それは、卒業式を翌日に控えた夜のことだった。ふと、夜中に目を覚まし、布団の中で天井を見つめている自分に気づく。どれくらいの時間こうしていたのだろう。時間の感覚がいつもと違う気がした。
あまり物事に執着心など持たない人間だと思っていた自分にも、卒業式を迎えるにあたって、やはり何か思うところがあるのだろうか。思えば、あの日涼宮ハルヒと出会って以来、俺の高校生活は予想を大きく裏切る非日常の連続だった。
当時は怒ったり呆れたりの連続で、自分の不運を恨んだこともあったが、いまではそのことも含めて大切な思い出だと思っている。きっと大学に行っても、これ以上のサプライズに満ちた日々は送れないだろう。
そう思うと、高校生活が終わってしまうことが少し惜しい気がする。もっと、たくさんの何かができたであろうのに……
目を閉じると、SOS団で過ごした日々が走馬灯のように目頭に浮かんでくる。ハルヒの怒った顔、長門の微かな微笑み、朝比奈さんの困惑した表情、古泉のにやけ面、そして太陽のように眩しいハルヒの笑顔。
俺は……ハルヒのことが好きだったのだろうか?
高校生活の三年間、何度も自分にそう問いかけたが、答えは出てこなかった。最初会った時はそんなことは微塵も思わなかったし、SOS団の活動を通してハルヒのことをよく知るようになってからも恋愛の対象とは考えなかった。
いつからだろう。何かきっかけがあったわけではなく、いつの頃からか、ハルヒのことを常に考えている自分がいることに気がついた。だが、それが恋愛感情なのかどうかはいまでも分からない。
そこまで考えて、思考することをやめた。考えても仕方のないことだからだ。明日、卒業式が終わればSOS団はバラバラになる。それぞれの進学先が違うから。
目前には見慣れた天井、夜の静寂が辺りを包む。
喉につかえた小骨のような不愉快さを誤魔化すように、頭から布団をかぶって再び眠りにつこうと試みた。だが、目が冴えて眠ることができない。
『卒業式の日に遅刻するわけにはいかないな』などと考えながら、身体を起こし、時間を確認しようと目覚まし時計を見る。
「2時か……」
目覚まし時計を元の場所に戻し、再び目を閉じて寝ようとした時、何か奇妙な違和感を感じた。
 
何かがおかしい
 
再び身体を起こし、時間を確認する。時間は午前2時、おかしなところは何ひとつ無い。カーテンを開けて窓の外を見てみても何ひとつ異常は無い。光の巨人も赤い球体も確認できない普段と同じ夜の景色が広がっていた。
『卒業式を明日に控えて、俺も動揺しているのだろうか。まあ、三年もつきあってきた仲間だからな』
そんな風に自分に言い聞かせ、時計をチラリと見てから再び寝床についた。布団を頭までかぶり、目を閉じてからしばらくして、俺は寝床から飛び起きた。
「な! 何ぃー!」
叫びながら時計を両手でつかみ時刻を確認する。秒針が動いていない。時計が止まっている。ベッドから飛び起きて、急いで携帯で時刻を確認すると、携帯の時計も午前2時を表示したまま時を刻むことを止めていた。
時間が止まっている。
ようやく、先ほど感じた違和感の正体、異常事態に気がついた。
原因は…………ハルヒ以外に考えられない。まったく、最後の最後まで手間をかけさせてくれる。そうつぶやきつつも、まるでハルヒが自分の心を見透かしているのではという考えが浮かび、頭をふってそれを否定した。
急いでパジャマから普段着に着替えると、一応夜中ということもあり、家族を起こさないように静かに階段を下り、音がしないように玄関の戸を閉めた。
外に出ると、想像していたよりも明るくて少し驚きを覚えた。空を見上げると、雲ひとつ無く、満点の星空と満月がまるで俺が進む道を照らしてくれているようであった。
満点の星空を見て、ハルヒとふたりで星空を眺めたことを思い出す。
あれは確か七夕の夜だった。星空を見上げて、
「わぁー」
