第3周期 MELODY~主戦慄~
 
 陽は地平線へと飲み込まれていき、空は段々と赤く燃えていく。
 斜陽が校舎に差し込む。
 景色はその綺麗な橙のような赤に染まっていたが、俺達だけはどす黒い汚い赤に染まっていた。
 部室で休息する二人は、返り血で制服を汚していたが拭き取ることはしなかった。そんなこと無駄だと分かっているからだ。乾き始めた血飛沫は汗で再び湿り、その手が触れるあらゆるものを赤く汚していた。
 結局のところ、あの世界で長門が殺されたという事実が浮かんだだけで、肝心の部室からの脱出に関するヒントは無いのである。あの世界のことを解決しない限りはこの扉を開けることは出来ないのだろうか。
 
「朝倉、大丈夫か?」
「…………」
 呼びかけても返事はない。朝倉はあのゴーストのことが頭から離れないのだろうか、ずっと無言で血のついたナイフをもてあそんでいる。あんな体験をしたのだからショックを受けるのは仕方ないだろう。
 ここに戻ってきてから、互いにあの世界で見たものを話したので、朝倉もあの世界がどういうことになっているかは大体分かっている。だから、決してあの狂気に混乱して思考停止に陥っているわけではない。その話し合いが終わった途端に、今現在のように下を向いたまま何も話さなくなってしまったのである。
 
 俺は数年先の幸運すら手放すようなため息をして、どこまでもリアルな作り物のような夕日を眺めていた。
 二度目の幻覚で見たのは、長門が殺害される一部始終だった。もうあれは否定しようがないだろう。
 すると、最初の幻覚で見た図書館の爆発火災もハルヒが原因なのだろうか。
 そう考えた瞬間、恐ろしいことが浮かんでしまった。
 あれらの狂った世界は、ハルヒが自身の力によって改変した世界ではなく、ハルヒが『そうした』結果、つまり何の作り替えもない現実なのではないか。
 全てを染めていたあの血痕は俺の恐怖を煽るための飾りなんかではなく、実際に殺戮が行われた末のものなのではないか。
 それ即ち、荒廃した図書館やマンションを闊歩していたリッカーもどきや神人もどきのようなあのグロテスクな異形共もハルヒの創造物であることになる。
「そんなわけない」
 そうだ、まだあの少女の正体が分かってないじゃないか、それによっては別の犯人の可能性も捨てきれないんじゃないか。
 とても薄い希望ではあるが、そう思わざるを得なかった。
 もう、そう思うしかなかった。
 
 またため息をついた。何度目かは忘れた。
 ここには、音が無い。最初の方に言った通り平日の学校なのに喧騒が全くないので、鼓膜が押し破られそうな思い静寂がのしかかっていた。
 ため息は、それを一瞬間だけでも打破しようと無意識にしているのかもしれない。
 
 またチャイムが鳴った。その音は静寂を切り裂き、俺達の安らぎを破壊した。
 びくっと動いてナイフを落とした朝倉とは対照的に、もうこの程度で驚かなくなってしまった自分にどこか虚しさを感じた。このままだと、あの血みどろにも恐怖を覚えなくなってしまうのだろうか。それもある意味で恐怖だった。
 自分でも恐ろしいくらいの冷静さ(というよりも冷たさ)で扉を見つめる、そして一応、そのノブを掴んで回そうと試みる。この行動を起こす時点で期待していない自分が悲しい。
 予想通りと言っては何だが、相変わらず変化がない。再び狂った世界に行くことになるようだ。
 それを知らない朝倉は狼狽していた。落としたナイフを慌てて拾って構えていた。
「さっきのは、何? 何か起るの? これからどうなるの?」
「どうやら三時間目の始まりだ。またあのトンネルをくぐって地獄へ冒険しなければならないらしい。朝倉、お前はどうする?」
 朝倉は答えない。そりゃあ、あんな世界に行きたい奴はいないだろうな。
「慣れてるみたいね」
 俺の冷たさが端から見ても分かる程になっていたことに悲しみを覚えた。
「ああ、これで三回目だからな。慣れちまった自分もおかしいと思うが。お前はここで待つか? 俺はそれでも構わないぞ」
「でも、ここで助けを待つのが賢明じゃないかしら。ここは安全なのだから、下手に動くよりはいいと思うんだけど……」
「窓ガラスが割れない時点で、ここも何かしらの影響下にあることは確実だ。通信手段も一切使えなかった。ここで待つってのも良いが、俺はあの世界に用がある」
「あんな場所にわざわざ行くなんて、自殺行為にも程があるわよ」
「ここから出るための方法を、自分で探す。朝倉はここで外からの助けを待って、俺は手がかりを探す、ちょうど分担ってことでいいか?」
「分かったわ。でも、無茶はしないでね。私でも危うい状態になったんだから」
 そう言った声には、力がなかった。こんなにしおらしくしている朝倉を無理矢理地獄に連れていくなんてことはしない。
「ああ、それは百も承知だ」
 俺はポケットの中に拳銃があることを確認し、机に置いていた懐中電灯と鉄パイプを装備した。
「そこにある水、欲しかったら勝手に飲んでもいいぞ」
 まだ水の残っている、赤黒く汚れたペットボトルを視線で示した。
「ありがとう、気をつけてね」
 再びナイフを弄んでいた朝倉は、そのままの状態でこちらを見ずに返事をした。
 
