く。テーブルの上には、由花子による料理が所狭しと並んでいた。
ベーコンエッグ、レタスとチーズのサラダ、アスパラとキノコのソテー、スモークサーモンのレモン和え、フルーツヨーグルトにトースト。
朝っぱらからこんなに食べて太らないんだろうか、という不安が静の小さな胸をよぎるが、
「若いんだからたくさん食べてね。……大きくなれないわよ」
そう言いながらオレンジジュースを注ぐ由花子の胸を眼前三センチに見て、訳もなく得心する。
なんというか……迫力満点だった。「子供の頃、どんな栄養を摂ってました?」と喉まで出掛かったほどだ。
「じゃ、食べようか。静さんも遠慮なくどうぞ。いただきます、由花子さん」
「召し上がれ、康一さん。……いただきます」
いつもの癖で胸の前で手を組もうとした静だったが、ここは日本であり、食前のお祈りを強制するメアリがいないことを思い出す。
慌てて周囲に目を配り、康一と由花子の真似をして掌を合わせる。
「い、いただきます」
先の得心は、静の中ではすでに「朝っぱらから栄養を摂れば大きくなれるのだ」という信心に変わっており、
親の仇でも討つように目の前の皿に挑みかかる。しっかり味わうことも忘れずに。
控えめに言っても、由花子の料理の腕前はセミプロ級だった。
ニューヨークの不動産王の娘として、花よ蝶よと育てられた静の肥えた舌がそう判断したのだから、これは大したものである。
その気になれば料理店の一つや二つを開くのは朝飯前だろうな、などと考えながら顔を上げた静の、
「はい、康一さん。あーん」
手が止まった。
「や、やめてよ由花子さん。お客さんがいるんだから」
「関係ないわよ、そんなの。はい、あーん、……美味しい? ……じゃ、私にもして。あーん」
口の中が一気に重くなった。喉の奥で引っかかる咀嚼物をオレンジジュースで胃に流し込み、そっと溜息をつく。
(うわあ……朝っぱらからいちゃいちゃしてるよう……)
そんな醒めた視線に気が付いたのか、康一は咳払いを一つして静に向き直る。
「いや、失礼。……静・ジョースターさん。
あなたは今日から『私立ぶどうヶ丘学園高等部』へ短期留学生という扱いで編入されることになります。
例の『写真』は持っていますか?」
静は深く頷き、一枚のポラロイド写真を差し出した。
それを受け取った康一の横から覗き込み、由花子が「あ」と声を上げる。
「これ、高等部の校舎ね。懐かしいわ」
「そう……これは、あなたのお父様、ジョセフ・ジョースター氏が『スタンド能力』で『念写』した写真です。
──静さん。あなたはどこまでのことを把握していますか?」
その言葉が静の内部に浸透するまで、康一は辛抱強く待った。
静は緊張に表情を固くし、意識的に呼吸を繰り返してその硬直を解こうとする。
出来るだけ時間を掛けて、静は確認するように一言一言に力を込める。
「ジョセフ・ジョースターとスージー・Q・ジョースターは、わたしの本当のパパとママではないこと。
わたしは杜王町で生まれ、母親とはぐれてしまったこと。
十五年前、この町を訪れていたパパにわたしは保護され、ジョースター家の養子として迎えられたこと。
わたしの両親の手がかりとしてパパが『念写』した写真が、『それ』だということ。
だからわたしはこの町に来て、ぶどうヶ丘高校に通うということ、です」
そこで静は言葉を切った。そこから続く言葉を待っていたのか、康一はややあってから拍子抜けしたように聞く。
「あの……それだけ?」
「はい、一応」
「『スタンド』については? それから──」
ぴんぽーん、とチャイムが鳴り、その話は中断された。
「誰かしら」とぱたぱた駆けていった由花子は、すぐに戻ってきて静にウィンクしてみせた。
「静ちゃん。お友達が迎えに来たわよ。遠野さんっていう子」
「十和子が? ……あ、もう行かなきゃ」
目顔で「もういいですか?」と問いかける静に、康一が笑って首を縦に振る。
「まあ、この話は追々することにしましょう。ともあれ、学校生活を楽しんできてください」
「行ってきます!」
と二人に手を振ってリビングから出て行く静を見送り、感心したように由花子がつぶやく。
「もう仲の良い子が出来たのね」
それとは正反対に、康一はしきりに首をひねっていた。
「今日が初登校だっていうのに……?