と感嘆の声をあげるハルヒが妙にかわいく思えて直視できなかったのを覚えている。こうやって星空を眺めていると、そのときのハルヒの姿が瞼に浮かんできそうだ。
ハッと我に返る。いまは思い出に浸っている場合ではない。早く行かなくては……
多分……いや、きっとハルヒは北高にいる。おそらくハルヒも卒業式を迎えて、何か思うところがあるのだろう。だが、時間を止めてしまうまで思いつめることとはいったいなんだ。
ハルヒが時間を止めた理由は分からなかったが、とにかく俺は普段通いなれた通学路を駆け出して北高へと向かった。
北高への坂道をまるで遅刻間際の谷口のように駆け登る。物音一つせず、不自然なほどの静寂が夜を支配し、通いなれた通学路は月明かりに照らされて、普段とは違い、やけに幻想的に思えた。
こうやってこの道をたどって北高へ通うのも明日で最後になるのかと思うと少し寂しい。そんな感傷にも似た感情が心をかすめる。なぜ、ハルヒは閉鎖空間を発生させずに現実の世界に影響を……
急に奇妙な不安が俺を襲った。ハルヒのことが心配になり、何かに追われるように坂道を駆け登る足を早めた。
ようやく校門まで到着して、息を切らしていた俺はいったんその場にしゃがみこみ、何回か大きく深呼吸をして息を整えた。しゃがみこんだまま目の前にある北高の校舎を眺める。
変わることのない俺の学び舎。公立のため私立の高校と比べると格段に古く設備も悪い。それでも、その古びた校舎が卒業してもう見ることもなくなるのだと思うと、やけに懐かしく切ない気持ちになる。
三年間……ほとんど毎日坂道を登り、この校舎へと通ったわけだから、こんな気持ちになるのも当然と言えば当然なのだろう。長門や朝比奈さん、古泉に出会ったのもここだったけ……
進学先に北高を選んでいなければ、彼らと出会うことはなかっただろう。そう思うと、俺がここに、北高に入学したことがとても幸運なことのように思えてくる。
しばらくそのままの状態で校舎を眺めた後、おもむろに立ち上がり、俺はグラウンドへと足を運んだ。なんとなく、ハルヒがグラウンドにいるような気がしたからだ。
長門が消えてしまったあの時と同じように夜の校舎に一人で忍び込んだが、あの時とは違って不気味さを感じない。それはおそらく、俺の頭上に輝く満月のせいだろう。
なぜか今日だけは月光がいつもよりも明るいような気がする。少し不自然なほどに……そしてその月明かりが、静寂に包まれた夜をやけに幻想的に思わせる。
グラウンドに出ると、その中央、ちょうどハルヒとキスをしたあの場所に、一人の少女の姿があった。彼女もまた先ほどの俺と同じように北高の校舎をじっと眺めていた。
「ハルヒ」
歩み寄りながら声をかけると、ハルヒはゆっくりとこちらを振り向いた。
「どうしたのキョン、こんな夜中に」
言葉とは裏腹に、ハルヒは驚いた様子を見せず、むしろ俺がここに来たことを当然のことのように受け止めている。
「お前こそ、なんで夜中にこんなところにいるんだ」
ハルヒは俺の質問を予測していたかのように『ふふん』と俺に背を向けて再び北高を眺める。
「あんたと同じよ」
「何? どういう意味だ?」
「だーかーらー、あんたと同じだって言ってんの」
ハルヒは俺に背を向けたまま、懐かしい遠い思い出を語るように、言葉を紡ぎ始めた。
「あたしもね。あんたと同じようにこのまま卒業していくのが不安だったの。だって……大学に行ったとしても、今以上の楽しい出来事なんて無いと思うし……
不安って言ったら違うのかもしれないけど……言葉じゃ上手く言い表せないけど……このまま卒業してしまうのがもったいない……っていうのかな……」
ハルヒはそこまで言葉を紡ぐと、こちらを振り返り覗き込むように俺を見つめて微笑んだ。その微笑を見て、自分の心臓がドクンと大きく波打つのを感じた。
「…………」
咄嗟に言葉を返すことができなかった。まるで、ハルヒが俺の心を見透かし、気持ちを代弁してくれたように思えたからだ。