 朝倉を部室に残し、俺は裏世界へ三度目の潜入を開始した。
 長いトンネルを抜けるとそこは、言うまでもなく静寂に包まれた世界が待っているのだろう。
 待ってない方が有難いのだが、俺が抱く希望はどうもかなうことは無いらしい。どうしても俺を絶望に追い込みたいようである。むしろ希望を持つことが間違いなのだろうか。
 
 
 『街』
 
 
 トンネルを抜けると、目の前には横断歩道があった。
 トンネルから少し離れて歩道の端に立ったところで、この場所が見覚えのある光景であることに気付いた。しばらくして、ここは古泉が超能力者であることを俺に証明したあの交差点であることが判明した。
 左右を見る。薄く霧がかかっているせいで遠くは見えないが、この世の終わりのような景色を見せてくるのは相変わらずといったところだろう。
 正面に見える信号機は作動せず、その横には赤錆でボロボロになっている車が放置されていた。ワックス掛けもしていたであろうこのセダンが錆びるのにはかなりの時間がかかるだろう。となると、ここは俺がいた時間よりも数年先の未来なのだろうか。
 荒れ果てたこの街はラクーンシティと何ら変わりない。ただ襲ってくる敵の形がちょっとばかり違うだけだ。
 今回はどこに向かえばいいのだろうか。毎回毎回、目的などは分からないまま放りだされるので、自力で探すほかないのか。
 目的地が分からず、俺は晴れそうもない霧の中に立ちつくしていた。以前のように一本道になっている様子はないので、手がかり(部室を出るためのものか、この世界の真相か)を探す範囲がやたらと広くなってしまいそうだ。
「どこに行こうか」
 少し前進して横断歩道の中ほどに立ち、霧の向こうにまで乗り捨てられた車が点在する道路を見つめていた。
 
 誰かいる。俺の視線の先、100メートル以上向こうの霧の中にその影を認めた。
 
 そうだ、あの直立不動の影は間違いない。
 
 炎上する図書館で見たあいつだ。
 幻覚の先で叫び声をあげていたあいつだ。
 あの幻の中だけでなく、ここにいる、その事実が俺を震撼させる。
 
 突然、ノイズが起こって視界が歪んだ。
 またしてもあの精神攻撃を受けるのだ。
 超音波が頭を貫いた。
「だぁっ……くそ…………!」
 耳鳴りはただのうるさいノイズから痛みへと変わっていき、そして目の前の世界は一変した。
 
───
 
 …………
 
 …………
 
 新聞やニュースで、事件現場の凄惨さを表現するのに「血の海」という表現が使われる。
 では、この赤い液体で道路が膝下まで浸かっているこの状態は何というんだ?
 生温かい液体が靴の隙間から侵入して靴下にまで染み込み、足を動かす度にやや粘性のあるそれが靴の中で流動した。
 その濃密な空気が口に鼻に入り込み、瞬時に激しい嘔吐感が襲う。喉が潰れそうだ。食道がぐにゃぐにゃに捻じ曲げられている。
 量が異常だ、一体何をしたらこんなに溜まるんだ。こんなことがあってたまるか。これだけの血があるってことは、これだけの量の血を失った人がいる訳で……やめよう、考えたら気が狂っちまいそうだ。とんでもない量の人間ジュース……考えさせるなと言ってるだろう。
 なんとか吐き気を堪えながら近くに止まっていた車へと歩いていき、そのボンネットによじ登って血の池地獄から逃れた。
 膝から下は血が染み込んでいるし消化器系の異常も収まらない。退避は出来たからと言って完全に血の池地獄から解放されたかというとそうでもなかった。
「うぇっ………」
 座れる場所を得たことで安心して気が緩んでしまい、口の中が酸の味で満たされることとなってしまった。しかし俺はなんとかここまでで堪えることが出来た。
 
