第十二章




 目覚めたのは普通に朝、そして俺の部屋だった。
 夏休みに入ってから夜中に起きることが少ない。疲れのせいだろうか、朝に妹が起こしに来るまでぐっすり眠ってしまうのだ。
 もちろん疲れの理由というのには考えずとも思い当たりがあるわけで、それは俺が常人の二倍ほど今年の夏を経験していることである。そりゃあ疲れもするわけだ。俺はどちらかというと冬より夏の方が好きなタチなのだが、さすがにこうも暑い日が続くと体力も底をついてくるね。
 この頃になると俺は二つの世界を行き来する生活にすっかり慣れていた。元の世界の次には平行世界がやってきて、また元の世界に戻って、というある意味平淡とも思えるような日々。二つの世界を行き来するということが当たり前になってきていた頃でもあった。
 
 だから、忘れていたというわけじゃないんだけどな。
 
 俺は半身を起こして、日課をこなすみたいに何気なく携帯電話を探した。携帯が机の上にあるなら元の世界、枕元なら平行世界というルールを、俺は以前決めていた。今日は順番的に元の世界だから机の上に携帯があるはずだと思って、俺はだるい身体を引きずって勉強机を確認した。
 そして、目を擦った。



 ない。



 おっ? とまず思った。おかしいな、机の上にあるはずなのに。
 数回まばたきして、念入りに背伸びしてから机の隅々まで探すが、携帯は見つからない。机の上にも、机の下にも、机の中にも。意識がだんだんはっきりとしてくる。そして、焦る。ない、ない。どこにも見あたらない。
 ――嫌な予感が頭をかすめた。
 はっとして振り返る。そして、携帯電話はあった。俺のベッドの傍ら、枕元に。
 俺は大きく息を吸い、ゆらゆらと携帯電話に近づいた。そして、手に取ってみる。指先に固い感触が伝わってきて、これがまぎれもなく俺の携帯電話であるということを示していた。
 手が汗ばんでいる。ゴトリ、と音を立てて、手から携帯が滑り落ちた。
 黒い雲がたちこめてくるように、心臓の鼓動がだんだん高まっていくのが解る。俺はそれを抑えるために大きく息を吸って、ゆっくり吐いた。朝っぱらから心臓をフル稼働させるのは健康的とは言い難いだろう。
 俺はいったんベッドに横たわり、目をつむった。ドクン、と心臓が脈打つ。
 冷静になるべきだろう。冷静になって、もう一度考え直してみるべきだ。
 まず、今の状況である。今の状況を整理しなければならない。今はいつか。ここはどこか。今、何が起こっているのか。
 その疑問になら簡単に答えられる。今は夏休みのまっただ中。携帯が枕元にあったという以上、ここは平行世界で、そして何が起こっているかと言えば、俺は今、二つの世界を行き来するという秩序の中にある。平行世界の次には元の世界、元の世界の次には平行世界。昨日は平行世界だったから、今日は元の世界のはずだ、が。
 ここは平行世界なのだ。平行世界の次に平行世界。これはおかしな話ではないか。 
「…………」
 おかしな話。確かにそうだ。平行世界が連続してやってくるなんてのは矛盾している。
 の、だが。
 実は俺は、その矛盾を説明できるような仮説を知っていた。そして、その仮説が正しいという可能性は高いのだ。しかしそれは、できるなら考えたくないような仮説だった。
 ごろり、と寝返りを打つ。 
 そもそも、今日は本当に元の世界の番なのだろうか、と俺は唐突に考えてみる。とりあえず、仮説の真偽を確かめるのは後回しだ。
 そもそも、今日は本当に元の世界の番なのか。何か思い違いをしていて、実は今日は枕元に携帯電話があってしかるべき日なのではないか。
 いや、そんなことはない、と俺は思った。昨日、花火大会に行ったあの世界は間違いなく平行世界だ。あの世界では誰もが普通の人間で、それについては疑いようもない。そして今日は元の世界でなければならない日だ。
 だったら、俺が携帯電話を置く場所を間違えでもしたのだろうか、と俺はさらに思考を広げてみる。机の上に置かなければならないところを、何かの手違いで枕元に置いてしまったのか。いやいや、と俺は首を振る。そんなことはありえない。寝る前に携帯を置くときには、俺はいつも厳重に注意を払っていたのだ。そんな単純なミスを犯すわけがない。 
 じゃあ、と俺はまた考えかけたが、虚しくなって思考を放棄した。こんなことをやっても何の意味もない。時間稼ぎにしかならんことは解りきっているのだ。
 ごろん、とふてくされるように寝返りを打った俺に、あの仮説が重くのしかかる。
 仕方がない。 
 俺は手っ取り早い方法を思いついて、携帯から長門の家へ電話をかけてみた。まだ朝早いが、長門なら出てくれるだろう。
 五回ほど電子音が聞こえたのち、電話はつながった。
『…………』
「もしもし、長門か。俺だ」
『…………』
 と長門は答えた。
「朝早くにすまんが、ひとつだけ訊きたいことがあるんだ。何も訊かずに答えてくれないか」
『そう。どうぞ』
「すまんな。時間はとらせない。いいか長門、イエスノークエスチョンだ。問題――お前は宇宙人である。……イエスかノーか、正直に答えてくれ」
 しばらくの沈黙があった。俺の質問の意味をゆっくりと時間をかけて理解しているような沈黙だった。
『ノー』
 長門はそう答えた。そして付け加えるように『宇宙人というのが地球人とは異なるレベルの存在として定義されるのだとしたら』と言った。     
「……わかった」
 俺はのどの奥から声を絞り出すようにして、どうにかそれだけ言った。
「朝っぱらからワケの解らん質問をして悪かった。あんまり気にしないでくれ」 
『そう』
 長門は平常の感情がない声色で言って、俺はそのまま電話を切った。あとは携帯を放り投げて、長いことベッドに横たわっていた。  