『もしかしたら、時間を止めたのも俺の願望を実現してくれたのだろうか』
ハルヒは、困惑している俺を気にも留めずに、満天の星空に両手を伸ばす。まるで夜空に瞬く星を掴むように……
「ねえ、キョン。前もこうやって二人で星空を見上げたの、覚えてる?」
「……ああ、覚えてるぞ」
「あんたさ、あの時あたしに見惚れてたでしょ」
「え!?」
予想すらしていなかったハルヒの言葉に咄嗟に反論することができず、戸惑いながらハルヒを見ると、ハルヒはニヤニヤと勝ち誇ったように俺を眺めていた。
「何赤くなってるのよ。あたしが気がついてないと思ってたわけ?」
嬉しそうなハルヒの笑顔を見て敗北感を感じる。だが、言い返す言葉が見つからない。確かにあの時ハルヒに見惚れていたのは事実だからだ。精一杯の抵抗として、俺はハルヒの笑顔から目を逸らした。
目を逸らした視線の先…………いままで誰もいなかったはずの場所に、頭から白い布をかぶった得たいの知れない人物が立っていることに気づいた。
「だ、誰だお前は?」
思わず叫ぶ。
「ようこそ、お茶会へ」
聞き覚えのある女性の声で、彼女は確かにそう告げた。ハルヒも目を丸くして彼女を見つめるが、やがてすべてを理解したように笑い始めた。
「あはは、何やってるのよ、みくるちゃん」
そうだ、おばけのQ太郎みたいな格好をしているが、この声は確かに朝比奈さんのものだ。だが、なぜ朝比奈さんがここにいるんだ?
瞬間、いままで真っ暗だった校舎の電気が一斉に点灯し、誰もいないはずの校舎の中からたくさんの人の声が聞こえてきた。まるで文化祭当日の北高のように。
驚いた表情で校舎を眺める俺とハルヒの前に空から光が射して、その光の中をピエロに扮した古泉と魔法使いの格好をした長門がゆっくりと空から降りてきた。
「ようこそ、お茶会へ」
「お二人をお待ちしておりました」
長門はいつもの口調で淡々と、古泉は見慣れた笑顔でうやうやしく頭を下げた。驚きで唖然としていたハルヒの表情がだんだんと無邪気な笑顔へと変わっていく。
まるで初めて閉鎖空間で青い光の巨人を見たときのように目を輝かせて、奇妙な格好に扮した三人を交互に眺めていた。
「ふふ、うふふ、あははははは。そっか、みんなもあたしと、あたし達と同じように考えていたのね。いいわ、お茶会だって、キョン。行きましょう」
一片の不安さえ感じられない屈託の無い笑顔で喜ぶハルヒを見て、逆に得体の知れない不安がこみ上げてきた。呆然といま目の前で起こっている出来事を眺めるしかできない。
「ほら、キョン! 何してるのよ! 早く行くわよ!」
ハルヒは俺の手を引っ張り突如現れたSOS団団員の後をついていく。俺もハルヒに引っ張られるままに彼らとともに校舎の中へと入った。
校舎の中はざわざわとした人のざわめく声があちらこちらから聞こえてくるものの、俺とハルヒ、そして異形の格好をした長門、朝比奈さん、古泉以外に人の姿は見えない。
しかし、確かに周囲に人の気配がする。なぜ、こんな深夜にみんな学校にいるのだろうか。当然抱くであろう疑問を前を行くハルヒは気づいていないのだろうか、それともあえて無視しているのだろうか。
いや、そもそも俺達の前を歩いている三人は本当に俺やハルヒの知っている本人なのだろうか。彼らの目的はハルヒが自分の能力に気づかないようにすることだったはずだ。
それぞれ考え方は違えど、この点でだけは一致していたはず。なのに、今回のこの行動はあまりにもその目的からかけ離れているではないか。いったいこれはどういうことなのだろう。
俺が困惑していることなどお構いなく、ハルヒはあたかもそれが当然であるかのように三人について行く。そして俺達はハルヒと俺が最初に出会った場所、一年五組の教室へとたどり着いた。
「どうぞ」
ピエロの古泉がうやうやしく礼をして教室の中へと入るように促す。長門と朝比奈さんは古泉の横に立って俺達を眺めていた。
「え? ここって……一年の時の教室よね…………」
