「それで、どうしたんですか、そのお面?」
「いや、まあ……」どんな言い訳をしようかと必死で考えた結果、「顔を火傷したんだ。その……花火をやっててな」
「えっ!」と大きく驚いた。「大丈夫ですかっ!? 早く病院に行ったほうが」
「いやいや、今日したわけじゃないんだ。んと……先週の休みあたりだ。ちょっとやんちゃな方法で遊んでたら火の粉が直撃したんだ。それほど重傷でもないんだけど、年頃の女の子が見せるような顔じゃなくなったわけだ。だからさっきそこの、」
 橋の向こうに見える会場、その一角を指差して
「あそこの出店で買ってきたんだ。と言うわけで誠に申し訳ないが、今日一日はお面を被らせてもらいたい」
「…………」
「…………」
 一瞬のような永遠のような沈黙が訪れた。彼女は、唇を閉ざしたまま再びキッと見据えている。俺もお面越しに彼女の顔をじっと見据え対抗する。
 だが、どう考えても部が悪い。これ以上ない程都合の良い理由だから仕方ない。優秀な頭脳を持つ少女に果たして通用するかと問われれば甚だ疑問である。
 しかし、
「そうでしたか。お大事にしてください」
 俺の予想を裏切り、拍子抜けするくらいあっさり納得しやがった。
「マジか?」
「はい、マジです」
 いや、そこまで断言されるとそれはそれでどうかと思うんだが。
「あなたがそう仰るのあれば、そうなんでしょう。信じます。それにわたしの望みはあなたに会うことであって、あなたのお顔を拝見することではありませんでした。せっかくの願いが叶ったのに高望みをしては本末転倒と言うものです」
 凄い罪悪感に苛まれた。
「あるいは、」と右の人差し指をピコリと伸ばし、「顔を見せられたくない、何かしらの理由があるのかもしれませんね。だとすればわたしがここで聞くわけには行きません。敢えて黙認しようと思います。ただ……」
 ただ?
「お話ししたいことは山ほどあります。聞いてもらいますよ」
 クスッと笑う彼女の顔は、紛れもなく「彼女」の顔だった。
 決して熱心な宗教家というわけではないが、彼女に大きな負担を課した十字架の責任を感じた俺は自然と言葉を口にした。
「ああ。分かったよ」、と。


 こんな場所でお話をするのも何ですから場所を変えてお話しましょうという彼女の提案によって、彼女先導の元七夕会場に設けられた休憩スペースでじっくりと話を聞くことになった。
 せっかく祭りに着たんだから出店でも回ってみたらどうだとの俺の提案はやんわり断られた。曰く、「どこも毎年同じようなことしかやっていませんしね」とのことだ。
「あ、でも。一つだけ。買ってもらいたいものがあります」
 何だ? ヨーヨーか? リンゴ飴か?
「いいえ。その、」俺の顔を指差し、「お面です」
 ぎく。
「同じものが、欲しいんです」
「そ、そうか……」
 と適当に相槌を打って口篭もった。

 さて困った。
 何故困ったかと言えば別段声を張り上げて言う必要もないと思うが、それだけでは説明不足と野次を飛ばされそうなので簡単に説明しよう。
 理由は単純明快、俺はこのお面の売り場を知らないのである。
 このお面、彼女には屋台で購入したと言ったが実際は嘘。本当は長門からプレゼントされたものである。これは先に説明したよな。つまりこれから三年後の夏祭りで手に入れたものであって、この時間の七夕祭りで用意したものではない。だからこの時間の夏祭りでこれと同様のお面が売っているか知っているはずも無いし、更に言うならば店が存在しているかどうかも疑わしい。
 ところが。
 少なくとも彼女の中では、俺は「少し前に屋台でお面を購入した」ことになっているから、店もお面も存在していないといけない。そして俺は「お面を購入した屋台」を、現実はどうであれ「知っていなければいけない」のだ。
「忘れた」という言い訳は通用しない。そんな短時間の記憶をなくすなど健常人であれば在り得ない事だ。在り得ないから「知らない」とは言えない。やっぱり「知っていなければいけない」ということになる。
 やれやれ、ここに来て嘘を吐いたツケが回ってきたようだ。自分のせいとはいえ、嘘八百の出任せがこんな風に発展するとは……口は災いの元、自らの首を絞めるとはよく言ったものだ。
 だがそんなことを懇切丁寧に弁明するわけにはいかない。苦肉の策ではあるが、一応の言い訳を試みることにする。
「急いで買ったからどの店かきちんと覚えてないし、適当に買った奴だから余ってるかどうか……」
「無ければ別のお面でも構いません。とにかくわたしもお面をつけたいんです。お願いです、その店に案内してください」
 悲痛な感情を露にして申したてた。そこまでお面にこだわる理由は一体……。
「個人を潜めて話に明け暮れると言うのも、また風流かと思いまして」
 そうかい、「わかった。なら案内してやる」
 彼女の真意は不明だが、俺もお面で隠し事をしている以上、問詰めるのには気が引けた。だからそれ以上は何も言わず、祭り会場で売られているお面を買いに歩き出した。
 俺の指差した方向にお面を売っている屋台があってくれ、と願いながら。


 杞憂。
 昔々、杞と言う国のある人が「天が落ちてきたらどうするんだ、おちおち眠れやしない」と始終心配していたことから生まれた故事で、心配しすぎだとか取越し苦労と言う意味である。ちょっと前の古典の授業で習った。
 何でそんなことを言い出したかというと、俺が今正に杞憂を感じたからである。
 お面を買った店といえば、元の時間で長門に買ってやった店を思い出した俺はそこになら置いてあるだろうと、過去の記憶を頼りにその場所へと向かったわけだ。
 そして、俺の記憶をたがえない場所にあったんだ。お面を売る出店が。しかも俺が今つけているお面と同じ、悪の怪獣を模したものが色違い含め大量に置かれているではないか。何と言うご都合主義だろうか。
 これで分かってくれただろうか? 杞憂と言う言葉の意味が。
 或いは、長門がそこまで見据えてこのお面を購入したのかもしれないがな。帰ったら長門を崇めることにしよう。
 当の少女は色違いの怪獣のお面を取り、「これを買ってください」と言って俺に手渡してきた。俺も抗う事はせず黙ってそのお面を購入する。
「これでお揃いですね」
 面を被った少女が皮肉とも談笑とも吐かぬ口調で呟いた。
 こうしてお揃いのお面とお揃いの浴衣を着た意味不明のカップル一丁上がりとなった俺達はお面屋のおっちゃんの失笑の的となり、俺としてはひたすら恥ずかしくあったのだが当の彼女は別段気にした様子も無く傍でクツクツと笑い声を上げていた。
 藤原風に言えばこれも規定事項なんだ……ろうかね?

 しかし奇異な事件はこれだけでは終わらなかった。
 一頻り笑い終えた後、おっちゃんは店舗から身を乗り出して、
「こちとら長年屋台でお面を売ってっが、あんさん達みたいな仲の良い兄妹は始めてじゃけえ。お面も浴衣もお揃いじゃきに」
 どこの地方の方言ともつかぬ濁声が俺達の鼓膜に響き渡った。
「いやなに、わしもそのくらい歳の離れた妹がいてな。そりゃあぶち可愛かったとよ。お兄ちゃんお兄ちゃんとわしに付きまとってな。ああ、懐かしいけえのう…………あの七夕の時もそうだったけな……そうか、あいつも…………今でも…………うんうん……」
 おっちゃんは何かを偲ぶようにしみじみと断片化された単語を紡いだ。まる童心に帰ったかのような、朗らかな表情だ。
 白髪が混じり始めた店主の妹だから今となってはナイスミドルとしか言えないほど大人の魅力たっぷりな貴婦人へと成長しているだろうが、彼の中ではどれだけ歳を経ても「お兄ちゃん」に間違いないだろう。兄弟姉妹とはそう言う絆で結ばれているものなのだ。
「嬢ちゃんよ、お兄ちゃんは好きか?」
 彼女は何も答えなかった。
「まさか嫌いってことはないっちゃろ?」
 やはり答えない。
「まさか兄貴にいじめられているとかそんな事はないじゃろな?」
 一応断っておくが、それはない。絶対にない。
 大方、身を乗り出して顔を近づけて喋っているおっちゃんの顔が怖くて声を出せないだけだと思うぜ。
「おお? そおけえ。すまねえな。何にせよ、世界に二人といない大事なお兄ちゃんだ。甘えられる時には甘えとけって。それが嬢ちゃんのためだ、わかったかい?」
「…………」とひたすら三点リーダを紡ぎつづける彼女。だったのだが――
「……甘えられずに会えなくなる時ほど、悲しいものは無いぜ」
「……あ……」
 ――屋台のおっちゃんの、沈痛且つ悲痛な声に、思わず声を漏らしてしまった。
「兄ちゃんも、きっちり頼んだぜ」
 ……あ、はい。
 思わず俺も頷いてしまった。あの顔は一体なんだったんだろうか。過去の過ちを悔いているような、そんな感じの表情だったが……少しその辺のエピソードも聞いてみたいが、余計な詮索はしない方がいいだろうな。
「……っと、いけねえ。辛気臭い話になっちまったけえ。許してけろ」
 あ、いえ。お構いなく。
「すまんすまん、お詫びと言っちゃ何だが……よっこらしょ」
 席を立ち、奥のダンボールを取り出した。「これは何ですか?」
「今日の祭りに使うはずだった短冊さ。これで好きな願いを書いてくれ。見てくれは悪いが短冊に間違いはないけえね」
 おっちゃんが言うには、本来事務局側に手渡すはずだったものだが、印刷屋のミスで商工会議所を唄ったラベルが文字化けし、大乗仏教のお経のような二流タレントのサインのような、意味不明の文字が印刷されてしまったのだと言う。もちろんこれを配るわけにも行かず処理に困っていたそうだ。
「あんさん達ならきっと使ってくれるはずだ。是非受け取ってくれ」
 とは言っても、一枚や二枚やともかく、五色合せて百枚以上はあるぜ。誰がこんなに願い事を書くというんだ? いくら俗物と言ってもこの短冊全て消費するほど欲深くはないぞ俺は。
 おっちゃんには申し訳ないが、ここは一つ、
「頂きましょう」
 そうそう、ここは一つ、頂いておくのが吉だぜ……って、
「ええ?」
「ありがとうございます」
「おう、嬢ちゃん、すまなかったな、怖い顔して」
「いいえ。心が清らかだってわかったから。いいんです」
「くうー、やっぱり優しい嬢ちゃんだ。おっちゃん嬉しくて涙が出るぜ」
 例えではなく本気で泣き出した。
(おいおい、どうすんだよ、こんなに大量に貰っても処理に困るだけだぞ?)
(でも、何かの役に立つかも知れません。貰っておいて損は無いと思います)
 そうか……? 損しか無いような気がするが……
(それに、困っているようでしたし、わたしを凄く慕ってくれてますし……)
 まさか情が移ったのではないだろうな?
(そう……かもしれません。ですけど、事実です。そのお礼というのはおこがましいかもしれませんが、この短冊を貰うべきだと思うんです。お願いします)
 ……はいはい、わかりました。
 やれやれと首を横に振りながら、彼女の言うとおりダンボールを手にした。正直俺は必要なかったのだが、彼女が欲しいというのであれば俺はそれを断る術を持っていない。
 彼女といえば何故だか嬉しそうにおっちゃんに何度も手を振り、名残惜しそうにその場を立ち去った。
 手元に残ったのは用途不明のお面と短冊。
 一体何の役に立つんだろうな、と心の中で思いつつ。


