「ぷはぁっ!」
 うへぇぇい! 川の水飲んじまったぜ! 変な汚染物質とか含まれてないだろうな、この川!? 公害病も環境ホルモンもご免だ。増してやRoHS指令はきちんと守らないとEUの国々は取引すらしてくれないぜ。
 ――などとボケている場合じゃない。
「おい、大丈夫か、しっかりしろ!」
 右腕に包まった女の子の頬をピシピシと叩く。
「ん……あ…………え……と……?」
 おっかなびっくり、大きな目を開けて俺の方をまじまじ見つめた。よかった、意識はあるみたいだ。それに特別ケガもないようだし……ん?
 まじまじと彼女を見て、一抹の疑問が過ぎった。彼女の顔をどこかでみたことのあるような気がしたのだ。何度も何度も見たことがあるような、でも一回も見たことが無いような……そんな不思議な感覚。彼女は一体……
 ……いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
「とりあえず岸まで泳ぐぞ。話はそこで聞いてやるからな」

 川の深さはそこそこあるものの、流れが緩やかなのが幸いした。服を着込んでいるにも関わらず、溺れることなく岸までたどり着いた。もちろん女の子の方も五体満足である。
 だが、全身びしょぬれの格好ではいくら夏とはいえ風邪を引くこと請け合いである。軽く全身の水を払った後、帯を外してぎゅうぎゅうと絞り、タオル代わりに使うことにする。なに、男の浴衣の帯なんてたいしたもんじゃない。先ずはこの子からだ。
「ほら、これで体を拭きな。ちょっと汚いかもしれないがお岩さんみたいな風体よりはましだと思うぜ」
「……ありがとうございます」
 体躯からして小学校高学年から中学校初等だろう。俺よりも頭二つ分くらい小さい彼女は、自殺を考えていたとは思えないくらい落ち着いた表情で、かつ小声で感謝の言葉を伝えた。
 肩で揃えた髪の毛が顔にへばりつき、その表情まで読み取る事はできないが、顔を拭く時にちらちらと見える、黒い瞳が印象的な、端正な顔の少女。
 やはり、どこかで見たことがあるような――――あっ。
 ……わかった、あいつだ。心の中で正解のチャイム音が流れた気がした。
 ようやく確信したぜ。見た目はやや幼いが、俺の記憶にある一人の少女だ。実際に会ったことはないが、四年前のあいつと言われたら納得できる風体だ。間違いない。
 しかし、
「(何なんだ、この違和感は?)」
 俺はその結論に対して自問自答していた。それは、俺の知っているあいつと比較すると何かが異なるような気がしてならなかったからだ。
 どこが違うのかと言われても説明のしようがないくらい些末な問題に過ぎないのかもしれないが、俺の知っている彼女とは一線を画しているような感じがしてならない。またそれがどこなのかがイマイチ判断できない。
 判断できないからこそ違和感を感じるわけで……四年前の幼さがそう錯覚させるのか?
 ……いや、違う。俺は四年前(当時は三年前だったか)のハルヒだって一目で判ったし、大人の朝比奈さんだって彼女が成長した朝比奈さんだって感づいたくらいだ。
 いや、違うのは外見じゃない。多分…………いや、考えるのはよそう。
 今すべきは彼女が誰かということではない。
 それに……いや、それこそ後からでもどうにでもなる話だ。

 ある意味衝撃的な人物の登場で混乱しかかった俺の脳内をリフレッシュすべく深呼吸一つで頭の中をスッキリさせた後、
「無事でよかったな。だがあんな真似するんじゃない。お前を生んでくれてた親御さんに申し訳が立たないだろう。親だけじゃない。友達や、先輩後輩、先生方……いっぱいいるけど、ともかくみんな心配するぞ」
 くしゃくしゃと頭を拭く女の子は俺を一瞥した後、
「ごめんなさい」
 意外なほど素直に謝った。
 少々拍子抜けした感もあるが、彼女がそう発言している以上、責めつづけることは出来ない。だから、
「なあ、」と切り口を変えてみることにした。「何であんなことをしたんだ? よければ俺に言ってみろ。少しくらいなら話を聞いてやるぞ」
「………………」
 暫しの沈黙。やっぱり一見さんは相手にされないのかね、と思った瞬間、彼女は手を空に翳した。何の真似だ?
「星が、綺麗だったから」
 へ?
「星が綺麗だったから、手を伸ばせば届くような気がしてたんです」
 どういう意味だ? さっぱり分からない。
「でも、全然届きそうに無かったから、欄干の上に立てば取れると思って。確かに危ない行動でしたし、助かったとは言え結果的におあなたにも迷惑をかけてしまいました。本当に申し訳ありませんでした」
 器用に帯を折りたたんだ女の子はそれを両手でしおらしく抱え、深深と頭を下げた。
 つまり、
「単に星を見てただけってことか……?」
「はい、そうです。あまりに綺麗な天の川だったもので……」
 ……マジっすか? 
 星を見ていただけというのが本当なら、自殺云々とか全く関係なくて、俺が勝手な思い込みをしただけってわけで……あれ、そうすると川に落ちたのは自らの意思じゃなくて、結果として俺が突き落としたことになるようなそうでないような……あれれ?
「…………」
「? どうしました?」
「……あ、いや、何でもないですよ、あははは」
「……?」

 ……やべえ。冷や汗とまんなくなってきた。


 下手したら俺が殺人あるいは殺人未遂になりかねないような事件が勃発したが、当の彼女がそのように思ってもみてないところから、晴れて無罪放免となりシャバの空気を吸うことができるまで今しばらく時間がかかった。
 その間「あの、大丈夫ですか?」という彼女の励ましもあって復帰は大分早かったんだけどな。
 けど、それよりも非常にショックなことがあった。
 どうして俺が過去に……この場所に連れられてきたのか。
 どうして俺がこの子と接触することになったのか。
 過去の事象と現在の事象。俺の記憶と既定事項。
 それらが完全にミックスチュアされてハイブリッドなコンポジットが出来上がっている事に気付くのは、これからもう少し先立った。


 浴衣を脱いでぎゅうぎゅう絞れる俺とは違い、気難しい年頃の子が人前で、それも男の前で服を脱がせるわけにもいかない。大分拭った後だから滴り落ちない程度にはなったが、それでも服はずぶ濡れのままだった。
「服の着替えなんて……持って来てないよな」
「うん」
 長門並に平坦な口調で肯定した。だよなあ。どうにかして用意しないとな。
「よし、代わりの服を買ってやるよ」
「……え? でも」
「気にするなって。その姿のままでいる方が問題だ。通りすがる人皆が何事かと懸念に思うだろうし、それより何より風邪を引いちまう。いくらなんでもそれは忍びない」
 本音は俺の勘違いでこの子を川に落っことしてしまったという自己嫌悪感と、その責任を何とかして取ろうとする俺の罪悪感からくるものだったが、そんなことはさすがに声に出しては言えないので心の中にそっとしまっておく。
「本当にいいんですか?」
「ああ。俺も男だ。男に二言は無い」
「……でも……」
「……あ、でもあんまり高いものを選ぶとそのときだけ女の子になるから」
「……えっ?」
「…………」
「…………」
「…………」
 う、不発だったか? 和ませようと思って下らんギャグを言ってみたのだが……等と思った矢先、彼女はやおら目を逸らし、軽く震えていた。
「……くくくっ、面白かったです。元気つけようとしれくれたんですよね」
 見透かされていた。
「何だかすみません、わたしのために。ありがとう」
 微笑む彼女に、
「……ああ」
 と、年配者としてのプライドを簡単に崩壊された俺は少々機嫌の悪い返答を返してしまった。子供相手に大人気ないとは思うが、ちょっとした不平の表れであって他意はない。無いったら無い。
 しかし、表情の乏しかった彼女の顔に僅かながらでも喜びを付加できたことはよかったと思う。この世代の子達にとって、喜怒哀楽を形成するファクターが失活するのは死活問題であろう。
 中学生の時のハルヒのように、ずっと不機嫌一本調子になったらこの子の人生観すら変わってしまうかもしれない。だから少しでも感情を芽生えさせたことは、この子の将来にとって必ずプラスの方向へとシフトするだろう。
 何故か、俺はそんなことを考えていた。
「本当にありがとう。それではお言葉に甘えて……あの」
 ややもじもじしながら、俺の浴衣の裾をつかんだ。
「これ」
 ああ、もしかして浴衣が着たいのか?
「……うん。七夕ですし、それに……」
 それに?
「ううん、何でもありません」
 チラリとあさっての方向に顔を向け、慌てて口を閉ざした。
「そうかい、なら浴衣を買いにいこうか」
 言って歩き出す俺に、
「は、はい……」
 壊れそうなくらい細やかな笑みを浮かべ、少女は俺の裾を掴んだまま歩き出したのだ。