昨日以前で友達が出来て、それがたまたまぶどうヶ丘の生徒だった、ってことか……。
ただの偶然、いや、もしかして例の『法則』……?」
まとまりのない思考を追い払うように、康一は頭を振る。
そして、「『スタンド使い』について少しだけでも教えておけば良かったかな」と微かに考えた。
「やあ、静さん。よく眠れましたか?」
読みかけの新聞を折りたたみながら、彼はにこやかに聞いてきた。
「嫌だ、それもう私が聞いたわよ」
「え、そうなのかい」
「そうよ。康一さんったらいつもそうなんだから。……さ、静ちゃんお座りなさい。冷めないうちに頂きましょう」
言われるままに静は席に着く。テーブルの上には、由花子による料理が所狭しと並んでいた。
ベーコンエッグ、レタスとチーズのサラダ、アスパラとキノコのソテー、スモークサーモンのレモン和え、フルーツヨーグルトにトースト。
朝っぱらからこんなに食べて太らないんだろうか、という不安が静の小さな胸をよぎるが、
「若いんだからたくさん食べてね。……大きくなれないわよ」
そう言いながらオレンジジュースを注ぐ由花子の胸を眼前三センチに見て、訳もなく得心する。
なんというか……迫力満点だった。「子供の頃、どんな栄養を摂ってました?」と喉まで出掛かったほどだ。
「じゃ、食べようか。静さんも遠慮なくどうぞ。いただきます、由花子さん」
「召し上がれ、康一さん。……いただきます」
いつもの癖で胸の前で手を組もうとした静だったが、ここは日本であり、食前のお祈りを強制するメアリがいないことを思い出す。
慌てて周囲に目を配り、康一と由花子の真似をして掌を合わせる。
「い、いただきます」
先の得心は、静の中ではすでに「朝っぱらから栄養を摂れば大きくなれるのだ」という信心に変わっており、
親の仇でも討つように目の前の皿に挑みかかる。しっかり味わうことも忘れずに。
控えめに言っても、由花子の料理の腕前はセミプロ級だった。
ニューヨークの不動産王の娘として、花よ蝶よと育てられた静の肥えた舌がそう判断したのだから、これは大したものである。
その気になれば料理店の一つや二つを開くのは朝飯前だろうな、などと考えながら顔を上げた静の、
「はい、康一さん。あーん」
手が止まった。
「や、やめてよ由花子さん。お客さんがいるんだから」
「関係ないわよ、そんなの。はい、あーん、……美味しい? ……じゃ、私にもして。あーん」
口の中が一気に重くなった。喉の奥で引っかかる咀嚼物をオレンジジュースで胃に流し込み、そっと溜息をつく。
(うわあ……朝っぱらからいちゃいちゃしてるよう……)
そんな醒めた視線に気が付いたのか、康一は咳払いを一つして静に向き直る。
「いや、失礼。……静・ジョースターさん。
あなたは今日から『私立ぶどうヶ丘学園高等部』へ短期留学生という扱いで編入されることになります。
例の『写真』は持っていますか?」
静は深く頷き、一枚のポラロイド写真を差し出した。
それを受け取った康一の横から覗き込み、由花子が「あ」と声を上げる。
「これ、高等部の校舎ね。懐かしいわ」
「そう……これは、あなたのお父様、ジョセフ・ジョースター氏が『スタンド能力』で『念写』した写真です。
──静さん。あなたはどこまでのことを把握していますか?」
その言葉が静の内部に浸透するまで、康一は辛抱強く待った。
静は緊張に表情を固くし、意識的に呼吸を繰り返してその硬直を解こうとする。
出来るだけ時間を掛けて、静は確認するように一言一言に力を込める。
「ジョセフ・ジョースターとスージー・Q・ジョースターは、わたしの本当のパパとママではないこと。
わたしは杜王町で生まれ、母親とはぐれてしまったこと。
十五年前、この町を訪れていたパパにわたしは保護され、ジョースター家の養子として迎えられたこと。
わたしの両親の手がかりとしてパパが『念写』した写真が、『それ』だということ。
だからわたしはこの町に来て、ぶどうヶ丘高校に通うということ、です」
そこで静は言葉を切った。そこから続く言葉を待っていたのか、康一はややあってから拍子抜けしたように聞く。
「あの……それだけ?」
「はい、一応」
「『スタンド』については? それから──」
ぴんぽーん、とチャイムが鳴り、その話は中断された。
「誰かしら」とぱたぱた駆けていった由花子は、すぐに戻ってきて静にウィンクしてみせた。
「静ちゃん。お友達が迎えに来たわよ。遠野さんっていう子」
「十和子が? ……あ、もう行かなきゃ」
目顔で「もういいですか?」と問いかける静に、康一が笑って首を縦に振る。
「まあ、この話は追々することにしましょう。ともあれ、学校生活を楽しんできてください」
「行ってきます!」
と二人に手を振ってリビングから出て行く静を見送り、感心したように由花子がつぶやく。
「もう仲の良い子が出来たのね」
それとは正反対に、康一はしきりに首をひねっていた。
「今日が初登校だっていうのに……?
