羽化
『抜け殻』シリーズの続きです。『抜け殻』『脱皮』『小箱』『空蝉』の順にどうぞ。========『羽化』「キョンくーん、早く掃除しないとお母さんに怒られるよー」年末を迎えて、母親からの大掃除プレッシャーを素直にスルーしてくる妹の言葉を軽く無視しながら、俺は、最低限、机の周りぐらいはきれいにしておこうとしていた。 別に勉強をばりばりやったから机の周りが散らかっているわけではないが、少なくともここだけをこぎれいにしておけば、母親が安心することは、俺の学習の範囲内だ。というわけで、あちこちを片付けつつ、机の引き出しを開けて雑多なガラクタ類を奥の方から引っ張り出してみた。と、そこに出てきたのは四つのカラフルな小箱――――。 「ぐっ、こ、これかぁ……」そう、それは、情報統合思念体の対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースの体表保護皮膜、早い話が、長門と喜緑さんと朝倉の抜け殻と、なぜか未来人である朝比奈さんの抜け殻が納められた四つの小箱だ。俺はこの小箱たちを机の上に並べ、あの忌まわしい出来事を思い起こさざるを得なかった。以前、機関がらみのちょっとした事件に巻き込まれた俺は、この長門たちの抜け殻のおかげで、その事件の難は逃れることができた。しかし、安心したのもつかの間、その後には、さらに大きな難が俺を待ち構えていたのだ。 わが身を守るために抜け殻を身につけようとして、長門にラブホテルに引っ張り込まれたわけなんだが、その様子を見たというやつがいたらしい。それがなぜ か俺が長門を強引に連れ込んだということになり、それを聞いて怒りに燃えたハルヒによって、もう少しで命を落とすような責め苦を受けた。最終的には、長門が、他人の空似だ、ひと間違いだ、誤解だと主張してくれたおかげで、俺の命はこうして繋がっている。そう、俺は、またしても長門に命を救われたということだ。そんなわけで、俺はこれらの小箱を机の奥深くしまいこみ、きれいさっぱり忘れてしまってできれば二度とは見たくなかったんだが、すっかり忘れてしまっていたおかげで、ついつい引っ張り出してしまった。 やれやれだよ、まったく。「やはりこれは長門に返しておくほうがいいな」しばらくの間、じっと小箱を見つめていた俺は、誰ともなくそうつぶやいて大きく肯き、小箱をひっつかんだところで、もう一つ気付いた。「そうそう、ついでにあれも……」古泉が用意してくれた俺サイズの北高指定のセーラー服に純白の下着、あれも長門に預けておこう。あいつなら、制服もたくさん持っているだろう、木を隠すなら森だ。 ということで、セーラー服の入った紙袋に小箱も押し込んで、俺は、年末の慌ただしい街中を長門のマンションへと自転車を飛ばした。「それで?」「うん、だから一応返しておこうかと思ってな」あいかわらず家具のない長門のマンションのリビングで唯一の存在感を保っているコタツ机の上には、俺が持ってきた小箱がきれい並べられている。少し横のフローリングの床の上には、一緒に持ってきたセーラー服の入った紙袋が置かれている。 俺の対面に座る長門は、じっと机の上の箱を見つめたのち、静かに顔を上げると、俺に視線を向けなおした。「これはあなたの身を守るために必要なもの。既に実績もある」「まぁ、そうなんだが、また何かあったときに使えるかというと、なかなかそうとも言えないだろう」軽く腕組みをしながら、俺は有機アンドロイドを見つめ返した。「俺がこの中の抜け殻を着るとちょっと見は、お前とか喜緑さんになるかもしれん。それは確かに確認済みだ。だがな、身長とか体格は俺のままだ。声だって違う。どう考えても怪しいぜ」 瞬き一つする長門。「結局、前のときもバレてしまったわけだろ? お前や喜緑さん、森さんが駆けつけてくれたから助かったものの、実は危ないところだったのかも知れないわけだ」そこまで話して、俺は机の上の湯飲みを手にとり、長門が入れてくれたお茶をそっとすすった。そういえば初めてここにきたときには、やたらとお茶を飲まされたな。長門は、五秒ほど俺の目をじっと見つめた後、小さく首をかしげた。「了解した」「わかってくれたか。すまないな」「見た目が小さくなればいい、ということ」「ん、なに?」長門は、四つ並んだ中から青い小箱、長門自身の抜け殻が入っている小箱を手に取ると、大切そうに両手で包み込むようにして口元に運んだ。「おい、何を……」驚いた俺が問いかけた時には、既に長門の高速呪文は発せられた後だった。