『故意のキューピッド』  (前編はこちら


○後編


携帯の画面から飛び出したピンクの三連ハートマークに押しつぶされる夢にうなされてよく眠れなかった気がするうちに無事に朝を迎えた。
今日も今日とて、大あくびをする俺の後ろ席から、ハルヒは相変わらずご機嫌に俺の背中をつついては、振り返った俺に向かって百ワットをはるかに超える笑顔を振りまきながら話しかけてくる。この様子じゃ当面開店休業状態が続くはずだ、よかったな、古泉。
しかし俺は昨日の長門メールがどうにも気になって仕方なかった。いったい長門はどうしたというのだろう。またエラーなのか? 怪しげな勢力がまた魔の手を伸ばしつつあるのを、スーパーアンドロイドがなんとかしようとしておかしくなってしまったと言うのだろうか。
そんなこんなで、俺の中の心配の種が発芽するなりジャックの豆の木のようにぐんぐん成長し続けて、空に浮かぶ疑念の雲に刺さりそうだった。

放課後、掃除当番のハルヒを残して、俺は部室へと急いだ。たぶん長門はすでに来ているはずだ。一度、あいつの真意を問いただしてみないといかない。もっとも、あの長門がすらすらと本音を語るとも思えないが。

ノックをする。反応はない。
ということは長門がいるか、誰もいないかのどちらかだ。
俺は、そっとドアを開けて室内に足を踏み入れた。
「よお」
やはり当然のように、読書好きな宇宙人製アンドロイドは窓辺の指定席にいた。静かに読書中の本から顔を上げた長門は、小さく首をかしげると、口元をそっと緩めて微笑んだ、ように見えた。
「長門?」
いかん、いかん、そんなはずはない。昨日の三連ハートマークに毒されているようだ。現に俺が定位置に腰を下ろすときには、長門はまた鉄壁の無表情に戻って、読書を再開していた。

他の連中がやってくる前に聞くべきこと聞こうと、俺は窓辺の読書マシーンに話しかけた。
「長門、あの送ってくれたパーカー……」
「贈呈」
本から顔も上げずに長門は即答した。
「うん、ありがとう。でも、どうして俺に?」
「特に他意はない。昨日もそう答えた」
「いや、他意がないことはないだろう。だって、そのあとのお前のメール……」
また、頭の中で三連ハートマークがフラッシュを始めた。
その時、ふと何かに気づいたようにパチリと瞬きした長門は窓辺の指定席から立ち上がると、その漆黒の瞳で俺のことをじっと見つめながら、ゆっくりと近づいてきた。
「おい、長門……」
そして、俺の向かいの席に一旦腰を下ろすと、すぐに、テーブル越しにぐっと身を乗り出して、俺の顔のまん前まで顔を突き出してきた。
「な、な、なんだ、長門、どうした?」
今、俺の目の前、十五センチのところに長門の小さな顔がある。わずかな息遣いも感じられるぐらいだ。
無言のままじっと俺のこと見つめ続けている長門の瞳に、唖然とした俺の姿が映っている。
十秒ほどその状態を続けたあと、長門は目を閉じてさらに俺に近づいてきた。
お、おい!
このままだと俺は長門にキスされてしまう! と、思った瞬間、
「いやっほー! きたよー」
バコーンと勢いよく開いたドアから飛び込んできたのは、ハルヒだった。
「ん? ゆ、有希?」
驚いた俺がドアの方に振り返ると同時に、身を乗り出していた長門がするするっと引っ込んで、俺の向かいの席にちょこんと座り直す姿を、視界の端に確認することができた。
「え? なに? 今、あんたたち……何? まさか……」
飛び込んできた勢いそのままに、俺のすぐ隣まで駆け寄ったハルヒは、俺と長門を交互に眺めながら、言葉を詰まらせている。
さっきの状況、傍目には、俺と長門がキスでもしていたか、今まさにしようとしているかに見えたに違いない。実際、俺があと一センチでも乗り出すと、長門と唇を重ねることになっていただろう。
「な、なんでもない、なんでもないぞ」
あわてて言い訳する俺にむかって人差し指を突きつけながら、ハルヒは、
「あ、当たり前じゃない、有希の身に何かあったら、あたしが許さないからね」
おいおい、何かあったかもしれないのは、俺の方だ。もう少しで長門に唇を奪われるところだったのだからな。

