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自由への道を閉ざす監獄の扉のように、重く閉じられていた目蓋が開放された。武神が
目を覚ましたのだ。
武神が首を横に往復させると、加藤はすぐに見つかった。
喜びに浸るわけでもなく、勝利に酔いしれるわけでもない。一仕事を終えて疲れ果てた
一人の青年が座り込んでいただけであった。
「あ、起きやがったか……」
「私は敗北したのだな」
「別に認めたくなければいいけどよ、なんならかかって来いよ」
「ふん、虚勢を張るな。もう懲り懲りだという声が体中から聞こえるぞ」
「んだとォ?!」
立ち上がって構えを取ろうとするが、右半身が崩壊した肉体では立つことすらかなわな
い。
「ぐっ!」
「心配しなくとも、私は敗北を認めている。この勝負、私の負けだ」
「……ずいぶん、素直じゃねぇか」
「武術とは、歴史を遡れば命の奪い合いに帰結する。命は人も神も一つしか持たぬ。なら
ば武術における勝敗とは、一回一回区切られねばならない。武を司る私となれば、なおさ
らだ」
「………」
「そして何より、今私の心にあるのはどうしようない程の敗北感だ。仮に今ここで君を倒
したとしても、私の心からそれを払拭することはできまい」
武神は心の底から敗北を認めていた。恥も外聞もなく「三本勝負にしよう」と言い出し
かねない性格の武神からは、考えられない台詞だった。
「気味が悪ィぜ。まぁいいけどよ、だったら、さっさと俺を帰してくれや」
「いいだろう。が、君には話しておくべきことが幾つかある」
「話ィ?」
武神は一呼吸置くと、そっけなく話を切り出した。
「まず初めに。せっかく倒してくれたのだが、私は武神などではない」
いきなりの告白に、加藤の体内でクエスチョンマークがうじゃうじゃ湧き出してくる。
「はァ? ちょっ、てめ……待てよ、おい! まさか、俺をハメやがったのか!?」
「そうではない。正確に言えば、私には武神の資格などとうになかった」
「……どういうことだよ」
「あれは四十年近くも前になるか……」
武神はぎゅっと目をつぶり、歯を食いしばる。忘れたい恥を、しかし死んでも忘れられ
そうもない恥を、よりによって同じ神ではなく人間の前で掘り起こすという自傷行為に必
死に耐えている。
「君の故国、日本である男が生を受けた。人類史でもダントツでナンバーワンであろう武
の才能を秘めた男だった。今から思い返してみれば、私は彼が誕生した瞬間、神の座を降
りるべきだったのだ。
当然だが、私はその男に目をかけた。齢が十に達する頃には、すでにオリンピック選手
など彼の前では凡人も同然だった。まさに“神の申し子”だった。
ところが、彼は私をあざ笑うかのように、神をも超越した領域へ足を踏み入れる。日夜
戦場に入り浸り、闘争に明け暮れるうち、彼の背中にはいつしか凶悪なる“鬼”が棲みつ
いていた。
私は愕然としたよ。全ての理合を知っている、知っていなければならぬこの私ですらが
永遠にたどり着けぬ頂(いただき)に、たかだか十数年生きただけの小僧が到達してしま
ったのだから。
範馬勇次郎、彼は私の神としてのアイデンティティを粉々に打ち砕いた」
独白に息継ぎが入る。
「武に君臨しつつも、私は悩み続けていた。神の座を辞するか、否か。たとえ全知全能の
神であろうとも、神の座に対する決定権は持たない。つまり、他に選択を委ねることは許
されない。私は心のどこかで欲していたのかもしれんな、この私に審判を下してくれる戦
士(ファイター)を。
そんな矢先、君が現れてくれた。“悪い武道家の見本”という表現が良く似合う君は、
私の処刑を、試練を、そして私自身をも乗り越えてくれた。
おかげで決心が固まったよ」
互いに口を開かぬ、開いてはならないような時間が流れる。
武神の神らしからぬ自らの進退に関する悩み、与り知らぬところで救世主にされていた
戸惑い。これらをどうにか整理しつつ、加藤はようやく喉を使用するに至った。
「……で、どうすんだよ」
「私は降りる。よって、この世から武の神はいなくなる」
「ケッ、バカヤロウが。はなっから武神は──」
「愚地独歩、か?」
「あぁ、そうだよ。文句あるか?」
「いや。彼は武に全てを捧げてくれた数少ない人間の一人だ。武神と呼ばれるに相応しい
風格と実力を持つ」
「………」
「あと一つ、勘違いしてもらいたくないが、私は君に敗北したから神を辞するのではない。
私は君との戦いを通じて、君らのいる場所はもはや神などが関わってはならぬ縄張り(テ
リトリー)だと悟った」
武神は真剣な面持ちとなって、神としての最後の助言を繰り出す。
「古代、中世、近代、いずれの時代にも例外なく闘争は存在したが、現代(いま)こそが
間違いなく武術史上最大の群雄割拠の時代であることに間違いない。
もはや私がいようがいまいが、制御は不可能だ。
今後の武のかつてない変遷が、私にはぼんやりと予知できる。究極の武と究極の暴力と
の一騎打ち、地球規模で異変を起こす自由を巡る争い、私が生まれるより遥か太古より甦
りし戦士、国家間の戦争に匹敵する親子喧嘩の勃発──。
君も格闘士として生きるなら、嫌でもこれらに巻き込まれるだろう。生きるか死ぬかは
君次第だ。覚悟しておきたまえ」
「ふん、おまえにいわれるまでもねぇ」
相変わらず反発する加藤に対し、武神はすり切れた唇と欠けた歯で若干ではあるが微笑
んだ。
「では、武神としての最後の仕事をこなすとしよう」
武神が念を込めると、みるみるうちに空中に穴が完成した。ライターでビニール袋を焙
った時のように、じわじわと、それでいてあっけない図画工作だった。
「さらばだ」
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