ふだんよりも、いくぶん早い時間に目がさめました。
 昨日は眠れなかったし、もしかしたら寝過ごすかともおもったのですが、杞憂だったみたいです。
 枕元の目覚ましは、ようやく午前五時をまわったところでした。寝室こそ、ほのかな間接照明のひかりで満たされていますが、障子の隙間から見える窓外の夜空には、いまだ墨のような闇がひろがっているようでした。
 今日は卒業式。鶴屋さんやSOS団のみんなとのお別れの日です。
 とくに、鶴屋さんは卒業後、将来のための海外留学が予定されています。出立は式の直後なので、一足はやく北高を去ってしまいます。今夜、この時間平面からいなくなるわたしとは、それっきり、もう永遠に会うことはありません。
 布団から、体を起こそうとして、わたしはつい苦笑してしまいました。すぐには身動きがとれないほど、しっかりと抱きすくめられていたのです。
「にょろ……みくるぅ」
 そういって、鶴屋さんは、わたしの胸にほおずりしていました。
 じつは、しばらくは会えなくなるという理由で、先週からずっと鶴屋さんの家にお泊りさせていただいていたのです。そして、毎日いっしょにご飯をたべ、登下校し、お風呂にはいり、おなじ部屋で寝てすごしていました。
 とりわけ、昨夜は最後だったので、お布団の中で抱きあって眠りました。
 べつに、へんな意味じゃないですよ? ある時期から、鶴屋さんがいきなり甘えん坊さんになってしまったのです。それで、このところは、とくにふたりきりのときに、よく抱きつかれたりすることがありました。
 ちなみに、ある時期というのはおよそ半年まえです。わたしの身長が、そのころから急にのびはじめて、長門さん、涼宮さんを追い抜き、ついに鶴屋さんより高く――といっても、数センチほどですが――なったあたりからでした。
 わたしの場合、ええと、体型がこういう感じなので、もともとさわっていると気持ちよかったとのことなんですが、さらに背が高くなったことで、抱きつくと安心するようになったみたいです。
 ついでにいうと、涼宮さんはそのころからわたしで遊ばなくなりました。古泉くんと長門さんはあいかわらずですが、キョンくんは、なぜかときどき、すごくさびしそうな顔をするようになりました。やっぱり、小柄な女の子がこのみだったんでしょうか。
 閑話休題です。つまり、昨日はそうやって、おそくまで鶴屋さんと思い出を語りあっていたわけです。
 鶴屋さんの目のしたに、くまがはりついているのが見えました。きっと、わたしも似たようなものでしょう。節目の式典ということを抜きにしても、今日はいつもより念入りにお化粧する必要がありそうです。
「にゅふう。ふにゅふにゅ」
 かすかに、鶴屋さんの寝言が聞こえました。同い年とはいえ、ずっと姉みたいに思って接してきたひとですが、こうしてみるとちいさな子供のようです。わたしは、ほほがゆるんでしまうのを止められませんでした。
 なにか、子守歌でもうたってあげたい。頭をなでながら、耳元でささやいてあげたい。ほとんど衝動的に、そんなことを考えてしまいました。
 そっと、鶴屋さんを起こさないように、体をずらしました。
 身をよじり、片肘をささえに体を起こすと、逆の腕を布団から引きぬきました。
 そうして、上半身が自由になったところで、わたしは鶴屋さんをやさしく抱きしめてみました。
 髪の毛が、さらさらでした。それを、指で梳くようにして、なでてみました。
 ほんのりと、鶴屋さんのいい匂いがしました。この三年間、辛いときも、苦しいときも、いつもわたしを慰め、守ってくれた匂いでした。
 すこし泣きそうになりながら、わたしはちょうど頭にうかんだ子守歌をうたおうと……あれ?
 え……ええ?
 ふぇええええ? 
 ちょ、ちょっとまってくださいよ。なんですかこの歌、なんでわたしふつうに未来の子守歌をうたいそうになってるんですか、なんできき禁則が解けてるんですかぁ?