腕組みをして俺を見下ろしながら、今ひとつ納得できない様子のハルヒだったが、すぐに団長席に座ってPCの液晶モニタの向こう側に消えた。すると、それまで少しうつむき加減でじっと座ったままだった長門が、少しばかり上目使いで俺のことを見上げると、ほんのわずかに肩をすくめた。
「…………」
唖然とする俺が見つめる中、席を立った長門は、窓側のいつもの場所に戻ると、いつものような無表情で読書を再開した。

なに、さっきのは確信犯だったのか?
長門は、ハルヒが扉を開ける瞬間を狙ってあんなことをしたのだろうか。だとすると何故だ? どういうことだ?
ますます長門の行動が分からなくなってきた。
俺はパイプ椅子に沈み込むしかなかった。

その後すぐ、パイプ椅子に体重を預けながら、この状況を打破するためには、朝比奈さんの存在が必要だな、朝比奈さん今日は遅いなぁ、などと考えていたときだ。
「ちょっと、キョン? こっちきて」
「ん、どうした?」
ハルヒに呼ばれた俺は、団長席でモニタを覗き込んでいるハルヒの横に立った。
「これ見てよ、キョン」
ハルヒが指差した画面は、例の俺がやっつけで作ったSOS団のサイトのトップページだった。そしてその上に一部重なるようにやたら細かい字がいっぱい書かれたページが表示されていた。
「少しばかりデザイン変えたいんだけど……」
「んー、なんだぁ、読めん」
なんだかよくわからないまま俺がモニタに顔を寄せると、ハルヒも同じように顔を寄てきた。えっ、と思って横を向くことも躊躇うほどの位置にハルヒの髪が揺れているのを感じる。
ふっと、えも言えないほどのいい香りが鼻腔をくすぐる。ハルヒはなんていうリンスを使っているのだろう、なんて考えが頭の中で渦巻いて、モニタの中身なんてその渦の中に沈み込んで行くばかりだ。
今さらながら、そんなハルヒにドキドキしてしまうのは少しばかり情けなくもある。

「ちょっと、キョン!聞いてるの?」
ハルヒの声でわれに返るまで、俺はただぼんやりとモニタを見つめていただけだった。
「う、すまん」
「もう、せっかくあたしが新しいトップページのコンセプトを説明しているというのに、平団員にあるまじき態度ね!」
俺は、あきれたような声のする方向におそるおそる振り向いた。乗り出していた上体をゆっくりと戻したハルヒは、背後の長門をチラッと見た後、満足げに微笑んだ。
「もういいわよ。また後であたしの考えを説明するから、それまでにあんたも何かアイデア整理しておきなさいよ」
話を聞いていなかったことがバレたので、てっきり「このアホキョン!」とでも言われてネクタイでも締め上げられるか、と身構えていたのに、拍子が抜けてしまった。
「ほらほら、とにかく戻りなさい」

すぐに、朝比奈さんと古泉も到着し、その後はそれ以上のことは何も起こらなかった。ただ時折、長門の視線と、ハルヒの視線が交互に俺に注がれる気がして、古泉とのオセロ勝負に集中することができなかった。
「今日はどうされました? あなたらしくない指し手ですね。僕が到着する前に何かありましたか?」
古泉にリードされるのはいつ以来だろうか。ひょっとして初めてかもしれない。
「うーん、ちょっとな」
目の前で意味ありげな笑顔を浮かべる古泉は続けた、
「お困りのようでしたらお力をお貸ししますよ。もちろん僕のできる範囲は限られていますけどね」
さてと、どうしたものだろう。先日来の出来事のきっかけ部分については古泉には説明済みだ。その後の状況を話してアドバイスを貰うことも可能かもしれないが。
「ん、いや。まだいい。もう少し様子を見てから必要なら相談するよ」
古泉はさっき以上に含みを持たせた笑みを携えながら、
「そうですか、わかりました。必要であればいつでも結構ですよ」
そこでやや声を落とすと、
「昨日も申し上げましたが、行動には十分ご注意ください。世界の明日はあなたに懸かっているのですから」
古泉が最後の一手を置き、何ヶ月ぶりかの俺の負けが確定した。