「着てみて」まっすぐ俺に箱を差し出す長門。「なに?」「着て」「また着るのか? ここで?」「そう。ここでもいいが、あちらの部屋を使ってかまわない」と和室を指差す。「何をしたんだ、いったい」「着ればわかる」ううむ。長門のやつ、いったいどんな呪文を……。まぁ、いいか。この抜け殻も、もう着ることはないと考えていたし、最後の名残にもう一度だけ身にまとうのもいいだろう。それに長門がどんな呪文を吹き込んだのか、少しばかりの好奇心もあるしな。 俺は長門から箱を受け取ると、セーラー服の紙袋と一緒に和室に向かった。「のぞくなよ」久々に箱から取り出した長門の抜け殻は、相変わらずの素晴らしい手触り感を保っていた。俺が無理やり入り込んだことなどなかったかのように、きっちりと小柄な長門サイズのままで畳の上に横たわっている。いや、心なしか長門より小さく見えるのは気のせいか? さて、と。俺は、入り口の襖がしまっていることを確認すると、服を脱ぎだした。そう、これもこの抜け殻の弱点の一つだ。非常事態に遭遇したときに、のんきに素っ裸になって着替えている場合ではないよな、どう考えても。 トランクスを脱ぎ捨てた俺は、抜け殻を持ち上げると、背中の裂け目からそそくさと足を差し入れた。何回目だっけ、こうやって足を入れるのは。入れた足が抜けなくなって、夜中に長門に助けてもらったことを懐かしく、かつ馬鹿馬鹿しく思い起こしながら、すっかり慣れてしまった俺は、さっくりと長門の抜け殻の中に入ることができた。 あらためて腕や腰のあたりをさすってみるが、すべすべで滑らかな肌触りは以前の通りだ。きっと長門自身もこんな風に……、いやいや、変な妄想はやめておこう。古泉の趣味らしい白いレースのパンツを履き、セーラー服に袖を通すと、怪しげな長門の出来上がりだ。それにしてもやっぱりスカートだけはなじめない。おっと、スカートだけ、ではないな、この抜け殻を着ることになじめない、と言っておかなければ……。俺は脱いだ服を紙袋に詰め込んで和室を出た。「よお、待たせたな。できたぜ」後ろ手に襖を閉めて、リビングに足を踏み入れると、長門はスッと立ち上がって、俺のことをまっすぐに見つめている。ん、あ、あれ? 俺の視線の真正面に長門の黒い瞳が……。いつもどおりなら、俺の方が背が高いので少し見下ろす感じになるはずなんだが、「長門? お前、背が伸びたのか?」「違う、あなたが縮んだ」「な、何だって?」「あなたの見た目が縮んだ」「見た目が縮むってどういうことだ?」「こっち」長門はあっけに取られている俺の手を取ると、洗面所へ向かった。洗面所の鏡に映っているのはセーラー服姿の二人の長門。その二人の長門のうち、一人はいつもの鉄壁の無表情を携えたスーパー宇宙人である本物の長門、あんぐり口をあけているもう一人は、そのスーパー宇宙人の抜け殻を被っただけの、ただの人間である俺。 ここまでは予想通りだが、この二人、背格好までまったく同じである。これはおかしい。俺と長門では約十センチの身長差がある。前に俺が抜け殻を着て長門化したときにも確認している。それが、今は同じ大きさの瓜二つの美少女が二人。 「い、いったいどういうことだ?」長門は鏡の中の二人に話しかけるように、まっすぐ前を見据えながら、ゆっくりと説明を始めた。「体表保護皮膜の周囲の微小な空間に力場を発生させ、あなたのまわりを通過する可視光を屈折させている。それにより、周囲からはあなたが小さく、わたしと同じ身長に見えるようになっている」 「……よくわからん、長門。いったい俺はどうなったというのだ?」「あなた自身は変化していない」長門は洗面シンクの前に進むと、置いてあった洗面器に水を張り、戸棚の中から取り出した歯ブラシを一本、斜めにその水に突き刺した。「空気と水の境界を通過する際の屈折率により、歯ブラシが曲がって見える」うん、そうだ。小学校だか中学校の時に見たことがある。水中に差し込まれた棒が曲がって見えたり、短く見えたりする。「同じことをあなたの体表保護皮膜の周辺で発生させているだけ」「そ、そんなことが……」……できるんだ、こいつは。なにしろあの情報統合思念体の手先だからな。なんとなく仕組みはわかった。厳密にはもっと物理法則やナントカの定理とかを使った説明が必要なんだろうが、俺には、洗面器と歯ブラシの説明で十分だ、というかそれ以上の理解はできない、ふん。 これで、抜け殻を着た俺は、見た目は小柄な長門と同じになるわけだ。だからどうだといわれても困るわけだが……。「あとは声だな」鏡に映った長門化した自分自身の姿を見つめて、思わずウィンクしてみたりしつつ、わずかに萌える感覚を味わいながら、俺は隣の長門に話しかけた。「これで、声質が女になれば、完璧だけどな」
