長門の言葉をどこまで聞いていたのかというと最初の二文字だけだった。
長門の了解イコールGOサインだと勘違いしたこのときの俺を一体誰が責められよう。
そのおかげで俺はこっぴどい目にあっちまったんだが、まあこれは俺が今までため込んできた罪業への購いとでもしておく。
自称及び他称最低野郎の物語はようやく中盤にさしかかり、起承転結で言うとちょうど『転』に当たる部分へと移行していくのであった。
俺はとにかく走った。そりゃもう全力で走った。
ここでハルヒを見失う、それ即ちジ・エンドだと思っていたからな。
だが、そんな俺のばく進劇も程なくして終わる運命にあった。
なぜならば、ハルヒは意外にもすぐ見つかったからだ。
部室棟から出ると中庭に棒立ちするハルヒの後ろ姿が俺の視界に飛び込んできた。
……待ってたんだよな。
俺は息を整えつつ表情を読み取ることができないハルヒの後頭部に声をかける。
「おいハルヒ」
「……」
返事はない。
さて、どうしたものかね。追いかけて呼び止めるまでは考えていたんだが、肝心要の言い訳、もとい状況説明にまでは頭が回らなかった。
いや、頭の隅を掠めるくらいはしていたんだが、いかんせん時間的余裕がなかった。
そんな沈思黙考する俺と無言を貫くハルヒのおかげで中庭は静まり返っている。
だが、その静寂もどうやら一時的なものに過ぎなかったらしい。
それはあっさりと打ち砕かれた。俺ではなく涼宮ハルヒによって。
「聞きたくない」
「へ?」
「聞きたくないって言ってんのよ!」
俺の間の抜けた返事はPardon?のほうではなくWhat dose it mean?のほうの意味合いだったんだが、そんなことはどうでもいい。
ハルヒは俺に背を向けながらそう叫んだ。一体何が聞きたくないのやら。俺はまだ「おいハルヒ」としか言ってないぞ。もしかして、俺の声が聞きたくないってのか?
……いや、ここは普通に切り返そう。
「いきなり何だ?」
素直に問う俺。
「いいわ、もう分かったから」
切り捨てるハルヒ。
「だから何が分かったって?」
食い下がる俺。
「……」
だんまりか。
ハルヒは依然として俺に背を向けておりその表情は全くわからない。
だが、主語も目的語もないハルヒの言葉から推測するに、どうやらハルヒは何かを悟ったらしい。
おそらく誤解であろうが。
しばらくの沈黙の後、ハルヒは俺の疑問に答えるべく細々とした声色で言葉を紡ぎ始めた。
「……どうせ……どうせあんたは……有希のことが」
ほらね、やっぱり誤解だ。だが、どう弁解すればいいのか。
とりあえず、
「確かに、長門のことは嫌いじゃないがそういう意味合いじゃない。同じSOS団の仲間としてだ」
否定する。
「……じゃあさっきのは何なのよ?」
「さっきのは……何だろうな。俺にもよく分からん」
ナノマシンを摂取しようとしていたなんて口が裂けても言えん。
「……じゃあ今朝のあれは何だったのよ」
「あの時は従姉妹が意識不明の重体でだな」
俺の締まり無くまだ途中である言葉にハルヒの諦観したそれが続いた。
「そんな嘘……もういいわ」
一瞬ビクッとしたね。
「嘘じゃない」
俺はとっさに否定する。
「いいえ、嘘よ。あたし今朝妹ちゃんに聞いたもの。『今日の朝何かあったの?』って。妹ちゃんは『何にも無かった』って言ってたわ」
急に饒舌になったハルヒが一気にまくし立ててきた。
「いや、妹は」
「もう聞きたくない! ……キョンの嘘も……言い訳も」
どうやら弁明する機会も与えられないらしい。
ハルヒは全てを悟ったのか?いや待て、よく考えたらハルヒの説は前提からして間違ってるんだ。
だとしたら、ここは無理にでも言葉を続けなければならんだろ。
などと俺が考えているとハルヒの口から衝撃的な言葉が俺に向かって飛んできた。
「キョンなんか&&いなくなっちゃえばいい」
俺は内心かなり焦った。
おいおいマジか? ここにきていきなりそれかよ。いくらハルヒでも短絡的すぎるんじゃないか?
しかし、そんな俺の焦燥とは裏腹に俺の体はいくら待っても消えることはなかった。
どうやらまだ幕は閉じていないらしい。
俺は必死の説得を試みることにした。説得というか弁解だなこりゃ。
「ハルヒ、お前が考えていることは全部誤解だ。俺と長門は別にそんな関係でも何でもない。
それに、俺はお前を裏切って他の女の所にふらつくようなことは決してしない」
「……それだけ?」
「あーいや、嘘をついたことは謝る。だけど全部が全部嘘ってわけじゃないんだ。まあとりあえず、謝る。すまなかった」
「……」
ハルヒは沈黙状態。
「ハルヒ? ……!! うおっ!?」
急に視界が反転した。今、俺の眼前には透き通る様な青空がある。
何があったのかと言うと、ハルヒの奴、振り返ったかと思うといきなり俺に足をかけてきて馬乗りになりやがった。
「ハ、ハルヒさん?いきなり何をしやがるんですかね?」
「……」
マウントポジションを維持しつつハルヒは無言を貫く。
こいつは一体何を考えてんだ?表情から読みとろうとするも、逆光のおかげでよく分からん。
「……キスして」
「へ?」
「キス」
ああキスねって何だそりゃ!?
どういうこった、ハルヒ?
「簡単なことでしょ。あたしにキスをして証明してみせて、あんたの誓約を」
こいつはマズいんじゃないのか、おい。
「いや、ハルヒ、何もこんなところでする必要はないんじゃないか」
「ダメ、今ここでしなさい」
この状態でいるだけでも精神的かつ客観的衛生上よろしくないと言うのに、そこにキスだって?
いや恥ずかしいことこの上ないのも山々なんだが、それ以上にマズいことがあるだろ?
「ダメ、絶対?」
「ダメ、絶対」
こうなったら会話を繋げて繋げて繋げきって昼休み終了を待つしか&&いや、ハルヒのことだ。もはや授業のことなどきれいさっぱりかもしれん。
「いや、そもそもお前がそんな体勢でいる限り俺からキスするなんて不可能だ、ろ?」
言いながら気がついた。
「ていうことは……あたしからキスするしかないみたい、ね?」
眼前に広がっていた青空がハルヒの顔と取って代わる。
そのハルヒの顔には、複雑な表情が広がっていた。
「……何で……そんな顔してるんだ?」
自然と口から漏れてしまうというのはこういうことを言うんだろう。
ハルヒは、ほんの一瞬だけ表情を曇らせ、そして目を瞑った。
おいおいちょっと待て、何だそれは? もうやっちまうのか?
ハルヒの顔が――その唇がゆっくりと近づいてくる。
これはマジでヤバい。いや、ヤバいなんてもんじゃない。絶体絶命のピンチだ。
何も世間体を気にしてそう言っているわけではない。
俺の自己防衛機能がそう叫ぶんだ。
何故かって?
俺はまだ長門特製のナノマシンとやらを摂取していないからだ。
この条件下でハルヒとキスをするということは俺の精神が改竄されることと同義。
そうなるとあっちの世界にハルヒを連れて帰るとかそういう問題じゃなくなっちまう。
つまり――俺が俺でなくなる。