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「ヴィクティム・レッド 55-1」(2008/04/10 (木) 11:18:22) の最新版変更点
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かつて、海の向こうからやってきた白人の山師が、およそ24$という馬鹿みたいな安値でネイティブアメリカンから買い取った土地――マンハッタン島。
白人どもは途方もない努力と犠牲を払い、その24$相当の荒野に血と汗とフロンティア精神による煉瓦を積み上げた。
そして――やがてそれは、世界を支配する史上類を見ない巨大な帝国の本拠地となり、ありとあらゆる社会的ダイナミズムの中枢となる。
その価値と、そこに至るまでの年月は、そもそもの土地の対価である24$を年七分複利で回した場合に匹敵すると言われている。
たゆまぬ向上心と狂気じみた熱意と、不寛容な正義と洗練された拝金主義、他人が流す血への思いやりと侵略行為に対するにこやかな熱心さ、
どこまでも純粋な使命感と常に人柱を求める残酷さ、世界の心臓たらんとする集団ヒステリーじみたメサイア・コンプレックス――
そうした諸々の自走性と、そこに生じる既得権益と怠惰の力学によって血に染まった煉瓦がうずたかく積み上げられ、
そして今なお現在進行形で煉瓦を積み続ける、様々な人種と様々なキ印の坩堝となった驚異の島(ワンダーランド)――ニューヨーク、マンハッタン島。
そんな不思議の国(ワンダーランド)に通じるか細い穴――公式には存在しないはずの地下鉄トンネルを、レッドとセピアはひた走っていた。
太陽の光は決して届かない地の底で、頼りない非常灯が等間隔に並ぶなかを、まるでなにかに追い掛けられているような懸命さで駆けている。
「はあっ……はあっ……!」
ときおり脚をもつれさせ、苦しそうに喉を喘がせながら、ワンピースの裾を翻して前方を走るレッドに追い縋るセピア。
そのレッドも、速度はともかく覚束ない足取りはセピアと大差ない。
レッドの右大腿部にきつく巻かれた包帯からはじくじく血が染み出しており、
それ以上にぐるぐる巻きにされている左肩は夥しい血に濡れ、肩口を必死になって右手で抑えていた。
「あっ!」
小さな叫びとともに、セピアの身体が地面に投げ出された。
「もうダメ……走れない」
「ふざけんな、立てよ。こんなとこでぐずぐずしてたら、あのニンジャ野郎に追い付かれるだろーが。
あんたが虚弱だからって相手は待ってくれないんだぜ。どうせなら逃げ延びてから死ね」
叱咤というよりは暴言に近いレッドの言葉にも、セピアは力無く首を振る。
「無理よ……わたしのことは置いていって」
その投げやりな感じと疲労と諦めの入り交じった答えに、ついイラっときた。
「おい――」
「レッドだけでも逃げて……わたし、きっと、またあなたの足を引っ張っちゃうから」
二人の前後、来しな方と行きし方には奈落の深淵を思わせる暗黒がぽっかりと口を開けている。
自分たちはどこから来たのか――そしてどこへ行こうというのか。
二人が来た方向に茫漠とした視線を投げる。
――本当に、どこへ行こうとしているのだろう?
あの怪物――ARMSすら凌駕する戦闘能力の持ち主から逃げおおせることなど、自分たちに可能なのだろうか?
――話は遡る。
「どうだね――取引といかないかな?」
『単身赴任のサラリーマン』を自称するがどちらかというと現代風ニンジャのような『そいつ』は、そうレッドに切り出した。
「――取引だあ?」
「そう、私の狙いは君がたった今破壊した列車の積み荷――いや、荷と言う程のものでもない。
『タイ・マスク文書』とも呼ばれる――ある書類だ。それを私に渡してもらえると、すごく助かるのだが」
うっかり「オレたちが運んでいたブツは書類なのか?」と問い返しそうになり、すんでのところで言葉を飲み込む。
荷の護衛役より、強盗のほうがその中身に詳しいとは――ふざけているとしか言いようがない。
キース・ブラックによる情報の出し惜しみも、ここまでくると明確な悪意を感じる。
「――馬鹿か? オレたちにはなんのメリットもないじゃねーか」
「そうでもないさ。――そちらのお嬢さんを見逃すと言ったら?」
ニンジャ野郎の提示した条件に自分の身の安全が含まれていないことに、レッドは違和感を覚える。
別に命乞いをしたいわけでは全然ないが、その言い草は――?