翌日以降、長門のいない普段の教室では、ハルヒはずーっと一方的にご機嫌だったし、放課後の部室でも、特に目だっておかしな事態は発生することはなかった。
ただし、毎日、長門が俺に向かって妙な視線を送ってくることと、おそらくはそれに気づいたらしいハルヒのさらに妙な視線が、静かに火花を散らし続けていた。
そんなハルヒと長門の様子に気づいているらしい古泉まで、時折俺のことを心配そうに見つめている。
朝比奈さんだけは、普段と変わりなくおいしいお茶を淹れてくれていた。しかしながら、その絡み合う三つの視線に巻き込まれた俺は、いつものように至福の時を十分に楽しむことはできなかった。

そして何とか迎えた週末、土曜日。
いっそ雨でも降って自宅待機にでもなってくれれば、という俺のささやかな願いは叶うはずもなく、快晴、絶好の探索日和となってしまった。
それにしても何が不思議探しだよ。俺にとっては、先週末からのハルヒと長門の行動こそが不思議そのものなのだが、そんな事情を少しでも理解してくれているのは古泉だけだ。
その古泉の助言に従って、俺はハルヒから送られたシャツ着込んでいる。ついでに言うと、その上には長門から送られてきたパーカーを羽織っている。今日はいい天気でポカポカ陽気らしいので少し暑いかもしれないが、まぁいいだろう。
このパーカーのことは長門と俺しか知らないわけで、長門が自ら話さなければ誰もこのパーカーが長門からのプレゼントだったことに気づかないはずだ。それに、別にこの件にかかわらず、長門が自ら会話を始める可能性は限りなくゼロに近いので安心していいはずだ。

「やっほー、キョン!」
集合場所の縁石の上の少し高い位置から見下ろしているハルヒは、水色のブラウスの上に、薄いニットの長上着を引っ掛けている。
「相変わらずおっそいわねー」
そういってニコニコ笑っているハルヒの横には、やはりいつもの笑顔を絶やさない朝比奈さんと古泉が立っている姿があった。
どうせ集合場所への到着は最後になるが、少しでも努力のあとを見せておくほうがいいと判断した俺は、途中からパーカーを脱いで小脇に抱えながら小走りでかけてきた。おかげで少し息が上がってしまって、ハルヒに言い返すことができなかった。
「でも、今日は珍しく、有希が最後みたいね、どうしたのかしら」
あれ、そういえば長門の姿が見えない。普段なら、制服姿で少し控えめに後方に佇む小柄なシルエットがあるはずの位置には、なにやらノボリが風に揺れているだけだった。
やっと俺の息が落ち着いてきたところで、ハルヒは俺のことを下から順になめるように眺め上げると、首の辺りのシャツのボタンをもてあそびながら、
「うん、まぁまぁね。ネクタイでもすればアクセントに成るけど、制服みたいになっちゃうかな」
そういって、俺を見上げながらニッコリするハルヒは正直言ってすごくかわいかった。
「あたしがプレゼントしただけのことはあるわね」
いや、待て。確かにハルヒから貰ったのは確かだが、選んでいたのは俺だ。だがまぁ、目の前のハルヒの笑顔に免じてこれ以上はとやかく言うまい。

「それにしても有希、遅いわね」
とハルヒがあらためて口にした瞬間、曲がり角の向こうから長門が小走りでやってくるのが見えた。
「遅れた。ごめんなさい」
「どうしたの、有希が遅れるなんて心配するじゃない」
「準備に手間取った」
そういう長門は、いつもの制服ではなかった。ボーダーカラーの長Tにデニムの少し短いスカートとひざ下丈のレギンス姿だった。小走りで来たせいか、俺と同じ様に上着は脱いで小脇に抱えている。
「見て、見て。有希のTシャツ、あたしが見立ててあげたやつ」
ハルヒは朝比奈さんに見せびらかすように長門の肩を抱き寄せた。
「長門さん、かわいいです」
朝比奈さん、俺も同感ですよ。
長門はコーディネートするのに手間取ったといっているが、いまひとつ俺はそうは思えない。長門のことだから衣装のことで悩むとは思えないが、まぁいいか。

やっぱり俺のおごりになった喫茶店での組み分けくじ引きで、俺は朝比奈さんと同じ組、ハルヒと長門と古泉が同じ組になった。どうも超プチ世界改変と情報操作が同時に起こって打ち消しあったような気がしてならない。
喫茶店を出て、「じゃぁ」と二手に分かれた。少しばかり不機嫌モードに切り替わったハルヒたち一行を見送ったあと、俺は手にしていたパーカーを羽織った。さすがにまだ少し肌寒さもあったからな。
その後は、朝比奈さんと二人並んで適用に時間をつぶしながら、しかしおいしい時を堪能させてもらった。朝比奈さんのぽわっとした雰囲気に包まれて俺はハルヒと長門の視線攻撃の一週間の疲れを少しばかり癒すことができた。