ハルヒはちょっとだけ期待を裏切られたような拍子抜けした表情で古泉の顔と一年五組のプレートを交互に見ながら教室の扉を開ける。
「おい! ちょっと待て、ハル…………」
ハッと気づいてハルヒを止めようとしたときにはもう遅く、ハルヒは教室の中へと足を踏み入れていた。仕方が無いので俺もハルヒの後に続く。
中に入ると、そこには一年の頃の授業中の風景が広がっていた。いや、授業中ではない。だが、どこか懐かしい見たことのある風景だ。クラスメート達は俺達が入ってきたことに気づきもせずに岡部教諭の話を聞いている。
おそらくこれは幻なのだろう。すると、左端の席からクラスメートが順番に立ち上がり、自己紹介をし始めた。な、なんだこれは? いやだが、確かに俺はこの風景をどこかで見たことがある。
しばらく三年間の北高での記憶を次々に頭の中に思い浮かべ、目の前の風景と照合する。そうだ! 思い出した。これは北高に入学した最初の日の風景だ。
周囲を見回すと、真ん中の席に俺が、そしてその後ろにハルヒが座っている。順番に自己紹介をしていくクラスメート達。だんだんと俺の番が近づいてきた。
ありきたりな俺の自己紹介が終わった後、ハルヒが立ち上がり例の台詞を言ってのけた。
「東中学出身、涼宮ハルヒ。ただの人間に興味はありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上」
教室の中にどよめきが広がる。ハルヒが教室中の視線を一身に集めた風景がだんだんとぼやけてきて、そして消えていった。気がつくと、無人の一年五組の教室に俺とハルヒだけが、ただぼんやりと立ち竦んでいた。
無言のまま、ハルヒと見つめ合う。おそらく言いたいことは俺もハルヒも同じだっただろう。ハルヒは驚愕と郷愁の入り混じったような表情で俺の顔を見つめていた。
「お二人が最初に出会ったときの思い出でございます」
突然背後から声が聞こえ振り向くと、古泉ピエロがうやうやしく立っていた。その後ろに魔術師長門、お化けの朝比奈さんが付き添っている。
「すごい……」
「いや待て、これはどういう意味だ。何の目的があってこんなことをしている?」
目の前で起こった奇跡に感嘆した表情で、感心するように古泉を眺めるハルヒを横目に見ながら、俺は古泉に詰め寄る。だが、古泉はあくまで冷静に俺達を見ていた。
「お茶会に出席される前に、お二人の貴重な思い出をもう一度思い出していただこうというのが、今回の主催者の趣旨でございます」
「主催者?」
「はい」
「それはいったい誰だ!」
「それは、あなたがよくご存知の方です」
詰め寄る俺に、古泉はほんの少しだけ首をかしげ、あくまで笑顔を絶やすことなく答える。
「あなたの……最も身近にいるお方。物理的にではなく精神的に……」
「ちょっと! キョン」
『知ったかぶりをするのもいい加減にしろ』と言いかけた俺と古泉の間にハルヒが割り込む。
「そんなことどうでもいいじゃない! せっかく古泉くんや有希やみくるちゃんが趣向を凝らしてあたし達を招待してくれてるのよ。素直に楽しめばいいじゃない」
「お、お前……いま目の前で起こってることが奇妙に思わないのか」
「……そりゃあ、変だとは思うけど、きっと何かトリックがあるのよ。あたし達の思いつかない。
それに、もしこれが本当の超常現象だというのなら、ようやくあたし達は不思議にたどり着いたことになるわ。それはそれでいいじゃない。それとも……」
不意に表情を変え、ハルヒは俺を非難するような目で見つめる。
「キョンは……キョンにとっては、あたし達が、あたしとキョンが最初に出会ったときの思い出なんてどうでもいいわけ?」
問いかけるハルヒの表情に弱気なときに見せる不安の色が垣間見えたような気がした。
もちろん、俺にとってもハルヒとの出会いはかけがえのない思い出の一つだ。この出会いがなければ、俺の高校生活はごく平凡なもので、これから起こるさまざまなイベントに巻き込まれることはなかっただろう。
