見たところ、何の変化もない。
外壁が壊れているなんてこともなけりゃ、煤けてもいない。
『素晴らしい国』で、俺は確かに聞いた。
俺の故郷――『最悪の国』が、危機に瀕していると。
――『最悪の国』なんて呼ばれているとは、知らなかったが――
ロクでもない国だってのは、18の頃までここで過ごしてきた俺が一番良く知っている。
無菌。
清潔。
正直。
――思い返すだけで、吐きそうになる。
俺は、異端扱いされていた。ただ歩いていただけで、ジロジロと見られ、店の店主は、
カウンター下の銃に手を掛けた。
「国を出る」と言っても、誰も止めやしなかった。
その時、悟った。「俺は、ここでは生きられない」
なのに、どうして、今――これほど、胸がざわつく?
殺しもやった。放火も数限りなくやった。強姦だって。
誰かに訊いてみたくなった。
その時、重い鉄の門が、くたびれた音を上げた。
出てきたのは――ここからじゃあ、よく見えないな……
もう少し近付いてみる。
…旅人だ。
モトラドを携えた、背の小さな、ガキみたいな男だ。
まだ、待とう。国のヤツに見られたくはねえ。
あの、いかつい門が完全に閉まってから――あの男に、訊いてみよう。
外壁が壊れているなんてこともなけりゃ、煤けてもいない。
『素晴らしい国』で、俺は確かに聞いた。
俺の故郷――『最悪の国』が、危機に瀕していると。
――『最悪の国』なんて呼ばれているとは、知らなかったが――
ロクでもない国だってのは、18の頃までここで過ごしてきた俺が一番良く知っている。
無菌。
清潔。
正直。
――思い返すだけで、吐きそうになる。
俺は、異端扱いされていた。ただ歩いていただけで、ジロジロと見られ、店の店主は、
カウンター下の銃に手を掛けた。
「国を出る」と言っても、誰も止めやしなかった。
その時、悟った。「俺は、ここでは生きられない」
なのに、どうして、今――これほど、胸がざわつく?
殺しもやった。放火も数限りなくやった。強姦だって。
誰かに訊いてみたくなった。
その時、重い鉄の門が、くたびれた音を上げた。
出てきたのは――ここからじゃあ、よく見えないな……
もう少し近付いてみる。
…旅人だ。
モトラドを携えた、背の小さな、ガキみたいな男だ。
まだ、待とう。国のヤツに見られたくはねえ。
あの、いかつい門が完全に閉まってから――あの男に、訊いてみよう。
俺は気付いた。姿を見られるのも、よくない。
ここ数日水も浴びていないし、着替えもできていない。髭も伸びっぱなしだ。さらに、
俺のガタイと目付き、顔付きを考えると、間違いなく、賊と思われる。
俺の格好は、まさに賊そのものだろう。ならず者という点では一緒か……だけど、
俺は賊ではない。一匹狼だからだ。
門が閉まった。鼠が通れる隙間もなさそうだ。
旅人は、モトラドに跨らない。好都合だ。モトラドで走られちゃあ、置いてけぼりになる。
モトラドを引いて、旅人はゆっくりと、こちらの方へ向かってくる。俺の隠れている木の
すぐ前を通るまで、すぐだ。
あと、三歩。
二歩。
一歩――よし。
訊こう。国の様子を。そして、もう一つ――きっと、ヤツは困ったような顔をするだろうが、
あと一つ、どうしても訊きたい。
木蔭を出て、旅人の肩を――
ここ数日水も浴びていないし、着替えもできていない。髭も伸びっぱなしだ。さらに、
俺のガタイと目付き、顔付きを考えると、間違いなく、賊と思われる。
俺の格好は、まさに賊そのものだろう。ならず者という点では一緒か……だけど、
俺は賊ではない。一匹狼だからだ。
門が閉まった。鼠が通れる隙間もなさそうだ。
旅人は、モトラドに跨らない。好都合だ。モトラドで走られちゃあ、置いてけぼりになる。
モトラドを引いて、旅人はゆっくりと、こちらの方へ向かってくる。俺の隠れている木の
すぐ前を通るまで、すぐだ。
あと、三歩。
二歩。
一歩――よし。
訊こう。国の様子を。そして、もう一つ――きっと、ヤツは困ったような顔をするだろうが、
あと一つ、どうしても訊きたい。
木蔭を出て、旅人の肩を――
オレハ、ニンゲンラシクミエルカ?
