”――橘京子とは?”
 それは、涼宮ハルヒに備わった力――自分が願ったことを実現・具現させる力――を、本来の持ち主である佐々木に還元し、そして彼女に帰結しようと企む『組織』の一員にして、一介の少女。
 愛嬌のある、かつ幼げの残る顔立ちとは裏腹に、『組織』内での地位はかなりのもの。
 事実、朝比奈さんをかっさらったあの一件では自分よりも年上の男共に指令を下していたし、『機関』の一員である古泉――言い換えれば敵対勢力――に近しい俺に対し、しれっと協力要請をしたのも、それなりの力を見込んでのことだと思う。
 そう言った意味では、下働きばかりが目立つ『機関』の若手構成員、古泉一樹よりかは格が上なのかもしれない。

 ”――彼女の目的は?”
 先にも言った通り、ハルヒに宿っている力を佐々木に移すこと。彼女ら『組織』は、その方が安全だと主張する。
 彼女の主張はこう。
『ややもすれば世界をへんてこりんにしそうな神様と、まともで暴走することのない神様。どちらに力を託すのが安全か、自ずと解るでしょう?』
 つまり、世界を安定化させるために、不安定要素を根本から排除しようとする集団だ。因みに『機関』は世界を安定化させる目的こそ同じだが、不安定要素の発生を無くそうとする集団。
 同じようなことを言っているようにも見えるが、根本は全く異なる。

 ”――どう、違うのだ?”
 もう少し、解りやすい例でたとえよう。
 この世界においても、恒久平和を願うものは数多く、いざこざ、内紛、テロなど数多くの衝突を避けるべく各国(或いは各勢力)が様々な方法で立ち向かっている。
 限定的な軍事力、つまりディフェンディングフォースを用いて厄災の粉を振り払うものもあれば、徹底的に反乱因子を叩くことで鎮圧を図る勢力もあるだろう。
 中には対話で解決を図るグループだって存在するし、洗脳で主義主張を一致させる過激な集団だっているはずだ。
 即ち、目的こそ同じなのかもしれないが、その方法は全然異なる。
 方法の違いは軋轢を生み、対立へと繋がっていく。
 恐らくであるが、『機関』と『組織』も、同様な経緯を経て対立の方向へと向かっていったのだろう。

 ”――では、どちらの言い分が正しいのか?”
 正直、これは検討もつかない。
 もちろん橘京子にたいする嫌悪感は未だ燻っており、それが俺を『機関』側に靡かせるのに圧倒的過半数を占めている。が、それだけを理由で選んでいてはただの一過的感情に支配されやすい奴と揶揄されるだろう。
 大局を見るには、クールな判断と客観的な物の見方が必要なのだ。当初古泉に遭った時もえらく胡散臭い奴だとは思っていたからな。
 ともかく、冷静に二者間の主張を鑑みると、どちらが優れていると言うものではない。どちらの言い分もわかるし、またどちらの言い分も正しいとは言い切れない。
 妥協したり折衝したりすればまた違うのかもしれないが、今のところ両者ともそんな気はさらさらないらしい。
 つまり、両者の衝突は俺的目線では引き分け、ドローである。 

 ”――どちらにつくのが正しいのか、答えが出ていないと?”
 そうではない。俺の中では的確な解答が得られている。

 ”――古泉一樹が属する『機関』に、だな”
 完全にとは言わないが、概ねそのとおりだ。

 ”――理由は?”
 三つある。
 まず一つ目。『組織』が主張する言い分――つまり、ハルヒの能力を佐々木に移管する必要性を、全く感じてないから。
 確かにハルヒは非常識極まる行為で周囲を混乱の渦に陥れた。
 強盗まがいやセクハラまがいの行動は可愛い方で、異空間にカマドウマを閉じ込めたり、目からビームを発射させたり、果ては世界そのものにまで干渉して皆大騒ぎだった。
 それは紛う事なき事実だし、認知すべき点である。
 しかし、それも最早過去のことだ。
 中学、高校初中期ならまだしも、大学へ進学しようとする今のハルヒの精神状態はかなり穏やかになっている。嫌で嫌でたまらない日々を生活を過ごしていた時とは違い、俺たち仲間と楽しくワイワイ時を過ごしているんだ。
 つまり。
 今現在のハルヒは、精神的に落ち着きを取り戻している。イコールこの世界を気に入ってると捉えてもいい。
 世界をはちゃめちゃなものに変えてしまうハルヒの姿は、今ここにはない。変える気がないから、世界は不変のまま。
 ……お解り、頂けただろうか。『組織』の主張は、今や無用の長物なのだ。

 ”――では、二つ目は?”
 一つ目と似ているが、能力を移管することを不必要と感じているのは俺だけじゃないってことだ。
 他の勢力――つまり、宇宙人や未来人――もまた、この件にダンマリを決め込んでいる。……最も、向こうとしてはどちらが能力を持っていても問題ない、中立という立場だけどな。
 例えば未来人。
 一癖も二癖もある物言いで、藤原は語ったことがある。
『誰が所有しているか、そんなことはどうでもいい。重要なのは力がそこに存在するという事実のみだ』、と。
 藤原だけじゃない。朝比奈さん……特に大人の魅力たっぷりな朝比奈さんからの干渉が無いのも、俺の持論に拍車をかけている。
 もし俺にして欲しいことがあるのなら、きっと朝比奈さんは下駄箱に可愛らしい文字で書かれた手紙を入れるか、或いは黄金比を保ったボディラインを目下に晒してくれるだろう。
 しかし、今の今までそれが無いってことは、とりもなおさず未来人の関心はここに無いってことになる。
 続いて宇宙人。
 九曜に関しては意思疎通が図れない部分があるので如何ともしがたいが、長門に言わせれば、重要なのは『情報フレアの観測』『進化の可能性』であり、流出源まで言及していない。
 たまたまハルヒに兆候が見られたから観測しているだけであり、誰に能力の片鱗があるかは二の次である。佐々木が所有していても良いだろうが、逆を言えばハルヒがそのまま持っていてもなんら問題ないってことだ。
 ハルヒが神の器として適任だ……とはお世辞にも言えないが、佐々木が適任かと言うとそれも違う。
 橘は『普段の通り振舞っていればいい』と言ったが、そんなヘンテコリンな能力があると解っていながら平時を保って生活できる奴などザラにいないし、それに何より、佐々木自身『そんな能力、必要ない』とまで言い切ったんだ。
 無理矢理移行しようもんならその分リスクも伴うだろうし、ハルヒが大人しくなっている昨今ならば余計寝た子を起こすようなことはしたくない。
 何より、 本人が嫌がっているのを無理にやろうとするその神経もいけ好かないぜ。

 ”――最後。第三の理由は?”
 正直に言うと、これが一番の理由だが……。
 橘のしでかした一件――二年前の朝比奈さん誘拐事件――が、気に喰わない。
 あの一件のせいで、『組織』に対する信頼感は一気にマイナス反転したと言っても過言じゃない。どれだけ俺の感情を激昂させたか、解ってるのか、あいつらは?
 一応断りだけは入れておくが、俺がここまで怒っているのは、誘拐したのが朝比奈さんだったから……と言う意味ではない。
 もちろんそれも十分俺を怒らせるのに十分過ぎる理由なのだが、例え誘拐されたのがハルヒだったり長門だったり俺の妹だったり……極端な話、谷口だったとしても俺は『組織』を許せない。
 なに、至極簡単なことだ。『ミライノユウイセイ』とか言うふざけた理由で人間を駒のように扱う奴らにホイホイついていくほどバカじゃないんだよ。
 三つの理由、全てに共通することだが、奴らは自分達の利益に目を奪われ、他人のことなど省みてないんだ。そんな奴の力などになってやる道理も義理も無い。こんな奴らと手を組んだところで、捨て駒扱いが関の山だ。

 ――では、橘京子は、お前にとってどんな存在なのだ?
 橘京子、それは……――。

 ………
 ……
 … 

「――橘京子は、ついに化け物の本性を現した!」
「……あの」
「そう。九曜の異次元攻撃を長門が防御し、藤原の時間上書き攻撃は朝比奈さん(大)の参戦で無力化。そして古泉の赤玉アタックに耐え切れず……ついに橘は本性――エイリアンの本性を見せたのだ!」
「…………あの」
「俺は閉鎖空間を持つ二人の女性を説得し、力を統一、融合させた。さしものエイリアンもその攻撃には耐えられず、斯くして橘京子の存在は俺たちの友情と愛情と勇気の前に滅び去った……」
「…………あのっ!!」
 ん、どうした、橘。
「なんですか、その妄想話はっ!」
 言うや否や、橘からのびる腕が俺の脳天を直撃した。いわゆる手刀ってやつだ。因みに全然痛くない。
「あたしがいつエイリアンになったんですかっ!!」
「新手の創作話だ。こうなったら世界は万々歳だろ?」
「あたしを消滅させてどこが万々歳なのですか!」
 いやあ、まあ。
「どうせ転校して消える運命にあるし、どうでもいいかな、と思って」
「うわぁぁぁあぁぁあぁん!! キョンくんがいぢめるぅ~!!!」