だから、どうでもいいわけはない。だが、だからといっていまの状況に不安がないわけではないのだが……
ハルヒはじっと俺の目を見つめ返答を待っている。
「い、いや、そんなことはないが……」
俺のつぶやくような返答を聞いて、ハルヒの表情は太陽のようにまぶしい笑顔に変わった。
「でしょう! だったら楽しまなきゃ!」
遠足を翌日に控えた小学生のように小躍りしながらはしゃぐハルヒの姿を見て、それほどまでにハルヒが喜ぶのならもう少しつきあってみようかという気持ちになってきた。
「では、次はこちらへどうぞ」
話にひと段落ついたと判断したのか、古泉は何事も無かったかのように次の部屋へと案内する。ハルヒは少し興奮気味に、俺は嬉しそうなハルヒを横目で眺めつつ三人の後を着いて行った。
古泉たちに案内され、教室の扉を開くたびに、ハルヒと過ごした想い出の風景が目前に広がった。
ハルヒの思いつきのような提案で寄せ集めのメンバーで参加した野球大会。古泉の仕込みとも知らずにまんまとはめられた夏の合宿。朝比奈さんを主人公にして映画を撮影した文化祭までの日々。
教室から次の教室へ移るたびに、思い出の風景が目前に浮かんでは消えていく。その懐かしい風景を見て胸に郷愁のような切ない気持ちがこみ上げてきて、このまま北高を去ってしまうことがとても寂しく感じ始めた。
おそらくはハルヒも俺と同じ気持ちだったのではないだろうか。最初ははしゃいでいたものの、途中からは格式の高い美術館か何かに来たかのように黙り込んで、目の前に広がる風景を、少し寂しさの垣間見える面持ちで眺めていた。
ここで見る風景はすべてハルヒも知っている日常の風景以外には無かった。つまり、ハルヒの知らない非日常のエピソードは現れなかったわけだ。それでも、目の前の風景は俺の心を揺さぶるには十分だった。
途中、ふと、自分の心の中に奇妙な感情が芽生え始めていることに気づいた。最初は高校生活を懐かしむだけだったが、教室を巡るにつれてそれはだんだんと大きくなりその存在を主張し始める。
 
諦観
 
そう、これからの人生で高校生活以上のすばらしい経験をすることは無いだろうといった思い。いままで、俺はそういった思いから目を背け、なるべく見ないように考えないようにしてきた。
だが、教室を巡り過去を振り返るにつれて、その思いから目を背けることができなくなってきている。そして、人生の行き着くであろう道のりの先が見えてしまったような、なんともやるせない感情が俺の心を支配していく。
だが仕方がない。過去を懐かしむことはできても、過去に戻ることはできないのだから。俺達には前を向いて歩いていく以外の道はないのだから。すくなくとも一般人である俺には……
校舎中をすべて巡り、最後にSOS団のプレートが掲げられた見慣れた扉の前に案内された。
「こちらで最後です。この後は屋上でお茶会を楽しんでいただく予定になっております」
古泉がうやうやしく頭を下げる。SOS団の活動の場。ここを拠点にして俺の高校生活は回っていたといっても過言ではない。ハルヒが俺を一瞥した後、ゆっくりとその扉を開けて中に入る。
部屋の中では俺が赤本を見ながら勉強をしている。時期は……そう、二月だったと思う。確かセンター試験も終わって二次試験の勉強をしていた頃だ。
ハルヒは机を挟んだ対面に座り、赤本の内容を指で示しながら一つ一つの問題を解説している。途中、長門と古泉が部屋に入ってきたが、ちょっと挨拶をしただけですぐに出て行った。
二人きりになった文芸部室で、不意にハルヒが俺に尋ねる。
「どうしてキョンはこの大学を受けようと思ったの?」
「どうしてって……自分の偏差値と相談してここなら大丈夫かなと思っただけさ」
ありきたりな回答をハルヒに帰す俺。
「ふうん」
憮然とした面持ちで俺を見るハルヒ。