 とまあ些細なハプニングはあったものの、その後は取り立ててイレギュラー事象も起こりえず、八割方埋まっている休憩スペースを強引に確保した俺は、彼女のお望みであるお話とやらを堪能する作業に専念した。
 飲み物を片手に、もう一方をオーケストラの指揮者のように動かす彼女のトークショーは留まることを知らなかった。
 学校のこと、知人関係のこと、塾のこと、最近読んだ本のこと、世界情勢における自身の見解などなど……およそどうでもいいことから俺も知っている中学校の七不思議まで、ありとあらゆることに着手した。水を得た魚と言う故事は、まさしく今の彼女のためにあるような言葉だ。
 俺はと言えばひたすら聞き手に回り、たまに相槌を打ったり、たまに聞き返したり、僅少ながらも意見を否定してみたりして、どのような話が聞けるか内心わくわくしながらも彼女の言葉に耳を傾けていた。
 彼女は彼女で俺の反応にいちいち応対し、様々な比喩や推論を交えながら詳細に語ってくれた。面倒くさそうな表情を取りつつも、そう切り替えして欲しいかのような振舞う彼女の言い回しが印象的だった。
 安心したよ。この一年で彼女がどうなるか俺にとっては未知の領域に差し掛かっていたのだが、俺が望む彼女へと成長してくれて本当に助かった。
 もしあの時彼女の心を救わなければ、例え同じクラスになったところで印象の薄い一女子生徒としか捉えなかっただろうし、博識な知識もご高説賜ることも無かっただろう。
 これでよかったんだ。
 結果として宇宙人未来人異世界人超能力者と合間見えて世界を混沌の渦に引き込まれたとしても、彼女が彼女の生きる術を見出せたのだから俺は決して間違ったことをしたわけじゃないんだ。
 七夕の時に引き金になった地上絵も、地面に釘を刺して缶を立てた悪戯も、朝倉に刺されて致命傷を負った時も、皆それぞれ意味を成している。
 だから、例え既定事項じゃなかったとしても、彼女の心の成長の支えが出来たことには大満足だ。
 だが、これからは……
「……聞いてますか?」
 ん? すまない、ちょっとボーッとしてた。
「ちゃんと聞いてくださいね。端にも棒にもかからない劣悪な噂話ですが、こう言った手の話が広まるのは人が噂好きであることと、話の一部に真実が混じっていることから信憑性を増しているんです」
 さて、彼女は一体何の話をしていたのだろうかね。
「東中って、ご存知ですか?」
 ご存知も何も、はた迷惑なプッツン女を輩出したことで全校的に有名になってるよ、俺の高校では。
「去年の今ごろ、東中の校庭にミステリーサークルともナスカの地上絵ともつかぬ幾何学模様が描かれたそうなんです」
 ぶっ!
「どうしました?」
 ちょっとむせただけだ。気にするな。
「そうですか。ならお話の続きでですが、結局その悪戯書きを行ったのは東中のある生徒の犯行だと判明したんです」
 余所の中学の話なのに、何故そこまで詳しく知ってるのだろうか? 試しに聞いてみることにした。
「何故って……新聞の地方欄に載っていましたよ。ご存じなかったのですか?」
 そういえばニュースになったとかならなかったとか会話した記憶があるな、昔。
「詳細は一緒の塾に通っている東中の知り合いから聞いたんですけど」と注釈した後「その生徒は下校前に石灰やラインマーカー、それに校門の鍵を用意していたようですし、計画的犯行だったのでしょう。ただ、おかしいと思いませんか?」
「何がだ?」
「一生徒が一晩の間で地上絵を完成させたことに、です。円や正三角形を地上に大きく描画するのは高度な知識や測量機器が無い限り困難だと思われます。もちろん単純な相似関係を用いて図面から掘り起こすのも可能ですが、それにしても正しく距離を測る必要があります。つまり、一介の中学生が特別なツールも使わずラインマーカー一つで描き上げたという話は、余りにも四方山話が過ぎている、ってことです。彼女が一人で書いたというのは、恐らく嘘。真相は別のところにあるのでしょう。これは想像ですが、その幾何学模様を描いたのは、生徒以外の別の人だったと思うんです。そして生徒はその現場をただ見ていただけに過ぎない。その別の人と言うのは……」
 彼女のお面がチラリとこちらに傾いた。
「さて、誰なんでしょうね。宇宙人かもしれないですし、超能力者かもしれない。普通の人間と言う可能性もありますが。しかしその人が何者であろうとも些末な問題に過ぎません。ここで重要なのは、東中の生徒に協力した人物がいるという事実のみです。一体何のために彼女の前に現れ、彼女を支えたのか。支える必要があったのか、或いは結果として支えることになったのか……そこまでは分かりませんが」
「ちょっと待ってくれ。すまないがそれはお前の憶測に過ぎないぞ。途中から「これは想像ですが」と断ったじゃないか。本当にそんな人がいたというのか?」
「ええ、わかっています。もちろん自分の想像でのお話ですから。ただ……」
 表情の読み取ることが出来ないお面から、優しくも悲しそうな声が響いた。
「彼女は色々と悩んでいた。そんな気がしてなりません。何に悩んでいたかは知る由もありませんが、その悩みに対する鬱憤、もしくは解答としてそのような珍事に及んだんじゃないかと。そう考えると納得がいきます。だって」
 だって……何だ?
「だって、わたしと全く一緒なんですもの」
「え?」
「心に隙間を作った彼女を救うべく、どこかの誰かさんが彼女の悩みや要望をを聞いてあげた。ほら、去年のわたしとそっくり」
 心にズキンと来るものがあったね。彼女の言う事は全部が正しいわけじゃないが、的を射た発言であるのも確かだ。偶然にしろ必然にしろ、去年、中学生ハルヒに力を貸したことは事実であり、同時に別の俺が彼女を支えたのもまた事実だからである。
「それ以降、彼女の噂話を聞いた事はありません。彼女の心が満たされたのか、単にナリを潜めているだけかは分かりませんが。少なくとも、彼女にとってなにかしらの転機となったのでしょう。これについてもわたしと同じです」
 彼女は突然立ち上がり、両手を夜空の彼方まで伸ばした。
「去年、あなたはわたしが強くなるよう願ってくれましたね。どこまで期待に添えることが出来たか分かりませんが、少なくとも人生に希望を見出せないということはなくなりました」
 そしてとある二つの星――牽牛星と織女星を握り締めるような動作をして、
「彼女の心も、救われると良いですね」
 天の川に燦々と輝くその星に願いをかけていた。


 そんなこんなで七夕祭りの時間はあっという間に過ぎ、今年も最後のイベントである短冊に願い事を書いて笹に貼り付けるイベントが始まった。
 去年(くどいようだが、俺にとっては少し前のことだ)は数少ない俺の小遣いから捻出して短冊に書き込んだが(それも結局笹の葉に括り付けなかったけどな)、今回はお面屋のおっちゃんに貰った大量の短冊がある。
 これだけあれば一生分の短冊に困らないね。そもそもここまで願い事があるほど俺は貪欲じゃない。これもしつこいようだが断っておきたい。
「去年はやれなかったし、今年こそはちゃんとやろうぜ」
「…………」
 何故か口篭もる。「どうしたんだ?」
「いえ、今年は遠慮しようと考えたんです」
 遠慮なんかする必要はないさ。相手はお星様だ。俺たちの想像もつかぬ天文学的数字の願いを聞き入れてくれるはずだぜ。
「ええ。その通りです。ですから今回は遠慮しようと思うんです」
 意味がわからなかった。すると彼女は、
「去年のお願いはどちらも叶いました。わたしを強くしてくださいというあなたの願いと、そしてもう一度会って欲しいというわたしの願い。これで十分です。これ以上望むのは身分不相応というものです」
 今時の中学生にしては殊勝な心がけである。対して当時の俺ならば「成績上げろ」とか「小遣いを上げろ」とか「キョンという呼び名をやめてほしい」とか、ダース単位で願い事を書いただろう。あくまで当時だぞ、当時。しつこいようだが今の俺はそこまで……いや、やめておこう。ムキになって否定すればするほどドツボにハマりそうな気がしてきた。
 余計な煩悩を振り払った後、彼女の問いに、
「わかった。なら今年は願いを書くのはやめておこう。いや、今年も、だな」
「くく、そうですね」と言って軽く喉を鳴らした。
「だが、この短冊の処理に困ったな。この辺の人全員は配布するにしても配りきれない量だぜ」
「そうですね……」
 別段ゴミ箱に捨ててハイサヨナラってのでも構わないのだが、エコが持てはやされる昨今に於いてはそれもいただけない。せめて何かしら利用してから廃棄したいものだ。
 何か役に立つ使い方は……
「あの」
 あれやこれやと考え込んでいる中、何か閃いたようなトーンで少女が、
「愚にも付かない利用方法でよければ、少し思いついたことがあるんですが」
「よし、それで行ってみよう」
 理由も聞かずあっさり決めた。何故かって? さあな。自分でもわからんが、そうするのが一番いい気がしたんだ。俺のためにも、そして彼女のためにも。
 その時は、確かにそう思った。


