涼宮ハルヒの異界Ⅰ

 

 

 さて、どうして俺はこんなところにいるのだろう。
 場所は見覚えがありまくる北高旧館三階の一角に位置する文芸部室。
 まったくもって何の脈絡もなくとしか言いようがない。
 いったい何が起こったのか。
 正直言って思い当たる節がまったくない。
「ねえキョン、とりあえず校舎から出ましょ。あいつらがあたしたちがいることに気がつかないで破壊活動を始めると大変だし」
「その意見には賛成だ」
 言って、俺はハルヒの手を取り走り始めた。
 廊下の窓の向こうには今、まさにせりあがってきた青白く光る巨人が見える。
 やれやれだ。なんたって俺はまた、こんなけったいなことに巻き込まれなきゃならんのだ?
 走りながら、苦渋に満ちた表情で俺は答えの見えない自問自答を心の中で繰り返していた。


 もう説明の必要はないだろう。
 そう――俺とハルヒはハルヒが創り出す灰色の夜空が支配する閉鎖空間の中にいた――


「まさかまたここに来れるなんて思ってもみなかった。何かちょっと楽しいかな?」
 本当にサンタクロースに出会った子供のような夢心地笑顔を浮かべるハルヒの声を背に受けながら、俺はまったく逆に暗澹たる思いに支配されていた。
 いや本当に理由が分からない。
 今日の昼、ハルヒの機嫌は最高潮に良かったのである。
 初めて俺に見せたあの赤道直下の炎天下じみた笑顔で始終、振舞っていたし、今週末の不思議探索パトロールの予定も立てた。
 放課後の部室では相も変わらず朝比奈さんを弄ってハシャギまくっていたし、俺にも無理難題を吹っ掛け、それを見事成し遂げた俺に次回パトロールは一番遅く来ようが奢り免除と油性マジックで手書きした目録を、あたかも表彰式の壇上から優勝旗を手渡す大会委員長のように大威張りで与えてくれたのである。
 だから教えてほしい。
 なにゆえこの閉鎖空間をハルヒが創り出したのかを。
 つってもハルヒに聞く訳にもいかんがな。
 さて、そろそろ古泉が来てくれるか、携帯に長門が連絡入れてくれるかしてほしいところなのだが。
「とと」「うわ」
 突然響き渡る地響き。
 場所はまだ向こうの方ではあったが青白い巨人、古泉曰《神人》とやらの攻撃力はその巨体からも容易に予想ができるほど凄まじい。
 今、俺たちが立っている地を震度3以上の振動を与えるには充分なのである。
「本当に何なんだろう? この世界も、あの巨人も!」
 あの時とまったく同じく嬉々としたセリフを呟くハルヒの手を取ったまま、俺とハルヒは走り続ける。
 校舎を出てグランドに向かい、とにかく《神人》の攻撃に巻き込まれないよう、校舎から安全圏まで離れることを最優先に、
 って!
 空間さえも切り裂いているんじゃないかと錯覚するほどの風切り音が俺の鼓膜を震わせた!
 ふと見れば、《神人》の一体が新館校舎にブーメランスクウェアーをかましたんじゃないかと思わせるほど、強烈な左フックを放ったフィニッシュポーズで佇んでいて、その衝撃が生み出した校舎の瓦礫が俺とハルヒめがけて飛んでくるのである!
 それも俺が前でハルヒが後ろだ!
 これはまずい!
「キョン!」
 ハルヒの悲鳴に近い驚嘆の叫びが聞こえたと思った瞬間、俺はハルヒと無理矢理立ち位置を変えて、ハルヒの盾となるが如くこいつを抱きよせた!
 そして――
 耳の奥の方で濁ったような、それでいて頭を震撼させるような衝撃が俺を襲う!
 一瞬で朦朧とし、視界がゆがむ――
 体がまるで夢遊病にでもかかったんじゃないかと思うほど立てないくらいふらつき始め――世界の色が消え失せて行く――
 全ての感覚が遠くなっていく……
 そんな中、俺の耳は間違いなくもう一つの風切り音を捉えていた。
 かなり遠くに聞こえてはいたが……
 や……やべ……心の中で必死に意識を覚醒させようと試みてるってのに体と脳はまったく逆にどんどん闇の底へと落ちて行く感覚じゃないか……
 ――!!
 さらに遠くなった聴覚が再び、別の音を捉えてくれた。
 これは……何かが砕けた音のような……
 俺は最後の力を振り絞り、無理矢理、瞳を凝らしてみた。
「く……」
 薄れゆく意識の中、確かに目の前に立っている、いきなり現れたのではないかと錯覚する俺たちに背を向けた小柄な人影を見据えていた。