 おお、落ちつくのよ、朝比奈みくる。わたしはもう、過去の気弱なわたしではないわ。三年の経験をへて、酸いも甘いも噛みわけたおとなのエージェントになるのよ。
 深呼吸です。深呼吸をしましょう。ひっひっふー。ひっひっふー。ひっひっひっひ、ひっひっふー。
 よし。もうだいじょうぶです。冷静に考えましょう。そうです。こういうときは、まず未来との連絡です。
 そう思い、あたふたとTPDDの通信機能を起動しようとしたときでした。
 まるでタイミングを見計らっていたかのように、未来から通信がはいりました。定時連絡ではなく、緊急連絡です。
 すぐに、わたしは脳内のTPDDを調整して、情報を受けとりました。
 それは、意外な内容でした。
「に、任務ですかぁ? 」
 われしらず、そんな言葉が漏れてしまい、あわててわたしは口をつぐみました。
 いちおう、鶴屋さんは一般人ということになっています。じつのところ、すでにいろいろと把握されている気もするのですが、建前というものがあります。
 とにかく、まずは現状の整理です。わたしは、たったいま受けとったばかりの情報を頭に思いうかべていました。
 連絡自体は、とても簡単なものでした。すなわち、今日の午後七時まで、わたしにかけられた禁則がゆるめられるというものです。
 具体的には、一往復ぶんの時間遡行の事前許可と、行動規制および思考規制の部分的解除になります。
 時間遡行の事前許可はいいとして、あとのふたつを補足しますと、行動規制とは、未来にかかわる行動、たとえばエージェントが、かってに秘密を洩らしたり、規定事項をゆがめる行動をとったりといったことをふせぐための措置です。
 そして、思考規制というのは、記憶そのものを一時的に消去してしまうというものです。敵性勢力に誘拐されたときなどに、薬物投与や催眠暗示のような危険な手段で情報を引きだされることを防ぐための措置です。
 よく、わたしはドジだとか物知らずだとかいわれてしまっていますが、それらの原因のおおくは、これらの規制の影響で脳の機能が抑えられているからです。ほんとうですよ? 
 うーん、でも、いわれてみれば、今朝は頭のなかがクリアになっている気がしますね。思考規制がゆるんでいるので、さっきの未来の子守歌をはじめ、いろいろな知識が思いだせますし、周囲の状況もきちんと認識できています。これなら、今日はなにもないところでころんだりせずにすむかもしれません。
 さて、禁則がゆるむこと自体はいいのですが、問題は任務のほうです。それが、どうにも要領をえないものでした。
 もともと、未来からの指示は、ふだんから唐突かつ理解不能なことがおおく、なにをすればいいかわからなくて、途方にくれることがよくありました。
 キョンくんなど、そのことでわたしの上司に腹をたててくれたこともあったほどなのですが、今回の指示はそれらに輪をかけて意味不明なものでした。
『帰還の時刻まで、あなたは自身のとりたい行動をとれ』
 この時間平面において、おそらくは最後になるだろう任務の内容は、それだけだったのです。
「とりたい行動といわれても……」
 当然のことですが、未来人がかってに過去で動きまわったら、大変なことになります。だから、わたしはいままでずっと、あれをしてはいけない、これをしてはいけないと考えながらすごしてきました。帰る直前になって、好きなようにしろといわれても、すぐにはなにも思いつきませんでした。
「みくる? 」
「あ、起こしちゃいました? 」
 気がつくと、鶴屋さんが薄目をあけていました。にど、さんどとまばたきをして、おおきな口をあけました。
 ふああと、かわいらしさのなかにも豪快さの混じるあくびをしたあと、体を起こして伸びをしました。
 両手をあげ、コキコキと音をたてて首を動かしているさまは、なぜか猫を連想させました。目をほそめ、耳をたて、後肢で頭のうしろあたりを掻いている黒猫です。
「こんな時間に起きるなんて、みくるは早起きっさぁ」
 いかにも眠そうにいいました。
「ちょっと、目がさえちゃって。鶴屋さんは、どうします? 早めに、朝練をはじめちゃいますか? 」
「まだ寝たりないっさ……」
 それだけいうと、鶴屋さんはわたしに抱きついてきました。あれよというまに、布団に押し倒されてしまいました。
