第4周期 DEAD END "I c u."
 
 俺はようやく思い出したように軽く息を吸った。だが、その息を吐く動作が出来なかった。横隔膜が小刻みに震えていたのだ。
 目の前にいる。会うたびにその距離は近付き、遂にはこんな至近距離にまでになっていた。もう表情がはっきり見えるまでに近い。
 ハルヒは微笑んで、俺との対面を喜んでいる。
 
「キョン……」
 
 囁くように言うと、一歩、また一歩こちらへ近づいてくる。俺は動くことが出来なかった。全身が最初からそうであったかのように固まって全く動かないものになっていた。その事実に動揺している間にも、段々とハルヒとの距離は短くなってくる。
 ここの地面は乾いているというのに、ハルヒの足音はまるで水たまりの中を歩いているかのようにぺたぺたという音を発している。
 距離が近付くにつれて、さらに鮮明に見えてくる汚れた肌、痩せて浮き出ている骨、まるで光を反射しない曇った瞳。次第に、その長い髪が地面を擦る音さえはっきりと聞こえてくるようになっていた。
 どうしてだろう。なんでハルヒがこんなに恐ろしい存在になっているのだろう。それはこの地獄のような風景に恐ろしいまでに似合っている姿のせいだろうか。
 
「待ってるわ……」
 
 ……消えた?
 
 さっきまでこっちを笑顔で見ていたアイツがいない。まるで灰になるように崩れて消えていった。一体何がしたかったんだ、待ってるとはどういうことだ。
 あの少女と違って、足跡も何も、そこにいた痕跡はまったく残していなかった。
 
 とりあえずは恐怖から解放されたことにほっとした。またため息をついてしまった、もう今後一生幸運というのに巡り合うことはないだろう。実際、この世界で俺は全くついてないのもそのせいかもしれない。自ら深みへと足を踏み入れてもがいているのか。
 
 さっき姿を見せたハルヒは実体なのだろうか、それともあれも幻覚の一種なのだろうか。どれが事実でどれが偽りであっても、俺を精神的に追いやっている要因であることは間違いなかった。散々走り回り、幻覚に追い詰められ、すっかり困憊している俺は、平常時でも走った後のように呼吸は荒く、腕か足かどこかの筋が脱力し痙攣し思うように動かなくなっていた。
 
 あいつは一体何がしたいんだ。俺に何を求めているんだ。こんな世界で、俺にどうしてほしいんだ。
 
 再び静寂になった闇夜の中、俺はいつの間にか落としていた古泉の携帯を拾い上げた。壊れたそれを操作して再び朝倉に連絡しようと試みたが、いくらボタンを押しても反応することはなく、ひび割れた液晶は光ることなく、血で汚れた俺の顔を映すだけだった。
 操作することを諦め、しばし壊れた携帯を見つめた。
 この世界の古泉は、携帯を屋上に残してどうなったのだろうか。ゴーストになっていたのだから、この世界の長門と同様に死んでしまったのだろうか。事実、あの幻の中では、長門と朝比奈さんが殺されている。
 携帯をここに残して古泉が姿を消しているのも、何かが起こったからに違いない。古泉がこんな所に落とし物をするなんて思えない。
 そもそも、どうして古泉はこんな場所にいたのだろうか。古泉がビルの屋上にいるような事態が無いわけではなかった、閉鎖空間が発生した時だ。だが、この世界で、あの幻覚の世界のような状況の中で神人が現れたかどうかも分からない。考えたくはないが、あの二人が死んだ場面からすれば、ハルヒが直接手を下したとも受け取ることは出来なくもない。そうなれば、情報改変能力のある長門ですら……なのだから古泉の超能力も(閉鎖空間であったとしても)封じられていたと考えられる。ならば屋上にいたとしても意味は無い……。
 
 脱力して虚空を見つめていた俺の身体が瞬時に収縮した。頭の中が煮え立つような痛みが、俺の推測を中断させたのだ。
 
「ぐっ、くそ……」
 
 俺は、手にしていたもの全てを投げ捨てて頭を押さえていた。これは酷い、痛すぎる、破裂してしまいそうだ。何回目かは忘れたがこの頭痛には慣れない。慣れることなんてないだろう。
 
