『前奏曲』
夜の街の路地を、少女は走っていた。
彼女の手を引くのは、同じ年頃の少年だった。
二人はなにかに追われているように、時折後ろを振り返りながら駆けてゆく。
静かな夜だった。その静寂を破るように、輻輳する足音が速いテンポを刻んでいた。
二股に別れた道を、ビルとビルの狭間を、電球の切れかけた街灯の下を、崩れかけたパチンコ屋の前を、二人は闇雲に走る。
その道の選び方は覚束なく、たびたび立ち止まっては行き先に迷う。
それは明らかに土地勘のない挙動で、その異国風の出で立ちからも二人が旅行者らしいと窺えた。
「あっ!」
少女が足をもつれさせ、アスファルトの地面に倒れた。
「姫!」
少年が膝をついて少女を抱え込むように腕を伸ばす。
その腕に少女が縋ろうとしたとき、路地の曲がり角から幾つもの人影が乱暴な足音とともに現われた。
そいつらは、どこにでもいそうなやつらだった。詰襟の学ランを身につけたティーンエイジャーで、
昼間はめんどくさそうに学校に通い、放課後は駅前などにたむろして時間をつぶしていて、
真面目な学生からは「チャラいやつら」とか思われていそうな、そういう集団だった。
ただ、それぞれが手にした武器だけが、不釣合いに彼らの異質さを強調していた。
もはや短刀と言っても差し支えないくらいの大振りのナイフ。
月の光を映しこんで、それは、「人を殺すのに十分な代物」だということを自己主張している。
「……あなたたちの目的はなんですか」
地面に膝を付いたまま、少年が問う。懐に抱えた少女が軽く身を震わせた。
誰も答えない。そいつらは目顔で合図を送り合うと、円を描くように二人の周囲に散開する。
およそ普通の日本人学生とは思えないような、高度に連携された動きだった。
イヌ科の野生生物が獲物をそうするように、ぐるりと取り囲んで間隔を狭める。
牙の振り下ろされるときが近かった。
その張り詰められた空気に、少年の瞳がある種の決意の色に染まる。
少年の顔を見上げる少女が、不安そうに声を漏らした。
「小狼君」
小狼、と呼ばれたその少年は、力強く少女に頷き返した。
「大丈夫です、あなたは俺が守ります」
その言葉をきっかけにして、そいつらが動いた。
手の中のナイフを振りかざし、前後左右から二人に襲いかかる。
少年は胸の中の少女を腕から離し、腰を浮かしかける。
その時だった。
いったいどこから現われたのか、或いはいつからそこにいたのか、たった一つの黒い影が、二人の前に立っていた。
そいつが、独り言のようにつぶやく。うっかりすると聞き逃してしまいそうな声だったが、なぜかはっきりと聞こえた。
「なにが……君たちをそうさせてしまったのだろうな」
そして影は身を翻し、伸ばした脚を恐るべき速度で振り回した。
目にも止まらぬ蹴りに、暴漢どもが数人、宙を舞う。どしゃり、と力なく地面に落ちる。
それきりぴくりとも動かないその状態は、たった一撃で気絶させられていることを物語っていた。
少女は、そして少年も、驚いたようにその人影を見上げた。
奇妙な影だった。
背や顔立ちからして歳若い、この場の者たちとそう変わらない年齢なのは分かるが、
そいつが男なのか女なのかは、いまひとつ判然としなかった。
夜に溶け込むように黒いマントを身に纏い、メーテルのような筒の帽子をすっぽりと被っている。
この闇の中でも、白い顔の唇に引かれた黒いルージュが異彩を放っていた。
「君たちの心を狂わせるそのビート……。止めなければ……そう──」
仲間がやられたことで、暴漢たちの間に警戒が走った。
腰を深く落とし、本物の獣ように前傾姿勢を取る。彼らの攻撃目標は、今やその影だった。
じりじりと間合いを詰め、数秒の間、そして、怒涛のように一斉に飛び掛った。
その動きは淀みなく速く強烈で、人間の動きというものを逸脱しかけていた。
だが──。
「『dis beet disrupts(崩壊のビート)』」
影の動きはそれを遥かに凌駕していた。
マントを翻して地面を蹴り、その反動を速度に変え、一瞬で一人の暴漢を蹴り伏せる。
そして武芸者が刀を切り返すように、そのまま背後の暴漢二人の首にブーツのヒールを叩き込んだ。
「…………!」
少年は声も出なかった。
ただ目を見開いて、いきなり現われた謎の怪人が、自分たちを狙っていた暴漢を次々と倒していくのを見ていた。
そして少年は見る。
