人は危機に陥ったら、とりあえず走馬灯を見るらしい。
そこで今、俺の脳内を駆け回っているのは何かというと、ガキの頃の運動会の一幕だった。
空に向かって疑似拳銃のような物が発砲され、火薬の匂いが鼻をくすぐり、アップテンポで天国と地獄が流れ始める。

野性的本能ってやつなんだろうか。脳が逃げろ、という電波を発信する前に、俺の体は勝手に動いていた。
「待ちなさい!」
どこか目を欄欄とさせて、俺の記憶よりは少し背丈が足りず、代わりに髪が長い――『四年前のハルヒ』が俺を追ってくる。ああ、やっぱり来るんじゃなかった。
俺は通行人の奇異の視線に晒されながら、ハルヒから逃げ惑うべく、必死に足を動かしていた。
さて、どうしてこんな状況になってしまったのかというと、これまた数日前へとトリップしなければなるまい。というか、俺もそこに戻りたい。

 




野生動物に倣って冬眠でもしようかと考えてしまうほど寒い今は、もう二月。
まかり間違って涼宮ハルヒという暴走女に声を掛けて以来、俺の人生は非現実という道を辿る一方だ。
そんな俺のスーパードライな荒んだ心を温和してくれるのは、いつもマイエンジェル、朝比奈さんのお茶であり、俺が夜の自販機にたかるしょうじょうバエのごとく足繁く部室に通うのは、九十パーセントこのお方のおかげと言ってもいい。食料品売り場のアイスコーナーの中に突っ込み、一夜漬けした結果のような冷たい指で湯呑を持ち、なんだかフルーティな香りが漂うそれを一口すする。思わず楽園の中でオクラホマミキサーを踊る天使の姿が見えたね。うーん、パラダイス。
そんな一時の安寧の心をぶち壊すのは決まってハルヒであり、今回も例に漏れずそうだった。未来人で言う規定事項みたいなもんだ。
そういや去年の今頃は、空き缶イタズラで一人を病院送りにしたり、亀を水中へダイブさせたり、挙句の果てには朝比奈さんが誘拐されたりと、いろいろな事があったんだっけ。
大体、未来については朝比奈さん(大)の秘密主義のおかげでこれっぽっちも分からない。
去年の五月頃、俺は朝比奈さんによって胸のホクロの存在を教えられ、朝比奈さんは俺からそれを教えられた。いわゆる鶏が先か、卵が先かってやつだ。古泉なら口元を緩め嬉々として、しなくてもいいのに自分の考えを講釈し、長門は俺がミジンコほどにも理解できそうにない難しい言葉をショートケーキの生クリームのごとくふんだんに並べて説明し、朝比奈さんは「ううん……」とウグイスのように可愛らしく頭を傾げ、ハルヒならそんなのはどうでもいいと卵焼きを作り出しちまう、そんな話題だ。俺はと言うと――早々に考える事を放棄した。俺は早くも文系の道を進む事を決めているため、生憎だがそっち方面はさっぱりだ。物理も分からないのに非物理的な事が分かるはずない。

湯呑を置き、目の前で相変わらずの0円スマイルをその忌々しいほどに整ったツラに張りつかせ、一人詰め将棋する古泉と、隅の方でどこかの仏像のごとく動かない長門と、羽を付けたら今にも飛び立っていってしまいそうな朝比奈さんを交互に見たその時だった。
張り裂けんばかりの音を出しながらドアを開き、何故か不敵に微笑む涼宮ハルヒが現れた。俺が思わずドアに南無阿弥陀仏を唱えていると、ハルヒは喜々と大口を開け、震動で窓ガラスが割れそうな大声を部室に響かせた。
「みんな、再びやつらが来たわ! 定位置について戦闘準備をしなさい!」
既に各々いつもの場所に座っているんだが。
古泉はニッコリと、長門はじーっと、朝比奈さんはオロオロとしていて誰も突っ込む気配がないので渋々俺がしてやる。
「……何が来たって?」
「決まってるじゃない、生徒会よ! あいつらったらまたSOS団を潰す気ね。そうはさせないわよ。その陰謀はあたしがめった叩きにしてやるんだから!」


それからどこかの選挙の演説のように長々と続いたハルヒの言葉を一言でまとめると、こういう事らしい。
『文芸部の継続を維持したいなら、今年もまた機関誌を発行しろ』「望むところよ!」
俺は記憶の底に沈めていたあの恋愛小説の事を思い出し、ピストルで頭を撃ち抜きたい思いに駆られながら、ありったけの思いを込めて古泉を睨みつける。古泉はそんな俺の視線に気づいたのか、ぱちりとウィンクしてみせた。よし、ちょっと表出ろ。
軽くデジャヴを感じつつも、俺たちは今年もハルヒが即興で作ったクジを引く事となった。引いた順に朝比奈さんはポエム、古泉はサスペンス、長門はファンタジー。俺はというと、
「オモシロ実体験?」
正直ほっとした。前の恋愛小説なんかよりも百万倍マシだ。つまりは、今日はあーしてこうして遊んだ楽しかった、めでたしめでたしでいいんだろ?
「ふうん、なかなか興味深い結果ね。みんな頑張るのよ! 特にキョン! あんたはどうせ、あの日谷口とかとなんとかしてなんたらで面白かったとか書く気でしょ。そんなの渡された暁には、くしゃくしゃにした後、紙ヒコーキにして飛ばしてやるから。もっと面白い事を書くのよ。書いてて楽しくないものは、読む方だって楽しくないんだからね」
思わず一歩引き下がってしまったもの仕方ないね。