昨日以前で友達が出来て、それがたまたまぶどうヶ丘の生徒だった、ってことか……。
ただの偶然、いや、もしかして例の『法則』……?」
まとまりのない思考を追い払うように、康一は頭を振る。
そして、「『スタンド使い』について少しだけでも教えておけば良かったかな」と微かに考えた。
日本の夏は湿気ばかり高くて暑苦しい、と言ったのは誰だったか。
少なくとも、静にとってM県S市杜王区杜王町の夏は、ニューヨークの夏より何倍も過ごしやすいものだった。
「ねえ、聞いていい?」
「なにが?」
静は首を目一杯上に傾けて、隣を歩く少女の顔を見る。
少女──遠野十和子は横目で静を窺い、ちょっと迷ってから口を開いた。
「どうしてこの町に来たの?」
「どうしてって……留学のためだけど」
静がそう答えると、十和子は機械的に視線を前に戻し、気のない口調で「ふーん」と言う。
そっちから話を振っておいてその反応はないだろう、と静は思ったが、よく考えると自分は本当のことを言ってない。
「短期留学」とは表向きの理由であり、単なるカムフラージュであり、はっきり言えば嘘だ。
だから反応の薄さについて十和子を責める筋合いは静にはない。
だけど、どうしてそんなことを訊くのだろうと静は不思議に思った。
昨日、初めて十和子と会ったときすでに、留学生であるという身分は伝えてあったはずだ。
まるで静の嘘を、その疚しさを射抜くように、十和子は正確にそこを突いてきた。
その奇妙な感覚には覚えがあった。
見えぬものすら見通すように、届かぬものすら手に取るように、
立ち塞がるものに立ち向かうように。
少なくとも、静にとってM県S市杜王区杜王町の夏は、ニューヨークの夏より何倍も過ごしやすいものだった。
「ねえ、聞いていい?」
「なにが?」
静は首を目一杯上に傾けて、隣を歩く少女の顔を見る。
少女──遠野十和子は横目で静を窺い、ちょっと迷ってから口を開いた。
「どうしてこの町に来たの?」
「どうしてって……留学のためだけど」
静がそう答えると、十和子は機械的に視線を前に戻し、気のない口調で「ふーん」と言う。
そっちから話を振っておいてその反応はないだろう、と静は思ったが、よく考えると自分は本当のことを言ってない。
「短期留学」とは表向きの理由であり、単なるカムフラージュであり、はっきり言えば嘘だ。
だから反応の薄さについて十和子を責める筋合いは静にはない。
だけど、どうしてそんなことを訊くのだろうと静は不思議に思った。
昨日、初めて十和子と会ったときすでに、留学生であるという身分は伝えてあったはずだ。
まるで静の嘘を、その疚しさを射抜くように、十和子は正確にそこを突いてきた。
その奇妙な感覚には覚えがあった。
見えぬものすら見通すように、届かぬものすら手に取るように、
立ち塞がるものに立ち向かうように。
いつしか二人は大通りに出ていた。
来た道と行く道を指し示しながら、十和子が説明する。
「ここを真っ直ぐ行けば杜王駅だよ。そっからバスに乗ってぶどうヶ丘学園前まで行くの。オケ?」
その口調には、先ほど感じたよそよそしさはなくなっていた。だが、まるっきり消えてしまった訳ではないのだと思う。
「Understand(分かった)」
赤信号で立ち止まる。行き交う車の群れに見飽きた静は、なんとなしに側に立つ十和子を眺めた。
緩やかな風になびく長髪を時折かき上げて、信号の赤が青に変わるのをじっと待ち続けている。
その横顔に、凛とした佇まいを感じる。睫毛が意外と長いのを発見した。
「なに見てんのよ」
「え? べ、別に」
十和子は面白くなさそうに鼻を鳴らし、再び前を見た。
そして、沈黙。それははっきりと分かるくらいに気まずい雰囲気だった。