暴漢をあらかた片付けてしまった黒い影、その背後から最後の一人がナイフを突き立てようとしているのを。
影法師がそのことに気づいている素振りはなかった。
「危ない!」
影は少年の呼びかけにも反応しない。表情一つ変えなかった。
表情一つ変えないまま、それはまるで定めらていたことのように、演劇の殺陣をこなすように、
実に自然な動作で背後を振り返った。マントの下から差し出された手は真っ直ぐ伸ばされ、
二本の指がぴんと敵へ向けられていた。
「消えろ──『泡』のように」
それが合言葉のように、指を向けられていた最後の暴漢が思いっきり仰け反った。そして、倒れる。
その倒れ方は映画などでよくある、「銃で撃たれて死ぬ悪役」にも似ていた。
事は終わった。
暴漢たちは一人残らず道路に倒れ伏し、気を失っている。なかには寝息を立てている者さえいた。
「これで、彼らの心(ビート)も元に戻るだろう」
どこかあどけない、もはや暴漢とは呼べなくなっているその寝顔を眺めながら、影はそう言った。
危険が去ったことを悟った少女は、ふらふらと頼りない動きで立ち上がり、影の前に立った。
慌てて少年がその身体を支える。
「危ないところを助け下さって、ありがとうございます」
「なに、これが私の仕事だ。礼には及ばないさ。それに──」
影は空を振り仰ぐ。雲ひとつない夜空に月が不気味に輝いていた。
「──いや、なんでもない。私はこれで失礼する」
「待ってください。せめてお名前を聞かせてください。わたしは、サクラです」
影は少女を真正面から見据えた。
興味深さを感じているのか、知っている名前なのか、それともただ少女の顔の整った造型に目が行っているのか。
そんなことを何一つ感じさせない、想像の余地すら与えない、それはそういう無表情だった。
「私に名前などというものはないさ。だが……そうだな、人によっては私をこう呼ぶ者もいる。
不気味な泡──『ブギーポップ』、と」
影──ブギーポップは風にそよぐマントを己の身に引き寄せ、今度は少年の方を向く。
「見たところ……君たちはこの街と遠くかけ離れた世界から訪れたようだな。
ここではないどこか……今ではないいつか……水面の向こう側にあるような、異なる世界の果てから」
その言葉に、二人は心底から驚いて顔を見合わせた。
どうして分かったんだ、とでも言うように。
次の瞬間には、ブギーポップの姿は跡形もなく消えていた。泡が弾けて消えてしまうときのように、あっけない消え方だった。
どこからか、声が聞こえる。
「──君たちの探し物が無事に見つかることを祈っている」
その声も、一陣の風に紛れて散らばっていった。
後に残されたのは、少年と少女だけだった。
彼女の手を引くのは、同じ年頃の少年だった。
二人はなにかに追われているように、時折後ろを振り返りながら駆けてゆく。
静かな夜だった。その静寂を破るように、輻輳する足音が速いテンポを刻んでいた。
二股に別れた道を、ビルとビルの狭間を、電球の切れかけた街灯の下を、崩れかけたパチンコ屋の前を、二人は闇雲に走る。
その道の選び方は覚束なく、たびたび立ち止まっては行き先に迷う。
それは明らかに土地勘のない挙動で、その異国風の出で立ちからも二人が旅行者らしいと窺えた。
「あっ!」
少女が足をもつれさせ、アスファルトの地面に倒れた。
「姫!」
少年が膝をついて少女を抱え込むように腕を伸ばす。
その腕に少女が縋ろうとしたとき、路地の曲がり角から幾つもの人影が乱暴な足音とともに現われた。
そいつらは、どこにでもいそうなやつらだった。詰襟の学ランを身につけたティーンエイジャーで、
昼間はめんどくさそうに学校に通い、放課後は駅前などにたむろして時間をつぶしていて、
真面目な学生からは「チャラいやつら」とか思われていそうな、そういう集団だった。
ただ、それぞれが手にした武器だけが、不釣合いに彼らの異質さを強調していた。
もはや短刀と言っても差し支えないくらいの大振りのナイフ。
月の光を映しこんで、それは、「人を殺すのに十分な代物」だということを自己主張している。
「……あなたたちの目的はなんですか」
地面に膝を付いたまま、少年が問う。懐に抱えた少女が軽く身を震わせた。
誰も答えない。そいつらは目顔で合図を送り合うと、円を描くように二人の周囲に散開する。
およそ普通の日本人学生とは思えないような、高度に連携された動きだった。