 北口駅前に広がる、アーケードでのこと。
 元々方向性の決まっていないデートだから何をするでもなくほけけーっとしていた俺たちが行っていたのは、今後の展開を見据えた計画的展開の取り決め――言い換えると単なる妄想――だった。もっと言うと、ただの世間話に他ならない。
 せっかくのデートだと言うのにただただくっちゃべっているのもどうかと思うんだが、さりとて何かしらのイベントに参加する必要もない。
 公園のベンチに腰掛け、時を忘れて愛を語り合う――なんていうのも、デートの楽しみ方の一つでろう。ただ、橘が相手だと愛を語る雰囲気にもならず、からかって遊ぶのが丁度いいと思われるのだが。
 それにな、先ほど屋台で買ったお好み焼き(ブタコマそば大盛り)を平らげたせいか、ほっぺにソースがついているのも十二分に気になる。ムードなんて無いに等しい。
「色気より喰い気でしょ、やっぱり」
 満足そうに頷いた。時折見せる前歯に青ノリがくっついているのが見えてさらにへこんだ。
 そうそう、橘がエイリアンに見えたのは前歯についた青ノリがどうしようもなく化け物を彷彿とさせたからであり、ある意味俺の妄想話は橘が根本的原因であると言っても差し支えない。
 つまりは自業自得って奴だ。これも何度となく橘に説明したんだがおよそ理解するそぶりは一向にみられない。
「全く、困ったものです」
「似てないっ」
 またしても水平チョップが俺の頭を直撃した。「いったーい! 何するんですかぁ!!」
「あ、あたしのモノマネしないでくださいっ!」
 どうやら誰のモノマネか把握したらしく、それ故俺は口を笑みの形に変更して言ってやった。
「どうだ、結構似てるだろ?」
「……客観的に見るとかなりイタイですね。演技でよくやってたんですけど」
 解ったんなら自重しろよ。こんなんだからハルヒも佐々木も色々がっかりしてるんだろうからな。
「心に留めておきます」
 ふう、と残念そうなそうでもないような微妙な溜息をついた。
「もう少し演技力あると思ったんだけどな、あたし」
 橘の言う演技力とは、自分がいかにも空気を読んでないかのごとく振舞い、辺りに迷惑千万をかけまくるものだった。てっきり地の性格だと思い込んでいたのだが、なかなかどうして。俺も佐々木も、そしてハルヒですら見破れなかったわけだ。
 長門や九曜なら元々知っていたかもしれないが、あいつらは自発的発言が皆無だから俺が聞くまで何も答えてくれんしな。
 朝比奈さんは本気で気付かないだろうし、古泉辺りはベラベラ喋ってくれそうだが今まで黙ってたのを見ると知らなかったのか、或いは……。
 ……ま、橘のKY行動が演技か本気かはこの際どうだっていいことである。
「最後のお別れで、散々泣いて皆さんの同情を買おうと思ってたのですが、やっぱり無理ですかね?」
 無理だろうな、多分……あ、いや。訂正しよう。きっと皆泣いてくれるはずさ。
「本当ですか? そしたら嬉しいな」
「橘がいなくなった事を泣いて喜んでくれるはずさ」
「……い「いじわる」」
「…………」
 俺のモノマネに先手を取られた橘は、口をパクつかせながらジト目な表情を送りつづけていた。

「そう言えば、転校っていつころなんだ? 一週間後くらいか?」
 ふと、そんな疑問が湧きあがって質問してみた。転校の話が上がったのは聞いたとおりだが、いつなのかはまだ聞いてなかったからだ。
 俺の質問に対し、橘はやや目を背けて、
「正式には決まってないですが、早ければ早いほどいいと思います。遅くてもあと二、三日中。早ければ…………今夜にでも」
 聞いて少し驚いた。まさかそんなに早く俺たちの前から姿を消すとは思っていなかったからである。「そりゃ、また。急だな」
「そりゃそうですよ。あたし達だっていつ自分達が消滅するかわからないんですから」
「消滅? なんだそれ?」
 俺が顔中にクエスチョンマークを貼り付けていると、橘は幾分怒ったような感じで口を開いた。
「あたしが今日最初に言ったこと、聞いてなかったんですか?」
 佐々木の閉鎖空間が消滅するから、自分達の仕事が無くなって……。
「そこじゃありません。そのあとです」
 ええと、何だったかな。
「閉鎖空間が消滅したら、あたし達の存在そのもが消えてしまうって言ったじゃないですか」
「……あ!」
 思い出した。
 長門と九曜が放った一言と、そこにハルヒと佐々木が乱入してよく解らんカオス状態なったからそっちのインパクトが強くて記憶を辺境の彼方へと押しやっていたのだが、確かにそんな事を言っていた。
「覚えてなかったんですね……」
 再びジト目で睨み返す。いや、まあ。「すまん」
「……まあ、いいです」
 以外にもスンナリ事を納めたツインテールは、
「九曜さんたち、転校って仰いましたしね……それに実際、『組織』に関わった人たち全員、立つ鳥跡後を濁さずの如く浮世からスッと身を引くことに決めていました」
 もちろんあたしもですよ、と注釈した後、
「九曜さんたちがあまりにもピンポイントな発言をしたせいでこんなことになってしまいましたが……確かに身を引く時期を申し上げていませんでした、ごめんなさい。あたしはいなくなりますが、後はよろしくお願いします」
 何故かおじぎを繰り返した。潔くも晴れ晴れとしたその表情に、俺の方が戸惑った。
「もう少し先延ばしすることはできないのか? 例えば佐々木に言って少し待ってもらうとか」
 我ながら本末転倒な意見である。もちろん橘にも同じツッコミが入った。
「あたし達の望みは、佐々木さんの精神安定化です。佐々木さんの機嫌を損ねれば閉鎖空間の拡大は見込めるかもしれませんが、はっきり言ってナンセンスです」
 だよなあ。
「それに下手に刺激した場合、佐々木さんの閉鎖空間にまたあの巨人どもが復活するやもしれません。前回こそ大事の前の小事でことすみましたが、そうなった場合二人がケンカすることだけはなんとしても避けなければいけません」
「うーむ」、と頭を捻った。
 閉鎖空間が消滅する方向と拡大する方向。どちらに転んでもあまり良い未来は待っていない。そう言った意味では現状維持が一番好ましいのだが……しかし、橘が転校するって言っちゃったからな。あ、いや。
「転校取りやめになったとか、無理か?」
「別に無理じゃないですけど、閉鎖空間が消滅の方向に進むっていう事実は変わりません」
 そう言えば、そうだな。
「なら、どうすれば……」
「いいんです。あたしが人知れず消えればそれで解決する話なのです」
 ポツンと発した橘の言葉は、かなり寂しげだった。
「徒に閉鎖空間を広げても、決して良いことはありません。以前佐々木さんが引き起こした力でそれはわかったことです」
 以前佐々木が引き起こした事件……それは、ハルヒの力を利用して、世界を改変させたあの事件のことであろう。
「あの時はあたしの分身が暴れまくっていましたが、今回はあたしが消えるだけです。それで世界が救われるのなら本望です」 
 橘、解ってるのか? お前は消滅するのかも知れないんだぞ?
「『かも知れない』だけです。佐々木さんが慈悲深ければ消滅そのものは免れる可能性もあります。もしかしたら今と何も変わらず生活できるかも。……うん、楽観論ですが」
 気を落とした風でもなく、しかし釈然としない風体で、
「それで、いいじゃないですか。あたしって言うKY女が消えたら、皆さんすっきりすると思いますよ?」
『違う。そうじゃない』
 俺がそう答えようとした瞬間、
「…………ん?」
「どうした、橘?」
「今、茂みの奥に誰かいたような……?」
 言われて振り返る。しかし物音どころか誰かがいる気配すら感じられない。
「気のせい、かな……?」
 ああ、そうに違いない。色々ストレスやらが溜まって神経がビンビンに張り詰めているから誤動作を繰り返したんだろう。
「……うん、そうかも知れません。ここんところあまり眠れませんでしたし……」
 最後くらいストレスは完全に解消しようぜ。溜め込むのは良くないってどこぞの神様も言ってたしな。そうだ、お前の好きなケーキバイキングにでも行くか?
「ええっ! ほ、本当ですか!? 男に二言はないですよね!?」
 もちろん。
「キャー! キョンくんかっこいい!!」
 かっこいい、か。こんな奴にでも、言われると満更じゃない言葉である。
「当然おごってくれるんですよね?」
「当然……あ。いや。今月はピンチだったから割り勘な」
「……かっこわる…………」


 ……と、惜別の代償としてはやけにあっさりとしたモノでかたを済ますことになった橘京子であったが、それはそれ。
 より大きな代償は彼女自身に……いや、俺自身ににも災いの粉として降りかかってくるのである。