 七夕祭りの明かりが次第に明るさを増していくのはイベントに反比例したライトアップ推進運動をおこなっているからではなく俺達がその会場に近づいているからであり、場内はメインイベント真っ最中で最高潮に盛り上がっていた。
 遠目から見ているだけなのでよく分からないが、イベントブースで浴衣を来た司会のお姉さんが、一般客っぽいカップルを質問攻めに遭わせていた。
 何となく読唇術で会話を読み取ってみると、
『おめでとうございます! 今年の織姫アンド彦星カップルに選ばれました! 二人を祝して笹の葉一年分が贈呈されます!』
 んなアホな。というかちょっとした冗談だ。本当に読唇術が出来るわけじゃないぞ。では実際に何が行われているのだろうね。確かめたい衝動に駆られたが、七夕祭りを楽しむ前に、少女の着替えを調達せねばならない。
 というか何度も言うが、ずぶ濡れの格好のまま人目の多いところに出て行ったら職務質問をされても文句は言えない。どこでもいいから早くこの子に浴衣を買って上げよう。
 浴衣売り場、ね。さてどこがあったけな。脳内の商店街マップを思い浮かべる。
 真っ先に気づいたのは、元の時間でハルヒが仕入れた着物屋の浴衣だった。こんな事言うと失礼かもしれないが、あそこは正直客も多く無いし、怪訝に思う人も少ないだろう。加えて人のよさそうなおばあちゃんだったから、親切丁寧に扱ってくれそうだ。
 しかし、あの店で買うには致命的な問題があった。ズバリ言って高いのだ。俺の財布(袋に入れていたせいか、濡れてなくて助かった)の中身では、浴衣どころか腰紐すら買ってやれる自信が無い。泣く泣く却下。
 てなわけで。
 第二の候補である、婦人服量販店――これもハルヒが見つけてきたところだったな、去年――を目指すことにした。
 服がびしょびしょである理由を聞かれそうだが、ま、適当に言い繕えば問題なかろう。
 そうと決まったら急がねば。早く買いに行かねば店が閉まってしまうぞ。
「……あ」
 自分の妹にするように、俺は彼女の手を引き、小走りで店に向かった。

 しかし、現実とは厳しいものである。
「……休み、かよ」
 定休日なのか倒産したのか、はたまた七夕祭りにあわせてなのか知らないが、店のシャッターは硬く閉ざされ、窓からは光すらこぼれてこなかった。
「さて、どうしようかねえ。他に浴衣を売ってそうな店は知らないし……」
「あの、無理に買わなくても……もともとわたしの我侭でしたし。それに夏ですから多少濡れていても……あと、服も心持ち乾燥してきました。このままでも我慢していれなそのうち乾きます。ですから……」
 そう言ってくれるのは非常にありがたいが、いたいけな少女をほったらかしにするのは俺のポリシーに反する。例え本人が何とも思ってなくても、スルーできる体質ではない。
 彼女を見ていると、朝比奈さんやうちの妹のように献身的になってあげたい。この少女からはそれと同等のオーラが発生しており……
「……あっ!」
 突如、彼女が声を上げた。「どうした?」
「あそこ、人が倒れてます!」
 少女が指差した方を見る。
 商店街の外れ、暗がりが一番濃い場所に人影があった。道路の上で寝転ぶ姿はどう考えたところで普通じゃない。酔っ払いが爆睡している可能性も無きにしも非ずだが、それは駅のプラットホームの椅子で間に合わせてほしいものだ。
 などと冗談を言っている場合じゃない。何にせよ放っておくわけにはいかないだろう。
 言っておくが酔っ払いが可愛いとかじゃない。人間として常識的な行動をしようとしたまでだ。ポリシー以前の問題だ。
「ここで待ってろ」
 女の子にそう促した。誰かが寝ているだけだったら何も問題はない。しかし万が一にでも凄惨な事件の現場だったりしたらこの子のトラウマにもなりかねないし、被疑者がいたらそれこそ命が危ない。そう考えての措置だ。
 しかし彼女は、
「わたしも行きます。少しでも手伝えることがあれば」
「しかし……」
「大丈夫です、影に隠れていますから」
 そう言って彼女は俺の背中のうしろのピタッとくっついた。やれやれ。勇敢と言うよりは無謀だな。あるいは怖いもの知らずと言うべきか……いや。
 どうやら違うらしい。彼女の震える手がそれを如実に表している。一体何のためにここまで……
 本当なら無理にでもここに留めるのだが、この子の性格からすればそれも叶わないだろう。変なところで頑なになるのはあいつの性格そのものだ。
「分かったよ。だが絶対俺から離れるんじゃ無いぞ」
 返事の代わりに、ギュっと浴衣を掴む力が強くなった。

「うう……うう……」
 四谷怪談にでも出てきそうな恨めしい声を響かせるのは俺でも少女でもなく、この先に見える人影からだ。声からして女性であることはわかったが、ひどくしわがれており年齢を判別することはできなかった。
 声が声だけに、場所が場所だけにひたすら恐ろしい空気が漂っている。できることなら逃げ出したいが、ここまで来て『何も見てませんでした』と言う訳にもいかないだろう。
 意を決して声のする方まで歩く。常人が歩くスピードよりも遥かに遅い、赤ん坊がハイハイするくらいのスピードでゆっくりとあたりの状況を確認しながら一歩ずつ確実に迫る。それにつられて声と輪郭がはっきりと解るようになってきた。
 そして、ついに顔が判別できる場所までやってきて…………あ、もしかしてこの人!?
「大丈夫ですか!?」
 俺の後ろに隠れていた少女が俺から身を乗り出し、寝転んでいた人影――着物姿のおばあちゃんを起こした。
「いたたた、うう、すまないねえ……ちょっと足をくじいたみたいで……いたたたた…………」
 間違いない。SOS団全員の浴衣を用意してくれた着物屋のおばあちゃん、その人に違いなかった。