ハルヒは他にも何か言いかけたが、そのまま沈黙する。俺はそんなハルヒの様子を一瞥すること無く一心不乱に赤本を見ている。
窓から差し込む夕日が部屋の中を真っ赤に染める。俺もハルヒも夕日に照らされているその風景を見て、心臓が大きく鼓動するのを感じた。
俺は赤本を見ながら真剣な表情で問題を解いていく。そんな俺を沈黙したまま見守るハルヒ。その表情はどこか寂しげに感じた。
静かな部屋の中に、俺が赤本をめくる音とノートを書く鉛筆の音だけが聞こえる。
そして、想い出の風景はだんだんと薄くなり、俺達の目の前から消えていく。なんでもないはずの風景なのにやけに切なく感じたのは夕焼けのためだろうか。
風景が完全に消え去り、周囲が完全に夜の文芸部室に戻った後も、しばらく俺とハルヒは沈黙したまま呆然とその場に立っていた。真っ暗な文芸部室を窓から差し込む月光が照らしていた。
「お楽しみいただけたでしょうか」
背後から聞こえた古泉の声にハッと我に返った。
「では、屋上へ参りましょうか。もうお茶会は始まっております」
「う、うん」
ハルヒがその表情に不安を覗かせながら、少し弱々しく答えた。古泉はそんなハルヒにニコッと一瞥した後、文芸部室から出て行く。もやもやとした感情を抱きながら、俺達もその後に続く。
月が煌々と照らし出す無人の廊下を異形の姿をした三人に続いて歩く。まったく人の気配がしない深夜の廊下。ハルヒの息遣いだけが、俺が独りではないことを教えてくれる。
そんなハルヒも何か思うところがあるのか、さっきまでとは違い、少し暗い表情でうつむきながら三人の後をついて行く。
廊下を歩いている最中、不意に奇妙な不安を感じた。さっきまで自分達がいた文芸部室に電気が点いていないことに、いまさらながらに気がついた。そうだ、確かに校舎の中に入ってきたときには電気が点いていたはずだ。
そしてそのことに気づくと同時に、他のさまざまな不可思議に気がついた。いままで目をつむって何も見ていなかったのではと思うくらいさまざまな疑問が俺の中に浮かんでくる。
まず第一に、校舎に入って来たときに確かに聞こえたはずの喧騒が聞こえない。それどころか電気まで消えている。いつの間にかシーンと静まり返った深夜の校舎に戻り、静寂が辺りを支配している。
さらに、あまりにも静か過ぎる。まるで世界中で動いているのが俺達だけと思えるほど不自然に静かだ。そこまで考えて、家を出るときに時計が、いや時間が止まっていたことを思い出した。
なにより奇妙なのは足音だ。物音一つしない校舎に、たったふたつの足音しかしない。そう、俺とハルヒの足音しかしないのだ。
長門はともかく、古泉と朝比奈さんは物理的には普通の人間だ。なのに足音がしない、抜き足差し足などというレベルではなく、まったく音がしないのだ。
不安が次第に恐怖へと変わっていく。『目の前にいる三人は俺達の知る三人ではないのではないか』疑問が段々と確信に変わっていくのが分かる。ひとすじの冷や汗が頬を伝うのが分かった。
不意に前を歩く三人が立ち止まり、こちらを見る。一瞬、自分が疑問を、いや恐怖を抱いていることに感ずかれたのかと思い戸惑ったが、三人は横一列に並び、古泉が片手で階段の先にある扉を指し示して言った。
「僕達が案内できるのはここまでです。あの扉の向こうでお茶会が催されています。どうぞ、扉を開けて中へ」
階段の先を見上げると、何度か目にしたことのある屋上への扉が少し半開きの状態で目の前にあった。朝比奈さんの映画を撮るときにも通ったはずの屋上への扉がやけに不気味に感じる。
月明かりの漏れるその扉の向こうには、確かに誰かが、それも一人や二人ではなく大勢の人がいる気配がする。人……なのだろうか。何者かの気配がするのは確かなのだが……
「じゃあ、行くわよ。キョン」
自分を奮い立たせるためだろうか、ハルヒはまるで自分に言い聞かせるように俺に一言そう告げると、ゆっくりと階段の踊り場から屋上への登っていく。