 ポップコーンやクレープ、豚こまにケーキと、およそ喰い合わせの悪いものばかりを口にする栗毛だったが、これから先好きなものを喰うことができなくなるならば好きなものを喰わせてあげたいと思う心情は誰にだってあるだろう。
 だからと言って俺も付き添って喰う必要もないのだが、建前上俺たちはデートとなっているのでカップルで同じモノを喰うのは当
然であり、仕方の無いことでもある。
 しかし……見事に炭水化物ばっかりだな。いくら喰い盛りとはいえ、こうも偏食していれば健康によろしくない。野菜か、せめて果物を頬張りたいところではある。
「ああ、それならこっち。にんじんケーキとほうれん草ケーキ、それにベリーたっぷりにタルトがありますよっ♪」
 グラス越しに並べられたケーキたちをしかっと凝視し、オフサイドトラップにも屈しない敏腕フォワードの如く攻めの攻勢にはいっていた。
 俺はといえば、これが本当に自分の存在が消滅しかかっているやつのしでかす行動とは到底思えず、完全にネジが緩みまくっているコイツに規定トルク以上の負荷をかけようかどうしようか悩んでいる。
「はへ? はへなひんれふか?」
 ミルフィーユにマカロンにモンブラン。味も触感も異なる三つのケーキを共喰いする大口ツインテールは、
「はへはいんはらはへはすほ?」
 俺が苦労して持ってきた銘菓堂○ロール(一日十個限定品)を取り上げ、さらりと口の中に入れた。
「あー!! 馬鹿っ! 最後のとっておきに残してたやつをっ! 許せん!!」
「ひいっ!」
 手を上げようとした、まさにその瞬間、
「ここにいましたかっ!?」
 ――古泉!?
「どうしたんだ? こんなところで?」
「どうしたもこうしたもありません、緊急事態が発生しました」
 クールでニヒルが心情のエスパー少年は、いつになく焦りと苛立ちの表情を惜しげも無く浮かべていた。
「これは有史以来……厳密に言えば、涼宮さんが力を授かった、もうすぐ六年となろう歴史の中においてですが……失礼、回りくどい言い方はやめます。ともかく、僕達の存続に関わるくらい大きな出来事です」
 またあいつが世界を創り変えようとか、そんなことを考えているって言うのか?
 呆れた口調で言い放つ俺に、古泉は首を横に振った。「いいえ。そんな生易しいものではありません」
 じゃあ、何だというのだ? 世界を再構築どころか、消滅しかかっているとか?
「何故、ご存知なのですか?」
 俺の投げやり気味な吹聴に、マジマジと答えた。っておい、本気か?
「強ち、嘘とも言い切れません」掠れた声を気にも留めず、古泉は声を絞り出した。「なぜならば、恐らく……」
 恐らく、どうした?
「恐らく……閉鎖空間が、消滅してしまいました」
 …………。
『はあっ!? 』
 思わず間の抜けた返事を返すのは、もちろん俺と、
「おや、橘さん。あなたもいらっしゃったんですか」
「いたら悪いんですか?」
「いいえ、そう言うわけではありません。こちらが気付かなかっただけです。申し訳ありません」
 本当に気付いてなかったのか、古泉は平謝りだった。
「……いや、寧ろ好都合です。協力してください」
 生き別れになった姉を見つけた流浪少年のような眼差しで、
「あなた方にも力になってもらった方が良いでしょう。それほど事態は急を要しているのですから。それに、未来への可能性は後に優位性へと発展するかもしれません」
「昨日の敵は明日の友、ってわけですか」
 俺には古泉が何を言っているのか解らなかったが、橘には何を言ってるのか解ったようで、二人はロミオとジュリエットを演じるような仕草で見つめあい、そして、
「わかりました、古泉さん。協力しましょう」
 いつものヘタレ具合を見せることなく、橘は真剣な眼差しを古泉にぶつけた。
「それで、ハルヒの閉鎖空間が消滅したって……どういうことだ? 一体何がおきたって言うんだ?」
 ここでようやく俺が間に入る。古泉もそう来ると解ったのか、即座に俺の方を振り向いた。
「詳しいことは解りません。消滅したと言う語彙にも語弊が生じるかもしれません。ですが、今は『消滅』と言う言葉を使うのが一番適していると思われます」
「お前達が例の巨人を倒して、それで閉鎖空間が消滅した……ってのと何が違うんだ?」
「そうですね……より厳密に言うと、それは受動的な消滅。僕達が作用して結果消滅したものです。言い換えるなら、『崩壊』や、『破壊』と申し上げた方がニュアンスが伝わるかと思われます。ですが、今回の『消滅』は能動的と言いましょうか……」
 なんとも言いにくそうな口調で、しかし何かに気付いたのか、
「……あなたが五年前、当時の世界にウンザリした涼宮さんと共に新世界に渡ったあの時のこと、覚えていますか?」
 突如、思い出したくもない昔話を穿り返してきた。「ああ、一応な」
「その際、あなたはどうやってこちらの世界に戻ってこられたか、言い表せますか? ああ、方法ではなく状態です。あちらの世界がどう変化してこちらの世界に繋がり、そして自分の部屋に戻ったか、です」
「そんなの覚えているわけがない」
 第一あの時、ああ言った行動をする時には目を瞑るのが礼儀だろうと思ってたから目を瞑ったまま何にも見えなかったし、次に気がついたらベッドからずり落ちてたし。
「僕達も、まるで同じような経験でした」と古泉。
「今から少し前、突如現れた閉鎖空間に赴き、そこに蔓延る『神人』を撃破しようと奮戦していたのですが……気がついたら、閉鎖空間に入る前の場所に突っ立っていたのです。僕だけではありません。共に戦っていた同胞もまた、です」
 なるほど、だから閉鎖空間が勝手に消滅したと。
「ええ。崩壊した様子もなく、突然フェードアウトしたわけです」
 一応聞いておくが、実は『神人』を倒したってわけじゃないんだな?
「いいえ。ある程度ダメージを負わせたのは確かですが、完全に倒すのにはまだ程遠いダメージでした」
 何かの手違いで一時的に閉鎖空間の外へと放り出された、ってセンは? 
「その可能性もありますが、それならば閉鎖空間は存在しつづけるはずですし、僕達『機関』のものにとって閉鎖空間の存在を知ることは容易いことです。もういちど侵入することも可能です」
 ……ん?
「ですが今回、あたかも消滅したかのように、閉鎖空間に入ることができなくなりました。もしかしたら涼宮さんの深層心理に誰の侵入をも許さないバリアでも張ったのかもしれませんが……それを確かめる術がありませんでした」
 古泉の言葉に若干の疑問を抱きつつ、
「それで、俺たちはどうすればいい?」
「先ず、原因の切り分けが必要です。閉鎖空間の消滅か、それとも閉鎖空間へのアクセスの完全遮断か。もう一度試します。閉鎖空間が消滅したと思われる地点で本当に侵入が不可能なのかどうなのか、を」
 あれか? 前回みたく皆の力を結集して、ってやつか?
「いいえ。それは既に試しました。……結果は不発です。しかし、あなたを軸にしてアクセスすれば或いは……。最も、あなたがこの時点で閉鎖空間に侵入していない時点で望み薄ではありますが」
 しかし、やってみるしかないだろう。
「そのとおりです。そして、」くるりと右向き半回転、今まで黙っていた橘の方へと目を向けた。
「橘さんには、佐々木さんの閉鎖空間の方へ言ってもらおうと思います。涼宮さんと、同じ現象が起きてないかどうかを確認するために」
「なるほど、わかりました。佐々木さんの方は任せてください」いつになく鷹揚に頷いた。
「と言うわけですので、ここで別れましょう」
 やれやれ。これで橘とのマヌケな付き合いとも解放されるぜ。
「マヌケとはなんですか、マヌケとは!」
 突っ込むくらいなら自分の我が身を振り返って欲しい。今日のデートでどれだけKYな行動したのか。
「うわぁぁぁ~ん! 古泉さーん! キョンくんがいぢめるぅ~!!」
「おー、よしよし。それはお気の毒です。今回は僕達の都合を飲んでくださったし、今度『機関』協力の下、セッティングしして差し上げましょうよ」
「本当ですか! やったぁ!」
 あいかわらずいつものノリで橘は……って、あれ?
「おや、どうかしましたか?」
「あ……いや、お前達、いがみ合ってる割に意外と仲いいのな」
 犬猿の仲……いや、オツムの程度から散々見下していた『橘京子』に対して、あそこまでできるなんて。
「どちらかが上とか下とか、悠長に語っている場合ではないですから。お互い信じる神の行く末を憂い、方向性を正そうとするために行動しているに過ぎません。今回は、バラバラに行動するよりも、互いに手を取り合って行動すべきと判断したまでです」
 そうかい、たいした判断力だよ。
「または、」目の前にかかった髪を爪弾きながら、「涼宮さんと佐々木さん。二人が仲良くなったからかもしれませんね」
「なるほど、そうかもしれません」こちらは橘。「九曜さんと長門さんが仲良くなったのと同じ理由ですね」
 そうなのか?
「お互い元々は意思疎通すらできない存在でしたもの。それが一緒に行動するくらいにまで仲良くなったのは、二人の神様が仲良く手を取り合ってきたからに違いないでしょう」
 確かに、ハルヒと佐々木の仲はある事件をきっかけにして交流を増していった。俺にとっては別に構わないことだったが、しかしこの二人は……おい、ちょっと待て。 
「よく考えたらお前ら、最初は二人の仲が良くなることを懸念してなかったか?」
 俺の至極当然な疑問に、えへんと咳をついた橘が口を開く。
「それはそうですけど、あくまで可能性でしたから。確かに色々と事件はありましたけど、今となっては杞憂で終わらせることが出来たと思います。よかったのです」
 杞憂、ねえ。散々ハルヒと佐々木を引っ掻き回して何度も世界を破滅に導いたお前が言える立場じゃないと思うんだが。
「ぐ……終わったことをネチネチと……ひつこい人は嫌われますよっ」
「大丈夫だ。存在そのものが消えてしまうかもしれない奴に何言われても記憶の角にすら残らんだろ」
「ひ、ひっどーい! こんな時こそ慰めてくれると思ったのに、空気を読まない数々の発言!」
「だからお前が言うなっ!」
「申し訳ないですが、バカップルの痴話ゲンカはそろそろお開きにしていただきたいのですが……」
「誰がバカップルだっ!!」「誰がバカップルよっ!!」
「…………」


 見ての通り、何時もどおりのおバカ会話かつおバカ談義に花を咲かせる俺たちだったが、事態は決してよい方向には向いてくれなかった。
 それどころか、更なる深みに嵌ろうとは……。


 消滅したと思われる閉鎖空間に侵入するため(消滅したのに侵入ってなんかおかしいな)、俺と古泉はある場所――閉鎖空間が消滅した際に戻された、現実世界のデパートの屋上――にまでやってきた。
 このデパートの屋上、イベントショーのための特設会場が設置されているが、平日のためだろうか、人っ子一人いなかった。異空間に旅立つ俺にとって、見送りが誰もいないのはやや寂しくも感じられたが、『機関』にとっては目撃者は少ない方がいいだろう。
 あるいは、『機関』の手で無理矢理閉鎖されているのかも知れない。
 そんな戯れ言はさておき。
 古泉が言うには、ここから閉鎖空間へと侵入し、『神人』とのバトルを繰り広げて、そして再びこの場所へと戻されたのだという。
「どうですか? 何か感じ取れますか?」
 俺に解るわけが無かろう。
「それもそうですね」
 思ったよりも気軽な口調で、古泉は耳にかかった髪を払いのけた。
「それでは、今からあなたを閉鎖空間にご案内差し上げます。僕の手を取って、目を閉じてください」
 ああ、と言おうとしてふと思った。
「さっきの話だと、お前一人の力で閉鎖空間に入れるわけじゃないんだろ。どうする気だ?」
「皆さんの力をお借りします。『機関』の皆さんの、ね」 
「誰もいないじゃないか」
「別にこの場に居る必要はないですからね。と言うか、力を存分に発揮するために、各自最適な場所でスタンバイをしています」
 そう言うものなのか。
「そう言うものです。さ、手を」
 わかったよ。
 こいつと手をつなぐのはもう何度目だろうか。俺よりも大きく、しかし柔らかい感触が俺の指先を包み込んだ。これが男だと思うとげんなり感が拡大するのでこれ以上は無心でその場に立つ。
「あ、そうそう。一つ注意事項があります。閉鎖空間が通常の方法で入れないため、少し荒っぽい侵入を致します。そのためいつもと違って衝撃が大きいかも知れませんがご了承頂きたい」
 荒い運転は新川さんのカーチェイスか、朝比奈さんの時間移動で慣れている。多分だが問題ないはずだ。
「それでは……」
 俺の手を引っ張るようにして、古泉は足を前に進めた。目を瞑ったままの俺も、一歩二歩と歩み、そして――。