 俺も手を貸し、近くにある多目的ベンチまで運び、三人仲良く椅子に座ったところでおばあちゃんは事の詳細を語り始めてくれた。
 曰く、七夕祭りを早々に切り上げ帰宅の途についたのだが、運悪く空き缶を踏んで足を滑らせ、そのまま挫いてしまったらしい。助けを呼ぶも近隣の人たちは軒並み祭りに参加しているため不在。おまけに暗いから自分の存在に誰一人気付かない。
 そんな中、たまたま通りかかった俺達が助けに入ったと言うわけだ。当初、殺人現場とか妄想していたわりにはなんて事の無い顛末だったわけだが、杞憂に終わったこともそれはそれでよかったと思う。
「あんた達が駆けつけてくれなかったら誰も気づいてくれなかったよ。本当にありがとう」
「いえ、当然のことをしたまでです。たいした事じゃありません」
 照れくさそうに少女ははにかんだ。
「いいや、人の身になって親身にしてくれる若い子がまだいれくれてあたしゃ嬉しいよ。そうだ、何かお礼をしなきゃいけないねえ。そうそう、そっちの……お兄ちゃんかい? あんたにもね」
「あの、この人は……」
「そういやあんたたちずぶ濡れじゃないか。何かあったのかい?」
「…………」
 続けざまに質問するおばあちゃんの対応に困ったのか、少女は俺に目線を合わせてきた。言葉は無かったが、『どう答えればいいの?』と言いたかったことだけは分かった。
 まかせろ。口からでまかせを言うのは得意中の得意だ。あの疑い深いうちの団長様ですら誤魔化したことがあるんだ。
「実はですね、さっきそっちの川で蛍を探していたんですよ。この、」少女の頭に手をポンと置いて、「妹と一緒に」
 彼女の顔が一瞬硬直した。が、それに構わず話を続けた。
「俺はこの川に蛍なんかいやしないといったんですがね。見つけると言い張って中洲の奥まで行こうとして、深みにはまってしまったんです。それを助けようとして俺もこんな姿になっちゃいました」
「あらまあ、そうだったのかい。お嬢ちゃん、お兄ちゃんに心配かけちゃダメだよ」
「……はい」
 納得した様子のおばあちゃんと、戸惑いを見せる顔の少女の顔の違いが印象的だった。もしかしたら見当違いの発言ばっかりで怒っているのかもしれないが……今しばらく我慢していただきたい。本当のことを言うとややこしくなるんだよ。
「蛍は取れなくて不機嫌になったのを何とかなだめる為、浴衣でも買ってあげようと思ったんです。そして祭りに参加すれば少しは機嫌が直ると思って。それでこの店に来たんですが、休みのようでして……」
「ふむふむ、そうかいそうかい。わかったよ、どうやらあんた達の恩返しができそうだね」
「え? それは一体……」
「それはね、」おばあちゃんは少女に目線を合わせて、やさしく諭すように答えた。
 あたしの家に着てみれば解るよ、と。


 未だ歩くことのできないおばちゃんをおんぶし、おばあちゃんの指示どおりに向かったその先は俺の予想通りの場所だった。
 即ち、おばあちゃんの家、着物屋。
「さ、ここでいいよ。遠慮せず中へお入り。正面は鍵がかかっているからね」
 勝手口で下ろすように促されそのとおりにすると、持っていた鍵で勝手口のドアを開けた。言われるがままこの家に吸い込まれていった俺達は勝手口、続いて廊下を通り、居間と続いた先に見えたのは――
「……うわぁ」
 感慨無量の悲鳴をあげたのは、もちろん俺ではなかった。
 用途や色、様々な条件ごとに分けられた反物。冠婚葬祭、種々の様式にあわせて作られた着物の数々。和を思わせる独特の芳香。
 少女の目にはどう映ったのだろうね。その答えは、彼女の輝く瞳だけが知っていることだ。
「お嬢ちゃん、どうだい、いっぱいあるだろ?」
「うん、すごいです。着物がこんなにある場所に来たのは初めてです。反物太物もこんなに豊富なんですね。本来両方扱う店は少ないと聞きましたが……」
「おや、太物なんてよく知ってるね。そうだよ。ここは太物も反物も扱ってるんだよ。本来はご法度なんだけどね。時代の流れには逆らえなくてね……」
「あ、あっちの小袖は友禅染ですか? 以前本で見たものにそっくりなんですが」
「あらあら、本当に詳しいねえ。そうよ。加賀友禅と言ってね……」
 楽しく会話をしているところ申し訳ないが、太物がうんたらかんたらの部分からついていけなくなったので途中から聞き流した。ご了承いただきたい。しかし、えらくマニアックな話をする少女である。いや、それも仕方ないか。なぜならこの子は……
「……そうそう、確かここにちょうどよさげな……ああ、これこれ」
 一頻り話を終えた後、店主のおばあちゃんは店の奥にある桐箪笥を引き出し、折りたたまれた浴衣を少女に差し出した。
「嬢ちゃん、これを着ていきなさい。あたしを助けてくれたお礼だよ」
「えっ? でも、こんなに高そうなものいただけません」
「遠慮なんかするもんじゃないよ。お嬢ちゃんは良い事をしたんだ。昔から因果応報と言ってね、良い事をすれば良い事が自分に返ってくるのは当然のことだよ」
「でも……」
 相変わらず遠慮深く辞退しようとしている。そりゃそうだろう。いくら人助けをしたとは言え、リターンが大きすぎる。ハルヒも言ってたが、この浴衣はかなり高価なものだったはず。正直身分不相応だ。
 もし俺がこの子の本当の兄貴なら、あるいはうちの妹なら。彼女同様この提案を潔く辞退しただろう。
 しかし――

「すみません、ありがとうございます」
「えっ!?」
 不思議そうな顔をする少女を無視し、俺は店主から浴衣を受け取った。
「ほら、着させてもらいなさい」
 ――しかし、直感で分かった。彼女にはこの浴衣が必要なんだと。

「……はい、ありがとうございます」
 五ワットくらいの豆電球並みの笑みだったが、闇夜に慣れた俺の目にはとても眩しく感じられた。



 細々と輝く街灯は物寂しい商店街ひっそりと照らしているが、それでも上空で瞬く星々の大半を掻き消すには十分であり、対照的に祭り会場の明かりは燦燦と輝いている。主役を蔑ろにした演出もどうかと思うんだが、それは些末な問題に過ぎないらしい。
 結局七夕を出汁にしてドンちゃん騒ぎか、あるいは店の売り上げを上げたい商工会の陰謀だろうし、それに楽しければ別段構わないって連中もいるだろう。斯く言う俺もその一人なんだがな。
 祭りは、まだまだ終わりそうに無かった。
 さて、何故俺が外の様子を延々と語っているかというと、彼女が着替え終わるのをここで待ってたわけだ。いくら俺の妹になっているからとは言え、年頃の女性が着替えているところを見るわけには行かないだろう。
 当てが外れたコソドロがするようにそそくさと退出した後、商店街の表通りへと歩き、辺りの風景を見回していたのだが……
「結構寒いな」
 思わず身震いした。昼間とは違い、この時期の夜は意外に冷え込むときがある。その辺真夏とは違う訳で、夏風邪を引く主要因ともいっていいだろう。完全に乾いてない浴衣が風に吹かれるとなおのことだ。
 コンビニかどこかで肌着用のTシャツを買ったほうがいいかもしれない。まだ大丈夫だと思うが、今後暫くこんな感じだと本当に風邪を引きかねない。『夏風は馬鹿が引くものなのよ』と熱弁を振るってた団長様に揶揄されたくは無い。
 そうすると、ここであの子に浴衣を着させたのは正解だったと思う。川に落ちた後、ずぶ濡れだった浴衣を絞った俺でさえこれだけ身震いするんだ。あの子は軽く水を拭き取っただけで衣類は脱水機にかけた洗濯物よりも濡れている。
 あのままおばあちゃんの申し出を受け入れなければ、彼女は風邪を引いてしまうこと請け合いである。何度目か分からないが、同じ言葉を繰り返し――いや。
 それは口実、表向きの理由にしか過ぎなかった。本当の理由は別にある。
 何故俺が過去に飛ばされたか、分かった気がしてきた。
 ここでこの浴衣を手に入れることが、彼女の人生に後々大きく関わってくるんだ。
 何故なら、彼女は……