「危なかったね、キノ」
「うん、そうだね」
モトラドにキノと呼ばれた黒髪の旅人は、今撃ち抜いた賊のような男の眉間から迸る
鮮血を見つめながら、言った。
「やっぱり、聞いた通りだ。国から一歩外に出ると、途端に危なくなる」
モトラドは言った。
「この先の国が『最悪の国』らしいからね。国の中だけで収まりきらない悪人が、外に出て
賊になっているんだろうか。まさか、出た瞬間襲われるなんて、思わなかったけど」
「うん、そうだね」
モトラドにキノと呼ばれた黒髪の旅人は、今撃ち抜いた賊のような男の眉間から迸る
鮮血を見つめながら、言った。
「やっぱり、聞いた通りだ。国から一歩外に出ると、途端に危なくなる」
モトラドは言った。
「この先の国が『最悪の国』らしいからね。国の中だけで収まりきらない悪人が、外に出て
賊になっているんだろうか。まさか、出た瞬間襲われるなんて、思わなかったけど」
キノは、これからの旅について、ある懸念を抱いていた。今回は、その懸念が的中
してしまったということなのかもと、キノはそう考えた。
ここのところ、キノは、男装では隠せないくらいに、“女”として成長し始めていた。
それは急激な変化だった。乳や尻は女らしく張り出し、顔立ちも、以前の少年(少女)
らしい丸顔から、色香を漂わせる細い顔に変わってきていた。
この『素晴らしい国』に入国した最初、門近くで遊んでいた少女に、「旅人の“お姉さん”、
どこからきたの?」と言われた時の、キノの狼狽っぷりは、内心に留められたものの、相当な
ものだった。
尤も、キノはそこまで、女である自分を隠したがっていたわけではなかった。しかし、旅人
として生きるには、男として通用する方が、何倍も安全であるということは、常識すぎるほど
の常識だった。
男であれば、旅をする上での敵は、ほぼ野生動物と天候、そして餓えのみである。しかし女
であれば、そこに“獣”が加わる。性欲に狂わされた、“人間の男”という名の獣が、牙から
唾液を滴らせて、女をその毒牙に掛けようとする。
考えれば、旅というものに楽しみはない。キノは幸いにして、“旅を楽しめる旅人”であった
ものの、そうでない旅人のほうが圧倒的に多いのだ。特に、男の旅人に多い傾向がある。旅をす
るうちに、彼らの神経は磨耗し、削れた神経の埋め合わせに、二つの本能が隆起してくる。それ
は食欲であり、性欲である。キノはまだ男を知らない。しかし、性欲に支配された男の恐ろしさ
というものは、これまでの旅の中で数度聞かされてきていた。
勿論、キノは自分の戦闘能力に自信を持っていた。銃を使わせれば、そこらの賊などには負け
ないと考えていたし、体術でも、対抗はできるだろうと、自分の能力と、一般の賊の力とを客観
的に眺めた上で、確信していた。
しかし、それでも、何が起こるかなど、誰にも分からない。偶発的な要素は無視できなかった。
「どんなに気をつけて手入れをしていても、壊れて使えなくなるかもしれない」
「肝心なときに弾切れを起こすかもしれない」
「体術でも、一対一なら、相手にもよるが負けないだろう。だけど、銃抜きで、自分より
力の勝る男三人に囲まれたら」――
リスクファクターは、考えれば考えるだけ顔を覗かせるものだ。
もし倒されたとして、犯されることは、破瓜の激痛は恐ろしいものの、それほど怖いも
のではなかった。だが、性欲が脳に回ってもはや正常な判断の利かなくなっている男達が、
犯したまま放っておくとは、キノにはどうしても思えなかった。
殺されると、キノは考えた。
してしまったということなのかもと、キノはそう考えた。
ここのところ、キノは、男装では隠せないくらいに、“女”として成長し始めていた。
それは急激な変化だった。乳や尻は女らしく張り出し、顔立ちも、以前の少年(少女)
らしい丸顔から、色香を漂わせる細い顔に変わってきていた。
この『素晴らしい国』に入国した最初、門近くで遊んでいた少女に、「旅人の“お姉さん”、