 どれだけの間、その状態でいたのだろうか。
 
 何も起きない。
 
 いつまでたっても幻覚から覚めない。
 
 いつまでたっても、目の前には朽ち果てた街の姿があり、眼下には真っ赤な洪水があり、噎せ返るような澱んだ臭いが沈下している。
 
「……どうしてだよ」
 もう俺の嘔吐感を抑えることは出来そうにない。その真っ赤な海を見ないように上を向いて夜闇だけを見るようにしていたが、相変わらず落ち着くことは無かった。
 なんでいつまでたってももどらないんだよ。
 
 誰かが海を歩いてくるざばざばという音がしている。
 上を向いていた視線を戻す。
 遥か前方に黒髪の女性が立っていた。
 その海に浸かってしまう程に長い黒髪。服を着ておらず、その肌は黒く汚れている。間違いない、図書館で見たあいつだ。その異常な長さの黒髪で顔を隠しているので、あの少女と同じく表情は分からない。
 だが、ヤバいのだけは直感で分かった。全身の毛が逆立ち、尋常じゃない寒気を感じていた。
 吐き気など、すっかり忘れていた。
 
「やっぱり、怖い……?」
 
 確かにそう言ってこっちへ歩いてくる。
 逃げたいのに動けない、まるで金縛りに遭ったようだ。
 
「ふぅん……」
 
 あいつは笑っている。俺の有り様を笑っている。
 このままじゃ、俺はやられる。
 まさか、これは逃げられないイベントなのか……? ここで「おしまい」になっちまうのか……!?
 
「怖いのね……。でも、これはあたし達にとっては現実なのよ」
 
 あいつはどんどん近付いてくる。
 視界が歪んでいた。
 だんだんと世界が傾いていく。
 血の池が壁になり天井になり、あいつの姿がぐるぐる回りながらどんどん大きくなり……
 
───
 
「……く……ぁぁ」
 また気を失って倒れていたようだ。
 起き上がると、そこは横断歩道の真ん中であった。ひどく汗をかいていて、湿った服が冷たくなっていた。あれだけ血が染み込んだはずのズボンには乾いた血痕しかなかった。
 見回すと、あいつの姿はないし、血の海もなくなってアスファルトが見えている。ギリギリのところで幻覚は終わったようだ。助かった……。
 
 今なお服を濡らしている汗を拭い、ゆっくりと呼吸を落ち着かせる。
 十数回の深呼吸で心臓の鼓動が安定してきた頃に、さっきのことを整理する。
 自分にとってあの世界は現実、確かあいつはそう言っていた。
 俺が別の場所から無理矢理連れて来られたことを知っている?
 そして、やはり首謀者はハルヒなのか……?
 
「違う」
 
 俺がその説を否定するのは、世界を変えてしまう力があるとはいえ、あいつがあんな世界を望むはずがないという背理法が大前提になっているのは確かだ。それが覆るということがありえるだろうか。こんな血みどろで異形が蔓延る世界を、あいつが本当に望むのだろうか。
 だがそれは、俺個人の根拠のない希望に過ぎないのだ。
 実際、あいつはここで俺を弄んでいるではないか。
 
 なあハルヒ、俺が苦しむ姿が、そんなに楽しいのか?
 
「……止めだ」
 
 そうだ、こんな所で悩むのは止めにしよう。
 捜索はまだ始まったばかりだ。
 この広い街で俺はどこに行くべきなのか。鉄パイプを握りながらそう思ったが、取り敢えず歩き回ってヒントを探すしかなさそうだ。
 今回のエリアはとても広い割に、異形の姿が全く見られない。これまでのところが異形まみれだったことを考えると、まだ行くべき場所に到達できていないのだろうか。
 
 そうやって道路を歩いていた時だった、嫌な奴に遭遇した。
 50メートル先、路上に制服を着ている一人の男子生徒の姿があった。
 この世界にいる者としては、顔色は悪いにしても身なりは正常である。
 ただし、動きは比較する必要もないほどに異常だ。
 ワイヤーで吊り下げられているかのように不安定な姿勢のまま地上から数十センチを漂う、ゴースト。
 