「……あの」
 腕を組みながら河川敷の方を眺め考え事をしている俺の耳に、場違いなほど可愛らしい声が響き渡った。振り返ってみるが彼女の姿はそこにはなかった。
「そちらにいたんですか?」
 ああ、ちょっと祭りの様子を眺めたくてな。それより着付けは終わったのか?
「あ、はい。それで、あの……」
 ここまで言って再び沈黙した。俺はやれやれと溜息をつきながら、路地裏を通り、勝手口まで歩いた。
「……!」
 少女は驚いた様子で俺の顔をまじまじと見つめ、
「ええと、ど、どうでしょうか……?」
 どうもこうもないさ。いくら女心に不得手な俺でもこういう時にかける声は分かっている。
「ああ、似合ってるよ」

 おばあちゃんが差し出した浴衣は、奇しくも俺と同じデザインの浴衣だった。曰く「偶然同じものがあってよかったよ。兄妹でお揃いの方がいいもんね」とのことだ。
 少女もまんざらではなかったらしく、貯めつ眇めつ俺と自分の衣装を見比べては歳相応の笑みを浮かべていた。
 しかし、それでも懸念事項はいくつかあったようで、
「ごめんよ、もっと小さいサイズがあると思ったんだけど、その大きさしか無くてね。今着て行けそうなのはそれしかないんだ。ちょっとは裾直ししてみたから着れないことは無いと思うけど、ちょっとチグハグかもね」
 居間から顔を出した店主のおばあちゃんが、勝手口先で固まってる俺たちに声をかけた。
「生地は他にもあるから、新しく作ってあげてもいいんだけど、どうするかねえ?」
「いえ、それには及びません。これでも十分です。そうだろ?」
「うん、これでいい。ありがとう!」
 少女は嬉しそうにぴょんぴょんと跳ね、手を広げてくるりと一回転して見せた。
「そうかい? なら良いけどね……あ、そうそう。今縫いつけてある糸を取れば元のサイズに戻るから、嬢ちゃんが成長してからも着れるようになるからね。大きくなって着る機会があったら解くといいよ」
「わかりました」と俺。「わざわざありがとうございました」
「礼はいいよ。むしろこっちが感謝したいくらいだ。今の若い人たちはあんまり着物を着なくなったからねえ。そんなに喜んでもらえると本当に嬉しいんだよ。長年店をやってたけど、これだけ良い気持ちになったのは久しぶりだよ……」
 昔の思い出をリフレインしているのか、感慨深く話を続けていたご老体だったが、突然「それより」と話が変わった。
「早く行かないと、終わっちまうよ」
『?』
 俺と少女は頭の上に同時にクエスチョンマークを点灯させる。
「いやだねえ。あんたたち七夕祭りに行くつもりだったんだろ? 自分自身が言ったことを忘れちゃ困るよ。こんなおばあちゃんでも覚えているのにさ」
『あ……』
 またも同時に声を上げる。そう言えばそんなこと言ったっけな、俺。
 思わずお互いの顔をみつめ、吹き出してしまったのは言うまでもない。


 もうそろそろ打ち上げ花火の時間だよ、さあさあ行った行ったと急かされ、大急ぎで七夕祭りの会場に駆けつけると既に人だかりで一杯であった。普段閑散としている商店街のローカル祭りのくせにこう言うときだけは目ざとい我が街の市民を呪ったね。
 特等席は乗車率150パーセント程で子猫すら入る隙間も無いし、一般用の立ち見場所もここはというスポットは占拠されている。おまけに背の高い大人が我先にと馳せ参じたせいか、一般的男性の平均身長を誇る俺ですら見渡すのがやっとだ。
 もちろん、この子は言うに及ばず、である。
「しまったなあ、これじゃ何も見えないぜ」
 諦めモードに達観した。
「…………」
 その俺を不安そうに見つめながら、少女は俺の手をギュッと握った。彼女の瞳に映ったのは、先ほどまでの憂鬱感たっぷりの視線。
 このままではこの子のメランコリーが復活してしまいそうだ。僅かながらも笑顔が戻ったの言うのに……何とかせねばいけない。そう思った俺は、
「肩車、してやろうか?」
「えっ!?」
「どうせ見えないんだろ? 遠慮はいらないぞ」
 彼女の賛否を聞かず、股夫の股くぐり宜しく彼女の浴衣の裾に顔を突っ込み、そして立ち上がる。
「え、ちょっ、やっ……」
 果たして俺の予想通り、些細な抵抗をし始めた。まあ、確かにこのくらいの女の子はデリケートだから、いきなりこんなことをされればもがくに決まっている(除くうちの妹)。だが。
「じたばたすると余計危ないぞ。じっとしてろ」
「…………」
 驚くほど素直に従った。これも俺の予想通りに。

 今更ながらであるが、俺の感じていた違和感がようやくわかった。
 それは性格。この子は驚くほど素直で、遠慮深かった。というより、かなり気が小さい。先ほどから行動を共にしててわかった。
 川に跳び落ちたのは自分のせいだとし、遠慮はするが無下に断れない。見ず知らずの俺の言うことをはいはいと受け取り、人に言われたことを素直に受け止める。
 強引な性格が蔓延る俺の環境下ではこんな性格がいとも羨ましく感じるのだが、しかしこの性格は――違う。
 彼女の性格は、こんなんじゃない。
 俺の知っている「彼女」は……

「…………」
 様々な色と轟音を響かせ、夜空に火の花が咲く。その情景に見入る少女に、俺はある決心をすることにした。


 恙無く進行した打ち上げ花火終了後、何店かで店めぐりをした後、いよいよ七夕祭りはフィナーレを迎えることになった。ラストは一斉にライトダウンが行われ、用意された笹の葉を天に翳し、各々の願い事を叶えるべく祈りをささげるというものだった。
 短冊を貰ってなかった俺達は事務所まで赴き、短冊シート三枚組を購入し(本当に有料なのな)、うち二枚をこの少女に差し渡した。相変わらず遠慮深い少女は『自分で買います』と聞かなかったが、その辺は俺がごり押した。
 不承不承ながら、そして俺の方をチラチラと覗きながら、借りたペンを恐る恐る走らせる少女の表情が印象的だった。
「どうだ、願い事はかけたか?」
 先に書き終わった俺が近づくと、慌てて短冊を隠した。おいおい、冷たいなあ。
「……あの、ごめんなさい」
 やっぱり謝る少女。
「いや、スマンスマン。何て書いたか気になってな。良ければ何て書いたか教えて欲しいと思ってな」
「…………」
 ひたすら沈黙――いや、俺の目を見ては目線を下げ、何かを言おうとしては口を紡いでいる。
「……いや、」と言葉を切り、俺の思いを正直に答えることにした。

「何が、あったんだ?」

「…………」
 少女は、相変わらずの沈黙――いや、絶句しているように見えた。


 この『少女』がとても素直で遠慮深い性格である事は先に述べたとおりだが、俺の知っている『彼女』とは似ても似つかない、とても同一人物だとは思えないくらい性格を違えているのもまた事実だ。
 確かに、変わってないところもあったさ。やたらと薀蓄を語ることやら、変なところに固持する性格はオリジナルそのものだ。
 だけど、違うんだ。
 俺の知っている『彼女』はここまで従順ではないし、ここまで素直じゃないし、俺の突っ込みに話をすり替えては反応を楽しみ……何だか悪口っぽくなったが、だが本当のことだ。
 何より、『彼女』のあんな顔を見たことがない。
 俺に話を振る時、俺の返答を待ち構えている時、俺の意見に反論する時、俺が馬鹿やった時……色々あったが、『彼女』が俺に見せた顔の中には、あんな憂鬱メランコリーな表情は一切無かった。
 この『少女』とあの『彼女』の間には、量子トンネリング効果ではすり抜けられないような大きな障壁があるように見えてならない。以前『彼女』自身が教えてくれた隣の教室との壁とは比べ物にならないくらい、エネルギー準位の高い壁だ。
 