どこからきたの?」と言われた時の、キノの狼狽っぷりは、内心に留められたものの、相当な
ものだった。
尤も、キノはそこまで、女である自分を隠したがっていたわけではなかった。しかし、旅人
として生きるには、男として通用する方が、何倍も安全であるということは、常識すぎるほど
の常識だった。
男であれば、旅をする上での敵は、ほぼ野生動物と天候、そして餓えのみである。しかし女
であれば、そこに“獣”が加わる。性欲に狂わされた、“人間の男”という名の獣が、牙から
唾液を滴らせて、女をその毒牙に掛けようとする。
考えれば、旅というものに楽しみはない。キノは幸いにして、“旅を楽しめる旅人”であった
ものの、そうでない旅人のほうが圧倒的に多いのだ。特に、男の旅人に多い傾向がある。旅をす
るうちに、彼らの神経は磨耗し、削れた神経の埋め合わせに、二つの本能が隆起してくる。それ
は食欲であり、性欲である。キノはまだ男を知らない。しかし、性欲に支配された男の恐ろしさ
というものは、これまでの旅の中で数度聞かされてきていた。
勿論、キノは自分の戦闘能力に自信を持っていた。銃を使わせれば、そこらの賊などには負け
ないと考えていたし、体術でも、対抗はできるだろうと、自分の能力と、一般の賊の力とを客観
的に眺めた上で、確信していた。
しかし、それでも、何が起こるかなど、誰にも分からない。偶発的な要素は無視できなかった。
「どんなに気をつけて手入れをしていても、壊れて使えなくなるかもしれない」
「肝心なときに弾切れを起こすかもしれない」
「体術でも、一対一なら、相手にもよるが負けないだろう。だけど、銃抜きで、自分より
力の勝る男三人に囲まれたら」――
リスクファクターは、考えれば考えるだけ顔を覗かせるものだ。
もし倒されたとして、犯されることは、破瓜の激痛は恐ろしいものの、それほど怖いも
のではなかった。だが、性欲が脳に回ってもはや正常な判断の利かなくなっている男達が、
犯したまま放っておくとは、キノにはどうしても思えなかった。
殺されると、キノは考えた。
男に限らず、人間というのは嗜虐心でできているらしく、本質的に他者に危害を加えること
のみで満たされる存在である、ということだ。それはこれまでの旅を思い返せば、キノにも
合点のいく話だった。嗜虐心が、ボクを嬲るだけで収まるものだろうか。そう考えた。実際
には、大半の強姦者は射精した段階で満足してしまい、その場に女を放っていくケースが
大半なのだが、射精が男にもたらす満足感など分かりようもないキノには、そこまで考えが
至らないのも当然のことだった。
「ここにずっといるのも、キケンじゃない?」
モトラドは言った。キノは答えた。
「そうだね。じゃあ、行こうか。動き続けるのが、一番安全だ」
キノはモトラドに跨った。そして、砂利道を走りだした。
のみで満たされる存在である、ということだ。それはこれまでの旅を思い返せば、キノにも
合点のいく話だった。嗜虐心が、ボクを嬲るだけで収まるものだろうか。そう考えた。実際
には、大半の強姦者は射精した段階で満足してしまい、その場に女を放っていくケースが
大半なのだが、射精が男にもたらす満足感など分かりようもないキノには、そこまで考えが
至らないのも当然のことだった。
「ここにずっといるのも、キケンじゃない?」
モトラドは言った。キノは答えた。
「そうだね。じゃあ、行こうか。動き続けるのが、一番安全だ」
キノはモトラドに跨った。そして、砂利道を走りだした。
「いい国だったね」
「うん。とても」
モトラドの言葉に、キノは、高速で過ぎ行く草原の風景に目をやりながら、答えた。
意識には、『素晴らしい国』で受けた様々なサービスが浮かんでは消えていった。
「でもね、エルメス」
「うん?」
「あまりにも、素晴らしすぎた気がするんだ。今思うと」