「古泉……お前もなのか」
 やはり俺を非難の目で睨みつけている。
「なあ古泉、俺がお前や長門に恨まれるような事をしたのか?」
 ゴーストは答えることなく、ぎこちない動きでこちらへと向かってくる。
 砂のようにざらざらとした違和感が頭の中を侵食する。それはゴーストとの距離が近付くにつれて痛みへと変わっていくのだろう。もう頭痛は勘弁してもらいたい。
 こんな視界の開けた路上では逃げ隠れる場所はなかなかない。拳銃も銃弾は限りがあるので出来るだけ使いたくない。
 疲れを知らないゴーストを相手に逃げ回っても、体力を温存しながら逃げないといずれ捕まってしまうだろう。俺は体力を気にしながらも古泉に捕えられない程度に走って逃げた。
 当然のごとく古泉は俺を追いかけている。どこかに逃げ隠れる場所は無いだろうか。下手に建物に入ったら袋のネズミだ。
 姿をくらますのにいい場所はないかと、あちこち見回し、同時に後方のゴーストの姿も確認しながら走り回っていた。
 だが霧と暗闇で視界が悪い中、逃げ回りながら隠れられそうな場所を探すのは容易ではなかった。ゴーストはまだ後ろをついてくる。こんな持久走を続けていてはまずい。そういう焦りも出始めていた。
 
「……!」
 耳鳴りと共に、あの少女が目の前に現れた。だが、足を止めるわけにはいかなかった。
 
「こっち」
 
 それだけ言うとすぐに少女はまた赤い足跡を残して姿を消した。
 敵なのか味方なのかもはっきりしないが、古泉から逃げられるかもしれない。
 逃げられなかったらその場合は仕方ないが拳銃を使えば何とかなるだろう。半信半疑のまま、少女の誘導に従って走った。
 その足跡は一つのビルへと続いていた。俺はその中に駆け込むと、ロビーの物陰に隠れて拳銃を取り出していつでも発砲出来る準備をして様子を見た。
 古泉は俺の入ったビルを素通りして行った。なんとか捕まらずに済んだようだ。
 そこでしばらく休息を取っていた。とはいえ古泉がうろついているのでしばらくは外に出られそうもない。ビル内を移動することにした。
「ん?」
 懐中電灯であちこちを照らしていると、何かが光を反射した。近づいてみると、大きな銃が見えた。ショットガンだ。ショットガンが堂々とロビーに置いてあり、その弾薬と思われる筒もたくさんあった。わざわざ武器と弾を置いてあるとは、随分と親切である。
 しかしゲームの流れから考えると、強力な武器を入手したということはこれからの敵はより強力になるのではないかという不安が生じた。
 とはいえ、遠距離攻撃できる武器が弾の少ない拳銃しかない以上、これを使わないわけにはいかないだろう。嫌な感じがしながらも頼れる武器を得た。ショットガンに一発だけ弾を入れてみる。すんなり装填が完了したようであった。扱い方が良くわからないはずなのに、やけに手際がいいことに驚いた。残りの弾をポケットに詰め込む。ポケットが膨らんでいるが仕方あるまい。
 ポケットには拳銃、腰には鉄パイプとショットガンという概ね満足な装備で内部を進む。
 
 俺をここへと招き入れたあの少女の姿はない。
 
 ロビーから通路へと入り、部屋にデスクが並んでいるのを見てようやくここがオフィスビルであることが判明した。が、残念なことに真新しいオフィスもすっかり荒れ果てていた。
 この建物の内部はあの図書館やマンションよりも更に異常だった。勿論、真っ暗だったり血痕だらけだったりのまま放置されていることには変わりはないのだが、その度合いが違うのだ。
 オフィスビルの天井を、時には高い吹き抜けの天井でさえもべっとりと血が真っ赤に染め上げていたのだ。しかもそれらの血痕は古くない、乾いていないものであった。あの幻覚の世界により近い状態になっていた。
 しかも図書館より狭い空間でかつ空調など機能していないので、血の臭いのするよどんだ空気の密度が高くて不快なことこの上ない。あの幻覚よりは幾分マシであったとしても、ダメなものはダメだ。口の中では常に胃酸の味がしていた。
「どうやったらこんなに飛び散るんだよ」
 独り言は、もはや恐怖を紛らわす常套手段となっていた。
 