 予感はあった。覚悟もしていた。
 今さらながら、そんなふうに言い訳をしてみる。だから仕方のないことだ。さっきから俺の頭では壊れたCDみたいにその言葉が渦巻いている。そろそろ誰かに停止のボタンを押してもらいたい頃合いだ。 
 朝食を食べてから、ハルヒにも電話をした。今日の夜に墓地で肝試しをやることになっていないか、と。回答は予想したとおりだった。つまり、やることになっている、と。
 ここが平行世界であることは、もはや間違いなかった。
 それでも、と俺は残るわずかの可能性に期待して、寝てみたりもした。もしかすると俺は夜中に一度起きていて、そこでもう一度寝たから今、平行世界で目を覚ましたのではないかと思いついたのだ。他に期待できる可能性はなかった。
 そして、期待ははずれた。
 枕元にセッティングしておいた携帯は起きたときもまったく同じ場所にあったし、時間は俺が寝ていた分だけしっかり前に進んでいた。このことにより、仮説が正しいという可能性がさらに高まった。
 ではいったい仮説とは何か。そんなの言うまでもないだろう。
 
 俺は平行世界に閉じこめられてしまった、ということだ。


 眠れば切り替わるはずの世界が切り替わらない。世界を行き来できない。それはまさしく、昨夜のうちに二度目の情報爆発が起こり、その結果として俺が平行世界に閉じこめられてしまったということを示しているのだ。
 朝比奈さんが川沿いのベンチで話していた言葉が脳裏に蘇る。  


 ――今はまだ、キョンくんが眠ることによって二つの時間軸を制御できるから。でもいつか、その制御が効かなくなるときが来るんです。


 ――いつか――いいえ、いつだって、涼宮さんが望めば世界は閉ざされかねません。もし平行世界の方を涼宮さんが選んだら、この世界の時間軸や未来は。


 その後に続く言葉なら覚えている。俺が自分の口で言ったことだ。


 ――永久に凍結したまま、というわけですね。


 どうやらその時が来てしまったらしいですよ、朝比奈さん。凍結したのはやはりというか、元の世界の方でした。
 午前中は何もやる気が起きず、俺はずっとベッドに寝そべって天井を見つめていた。そしてぼーっとした頭で世界のことやハルヒのことを考えた。なんでこっちの世界を選んだんだよ、とか、俺はもう二度と元の世界に戻れないのだろうか、とか。長い間そうやっているうち、漠然とした不安が、俺はこれから何をやって高校時代を過ごすのだろうかという具体的なものへと変わった。
 たとえば、このまま元の世界に帰れなくなったとして、これから先にはいったいどんな日々が展開しているのか。宇宙人や未来人や超能力者が当たり前に俺のそばにいない世界。当たり前の生活。その疑問は、俺にはちょっと想像がつかなかった。
 いいや、想像がつかなかった、というのは逃げかもしれん。ただ俺は、想像したくなかっただけなのだ。何をどううまく包み隠したとしても、結局俺には未練があるのだった。俺には元の世界に戻りたいという押さえつけようのない願望がある。そしてそんな俺には、これからずっとこの世界で過ごすかもしれないというプレッシャーは、押しつぶされそうなほど重く感じられるのだった。 