二時間ほどのささやかなデートを楽しんだ後、再び駅前の集合場所に戻ってきて先に帰還していたハルヒ組の長門の姿を見たとき、俺は言葉を失うことになった。
なんと、長門が着込んでいた上着は、俺のパーカーと色違いのお揃いのものだったからだ。ミディアムグレーの俺のものに対し、長門のやつは薄いピンクだった。
今俺は、ハルヒにもらったシャツの上から長門に贈呈された上着を着ている。そして長門はそれと同じものを着て俺と並んで立っている。これじゃまるでハルヒに喧嘩を吹っかけているような感じではないか。
こいつ、わざと同じものを俺に『贈呈』してくれたのか。その上で、今日、ペアルックになることを狙って着てきたのか?
「な、長門、お前、それ……」
「色が違う、サイズも違う」
「んなことはわかる。どうして、それ……」
と、ここですこし向こうで朝比奈さんと話をしていいたハルヒが振り返った。
「ねぇ、キョン、あっちの……って、ん、あ、あれ?」
ハルヒは、俺と長門を交互に見比べならが近づいてきた。
「なに、なに、どういうこと? おそろいじゃない、それ」
最後は少し小走りで目の前までやってきたハルヒは、俺のパーカーの胸元をつかんでひらひらさせながら品定めをした。次に隣でたたずむ長門のことをじっと眺めて、
「やっぱり同じものね。どうしたのこれ。二人で一緒に買ったとか?」
口調は静かだか、それがかえって疑念と苛立ちを浮かび上がらせているようだ。
「いや、これは単なる偶然だ。そうだろ? 長門」
うまく口裏あわせろよ、と思いつつ俺は長門に話しかけた。
「二人で一緒に買ったわけではない」
「そうなの?」 と、ハルヒ。
「そう」と、長門は一言。しかし続けざまに、
「彼のものはわたしが贈呈したもの」
長門は俯いて、小さく、しかしはっきりと言った。

もし俺に、古泉とは異なる超能力でもあれば、パキンと大きく何かが折れる音を聞くことができただろう。
しばらくの間唖然と長門を見つめるだけだったハルヒは、視線を落とすと今度は地面のタイルの模様を追い始めたようだった。
その場を沈黙が支配する中、古泉はすこしひきつった笑みを浮かべ、朝比奈さんはいまひとつ状況がつかめないままハルヒと長門と俺を順にきょろきょろと見つめるだけだった。

「あたしはね、恋愛なんか一時の気の迷いだと思ってる。でもね、だからといって他人の恋路の邪魔なんて無粋なことはしないわ。もし……」
ゆっくりと顔を上げたハルヒは、まず長門を見て、それからから俺を見つめると話を続けた。
「有希とキョンが付き合うなら、あたしは応援するわよ、SOS団の団長として全面的に。そして、有希を悲しませるようなことがあったら、キョン、あたしが許さないからね!」
ぐっと腕組みをしたハルヒは、ほんの心なしか寂しげに笑みを浮かべると、長門のそばに歩み寄った。そして、長門の肩をポンポンと軽く二つたたくと、「今日はこれまで。じゃ、おさきー」とだけ言い残すして、小走りに駆けて行ってしまった。