 だが、ここに最大の罠があった。
 常套句とも言える言い回しだが、これ以上の単純かつ明快な言い回しが思いつかない。
 その時の俺はそれだけテンパっていたってわけだ。
 つまり――これも安直な常套句だが――この時の俺の安直な考えが、俺と彼女の身を脅かす、今回最大級の危機を生み出そうとしていた。
 そして当然、俺はそんなことを知る由も無かった。


 河川敷の草むらや背の低い木々を越え、向かった先は川の中枢部。比較的海に近く幅が広い所謂下流区域を流れるこの河川は、実はそれほど川幅が広いわけでもない。
 もちろん大雨が降れば河川敷の広場は埋もれ、泳いでわたるのには困難なほど川幅が広がってしまうのだが、晴れている時ならば大人なら何とか泳いでわたる事もできる。
 しかも、雨が引き水量が下がるのと同時に一本の大川は複数の小川へと分かれてしまうのもポイントである。
 大きめの本流は先にも言った通りそこそこの幅があるが、中には子供の水遊びに最適な、あるいは迷い込んだ魚を捕らえるのに適した小川もいくつか存在する。
 俺はそのうちの一つ、川幅にして一メートルも無く、水の流れが殆ど無い小川に着目した。
「どうだ、これ?」
「はい、丁度良い大きさだと思います」
 彼女はお面の上からも解るくらい陽気に返答した。
 続いて透明なビニール袋から蛍光色の水性塗料を取り出した。近くの二十四時間スーパーに置いてあった、何のとりえも無い普通の塗料である。
 蓋を開け、同じく買ってきた安物の刷毛を缶の中に突っ込む。毛細管現象でみるみる刷毛の色が塗料の色に染まっていった。
「この辺でどうでしょう?」
 オッケイ。了解。
 適度に塗料を吸った刷毛を、小川の岸に滑らせる。絵画は得意な方じゃないが、これくらいなら書けるぜ……っと。
「どうだ、こんなもんで」
 小川の淵、小石の上。そこに描かれたのは、
「はい。いいと思います。五芒星を書くのが上手ですね」
 へへ、まあな。正直子供の悪戯書きと大差ないのだが、誉められればまんざらでもない。この少女に誉められれば一入嬉しいものだ。
「ですが、少し星の形がいびつですね。ほら、ここなんか辺と辺の長さが異なっています。黄金比を保ってこその五芒星です。一回り大きくても構いませんから、修正した方がよろしいのでは?」
 訂正。やっぱ腹立ってきた。
 いいんだよ。もともと星なんて五つの方向に光をさしているわけじゃなかろう。あるいは同じ強さとは限らないんだ。
「ですが、元々五芒星の頂点は五行を表していると考えられています。五行とは五大元素の象徴であり、また短冊の色が五色なのに由来します。それぞれがバランスを保っているからこそ世界の秩序が満たされているのです」
 ふーん、そうなのか。じゃあ書き直したほうがいいな。
「ご理解いただきありがとうございました」
 ご理解ってほどでもない。年下の少女に向こう張って意見の対立してもどうかと思っただけだ。もちろんそんなことは口にしないが。
 再び刷毛を手にして、彼女が指摘した修正を施し、程なく黄金比を保ったお星様が完成した。
「さて、もう一個か」
 はい、お願いしますと川をぴょんと飛び跳ね、向こう岸まで軽くひとっとび。って言っても一メートルも無いから造作も無いんだけどな。
 こちらも彼女が指摘しながら俺が星を書く。大きさが異なるとかで再び元の岸で修正して、また違ったから戻って書き直し。
 そんなことを何回か繰り返した後、彼女がようやく承認のサインを出したときには星はそこそこ大きいものになってしまった。一メートル近くないか、これ?
 少女は少女でビニール袋から耐水性のスプレーのりをとりだし、貰った短冊の長編方向を重ね合わせ、長いリボンのような短冊が出来上がる。それをさらに短軸方向、その下にも重ねあわせ、出来上がったのは巨大な一枚の短冊……ではなく。
「では、そっちの端を持ってもらえますか?」
 ああ。
 ひょいと巨大短冊の端を持って移動する。「落ちないよう、気をつけてくださいね」
 この程度なら落ちたところで心配はないさと思うが、落ちたら落ちたで水に濡れてしまう。去年の二の舞だけは勘弁したいところだ。
 しかし、そんな心配事もまるで関係なく川を渡り、星の袂まで移動した後、後ろ向きの俺に変わって対岸にいる彼女が場所の指定をする。
「あ、その辺でお願いします」
 よし、それじゃおろすぞ。
 せーの、とタイミングを合わせてしゃがみ込んだ。
 短冊が水面にぷかぷか浮き上がる。耐水性のスプレーが効いたのか、水が染み込んでくる様子は見られない。成功だ。流されないように角を石で押さえて、と。
「ズボラな計画の割にはうまくいったな」
「くく、そうですね」
 彼女の喉が軽快なまでに鳴り出した。
 さあ。もうお分かりだろうか。俺たちがいったい何をしたのか? 勘のいい人ならばこのあたりで気づいてくれるだろう。わからない方にはヒントをあげたいと思う。

 川を跨いだ星二つ。
 星は川に阻まれて、会うことが出来ない。
 そこに、短冊で出来た橋を架ける。
 一年に一回、会うことを許された二人は、これを通って再開を果たす――


 彼女の思い付きとは、自分たちの願いをかなえてくれたお礼に、二つの星を会わせてあげよう。そう言い出したのだ。
 願いを叶えてくれる短冊で作れば、絶対に会うことが出来る。そう信じた彼女は先の短冊をつなぎ合わせて天の川に架ける橋(伝承ではかささぎの橋というらしい)を作りましょうと提案したのだ。
 なるほど、それは面白いアイデアだ。俺も賛同することにしたわけだ。
 なお、実際の川を天の川とみなし水性の塗料で牽牛星と織女星を書くアイデアを輩出したのは俺だ。やるなら徹底的にやったほうが面白いに決まっているからだ。
 彼女も俺の意見を快諾し、必要なアイテムを揃え、あとはごらんの通りの流れとなった。
 星の光を反射して煌く川面とたゆたう短冊の橋、そして黄色い蛍光を発する星。感情移入するならば、織姫と彦星が架かった橋を喜び、俺たちを感謝しているようにも見えた。
 自分で言うのも何だが、かなりよく出来たものだ。
 だから……
「わたしたち、かささぎのようにうまく橋を架ける事ができたでしょうか……?」
「もちろんさ、上出来だ。きっと織姫も彦星も喜んでくれるさ」
「……そう、ですね」
「そうだとも……」
「会えると、いいですね……」
「ああ……」
『…………』

 ……だから、俺たちが感慨に浸っているのもさもありなんと思うね。



 しかし、俺たちの思いはこの刹那の後、掻き消されることになった。



「なにやってるのよっ、あんたたち」
『!?』
 静まり返っていた川のほとりで、突然声が響きわたった。
 反射的に後ろを振り返り――うげ。
 思わず声が出そうになるのを寸でのところで取り押さえた。

 白い喉。すらりと伸びた四肢。長めのストレートヘア。傲岸不遜を形にした、意志の強そうな瞳。
 子供だと思っていた少女は一転。若干幼さも残るが、俺の知っているあいつにかなり近づいた。
 忘れるはずもない。
 いや、忘れるわけにはいかない。

 そう。去年よりも一回り以上成長した――――涼宮ハルヒ。


 中学二年生へと成長したハルヒは俺と彼女を交互に見渡し、
「しかもヘンテコリンなお面まで被って。怪しいわね。白状なさい。何の儀式なのよ」
「見てわからんのか? 七夕の儀式だ」
 はあ? と悪態をつくハルヒに言ってやった。
「天の川に橋を架けてやったんだ」
 いまだプカプカ浮いている、間に合わせで作った紙製の橋を指差した。ハルヒは矯めつ眇めつ橋と、そして両端にある星を見据え、
「何のために」
 決まってるだろ。一年に一回、会えることになってるんだから会わせてやらないと不憫で仕方ないんだ。
「あなた、織姫と彦星を会わせる事が出来るの?」
 わからん。するかしないかはその二人に聞いてくれ。やる気があれば俺が力を貸さなくても会ってるだろうぜ。なんてったって相手はお星様なんだからな。
 俺がそう言うとハルヒは「ふん」と不機嫌を露にした。
 ちなみに少女の方は全く喋らず、俺にしがみついて離れない。怖がっている……訳ではないと思うが、突然の来訪者にどう接していいのか、わかっていない。そんな感じだった。
 対照的にハルヒは俺にしがみついている女の子に気付くと、
「その子、誰よ」
「妹だ。たった一人の俺の妹だ」
「……あんた、お姉さんいなかった?」
 いないぞ。誰と勘違いしてるんだ?
「あんたの知ったことじゃない」
 そりゃ悪かったな。
「そのお面、どこで手に入れたのよ」
 それこそお前の知ったことじゃないな。
「ふん」
 呆れるほどハルヒはハルヒらしかった。あいつはこの時代もあんな風にしか会話ができないのだろうか。
 いやまあ、そうなんだろう。俺が初めて会った頃のハルヒと同じだ。単にふてぶてしいだけじゃなくて不機嫌グルーミーを露骨に放射する態度はまさしくそれものだった。
 しばらく俺と少女、そして悪戯書きの星と短冊を交互に見渡した後、近くにおいてあったビニール袋を漁りだした。
「その短冊、もう用なしなのよね。橋を作った余りものでしょ。だったら頂戴。あと、その塗料とかも」
 やれやれ。相変わらず勝手なやつだな。本来なら止めるところなんだろうが、何故だかそんな気分にはなれず、ハルヒの行動を黙認していた。
 が。

