既に日は落ち、室内とはいえ相変わらずの寒さだったが、今この時はどんなシチュエーションも打ち砕く事が出来そうだ。伝説の桜の木の下も、夕陽の差す砂浜も敵なんかじゃない。なんせ今日はバレンタインデー、俺の傍には、朝比奈さんという羽を忘れた天使がいらっしゃるのだからな。
「えっと、何でしょうかねえ?」
俺の言葉に朝比奈さんは少し俯き、「あのね……」といじらしく細い指をからめ合わせた。そんな仕草さえ、まるで何度もリテイクされたどこかの映画からコピーアンドペーストしたほどの完成度だ。
脳がアドレナリンだかドーパミンだかグッスミンだかを大量分泌する。鼓動が早歩きした後、全速力で走り始めた。待て、落ち着くんだ。こういう時どうすりゃいいんだっけ。平家物語でも暗唱するんだったか? 祇園精舎のー鐘の声……。
しばらく、まるでピアノの発表会本番の三分前のように張り詰めたような面持ちをしていた朝比奈さんは、やがて決心したかのように顔をあげると、ソプラノの声を若干上擦らせながら言い放った。
「お願いです! あっ、あたしと四年前にいってくだしゃいっ!」
俺の頭の中を、バッハのトッカータとフーガが高らかに鳴り響く。茫然とした頭の中を木枯らしが吹き抜けた。
それまでに膨らみ続けた期待という名の風船は、張り裂ける直前にどこかからガビョウが刺さっちまったらしい。ぷしゅうと無残にしぼんでいく。
見るからに肩を落とした俺を見て、朝比奈さんは瞳を潤ませながら哀願した。
「あっ、あの、お願いですっ。あたしと一緒に来てください! キョンくんじゃないと、うう、ふええ……」
可愛らしいお顔が、小学生のような幼さを持ちあわせながら歪んでいく。磨き抜かれたトパーズのように輝く瞳から、その雫のような涙がいまにも零れそうだ。
俺、一発KO。今なら四年前だろうが縄文時代だろうが付いていける自信があるね。
「分かりました。行きますから、あの、泣きやんで……」
「ほ、ほんとっ? うう、キョンくーん、ありがとうぅぅ」
桃の花を擬人化するならこんな感じに微笑むんだろうね。
小さな肩を小刻みに震わせ、ひっく、と涙を拭うその姿は、全人類の庇護欲を掻き立てるほどの麗しさだ。追加オプションで抱きついてもらえるのかと思い、とりあえず胸を張ってみたのだが、その必要はなかったらしい。俺はひとまず朝比奈さんを落ち着かせ、続いて自分の気持ちを落ち着かせた。
「それで、今回は何しにいけばいいんでしょうか?」
「えっと、それが、あたしもあんまり詳しくは教えてもらえなくて……。とりあえず四年前に行けってことしか……」
未来人もこの季節も、よほど俺に怨みでもあるのだろうか。俺を便利な雑用だと思っているのはハルヒだけでいい。お釣りの予知があるほど充分だ。そんな事を思いながら、俺はさっき三人にもらったケーキを冷蔵庫に入れ(溶ける心配はないだろうが念のためだ。誰かに盗られるわけにもいかないからな)、去年の七夕のように椅子に座った。
「それじゃあ行きますね。目を閉じて、リラックスして」
いつもの魔法の言葉が耳をくすぐる。まったく、朝比奈さんの甘い吐息一つで〇年前に着きました。なんて、荒む一方の俺の心に優しいもんだな。いいぞその優しさ。
ついでに、このシートベルト無しエアバック無しのカーチェイスみたいな浮遊感とめまいもなくしてくれたら最高なんだがな。





「キョンくん、起きてくださぁい」
この感覚ももう何回目だっけ――そんな事を頭の片隅で考えながら、同時に目を開く。まず視界に入ったのは、九十度傾いた朝比奈さんの可愛らしい尊顔だった。再び膝枕にお世話になっていたらしい。仄かなぬくもりを忘れる事のないようゆっくり起き上がり、俺は辺りを見回した。ちなみに現在地は変わり者のメッカであるいつものベンチだ。
「今はいつですか?」
「えっと、四年前の今日の……三時ぴったりです」
電波時計に視線を移し、朝比奈さんが答える。なんとなーく、後ろの方に妙齢の美女、朝比奈さん(大)が隠れているんじゃないかと思い咄嗟に振り返ってみたが、枯れ木を冷たい風が飛ばすのみだった。今回は朝比奈さん(大)のサービスは無さそうだ。
「それで、俺達はどこに行けばいいんでしょうか?」
「涼宮さんのいる東中学校にって……」
分かりきってはいたが、またハルヒか。お前は変なプロフィールを持つ奴らに随分と愛されてるんだな。
何をするのかはさっぱり分からないが、とりあえず俺達は命令通り東中へと向かい始めた。歩幅の小さい朝比奈さんがまるでハムスターのようにちょこまかと歩き、たまに小さく肩がぶつかり恥じらうその姿は、俺の心をむずむずとさせる。その可愛さもあってか、朝比奈さんは道行く野郎共の視線を一人占めしていて、その隣を歩く俺にいくつかの憎悪の視線が振りかかったがオールオッケーだ。むしろ誇らしいね。チュウまで許してくれているんだから、この期間限定の恋人ごっこだってきっと許されるだろう。