 ――人の内面など、よほどのことが無い限り変わることは無い。
 以前『彼女』はこう豪語したことがある。博識な『彼女』らしい、スマートでインテリジェンスな持論だ。
 だが……いや、だからこそ、と言うべきか。
 『彼女』が、いくら過去の自分だからとは言え、いくら数年前の頃だとはいえ、こんなにもキャラクターを変えている理由がどこにあるのだろうか?
 その理由は、他でもない。

 『彼女』の身に、何かが起きたんだ。
 『彼女』の価値観を変えてしまうような、重要な何かが。



「正直言うとな。ずっと何かを隠しているようで気になったんだ」
「…………」

「何か言いたいことがあったら言ってみろ。何でもいいぞ」
「…………」

「辛いことや悲しいことでもいい。話してみろ」
「…………」

「家族のことでも、クラスのことでも、何でもいい。どんな悪態でも話を聞いてやる」
「…………」

「こんな俺だが、グチくらいは聞いてやるさ」
「…………」

「溜め込んでおくのは良くないぞ。いくらでも相手をしてやる。だから、な」
「………うあ」

 ……ん?

「うあ、うあああああ、うわああぁぁぁぁあぁぁぁぁ~」


 突如。
 本当に突然だった。彼女は俺の胸倉を掴み、そこに突っ伏して泣き出したのだ。
 言うまでもないと思うが、ここは七夕祭り会場のど真ん中、笹の葉ブースであり、最後のイベントを行うために人がたくさん集まっており。
 当然、俺の周りに人だかりが出来上がる。
「え、いや、ちょ……」
「うわ、うわあ、うわぁぁぁ~ん!!!!」
 どうにかしてなだめようとするも、彼女の号泣は治まるどことかより激しさを増している。ゲリラ豪雨さながらの涙であった。
「わ、悪かった! 俺が悪かったって! だから落ち着こう、な!?」
 などと言っても泣き止むはずも無く、仕方無しに彼女を抱きかかえ、人目の少ないところまで移動する羽目になったのだ。


 とは言え、泣きじゃくる少女を抱えて遠くまで逃げるわけにもいかず、あれやこれやと考えているうちに橋の袂まで辿り着いた俺を待っていたのは、
「……あ、ほら、見てみろよ」
「………………」
 突然のライトダウンに伴う暗闇――いや、星々の煌きだった。
「そうか、ライトダウンは会場だけじゃなくて、この周囲の電灯まで消すんだな」
 なかなか風流なイベントである。利益追求の利己的な商店街だと揶揄していたが訂正しよう。見直した。まさかここまでやってくれるとはね。
 商店街のライトも殆どが消灯され、人工的な光と夜空の光が逆転する。加えて本日は朔の日なのだろうか。月の灯りすら見えない。それでもこれだけ明るく見えるのは、星の光様々である。
 もちろん、その中でも一際明るく光る星がある。
「ほら、織姫と彦星だぜ。あれが。確かベガと……アルカディアだっけか?」
「……アルタイル」
 そうそう、そのアルタイルだ。確か二十五光年離れていてな、
「十六光年です。ベガが二十五光年」
 ん、そうだったか? ともかく、夏の星として有名な二大巨星なんだ。
「大きさだけで言うなら同じく夏の大三角形を形成するデネブの方が大きいとされていますし、同じく夏の星座でもあるさそり座のアンタレスはデネブの三倍以上あります」
 ええい、人がせっかく説明しているのに。昔からこう言うところは変わってない奴だ。
 だが安心したよ。
「どうだ、少しは落ち着いたか?」
「……はい、ありがとうございました」
 抱えている彼女をゆっくりと降ろし、欄干を立てているコンクリートの部分に座らせた。
 彼女は既に泣き止んでおり、見た目では平静を取り戻している。俺のトンチキな解答が少しは彼女の気を紛らわせたのかもしれない。
 ……が、笑顔が復活したとまでは言い難かった。恐らく、少女の中に溜め込んでいるものがまだあるのだろう。
 毒は、全て吐き出さないといけない。彼女のためにも、そして俺のためにも。
 そして、未来のためにも。

 この後暫く沈黙が続き、何か話を繕った方がいいかなと考え始めたその時、
「ごめんなさい」と彼女が口を開いた。
「いきなり泣き出しちゃって。ごめんなさい。驚きましたか?」
 ああ、結構な。
「確かに、仰る通りでした。自分の中に色々溜め込んでた感情があって、それを無理矢理押し込めていたんです。でもさっきの言葉が導火線となって火がついて、そしたら連鎖的に爆発して……気付いてたら、泣いていました」
 もう一度聞くけど、何があったんだ? よかったら話してみな。解決できないかもしれんが話し相手くらいにはなってやるぜ。
「ありがとう」と微笑んだ後、彼女は言葉を続けた。
「色々ありました。交友関係のしがらみ、両親との喧嘩、成績不調、学業と部活動の確執……様々なものがストイキオメトリというよりはコングルエントとなってわたしの精神を蝕んでいったんです。精神的な軋轢ですね。そのせいで、小学生の時は何とも感じなかった些細な出来事が、中学生になってからは突然重荷になってしまいました。それでも、わたしなりに何とか頑張ってみました。自身にできることをせいっぱい生きるのが人間という個体に生まれたものの業ですし、本能だと思ったんです。だから、今までどおり変わらず生活を続けてきました」
 欄干に腰掛け、黙って話を聞く。話に横槍を刺すのは、彼女の鬱憤を晴らせないような、そんな気がしたからだ。
 この時代の『彼女』がどのような日常生活を送っていたかは知らないが、彼女なりに苦痛に思うところはあるのだろう。ハルヒだって中学生当時の日常を変えようと思って色々やってきたんだ。ハルヒだけが、あるいは彼女だけが特殊だなんて思ってはいけない。
「ですが、」グッと拳を握り、何かを堪えるようにわななき……そして、意を決するかのように答えた。「今日、自分の努力を無に帰すような出来事があったんです」
「何が起きたんだ?」
「……実は今日、フられちゃったんです」
 ――正直、絶句した。二の句が告げられない。
「と言っても、片思いの人ですけどね。以前から噂にはなっていたんですけど、二人が七夕祭りで一緒に中睦まじく遊んでいるのを目撃して……ああ、本当だったんだな、って。その瞬間、わたしの中にあった、精神と体を繋ぎとめている糸がフッと切れたような感覚に陥ってしまいました。二人が付き合っていた事実を突きつけられたのはショックだったけど、でもそれ以上に報われない自分がとても疎ましく思って……そして、気付いたらこの橋の中央まで来ていました」
 ふっ、と溜息ひとつついた彼女は、欄干に手をかけた。
「もうひとつ、ごめんなさい。あの時は星を見てたなんて嘘をついたけど、本当は飛び込んで楽になろうと思ってたんです。何もかも、考えるのが嫌になったんです。こんなにつらい思いをして、生きる意味が感じられなくなったんです。でも直前になってその踏ん切りもつかなくなって、欄干の上を上ったり降りたりを繰り返して……後はご存知の通りです」
 今度は空を見上げた。
「今日は七夕。織姫と彦星が一年で一回出会うことの出来る、唯一の日。なのに、わたし……何してるんだろ?」
 彼女の頬に、再び雫が流れ始めた。