ハルヒが消えた方向を呆然と見送っていた四人の中で、最初に口火を切ったのは、やはり古泉だった。
「さてと、どうやらもうすぐお呼びがかかることは確実なので、それまでに言いたいことは言っておきます。ひょっとするともう戻ってこられないかも知れませんからね」
古泉の言葉に「えっ」と小さく驚きの表情みせている朝比奈さんのことを気にかけながら、俺は古泉に突っ込んだ。
「おいおい、そんな大げさな……」
「今までの経験上、かなり大きな閉鎖空間が発生することは確実でしょう。僕たちも全力を挙げて神人にあたりますが、かなりのダメージを受けることを覚悟せざるを得ません。しかしなによりも涼宮さんによる世界改変の方が心配です」
古泉は少しばかり目を伏せながら続けた。
「ここ数日の涼宮さんのテンションの高さが故の、先ほどのお二人のペアルックに気づいたときのご様子といったら……」
「待てよ、俺と長門は本当に付き合っているわけでも、付き合おうとしているわけでもない!」
二度、三度と首を振った古泉は、
「お二人が恋人同士という関係でないことは明らかでしょう。ただし、今問題なのは涼宮さんがどういう判断を下したか、ということだけです」
と言ったあと、最後にはいつも通りの微笑みを携えて、
「今日の探索は中止ですね。今後のことに備えるために、僕はこれで帰ります。お疲れ様でした」
古泉が去った後、ますます何が起こったのか理解できない朝比奈さんも
「あの、あたしにできることがあったら、遠慮なくいって下さい。と、とにかく今日は帰ります」
頭の上に「?」をいくつか点灯させながら去っていく朝比奈さんの後姿を追いながら、 残された俺は隣の長門に問いかけた。
「長門、さっきのはどういうことだよ」
「別に。事実を述べたまで」
長門は澄み渡る黒い大きな瞳で俺のことを見上げている。その瞳の奥に隠された有機アンドロイドの真意はいつになっても容易に理解できるものではない。
「お前、何か魂胆があって故意に……」
俺の言葉を最後まで聞くこともなく、長門はくるりと身を翻すと短い後ろ髪をほとんど揺らすこともなく歩き去ってしまった。
一人取り残された俺は、その場からしばらく動くことができなかった。


結局ぽっかりと空いてしまった土曜の午後の時間、俺は街中を一人で探索しながら、やはりぽっかりと空いた心の中を埋める事はできなかった。
谷口にまで変に誤解されるほどだったハルヒの笑顔と、さっき立ち去る直前に見せた壊れそうな笑顔が交互に頭の中でフラッシュバックする。
深い意図があるのかないのかさえも分からない長門の行動によって、俺は図らずしもハルヒのことを、ハルヒをどう思っているのかについて見直すきっかけを与えられてしまった。

気がつけば夕食も済まして、自室のベッドの上で天井を眺めている俺がいた。
今頃、古泉は閉鎖空間で神人相手に苦労しているのだろうか。
長門はあの何もないマンションのリビングで何を考えているのだろうか。
朝比奈さんは……、と考えているうちに、俺は奈落の底に引き込まれるように眠りに落ちていった。

そして――――。

目が覚めるとそこは灰色の世界。モノクロームな空と景色が視界の中でどんよりと少しずつ広がっていく。
そうか、やはりまたここにきてしまったのか。いや、呼び出されたというべきか。
ゆっくりと上体を起こして周囲を見てみる。
中庭だな、学校の。
以前、強制的に連れ込まれたときは、ハルヒがそばにいて俺のことを覗き込んでいたが、今回は俺一人で目覚めたようだ。
さらに上を向いて、校舎の三階、部室のあるはずの方向を見上げると、そこだけ窓から明かりが漏れている。灰色世界のわずかな光明。
おそらくどこかで先に目覚めたハルヒが、すでに部室で頭でも抱え込んでいるに違いない。
立ち上がって制服のズボンをポンポンとはたくと、俺はゆっくりと部室棟校舎に向かった。
前は俺一人連れてこられた。今度はどうだろう。また古泉だけが消え入りそうな赤い姿で侵入して、伝言をもたらしてくれるのだろうか。
そういえば、今回は脱出に関して誰も何のヒントもくれなかった。この閉鎖空間の破壊と脱出は、未来人や宇宙人にとっても対処しようのない事だというのだろうか。それとも、もはや答えは自明だというのだろうか。

重い足取りで、部室の前にたどり着いた俺は、ノックするかどうか少しばかり躊躇したが、結局、何の前触れもなくドアを開けた。
「キョ、キョン?」
部室の一番奥、団長席でぼんやり天井を見つめていたハルヒは、入り口にあらわれた俺の姿を見ると、椅子を蹴倒すような勢いで飛び跳ねるように立ち上がった。
「よぉ、元気そうじゃないか」
そういいながらゆっくりと部室の中に足を踏み入れつつ、驚きの中にちょっとした安堵感を漂わせているハルヒの表情を確認することができた。
「あたしはいつだって元気よ、もちろん……」
わずかにうつむき加減のハルヒは、いつものパイプ椅子に腰を下ろした俺の方を見るともなく、つぶやいた。
「前にも夢のなかでこんなことがあったんだけど……」
「ん、夢?」
知ってるさ、その夢のこと。あれはお前の夢なんかじゃない、特殊な灰色の世界とはいえ、俺にとっては思いっきり現実の出来事だった。そもそもはお前が望んだことらしいが、俺も巻き込まれたんだぜ。