「ところで、面白い事ってどんなのだ?」
「そうね……例えば宇宙人が突然自分の部屋にやって来た! とか、UFOに連れ去られたとか!」
これを本気で言ってるんだからな、こいつは。

 


それからのハルヒは、これから野ウサギを捕まえにいくハイエナのような目付きでどこかに走り去っていた。大方隣のコンピ研や谷口や国木田やらに無理やり原稿用紙を渡しに行くんだろう。ご愁傷様。
朝比奈さんは前回と同じく、目をぐるぐると回しながらえんぴつ片手に原稿用紙と向かい合っていらっしゃる。長門はパソコンの前で暫しフリーズモードだ。俺はというと、真っ白なページに思わず溜息を零しながら古泉と雑談を交わしていた。
「今回もお前の仕業だな」
「ええ、そうです。そろそろその時期かと思いましてね」
全く、ハルヒのご機嫌取りは結構だが俺まで巻き込むのは止めていただきたい。蝉が虫取少年逹に捕まるために殻から這い出てきたんじゃないように、俺だって他方向から振り回されるために「おぎゃあ」と泣き声をあげた訳じゃないんだぞ。
「そういうあなたも少し楽しんでいるように見えますが」
にやりと古泉の歯が光る。こんな事してないでさっさとマクドナルドにでも面接しに行けばいい。
「馬鹿言え」
「おや、僕の見間違いでしたか。失敬」
古泉はそれから何故か声のボリュームを落とし、
「涼宮さんもここ最近は非常に安定しています。これは断言してもいいでしょう。現に、閉鎖空間は発生の兆しさえ見せていません。僕が能力に目覚めた頃――もう四年前ですね――は、寝る間もない位の発生頻度だったんですがね」
苦笑気味に古泉。つられてなぜか俺も小声になる。
「そんなに酷かったのか」
「ええ。一度は神人に殴り殺される所でした。その時は何故か神人の動きが止まってくれたおかげで事無きを得ましたが……」
古泉はそこまで言うと、声のボリュームを戻し、ニヤケ成分たっぷりの面で言葉を重ねた。
「僕達『機関』の総意は、このまま世界が安定し、なるべく穏やかに涼宮さんの能力が消失する事です。
さて、締切日も決して遠くはありません。今は目前の課題に取りかかる事にしましょうか」
なんとなく上手く丸めこまれた気がする。今度の賭けはハイレートにしてやる、と目論みながら、俺は軽快に動く古泉の指を睨んだ。




数日後。
結局俺は一文字も打てないまま、団長様のお叱りを受ける事となった。
「あんたねえ、どれだけつまんない人生送ってるのよ。火星人と出会ったとか、何か一つでも書ける事はないの!?」
お前の後ろで沈黙を守ってるそいつは宇宙人で、慌てふためいてるそのお方は未来人で、ニヤけてるあいつは超能力者だぞ。と声を大にして言ってやりたかったが、すんでの所で飲み込んだ。
「ねえな」
「はぁ? こんの馬鹿! だいたいね、あんたにはやる気が感じられないのよ。もっと勢いを見せなさい。真冬に防波堤から飛び込むくらいの勢いがないとダメよ!」
一人で飛び込んでろ。
「そういや寒中水泳ってやってないわね。今から予定組んどいたほうがいいかしら?」
それはしなくていい。


それからハルヒは、赤点のテストを持ち帰った日のお袋のように長々と捲し立て、「分かった?」と腕を組んだ。正直に言えば俺の耳は早々に役割放棄していたのだが、そんな事は言わないでおく。虫ケラほどしかない俺の頭でも、火に飛び込めばどうなるかぐらいは分かるのさ。

「まったく、そんな態度だったら今年はあげ――」
ハルヒは今にも何かを言いかけていた口を、ハッと閉ざした。
「ん? なんか言ったか?」
「何でもないわよ。それよりこの部室にもコピー機が欲しいわね。わざわざ印刷室に行くのも面倒だし。どっかにいらないのが落ちてないかしら」
隅っこで、朝比奈さんがライオンに睨まれた子ウサギのごとく「ひぇっ」と震えるのが見えた。
『パンがないならケーキを食べればいいじゃない』と昔の誰かは言ったが、こいつは『パンがないならどっかから奪えばいいじゃない』と平然と言ってのけるような奴なのだ。そしてハルヒによって投げられた、被害の矢が刺さるのは大抵俺及び朝比奈さんというプロセスになっているらしい。
畜生、何が人類皆平等だ。と俺は悪態混じりの溜め息をついた。

 