「抱きみくる枕にょろ~! 」
「うふふ。もう、やめてくださいよう」
 この一週間、毎朝こんなようなやりとりをしてきました。鶴屋さんはふだんから、武道の早朝練習をこなしているひとですし、この時間帯が苦手とも思えないのですが、なぜかこうしてぐずぐずいってくるのです。
 もしかしたら、別れをおしんで、甘えてくれているのかもしれない。そう思えたので、口ではいやがりつつも、彼女の好きなようにさせてあげていました。
「……うっとこの、嫁にきておくれ」
 じゃれあいが一段落ついたところで、鶴屋さんはいきなり、なんの脈絡もなくプロポーズをしてきました。わたしに組みついたままでです。
 体重をかけられたりはしていませんが、覆いかぶさられているような、押さえつけられているような、おかしな体勢でした。彼女の長い髪が、わたしの肩や腕のあたりを流れていました。
「まだ、寝ぼけてるの? 」
「ちがうっさ。あたしゃマジだよ。こんなにかわいくて、めがっさおっぱいな娘を、そこらの馬骨や牛骨にくれてやるわけにはいかないんだよ」
 そういって、鶴屋さんはわたしに抱きつくと、胸に顔をこすりつけてきました。ぐりぐりと、音がしそうでした。
 痛いですよ、鶴屋さん。それに、めがっさおっぱいってなんですか。
「女の子同士だから、結婚はむりですよ? 」
「オランダにいけばできるにょろ」
 くぐもった声でした。彼女の口が、こちらのパジャマの布にあたっているみたいでした。
 吐息がこもるためか、その部分が熱くなってしまい、わたしはとまどってしまいました。
 あの、というか、息がかなり荒い気がするんですけど、ほ、本気とかじゃないですよね? ね? 
「ご、ごめんなさい、鶴屋さん。わたし、男のひとのほうが好きだから……。その、こんごともいいお友だちでいましょう」
 とりあえず、つつしんでお断りさせていただくことにしました。いえ、ただのジョークだとはわかっていますよ? あくまでも念のためです、念のため。
 すると、ふいに鶴屋さんの抱きつく腕の力が強くなりました。
「もう、会えないのにかい? 」
「え? 」
 一瞬、彼女のいっている意味がわからず、わたしは聞きかえしてしまいました。
「しってるんだよ、みくるがふつうの子じゃないって。あたしが留学から帰ってくるころには……ううん、卒業したら、もういなくなるんだって。これで一生のお別れなのに、こんごも友だちっていえるのかい? 」
 その言葉に、わたしははっとしました。
 どうやら、鶴屋さんは、いままでずっと避けてきた話題に、あえて触れるつもりのようです。冗談めかして語ったことはあっても、真剣にはけっして話せなかったことを。
 つかのま、どう答えるべきか迷いました。そして、わたしは決心しました。
「どうなのさ、みくる? 」
「会えなくても、友だちです」
 きっぱりと、そう言いきりました。こちらの返事に驚いたのか、鶴屋さんははじかれたように顔をあげました。
 目尻に、涙がたまっているのが見えました。
「たしかに、わたしはふつうの人間ではありません。卒業式を最後に、鶴屋さんと会うこともないと思います。それでも、あなたは大切なお友だちです。一生、かわることなく」
 未来人エージェントとしてのわたしの正体を、彼女にはっきりと明かすことはできません。それは、規制があろうとなかろうと、おなじことです。
 だけど、規制がゆるんでいるいまならば、もっと大事なことを打ちあけられます。わたしの気持ちを。
「き、禁則事項っていわないのかい? いつもみたいに、ごまかさないの? 」
「今日だけは特別です。ほんとうに、最後ですから」
 片目をとじて、ほほえんで見せると、鶴屋さんはふたたび、わたしにすがりついてきました。顔を、こちらの胸に埋めてきました。
 やがて、鼻をすするような音が聞こえてきました。
「やだ……やだよう。今日で最後なんてやだぁ」
 声が、震えていました。そうして、ちいさな子供のようにだだをこねてきました。
 彼女を抱きしめて、頭をなでてあげました。
 にじむ視界のなかで、鶴屋さんの肩が揺れていました。

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