 そうか、そう言うことか。
 彼女が憂鬱メランコリー状態をずっと演じ続けている理由がようやく分かった。
 滔滔と語ってくれたが、とどのつまり振られたことによるショックが大きかったのだ。もちろんそれ以外にもショックなことは起きてたようだが、彼女自身の価値観を変えてしまうほどの出来事ではなかったはず。
 一番の要因は、彼女の淡い恋愛感情が実らなかった事実と、それに対する自信喪失。それが災いして、彼女が持つオリジナルの性格をスポイルし、ああもネガティブな性格に成り下がってしまったんだ。
 身も蓋もないことを言ったが事実である。だが決して彼女をバカにしたわけじゃない。彼女も普通の女性であり、普通に恋をして、普通に失恋をしただけの話だ。恋愛の一つや二つ経験してもいい年頃だろうし、それを拒否する権利は誰にだってない。
 そう、彼女は普通の人間なんだ。正真正銘、普通の少女なんだ。
 だから、俺は――


「恋愛感情なんて精神病の一種、気の迷いさ」
「……え?」
「俺の知り合いに、こう言う持論を持っている奴がいてな。恋愛や異性に関してはその辺の石っころみたいに思っていやがる。そんなのそっちのけにして自分を楽しむことに命を掛けている。そう言う奴なんだ」
「……あの」
「あまりに異性を異性と思ってないから時折困る事もあるんだが、あまり意識していないからこそ仲良く馬鹿やって遊べるってことも確かにあるな」
「それは一体……」
「気にしすぎだ。そんなに自分を責めるな。自分が悪いわけでもないのに勝手に振られたと思って勝手に自分を傷つけて。一体それが何のためになるんだ?」
「…………」
「もっと図太く生きろよ。自分が男を選ぶんじゃなくて、男に自分を選ばせるくらいにな。むしろ男を手玉にとってからかうくらいの気概があった方がいい。大丈夫。お前だったらそれくらいできるさ」
「…………」
「そして、そんな自分を分かってくれるような奴に出会えたら、その時に自分の本性を曝け出せばいい」
「……でも、もしその時、その人が自分を受け入れてくれなかったら……」
「そんな事は絶対に無い」
「どうして、そう言い切れるの?」
 それは決まってるだろ?
「お前が選んだ人だから。間違いは無いさ」
 驚いた顔で俺を見つめた少女は、強張った顔を緩め――
「……はい」


 ――彼女の顔に、ようやく笑顔が、本物の笑顔が戻ってきた。


「本当に、ありがとうございました。愚痴に付き合ってもらっちゃって」
 その完璧な笑顔を取り戻した少女は、黒い瞳をより輝かせながら俺に感謝の意を示した。
「いや、良いってことよ。それより、七夕の願いを書き損じてしまったな」
 七夕祭りの会場のライトが消えているのはライトダウンを継続中というわけではなく、単に祭りが終了したためである。その証拠に橋の電灯は先ほどから点灯し始めた。
「あ……本当ですね。ごめんなさい、わたしのためにこんなに長い間付き合ってもらって……」
 気にするな。乗りかかった船だ。それに短冊はなくとも牽牛星と織女星は健在だ。ここからお願いをすればいいさ。
「まず俺からのお願い。それはな、お前がもっと人生を楽しめるよう、日々の生活に希望が持てますように」
 パンパンと手を立てて祈る。二礼二拍の儀式とは何ら関係ないのだが、願い事をするとき必ずといって良いほどこうするのは、俺が日本文化にどっぷり浸かっていることの表れだろうね。
 ふと横を見ると、一緒になってやる少女の姿もあった。実にいじらしいね。この頃のこいつは、ある意味朝比奈さん級にいとおしい節がある。このまま成長せずにいてくれたらな、と邪な考えも沸いて出たがすぐにデリートした。
「さ、次はお前の番だ」
「あ、あの……」頭を上げた彼女は、しかし不満げな顔をして「せっかくのお願いを、わざわざわたしのためにしてくださらなくても……」
 だから、そんなにほこほこ謝る必要はないぜ。もっと根本的に強くなれって。
「でも、人の性格って、そうそう変えれるものじゃありません」
 一理ある。だがな、
「さっき、川の中に飛び込んだだろ?」
「……? は、はい」
 あの時、弱気で泣き虫な自分は死んだんだ。今ここにいるのは新生の自分。新たな価値観を構築していけば良いさ。熱心なユダヤ教信者からキリスト教の聖人へと帰依したり、天動説から地動説へと乗り換えた人だっているんだ。やればなんとかなるさ。
「そう……ですね、自分から変わっていくのが重要なんですよね」
 そのとおり。
「本当に何度もすみません。おかげで目が覚めました。これからはもっと自分を変えていけるよう努力していきます」
 ああ、頑張ってくれ。俺がそう言うと少女は元気よく「はいっ!」と答えた。
 やれやれだぜ。
 俺がこの時間の来た理由、既定事項。それもどうやら終わりを迎えられそうだ。
 今回は川に落ちたり、女の子に泣かれたりと散々だったな。この謝礼はきちんと払ってもらいますからね、朝比奈さん。
 そう言えばまだ姿を見せないが……恐らくもうじき姿を現すだろう。全てを話すためにな。

「……でも、その前に」少女は煌く瞳を俺に向けて、「わたしもお願いがあるんです。聞いてくれますか?」
 内容にも依るが、大体の願いは叶えてやるぜ。
「ふふっ、ありがとう」
 そして彼女は手と手を合わせて、天に向かって、祈った。


 ――来年、七夕祭りでまた会って下さい、と。


 彼女の言い分はこうだった。
「あなたにはその義務があります。だってわたしを変えるように願ったのですから」
 そりゃ、ま。確かにその通りなんだが昨日の今日ならぬさっきの今で、かなり積極的な性格になった気がする。
「だって、弱いわたしは死んだのでしょ?」
 口は災いの元である。下手な事はいえないものだ。
「とは言え、これだけ自分に素直になれるのはあなたの前だけのような気がします。まだ他の人の前ではそんな勇気がありません。手を貸してくださいとは言いません。自分で変わる努力をします。だから一年後、どれだけ変わったか精査していただきたいのです」
 わかりましたか? とメデューサの如き鋭い瞳で睨まれた俺は「はい」としか言い様が無かった。だが俺の返答を受けると彼女は途端に柔和な顔に戻り、
「頑張って成長してみせます。弱い心に負けない自分になるように努力します。生まれ変わった自分を見て下さい。目立つようにこの浴衣を着てきますから。見かけたら声を掛けてください、絶対ですよ――」
 そう言いながら、彼女は何度も振り返り手を振り、燦々と輝く瞳を俺にぶつけ、そして夜の闇に消えていった。