なにかを言ったほうがいいのかと気ばかり急くが、なにも言葉は思いつかない。
決して目には見えない、だが確実に存在する壁が、二人の間に立っていた。
立ち向かうもの、側に立つもの、under-stand(狭間に立つ)。
その連想の果てに、静は胸ポケットの中のポラロイド写真に制服の上から触れた。
(そうだ……わたしには目的があるんだから、友達なんか作ってる場合じゃないんだ……)
昨日はなんとなくのノリで十和子と一緒に学校へ向かう約束をしてしまったが、
こんな気まずい思いをさせられたら、きっと明日からは誘ってこないだろう。
万が一誘ってきても、今度はちゃんと断ろう。
自分がここにいる理由すら言えない相手と、友達になんかなれるわけがないんだから。
だからこれでいいんだ、と胸のしこりを正当化させることに成功しかけた静だったが、
「……ねえ、あれ」
十和子の差す指の先には、コンビニエンスストア『オーソン』と、そこに群がる人の山があった。
「あの人たち、なにやってるの? 日本のお祭りかなにか?」
風に乗って流れて来た野次馬のざわめきが、二人に事態を把握させる。
──ヤク中のコンビニ強盗だってよ。
──自分の子供を人質に取って立て籠もってるんだって。
その言葉に、静の全身が総毛立つ。声にならない痛みが、胸の深い奥底までをも貫いた。
それは、すでに風化しているはずの静自身の記憶が、長い時間の果てに立ち返ってきたのかも知れなかった。
来た道と行く道を指し示しながら、十和子が説明する。
「ここを真っ直ぐ行けば杜王駅だよ。そっからバスに乗ってぶどうヶ丘学園前まで行くの。オケ?」
その口調には、先ほど感じたよそよそしさはなくなっていた。だが、まるっきり消えてしまった訳ではないのだと思う。
「Understand(分かった)」
赤信号で立ち止まる。行き交う車の群れに見飽きた静は、なんとなしに側に立つ十和子を眺めた。
緩やかな風になびく長髪を時折かき上げて、信号の赤が青に変わるのをじっと待ち続けている。
その横顔に、凛とした佇まいを感じる。睫毛が意外と長いのを発見した。
「なに見てんのよ」
「え? べ、別に」
十和子は面白くなさそうに鼻を鳴らし、再び前を見た。
そして、沈黙。それははっきりと分かるくらいに気まずい雰囲気だった。
なにかを言ったほうがいいのかと気ばかり急くが、なにも言葉は思いつかない。
決して目には見えない、だが確実に存在する壁が、二人の間に立っていた。
立ち向かうもの、側に立つもの、under-stand(狭間に立つ)。
その連想の果てに、静は胸ポケットの中のポラロイド写真に制服の上から触れた。
(そうだ……わたしには目的があるんだから、友達なんか作ってる場合じゃないんだ……)
昨日はなんとなくのノリで十和子と一緒に学校へ向かう約束をしてしまったが、
こんな気まずい思いをさせられたら、きっと明日からは誘ってこないだろう。
万が一誘ってきても、今度はちゃんと断ろう。
自分がここにいる理由すら言えない相手と、友達になんかなれるわけがないんだから。
だからこれでいいんだ、と胸のしこりを正当化させることに成功しかけた静だったが、
「……ねえ、あれ」
十和子の差す指の先には、コンビニエンスストア『オーソン』と、そこに群がる人の山があった。
「あの人たち、なにやってるの? 日本のお祭りかなにか?」
風に乗って流れて来た野次馬のざわめきが、二人に事態を把握させる。
──ヤク中のコンビニ強盗だってよ。
──自分の子供を人質に取って立て籠もってるんだって。
その言葉に、静の全身が総毛立つ。声にならない痛みが、胸の深い奥底までをも貫いた。
それは、すでに風化しているはずの静自身の記憶が、長い時間の果てに立ち返ってきたのかも知れなかった。