 ………
 ……
 …

「やはり、駄目でしたか」
 古泉の声を合図にして、俺は閉じていた瞼を開いた。最初に見えたのは、苦悶する古泉の表情。
「入れないってことか?」
「はい。ですがこれで原因の切り分けができました。閉鎖空間は存在しているのに入れなくなったわけではない。消滅してしまったと捕らえるべきでしょう」
 結論が出たと言うのに、何故か古泉の表情はスッキリとしていない。
「当然です。確かに閉鎖空間はもう存在しないと、ハッキリ解りました。ですが、そうなった経緯は何も解っておりません。つまり、下手をしたらまた同じことが繰り返されるかもしれないのです」
 閉鎖空間が消滅しただけだろ。問題になるようなことがあるのか?
「解りません。ですが、こんなこと今まで一度も無かったことです。何かの前触れ出なければ良いのですが……」
 古泉は顎に手を当て、一頻り唸ったところで再び俺の方を向いた。
「それにもうひとつ、おかしいところがあります。以前僕は閉鎖空間の存在が『解ってしまう』と評したことがあると思います。覚えていらっしゃるでしょうか?」
 ああ。あれほど都合の良い言葉はなかったからな。俺ももっと利用することにするよ。例えば、学校の宿題とか。
 俺がそういうと、古泉はふっと軽く笑みをこぼし、
「それはどうも……さて、閉鎖空間の件ですが、今の実験で閉鎖空間は消滅しているだろうと結論付けることができました。しかし、僕の内心ではどうしてもその結論を飲むことができません。何故だかわかりますか?」
 こんな時古泉の『解ってしまう』能力が使えれば、こいつの変に回りくどい説明を受けなくて済むんだが、やはり俺の中ではまだまだうまく使いこなせないため、辟易とした表情でこう聞くことになる。
「解らん。言ってみろ」 
「閉鎖空間はまだ存在している。そう『解ってしまった』からです。自分の心情では閉鎖空間は在るとしながら、実際には存在しない。その矛盾が僕の心を更に苛んでいるんです」
 つまり、何だ。あれだけ検証しながら、閉鎖空間はまだ存在していると言うのか?
「恐らく……」
 ここ最近ずっと自信無げに振舞っていた古泉は、今回もまた弱気な返答を送り込んだ。
「しかし、僕達ではこれ以上どうすることも出来ません。不甲斐ないですが、あとは橘さんの吉報を待つしかないでしょう」
「そうだな……だが、あいつの方も大変だろうな。佐々木の閉鎖空間が消滅しかかっているって言ってたし」
 俺の何気ないボヤキに、古泉が食いついた。
「それはどういうことですか? 僕の情報網ではそんな噂、聞いたことがありません」
 そういやこいつは知らなかったんだな。佐々木の深層心理に何かしらの作用があったことを。
 もしかしたらハルヒの閉鎖空間消失と関係があるかもしれないと思った俺は、今朝橘に聞かれたとおりの話を古泉にしてやった。
 閉鎖空間の縮小。それに伴う能力の消失、自我の消失、存在の消失……。ある程度掻い摘んで話したが、話の筋は通したつもりだ。
 俺の話に茶化すことなく、ただただ「うんうん」と頷く古泉。暫くして、
「なるほど……確かに、今回の閉鎖空間の異常と関連がありそうです。こちらは消失、そして向こうは縮小。程度は異なれど、閉鎖空間が収束する方向で動いているようです」
 閉鎖空間の消滅は、お前らにとってはいいことじゃないのか?
「発生しなくなると言うならそれに越したことはありません。ですが、何の前触れもなく消滅したり縮小するのはいささか問題ありでしょう。何故かと言われれば、簡単です。普通じゃないからです」

 古泉は言った。
 以前、閉鎖空間発生と消滅(崩壊)のプロセスについては以前説明したと思います。涼宮さんの場合、何かしら嫌なことがあって心に負の感情を高めることによって発生し、その中で鬱憤を晴らすべく巨人が暴れまくると言うもの。
 この破壊活動によって閉鎖空間は拡大し、やがて全世界を覆ってしまうのも以前申し上げたとおりです。
 この空間を消滅させるのはただ一つ。閉鎖空間の核となっている巨人を倒すこと。
 そして、この巨人を倒す能力を与えられたのは、僕達『機関』の――超能力のみ。つまり、僕達がが果敢に戦った結果、閉鎖空間は初めて収束するわけです。単発の閉鎖空間が自発的に消滅、あるいは縮小の方向に進むのはありえません。
 例えるなら……大量の水の中に一滴のインクを落とすとしましょう。そのまま放っておけば、自ずとインクは拡散します。物理的化学的作用を与えなくても、です。
 しかし、逆はどうでしょう。拡散したインクは、水の中のどこか一箇所に集まって再び一滴のインクになることはありません。あり得ません。何かしらの物理的化学的作用が無い限り、このようなことにはならないのです。
 秩序あるものは、無秩序な方向へと進む。このような自然現象をエントロピー増大の法則といいますが、これと同じことが閉鎖空間でも起きているんです。
「待て。閉鎖空間はお前達の力によって収束するんだろ? その力も自然現象の一つと捉えるなら、秩序と無秩序は可逆的変化をするることになるぞ」
 俺の素朴な疑問に、
「確かに僕達の力によって閉鎖空間は収束します。ですが、それは僕達が力を――言い換えるならエントロピーを増大させることによって閉鎖空間を収束させるのです。系全体からしたらエントロピーは確かに増大の方向に向かっています」
 俺がアホみたいな顔をしたせいか、古泉は顔を緩めてさらに解説した。大体、以下のような意味である。
『古泉達が能力を行使することにより、『神人』を切り刻むエネルギーを閉鎖空間全体に放出する。そしてそのために、体に貯めてた熱を放出し、熱を冷やすために汗を放出し、汗は汚れとなって系全体に広がる』
 つまり、無秩序――この場合、系全体に広がった熱や汗や汚れのこと――は増大し、即ちエントロピーの増加を意味する。 
「これだけのエントロピーを操作できる人物――いえ、ヒトではないかもしれませんが、ともかくそんな存在は、ザラにいるとは思えません」
 得意げな顔の少年は、メガネもしていないのに鼻筋を人差し指でなぞった。
「誰かがハルヒ達の能力に干渉しているとでも言うのか?」
 俺の論に対し、古泉は「はい」と言った。
「可能性は三つあります。まず一つ目、より巨視的な存在が涼宮さんの閉鎖空間を統率している。以前にも指摘したかもしれませんが、神の如き力を、『誰か』が涼宮さんに付与した。その『誰か』――つまり本物の神様――が動き出した可能性です」
 スケールが大きい割には地味なことしかしてないな。俺が正直な感想を言うと、
「力加減が不安定か、或いは大事にする気がないのか……それは本人でなければ解りません。最も、そこまで巨視的な力が作用されるとなれば、目に見えて変化が現れるはずです。そのうち。もしそうなったら、」
 フッと、能天気に笑って、
「それこそお手上げです。僕達の手でどうなるものじゃありません」
 さして重要事項ではないのか、サラリと話を流した。
「そして二つ目。涼宮さんと対等な力……佐々木さんの身に、何かあった。しかしこちらも閉鎖空間が縮小傾向ということで、寧ろ被害を受けていると考えるのが正しく、彼女がその因を発したわけではないと思われます。最後に、三つ目」
 古泉は右手を口の横へと持っていき、俺に耳を寄せるよう指示した。どうやらあまり大きな声で言いたくはないらしい。
『三つ目。これが一番可能性が高そうなのですが……』
 ここまで言って、辺りを何度か見渡し、恐る恐るその言葉を吐き出した。
『TFEI端末の親玉……情報統合思念体が、ついに動きを見せた。我々はそう考えています』
 また突拍子もない発言だな。長門や九曜だって動きは見せてないぞ。
『思い出してください。あなたと橘さんをデートに仕向けたのは誰だったか』
 言われて短期記憶を呼び起こす。間違いなく長門と九曜だ。
『そうでしょう。恐らく二人のデートをきっかけとすることで、二人の閉鎖空間と『神人』を発生させたのでしょう。そして試したのです。のっとりが可能かどうか』
 ……何故、のっとる必要がある?
『宇宙人の真の目的は、涼宮さんから発せられる情報の解析です。そして、その情報発生源が閉鎖空間であり、そのコアである『神人』なのです』
 閉鎖空間を自由に操ることで、涼宮さんから無尽蔵に溢れ出る情報から自分達に必要な情報のみを抽出しようと企んでいるのでしょう。閉鎖空間の消滅は、自分達に必要のない部分だから無理矢理消去してしまったのではないでしょうか。
 しかし、溢れ出る情報の消去に慣れてない宇宙人は情報を完全に消すことができず、我々にはまだ存在があると勘違いしてしまったのでは――?
「これが、僕の今の意見です」
 口を離し、元のヤサ男の口調で語った。
「お前の意見が正しいにしても、」俺は寧ろ逆に言い寄る。「何故今なんだ? もっといい時期があるだろう」
「むしろ、今が一番最適な時でしょう。橘さんを利用することができましたから。閉鎖空間を量産するにはもってこいの流れです」
 しかし……いや、だとしたら。
「橘はどうなるんだ? あいつは佐々木の閉鎖空間に行ったんだぞ。大丈夫なのか?」
「涼宮さんと佐々木さんとでは閉鎖空間作製のプロセスが異なるようですので、厳密なことは言えませんが」と注釈して、「恐らく大丈夫でしょう」といった。 
「どうして?」
「我々は閉鎖空間が消滅したのにも関わらずそこを追い出されただけです。消滅の要素がない佐々木さんの閉鎖空間ならばそれこそ命を落とすような心配はないですよ」
 だといいが……。
「もし仮に閉鎖空間が思念体によって消滅させられた場合、お前達の存在意義はどうなる?」
「さて、どうなるんでしょう。我々の能力だけが消えるのか、それとも存在自身が消えてしまうのか。検討もつきません」
「そうか……」
「さ、ここでぼやいてても問題解決にはなりません。橘さんの方を手伝おうじゃありませんか。恒常的に存在している閉鎖空間だから、こちらは間違いなく閉鎖空間に侵入できると思います。そして、」
 問題解決の糸口も、そこで見つかると?
「仰るとおりです」
 喉を鳴らしながら肯定する笑顔が嫌らしく思えた。
「橘さんが向かった先は先ほど聞いておきました。今すぐ行けば間に合うでしょう」
 用意のいい奴だな、お前は。
 俺がそう言うと、喉を鳴らす音が一段と高くなった。