俺は、あの時のことを知っているように行動するべきか、知らない振りをするべきか、どういう態度をとればいいのだろうと少しばかり思考実験をしてみた。
今ここにいる俺は、ハルヒにとっては、ハルヒが自らの夢の中で登場させた「俺」なわけだから、あの時の出来事は知っていてもおかしくはないはずだ。しかしここはひとまず、ハルヒの出方を見るのがよかろうとの結論に至った。
「うん、同じような状況であんたと一緒だった」
そう言ってハルヒは再び団長席に腰を下ろすと、ふぅー、っと大きくため息をついた。
「あの時は、妙な青い怪物が校舎を壊しまくって、そのあと……」
そこまで話したハルヒは、俺のことをじっと見つめていたが、やがて、小さく微笑むと、
「まぁ、いいわ。とにかく、これはあたしの夢だから、あたしの好きなようにさせてもらうわよ」
といって、大きく肯いた。
ふん、何言ってやがる。おまえ、夢だろうがなんだろうがいつだって自分の思い通り好き勝手やってるじゃないかよ、と、今にも叫びそうになるのをじっとこらえながら、俺は、そっといつものパイプ椅子に腰を下ろし、目を伏せるしかなかった。


「静かね」
「そうだな」
まだ、神人の登場はないようだ。モノクロームが支配する世界の中で、俺はハルヒと一緒の部室の中で、ただぼんやりと窓の外を眺めるほかなかった。
「校舎内を見て回らないのか?」
「別に……、たぶん、何もないし誰もいないと思うわ」
ハルヒがいなくならないと、この場には古泉も登場しないのかと思って、少しばかり話を振ってみたのだが、ハルヒは乗ってこなかった。
しかたない、持久戦か……、と、あきらめたところ、突然、ドアをノックする音が響いて、驚いた俺とハルヒは同時に振り向いた。
「だ、だれ?」
わずかに軋みを上げる古ぼけたドアがゆっくりと開いた。
「す、涼宮さん、キョンくん……、よかったぁ……」
おそるおそる覗き込んだその小柄なお姿は朝比奈さんだった。
「み、みくるちゃん?」
「朝比奈さん……」
「あ、あたし、あたし……」
俺とハルヒの姿を確認した朝比奈さんは、部室に駆け込んでくるとハルヒの胸の中に飛び込んで、大きくしゃくりあげるようして体を震わせていた。
「大丈夫よ、みくるちゃん、あたしもキョンもいるんだから」
「……わたし、お部屋で寝ていたはずなのに、なぜか教室で……」
そういいながらハルヒは朝比奈さんの小さな体をきゅぅと抱きしめていた。それにしても、朝比奈さん、どうして俺の胸には飛び込んでくれなかったんですか……。

なんと、今回は朝比奈さんも閉鎖空間に連れ込まれてしまったのか。いったいハルヒは何を考えているのだろう。

「あ、あの、とりあえずお茶、淹れます」
しばらくして少し落ち着きを取り戻した朝比奈さんは、そう言ってふっ、と一息つくと、
「わたし、ここではそれしかできないから……」
ポットに水を入れに行こうとして部室を出ようとする朝比奈さんを追うように、
「待って、みくるちゃん、あたしも一緒に行くわ。ついでにちょっとその辺りの様子、見てくる」
そしてドアのところで振り返ったハルヒは、
「あんたはここにいて。古泉くんや有希が来るかもしれないし」
と言い残して出て行った。