「だめっ!」

 黙認できない人間がいたのもまた事実。
『な……』
 俺と、そしてハルヒの驚嘆の声がハモった。
 それもそのはず。少女はハルヒが持ったビニール袋と短冊を強引に奪うという、およそ気落ち気味の少女がするとは思えないことをやってのけたのだから。
 数枚の短冊が中に舞う中、さすがのハルヒも驚いた様子で呆然と立ち尽くしていた。
「な……何がだめなのよ。他に使うあてでもあるの?」
「あ……いえ、その……この……お、お兄ちゃんのものですから……」
 少女はどうして自分がそんな行動に出たか理解していない困惑気味の表情で、縋るかのように俺の顔を見つめた。お面を被っているから正確なことはわからんが、当たらずとも遠からずといったところだろう。
 しかも俺がとっさに発言した「妹」設定も従順に守っている。
 お兄ちゃん、ね。久しぶりに聞いた良い響きに感銘を受けた俺は自称妹の頭をポンと撫で、
「別にいいさ。俺たちの目的はもう終わったんだし、こいつにくれてやっても構わない」
「ですが……」
「お金のことなら心配するな。それに処理も困ってたんだ。いらないものをあげる。ギブアンドテイクの精神だ。何も問題はないよ」
「……そうですか、わかりました」
 不承不承なのか、単に気まずいだけなのかはわからないが、意気消沈気味の彼女はひったくった物をしぶしぶ返した。ハルヒはハルヒでひった繰り返し、お面の彼女をガン見した後、
「そのお面、宇宙人から貰ったの?」
「あ、いえ、違います」
「じゃあ未来人?」
「それも違います」
「超能力者? それとも異世界人?」
「どれも違います。買ってもらったんです。あの……お、お兄ちゃんに」
 恥ずかしそうに浴衣の裾をきゅっと握った。まだお兄ちゃんというその口がぎこちないのが気になる。
「……そう。お揃いなのね。お面も……その、浴衣も」
「ええ」
「良いわね。何でもお揃いで」
「ありがとう」
「お揃いって、いいものなの?」
「とっても」
「……お兄ちゃんと一緒だから?」
「はい、そうです」
「……優しい、お兄ちゃんなのね」
「うんっ」
 嬉しそうな少女の声が響き渡り、対照的にハルヒの口調がいらだっているように感じた。多分、気のせいだ。
 少女と話し終えたハルヒは今度は俺の方を向いて、
「じゃあさ、浴衣はどこで手に入れたのよ。言ってみなさい」
 お面のときと同じ答えを返そうかと思ったのだが、何故か正直に答えることにした。
「あそこにある商店街のお店だ。威厳漂う古風な店だ」
「ふーん」
「欲しけりゃ買ってみたらどうだ。これと同じ生地ならまだ残ってるぜ」
「いらないわよっ」
 そうかい。
「それより、これ」ハルヒは手にもった短冊もどきと塗料類を軽く上げ、「ありがたく頂くわ。無駄にはしないわよ、あたしが面白おかしく使うんだから。じゃあね」
 と、感謝の意どころか自分に感謝しなさいみたいな捨て台詞を残してその場を走り去っていった。
 相変わらず、忙しくやっているようだ。あれを何に使うかは知らないが、あんまり人様だけには迷惑かけるなよ。今回は助けてやることが出来ないんだからな。
 などと頭の中でリフレインしつつ。
 ……はて、そういえばあいつ、ここに何しに来たのかね。


「アレで、何をするんでしょうかね?」
 ハルヒのがさつく足音が消えた後、少女はポツリと呟いた。
 全く持って同感だ。だけど俺たちにとっては関係のないことさ。あの道具を使って暴走する可能性は十三分にもあるが、それを止める役割は俺ではない。少なくとも朝比奈さんから何も命じられてない以上、俺が干渉するのは禁則行為にあたるかもしれない。
 それに、今回俺がやるべき事項。それはハルヒの相手でなく彼女の相手だ。誰に命令されたわけでもないが、近い将来のために補正しなければいけないんだ。
 彼女のため、そして俺のために。
 以前大人の朝比奈さんは言った。現在においては偶然でも、未来にとっては必然となる、と。
 朝比奈さんが遣わされたのは、その偶然――いや、俺たちからすれば未来だろうから、必然を発生させるためにやってきたのだ。それが映画制作の際長門が言ってた、朝比奈さんの使命。然るべき未来に向けての数値の調整なのだろう。
 だが。
 朝比奈さんの使命は朝比奈さんが住む未来にむけたもの。ここ数年レベルで歴史が多少動いたところで、未来人にとっては些末な問題にしか過ぎないだろう。
 俺が住むこの世界の調整は、俺がすべきなんだ。
 朝比奈さんが朝比奈さんの住む世界を望むために行動しているというなら、俺だって俺が住む世界を守るために行動してもおかしくないはずだ。
 だから俺は藤原の甘言に敢えてのってやり、少女の近未来を構築したんだ。
 大人しくて遠慮がちが少女が、未来にどう必然となって作用するかは分からんし、解る気もない。都合が悪くなったら以前のように世界を上書きすればいい。
 だがな、それは俺の知っている未来とは既に別物の世界だ。ただの文芸部員となった長門や、ただの書道部員となった朝比奈さんや、他校の生徒となったハルヒや古泉と同じだ。俺が欲しているのは、そんな別世界じゃない。
 そんな世界じゃなくて……

「あの、どうしかしましたか?」
 え? あ? いや……どうしたんだ?
「その、気分が優れないようでしたので」
 お面で表情は分からないはずだが、いつの間にか握った拳と手に掻いた汗が俺のステータス異常を起こしたのだろうか。ガラにも無く少し熱くなったようだ。
「なに、何でもないさ。それよりそろそろ帰ろうぜ。祭りも終わりを迎えているはずだ」
 俺は彼女の手を取って、歩き出した。
「……うん、お兄ちゃん!」


 果たして予想通りというかなんと言うか、既に祭りの明かりは片付けに必要な分を残して殆どが消え去り、巨大な笹も既に撤去され、出店の多くも店を畳み終えていた祭りの会場を見て思った。余韻という風流なイベントとは無縁だよなこの商店街はよ。
 せめて笹の葉くらいは何日か飾ってくれてもいいんじゃないかと思うんだが。それとも有料短冊が売れればそれで良しなのかね。
 というわけで、祭りの会場にいても何も楽しいことは無く、それどころか撤収作業の邪魔になると感じた俺は早々に開場跡地を後にし、ブラブラと歩いき……気がついたら例の橋まで歩いていた。
「さて、と。これでお別れだな」
 彼女との約束も果たしたし、俺自身の心配事も消え去った。加えて夜遅いからあまり長い時間付き添うのもどうかと思う。お面をつけた男が女の子を連れまわすのは祭りの時か、せいぜいその後一、二時間が限度だ。
「肉体的にも精神的にも、去年とは比べ物にならないくらい成長したな。その感じだともう十分やっていけるようだな。安心したぜ」
「…………」
 なぜか彼女は黙っていた。
「どうしたんだ?」俺がそう言うとやたら手をもじもじさせながら、
「…………あの」
 ん?
「…………ええと、ですね……」
 何か言い出しにくいことでもあるのだろうか?
「…………ひと、一つ、おね、おね、おね……」
「あれ、なんだこれ?」
「え?」
 俺は彼女の腰の方、帯に包まったそれを取り出した。
「これ、短冊だな。さっきの」
「どうしてここに?」
 おそらくハルヒと短冊の取り合いをしているときに飛び散った一枚がそこにくっついたんだろう。
「そうだ、ちょうどいい。これで願い事をしてみたらどうだ? さっきは今年はやめとこうとか言ってたけど、こうやって付いてきたってことは、やっぱり願い事をしてほしいんだぜ、きっと」
 狐につままれたかのようにぽかんとする少女。
「あ、でもペンが無いか。でも大丈夫だ。お願い事して短冊は……そうだな、川に流せばいい。紙だし、一枚くらいなら地球も大目に見てくれるはずだ。それに元来短冊は川に流したものだしな」
「でも……」
「あ、俺の分は別にいらないぞ。俺がしたところで俗物的な願いしか思い浮かばんからな」
「…………わかりました。では」
 ふっ、と軽く息を吸って、彼女は明朗に答えた。

「また、来年も会ってください」

 ――そう来たか。
 いや、うすうす感じていたけどな、そう来るって。
「まだ、自身がありません。自分が強くなったかどうか分からないんです。いえ。まだまだ不十分だと思います。ですからそれをご精査していただきたいのです。いえ……」
 彼女は顔を横に振って、
「正直に言います。こんな風にお話ができるのはあなたしかいません。自分でも驚くくらい饒舌になって、楽しくお話ができるんです。人と会話をしてこれだけ楽しいと思ったのは、自分の友人を含めてもいませんでした」
 確かに彼女の口調は人によって違うわけだが、こと俺と会話する際に至ってはことマシンガンのように話し続ける印象がある。またそれが実に楽しそうに喋っているのは俺の目からも明らかだった。
 俺としては特別なことをしているわけではなく、単に話を聞いて頷いたり反対したり突っ込んだりしているだけなんだが……いわゆる「ウマが合う」ってやつなんだろうな。
「あなたと話をしていると気が救われる。自分の心を癒してくれる。そんな気がするんです。毎日とか、毎週会ってくれとはいいません。一年に一回、七夕の日だけで構いません。今年のように、お話を聞いてください。お願いしますっ!」
 悲痛なまでの叫びが、俺の心へと突き刺さる。
 意識的なのか無意識的なのかは知らないが、彼女は俺を欲している。精神の拠り所として、自分の居場所を求めているのだ。
 そして、その居場所が俺であることを感じ取ったのだ。
 去年まではその居場所が見つからず、彼女は自殺未遂を敢行した。今年は俺に会える事を願って今日まで生きてきた。
 来年約束すれば、彼女はまた一年生き延びようと頑張るようになるだろう。逆に、会うことを否定すればそれに悲観して再び自殺しようと思うかもしれない。
 なうほど、確かに彼女の言うとおり、まだ精神的に強くなっていないのかもしれない。もっと強くなってもらわなければこっちが困る。
 だから、俺は言ってやった。