イヌ科の野生生物が獲物をそうするように、ぐるりと取り囲んで間隔を狭める。
牙の振り下ろされるときが近かった。
その張り詰められた空気に、少年の瞳がある種の決意の色に染まる。
少年の顔を見上げる少女が、不安そうに声を漏らした。
「小狼君」
小狼、と呼ばれたその少年は、力強く少女に頷き返した。
「大丈夫です、あなたは俺が守ります」
その言葉をきっかけにして、そいつらが動いた。
手の中のナイフを振りかざし、前後左右から二人に襲いかかる。
少年は胸の中の少女を腕から離し、腰を浮かしかける。
その時だった。
いったいどこから現われたのか、或いはいつからそこにいたのか、たった一つの黒い影が、二人の前に立っていた。
そいつが、独り言のようにつぶやく。うっかりすると聞き逃してしまいそうな声だったが、なぜかはっきりと聞こえた。
「なにが……君たちをそうさせてしまったのだろうな」
そして影は身を翻し、伸ばした脚を恐るべき速度で振り回した。
目にも止まらぬ蹴りに、暴漢どもが数人、宙を舞う。どしゃり、と力なく地面に落ちる。
それきりぴくりとも動かないその状態は、たった一撃で気絶させられていることを物語っていた。
少女は、そして少年も、驚いたようにその人影を見上げた。
奇妙な影だった。
背や顔立ちからして歳若い、この場の者たちとそう変わらない年齢なのは分かるが、
そいつが男なのか女なのかは、いまひとつ判然としなかった。
夜に溶け込むように黒いマントを身に纏い、メーテルのような筒の帽子をすっぽりと被っている。
この闇の中でも、白い顔の唇に引かれた黒いルージュが異彩を放っていた。
「君たちの心を狂わせるそのビート……。止めなければ……そう──」
仲間がやられたことで、暴漢たちの間に警戒が走った。
腰を深く落とし、本物の獣ように前傾姿勢を取る。彼らの攻撃目標は、今やその影だった。
じりじりと間合いを詰め、数秒の間、そして、怒涛のように一斉に飛び掛った。
その動きは淀みなく速く強烈で、人間の動きというものを逸脱しかけていた。
だが──。
「『dis beet disrupts(崩壊のビート)』」
影の動きはそれを遥かに凌駕していた。
マントを翻して地面を蹴り、その反動を速度に変え、一瞬で一人の暴漢を蹴り伏せる。
そして武芸者が刀を切り返すように、そのまま背後の暴漢二人の首にブーツのヒールを叩き込んだ。
「…………!」
少年は声も出なかった。
ただ目を見開いて、いきなり現われた謎の怪人が、自分たちを狙っていた暴漢を次々と倒していくのを見ていた。
そして少年は見る。
暴漢をあらかた片付けてしまった黒い影、その背後から最後の一人がナイフを突き立てようとしているのを。
影法師がそのことに気づいている素振りはなかった。
「危ない!」
影は少年の呼びかけにも反応しない。表情一つ変えなかった。
表情一つ変えないまま、それはまるで定めらていたことのように、演劇の殺陣をこなすように、
実に自然な動作で背後を振り返った。マントの下から差し出された手は真っ直ぐ伸ばされ、
二本の指がぴんと敵へ向けられていた。
「消えろ──『泡』のように」
それが合言葉のように、指を向けられていた最後の暴漢が思いっきり仰け反った。そして、倒れる。
その倒れ方は映画などでよくある、「銃で撃たれて死ぬ悪役」にも似ていた。
事は終わった。
暴漢たちは一人残らず道路に倒れ伏し、気を失っている。なかには寝息を立てている者さえいた。
「これで、彼らの心(ビート)も元に戻るだろう」
どこかあどけない、もはや暴漢とは呼べなくなっているその寝顔を眺めながら、影はそう言った。
危険が去ったことを悟った少女は、ふらふらと頼りない動きで立ち上がり、影の前に立った。
慌てて少年がその身体を支える。
「危ないところを助け下さって、ありがとうございます」
「なに、これが私の仕事だ。礼には及ばないさ。それに──」
影は空を振り仰ぐ。雲ひとつない夜空に月が不気味に輝いていた。
「──いや、なんでもない。私はこれで失礼する」
「待ってください。せめてお名前を聞かせてください。わたしは、サクラです」
影は少女を真正面から見据えた。
興味深さを感じているのか、知っている名前なのか、それともただ少女の顔の整った造型に目が行っているのか。
そんなことを何一つ感じさせない、想像の余地すら与えない、それはそういう無表情だった。