ハルヒたちが出て行って一分もしないうちに、まるで、二人が出て行ってしまうのを待っていたかの様に、古泉と長門がほぼ同時に到着した。
「遅かったな、古泉。今度はちゃんと人間の姿での登場だな」
「それだけこの閉鎖空間は以前とは異なった状況ということですよ」
いつもの椅子に腰掛けた古泉は、机の上に置いた両手の指を組むと少し疲れた様子を漂わせている。機関のミーティングでもあったんだろう。
「長門、閉鎖空間にようこそ」
長門は、窓辺の席ではなく、長机の古泉の隣の席に座って、ピンと背筋を伸ばして俺のことを見つめていた。
「わたしまで招待されるとは想定外だった」
「おや、天下の情報統合思念体でも分からないことがあるわけか」
「当然。だからこそ涼宮ハルヒの観察が必須」
「意外だな、この閉鎖空間発生のトリガの一つはお前が引いたと思うんだが」
俺の問いかけに、やや辛そうにわずかに視線をそらす長門は何も答えなかった。代わりに古泉が話し出した。
「おそらくは、このような事態を故意に招くべく情報統合思念体になんらかかの動きがあったものと思います。少なくとも機関ではそのように判断しています」
「なんだって? ホントか、長門」
長門は無言を通すだけだった。ただし、その瞳の奥の黒い輝きは、何か秘めたる想いの存在を物語っていた。
長門が沈黙を守るのを確かめた後、古泉は続けた。
「ここしばらくは、いたって平凡、閉鎖空間の発生も含めて何もおかしな事態は起こりませんでしたから」
「その方がよかったんじゃないか」
「以前にも少しお話したように、それをよしとしないものもいるのですよ、機関にも、思念体にも、おそらくは未来人にも。たまには刺激を与えた上でガス抜きが必要ということです」
「余計なことを……」
「おや、そうですか? あなたの身に危険が及ぶかもしれないのですよ」
古泉の言葉に、朝倉のナイフが放つ鋭い輝きが蘇る。それ以外にも何度かややこしい目に遭ったのも確かだ。
「わたしは約束した。あなたに危害が及ばないようにすることを」
長門は力のこもった無表情で俺のことをじっと見つめている。
「うん、そうだったな」
「それに、そろそろ進展があってもいい頃ですしね」
気持ち悪いぐらいにニヤケながら話す古泉。
「何が進展するんだ?」
「すぐにわかる」
即答した長門の信念を持った無表情の中に、微妙な揺らぎが感じられた。俺が、その事を確認しようと、声を発しようとした瞬間、部室のドアが開いた。

「やっぱり来てたわね、古泉くんも有希も」
朝比奈さんを従えて部室に帰還したハルヒは、古泉と長門の姿を確認すると、満足げに団長席に腰を下ろした。
「何か変わったことはあったか?」
「何も。例の青い巨人の姿もないわね。平穏そのもの」
「おいおい、十分おかしな状況だろう、ここは」
「この程度でおかしいなんて言ってたら、SOS団の団員は勤まらないわよ」
ふん、俺は別に勤めたくもなかったが。

しばらくすると朝比奈さんがお茶を淹れてくれた。この朝比奈印のお茶さえあれば、どんな状況であっても落ち着くことができる。実にすばらしい代物だ。

すこしばかりまったりとした静寂な時をすごした後、ハルヒは静かに話し始めた。
「今日はごめんね、急に帰ったりして」
俺の隣に座って両手で湯飲みを大事そうに包み込んでいた朝比奈さんが小さく、えっ、と言ったのが聞こえた。
「有希とキョンがお揃いのパーカー着ているのを見て動揺しちゃった」
確かに俺も動揺した。
「この間から有希とキョンの怪しげな行動が目に付いて、なんとなく気になってたみたい。あたしの勝手な思い込みから、無意識のうちに有希と張り合おうとして、あたしも妙な行動ばかりしてた」
ハルヒは、先週からの振る舞いを思い出しているかのように、少しばかり遠い目をしていたが、やがて一つ大きくうなずくと、
「でも、決めた。やっぱりあたしはあたしらしくするわ。やりたいことをする、好きなことをする。もう恋愛も特別扱いはしない」
そう宣言したハルヒは、本棚の前の席でじっとハルヒを見つめていた長門に微笑みかけると、
「もし、本当に有希と競合するなら、負けないわよ」
「大丈夫。わたしにはそのつもりはない」
きっぱりと返答し小さく肯く長門。ただ、その表情に再びわずかな憂い感じたのは俺の気のせいか。
「うん、わかってる。最初から、あたしが勝手に張り合おうとしていただけね。でも、有希のおかげであたしも自分の気持ちに整理がついた、吹っ切れたわ。ありがとう、有希」
パシッ。
ハルヒが長門に感謝の言葉を述べ終えた瞬間、窓の外が稲光を受けたように白く輝いた。そして、低くて鈍い地響きがゆっくりと近づいてくるのがわかった。
「来たわね」
ハルヒは窓の方を振り返ることもなくそう言った。ただ一人ビクビクしいている朝比奈さんを除いては、誰も驚くそぶりも見せず、当たり前のようにそいつを迎えようとしていた。
中庭にやって来た青く輝く神人は、特に暴れることもなく腰をかがめて窓の外から部室の中を覗き込んでいる。目だか口だかよくわからない赤く丸い部分がうねうねとゆっくり動いている。
「みんなよく見ておいてね。外の怪物さんもよ」
ハルヒはチラッと後ろを振り返ると、軽く手を上げて神人に挨拶をした。それを受けた神人は、寡黙なアンドロイドのようにわずかに肯くと、まるでウィンクでもするかのように赤い目を一回ぱちりと閉じた。
ハルヒは再び正面を向いて俺たちのことを見回しながら、ポケットを探って何かを取り出した。
「これはあたしの夢の中の出来事だけど、だからこそあたしの潜在意識の現われだと思う。みんなには知っておいて欲しいから」
話しながらハルヒは頭の後ろにまわした両手で髪を触っていたが、いつのまにやらその黒髪は、以前に見たことのあるあの短いポニーテールにまとめられていた。
最後にさっき取り出したゴムの髪留めをパチンと鳴らして椅子から立ち上がったハルヒは、SOS団のメンバを一人ひとり確認するように眺めた。
少し驚いた表情で両手を口に当てている朝比奈さん、目を細めて安心したような笑顔を浮かべる古泉、長門は相変わらずの鉄壁の無表情だった。少し前に、俺が感じたわずかな憂いは今は見て取れなかった。