「残念だが、その願いは受け入れられない」


「……えっ」
 彼女の寂しそうな吐息が弱弱しく震えた。
「いくら何でも俺を当てにしすぎだ。俺はおまえ自身のためにお前が強くなって欲しいと願っているんだ。俺と話をしたいがため一年間頑張るのは本末転倒というものだ」
「…………」
「去年にも言ったはずだ、もっと自分のために生きろって。俺がいなきゃ何もできないようではこの先何にもできないぜ。強くなるってのはそういうことだ。いくら俺に会うために一年を過ごしたところで、人に縋る弱い自分って根本は解決していない。一年の間に溜まった愚痴を聞いてくれっていうならそれは構わんが、成長する意思のないやつに構ってやっても時間の無駄だ」
「…………」
「いいか。確固たる気概を身に着けろ。俺がいなくても、何とかやっていけるくらいの気概をさ。それまでは会わないほうがいい。いや、会ってしまったらまた俺に縋りついて弱くなってしまう可能性すらある。残念だが、そういう事だ。分かったか?」
「…………」
「分かったかって聞いてるんだ!」
「は、はいっ」
 悪いな。少々厳しいこと言ったかもしれないが、これも彼女のためだ。
 もちろん来年会うわけにはいかないという根本的な理由もあるが、俺の真意が強ち間違っているわけでもない。この方が彼女のためになるんだ、きっと……いや、絶対にな。
 ただ、それだけじゃ厳しすぎるかもしれない。今にも泣きそうな顔をする彼女を不憫に思ってしまった俺は、
「だがな、もし自分が強くなったと思ったら、その時はまた会ってやるさ」
「本当……ですか?」
「ああ。本当だ。だが会いに来るのは俺ではない、お前自身の意思だ。意味が分かるか?」
 頭にクエスチョンマークを点灯させた彼女に説明してやった。
「何時でもいい。もし自分に自信があれば……強くなったと自負できるようになったら、ここに来い。本当に強くなったかどうか審査してやる」
「……自分で自分の強さを推し量れるか、テストするということでしょうか?」
「概ね正解だ。もし俺の望むレベルまで達していなかったら俺はお前の前に姿を現さずそのまま帰る。だがもし及第点を取れたら、その場で姿を現してやる。これでどうだ?」
「分かりました。かなり難易度の高い試験だと思いますが……だからこそやりがいがあると言うものです。その試験、受けて立ちます。お手柔らかにお願いしますね」
「ははは、なに、そんなに難しいことじゃない。そこまで他人の行動を気にしなきゃいいんだ。前にも言ったが、俺の知り合いの女に人前で着替え始めても平気な顔してる奴がいるんだ。そこまでしろとは言わないが、人をジャガイモくらいに思っていればいいさ」
「それは、つまり……偽りの仮面を被れということですか?」
 何? 偽りの仮面?
「だってそうじゃないですか。自分が然して強くも無いのに強くなったふりをして、できもしないことをできるいう。わたしも以前言いましたけど、人の性格はそれほどすぐに変わるものじゃありません。もちろん変えるように努力はしますけど、それまで虎の威を借る狐の如く振舞っていた方がよい、という意味に聞こえます。果たしてこれが正解の方法なんでしょうか?」
「正解の方法、そんなものはないよ」俺は言った。
 正しいか間違っているか。そんなことは神様くらいにしか分からん。
 だが、何もしなきゃ変わらないのも事実だ。人間ってのは試行錯誤を繰り返して正解を導き出すんだ。俺の提案が正しいかどうかはやってみてから判断してくれ。いいと思えばそのままやってればいいし、間違っていると感じたら違う方法を探せばいい。
 ただ、自分は弱いっていう思い込みだけはやめた方がいいぜ。自分の性格をきっちり理解しているってのはすばらしい事だが、その思い込みで自分の可能性を閉ざしてしまうかもしれん。まあ変に自意識過剰なよりはいいけどな。
 そうだな、間を取って中立を保ってみるのはどうだ? 強くも弱くも無い、好かれるでも嫌われるでもない。自分のステップアップのために、段階的にやってみるってのはどうだ?
 暫くの沈黙の後、
「それでも、自分を作っているのには変わりありません」
 凛とした態度で彼女は答えた。
「ですが、確かに何もやらないよりはずいぶんマシだと思います。ありがとう……お兄ちゃん」
 さて、俺は今どんな顔をしているだろうね。こうも面と向かってお兄ちゃんと言われると少し恥ずかしいものがある。呼ばれ慣れてないせいなのか、久しく聞かない言葉だったからか。あるいは彼女がそういったからか。そこまではわからないが。
「くく、あまりそう言われたくなさそうですね」
 何故そう思う?
「反応速度が通常よりコンマ五秒くらい遅れているようでしたから」
 よくそんな違いが解るものだ。賞賛に値する。
「ああ、ようやくですね」
 何がだ、と俺が尋ねると、
「初めて褒めてもらえました」
 等と言って喉を鳴らした彼女の顔は、なんとなく眩しく感じられた。


「さよならは言いません。必ずまた会いましょう。会って、どれだけわたしが変わったか、見てください。何時になったら会えるか分かりませんが、必ずその日が来ることを信じています」
 ああ。期待しているぜ。
「その時は……そうですね。この浴衣と、このお面を被って待っています。また目印にしてください。わたしも自信がつくまでここには来ないようにします。申し訳ないですけど、ご了承ください。ですが、一つだけお願いがあります」
 もし会えたのなら、今度はお面を取ってお話しましょう。わたしも何も包み隠さずお話がしたいんです。
 わかった。その時が来たらそうする。そしてそれがその短冊に捧ぐ願いって事でいいな。
「はい」
「よし。あと俺も一つ願いがあるんだ」
「なんですか?」
「いやなに、本当にただの願いだけどな」と断って、「お前さんの話をじっくり聞いてくれる人が見つかればいいな、って」
 少女は何も言わない。ひたすら沈黙している。
「まあ、何だ。暫く会わないことを約束しただろ? だが愚痴くらい言いたくなる時はあるんじゃないかと思ってさ。誰か代わりにそんな人が見つかればいいなと思ってさ」
「優しいんですね。ありがとうございます。そんな人が見つかると嬉しいです」
 そうだな、見つかってほしいものだ。いや、その候補を知ってるからこその俺の願いだ。
 頼んだぞ。この時間の俺よ。
「短冊を川に投げ込むぞ。いいか」
「はい、お願いします」
 それっ、と気合を入れて投げたものの、あまりにも軽いから然して飛ばず、橋から五メートルほど離れたところでヒラヒラと舞いながらようやく川の水と合流した。
 願い事が書かれていない無記入の短冊には、しかし俺たちの願いがふんだんにこめられている。
 彼女はじっと川面を見つめ、そして手をあわせて拝んでいる。言うまでもなく俺も同じ行動をした。

 ――頼んだぜ。俺の知る世界を構築するためにも、彼女のためにも。俺たちの願いが叶いますように――


 お互い別れ辛くなるようなイベントをやると変な情が移って余計別れ辛くなることもドラマなんかでありがちなシーンだろうが、少女にとってそれは杞憂の一つとして軽く流せる出来事だったのだろう。
 名残惜しそうな表情は見せず、むしろ欣快な表情で「また会いましょう」と言い、また最後の最後にお面を外した彼女の顔も何かを悟ったような表情だったのがとても印象的だった。
 俺は去年と同じく、彼女が見えなくなるまでずっと見送っていた。正直に言うと、彼女が見えなくなってからも暫くはそこに対座していたんだけどな。
「ようやく終わったな」
 ようやっとお面を外し、最初に出た言葉がこれだった。
 これでどこまで彼女が変われるかわからないが、少なくとも悪い方向には行かないと思う。
 未来の時間の連続性はないだろうから俺が元の世界に戻って「彼女」を見たところでそれは何の意味も無い。本来は彼女がどのように成長するのか見届けたいところであるが、俺の方から会うのを否定した手前、そうすることはできない。
 だが、信じている。
 彼女が立派に成長し、俺の知る「彼女」になってくれていることを。



 そんなことを頭の片隅で考えながら、予定より遅れに遅れまくった言い訳をどう説明するかをメインに考え、未来人たちの待つベンチへと歩いていき、そして目的の場所が見えてきた。
「遅れた、すまん」
 未来人二人とベンチの前で対峙する。
 女性の方の未来人は未だくうくと可愛らしい寝息を立てている。対してもう一人の未来人はベンチに座り込み、両肘を腿の上におき、指を組んだまま顔を下に向けている。やばいな、かなり怒っているのかもしれない。
「悪いな、結構長引いた。だがこれで終わりだ。いいぜ。元の世界に戻っても」
 藤原は答えない。
「でもおかげで色々とためになった。少なくとも数年後の未来にとってはいい方向に向かったと思うぜ。お前たちがいる未来は知らないけどな。それに関しては例を言っておくよ」
 なおも沈黙。
「おい、聞いてるのか?」
「…………」
「くそ、おい」
 藤原の体を軽く揺する。

 コトン。

「なっ……」
 マジで驚愕の声を上げた。
 ちょっと触っただけで、その場で身動きしなかった藤原が突然崩れたのだ。ベンチの半分を占拠している朝比奈さんとは逆方向のベンチを占拠し、思ったよりも可愛らしい寝顔を俺に向けていた。
 おいこら、何を冗談やってるんだ。遅れたことに対する仕打ちか? それとも単に眠くなっただけか? どちらでも構わんが、男がそんなことしたところで可愛くもなんとも無いぜ、やめろ。
「…………」
 しかし、藤原は起きない。待たせすぎて暇だったのか、あるいは時間移動による疲れが溜まったのか……何度も言うがどっちだっていい。
「おい、いい加減起きろ」
 ポカンと叩いてみた。額がみるみる赤くなっていくが起きる気配は無かった。
「ったく、本気で寝てやがる。まるで眠らされたみたいだな」
「ええ。その通りです。わたしが眠らせましたから」
「なっ……」
 ベンチの奥。茂みの方。
 落ち着きながらも艶美な、それでいて甘く囁くような声がした。
「彼はちゃんと寝ていますよね? 寝たふりをされている可能性があったからそちらに出れなかったんですけど、大丈夫そうですね」
 聞き覚えのある声だ。俺がほぼ毎日部室で聞くのと同じ声。
 この声の持ち主は、二人ほど心当たりがある。しかしその内の一人はここで寝息を立てているからこの人はシロ。ならば、あと一人しかいない。というかこの人以外に考えられない。
 その人とおぼわしき人影は、やがて俺の推測を裏付けるかのように魅惑的な女性の姿を映し出した。
「朝比奈さん……」