そんな束の間の夢は本当に夢のような速さで過ぎ去り、俺達はハルヒのいる東中学校へと到着した。
ちょうど帰宅部のやつらがぞろぞろと校門から出始めている。ハルヒは何か部活をやってるんだろうか? いや、おそらく体験を一通りこなしただけだろう。
ちらほらとクラスの元東中の奴ららしき人影も見え始め、その中には谷口もいた。ああ、そういやこいつも東中出身だったんだっけ。
相変わらずのアホ面を眺めていると、ふと気がついた。そういや、この『四年前のハルヒ』は俺――ジョン・スミスの事を知っているんだよな。入学式の時のハルヒは特に俺を覚えているような素振りは見せなかったが、『こっちのハルヒ』はまだ鮮明とはいかなくても、記憶には新しいはずである。おそらく『こっちのハルヒ』が俺達の姿を見たら、すぐにとっちめて話を吐かせるだろう。そしてそんな怪しいやつを、俺の時間平面のハルヒは忘れるはずがないわけで。
……なんとなく嫌な予感がしてきたのは気のせいだろうか。

「あ、キョンくん! 涼宮さんですっ」
いた。
世間はバレンタインだというのに、いかにも我関せずといった顔で歩いてくるそいつは、間違いなく涼宮ハルヒだった。閉鎖空間を五つぐらいは出してそうな不機嫌さで、それでも例えオゾン層がペラペラの紙みたいになっちまっても消えそうにない、何かに挑戦するような目付きは健在だったが。
ふと頭の中を、キシリトールガムのCMにでも出るつもりなのか、やたらと白い歯を輝かせた数日前の古泉の台詞がよぎる。――僕が能力に目覚めた頃は、寝る間もない位の発生頻度だったんですがね――こりゃあ寝る間どころか、閉鎖空間から出れそうにもないな。
ハルヒが校門付近に立つ俺達を見つけて、何かを思い出すように口を開けたのと、俺が後ろに向いたのが同時だった。目に焼き付けるほど俺の姿を見られたわけじゃないだろうが、とにかくやばい。
俺が全速力で走り始めたコンマ二秒後、背中で声が響いた。
「待ちなさい!」



そこで冒頭に戻るってわけである。
ハルヒは「ひぇえ」と蹲る朝比奈さんに見向きもせず、それどころか「ちょっとこれ持ってて!」と鞄を押しつけ、一直線に俺を追いかけ始めた。対する俺は、とにかく捕まらないように逃げる。再び数日前の古泉のセリフが壊れたラジカセのように何度もリピートし、ぼんやりと今回の任務の意味が分かってきた。つまり、絶対に捕まらないようにハルヒと鬼ごっこを続けりゃいいんだ。
泣いてもいいかな、俺。畜生、やっぱり来るんじゃなかった。

五十メートルのタイムを図る時よりも全力を出し、ハルヒから逃げ惑う。警察官から追われる指名手配犯の気持ちがよく分かるね。まかり間違って誰かに通報されない事を祈るのみだ。翌日の新聞の三面に載るような事は是非ごめん被りたい。
果物や、焼きたてのパンの香ばしい匂いが鼻をくすぐる商店街を駆け抜け、階段に転びそうになりながらも歩道橋を走る。
「待てえー!」
すげえ楽しそうな声だ。おそらくハルヒは今、欲しいおもちゃを買ってもらった幼稚園児のごとく目を輝かせているんだろう。こっちは泣きそうだってのに。
「くっそっ!」
さっきまでは建物を破壊しまわっていた神人達も、今は閉鎖空間内でバトンリレーでもしている頃だろう。よかったなぁ、古泉よ。
少しぬかるむ川の畔を走り、公園の錆びれたブランコをぐるり一周し、そこで遊ぶ幼稚園児プラス保護者達のいかにも危ない人達を見る視線を一浴びしてから、また表通りを駆け抜ける。
すると向こうから、――ああ、なんか見たことあるような、卒アルの俺の欄にもよく似たふてぶてしい顔が載せられてるような――つまり、四年前の『俺』が、こちらもハルヒとは違うベクルトで、街中を彩る『Happy Valentine』の看板に我関せずといった面持ちで歩いてきた。ハルヒに追われながら、無駄だとは思いつつもSOS信号を出す俺を、この時間平面の『俺』は、いかにも不審者を見る目つきで俺とハルヒを凝視してきやがった。なんて可愛げのない奴なんだ。
いいか、少し先の時代からの俺のアドバイスだ。入学式の日、どれだけ血迷ったって後ろの席の不機嫌女に声を掛けるような真似はするんじゃないぞ。

 


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