 ……やれやれ。彼女の成長監視記録はもう少し続きそうだ。



「どうだ、面白い展開になっただろう? これも規定事項の一つ……いや、朝比奈みくるの世界とは違う、別の未来の可能性かもしれないな」
 この時間の全ての既定事項が終わった後、二人の未来人が待つ河川敷のベンチまで駆けて行った俺が見たのは、藤原の実に楽しそうな笑みだった。朝比奈さんは未だ眠り姫の役を続けている。
 こいつが何を企んでいるのか、あるいは他の未来人にどう反旗を翻しているかは知らないが、そんな事は知ったことじゃない。俺は俺の時代を守るだけだ。
「頼みが、ある」
 息を切らしながらも開口一番に行ってやった。藤原の口車に乗る気は毛頭無い。というかそんな暇は無い。
「藪から棒に、一体何なんだ?」
「今から一年後の今日に飛んでくれ」
「なっ!」
 さしもの藤原も驚愕せざるを得なかったようだ。
「聞こえなかったのか? 今から丁度一年後の、七月七日、に、飛んでくれ。時間は……」
「ちょ、ちょっと待て!」
 どうした。お前ならできるんだろ?
TPDDが使用できるからといって、何時どの場所に飛んでも構わないというわけじゃないんだ。過去の歴史を勝手にいじ繰り返すのは重要な犯罪だ。できるわけがない」
 なるほど、朝比奈さん(小)と一緒なんだな。しかし。
「お前自身の力でどうにもならないなら、上司にでも申請してみたらどうだ?」
「貴様……誰に対してものを言ってる!?」
 お前こそ、誰に対してものを言ってるんだ? 俺の言うことを聞かないと、この先の歴史をいくらでも変えてやるぞ。とりあえず今から東中に行って、ハルヒが書いた落書きを全て消してやる。或いはハルヒと結託してもっと過激なペイントを施してやってもいい。
「なっ……!」
 さっきお前自身が言ってたよな。未来からの干渉に抗ってみろって。俺はその準備がいつでも出来ている。俺の言うことが聞けないならいくらでもやってやるぜ、今すぐにでも。さあ、どうするんだ?
「ぐっ……待ってろ!」
 本心では絶対拒否したいのだろうが、切り札を突きつけられた藤原は不承不承ながらも両手を耳の近くまで持ってくる。恐らく通信しているのだろう。この辺は朝比奈さんと同じだ。
 そして。
「なっ……最優先……強制コードだと……!?」」
「どうした? ダメだったってか? そりゃしょうがない。元の時間に帰るとするか」
 勝ち誇った顔をして見せた。
「待て!」
 待てだ? 待ってくださいだろうが!?
「ま……待ってください!!」
 おーおー。こいつの顔が真っ赤だ。写メに取っておきたいねえ。
「くそ、覚えていやがれ!」


 かくしてまんまと俺のタイムマシンへと成り下がった藤原は、嫌々ながら俺の手を取り時空を掛ける羽目と相成った。
 因みに朝比奈さんは俺がおんぶしている。この人なら一人で元の時間に帰ってくる事も可能だろうが、また何も知らせずに物事を運ばせると彼女の精神的疲弊は膨らむばかりである。さすがにそれだけは避けたいものである。
 藤原が行った時間跳躍は、驚くことなかれ、朝比奈さんが行ったそれよりも遥かに心地よいものだった。
 ……いや、決して気分のいいものではないが、あの頭がクラクラする酷いむかつきがかなり抑えられていたのだ。タイムマシンに差があるのか、運転方法に違いがあるのか、そこまでは分からないが。
 ――朝比奈さん、聞いてますか? 原因が前者ならば仕方ないですが、もし後者の問題ならもう少し技術を高めて欲しいものですね。バスやタクシーでも目的地に到着しさえすれば良いって訳じゃない。乗客の身になって酔わせたり不愉快な気持ちにさせないような運転を心がけるべきだと思う。移動する場所が時間軸でもそれは同じ事です。もっとその辺を考慮してくださいね――
 時間軸に沿って超特急で順行する最中、耳元でくうくうと寝息を立てている朝比奈さんを愛でながらふとそんな風に思っていた。


 だが。
 この時、自分の優越感に浸っていた俺は超重要事項を見逃していた。
 藤原をまんまとはめ、未来人に対する優位性を確保したと思い込んでいた俺はその疑問点に気付くことがなかった。いや、気付こうともしなかった。
 タイムトラベル中でも、あるいはトラベル完了後でもいい。その時その疑問点に気付いていたならば、俺は未来人の優位性を百パーセント確保できたと言っても過言ではなかっただろう。
 しかし、時の流れには抗えない。
 エントロピーが増大する方向へ移動するように、宇宙が開闢以来ずっと拡張しつづけているように。
 既定事項もまた、覆す事はできない。
 それに気づいたのは、これよりもずっとずっと後のことだった。


「到着したぞ、目をあけろ」
 軽い目眩のような症状がふわっと消えたかと思うと、続いて聞こえてきたのが不満たらたらの未来人の声だった。
「……ん」
 自分の感覚を確かめた後、ゆっくりと目をあける。
 そこあったのは、先ほどと何一つ変わらない光景だった。河川敷に敷かれたベンチ、煌々と輝く夜空、遠くでがやつく祭り会場……ん? 祭りはさっき終わったばかりだったじゃ……?
「お望みどおり、先の時間軸からほぼ一年後のこの場所に来てやった。祭りは今から始まるはずだ。ありがたいと思え」
 どこまでもいけ好かないこのお方野郎はいつ何時も気に触る言い方をするやつだ。感謝の言葉すらかける気になれん。ハルヒとは別の意味で黙っててほしい。余計なことを言って敵を増やすパターンだな、こいつは。
「それこそ余計なお世話というものだ。罵詈雑言を叩く暇があれば、早く行って来きたらどうだ? 僕の規定事項にもかかわるんだ」
 こいつの既定事項など知ったこっちゃない。俺は俺の約束を果たすのみだ。ただ、今回は双方が一致しているだけに過ぎない。
「わかったよ」と一言告げ、抱えていた朝比奈さんをベンチに寝かせた。「行ってきます。朝比奈さん。どうかご無事でいてください」
「朝比奈みくるはあんたが事を済ますまで起きることはない。そのように寝かしつけたからな。心配するな」
 馬鹿をいうな。俺が心配してるのは、女にもてそうにないお前が朝比奈さんのフェロモンに耐え切れなくなって手を出してしまうのを憂慮しているだけだ。絶対襲い掛かるなよ。じゃあな!
「ぐっ、だからそんなことする訳なか……くそっ! 人の話を聞けぇ!」
 もちろん聞くわけがない。
 なるほど、藤原はああやっていじればいいわけだ。藤原対策としてこれから実践していくことにしよう。