 ぶつぶつと呟きながら進んでいると。オフィスの一角で今までとの明確な違いを見つけた。
 懐中電灯が照らしだしたのは、異形の死体だった。
 敵であるはずの異形共が既にやられていたことだ。あの四つん這いが、俺に襲いかかることなく骸と化していた。
「何が起こってるんだ」
 懐中電灯で照らすと、いたるところにそれが転がっていた。どこを照らしてもそればっかりである。こいつらと戦闘することになっていたならば、相当な苦戦を強いられていただろう。この地獄の中では珍しく運がいい。
 だがどうしてこんなことになっているのだろうか。有難いに越したことは無いにしてもいささか不自然ではある。朝倉と同様に、ここで誰かが必死に戦闘しているのだろうか。
 
 ォオオオオオオォォォォ……
 
 ぐしゃっ
 
 フロア内で反響したのでその音がしたのはどこかは分からないが、遠方から呻く声と嫌な音が聞こえた。それは間違い無く異形の断末魔だった。
 
「もう大丈夫」
 
「!?」
 異形の断末魔や潰れた音よりも、その声に驚いた。
 
 さっきの声は、あの少女の? 床を照らせば、異形の死体ばかりに視線が向いてしまっていたが、確かに足元の血の池からはいつも少女の残す足跡が続いていた。
「これ全部、あいつがやったのか」
 あの少女はとんでもない力を持っているのか。
 お前は誰なんだよ、本当に。いつになったら正体を明かしてくれるんだ?
 異形の駆除をしてくれている以上、俺を誘導しているとしていいだろう。その先に何があるかは知らないが、その時にはショットガンに思う存分仕事をしてもらおう。
 
 どこもかしこも、異形の死屍累々が続いていた。いちいちそれに反応するのが面倒にすらなっていた。もしかしたら今まで見たこともないようなタイプの異形も存在していたのかもしれないが、そんなことに興味は無い。
 足跡はやがて非常階段へとのびていった。
 非常階段を使うのは二度目ではあるが、今回はゴーストも異形もいない。俺を後ろから猛烈な勢いで追いかけてくる要素は全くない。
 アクションゲームでもあるだろ? 何かからずっと逃げ続けるイベントというのが。俺はそういうのが大嫌いなんだ。
 自分の意思ではなく強制的に進む事を強いられるというものは、こんな極限状態の中ではとてつもない労力を使ってしまうことになる。俺は既に図書館でもマンションでも全力疾走をしているうえに、部室に居る間の休憩があるとはいえこの血みどろの中で精神的にも参っている中で完全に回復するなんてことは無い。だから、今は比較的余裕があるので登山でもするかのようにゆっくりと階段を上っていた。
 勿論、途上には異形のものと思われる骨と出来たばかりと思われる血だまりを何度も見ることとなったのだが、襲ってこないというだけでも精神的にはかなり助かるのである。
 足跡は階段をただひたすら上へ上へと続いていた。俺もそれをたどって進んでいく。一歩踏み出すたびにポケットに詰めたショットガンの弾がカチャカチャと音を立てている。
 
 導かれるようにして進むと、屋上に辿り着いた。そこで足跡は途絶えていた。
 霧がすっかり覆っていて、隣のビルが見える程度の視界しかない。
 外に出たので、ビル内に比べれば空気が比較的に綺麗である。俺は深く息を吸って、よどんだ空気を肺から追い出した。
 が、そんな解放感も長くは続けさせてくれなかった。
「………っ! またか……!」
 耳鳴り幻覚、何度目かも忘れた頭痛が襲いかかっていた。
 こうなるとどうあがいても逃れられない。意識が落ちてゆくまで苦痛を与えてくるのである。
 
───
 
 気付けば学校の廊下にいた。
 
 自分の現在位置を確認したその瞬間、またしても俺の胃袋は痙攣寸前まで追い込まれていた。
 
 壁や天井が真っ赤になっていた。
 
 もうこれはスルーだ、絶対にスルーだ。
 
 いちいち気にしていたら負けだ、絶対に精神がもたない。この先にはもっと恐ろしいものが待っているのだから。
 
 廊下の向こうに何かがいる。ここからでは暗くてよく見えないが、誰かがしゃがんでいるようにも見える。
 
 そのしゃがんでいるらしき影のそばには、真っ赤な水たまりがあった。
 
 赤い水たまりの真ん中に、何かがある。
 
 …………骨?
 