「――オレを殺すのは確定なのか? てめえは、その書類とやらの他に、そういう任務も帯びているってことか?」
男は微かに首を振ったようだった。
こいつの黒装束は周囲の闇にほとんど溶け込んでおり、ちょっとでも集中を切らすとたちまちに姿を見失いそうな気がする。
「違うな――その逆さ、キース・レッドくん。
今回の私の狙いには含まれていないが、私の友人はそちらのお嬢さん――キース・セピアくんの身柄を保護したいと考えている」
その言葉でレッドの脳裏に想起されるもの――セピアと初めて出会った任務――反エグリゴリ組織に誘拐されたセピア、その奪還。
後にキース・バイオレットに教えられたところによれば、その組織の名は――、
「てめー、『ブルーメン』っていうのの手先か!」
「ふふ、『手先』とは良かったな。
確かに、私は『彼』の手となり足となり働くこともある――『彼』は少々手足が不自由なのでね」
猪突未遂しかけたレッドを引き止めてからこっち、真横に並んでいたはずのセピアが、いつの間にか再び自分の後ろにいるのを発見する。
セピアがレッドの陰に隠れたのか、それともレッドがセピアを背後に庇ったのか――それはレッド自身にも判然としなかった。
ただ、控え目に、それでいて精一杯の力でレッドの服の裾を掴んでいるのは感覚できた。
これがもうちょっと弛緩した場面だったら、セピアに「服が伸びる」と文句を付けていたかも知れなかった。
「……正気か? 組織掛かりでこんな小娘一人を攫おうとしてんのか、てめーら。なにが目的だ?」
「私は日本に妻子を残してきていてね」
「……なんだって?」
「妻と息子だよ、キース・レッドくん。我が子のために、出来ることはしておこうという親心さ。それが動機だ。目的は、そう――」
そこで僅かに言葉を切り、
「『プログラム・ジャバウォック』」
と、レッドにとってまるで意味不明の単語を口にする。
「もはや、その悪魔の運命(プログラム)は逃れがたいものになりつつある――
全てが手遅れになるまえに、我々はその概要(プログラム)について知らなければならない。
そのために必要なのが、『タイ・マスク文書』であり――或いはキース・セピアくんであるということだ」
いきなり両腕に強烈な痺れを感じる。
その原因は考えるまでもなく、背後のセピアが持つARMS『モックタートル』が発動したことによる共振現象だった。
レッドのARMS『グリフォン』が教えてくれる――その共鳴に乗って流れ込んでくる感情の『意味』。
それは恐怖、不安、悲哀、そして――澱んだ憎悪。
(なんだ、この感情は――?)
そして、そして――レッドがいまだ知らぬ、ために『グリフォン』が意味的に処理することの出来なかった、
ある名状しがたい空恐ろしい『なにか』……『なにか』という感情。
レッドにはそれが理解できぬまま、
聞こえる――沈黙の天使の声無き囁きが。
『野心……動揺……醜怪……愚弄……』
感情そのものとは乖離した、思考言語に相似した情報がセピアから伝わってくる。
それは『モックタートル』が――情報制御用ARMSが奏でる、高度に配列されて意味論的に展開された電子の囁きだった。
だがそのセピアから流れ込む悪感情も意味不明の単語の羅列も、すぐに消えてなくなり、『モックタートル』の共振現象は沈静した。
まるで、うっかり本心を漏らしてしまったセピアが慌てて気持ちに蓋をしたかのように。
そんな水面下に起こった小さな異変など知るべくもなく、ニンジャ野郎は言葉を続けていた。
「おそらく君は、彼女の本当の価値をまだ知らない。だから忠告しておこう。
もし君が真に『プログラム・ジャバウォック』からの、ひいては『ARMS計画(プロジェクト・アームズ)』からの自由を求めるなら――
決して彼女を手放してはならない。その意味では、この取引は君に取っても有益なことだ」
「ごちゃごちゃうるせーんだよ、タコ」
レッドの両腕に内蔵されたアドバンスドARMS『グリフォン』のコアを解放――
そこに宿るナノマシン兵器群が擬態を解除し、戦闘形態へ。
「……交渉は決裂かな?」
「当たり前だ。てめーの口車に乗るほどおめでたい頭してねえんだよ、オレは」
『ブルーメン』、『タイ・マスク文書』、『プログラム・ジャバウォック』――そして、それらの言葉に対するセピアの反応。