翌日。ハルヒと長門と朝比奈さんという女子三人組は団活を休んだ。何を企んでいるのかは分からないが、とにかく急用があるらしい。全く、何が悲しくて男二人で向き合わなければならんのか。
ちらりと古泉を見遣ると、相変わらず余裕綽綽と軽快なリズムでキーボードを叩いている。こいつは良いよな、書くネタがあるんだから。ミステリーもサスペンスも似たようなもんだ。っていうか違いが分からん。
「どうやら随分とお悩みのようですね」
今日の晩飯について考えだしたところで、ニヤケマンがいつも通りニヤケた。
自分で淹れた美味しさの欠片もないお茶を啜るようにずずずと飲み、俺は答える。
「ああ。これっぽっちも手が進まない」
大体俺は少し前までは平凡の極みの人生だったんだ。取り立てて面白い事なんざ蟻の足先程にも思いつかん。こんなものを書くくらいなら、俺は一面タワシの的にダーツを投げ続ける方を選択するね。
「そうでしょうか?」と古泉。
「僕から言わせてもらえば、あなたはとても魅力的な人生を送られているように見えますが」
「ねえよ。なんならお前が書いてくれ。お前が超能力者になったあらましでも書いたらあいつは狂喜乱舞だろうよ」
都合の悪いことは聞こえないというハルヒの耳が伝染したのか、古泉は俺の言葉をサラリと受け流し、
「以前にも言いましたが、あなたがそのクジを引いたのは――」
「ハルヒがそれを望んだからってか?」
もうそれは聞き飽きたぞ。俺の耳にタコのイヤリングが出来たらどうしてくれる。

古泉はげんなりとした俺の顔を一瞥し、どこか楽しそうに言葉を続けた。
「その通りです。涼宮さんは無意識に望んだのでしょう。あなたの過去にどんな事があったのかを知りたい、とね」
「あるわけないだろ、そんな事」
「さあ、どうでしょうか。どちらにせよ、それを証明できる論拠なんてどこにもありませんがね」
そこまで言って満足したのか、古泉はふふ、と笑うと再びパソコンに向かい始めた。

 



そのまた翌日――と、些か展開が早いのは、この数日で特筆して書くべきところなんてどこにもないからだ。
相変わらず朝比奈さんは書いては消してを繰り返していたし、長門はたまにパチパチとキーボードに触れる程度で、古泉は順風満帆。ハルヒは忙しく、それでも楽しげにあちらこちらに飛び回っていた。ついでに言っておくと俺の心の飛行機はとっくに墜落済みだ。

冬の夜は長い。すっかり日も落ち、さて帰ろうかと思った俺と古泉をハルヒ達三人が引きとめた。そして三者は各々鞄から丁寧にラッピングされた四角い箱を取り出し、「はい」と差し出す。
「なんだ?」と俺。そんな俺に、どこか憐みを込めた四人の視線が突き刺さる。思わずたじろいた俺に、古泉がはだかの王様を見る隣国の
兵士のように眉間に皺を寄せながら問うた。
「失礼ですが、本日の日付をお忘れではないですよね?」
「何って、二月十四日だろ――あ、」
またしても俺はその日を忘却していたらしい。そうだ、今日はバレンタインじゃないか。
「ったく、どこの頭を殴ってやろうかしらと思ったけど、やっと思い出したみたいね。本当は月のクレーターにでも埋めに行って探させてあげたかったんだけど、今はそんな時間がなかったのよね。だからそれはまたの機会にするわ。仕方なく手渡しになったけど、昨日三人で頑張って作ったんだから。ふふん、ありがたく受け取りなさい」
「ふふ、今回もチョコレートケーキです。頑張ったんですよぉ」
「……作った」
ハルヒはどこかぶっきらぼうに、朝比奈さんは包み込むように丁寧に、長門はコンビニのマニュアルのように俺の手にその箱を渡してくれた。
「これはこれは。皆さんありがとう御座います」
「ありがとよ」
自然と頬が緩む。そりゃあそうさ。ミシュランも迷わず三ツ星を出してしまいそうな容姿を持つ三人にチョコレートケーキなんか貰っちまったんだからな。天にも昇る思いだ。
ハルヒがどこか顔を赤らめながらケーキについての詳細を話しているのを聞きながらしばらく幸福に浸っていると、ふと、朝比奈さんの箱に付けられていた一枚のカードに気づいた。
『みんなが帰ったあと残っていてください。みくる』
いそいそとペンを走らせる朝比奈さんの姿が目に浮かび、思わず名前の横に書いてあるハートマークにキスしてしまいそうなほど魅力的な手紙だった。
すかさず朝比奈さんに視線を送ると、朝比奈さんは人差し指を唇にあてウインクしてみせた。うーん、トロピカル。
なんとなーく、その後ろで朝比奈さん(大)が微笑みながら手を振っているような気がしたが、なんとか俺はその幻覚を振りはらった。バレンタインの団活終了後に二人っきりだ。少しぐらい期待してもいいだろ?

そしてその期待は、数分後にガラガラと音を立て崩れ去った。

 

 

 

 


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