 血だまりに、白骨化した遺体が横たわっていた。
 
 
 それを認知した時、声が聞こえた。
 
「ねぇ、みくるちゃん……」
 
 またあいつの声だ。だが少し様子がおかしい。今までの寒気のするような冷静さが無く、明らかに動揺している。
 
 どこに向かって話しかけてるんだ? そう思いよく見ると、あいつはその骨に話しかけている。
 
 朝比奈さんも……誰の手によってなのかは確証が無いにしても、あんな残酷な最期を迎えることとなってしまったのだ。
 
「答えなさいよ……」
 
 今までとは違い、悲しそうな声だ。
 
 これはあいつが望んでなかった結末なのか。
 
「答えてよ……」
 
 なら、尚更、どうしてお前が、こんなことを?
 
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 
 甲高い悲鳴が廊下に響き、窓ガラスがきしんだ。
 
───
 
 その悲鳴を最後に幻覚から戻った。
 俺はひどく興奮していた。今まで仮説を否定してきた根拠が覆されてしまい、否定する余地が全くなくなっていた。ここまできても俺は認めたくなかった。例え望まなかったとしても、どうしてこんなことになるんだ。
 ハルヒが朝比奈さんのことを必死に呼びかけていたということは、朝比奈さんも殺されてしまったのだろう。
 
 分かっているようで全然分かっていない。
 なぜあいつがそんなことをしているのか。
 
「ん?」
 足元に携帯が落ちているのを見つけた。近づいてよく見ると、それは古泉のであった。
「どうして古泉のがこんな所に?」
 それを拾い上げる。画面はひび割れていて真っ暗、壊れてしまっているようだ。
 と、その時、その携帯からコール音が聞こえた。
 これだけ静かな空間なんだ、通話用の小さなスピーカーの音でも充分聞こえる。
 壊れた携帯が勝手に発信している。誰かとの通話がなされるようである。誰が応答するのか、コール音に鼓動の音が重なる。
 
 コール音が消えた。通話が始まったのだ。
「……もしもし」
 俺のその声に応えたのは、
「キョン君……!」
「朝倉?」
「たすけて……」
 朝倉の弱々しい声だった。
 な、何だ、安全だと思っていた部室に何があったのか?
「朝倉! どうしたんだ!?」
 次第にノイズが朝倉の悲鳴を遮り始め、単語も断片的になっていった。
「涼………………は…………貴方をいけ…………いやああああああぁぁぁぁ!! お……い『貴方がここにいる必要はない』…やめ…………こ…さな……ブツッ」
「朝倉!? 朝倉!?」
 俺は必死に呼びかけたが、既に通話が終了していた。
 脱力した。携帯が落下し、セメントにぶつかる音がした。
 俺は悔やんだ。朝倉が、やられた。それを防ぐことは出来たのではないか。
 
 そうだ、朝倉の声に交じって聞こえた声は、あの少女のだ。
 俺がここにいる間に朝倉が襲われてしまった。さっきまで俺を誘導していたあの少女に!
 一緒に来るように言えば良かった。そうだ、そうしていればまだこの狂気に囲まれているだけで済んだのだ。
 
 『貴方はここにいる必要はない』、確かにそう言っていた。つまり朝倉は部外者であり、この一連の出来事は俺だけ関わることが
 
 
 
 ……………………………………
 
 
 
 その時、俺が背後から聞いた声は、呼吸を忘れさせるものだった。
 
「うしろのしょうめん」
 
 ……ショットガンでもこれは勝機がない。
 最初の頃に、ホラー映画よろしく振り返ったと言ったが訂正する。実際はこんな感じだ。分かるか?
 振り返りたくないのに、振り返らなきゃならないんだぜ?
 
「だーあれ?」
 
 振り返る。振り返らないと、もっと怖い気がしたから。
 全てが止まった。
 もしかしたら、心臓も止まってたんじゃないか?
 俺は五感の殆どを失った。唯一機能していると思しき視覚が、目の前にいるアイツを嫌になるほど脳に焼き付けていた。
 
 目の前には、薄らと笑みを浮かべたハルヒがいた。
 その黒い髪は地面を擦る程長く、
 服を身に付けず、
 全身血で汚れ、
 酷く痩せ、
 まるで、
 泥人形のようで、

 

 


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