 既視感――


 ……来てくれたか……長門……
 ……?
 とんがり帽子に……魔女っ子マントスタイル……?
 セーラー服じゃない……
 わざわざ……映画の時の衣装を着込んできたのか……?
 なんでまた……
 謎が謎を呼んだまま、ハルヒの泣き叫びながら俺を呼ぶ声と映画の時の長門の格好とみくるビームの発射態勢をとっている朝比奈さんの左右で違う瞳が見えた気がして――
 俺の意識は消失した。


 ……?
 俺の額に何かひんやりした柔らかいものが当たっている。
「気が付いた?」
 最初に聞こえてきたのは、たぶんなかなか聞くことができないであろうハルヒのしおらしく切ない安堵の声だった。
 もっともこの感情の含まれた声は一度だけ聞いたことがある。
 あれはとある孤島の別荘で台風に見舞われた時の崖から転落した時のことだ。
 俺はふと目を開ける。
 最初はぼやけていた視界が徐々に晴れていって、そこにはハルヒの心の底からほっとした表情が俺を迎えてくれていた。
 あの時とまったく同じ笑顔で、不覚にもこの顔のハルヒには朝比奈さん以上に腰が砕けそうになる。
 ともすればそのまま泣きながら抱きついてきそうな笑顔。この笑顔に癒されないとしたら嘘である。
 まあもっとも、おそらく次の瞬間には、
「まったく心配させんじゃないわよ! そりゃ団員が団長を守るのは当然だけど、このままあんたに何かあったら寝覚めが悪いじゃない!」
 ……予想通りのセリフを吐いてくれたなおい。
 まあいい。俺にとってはそんなハルヒの方が安心できる。
 苦笑を浮かべて半身だけ起こし、キョロキョロあたりを見渡す。
 と同時に俺の額からタオルが滑り落ちた。どうやらこれがさっき感じたひんやりした柔らかいものだったらしい。
「ここは?」
「学校の保健室よ。あんたを寝かせられそうな場所はここしかなかったし、ここなら色々と医療器具もある程度揃っているし」
 どうやら校舎の破壊はここまでは及んでいないらしい。
「お前が運んでくれたのか?」
「仕方ないでしょ。あんたはあたしをかばって怪我したんだからあたし以外の誰にあんたを運ばせるのよ」
「そう言えばやけに静かだが……あの巨人たちはどうした?」
 古泉たちが来てくれたのか?
 などという質問はナンセンスだ。もし古泉が来ているならハルヒの後ろに執事のように突っ立っているはずだからな。
「いや、それよりも俺が意識を失う前、な……誰かが俺たちの前に立っていたはずだ。その人は?」
 危うく長門と言いそうになって言い直したわけだが、うまい具合に『な』がセリフにハマってくれたことにどこかホッとする俺。
「ああ、あの人なら今、ちょっと外してるわ。なんか本部に連絡を入れてくるとか言ってた」
 本部? 連絡?
 どういうことだ? あれは長門じゃなかったのか?
 などと心の中で思いながら難しい顔をしている俺に、
「――って、そうよキョン! あたしさ、ついに異世界人に遭遇したのよ! ホントよ! マジよ! すごいと思わない!」
 途端にハイビスカスのような笑顔で俺に口角泡を飛ばしながら詰め寄って言いつのるハルヒ。
 で、今何つったこいつ。俺の聞き間違いじゃなければ『異世界人』と叫んだように聞こえたが……
「今、『異世界人』って言ったのか?」
「何よ、まだ頭ぼけてんの? しょうがないわね。んじゃあ、あんたが気絶した後の顛末を簡単に話してあげる。本当はあの人が戻ってきたからにしようと思ってたんだけど」
 得意満面の笑みで右手人差し指を立てつつハルヒは話し始めた。
 ハルヒの説明は宣言通りいたく簡単だった。
 なんでも俺が気絶する直前に見た、対朝倉戦の長門のごとく俺の前に飛び込んできた人影が異世界人とのこと。
 んでもってその異世界人があれだけの数の《神人》をたった一人で屠ったそうだ。
 この二行のみ。
「……って、一人であの巨人どもを全滅させただと!?」
 思わず俺はハルヒに聞き募った。
 当たり前だ。あの巨人一匹にさえ、古泉は古泉が所属している機関の連中数人がかりでなければならないほどだったのである。
 それが今回は少なく見積もっても五匹は確実にいた。いや見えていないところでもっといたかもしれん。
 そんな巨人どもをたった一人で殲滅させたなんて信じられるか?
「そうよ。本当に凄かったんだから。あっそうそう、その人だけどね。超能力も持っていたのよ! 巨人たちを打ち倒すときに空を飛んだり、炎とか雷とか流星とか出してたんだから!」
 な、何だ!? そいつは!? (ハルヒは『人』と表現していたが)本当に人間なのか!?
 ついでにもう一つ悟った。ハルヒが説明を簡単に終わらせた理由だ。
 たぶんハルヒにとっては巨人消滅の話よりも『異世界人』の行使した『超能力』とやらの話をしたかったのだろう。
 理由か?
 んなもん考えるまでもない。『異世界人』と『超能力』の話をするときのハルヒの光度とボリュームが三倍増しだからだ。