「私に名前などというものはないさ。だが……そうだな、人によっては私をこう呼ぶ者もいる。
不気味な泡──『ブギーポップ』、と」
影──ブギーポップは風にそよぐマントを己の身に引き寄せ、今度は少年の方を向く。
「見たところ……君たちはこの街と遠くかけ離れた世界から訪れたようだな。
ここではないどこか……今ではないいつか……水面の向こう側にあるような、異なる世界の果てから」
その言葉に、二人は心底から驚いて顔を見合わせた。
どうして分かったんだ、とでも言うように。
次の瞬間には、ブギーポップの姿は跡形もなく消えていた。泡が弾けて消えてしまうときのように、あっけない消え方だった。
どこからか、声が聞こえる。
「──君たちの探し物が無事に見つかることを祈っている」
その声も、一陣の風に紛れて散らばっていった。
後に残されたのは、少年と少女だけだった。
少年と少女──小狼とサクラを見下ろす位置、七階建てのビルの屋上に、ブギーポップは立っていた。
その視線は二人に注がれている。それは険しさすら感じさせる真剣さで、二人の心を見定めるように。
背後で、階段に続くドアが開かれる。髪を長く伸ばした、二十代半ばの女性だった。
「お疲れさん、ブギーポップ」
「──君か」
「『君か』、だってえ?」
女はブギーポップの声真似をし、不満そうに口元を歪ませた。
「『敵』は倒したんでしょう? だったらさっさと貴也の身体を返しなさいよ!」
「機嫌が悪いようだな、どうしたんだね」
真面目そのものといった口調に、女が感情を爆発させる。
「恋人といちゃいちゃしてるときに脱兎のごとく駆け出されて一人取り残されて、それでどうやって上機嫌でいろって言うのよ!
ああクソ、せっかく今夜はわざわざ気合入れて料理作ったのに台無しじゃない!」
ブギーポップは深く息を吐いた。呆れているような溜息にも似ていたし、空手の達人などがよくやる呼吸法にも似ていた。
「悪いとは思っている──だが、これで終わりではない」
「……どう言うこと?」
女の眉が顰められるのに、ブギーポップは軽く首を振った。
「私が倒したのは、ほんの欠片に過ぎない」
「欠片?」
「そう……あの二人を襲った彼らは、ただ良いように操られていただけだ。
その根源は、世界を崩壊させるビートを刻む──『世界の敵』──は、別にいる。
あの二人も……もしかしたら私の敵になるかも知れないな。
あの二人が求めているのが、『崩壊のビート』を刻むような代物だとしたら」
その眼差しは近くを見ているのか遠くを見ているのか曖昧で、この世のものではない『なにか』を見ているようでもあった。
月は輝いている。風はまだ吹いている。
夜は始まったばかりだった。
その視線は二人に注がれている。それは険しさすら感じさせる真剣さで、二人の心を見定めるように。
背後で、階段に続くドアが開かれる。髪を長く伸ばした、二十代半ばの女性だった。
「お疲れさん、ブギーポップ」
「──君か」
「『君か』、だってえ?」
女はブギーポップの声真似をし、不満そうに口元を歪ませた。
「『敵』は倒したんでしょう? だったらさっさと貴也の身体を返しなさいよ!」
「機嫌が悪いようだな、どうしたんだね」
真面目そのものといった口調に、女が感情を爆発させる。
「恋人といちゃいちゃしてるときに脱兎のごとく駆け出されて一人取り残されて、それでどうやって上機嫌でいろって言うのよ!
ああクソ、せっかく今夜はわざわざ気合入れて料理作ったのに台無しじゃない!」
ブギーポップは深く息を吐いた。呆れているような溜息にも似ていたし、空手の達人などがよくやる呼吸法にも似ていた。
「悪いとは思っている──だが、これで終わりではない」
「……どう言うこと?」
女の眉が顰められるのに、ブギーポップは軽く首を振った。
「私が倒したのは、ほんの欠片に過ぎない」
「欠片?」
「そう……あの二人を襲った彼らは、ただ良いように操られていただけだ。
その根源は、世界を崩壊させるビートを刻む──『世界の敵』──は、別にいる。
あの二人も……もしかしたら私の敵になるかも知れないな。
あの二人が求めているのが、『崩壊のビート』を刻むような代物だとしたら」
その眼差しは近くを見ているのか遠くを見ているのか曖昧で、この世のものではない『なにか』を見ているようでもあった。
月は輝いている。風はまだ吹いている。
夜は始まったばかりだった。