 午前中は虚しく過ぎた。
 ただでさえ精神的にノックアウトされているというのに、無理やり二度寝したせいで身体までだるく、俺は部屋から一歩も出ることができなかった。
 十時くらいになって俺はようやくカーテンを開けていなかったということに気づき、カーテンを開け、またベッドに横になってみたのだが、どうも気持ちが落ち着かない。何もしていないと思考がどんどん暗い方へと連鎖してしまい、俺はその重さに耐えきれなくなって本を読み始めた。長門が貸してくれた本だったが、目が文字を追うだけで内容はちっとも頭に入ってこない。同じページを五回くらい読み直したところで俺は本を閉じ、起きあがって気休めに夏休みの課題なんぞをやり始めた。もちろんそんなのに身が入るわけもなく、シャーペンを持ったままいたずらに時間を捨てているうちに昼飯の完成を告げる妹がやって来た。 



 午後になって、気分転換がてら家を出た。
 だいぶ気持ちも落ち着いてきていたし、家にいるとどんどん暗くなっていってしまうような気がした。服装はワイシャツと制服のズボン。なぜこの服装かというと答えは簡単、学校へ行くからだ。こういう状況下に置かれた場合、確認しておくべき場所が二つほどあるのだ。もちろん、今度ばかりはほとんど無駄とは解っているのだが、だからといって家でずっとふてくされているのも嫌だった。
 夏も盛りである。日射しは強く、太陽は俺の真上からギラギラと照らしつけてくる。身軽な格好ではあったが、例によって地獄坂を登り終える頃には俺は汗だくになっていた。
 夏休みとはいえ、学校には運動部のみならず制服姿の文化部もたくさん見受けられた。校内は夏休みでも基本的に開放されているので真面目に活動している部活も多く、したがって俺が文芸部室の鍵を取りに職員室へ入っても教師連中に変な顔をされることはなかった。
 俺は職員室を出ると購買を経由して自販機で飲み物を買ってから、そのまま最短ルートで部室棟二階のSOS団アジトへと向かった。お隣のコンピ研はやる気のない文化部群に所属しているようで、どうやら本日は休みらしい。
 俺は鍵を開けて部室に入ると、まず一通り、そこにあるべきものがあるかどうかを確かめた。長机、パイプ椅子。団長机の上のデスクトップパソコンと、隅に追いやられている四台のノートパソコン。本棚に収まった大量の本とボードゲーム。コスプレ衣装のかかっているハンガーラック。
 心配は無用だったようだ。俺はため息を吐く。あるべきものはここにあるし、あるはずのないものはない。 
「それにしても暑いな」
 緊張の糸が切れるととたんに暑さが際立つ。俺は窓を全開放してボロっちい扇風機を稼働させてから、喉を潤すために購買で買った缶ジュースを口へ運んだ。
 目的は本棚、そしてパソコンである。
 頼りは長門ただ一人。毎度毎度申し訳が立たないが、この状況下でこの事態について俺に手がかりをくれそうな奴なんてのは長門以外に思い当たりがない。これでダメだったら打つ手なしだ。
 デスクトップパソコンのスイッチを入れてから起動するのを待つ間、俺は本棚の本を片っ端からめくっては栞がないか確認した。ときどき挟まっているやつもあるのだが、全部が全部、普通の栞であって落書きなどはなく、当然といえば当然だ。いつか長門が貸してくれた海外SF大長編にもあの時と同じ花柄の栞が入っていたが、裏返しても透かしてもただの栞でしかなかった。
 全部の本を確認してからパソコンにも目を向ける。とっくに起動し終えて、変わりばえのしないデスクトップを表示したまま待機していた。叩いてみても画面が暗転することはない。ましてや、勝手に文字が流れ出すこともない。いたって普通の現象だ。
 それから十分ほど待って何も起こらないのを確認すると、俺は一縷の望みをかけてMIKURUフォルダやSOS団サイトを表示させてみたが、徒労に終わった。確かにそいつらは存在していた。しかし、おかしなところはどこにもなかった。ただのエロフォルダと、そこらじゅうにあるさびれたサイトだ。二匹目のドジョウはいない。
「ダメか」
 俺は疲労感に肩を落として立ち上がった。部室内を意味もなくうろつく足が鉛のように重たい。
 茫然として窓の外へ顔を出し、グランドを眺めた。このクソ暑い中、野球部がけなげにも声を張り上げていて、すぐそこの木にとまっている無数のセミが負けじとわめいている。
 結局、と俺は思った。
 手がかりはなし。元の世界へ戻れる見込みもなし。俺はこの平行世界に完全に取り残されてしまったのだ。 
 なあハルヒ、お前は何を思って俺をこんな世界に閉じこめちまったんだよ。
 どうしようもなくて、俺はそんなことを思った。
 SOS団の連中とずっと一緒にいたいからか。古泉の言うように、お前がいつまでも一緒に遊べる仲間ってのを望んだからか。
 だなあがハルヒ、でもそんなのは幻でしかないんだ。
 いつまでも変わらず、同じ形でいられるものなんてこの世にあるわけがない。永久不変は存在しえないんだよ。お前だって、本当は解ってるんだろ?
 俺は振り返って、部室を眺めた。
 思えばこの部室にある雑多な物資はほとんどハルヒが持ち込んだものだ。ハンガーラックのメイド服に始まってパソコン、ラジカセ、カセットコンロなんかも。こいつらだっていつかは無用の長物になるのだ。朝比奈さんが卒業すればメイド服を着る人間はいなくなる。それなのにハルヒはなぜ次々とくだらん品物を仕入れてくるんだろうか。ハンガーラックには一回しか着てないような衣装がわんさか掛かっている。どれもそんなに安くはなかろうに。ハルヒのやつ、高校を卒業しても自分で着るつもりなのか。まさか。
 ハルヒが何を考えているのか、俺にはよく解らない。なぜそこまで楽しむことにこだわって、なぜそこまではしゃぐのかも。
 なんにも解らないが、ただ、この部室を眺めていたら瞬間、ふと――本当にふと――はしゃいでいるハルヒに奇妙な、寂しさ、の影が差したように感じた。
 理由は解らないし、思い違いかもしれない。だいたいハルヒに寂しさなんて究極にミスマッチである。誰かに話したら笑われるかもしれない。
 が、しかし、その時に感じた暗い影を、俺は笑い飛ばせなかった。こう、簡単に笑い飛ばすだけでは済まない真摯さ、のようなものを感じたのだ。
 その感覚は一瞬で失せたものの、ぼんやりとした輪郭が頭から離れることはなかった。