 日が沈みきった夜空に星々の輝きが瞬き始めたころ。商店街の店舗が開店準備を始め、会場の真ん中には笹の葉が飾られ、そしてブースの装飾が一斉に灯し始めた。この年の七夕祭り、いよいよ開催である。
 去年と同じく浴衣姿に扮した司会のお姉さんが開会宣言やら開場の説明やらを口にし、それに代わって商工会議所のお偉いさんだろうか、よぼよぼのおじいさんが町の伝統について延々と語り始める。その挨拶を聞きたいのか聞きたくないのか。少し騒然となりながらも開会式は予定通りに進行していく。
 そんな中。大多数の人間が集まる会場から外れていく人影――もちろん俺だ――は、当初の目的通り橋の袂まで駆けつけることが出来た。時間にしておよそ五分のロス。待ち合わせ時間など無用の長物となったSOS団会合では長く久しい言葉である。これこそモノホンの遅刻だ。このような状態になって初めてオゴリとかの話を切り出すべきなのに全く……
 うん、そんなことをいってる場合じゃないな。急ぐぞ。
 にしても、あれから一年か。俺にとっては数分程度の別れでしかないが、一体どれほどの成長を見せるのだろうね。俺の知っている彼女と殆ど同じ外見になっているかもしれない。
 何故かと言えば、俺が彼女に会うまであともう……
「あ!」
 重要なことを思い出し、思わず足を止めた。
 ちょっと待て。今俺は何と言った? 彼女に……アイツに初対面するまで、あと……
 月日を指折り数える。はち、きゅう、じゅう、じゅういち、じゅうに……
「…………マジか」
 数え終わった瞬間、血の気が引いたことが判った。
 考えても見ていただきたい。
 俺がこの時間、彼女と出合ったとしよう。この段階では「やあ久しぶり」とか「また会えて嬉しいです」とか、そんな会話で始まり、「楽しかったです。じゃあ」で終わるかもしれない。
 だが、問題はここからだ。
 それから一年もしないうちに、俺が……この時代を生きる「俺」が、「彼女」と邂逅を果たしたらどうなる?
 それほど姿形が変わってない「俺」を、「彼女」が発見した時、どう思う?
 簡単だ。かなりやばいことになる。どんなこやばいことになるかは古泉の推論や未来人の経緯を聞いてくれ。俺は知らん。
 俺が解るのは、このまま彼女に会うわけにはいかないってことだ。
「……って、そんなこと出来るか」
 内心毒づいた。
 彼女の約束。一年後のこの祭りに会いましょうという約束。それを破るわけにはいかない。既定事項だとか未来からの干渉とか、そんなのは関係ない。
 一人の人間として、正しいことを遂行しているだけだ。だから、何としても彼女に会いに行かねばならない。
 しかし、会いに行けば後々ややこしいことになる。
 くそ……どうすりゃいい?
 考えろ。よーく考えるんだ。
 何かしら回避策があるはずだ。俺が「俺」であることをばれないようにしつつも、この時間俺が彼女と会っても何ら問題の無い方法が、きっとあるはずなんだ。
 嘘じゃない。何故なら、「俺」が「彼女」と初対面を果たしたあの時だって「彼女」は何も疑問に思わなさそうだったし、第一何も聞かれてない。
 だから、あるはずなんだ。アドレナリンを放出させて良く考えろ、俺。
 約束を破って会いに行かないというのはどうだ? ……いや、それでは彼女はまた憂鬱状態に戻ってしまうかもしれない。
 そうだ、この時代の長門に協力してもらって、情報操作で彼女の記憶をを変えてしまうのは? ……駄目だ、今から長門のアパートに行ったら時間がかかりすぎてしまう。同じ理由で俺の顔を変えてもらうのも企画倒れに終わった。
 その後も必死で頭を巡らせたが、どれも一長一短で決定力に欠けていた。
「何ともならないのかよ……くそっ!」
 ガクッと項垂れ、手に膝をつき、失望するかのように顔を下に背けた。
 瞬間、俺の懐に入れていたあるモノが零れ落ちる。零れ落ちたのは、長門に貰った……あっ!
「そうか、だからこれを……」
 ……わかったよ、長門。少々気が引けるが、お前が言うなら従うことにする。



 袂から辺りを注視しつつも、ゆっくりと足を勧める俺の行動に、部外者はどう感じただろうな。変な人が歩いていると思う人もいるかもしれないし、祭りだから許容範囲と感じる人もいるだろう。
 夢の国を称する娯楽施設から最寄の電車に乗り、終点あるいは乗り継ぎ駅についた瞬間夢から覚める人もいるだろうが、生憎俺は現実の世界にいることを自覚しているつもりだ。
 いや、自覚しているからこそこんなどうでもいい事を考えているわけで。いくら当面の危機回避のためとは言え、こんなものを始終身につけていろってのは結構苦痛である。
 ……すまん、せっかく長門が提案した解決策に愚痴を言ってしまった。決して悪意があるわけじゃないのでそこんところだけは間違えで欲しいものである。
 幸運なのは、この橋を通るのが誰もいないことくらいか。歩行者だけでなく、四輪二輪、原動機の有無に関わらず今ここにいる人間は一人もいなかった。
 ……いや。
 川の向こう。遠く星空を眺めている、一人の少女を除いて。


 白地の生地。薄緑した笹の葉模様。
 肩で揃えられた黒髪。一回り以上大きくなった体躯。
 後姿だから表情まで窺い知ることはできないが、間違えるはずも無い。
 ――やっぱり、来てたか。
「…………!?」
 コツコツと鳴らす足音に気がついたのか、彼女こちらを振り返る。
 端整な顔立ち。その奥に秘められた、輝く瞳。
 間違いない、彼女だ。
 心持ち幼いが、俺の知っている「彼女」に相違なかった。


 しかし、俺の顔を見るや否や、彼女は凍りついた。
「よ、久しぶりだな」
 その理由は俺自身が一番良く知っているのだが、敢えて無視する。「どうした? 俺の顔に何かついてるのか?」
「あの……えと」
 珍しく口篭もった。ある意味彼女らしくない。
「どうだ、似合うだろ?」
「…………」
 彼女の口は以前閉ざされたまま、警戒を怠ってない様子で俺を睨めつけた。当然の結果だ。

 ――長門に貰った、悪の怪獣のお面。
 こんなものをつけて女の子に話し掛ければ、誰だって不審に思う。正直110番されてもおかしくないと思う。
 だけど、これを外すわけにはいかない。今彼女に素顔を見せたら、多分……
「ま、ちょいと事情があって顔を見せることができないんだ。その辺は察していただけたらありがたい」
「…………」
 彼女は沈黙したまま、じっと俺のお面を――俺の瞳を見つめた。彼女の顔は真剣そのもの。まるで何かを見透かすように、彼女の視線は俺を貫いていた。
 もし視線をずらしたらどうなるのだろうかと邪な考えが湧いてきたが、大マジで直視している彼女に失礼なのでそれは止めた。
 代わりに負けないくらい視線で彼女を睨み返した。

 ――どのくらいそんなことをしていただろうか?
 川の流れと遠くで聞こえる祭りの喧騒をBGMとして楽しんでいた俺も単調な旋律に飽き飽きし始めた頃、彼女は突然クツクツと笑い始めた。
 睨めっこだったら俺の勝ちだな。そう言うと彼女はより大きく喉を鳴らし、
「人の見た目は、時間と共に変わります。生まれたての赤ん坊も、数年経てば走り飛び跳ねますし、男女の違いも小学生と中学生とでは大きく異なります。いえ、月日が経たなくとも髪型を変えたり服装を変えたりすれば印象はかなり違って見えます。ですが、内面は大きく変わることがありません。何故ならば人の内面、つまり精神状態や個性と言ったものを形成するのは個々の価値観だからです。ホモサピエンス、あるいは考える葦と古代の哲学者から評価されたように、人類にとってある事象に対して考えを持つ、つまり価値観を形成することは神より与えられた他の生物とは一線を画する能力です。その人自身が持つ真理といっても過言ではないでしょう。そしてその個々を形成する価値観を否定することは、自身を否定されたのと同じことになります」
 何とも懐かしく、それでいて心強く感じた。この独特で妙技的な言い回し。世界広しと言えど彼女くらいにしかできそうにない。
「ここで、問題です」
 彼女は突然口調を変えて、
「去年のことです。一人の少女が自分の価値観を崩壊し、自暴自棄になっていました。生きる価値を見失った彼女は死をも視野に入れた行動を取っていました。しかし、とある一人のお方が、そんな彼女を救って下さいました。さて――」
 ――彼は何と言って彼女を立ち直らせたのでしょうか?
 クス、と悪戯っぽく笑った彼女の顔がとても印象的だった。
 彼女が出した質問の答え。もちろん答えられないわけが無い。俺自身が彼女に言った台詞だ。
 だから言ってやったさ。

「恋は精神病の一種、気の迷い……だったけな」
「ご名答。そして――」
 ――お久しぶりです。

 彼女の笑顔は、俺が今まで見た中で最高の笑顔を宿していた。

 


 



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最終更新:2009年08月04日 22:57