一歩、二歩とハルヒが階段を登る様を、じっと立ちすくんだまま眺めていたが、ハッと我に返り、俺は無意識の内にハルヒの手を掴む。
「何?」
「ま、待て、ハルヒ」
「…………」
ハルヒは怪訝そうな表情で俺をじっと見つめる。ハルヒから目を逸らし、俺は古泉へと詰め寄った。
「正直に言え! 屋上には何があるんだ!」
「先ほども申し上げたように、お茶会が開かれております」
「そんなことを聞いてるんじゃない!」
丁寧なしぐさを崩さない古泉にいいかげん腹が立ち、ぐいっと胸倉を掴む。不意にゾッとするものを背中に感じ、思わず手を離した。
目の前の古泉には、普段俺が目にしている古泉に比べて、何ひとつ変わったところは無い。胸倉を掴んだときも、何ひとつ変わった様子は無かったはずだ。
だが、直感というか本能が嗅ぎ取った。目の前の古泉は人間じゃない。そう、この感覚は初めてあの九曜周防に会ったときと似ているかもしれない。いや、インパクトとしてはそれ以上だ。
「どうかされましたか?」
あくまで丁寧な態度を崩さない古泉に底知れぬ恐怖を感じる。古泉の横で俺とハルヒを眺める長門と朝比奈さんの目がギラっと光ったように感じた。まるで、人外の魔物のように。
それでも、俺は勇気を振り絞って古泉に尋ねた。
「お、俺達が……もしだ……もし、屋上のお茶会に参加すれば、どうなるんだ?」
古泉はあくまで笑顔を絶やすことなく、首を少しかしげて不思議そうにこちらを見つめる。
「お茶会に参加すれば、明日は来なくなります。永遠の今日が続くのです」
とんでもないことをさらり言う古泉、驚愕のあまり言葉が見つからない。
「このお茶会はたった一瞬の刹那の時間を大切にする者の集まり。今日という日が過ぎ去って欲しくないのなら、お茶会に参加するべき」
魔術師の姿をした長門が古泉の言葉を補足する。じっと俺を見つめる長門は、姿形はともかく、もうすでに俺のよく知る長門とはまるで違う何者かのように見えた。
「明日が来れば、キョンくんは涼宮さんや長門さん、古泉くんとも別れなくてはなりませんよ。でも、今日がずっと続けば、永遠に別れはやってこない。
ずっと、みんな一緒にいることができます。キョンくんもそう望んでいたのではないですか?」
白い布を頭からかぶりお化けの格好をした朝比奈さん、その布の穴から見える目はまるで俺の心のすべてを見透かしているようで、咄嗟に言葉を紡ぐことができないでいた。
言葉を紡ぐことができない俺に代わって、ハルヒが言葉を紡ぐ。
「そう……ね。確かにあたしは明日が来るのが……今日が永遠に続けばいいと思っていたかもしれない」
「…………」
「キョンも……そうでしょう?」
同意を求めるハルヒ。その表情は困惑と不安で彩られていた。多分、ハルヒも自分の選択に迷いがあったのだろう。いや、自分の選択が間違っていることに気づいていたのかもしれない。
根拠があるわけでは無いが、うっすらと、この世界のことが分かりかけてきた。多分この世界は…………
「確かに……俺も心のどこかではそう思っていたのかも知れない」
「そうよね。じゃあ」
「ハルヒ」
ハルヒの言葉を遮り、じっとハルヒの目を見つめる。
ここはおそらくハルヒの創った閉鎖空間。いや、新しい世界そのものかもしれない。そして目の前にいる三人は俺達の知っている三人ではなく、俺とハルヒの心の弱さが具現化した姿。
古泉や長門や朝比奈さんの格好をしているのは、ハルヒだけでなく、俺自身もこの三人なら俺達を日常のルーティンで退屈な毎日から救ってくれると心のどこかで期待しているからだ。
もし、俺の仮定が正しいとすれば、これは俺とハルヒが乗り越えなければならない高校生活最後の関門。ゆっくりと言葉を選びながら、自分自身にも言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「ハルヒ、お前も分かっているはずだ。明日は必ずやってくる。たとえ、その運命から逃れたとしても、その先にお前の望むような楽園は存在しない」