「ええ。久しぶり、こんばんわ」
 くす、と笑う笑顔は相変わらずエンジェルスマイルそのものだ。加えて彼女が着ている浴衣が麗しさを倍増させている。しかもその浴衣は、この時代の朝比奈さんが着ているのと同じ、若草色の生地に濃緑色で描かれた笹の浴衣だった。
「ふふ、あの時買った浴衣を作り直したんです。どうですか?」
 どうもこうも、元々何を着ても似合う人だし、時期が時期だけにバッチリ決まっている。その朝比奈さん(大)は俺と同じくベンチの前に立ち尽くし、
「どうでしたか、彼女との七夕祭りは? 楽しめましたか?」
 彼女とは、恐らく俺がずっと付き添っていた少女のことを言っているのだろう。そんなことは言うに及ばず、である。
「もちろんですよ。あなたたち未来人にとってどういう存在なのかはしらないですけど、俺は俺なりに楽しませてもらいました。おかげで彼女に変化を植えつけることが出来ました」
「ふふ、それはよかったわ。キョンくんがご存知のように、彼女が成長してもらわないと困りますものね」
 誰が困るんですか? 朝比奈さんがですか? それともこの藤原がですか?
「いいえ」顔を横に振るたび、よりロングになった髪の毛がふわりと揺れる。「キョンくんが、です。去年のままの彼女では色々不都合でしょうから」
「それも俺にとっての不都合ってわけですか?」
「ええ」
「朝比奈さんたちにとっては何とも無いことなのですか?」
「残念ながら、そうなの。未来にとって彼女がどんな性格であろうとも特に問題はないの。彼女を起点とする分岐点は存在しない。それがわたし達の未来における既定事項なの。もっとも、彼の場合は少し違うようですが」
 なるほど、だから今回朝比奈さんは干渉がなかったのか。
「あ。でも。なら何故俺を過去の……四年前の過去に遡行させたんですか? 彼女とのやり取りが未来にとって意味の無いものなら、それこそ過去に戻る必要なんて無かったじゃないですか」
「確かに彼女の素行は問題に成り得ませんでした。しかしそれとは別に、わたし達の未来の分岐に対して重要な関わりを持つ人物がいたのも確かなんです。キョンくんは気づいてはいないのかもしれませんが、今回もその人を助けるために行動していたのです」
 はて、誰だろうか? あの時会った人物なんて着物屋のおばあちゃんくらいしか思い出せない。確かに世話にはなったが、彼女が未来に対して影響力が無いというならあのおばあちゃんだって影響力は無いに等しいだろう。
「ヒント。この朝比奈みくるが遡行した日に分岐点があるとは限りません。ほら、以前もそうだったでしょ? 朝比奈みくるが過去に移動した六日間。あの時も朝比奈みくるが来た日に全てのイベントがあったわけではありません」
 言われて首を捻った。今回俺が移動したのは年数は違うものの七月七日しか移動していない。この時間からでは去年となる四年前の七月七日か、今日となる三年前の七月七日(分かりにくい表現だな)、それだけだ。
 朝比奈さんの言い回しからすると、移動した四年前の七月七日にイベントがあったわけではなさそうで、ではそうすると三年前の七月七日、つまりこの時間に何らかの分岐点があったことになるな。
 分岐点になりそうな事件。さて何だろうね。お面か? 短冊か? それとも巨大な架け橋か……
「!?」
 瞬間、俺の顔から血が引いた。
 暗くてよく分からないだろうが、一瞬にして蒼白になったに違いない。まさか……まさか、そんなことが……。
「では、もう一つのヒント」
 その顔を見てどう思ったのか。朝比奈さんは更に言葉を紡ぎだした。
「先ほどわたしは『今回も』と答えました。以前助けた人物を思い出していただければすぐに答えが出てくるはずです」
 そのヒントが俺の予想を決定的なものに仕立てた。
「まさか……ハルヒだと仰りたいんですか?」
 掠れそうな俺の声に、真剣な表情をした朝比奈さんはただ一言、「はい」と答えた。

 何てことだ。
 完全に未来人を出し抜いたつもりで行動したつもりが、結局のところ未来人にとってどうでも良い事項ばかりだっただけでなく、未来人の既定事項をきちんと遵守する結果に終わってしまったというのか。
 今頃になって思い出した。藤原が時間を移動する際、当初は拒んでいたはずなのに、結局のところ命令を盾に俺を移動させたんだった。もし俺が未来人を出し抜いていたのなら、移動命令は来るはずも無いし、それどころか禁則に当たるだろう。
 命令を出したのは、恐らく別の未来人。朝比奈さんとは異なる未来人かもしれないが、未来人であることには変わりない。
「涼宮さんがあの時のあの行動をみて、ある事を思いつくんです。それは未来にとって必然の出来事だったの。もちろん彼の未来から見ても。だからわたしの干渉が無かったあの状態では彼が時間移動するしかなかったの」
 彼女は言った。あなた達は偶然涼宮さんと会ったように思われるかもしれませんが、実は涼宮さんがあそこに現れたのには理由があるんです。それをお話しする事はできませんが、わたし達はそうするしか方法が無かったの。
 ……ははは。結局、未来人の手のひらで踊っていたってことか。
「ごめんなさい。でもキョンくんにお話するわけにはいきませんでした」
「……それも、未来の安定化のためですか?」
「ええ」
 一体、未来ってのは何なんだ。自分達の未来のために過去に飛んで操作して。過去があってこその未来だろうが。未来から干渉されている過去なんて、そんなの本末転倒もいいところだ。何のために歴史が作られているのかわかったもんじゃねえ。
「仰る事もよく分かります。ですが、わたし達にとって時間という物理量は理論上可逆的なんです。川は何も上流から下流に流れるわけではない。そう考えればおわかりになるでしょうか。もちろん自然の状態ではなく、何かしら作用を加えてやる必要がありますが」
 ちょっと難しいかも知れませんが、聞いてくださいね、と言った後、
「人間はニュートンの古典的物理則から量子論、そして相対性理論へと協議の場を移すたびに時間と言う概念を変えてきました。画一的な定数から、四次元の変数。そして最小単位という量子的な捉え方まで。中には一瞬一瞬の間で世界が崩壊し、そして創生されるなんてのもあります。しかし、中世を生きた人たちにそのような話をしたとしても信じてもらえません。それは当然です。そのような理論が成り立つという考えに至ってないからです。それと同様に、わたし達が提唱しているSTC理論と言うのは、この時代の物理学や哲学では理解し得ない法則の元で成り立っています。それが言葉で説明できないのは以前お話したとおり。そしてここからが本題ですが、わたし達にとっては過去も未来も同一のものなんです。過去があるから未来がある、未来があるから過去があるではないのです」
 早口にまくしたてた。もちろんさっぱり分からない。が、最後の部分だけは何となく分かった。
「つまり、過去や未来という縛りは、あなた達にとっては無意味なものと言うことでしょうか」
「そうなります」
「じゃあ何故過去にこだわるんですか? あなた達の理論で行けば、未来を変えたら過去だって変わるはずでしょう?」
「その考えはもっともです。ですが、わたしは先ほど「理論上」という言葉を使いました。つまり、わたし達の理論もまだ完璧とはいえないの。だから計算の上では未来を変えることで過去を変化させる事は可能なんですが、確証はない。ですから過去を変えて未来を安定化しようとしているのです」
 おかしい。どう考えてもおかしい。今朝比奈さん(大)の言った事は矛盾している。
 過去と未来は同一としながらも、未来のために過去を変えようとする。これはいくらなんでも理論が破綻している。確証がないのなら実験してみればいいだけのことだ。実験で予測した結果が得られればその理論は正しいし、違う結果が得られればその理論は間違っている。そんなことくらい、成績を中の下で推移している俺だって分かることだ。
 では何故俺達よりも高次元で高度の知識をもつ未来人たちがその検証をしないのだろうか?
 そのことを朝比奈さんに問い詰めてみると、
「無矛盾を証明するための公理的観測方法が無いからです」
「は?」と俺。「意味がわかりません」
「ごめんなさい。わたし達も正確には把握できてないの。だから説明できないの。長門さんならもっと詳しく説明できるんだけど……」
 そう言われれば以前、長門からも似たような説明を受けたことを思い出した。あの時は「いずれ解る」と一蹴されたのだが……これについて解る日が来るのは何時なんだろうな。
「ごめんなさい、長くなりすぎましたね。今回はこれで終わりです。今後またお願いするかもしれませんが……その時はよろしくお願いしますね」
「待ってください。朝比奈さん。まだ俺の話は終わっていません」
 パタパタと音を立てる、後ろ姿の朝比奈さんを呼び止めた。彼女はその場でじっと立ち尽くした。
「結局、俺を利用して未来の安定化を図ったのですか? それにしちゃ俺に対する報酬が無さすぎやしませんか? いや、俺だけだったらまだいい。ですがこの朝比奈さんはどうなんです? いくら末端の研修生クラスといっても扱いが酷すぎやしませんか?」
「それは……わたしがそうだったから。仕方ありません」
「自分がそうだったから、ハイおしまいで済む話ですか? 未来の安定化ってのはそんなものなんですか? 既定事項を遵守するのは悪いとは思いませんが、それ以上に良い未来を構築する気はないんですか? 答えてください、朝比奈さん!?」
「……禁則事項です」
「何かといえば禁則事項だ。いいですか、この朝比奈さんは時間移動したものの、それだけの仕事しかしてません。俺はともかく、同朋、いや、同一人物であるならどうしてそうすべきか教えてあげればよかったじゃないですか。おっと、禁則事項は無しですよ」
「……知らせるわけにはいきませんでしたから。もし教えていたら、わたしおっちょこちょいですから何を喋るかわかりませんでしたし……」
 なら、この後にでもちゃんと報告してください。あなた自身だから知っていると思いますが、この朝比奈さんは自分なりに仕事の責任を感じているんです。今回だって何も報告が無ければ自責の念に駆られ、憂鬱状態になります。それでいいんですか?
「…………」
 あなたは自分で自分の首を絞めているんです。いくらあなたがそうして来たとは言え、自分を苦しめて何が楽しいんですか? より良い解決法を探ってこそ、未来人としての役割じゃないんですか?
「…………」
 正直、幻滅しました。あなたならそれくらいできる力と地位があると思っていました。未来を安定化するのは択一的だとしても、絶対的でないと思います。現状を貫くあなたの態度には今後協力できません。
「…………」
 過去も未来も同じと言う理論があるなら、皆が皆ハッピーになる未来だってあるはずです。あなたも、そしてこっちの朝比奈さんも。両方苦しまない方法だってあるはずです。お願いします。そんな世界を構築するように働いて下さい、朝比奈さん!
「……それは……」