そのどれもこれもがレッドの理解を超えていたが、たったひとつだけ確かなことがあった。
それは――こいつの態度が気に食わない、ということだった。
その「なんでも知っている」と言いたげな余裕たっぷりの言動が、
レッドの知らぬ諸々を――セピアの本当の姿を知っていると匂わせる口ぶりが、彼を猛烈に不快にさせていた。
「てめーが何者かは知らねーが、よ……すぐに吐かせてやるぜ。洗いざらいなにもかもな」
「そうか……では、やっみせてくれ」
「言われるまでもねえ!」 叫び、レッドは腕を振り上げて地面を蹴った。
目に見えるか見えないかの微細な震動によって殺傷力が大幅に強化された『グリフォン』のブレードが、ニンジャ姿の男へと殺到する。
「――甘いな」
超震動のブレードが喉元に届こうとする直前、男はそう小さく呟いて、いとも簡単にするりとそれをかわした。
レッドのブレードは虚しく宙を切り、勢い余ったのとすれ違いざまに背中を突き飛ばされたので前につんのめる。
倒れそうになるが脚を踏ん張って持ちこたえ、振り返りながら再度の攻撃。
ニンジャ野郎の死角から繰り出したはずだが、彼は背中にも目がついているのか、『グリフォン』の切っ先を冗談みたいな紙一重の間隙を挟んで回避する。
「このっ……!」
あらゆる分子結合に干渉し、触れるもの全てを分かつ『グリフォン』の腕――届かない。相手の息吹すら感じる距離にあってすらも。
「君の攻撃は『実』に頼りすぎだ。『虚』を知らねば『実』もまた死ぬ」
まるで稽古をつけられているような風情。だが、
「伏せて!」
セピアが叫ぶのと、眉間のあたりに強烈な殺気を感じるのがほぼ同時だった。
反射的に身を屈めたその頭上を、男の手から放たれたクナイが通り過ぎ、
そしてほんの僅かなタイムラグを経て、背負った刀が抜かれて一閃する。
セピアの声が無ければ初撃のクナイを避けた瞬間を狙われていたであろう、容赦のない連撃だった。
それをかわしきったことでさしものニンジャ野郎にも隙が生まれ、だがレッドにも有効打を与えられる態勢に無く、
両者の思惑が一致する帰結点――互いに後退し、距離を取る。
「かわされた、か……」
男の感心したようなつぶやき。
セピアへの奇襲を警戒するレッドは、彼女を庇うような位置を取る。
「――セピア!」
「うん」
駆け寄るセピアが虚空に手を差し延べ、その胸元からはARMSの発動を示す幾何学紋様が淡い輝きとともに這い上る。
刹那、沈黙が地底を支配し、
「――オレに力を!」
その声に応え、『ニーベルングの指輪』の全能力を注ぎ込まれたことで爆発的な加速度で放たれた。
『グリフォン』の超音速の波動がトンネル内を縦横無尽に駆け巡る。
振動を操るARMS『グリフォン』にのみ可能な、不可視の超震動攻撃――
媒体たる『空気』がこの世に満ちている限りは、何者も回避不可能な幻獣の雄叫び。
だが――、
そいつは、いとも簡単に、それこそ目に見える攻撃を避けるように、実に造作なくレッドの攻撃の『盲点』――
狭いトンネルに反響する振動が干渉しあい、最も威力が弱まる三次元的ポイントにその身を滑り込ませた。
「なに――」
その『安全地帯』の存在はレッドも知悉していた。
その上で、一度の攻撃につき必ず数箇所発生する『安全地帯』に自分とその周囲が含まれるように調整した攻撃を放っている。
だからこそ、レッドは己の攻撃で我が身を傷つけることなく戦えるのだ。
だがそれは、攻撃の使い手であるレッドにしか把握出来ないはずで、
『空気』という見えない媒体を伝わる『グリフォン』の超震動を回避するすべなど――、
「『風』だよ、キース・レッドくん。
この目に見えなくとも、肌に感じる流れが君の攻撃を教えてくれるのだ――その『力』の及ばぬ場所すらも」
馬鹿な、と叫びかえしたかった。
そんな有り得ない方法で、『グリフォン』の放つ破壊的なバイブレーションを見切れるはずがない。
そんなレッドの願望じみた否定を打ち消すように、そいつは流動的に変化する『安全地帯』を飛び石の如く渡り歩きながら接近してくる。
「セピア! 出力を上げろ! もっと――もっとオレに力をよこせ!」
こうなっては打開策はたったひとつ、点在する『安全地帯』をすべて消滅させる大規模な震動攻撃――
周囲の空間を敵意で満たし、我が身もろともに敵を粉砕させんとする、文字通りに捨て身の――、
(――――っ!)