 こうして、俺たちは侵入しようとも侵入できなかったハルヒの閉鎖空間から身を引き、橘が向かったとされる閉鎖空間の方へと足を進め……そしてついに、元凶が明らかとなる。


 橘が向かったとされる場所。それは本日俺たちが集合した駅前の喫茶店だった。本人が言うにはここに閉鎖空間が発生しているとのことだ。
 そう言えば、橘に連れられ初めて佐々木の閉鎖空間に入ったのもここの喫茶店からだった気がする。佐々木の閉鎖空間はここの場所に常駐しているのだろうか。
「恐らくそうでしょう」と古泉。「涼宮さんの閉鎖空間の場合、生成と消滅をそれぞれ異なる場所で繰り返しているため入り口は毎回異なります。しかし佐々木さんの閉鎖空間がずっとその場で固定しているなら、入り口は毎回同じと考えてよいでしょう」
 偉そうに解説を付け加える癖だけは何とかして欲しい。
「僕では佐々木さんの閉鎖空間に侵入することはできません。ささ、早く喫茶店に入り橘さんを呼び戻すことにしましょう」
 既に閉鎖空間に侵入しているであろう橘をどうやって呼び戻すのかは甚だ疑問であったが、そこは超能力者同士、不思議なシンパティでも働いているのだろうと妄想することでこの場は凌いだ。
 カシャン。
 来店を告げる鐘の音がそう広くない店舗内に響き渡る。来客に気付いたのはもちろん店員さんの、
「いらっしゃいませ。お二人様でしょうか?」
 もとい、喜緑さんだった。大学生になったせいか、堂々とバイトをしているようで、俺達二人を見ても何一つ動揺せず微笑み返していた。まあ最も、このお方はいつもこんな感じで笑っているから本心を読み取るのはかなり大変だろうが。
 因みにもう一点。今朝この喫茶店で喜緑さんを見なかったは……バイトのシフトが午後からだったためであろう、多分。
「あの、橘、見ませんでしたか?」
「橘さん……? ああ、あの不埒女ですか? いえ、こちらには来てませんが。それよりまだ生きてたんですね。あれだけ痛めつけてやったのに」
 柔らかな笑みをふんだんに晒しながら、怖いことを言う臨時雇いのウェイトレス。そういや、今年の元旦に散々迷惑かけてたからな、橘は。
 一体どんな風に痛めつけたのか聞いたい挙動にかられたが、そんなことをしている場合じゃない事は良くわかっているのでグッと堪えていると、
「では、彼女がどこに言ったかご存知ないのですか? あなたならご存知かと思ったんですが」
 俺の代わりに古泉が口を開いた。
「ええ」と、微笑が眩しい喜緑さんは更にはにかんだ。「でも、わたしが彼女の所在を存じ上げている理由がよく解りません」
「そうですか。あなた達のことですから、既に実力行使に移ったかと」
 古泉も負けじと笑みを絶やさなかった。こいつがここまで強気なのは、先ほどの彼自身が発言した言い分に起因しているのだろう。下手をしたら閉鎖空間での覇権を宇宙人側に取られかねない。それを阻止するための虚勢とでも言うべきか。
 二人の睨み合い――というか、微笑み合い――は、電動ケトルが沸騰に必要な時間を既に超え、そこからカップラーメンを作るのに必要な時間をも超え、そして食べ終わろうかって時間までかかった気がする。
 もしかしたらそれほど長い時間はかかってないかもしれないが、二人の笑みを一身に受けている俺にとって、ウラシマ効果が発動し時間が遅く感じらたことを否定する要素がないのでそれだけの時間がかかったことにし、何とか他の話題がないかと模索した結果、
 カシャン。
 喫茶店の入り口が、再び音を鳴らした。
「ここ、に…………いやがった…………か…………」
 ――藤原!?

 そう。
 先ほどから俺たちを付け回していた……そして、ハルヒと佐々木と一緒に行動していた、藤原である。
 見るからにフラフラと寄りかかる藤原に手をかけようとして、
「ぼ、僕の……ことは、どうだっていい……」
 手を振り解いた。こんな状態になっても過去の人間に手を借りようとはしない姿勢は、立派と言えば立派だが、そんなことを言ってる場合じゃない。
 無理矢理手を引き、喫茶店の椅子に座らせた。息切れが酷い。余程の力を使ったのだろうか?
「あら、お客様」
 藤原が座ったテーブルの前に、コトンとコップを置いた元書記で現ウェイトレスは、
「先ほどもいらっしゃいましたよね?」
 藤原は答えない。答えるほど息が整っていない。
「喜緑さん、コイツがここに来てたって……」
「ええ。一時間ほど前でしょうか。お嬢さんお二人を連れ添ってここで。そうそう、うちお一人は涼宮さんでしたね。暫くこちらに滞在した後、こちらの男性の方と、もう一方の涼宮さんじゃない方のお嬢さんと一緒に出て行かれましたが」
 なんだ、それは? 
「ハルヒは……ハルヒは、どうしたんですか?」 
「何か叫びながらお二人の後をついていきましたが」
 ますます解らん。何をしてたんだこいつは?
「おい、藤原、お前何を知ってる!?」
「…………つは…………こ、だ…………?」
 ますます弱くなる声。本当に一体、どうしたんだコイツは?
「あい……つ…………は…………橘は…………どこ…………だ…………」
 佐々木の閉鎖空間に向かったはずだ。
 俺がそう言うと、藤原の口先が緩むのが見えた。笑ってるのか?
「なら………………いい……………だが、…………お前も……………………行け……………………早く………………………………さ…………空間…………行け……………………間にあ……………………」
 しっかりしろ!
「…………」
 ――気を失った!?
「ええい、こんな時に」
 などと毒づいている場合じゃない。佐々木の閉鎖空間の中で、何が起きたというんだ?
「古泉、行くぞ、閉鎖空間に」
「待って下さい。何度も言いますが、僕では佐々木さんの閉鎖空間に入ることが出来ません。橘さんか、或いは彼女と力を同じくする仲間でないと」
 解ってる。だが先ほどから橘の携帯には繋がらないし、そもそも橘以外の『組織』の仲間に連絡をとる手段が無い。イチかバチか、お前がやってみるしかないだろ。
「と言いましても……」
「お困りのようですね」
 と、ここで再び喜緑さん。にこやかなポーカーフェイスはまだ崩していない。
「喜緑さん、あなたもしかして……」
 言葉の代わりに、小さくウィンク。それ以上仰る必要はないですよと、いわんばかりに。
「あなた方にはお世話になりました。お陰で婚約の儀も恙無く進行しています」
 どうとでも取れる微笑は、俺たちに感謝の意を示しているのか、それとも、
「お礼と言うほどではありませんが、あなた達が望む未来を託したいと思います」
 ハッキリ言って、何を言っているのか解らなかった。
 喜緑さんが何を知って、何を知ってないのか。全て知ってて知らないフリをしているのか。或いは本当に何も知らないのか……。
 俺たちにどんな関連があるか、それすら解ってないように思えた。
 しかし、
「どうぞ、こちらへ」 
 左後方を向き、案内をする彼女を見て解った。
「…………」
「――――」
「長門!? 九曜!?」
 トーンの違う無口な二人が、俺のテンションを上昇させ、
「彼女達なら、きっと力になってくれるはずです」
 ――そして再び、朗らかな笑みを俺たちに振りまいた。


「事態は、一刻を争う展開になっている」
 ショートカットの無口が口を開いた。
「情報――――噴出…………過多――――――」
 続いてロングヘアの無口も。
「二つの情報創生力が、螺旋状に渦巻いている。その総量、単体比で累乗に匹敵する」
「――――元々――――無限級数的…………情報量――――累乗すれば――――手がつけられない――――…………」
 二人の会話は、やはり俺にとって意味不明だった。しかし、長門が最初に言った言葉だけは理解できた。
「急がなきゃ、ならんのだな」
 二人とも無口になる。肯定の合図だ。
「長門さん、九曜さん。あなた達なら佐々木さんの閉鎖空間に侵入することができるのでしょうか?」
「完全ではない。古泉一樹、あなたの力も欲する」
「僕の力ですか?」
「遮断された次元断層を開くには、それが可能な能力をトレースする必要がある。代入値を変更すれば、異色の次元断層の入り口も開くことができる」
「次元――――断層の…………――――保持は――――以前――――経験済み…………こちらでやる…………――――後は――――――任せる…………――――」
 もしかして、行くのは俺一人ってことか?
「そう」
「――イエス…………」
「僕達は閉鎖空間の入り口を保持するのが精一杯のようです。橘さんの件は、よろしくお願いします」
 ……わかったよ。
 俺の返答に、古泉はいつものスマイル、長門と九曜も数ミリラジアンほど笑みの形に顔を歪ませた気がする。そしていつのまにか喜緑さんが消えてしまったが、彼女の仕事はもう済んだからドロンしたのではないかと勝手に思い込んだ。
「手を取って」
 長門が左手を古泉に向かって差し出した。同様に九曜が右手を差し出す。古泉はヤサ顔のまま、右手で長門の手を取り、そして左手で九曜の手を取った。
「今度は――――あなた――――…………」
 宇宙人二人は古泉と握っている逆の手を差し出し、俺とのコンタクトを求めた。もちろん素直に応じる。
 これで俺から右周りで長門、古泉、九曜の輪が完成した。
「で、これからどうするんだ?」
「わたし達で古泉一樹の力を増幅、拡大適合させる」
「なるほど。長門さん達がアンプとして閉鎖空間の適用範囲を広めてくれるわけですね」
「そう。しかし、わたし達にできるのは、ここまで」
「橘――――京子…………を――――――世界を――――――救えるのは…………あなたに――――――――かかっている…………――――――」
「世界を」、ってのは何となく解るが、「橘京子を」ってのはどういう意味だ?
「彼女は、次元断層の狭間に閉じ込められた」
 全く連絡が無いと思ったらそんなことに……ったく、何やってんだ? 二回目だぞ?
「彼女の失態ではない。より大きな意志によって、次元断層と次元断層の間にある空間に閉ざされてしまった。今、彼女は彼女の知る空間にはいない。右も左もわからない状態。でも、」
「次元断層の――――狭間――――かの異空間と…………――――紙一重――――呼びかければ――――彼女を――――信じれば…………――――道…………開かれる――――」
 詳しくは解らんが、つまり、
「閉鎖空間で、彼女を呼び出せばいいんだな」
 再び、二つの沈黙が肩を並べた。
 解った。必ずアイツを連れてくると約束しよう。だがその前に一つだけ聞かせてくれ。
「なに」
「情報の奔流はお前達にとって喜ばしい事実じゃないか。その噴出を止めるようなことをしに行くんだぜ。それを助けてくれると言うのか?」
「情報の奔流は、多ければ良いものではない。以前にも話したが、ジャンク情報とノイズは情報統合思念体にとって決して有為なものではない。正確且つ迅速な処理能力こそ、情報統合思念体の欲する情報。進化の可能性も、真の情報に内包される」
「正しい――――情報は…………――――正史の――――情報…………――――それを――――歪める――――行為は…………――――進化を――――…………否定する――――――ことに――――なる」
 解るようなわからんような例えでまくし立てる二人だが、
「このままの状態が良くないってことはわかったさ。さっさと片付けて、橘を仕事漬けから解放しようぜ。古泉、頼む」
「了解。では皆さん、目を閉じてください」
 言われるがまま目を閉じ――よく考えたら閉じる必要なんて無いんじゃないかと思い、再び瞼を開け――
『――――!!』