「どうやら、そっちの彼、気付いたみたいね」

 ハルヒの炎天下の真夏の笑顔を見つめる俺の背後から、少し幼げな甲高い声が聞こえてきた。
 こいつが『異世界人』――か。
 もちろん俺は振り返る。
 そいつを凝視して――
 俺は固まった。


「で、キョンさあ、そろそろ戻ってこない?」
 いったい俺はそうやってどれだけ固まっていたんだろうね。
 ハルヒの呆れた声でようやく俺は硬直が解けたんだ。
 しかしまあ俺が固まってしまうってのは無理もない話なんだ。
 なぜなら目の前にいるのは濃い紺のとんがり帽子に同じ色のマントローブを身に纏い、その左手に淡い光を放つ宝石を乗せた先を天使の羽根で模った紫色のロッドを携えた、見た目、朝比奈さんよりも幼げな顔立ちに長門以上に起伏が乏しいスレンダーボディ。もうぶっちゃけて言うが幼児体型の、下手をすれば中学に入ったばかりに見られても仕方がない女の子だったのである。
 染めているのでなければ、ストレートセミロングのヘアカラーがシアン色ってところに異世界人ぽいところを感じて特筆すべきは左右で瞳の色が違うことだろうか。どんな意味があるんだろう?
「ええっと……きみが俺を助けてくれたのかい……?」
「ちょ、キョン!」
 ハルヒが後ろから咎めるような声を上げた気もしたが、さすがに俺の表情が苦笑交じりで温かい眼差しになるのも仕方がないってもんだ。
 やれやれ、俺はこんな子供に助けられたのかよ。なんか情けない気分でいっぱいだぜ。
「……そこの男が表情から何考えているか分かるけど――ねえ、私のこと、どんな風に言ったの? たぶんちょっとは説明したわよね?」
 その子の妙に不機嫌な視線はハルヒに向けられていた。
「いや……その……」
 ハルヒも珍しく歯切れが悪い。
 というか、俺はハルヒから聞いたのはこの子が異世界人で超能力者であるという事だけなのである。
 何かもっと重要なことがあったのだろうか。
「ね、ねえ……キョン、一つ言い忘れてたんだけど……」
「なんだ?」
「あの人、あたしたちより年上だから失礼な真似しないでほしいな♡」
 は?
「だからね、あの人、もう二十歳過ぎてるから」
 ええっと……つまり……
 ハルヒのバツの悪い引きつりまくった笑顔がまったく崩れない。
 そう言えば、ハルヒはこの子を称して『人』と言っていたような……
 ――!!
 瞬間、俺の血の気が引いた。なんつうかその……
「し、失礼しました! 目上の人に対してなんて無礼を!」
 叫んで、即座にペコペコ平謝り。
 そうなのだ。目の前にいるこの少女に見える女性はれっきとした大人なのである。それも本人も自分の体型のことを気にしているというのは今の態度からして容易に想像できるってもんだ。
 しかも俺は助けられた立場だ。にも関わらず子供を見るような目で見てしまっては彼女が不機嫌になるのも当然と言えよう。
 と言うかハルヒ! 異世界人とか超能力とかよりもまずそっちを先に言え!
「まあいいけど……どうせ見た目で間違えられること多いし……」
 俺の平謝りの姿勢にはにべもくれず、彼女は腕を組み不機嫌にそっぽを向いてそんなことを呟いていた。

 

 

 

涼宮ハルヒの異界Ⅱ


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