「親切にされるのは、とってもいいことじゃないの」
「それはそうだけれど、あまりにも、そう……まるで、作り出されたかのような、素晴らしさ
だった。人為的に作られた、楽園だったんじゃないか――今、冷静に思い返せば、そんな気が
するよ」
「人為的にって、どういうことさ」
モトラドは、怒気を声に孕ませて、粗野を気どって言った。彼にしてみれば、恩人を侮辱
されたような感覚なのだろう。
「だって、あまりにも素晴らしい人ばかりだった。建物や食べ物が素晴らしい国なんて、
沢山あるよ。だけどそういった国は大概、人間が汚れていた。あの国だけ、なんで人も
素晴らしかったんだろう」
「きっと、教育がしっかりしてるとか、性格のよさがひたすら遺伝しまくったとか、
そういうことだよ」
「やけに、肩を持つじゃないか」
「キノに感謝の心が足りてないだけさ」
キノは苦笑した。
察しはついていた。『素晴らしい国』は、素晴らしい人間だけがいられる国。そして、
素晴らしくないと判定された者は――
ここで、キノは考えることを止めた。ここから先は、考えたからといってどうなるもの
でもないからだ。
「“素晴らしい”と“素晴らしくない”の基準って、なんなんだろうね。ボクには分から
ないや」
「さあね。キノはそんなこと考えなくていいんじゃない。もし基準が明確にあって、それに
照らし合わせた結果“素晴らしくない”と判定されたからって、そこからどう変わりようが
あるのさ? 変わろうと思って変われる程、人間って器用にできてないもの」
それを聞いて、キノはまた笑った。
「人間のこと、全部知ってるみたいだ」
「当たり前さ。もう長いこと接してるもんでねぇ」
旅人とモトラドは、そうして話しながら、見晴らしのいい草原から、深く暗い森の中
へと入っていった。
「うん。とても」
モトラドの言葉に、キノは、高速で過ぎ行く草原の風景に目をやりながら、答えた。
意識には、『素晴らしい国』で受けた様々なサービスが浮かんでは消えていった。
「でもね、エルメス」
「うん?」
「あまりにも、素晴らしすぎた気がするんだ。今思うと」
「親切にされるのは、とってもいいことじゃないの」
「それはそうだけれど、あまりにも、そう……まるで、作り出されたかのような、素晴らしさ
だった。人為的に作られた、楽園だったんじゃないか――今、冷静に思い返せば、そんな気が
するよ」
「人為的にって、どういうことさ」
モトラドは、怒気を声に孕ませて、粗野を気どって言った。彼にしてみれば、恩人を侮辱
されたような感覚なのだろう。
「だって、あまりにも素晴らしい人ばかりだった。建物や食べ物が素晴らしい国なんて、
沢山あるよ。だけどそういった国は大概、人間が汚れていた。あの国だけ、なんで人も
素晴らしかったんだろう」
「きっと、教育がしっかりしてるとか、性格のよさがひたすら遺伝しまくったとか、
そういうことだよ」
「やけに、肩を持つじゃないか」
「キノに感謝の心が足りてないだけさ」
キノは苦笑した。
察しはついていた。『素晴らしい国』は、素晴らしい人間だけがいられる国。そして、
素晴らしくないと判定された者は――
ここで、キノは考えることを止めた。ここから先は、考えたからといってどうなるもの
でもないからだ。
「“素晴らしい”と“素晴らしくない”の基準って、なんなんだろうね。ボクには分から
ないや」
「さあね。キノはそんなこと考えなくていいんじゃない。もし基準が明確にあって、それに
照らし合わせた結果“素晴らしくない”と判定されたからって、そこからどう変わりようが
あるのさ? 変わろうと思って変われる程、人間って器用にできてないもの」
それを聞いて、キノはまた笑った。
「人間のこと、全部知ってるみたいだ」
「当たり前さ。もう長いこと接してるもんでねぇ」
旅人とモトラドは、そうして話しながら、見晴らしのいい草原から、深く暗い森の中
へと入っていった。