 白い閃光が、俺の躯を包み込んだ。 

 …
 ……
 ………

 ”――もう一度聞く。どんな、存在なのだ?”
 橘京子、それは……――。
 悪く言えば、バカで無知で、チビでちんちくりんでおまけに胸も小さい。良いとこなしのKYトンデモ痛い小娘。だけど――。
 ――良く言えば、友達思いの真面目で何に対してもひたむきな、女の子。
 最近は、そう思うようになってきた。
 最初のやり方が気に喰わなかったことは多々あるが、世界を平穏なものにしようとする志は本物だったのかもしれない。
 古泉と一緒に相談しに来た時もそうだったし、ハルヒの精神を佐々木がのっとった時だってそうだった。
 朝比奈さんを誘拐した時も一人必死に耐えてたし、全然やる気のない面子を揃えて俺に交渉したりもしたよな。
 ちょっと他の人より一生懸命だから痛いキャラが身についただけで、よく言えば頑張りやさんなのだろう。
 最初から解っていれば、俺もあそこまで拒絶することもなかったと思う。

 ”――橘京子の『組織』にも、賛同できると?”
 そうじゃない。賛同できるのは、『橘京子』個人だ。
 これは橘京子と『組織』だけに限ったことじゃない。古泉一樹と『機関』の関係も同じことが言える。
 古泉自身の信頼と『機関』中枢部の信頼とじゃ俺の中で全く異なる。古泉は高校生活を、SOS団としての活動を通じて、お互いの信頼関係をぐっと向上させた。何喰わぬ顔で命令を下すだけの『機関』中枢部とはわけが違う。
 もっと言うとな、長門とその親玉、朝比奈さんと朝比奈さん(大)。これも全部一緒だ。
 俺とハルヒ、そして佐々木と一緒にハイスクールライフを過ごしたのは、宇宙人や未来人や超能力者っていう一括りじゃない。個々の人物なのだ。
 だから、橘京子もまた――。

 ”――橘京子を、信じているのか?”
 ……正直なところ、ちょっと心もとないけどな。
 KYな性格はつくりものと言ってたが、肝心なところでツメが甘そうなのは元々っぽいし、怖くなって途中で挫折しそうなヘタレ感もタップリ感じている。
 それも込みの演技なのかもしれないが、長年付き合っていた俺の感覚からすると、望み薄である。
 望み薄なんだが――これだけは信じてはいる。
 アイツの――悲しみに暮れるアイツの心を取り戻すのは、あいつしかいない。
 あいつしかいないんだ。

 ………
 ……
 …
 


『……信じているぞ、橘。かならず来いよ』



「……あ」
 空に、クリームを溶かし込んだようなこの世界。
 人の声など聞こえるはずも無い、静寂の世界。
 あたしには、何故か彼の……キョンくんの声が聞こえました。
 それはまるで、あたしを勇気付けてくれるかのような、激励の言葉。

『間違いない』
 あたしには、わかりました。
 涼宮さんの閉鎖空間の消滅。これは、あの人が引き起こした事だって。
 何故か、と言われても説明できません。『解ってしまう』からです。
 そして、自分の閉鎖空間も――。

 あのお方を――彼女を止めるのは、あたしの仕事です。
 だって、あたしは――。
 


『…………ん』 
 眩いばかりの白亜に包まれたかと思えば、突如現れたのは真っ暗な闇。
 ……いや。完全なる闇ではない。多少ではあるが、周りの様子が見渡せる。
 真っ暗な闇に見えたのは、先ほどの激光で目がやられたせいだろう。時間が経つにつれて、辺りの様子が少しずつ浮かび上がってきた。
 そこは、俺が今までいた喫茶店だった……いや。
 正確に言うならば、喫茶店と同じ造りをした、全く別の場所。異次元と言ってもいい。
 先ほどまでウィンドウから溢れ出てた太陽の光が、今ではまるで曇った空の下にいるかのように日差しがない。
 もちろん、俺の知る場所である。
「閉鎖空間……ついに来たか……」
 だが、おかしい。
 俺は佐々木の閉鎖空間に向かったはずだ。佐々木の閉鎖空間にも以前招待されたことがあったが、あちらはもっと明るく、セピア色に染まった世界だった。
 しかし、この閉鎖空間は見たままダーク調の世界。これではまるでハルヒの閉鎖空間である。
 これは一体どうしたことか……。さっぱり解らない。
 ただ、ここでじっとしていても、何も解決はしない。
「外に、出るか」
 誰もいない室内に、俺の声が響き渡った。

 外は、俺の知っての通りの表情だった。
 昼下がりの午後。帰宅や塾通いのため高校生がうじゃうじゃ現れるはずの駅前は、余りにも寂しいオーラを紡ぎだしている。最も、ハルヒの閉鎖空間にしろ佐々木の閉鎖空間にしろ、人がいないことは知ってたのでこれはどうだっていい。
 しかし、双方の閉鎖空間を知っている俺でも解せぬことがあった。
 喫茶店を出る前までは夕立前の夏のように暗かった空が、今や黄砂に吹かれる前の空の色まで明るさを取り戻していた。
 喫茶店のガラスがスモークフィルムを張っていた、なんてことはない。先ほど閉鎖空間に入る前までは、確かに日の明るさを感じていたから。
 閉鎖空間に変化が訪れている? いや、単に安定してないだけのような……? なんだろうな、この感触は。
 等と足りない頭で考えていると、
「あれは……?」
 不思議な光景が現れた。といっても、例の巨人が現れたわけではない。
 クリーム色の空が広がる中、とある一点に、真っ黒な雲が現れていた。
 その雲は徐々にクリーム色の空と入り混じり、空の色を黒く染め上げていく。
 かと思えば、今度はそこからクリーム色の雲が浮かび上がる。
 クリーム色の雲は黒い空と入り混じり、再び空を明るくする。
 この空間が安定してないと感じたのは、交互に入れ替わる空が原因だろう。 
 そして恐らく……あの中心に、アイツがいるんだろう。
「行くぞ」
 心の中で、勇気を奮い起こし一歩を踏み始めた。

 明暗の閉鎖空間は、中心部へと行く度に入れ替わりの激しさを増していた。と言っても、激しい音や風が吹くわけでもなく、ただじっと見つめていると目がチカチカして大変そうってだけで、直接見なければ何の被害も無い。
 ただ……なんて言うのか。居心地の悪さだけは天下逸品だ。沸かしすぎた風呂に冷水を中途半端に混ぜたような、唐辛子にメイプルシロップを塗りつけて喰わされているような。正反対の属性同士をまだら模様に混ぜ込んだかのような感覚。
 先ほどから感じている違和感は、完全に混ざりきれてない明暗の空が原因だ。
 そしてそこに、この空模様の元凶があった。
 公園のベンチ。独り座る少女の姿。
 ――間違いない。アイツだ。
「佐々木……お前……」
『キョン……ごめん……』
 諭すように声をかけた俺に反応し、佐々木は頭を下げたまま。謝罪の言葉だけが風に乗って俺の耳元へと届いた。