 ――長い沈黙。
 その間俺は一言も発せず朝比奈さんの返事を待った。
 彼女なら……SOS団を一緒に歩んできた彼女なら、俺の言うことを分かってくれると信じて。ひたすら返事を待った。
 そして、彼女の結論が導き出された。
「それは……出来ません」
「まだわからないんですかあなたは! そんなんで俺を納得させると思っているんですか!?」
 ガラにもなく突沸してしまった。俺の唾が朝比奈さんに向かって飛んでいったのが目に見えた。
 煮え切らない朝比奈さんの態度に憤慨する俺を責めないで欲しい。
 だが、これが後々俺に災いをもたらすことになった。


「キョンくんの言う事も一理あります。ですが、その解答に辿り着けないのもまた実情なんです」
 あ……
「これはわたしが至らないと揶揄されてもしかたありません。本当に……っ……ごめんなさい……っっ……」
「…………」
 朝比奈さんの悲痛な声に今度は俺が沈黙した。いや、沈黙せざるを得なかった。
 朝比奈さんの顔に伝う、一縷の宝石を見てしまっては最早何も言えなかった。
「ダメですね……わたし、あの頃のように迷惑をかけないよう頑張っているんですが……まだまだ足手まとい……うっ…………本当はキョンくんのお望み通りの世界にしたいんです……ううっ……」
 まずい。ひたすらまずい。
 泣かすつもりは無かった。いや、この朝比奈さんがあの朝比奈さんと同じくここまで涙もろいとは思わなかった。これではまるで、いやまるっきり俺が悪者である。
「あの、ごめんなさい、決してそんな意味で言ったわけじゃ……」
 と言ったところですぐに泣き止むでもなく、エルフの涙とも言うべき重要文化財をぽろぽろ発生させながら、
「いえ……ひぐ…………悪いんです……ふぐ………………わたし……んん………まだ……ひいい……」
 大人の魅力溢れた朝比奈さんはそこにはいなかった。ここにいる朝比奈さんは、ただ身長と胸をボリュームアップさせた朝比奈さん(小)に過ぎない。別れを惜しんで泣いていた朝比奈さんと何一つ変わるものがなかった。
「すみません朝比奈さん、もう結構ですから、そんなに自分を責めないで下さい。悪かったです。出来ないことを強要した俺が悪かったですって!」
「ひぐ……うぐ……」
「今すぐにとは言いませんから。出来るようになったらそうしてください。また今度、また今度でいいですから」
「本当……ですか……?」
「ああ本当です。だけど必ず未来を変えるよう努力してくださいね。俺も手を貸しますから、それでいいですよね?」
「……本当の……本当……?」
「もちろんですよ。そのためだったら喜んで力を貸します」
「はい、ありがとうございます」
 え……!?
「今後ともご助力よろしくお願いします」
 ややぎこちないウィンクを一つ、先ほどまで涙で濡れていた瞳は既に元の輝きを取り戻し……あれ、何かおかしいぞ?
「未来を変えることは容易じゃありません。それはわたしが未来から来たという縛りがあるからかもしれません。もしキョンくんが手伝ってくれるなら、未来の可能性を更に広げる事も可能かもしれません。ふふふ、よろしくね」
 あ、はい……。
「じゃあ、約束。これ」
 そう言って朝比奈さんは白い無地の紙切れを取り出した。「短冊……ですよね」
「はい。短冊です。指きりげんまんじゃなくて、こちらに願いをかけましょう。七夕ですしね」
 胸元からペンを取り出し、意味不明の象形文字をサラサラと書き上げた後、
「はい、これでキョンくんが未来のために頑張ってくれると書いた証書になります。これからも未来と涼宮さんと、そして朝比奈みくるのためにお願いしますねっ」
 悪戯っぽいウィンクは、天使と言うより小悪魔だった。
「もしかして……朝比奈さん、俺をハメましたか?」
「そんなことありません。わたしも未来のために頑張ります。そしてキョンくんもって事ですよね?」
 確かにそんなことを言ったような気もするが、でも決して朝比奈さんの言いようになることを認めたわけじゃ……だけどここで俺が折れないとまた泣き出すわけで……ならどうすれば……
「あとは二人の捺印が必要です。キョンくん、そのままじっとしてください」
 少々頭が混乱しかかっている俺の目の前に短冊が現れた。
「いつかのお願い、覚えていますか?」
 短冊で視界が阻まれた向こうで、朝比奈さん(大)の優しい吐息が漏れた。
「わたしとは、あまり仲良くしないで、って」
 それなら覚えています。初めてこちらの朝比奈さんと会った時に言われたことだ。そしてその時に白雪姫というヒントを貰ったんだった。
 あのヒントが発端となって俺はハルヒが創生しかけた新世界から戻ることが出来たわけだが――
「あのお願いに、もう少し付け足しをしたいと思います。あのね、キョンくん」
 朝比奈さんの吐息が更に近く感じられる。いや、実際近づいている。
 全身から感じるフェロモンだか香水だかの甘い芳香が俺の嗅覚を存分に刺激し、許容量一杯一杯にまで来ている。
 ヤバイですって、これ以上近づくとあのその……
「わたしとは、あまり仲良くしないでください。でも――」
 しかし朝比奈さんの接遇は留まることを知らない。短冊という薄い壁が接合間近の俺と朝比奈さんの顔を何とか阻んでいる。
 まさか、朝比奈さん、俺に――


 ――瞬間、俺の予想通りの感触が唇一杯に広がった。
 短冊が直接の接触を遮ったとは言え、十分すぎるほど柔らかくて暖かい感覚が――


「――でも、嫌いにならないで。お願い」


 再び潤んだ瞳は、全てのものを虜にさせるのに十分な魅力を携えていた。



「さあ戻りましょう。そっちのわたしをよろしくお願いしますね」
 カチコチに固まった俺とは対照的に、明朗な表情を見せながら朝比奈さん(大)は軽く藤原を担ぎ、そして時間移動の準備をし始めた。俺はぎこちない様子で何とか体を動かし、小さい方の朝比奈さんを何とか担ぎ、そして朝比奈さん(大)の肩に手をついた。
 やべえ。これだけでドキドキする。思春期まっさかりの俺にとっては爆破もんの体験をしたんだから間違いない。
 そんな動揺と悶えが人体の構成要素の約九割を支配している中、朝比奈さんはこちらを見てニコッと微笑んだ。
 はい、十割確定。
 と思ったのも束の間、次の瞬間には無重力感と衝撃をざく切りにして混ぜ込んだような感覚が俺の体を包み込んだ。再びこみ上げる倦怠感と吐き気が俺の全身を痛めつける。藤原のときとは雲泥の差だ。
 何とか正常を保ちつつ目を瞑ったまま、やっとのことで口を開いた。
「朝比奈さん……タイムトラベルに向いてませんよ」
「え? あ……うん、よく言われるんです。操作が下手だって」
 より良い未来に仕上げる第一弾として、朝比奈さん(大小含む)のTPDDの使用方法から見直すってのがいいかもしれない。
「ふふふ、ではその朝比奈みくるに教えてあげてください。若い時から練習すればわたしも多少はマシになるかもしれませんね。報酬は……チュウまでならいいですよ」
 それは先ほど存分に堪能したので遠慮しておきましょう。
「あら、遠慮深いんですね。そう言えばどうでした? わたしのチュウは?」
 どうもこうも無いですよ。初めてのキスが朝比奈さんだと知れたら北高の生徒半分以上を敵に回します。
「そんなに持ち上げてもらって光栄です。でも自信はなかったの。わたし下手だったでしょ」
 下手も何も、俺は初めてだったからそんな事も解るわけはない。だから俺に言われても困る……って、
「朝比奈さんはもしかして初めてじゃないんですか!?」
 俺の疑念に朝比奈さんは声のトーンを少し上げて、
「えへへ、実はそうなんです」
 何と言うことだ。失望した。この空間の気持ち悪さと相まって凄くムカムカしてきた。
「と言っても、さっきのアレで二回目ですよ。安心してください」
 安心など出来るわけが無い。二回目と言うことは一回目が当然あるわけで、更に言うと唯一無二である朝比奈さんのファーストキスを奪いやがった罰当たりがいるって事になる。
 誰だ一体その大バカ野郎は。俺がとっちめてやる。
「ふふふ、もらえると助かります。あの時の思い出は心の奥底に刻み込まれましたから。乙女のファーストキスを奪った罪は重いですからね。キョンくん、よーく覚えておいてくだざいね」
 まるで俺に言い聞かせるように彼女は言った。
「それで、一体誰なんですか? その大バカ野郎は?」
「それは……」
 それは?
「禁則事項です」