やや、古泉ばりに苦笑いしながらそう言った俺に向かって、長門は「それは簡単」とだけ応えると、こっちへ振り向いた。「なに、どうした?」あっという間に近づいてくる長門の顔。「お、おい……」そして長門の唇が俺の唇に触れて――、噛まれた。ほんの一瞬の出来事だった。えっ、今のはキス……されたのか? 長門化した俺に長門が?何が起こったのか把握することもできない俺は、ひと噛みした後、すっと離れていく長門に対して、「な、なにを……」と、思わず声を上げて、その続きの一言が出なかった。こ、声が、女になっている!!本来の俺の声より一オクターブほど高くなって、澄んだ、それでいて少し甘さが残る声だった。「どういうことだ、これは?」「あなたの体表保護皮膜の口元に周波数変換用ナノマシンを設置した」「なんだって?」「発せられる音声の周波数を、口元を通過する際に高域側にシフトさせることにより、女声の音域と声質に変換するナノマシン。あくまでも体表保護皮膜に付加しただけなので、あなた自身の地声には変化はない、安心していい」 何を安心すればいいのか、よくわからないが、まぁ、いい。長門は小さく左に首を傾けると、最後にはっきりした声でこう言った。「これで、今のあなたは見た目も声も、女性そのもの」再びリビングのコタツ机のところに戻って来た。俺はまだ長門の抜け殻を着て、セーラー服姿のままだ。もちろん俺の目の前の長門も俺と同じように制服姿だ。もしここに、誰か俺達以外の奴が尋ねてきたら、きっと、俺達のことを双子とは言わないまでも、姉妹か従姉妹同士と思うだろうよ。「で、俺はどうすればいい?」『俺』、なんて言ってるが声はかわいい女の子だ。姿も長門と同じ美少女系なわけだから、これからは『あたし』とでも言った方がいいのかもしれない。なんだか新しい世界への扉を開いてしまった気がする……。 「特にこれと言って何もないが、あえてお勧めするなら、まずは衣服を購入すること」「服だって?」「そう。そのセーラー服だけではいざという時のバリエーションに乏しい。何着か衣装を用意しておくことが望まれる」背筋をピンと伸ばした長門は、俺のことをじっと見つめながら、「ただ、あなたの体のサイズ自体は変化していないので、わたしの服を提供することはできない。新たに大き目の服が必要」そこで、一呼吸ついた長門は、小さく首をかしげて続けた。「一緒に買いに行く?」そんなわけで、俺は長門と連れ立って、駅近くのショッピングセンターにやってきた。俺が着る女物の服を物色するためなので、当然のことながら俺は長門化したままであり、こんなところを誰かに見られたらどう言い訳すればいいのだろうか。「従姉妹同士といえばいい」「まぁ、そんなところだな」「できれば女性的な言葉の使用を推奨する」「あのな、そう言うお前はどうなんだよ。普通の女の子は『女性的な言葉の使用を推奨する』なんて言い回しはしないぜ」「……」うん、まぁ、どっちもどっちということだな。そうこうするうちに無事に女物の服を扱っているフロアに来たわけだが、長門と俺ではまったく買い物にならないことに気付いた。だって、普段制服しか着ないアンドロイド女に、中身は男のニセ女だぜ、この二人でいったいどんな買い物ができるというのだ? 店員の女性に話しかけられても、満足に受け答えできない居心地の悪い思いをしながら、とりあえず何軒か回っていたところで、突然背後から声をかけられた。「ちょっと、有希なの? 何してんの、こんなところで」驚いて二人同時に振り向くと、そこには黄色のカチューシャを揺らして怪訝な表情を浮かべている我らの団長様の御尊顔が……。げ、ハルヒじゃないか!こんな時に限って一番会いたくないヤツに会うなんて。「え、えっ、何? 有希? あんた双子だったの?」つかつかと歩み寄ってきたハルヒは、俺と長門を交互に見比べていたが、すぐにニヤリと笑みを浮かべると、隣の長門を指差した。「こっちが有希ね! どう、あたってるでしょ」そりゃ誰でもわかるだろうさ。こんな状況でも究極の無表情を貫き通す長門と、驚きと焦りの表情を浮かべている長門化した俺では、一目瞭然、大違いだ。「ということは、こっちは誰? まさか、今までどこかに幽閉されていた有希の双子の妹だとか言わないでしょうね」今度は俺を指差すハルヒ。