『決して、許されることをしたとは思っていない』
 空の二色性が増す中、相も変わらず顔を伏せたままの佐々木は、
『ヒトは、斯くも弱いものなんだって、改めて認識したよ。こんな弱い生き物に全知全能の力を付与するなんて、バカバカしいにも程がある』
 佐々木の声は、俺の耳にと言うより、直接脳に響いている感じだった。顔を伏せてボソボソとしか喋ってないので、そうとしか思えない。第一ここは佐々木の閉鎖空間の中だ。本人の心の中と考えれば何も問題ない。
『神力をヒトに植え付けて、何がしたいんだろうね? ヒトがどのように力を使うか観察したいのか? それとも自滅する様を見て愉快に笑い転げたいのか? ……くくっ、神様と言えどヒトを馬鹿にし過ぎだね。不愉快だ。そう思わないかい、キョン?』
 不機嫌バリバリに喋り倒す佐々木の矛先は、しかし俺に向いているわけではなかった。
「さあな。ヒトより偉くて高次元の存在の考えなんて、俺たちの考えが及ぶもんじゃないさ」
『くくくっ。全くそのとおりだ』
 俺と無駄話をしている時と同じように、喉を鳴らした。
『ヒトは、間違いもある。過ちもある。ヒトと言う器にいる以上、完全なんてことはないのさ。だから僕は暴走した橘さんを許したし、逆に許しを請うことだってあった。逆にそんな生活が楽しかったから、なんて思うよ』
 俺もそう思う。橘を始め、ハルヒや佐々木、そしてSOS団の皆と過ごした日々はハッキリ言って楽しかった。喉元過ぎれば熱さを忘れるってのは誉め言葉さ。人間がそれだけ寛容に出来ているって言う証拠になる。
『でも……でも、何で』
 佐々木の声と共に、明暗の点滅が速度を増した。
『何で――橘さんとお別れをしなきゃいけないんだ?』
 それは……お前の力がようやく終焉を迎えたわけで
『解ってるよ! そのくらい!』 
 佐々木の怒号と共に、強烈な光が渦巻いた。
『僕だってこんな力、欲しいなんて思わない。神格化扱いされればこっちが迷惑だ。そう思ってた。だけど、それを犠牲に『親友』一人を失うのは、余りにも酷だと思わないか!?』
「…………」
『せっかく約束したのに……『彼女』と約束したのに……それを果たさぬまま、橘さんとお別れするなんで、僕にはできっこない!』
 ――佐々木、やっぱりあの時のこと……。
『キョン、悪いけど、涼宮さんの力、お借りしたよ。僕一人じゃ世界を変える力が無いなんて解りきっているからね。大丈夫。そんなに変な世界にはしないつもりだし、本懐を遂げたら力を封印してもいい。人間、過ぎた力が破滅への序章となるからね』
 何を、願う気だ?
『くくくっ。察しが悪いね。さすがはキョンだ。ここまで来ると解っていると思ったんだが……』
 佐々木の苦笑いに、俺も苦笑を重ねた。
 いくら俺でもそこまで馬鹿じゃない。言葉にしなかっただけだ。お前が何を望んでいるか、ここまで来れば教えてくれたも同然だ。
 しかし――。

「もし、俺がダメだって言ったら、どうするつもりだ?」
 俺の問いに対し、佐々木は諦めムード満点の笑みを浮かべた。
『許してくれなんて思ってないさ。正しいことだとも思ってない』
 その笑みは、思いつめたわけでも、怒りを交えたわけでもなく、寧ろ柔和なものだった。まるで悟りの境地に達した聖徒が一般民に教えを説くように。
『ただ……これだけは、させてもらう。これこそ僕の唯一の望みなんだから』
 止めろ! 佐々木!
「そんなことをして、橘が喜ぶと思っているのか!」
『異なことを言うね。キョン。橘さんは元々僕に能力を移転するのが目的だったじゃないか。こうして閉鎖空間を維持すれば彼女の消滅も免れる。一石二鳥じゃないか』
「…………」
『僕は涼宮さんみたいに超常現象を発生させようと望んでいるわけじゃない。宇宙人未来人超能力者で緑の星を埋め尽くそうなんて思ってない。それに比べたら僕の願いなんて、コンクリートの隙間からひょっこり目を出すナズナの如くつましいものさ』
「…………」
『世界をおかしくする気なんてない。僕だってこの世界が気に入っているからね。だからキョン。これだけは許して欲しい』
「…………」
『くくっ。キョンが渋るのも当然かな。僕は前回も同じようなことをしでかしたからね。あの時は涼宮さんが更に力をのっとって酷いことになったけど……そうそう。涼宮さんは公園のベンチでぐっすりお眠り頂いている。前回の二の舞だけは避けたいからね』
「…………」
『頼むよ、キョン。僕の願いを――橘さんの存在を、元に戻して欲しい。宇宙人も、未来人も、超能力者なんかもいらない。僕の本当の千載一遇の望みは、『彼女』……あの『橘』さんとの約束を遵守することなんだ』
「……………………」 


 佐々木の目的。
 俺がこの閉鎖空間に来た時、直ぐにピンときた。
 それでも知らないフリをしたのは、彼女の本心が聞きたかったからだ。
 ――橘は言った。『佐々木さんの精神が安定し、閉鎖空間が縮小している』と。
 そして、『閉鎖空間の消滅した時には、橘京子の存在が消えてしまうかもしれない』、と。
 佐々木は聞いていたのだろう。あの時、俺たちが会話していた内容を。
 橘京子が居ない世界を悲観して、ハルヒの閉鎖空間を取り込み――自分のものにしようと画策したのだ。

 古泉が閉鎖空間に入れなかったのは、既にハルヒの閉鎖空間は存在しなかったから。
 いや、正確に言えば完全に取り込まれているわけではない。佐々木の閉鎖空間の不安定さから見るに一目瞭然だ。
 古泉があるはずもない閉鎖空間の存在を『解ってしまった』のは、中途半端に取り込んだ佐々木の閉鎖空間に逐一現れる、ハルヒの閉鎖空間の存在を嗅ぎ取ったからだろう。
 古泉の予想は、外れた。いや、三つある可能性のうち、一番低いものだった。
 宇宙人が本気になって攻めてきたわけでも、より高位の存在が動き始めたわけでもなかった。 


「『あたし』と仲良くやってください」
 次元断層の向こう。並行世界の番人――『橘京子』は、最後の別れ際にこんなことを言った。
 言われた相手は、もちろん佐々木。『彼女』と仲睦まじい関係になった佐々木との約束――だった。
 元々「作ったような性格」と揶揄される佐々木だが、真偽の程はさておき、その佐々木と『彼女』は、『親友』といえるレベルにまで進展していった。
 俺を含む男の前で男言葉を話す関係とはわけが違う。交流期間こそ短かったが、密度は果汁一パーセントにも満たない合成甘味料漬けのジュースと濃縮還元ジュースくらい異なっている。
 佐々木の友人関係に詳しくないが、あの『橘京子』とはお互い腹を割って話ができる『親友』以上のものだったに違いない。
 その、『親友』との約束が、引き裂かれる。
 自身の閉鎖空間の縮小、消滅によって、『橘京子』との繋がりが、なくなってしまう。
 佐々木はそれを何よりも恐れたのだろう。世界が改変されることよりも。

 佐々木と『彼女』との約束。
 そして、自分に必要な存在。
 それを取り戻そうと動いた結果――こんなことになってしまったのだ。 

『キョン……長いこと沈黙していたが、腹は決まったかい?』
 佐々木の声に、ハッと我に返る。
 しかし、明暗を繰り返していた閉鎖空間は殆ど綺麗に混ざり合い、その中間というべきか……本当の世界の空の色とほぼ変わらぬ色を呈していた。
 太陽が現れてないってことが、唯一閉鎖空間だとわかる手がかりだった。
『キミの承認さえ得られれば、直ぐにでも改変しようと思うんだ』
 囁くように答える彼女の声は、何の迷いも無かった。

 ……確かに橘は確かに佐々木にハルヒの能力移転を願っていたし、そもそも俺にコンタクトを取った本来の目的はそこだった。
 ……俺に否定され、古泉に否定され。ハルヒや佐々木にも否定された橘の持論は思わぬところで好転、本懐を成し遂げた。
 ……おまけに橘も戻ってくるだろうし、ハルヒが変なことを思いついても現実にならなくなる。
 ……せいぜい困るのは、『機関』の就職先だろう。
 ……今ごろ『機関』の連中は戦々恐々としているだろうし、『組織』の連中は欣喜雀躍の思いかもしれない。
 ……ハルヒの驚天動地なイズムと違い、佐々木は能力を行使したところで世界が一変してしまうような事件は起こさないだろう。
 ……これが、佐々木の、『組織』の……そして、橘の望んだ世界……なのだろうか…………?

『――違います!!』

 その時。
 俺の耳――心じゃない。確かに耳にだ――に、ハスキーボイスが響き渡った。

『橘さん――? どうしてここに……? 来られないはずなのに――?』
『佐々木さんを想う気持ちがあれば何のその!です! 目を覚ましてくださいっ!!』
 俺が佇む位置の、更に後方。佐々木が驚愕の視線を携えるその場所に現れた、ハスキーボイスの元凶は、声をより大にして叫んだ。
『あたしが望んだのは、佐々木さんに『能力』を与えるためではありません! 佐々木さんに『能力』を封印してもらうためです!』
 振り返ると、息を切らしながらも声を張り上げるツインテールの姿。
『佐々木さん、前に仰ってたじゃないですか! 『凡人たる自分に過ぎた力なんて必要ない』って!』
『うん……確かにそう言ったよ。だから力を封印しようと……』
『『力』を使って『力』を封印するなんて、佐々木さんらしくありません!』
『…………!?』
『あたしが望んでるのは、どんなことが起きてもへこたれない精神力の強さです! あたしがいなくなるから、なんて理由で世界を混沌させようとするなんて、佐々木さんらしくありません!』 
『でも……それで橘さんは消滅の危機に陥っているんだよ? キミの存在が亡き者にされてしまうんだよ。それで本当に満足なの?』
『うっ……』
『それに、あっちの『橘』さんにだって申し訳が立たない。わたしは約束したんだ。『橘さんと仲良くする』って。あなたの存在が消えてしまったら、その約束すら守れないじゃないか』
『……佐々木さん……』
『何のために、欲しくも無い力を所有して、使いたくも無い力を使ってるのか。考えたことあるっての!?』
『…………』
『それもこれも、全部あなたの為にやってるのよっ!』
『…………ふざけないでっ!!』