やがてハルヒは俺に向かって、
「キョン、ちょっと来て」
「なんだ?」
少し怪訝に思いつつ俺は立ち上がってハルヒの横に立った。ハルヒは、俺のことを見上げながら、
「前はよくわからないままあんたに先手を取られたけど、今日は、というか今からはあたしが常に先手だからね、先手必勝よ!」
「なに、なんのことだ」
大きな瞳を輝かせにっこり微笑んだハルヒは、いきなり俺の首に両手を巻きつけてきた。そして、小さなポニーテールの髪を揺らしたハルヒの顔が近づいてきたかと思うと、俺の唇に柔らかい唇が重ねられた、
と、その瞬間――――。
   

目が覚めた。

つけっぱなしの照明が明るい俺の部屋、目覚まし時計の秒針の音だけが響いている。時間は、午前二時を少し回ったところだった。
幸いにして今回はベッドから落ちることはなかった。

上体を起こしてさっきまでの夢の中の事を反芻してみる。
今度もあまりにリアルな、リアルすぎるほどの夢。いや、やはりあれは現実だ。ハルヒによって時間と空間を超越させられたと言っていいだろう。フロイト先生ではなくてアインシュタイン先生に相談した方がいいかもしれない。
そして、その超空間のなかで、ハルヒはある意味明確に俺に告白した、ということか。いや、宣言だったな、あれは。一種の勝利宣言みたいなものか。

それで、俺はどうする? 俺の考えはどうだ? と自問してみる。

北高入学以来の、いやひょっとするとハルヒの中学時代まで遡るかも知れない出来事の数々を思い起こしてみるが、どうやら答えは既に出ていたということになりそうだ。いくら全力で拒否しようとしても、それは既定事項として、ドン、と存在していて動かし難い。
つまりは、閉鎖空間の中でハルヒが言っていたように、今回の長門の行動をきっかけにあらためてお互いの潜在意識を確認させられただけ、ということだ。

結局、今度も朝まで寝ることはできなかった。

ただ前の時と違って、迎えた翌日は日曜日である。これなら一日ゆっくりできると思って、ぼんやりしながら鳥の声と朝の日差しを窓に感じていると、突然、携帯電話が悲鳴を上げ始めた。
恐る恐る手にした携帯の画面には、燦然と輝く、『着信:涼宮ハルヒ』の文字が。あいつもこの時間まで起きていたのだろうか。
「はい」
『おっはよー、キョン! 昨日の続きの探索するから、十時に集合ね。遅れちゃダメよ』
「おいおい、ちょっと待てって……」
『ゴチャゴチャ言わないの。先手必勝よ! じゃ』

先手必勝だと? そういえばそんなことを言っていたな、ハルヒ――――。

言うだけ言って切られてしまった携帯を握り締めたまま、ふうーっと大きく息を吐き尽くしたところで、メール着信のメロディが鳴った。
そこに表示されているメールの文面を見つめながら、吐くべきため息を少しばかり残しておけばよかった、と後悔しつつ、俺は苦笑いするしかなかった。

『ホントに遅れちゃダメよ、じゃ・あ・ね、♥♥♥ ハルヒ』


Fin.

※ ♥ = 「記号のハート」です。環境によっては文字化けしているかも知れないので……


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