「おいおい、何を……」といいかけて俺は言葉を呑んだ。ついついいつもの調子でハルヒに突っ込みを入れかけたが、今はいつもの『俺』でなくて『俺(長門)』だ。目の前のハルヒ も「えっ?」という感じで俺を見つめている。そういえば微妙にハルヒの視線が俺より上だな。まぁ、いつも実質的に上から目線なやつなんだが。「有希、この子誰なの? ホントに双子じゃないの? 親戚?」再び長門の方向に振り向いたハルヒは、俺を横目で睨んでいる。「わたしの親戚、いとこ」「そうなの?」「そう」「ふーん。それであんた、名前は?」長門の従姉妹とはいえ初対面のはずなのに『あんた』呼ばわりするのはハルヒらしい。さらには好奇に溢れ、絡みつくような視線を俺に投げかけてくる。「え、えっとぉ……」くうぅぅ、いきなりの女言葉は辛いぞ。それに名前なんて用意してなかった。蛇に睨まれた蛙状態の俺に、長門が救いの手を差し伸べてくれた。すまない、長門。「彼女の名前は、長門未希」「みき? どんな字なの?」「未満の未に、希望の希」「その未希ね……。有希に未希か、うん、いい感じじゃない? いっそ双子ってことにしておきなさいよ、その方が売れるわよ」おいおい、俺たちをどこに売る気なんだよ。「な、長門未希です。よろしくお願いします」とりあえずそう言って、俺はハルヒに向かって小さく頭を下げた。結局、その後は、ハルヒを含めた三人でショッピングを続けることになった。ある意味、ハルヒが合流してくれたおかげで買い物がすごくはかどったのは事実だ。ハルヒが見立ててくれた服の中から、ハルヒにばれないように、本来の俺が着ることができるでかいサイズを選び直して、三・四着ほど買い揃えることができ た。ついでに長門もいくつかお揃いの衣装を買っていたようで、結局、全部長門が払ってくれた。情報統合思念体はやっぱり金持ちだな、今後ともよろしく頼む よ。しかし、俺と同じ服を買うとは、ホントに俺と双子化するつもりなんだろうか、この有機アンドロイドは……。その買い物の間中、俺は必死で女言葉を続けていたわけだが、さすがに終盤になると結構慣れてきた。「ええっ? こんなの着るんですかぁ」とか「あたしはこっちの服がいいなぁ」といった言い回しがごく自然と口をついて出てくるようになってしまった。 気持ち悪いといえばそうなんだが、しかし一方でよくよく考えてみると、あのハルヒに一杯食わせてやっているわけだから、爽快であり痛快だ。これは、なかなか楽しいアイテムを手に入れたのかも知れないぞ。 そして最後にはハルヒをして次のように言わしめた。「ホント、未希っていい笑顔じゃない? 有希もちょっとは見習わないとね」「もう、涼宮さんったらぁ」俺とハルヒは顔を見合わせて笑いあった。ふふん。俺の勝ちだな。その時の長門のなんともいえない微妙な表情は忘れられないね。そんな師走の一日が終わり、俺の手元の四つの小箱には、長門の呪文が吹き込まれた抜け殻がそれぞれ収められることになった。結局、長門は自分の抜け殻だ けでなく、他の三つ、朝比奈さんの抜け殻にさえ呪文を唱えてくれたらしい。長門に返却するつもりで持って行ったのに思わぬ展開になってしまった。「これであなたは四人の女性に変身することが可能。有事に活用して欲しい」とか長門は言っていたが、そうそう有事に巻き込まれてたまるか、というか巻き込まないでくれ、お願いだから。俺は切実なる願いを込めて、再び四つの小箱を片付けがまだ途中だった机の引き出しの奥にしまいこんだ。そっと引き出しを閉め、ほっと溜息をついたその瞬間、机の上の携帯が鳴り響いた。小窓には『着信中:涼宮ハルヒ』の文字が……。いやな予感が一気に広がる。「はい」『ねぇ、キョン、知ってる? 有希に従姉妹がいるのよ。未希っていうんだって。笑顔が結構かわいいのよ。でね、今度呼び出すから、あんたも来なさいね!』「…………」知ってるさ、ハルヒ、それは、俺だ――。かわいい、と言ってくれるのはうれしいが、残念ながら、これで有事に巻き込まれることが確定したようだ。あの抜け殻は有事から逃れるものではなく、有事を引き寄せるものだったわけだ。俺はどうすればいい? 長門……。ふぅ、やれやれ、だ、まったく。Fin.
『胡蝶の夢』に続きます
このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー と 利用規約 が適用されます。
1文字以上入力してください
本文は少なくとも1文字以上必要です。
1文字以上入力してください。