 ――パシーン……――


 静寂が支配する閉鎖空間の中、佐々木の頬を捉えた橘の平手打ちが、遠く見えるプラットホームまで木霊した。


『あたしのために『力』を持った? あたしのために『力』を使ったぁ!? なんですか、それっ!!』
 まさか、そこで橘からのビンタが来るとは思ってなかったのだろう。佐々木は頬を押さえ、曲がり角で自分の好きな人と偶然ぶつかったか時の如く何一つリアクションを取らなかった。
『佐々木さんはそんなしょっぼいことで世界を変えようとしていたのですか!? そんなどうでもいいことで世界を混乱の渦に陥れようとしたのですか!?』
『あ……いや……そんなことは……』
『いいえ! 一緒です!』佐々木の言い分を遮って、橘がまくし立てた。『そんなの、涼宮さんと同じじゃないですか! いいえ、力を自覚している分、涼宮さんよりタチが悪いです!』
『…………』
『あたし達が佐々木さんに託したのは、『力』を行使しないと踏んだからです! 『力』を内包したまま閉鎖空間が消滅するなら、それも望むところだったのです! それをよくもよくも…………』
『で、でも……』
『でももヘチマもないわよ! あたしの話を聞けぇっ!』
『はいっ! すみませんっ!』
 どっかのライブステージで聴こえてきそうなセリフに、思わず佐々木は肯定し――暫く沈黙した。

『……確かに、このままお別れするのは辛いです。消えてしまうのは悲しいです。でも……あたしは幸せです』
 橘はこれ以上ないほど満ち足りた表情を浮かべた。
『えっ……?』
『だって、佐々木さんにそれだけ想って頂けたんですもの。あたしだって、佐々木さんと仲良くなりたかった。あっちの『橘』さんが、あんなに仲良く出来るんですもの。あたしだって……』
『橘さん……』
『それだけで、満足です。悔いはありません……』
 後半、橘の顔から光るものが流れた。
『……でも、僕は……』

「佐々木、」
 ――この時、俺は思い出した。朝比奈さん……二人の朝比奈さんが別々の日に言った、俺へのアドバイスを。
 ひとつ。
「橘がそう言ってるんだ。あいつが望むようにしてやったらいいじゃないか。ヒトとして生を受けた以上、必ず別れの時がやってくる。橘の場合、それが他のヒトよりちょっと早かっただけじゃないか」
 朝比奈さんの――服屋での帰り、朝比奈さんが洩らした、惜別の声。
 ふたつ。
「動じたら負けだ。笑顔で送り出してやろうぜ。橘だってその方がいいさ」
 大人の朝比奈さん――先日の電話で伝えた、送り出しの言葉。
 おまけにみっつ。
「お前達は単なる『知人』じゃない。既に『友人』、いや、『親友』なんだろ? その想いさえ本物ならば、どんな願いだって成就するはずさ」
 九曜と長門が示唆した、『人間の心』の可能性。
 ――これらを統合すると、ある妙案が浮かんできた。

「そうだろ、橘?」
『ええ、佐々木さんの笑顔が最高の宝物になります』
 俺と橘の誘いに、
『…………うん、わかった。ごめんなさい、橘さん……』
 佐々木は、顔をくしゃくしゃにしてはにかんだ。
 俺は思う。この笑顔こそ、擬態を取っ払った佐々木の真の顔なんだろう。そして、この顔を曝け出せたのは、橘との友情が成せるものだろう、と。


 そうそう、いつの間にか、閉鎖空間はセピア調の明るさを取り戻し、言い様のない不安定感はとうの昔に納まったことだけ付け加えておこう。 

「でも……どうするんですか? あたしの消滅を回避する方法なんてあるんですか?」
 全てが終わった後。喫茶店を出て再び公園のベンチに戻ってきた俺たちを前に、橘は不安そうな声を投げかけた。
 ここにいるのは、ハルヒを除く全員。喫茶店にいた三人は元より。朝比奈さんは呼び出し、藤原はたたき起こした。
 ハルヒは佐々木の言う通り公園のベンチの隅でグースカ寝息を立てていた。最も、もう少し寝てもらってた方が都合がいいのでこのままにしていただく。
「ああ、それも何一つ現状を変えずに解決する方法が、一つだけある」
「もったいぶらず言ったらどうだ? まさか未来に仇する方法ではないだろうな?」
 大丈夫だ。お前達未来人についてもきっと既定事項だろう。そして、宇宙人にも都合いいこと間違いないぜ。
「自身タップリに言いますね。さすが、この世界の将来を握る『鍵』だけのことはある」
 そんな対したもんじゃないけどな。全てはハルヒの力あってのことだ。『世界を自分の思い通りにさせる』、ヘンテコリンな能力のおかげだ。
「でも何をするにしても早く事を進めないと、涼宮さんが夢の世界から舞い戻ってくるよ。キョン」
 心配ない。寧ろ起こした方が手っ取り早いと思うぜ。
「はへえ!? どんな方法で橘さんを救うんですか……?」
 朝比奈さんの甘ったるいボイスに困惑され、俺はついにその方法を皆に示した。

「……そう言えば……」
「……そうでしたね……」
「……うかつ…………」

 ――予想通り、皆が皆呆気に取られたかのように目を点にしやがった(長門と九曜も含む)。


「……ん? へにゃ……?」
 ホッペを摘み、面白い効果音と共にハルヒは起き上がった。
「こんなところで寝てたら風邪引くぞ。春とは言え未だ寒いんだからな」
「……あれ、キョン。なんでこんなところで……確か……橘さんと……キョンを……追いかけて……それから……」
 それから、の先で言葉が途絶えた。記憶はないのだろうか。
「ねえキョン。何で皆ここに勢ぞろいしてるの? あたしに抜け駆けで何か企んでるの?」
 産業スパイを詮索する監察官のように、ハルヒの目が鋭くなった。
「いや、なに。ここで橘の送別会を開こうと想ってたんだ」
「…………へ?」
「ほら、朝言ったろう? 橘が転校するって。ちゃんと覚えているか? 忘れてないか?」
「何よその目。あったりまえじゃない! 橘さんが遠いところに行くからもう遭えないって奴でしょ?」
 狙ったとおりの解答に、ハルヒ以外が全員顔を歪ませた。もちろん笑っているのだ。
「そうそう。でな、もう遭えないならいっそのこと皆で送別会にした方がいいんじゃないかって提案したところなんだ。ほら、住所とかはちゃんと知ったほうがいいだろうし、遠いところにいくならそこで不思議探索も出来るわけだし」
「うーん……それもそうねぇ……」
 俺とデートってことになっていた内容をすっかり忘却の彼方にフッ飛ばしたハルヒは、
「面白そうね。今度からそこでやりましょ! SOS団の宇宙制覇に相応しい第一歩になりそうね!」
 となった。


『ハルヒは、最初から橘が消滅するなんて思ってない。転校するだけだと思っている』
 今朝喫茶店に入ってからの記憶を洗いざらい吐き出した俺が出した結論はこれだった。
 昼間茂みから聞いていたのは藤原だけだったし、その藤原も佐々木にしか言わなかったのが幸いした。
 ハルヒの能力――願望を実現する能力か、情報を正当化する能力か、はたまた真実を認識する能力か、どれだっていいが――は、今なお健在である。
 元々橘がちょっと遠いところに行くくらいにしか思ってないハルヒだ。こちらから真実を言わない限り、橘が消滅するなんてことはない。
 つまり、俺たちの懸念は文字通り杞憂だったってわけだ。忌々しいことに。
 しかし、人間月日が経てば楽しい生活をも忘れる。
 いくら橘を消滅の危機から救ったとはいえ、転校したこと自身を忘れてしまっては意味が無い。何かの拍子に存在が消えてしまう可能性は残されており、今のままでは少々心もとない。
 だから、橘が遠いところに行くという事実を活かして、ハルヒを焚きつけたのだ。SOS団の世界侵略を考えているハルヒにとってこれほど好都合なものはない。団長の瞳に、メラメラと燃ゆる炎が宿る。
 そして、こうなったハルヒを簡単に止めることなど不可能である。


 こうして、橘京子の消滅疑惑事件は無事幕を下ろすことになった。
 よくよく考えたら、今回も橘自身の不始末で発生した事件だったな。
 やっぱり彼女はトラブルメーカー。俺たちの中で、面倒臭さで右を出るものは無い。
 ふと思う。やっぱりコイツとの縁は切るべきなのだろうか、ってね。
 だが、俺は思い留まった。
 確かにメンドクサイし、空気読まないし、色々トラブルを引き起こしてはいる。
 でも、やっぱり彼女は憎めないやつなんだ。
 行動に裏がないし、潔いほど素直にバカだし、何より俺たちの友情に関しては人一倍アツイ奴だと。 
 佐々木はもちろん、ハルヒだってそれを解っているから(本気で)不機嫌にはならないんだろう。
 精神安定剤と言う意味では同じ超能力者たる古泉も一緒だが、彼はどちらかと言うと裏方でサポーターに徹している。それに対し、橘は表向きで真正面からぶつかっていく存在。
 古泉には悪いが、印象が強いのはどうしても後者の方であろう。
 しかし、橘が転校したら誰があの二人のトランキライザーをやるのかね?
 古泉じゃ力不足ろうしし、朝比奈さんでは精神的に耐えられない。
 長門や九曜なら平気かもしれないが、橘の意志を継ぎそうなダークホース藤原の今後にも期待だ。
 その辺は追々考えることにして。
 その前に、やることがある。
 送迎会を盛り上げ、ハルヒを焚き付け、橘京子の存在を固定しつつ、願わくば早く戻ってくるよう促すことだ。
『転校する』って口走ってしまった以上、なるべくそれは実行しないといけない。『実は嘘でした』って言い訳するのもいいが、そこで『何でそんな嘘ついたのよ』と反論されたらどうしようもない。
 だから転校の事実はそのままにしないといけない。
 そして、俺たちの元に早く帰ってくるには、何かしら上手い理由が必要だ。
 言い方はいろいろ有ると思う。でも、この理由付けは橘京子自身に任せようとおもう。
 彼女が本当に『親友』と成りえる存在ならば、佐々木だけでなくハルヒだって早く戻ってきて欲しいと思うからな。

 俺は天を仰ぎ、視線を遠く遠くの世界に移した。
 真っ青に映えるこの世界から、遠くにあるであろう、別の青い世界へと。

 ――見てるか? あっちの世界の『橘京子』よ。
 俺の――いや、俺たちの世界の『橘京子』も、お前以上に頑張ってくれたぞ。
 きっとお前以上の逸材になってくれるはずだ。
 だから……これからも応援してくれよ。


『期待、してるわ』
 ――爽やかな春の風と共に、『橘京子』の声が聞こえた気がした。

橘京子の憂鬱(エピローグ)に続く
 

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2020年03月12日 09:24