 家に帰ってからは、妹が夕飯の完成を告げるまでずっとベッドに寝転がっていた。
 部室で感じた妙な感覚がまだ身体にまとわりついていたし、そうでなくても座っていられるほどの元気がなかった。俺は朝と同じように変わりばえのしない自室の天井を眺めながら、ただ時間が過ぎるのを感じていた。 
 そもそも、と俺が気づいたのはベッドで三十分ほど横になっていた時だ。
 そもそも、学校なんかに行っても仕方がなかったのだ。天井を眺めながら俺は唐突にそう思った。
 学校に行っても仕方なかった。行って帰ってきて今さらという感じだが、でもそうなのだ。なぜなら俺にはこの状況を変える権限がない。たとえ元の世界に戻れる方法を見つけたとしても、俺がそれを使ってはいけないのだ。この件については、ことの顛末はすべてハルヒに任せよう、と俺は以前に決めていた。
 たとえどんな結果になっても。
 俺は黙ってその結果を受け入れる。たとえ気に入らない結末でも、ハルヒの出した答えを覆したりしてはならない。
 そうでなければ、元の世界に戻ったって何の意味もないのだ。
 俺はそう信じていた。そしてこのことが、俺の決心を支える強固な理由になっている。
 俺が結果だけを変えても、何の意味もないのだ。
  なぜかって? そんなのは簡単だ。なぜなら物事の中心にいるのは俺でもなく世界でもなく、あくまでハルヒだからである。ハルヒが元の世界でなくてこちらの世界を選んだのにはちゃんと理由があって、その理由を無視して世界だけを元に戻しても何の解決にもならない。
 だから、世界が元に戻るにはハルヒが変わる必要があった。
 しかし、どう変わればいいのか。元の世界に戻りたいと思わせるには。それにはたぶん、ハルヒの不思議に対する興味を復活させればいいのだろう。確かにそうすれば、ハルヒは普通の人間しかいない平行世界よりも、宇宙人やら未来人やらが近くにいる元の世界に戻りたいと思うかもしれない。
 ただし、ハルヒの興味を復活させるなんてことが俺にできるとは思えなかったし、また仮にできたとして、そんなことをして元の世界に戻っても何の意味があるのか、俺にはちょっと解らなかった。 



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最終更新:2010年11月01日 06:45