ハルヒも視線を逸らすことなくじっと俺の目を見つめていた。
「どうして? どうしてそんなことを言うの? あんたはSOS団が面白くなかったっていうの? 楽しんでたじゃない! あんただって」
「…………」
「明日になれば、みんなバラバラになっちゃうのよ! そうなったら、もう二度と会えないかもしれない。あんたそれでもいいの?」
身振りを交え、必死に訴えるハルヒ。こんなハルヒを見るのは初めてだ。
「……ハルヒ、別れは必ず訪れるんだ。たとえ別れたとしても、俺達の絆はそう簡単には壊れやしない。そうだろう?」
段々とハルヒの目に涙が溜まってくるのが分かった。下唇を噛み、ハルヒは悲痛な声で訴える。
「あ、あ、あたしは、あんたと別れたくないのよ! 何でよ! 何であんたはいつもいつもあたしの言うことに逆らうの! あんたさえ、あんたさえいなければ、こんな苦しい思いをすることは無かったのに!!」
必死に訴えるハルヒの姿を見て、心が折れてしまいそうだった。自分もハルヒとともにあの扉の向こうに行こうと、そう言いそうになった。
だが、ハルヒ自身も気がついているはずだ。そう、一年の時の夏休みのように有無を言わさずに過去に戻してしまうようなことを今回はしていない。それこそがハルヒ自身も明日から逃避することに疑問を抱いていることの証明だ。
「あたしは行くわ! 必ず! たとえあんたがついて来なくても! あんたはどうするのよ!」
だから、俺がここで挫けるわけにはいかない。
「ハルヒ」
「何よ!」
「どうしても行くつもりか?」
「当たり前でしょ! ここまで来て引き返すなんて、あたしにはできないわ!」
「そうか……分かった」
一瞬だけ、ハルヒの表情が緩んだ。そんなハルヒを見て自分も行くと言いそうになった。喉元まで出てきた言葉をぐっと飲み込む。
「じゃあ、お前一人で行け。俺は帰る。いつまでもお前の我侭にはつきあってられない」
そう言いつつ、俺はハルヒから目を逸らした。これ以上、ハルヒの悲しむ姿を見ることに耐えられなかったからだ。
「え?」
一瞬、ハルヒは目の前の状況が理解できなかったようだったが、階段を下りていく俺を見てようやく理解したようだ。
「こらあ! キョン! 待ちなさい!」
頭の上の方からハルヒの怒鳴り声が聞こえる。振り向くことはしなかった。振り向けば自分の信念が崩れてしまう気がしたからだ。
「戻ってきなさい! 団長命令よ! キョン! あんた知らないからね! 後で謝っても許さないか! …………待ってよ、キョン。あたしを……あたしを一人にしないで……」
段々と怒鳴り声が悲痛な叫びに変わっていく。ゆっくりと一定のテンポを守って階段を下りて行く。決して声のする方向を見ない。ハルヒも分かってくれるはずだ。
ふと、コンピ研とゲームで戦ったときに古泉に言われた言葉を思い出した。
腹立たしいことだが、古泉の言うとおり、俺はハルヒが戻ってくると信じている。信頼関係。そう呼ぶほどのものなのかどうかは分からないが、とにかく信じている。必ず戻ってくると。
「キョーン」
遠ざかっていた声が段々と近づいてくるのが分かった。声の主がすぐ後ろまで来たのを確認して、背後を振り向くのと同時に、
「バカー」
頭部に強い衝撃を受ける。
不意に時間素行を行ったときのように周囲が暗転し、無重力下に投げ出される。周囲の景色がぐるぐると回転するような錯覚に陥った。一瞬目の前が真っ暗になり、気がつくと、一年の時と同じように床に寝転がっている自分を発見した。
身体を起こし、時計を見ると午前2時を表示している。だが、さっきと違って秒針が動いている。部屋の中は静寂に包まれていたが、奇妙な違和感は感じない。
俺は現実の世界に戻ってきたことを悟った。
 
 

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最終更新:2022年01月05日 17:00