 瞬間、足元の感覚が正常化した。
「あ、着きましたか?」
 と声をかけようとしたが、それは徒労に終わってしまった。
 朝比奈さん(大)の姿がなくなっていたのだ。もちろん担がれた藤原の姿も無い。
 彼女が時間移動に失敗したとか、次元の狭間に落下したとは考えにくいので、俺達を運んだ後、然るべき場所へと旅立ったと考えるのが何よりの正解だろう。
 というより、俺の返答に困って逃げたとも考えられるが……ちっ。
 若干な感じの舌打ちをし、朝比奈さん(小)をおんぶしたまま、河川敷のベンチの前で一人ひょっとこのように立ち尽くした。
 やれやれ。ああも話をはぐらかさせるとは思っても見なかったな。男を扱う上手さは天下一品になっている気がした。
 あの魅惑の天使バンビーナとも言うべきこの朝比奈さんが、あんなに上手いこと口付けができるようになるなんて考えたくも無い。
 あれでは浮気する小悪魔バンビーナだ。
 しまった。元の時代に戻る前にもっと問い詰めればよかった。何時そんなことを覚えたんですかってね。あの感触、あのテクニックで二回目だとは到底思えない。もっと腕(口?)を積んで修行したに違いない。
 変なところで真面目な朝比奈さんだから非常にあり得る。さくらんぼの缶を大量に買ってきて、一個ずつ口に入れて転がして玉結びを作って。舌の動きは……
 ……って、やばいやばい。ものすごくいけない妄想に入るところだった。頭を振って燦燦と湧き上がる煩悩を振り払う。思春期の青少年には刺激の強すぎる妄想だ。続きは家に帰ってから一人で考えることにする。
 俺はおぶっていた朝比奈さんを優しくベンチに腰掛けさせ、そのまま起こさない様に自然な体制をとらせた後、自分もベンチに座った。ふう、よっこらしょ、と。
 未だ懇々と眠りつづける眠り姫は、少なくとも小悪魔の前兆など微塵も見られない。
 だとすると、いつ頃天使から小悪魔に変わってしまったのだろうかね。その現場を押さえることであの朝比奈さん(大)とは違った朝比奈さん(大)を生み出せるかもしれない。
 キーポイントは朝比奈さん(小)の言動だな。今のところそんな兆候はみられないが、少しでも怪しい行動を察知したら即改善命令を発令しなければいけない。
 何となくだが、朝比奈さんの性格を変えても未来にはそれほど影響が無いような気がしてきた。いや、できることなら変えてやりたい。
 あの少女だけじゃない。朝比奈さんも悪の方向に曲がることなく成長させなければいけないのだ。
 その無邪気な寝顔を微笑ましく思いながら、紫の上をどう育てるかやきもきしている光の君のように目配せをしてみた。


 そんな時、である。下駄を鳴らす一組の足音がこちらに近づいてきた。
「あ、キョン、ここにいたのかい。探したよ。集合時間になっても戻らないものだから、二人の身に何かあったんだと思って不安を隠せなかったんだ。でも無事そうでよかった……あれ、朝比奈さんはどうしたんだい?」
 思わず懐に入れておいたお面を隠すように胸元を閉じた。
「朝比奈さんならここで眠ってるよ。ここんところ団活も忙しかったし、加えて受験勉強の真っ最中だろうから寝る間も無かったんだろうな。一休みしてたらいつの間にか眠ってしまったみたいだ。起こすのも忍びないから寝かしていたんだが、そうか、もう集合時間か」
「涼宮さん、かなり心配してたよ。もしかしたらキョンが闇夜に紛れて襲っているんじゃないかって。草むらの方を必死になって探していたよ」
 そう考えると、戻ってきた先がこのベンチで正解だったのかもしれない。もし佐々木に見つかる前にハルヒに見つかったら俺と朝比奈さんの命運はそこで潰えたかもしれない。
「申し訳ないけど、お疲れの眠り姫は何とか起床してもらって集合した方がいい。そうしないと涼宮さんの荒れ狂う怒りは四方八方、縦横無尽に駆け抜けるだろうしね」
 全くだ。
「……ところで、キョン」
 ん、どうした?
「――お兄……ちゃん?」
 ……は?
「………………」
 たっぷりの沈黙が訪れた。
「……くくくっ、すまない。ちょっと言ってみたかっただけだよ。コンマ五秒どころかゆうに一秒はかかってそんな反応をしなくても良いじゃないか。キミには妹君がいるんだから、もう少し鋭敏な反応を指し示してほしいものだね」
 悪かったな。お兄ちゃん等と呼ばれたのはここ数年なかったもんだから反応できなかったんだ。
「うん……そう、そうだよね」
 佐々木は何かを悟ったかのように、
「僕もまだまだ精進が足りないね。もっと自分を切磋琢磨しなければ」
「ああ、そうだな」
 ――お前は、それでいいんだ。


 その後、朝比奈さんと軽く叩いて起こし、やはり寝ぼけ眼で『なんで本物がここであなたはなにをどうして!?』等とパニクっている彼女を何とか宥め、佐々木と三人で目的の場所まで歩いていった。
 ハルヒがこちらを見つけるや否や暴れ馬のように駆け出し、機関銃のようにまくし立てた。
「いい度胸ね。二人して遅刻してくるなんて。理由を聞こうじゃないの。……ああ、そう。わかったわ」
 何も答えてないのに鷹揚に頷いた。
「不思議なもの見つけて来たってことね。彦星の残骸とか、天の川の催涙雨とか、織姫の織物とか。ふーん、なら仕方ないわね。そう言うことなら許してあげるわ」
 待て待て待て。俺達は七夕祭りを楽しむため、二人ずつの班に分かれただけだろうが。何で不思議探索に変わっているんだ?
「あったりまえじゃない。いくら祭りを楽しむ名目とは言え、不思議なものを見つけたら逐一団長に報告するの。それが団員の使命であり、義務なのよ」
 そんな義務は始めて聞いた。せめて団の結成時にでも話してくれそう言う事は。
「有希や古泉くんは残念ながら見つからなかったそうだけど、あんたはみつけたんでしょうね? 集合時間を過ぎるまで辺鄙なところに至ってことは探してたって事でしょ? いいから見せなさい。それとも別な事で遅くなったとでもいいたいの?」
 ネチリというハルヒの言葉がやけにチリチリ感じた。朝比奈さんは朝比奈さんで涙目状態。巾着をぎゅっと抱えてふるふる頭を震わせている。長門はいつも通りマイナス四度の視線、そして古泉もにやけた薄笑い。この状況下、SOS団の団内で俺と朝比奈さんを助けてくれる奴なんざ一人もいないことは分かりきったことだ。
 だが、こいつは違った。
「まあまあ、涼宮さん、彼女は色々とお疲れのようでしたから。キョンだってじっとその場にいただけみたいですし。許してあげましょうよ」
 さすが俺の親友だ。誰一人庇ってくれないSOS団の他の面子と違って空気を読んでくれる。
「まあ……佐々木さんが言うなら仕方ないわね。しょうがないわ。今回は不問にしてあげる。だけどいいこと? 今度淫らな行動を取ったら天誅を与えてあげるから」
 だから俺は何一つやましいことはしとらんちゅうのに。
「それより、お前は何か見つけてきたのか、不思議なもの」
「……ん……まあ、ね」
 何とも歯切れの悪い返答だった。
「それこそ公表してみたらどうだ。彦星の屑か、天の川の鉄砲水かしらないが、本当に見つけたのならたいしたもんだ」
「残念、そんな低俗なものじゃないわ」
 さっき自分が上げた例を低俗と言いやがったな自分で。本当はどうでも良いんじゃないのか、そんなの。などと言ったところで聞く耳持つとは思えない。仕方なく無視することにした。
「あたしがみつけたのはね……」
「何だよ」俺が憮然とそう言うとしたり顔でニカッと笑い、
「秘密よね、佐々木さん」
「ええ。涼宮さん」
 ったく、何だってんだよ。
「あのなあ、お前ら、」
『お待たせしました。本日最後のメインイベント。今年の織姫と彦星を選ぶ時がやって来ました!』
 俺達の会話を中断するかのようにスピーカーめいいっぱいに響き渡ったのは、司会進行をする浴衣姿のお姉さんの溌剌としたナレーションだった。
『さあ、栄光を掴むのは誰だ!? 我こそはと思う人は集まってください!』
「ふーん、何か面白そうね。言ってみましょ」
「ええ、そうですね」
「長門さん、僕達も参りましょうか」
「行く」
「ふぇえ? あの、待ってください~」
「………………」
 ああ、まるっきり無視ですかそうですか。
「キョン、早く行くわよ。ついて来なさい」
 はいはい、行けばいいんでしょ。いけば。
 やれやれと首を捻って数歩先を歩く皆の元へと歩き出したのだった。



 思えば、何ともまあ走馬灯のように忙しく駆け巡った七夕祭りだった。
 少女の二段階における心の成長。
 ハルヒとの邂逅による時間軸の整合。
 朝比奈さん(大)との約束。
 それぞれ対象は異なるが、過去、現在、未来。全てにおいて各々の成長の兆しを実感した今回。こんな風に世界が動くのであれば、朝比奈さん(大)が発言した意味の無い行動だろうとも少しは救われるってもんだ。
 大切なのは時間じゃない。個々がどのように成長を見せるかだと思う。
 逆に言うと、心の成長なくして時間と言う歯車は回り始めない。朝比奈さんの『過去も未来も同一のもの』という発言も、人間の精神と言う時間軸に沿って考えれば納得がいくような気がしてきた。
 もしかしたらタイムプレーンデストロイドデバイスというのは、人の精神力によって時間と言う壁を打破するものなのかもしれない。人の心と言うのは、それだけ大きな可能性を秘めているものなんだ。
 逆に一度心に壁を作ってしまえば、その人の成長はそこでストップ。つまり、時間を停止させてしまうのかもしれない。
 朝比奈さん達未来人は、精神力を物理法則に変換できる術を持っているのだろう。そして、より純粋な情報体……長門の親玉なんかは有機的無機的形骸を持たないため、時間の扱いが容易にできるのかもしれない。
 そう考えると納得がいく。
 だけど、時間を操る術を知らない俺達にとっては今を一生懸命生きるしか方法は託されてない。
 たまたま未来人が知り合いだったために時間移動が出来ましたってのは、ほんの一握りの中の一握りくらいしか存在しない。
 だから、今を必死に生きる。それで十分じゃないか。
 そう考えると、ハルヒが力の限りを尽くして遊んだり映画の撮影をしたり合宿に望んだりするのはむべなるものなんだな。
 あいつはあいつで、未来と言う時間軸を動かそうと必死になっているのだろう。
 俺はそんなあいつの心の壁を、少しは取っ払うことに成功したのかもしれない。
 そう、SOS団という関わりを通してな。


 ま、全部俺の憶測で本当かどうかは保証しかねるんだがな。
 だが、そう考えた方が面白いだろ?



 とまあ、こんな感じで俺が二回に渡って時間遡行した結末は幕を下ろすこととなった。
 しかし七夕祭りはまだまだ終わりではない。先のカップルイベントの他に笹の葉に短冊を吊るすイベントまで盛りだくさんだ。
 だが、その後のイベントで大きな分岐点を作ってしまうことになろうとは。
 ま、ちょっとした余談の一つだけど、暇な人がいたら読んでいただき、俺の真意を汲み取っていただければありがたい。


 


 


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最終更新:2009年08月04日 23:00