唐突に思い出す。側にセピアがいることを。
このまま大規模な攻撃を実行したら、レッド自身や敵のニンジャ野郎とともにセピアまでをも巻き込んでしまう。
構うものか、やってしまえ――レッドの本能がそう告げる他方で、自分でも理解できない部分がその意志に拮抗し、
その二重背理の板挟みにあったレッドの身体が固まった瞬間――
どかっ、という重い音がして、レッドの腿に飛来したクナイが突き刺さった。
その衝撃がレッドの硬直を解くが、その頃にはニンジャ野郎が一足飛びで懐に迫っていた。
レッドは後ずさった。後ずさったのだと思う。
一瞬、なにが起こったのか分からなかった。
いやに左肩が軽いのでそちらに目をやると――なにもなかった。
本来あるべきの、レッドの左腕すらも。
「ぐうっ……!」
遅れてやってきた仮借ない激痛に脳をやかれながら、それでも理解する。
『グリフォン』のナノマシン侵食が及んでいない生体部位を狙われ、ニンジャ野郎に左腕を切り落とされたのだと。
膝がくずおれる。そう言えば右足にも深手を負ったのだと他人事のように思った。
ダメージのショックによって精神が遊離しつつある――分かっているが、思考にかかる靄が振り払えない。
定まらぬ視線を持ち上げる。
闇に煌めく刃が、今まさに振り下ろされようとしているのが見えた。
目前に迫る死に抗うすべは――思い浮かばなかった。
「いやあああぁぁっ!!」
金切り声に近いようなセピアの絶叫がトンネル内に響き――
まるでその声に呼応したかのように、ニンジャ野郎の手にした刀がパリンと砕けた。
用を成さなくなった武器を訝しみ、男が微かに眉を寄せてセピアを見る。その視線につられ、レッドもそちらに首を巡らせた。
「う、うああ……」
普段は愛くるしさに満ちている面差しが怯えと恐慌に歪み、
胸の辺りで手を固く握り締めるセピアが、凄惨なまでの切実さでこちらを凝視していた。
今もレッドの首根っこをがっちり押さえ込む男は、腰に差したクナイに軽く手を触れ、
いつでもとどめを刺せる態勢を保持した状態のまま、ゆっくりとセピアとレッドを見比べている。
これから振り下ろそうとしている刃の行き先を――これから奪おうとしている命の価値を見定めるように。
「や、やめ――」
やめて、とセピアは言おうとしたのだろうか。
その言葉の全てが顕れる前に、彼女の目から意志のある色がいきなり消失した。
だらん、と糸の切れた人形のように腕が両脇に垂れ、直立姿勢を保てなくなって身体がゆらゆら左右に揺れる。
表情も一変した。つい数秒前の切羽詰まった感じとは似ても似つかない、それこそ別人のような、のっぺりとした無表情に。
恐れも怒りも悲しみも見出だせない、まるで感情の無風地帯にあるようで――、
そうでなければ、レッドの知らない『なにか』の感情がセピアの顔面に漲っているようだった。
「最初に……」
この世ならざる幽鬼のような風情で立つセピアが、虚ろそのものといった目つきで、ぼそぼそと何事かを呟きはじめた。
「最初に学ぶのは……這い方……悶え方……」
ドクン。
なんの前触れもないまま、レッドの内部で『なにか』が跳ね上がる。
身体に瘧のような震えを感じた。いつの間にか、あらゆる痛みがレッドから霧散しており、代わりに正体不明の内圧が込み上げる。
「その次は……四則演算……」
身体中を駆け巡る震えはなおも強まり、ついには体外へ伝播する――トンネルの隔壁が、敷設されたレールが、がちがちと騒がしく踊りだす。
レッドにも、そしてニンジャ野郎にも発すべき言葉が無かった。
セピア一人だけが、熱に浮かされているような平淡な調子で訳の分からないことを囁き続けている。
セピアの肌に浮かぶ幾何学紋様が、彼女の全身隅々めで行き渡り、呪術的なメイクを施した異邦の巫女のような相を呈している。
「野心……動揺……醜怪……愚弄……」
セピアの放つ言霊に触発されるように、離れたところに落ちていたレッドの左腕までもが自律的な振動を始め、地面に蜘蛛の巣の如き亀裂を刻む。
レッドは思い至る。『四則演算』――支離滅裂と思われたセピアの言葉の意味に。
『野心(Ambition)』、『動揺(Distraction)』、『醜怪(Uglification)』、『愚弄(Derision)』――
『加算(Addition)』、『減算(Subtraction)』、『乗算(Multiplication)』、『除算(Division)』――
『言葉遊び』だ。
最初に言った『這い方(Reeling)』、『悶え方(Writhing)』というのも、
『読み方(Reading)』『書き方(Writing)』のもじりだろう。
続けて思い出す。それらの言葉遊びは、ルイス・キャロル作『不思議の国のアリス』において、
怪獣『グリフォン』とグルになってアリスをからかう仔牛ちゃん『代用海ガメ(モックタートル)』が述べたてた駄洒落だということを――。
レッドの身も心も揺るがすビートはなおも強まり、今やトンネル全体をも激しく揺さ振っていた。
『なにか』が起ころうとしていた。
きっととんでもなく恐ろしくて、取り返しのつかないであろう『なにか』が。
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