 形容しがたいほどの激しい頭痛と耳鳴りが、また視界を白くしてゆく。
 
───
 
 そして、舞台は校舎へと変わっていた。俺はまた、廊下に立っていた。
 
 だが、さっきとは若干場所が違うようであった。朝比奈さん(と思われる)遺体もなく、あいつの姿もない。
 
 気付いた。この廊下をまっすぐ進んだ先には、俺達の部室がある。
 
 その直感は的中した。赤黒く汚れた視線の先には、半開きになっている扉が見えていた。間違いなく俺達の部室の扉であった。
 
 その距離は10メートルもない。
 
「あたしは……何がしたかったの……?」
 
 声が聞こえる。それは明らかに部室の中から発せられた声であった。
 
「あたしは……何を望んでたの……?」
 
 部室にハルヒがいるのだ。
 その声は今にも消えてしまいそうなほどに小さく震えていた。
 
「あたしは……」
 
 進むべきなのだろうか、しかし、俺はこの真っ赤になった世界で動けなくなっていた。ここは今まで俺が歩きまわってきた図書館やマンションやビルと違って、自分で進んできて到達した場所ではなく、突如として現れた世界なのである。
 
 つまり、背後に対して何の安全の保証もない、ということが、俺を動かすことを拒んでいた。
 
 何も出来ない。ただ、この幻覚が終わるのを待つしかなかった。
 
───
 
 急に眩しくなった。真っ白な霧の中に戻っていた。
 まさか本当に終わってくれるとは思いもよらなかった。まだ俺の運も尽きていない証拠だ。
 砂漠の中のわずか一粒、微塵の希望を拾いつつ、先ほど見たことを改めて整理することにした。
 先程の場面では、あいつの悲しそうな独り言だけが聞こえた。それだけだった。あれは朝比奈さん(と思われる)遺体を前に泣き叫んだ後のことなのだろうか。
 だとすると、あの『何がしたかったの』という発言も判断材料とすると、あの二人が死んでしまった原因がハルヒであるという説がますます濃厚になってしまう。
 
 もしそうだとしたら、俺も狙われているのだろうか。
 いや違う、さっき見たではないか、ハルヒが何か後悔するような言葉を……。
 
 なのに、今のあいつは、笑ってやがる。
「ああ」
 落胆からだろうか、思わず声が漏れてしまった。どうしてもだめだ、自分の都合の良い方向へ無理やり持っていこうとしても簡単に引き戻されてしまう。
 
 …………
 
「…………」
 
 気付けばあの少女が立っていた。ハルヒが姿を消したちょうどその場所に立っていた。
 
「…………」
 
 今回は不思議と恐怖を感じない。
 それよりも、憤りが先行していた。そして、次の瞬間には深く息を吸って、それを一気に吐き出すように声帯を震わせた。
 
「お前、朝倉に何をした!?」
 
 久々に腹から強く発したこの声がどれ程の大きさであったかは定かではないが、俺の声は響くことなく白い闇に消えていった。
 少女は全く動かない。俺の声が聞こえていなかったのではないかという程に反応が無い。
 意味不明で理不尽な出来事の連続に、俺の苛立ちは更に高まっていくばかりであった。
 
「お前は誰なんだ! どうして俺はこんな目に遭っているんだ!」
 
 チャンスとばかりに少女に問うが返事はない。
 
「…………」
 
 少し間をあけてから、少女は首を横に降った。
 一向に俺の怒りは収まりそうもなかった。何が「いいえ」だ、畜生。
 
「目的はもうすぐ分かるから、もう少し待って」
 
 そう言うと消えてしまった。最初に図書館の前であった時と同じく、少女が立っていた場所には小さな赤い足跡が残されていた。
 
 また、一人になってしまった。携帯も二度と動くことはなく、ハルヒや少女も姿を消し、このセメント打ちっぱなしの屋上で音を出す存在は俺だけになっていた。
「はあ、」
 怒りをぶつける標的を失ったからか、苛立ちで力の入ったままであった体が一気に萎えてしまった。
「もうすぐ分かる、か」
 それまでの間はこの地獄から抜け出すことが許されないのか。
 
 
 すっかり脱力し、停止すれすれの低速回転をしていた頭脳に一気に電流が流れた。
「……朝倉!」
 そうだ、まだ朝倉が殺されたとは決まっていないじゃないか! 何を呆けているんだ、早く助けに行かなければならないじゃないか!
 俺は朝倉が生きている可能性を信じて走った。もと来た階段を、まるで転げ落ちるかのような早さで駆け下りていった。ビルの中では相も変わらず凄惨たる風景が流れていくが、そんなもの全く気に留めなかった。湿って澱んだ空気を肺いっぱいに吸い込もうが構わなかった。一刻も早くここから出ることが最優先されていた。
 
 ビルの外に出た。霧で真っ白になっている路上は屋内よりも涼しく感じられた。どちらから来たのか、そんなこと古泉のゴーストから逃げていたのでいちいち覚えているわけなど無いはずなのに、俺は迷わずトンネルの入り口を目指していた。時折足に力が入らずにふらついた、体力の残りも考えずに全力で走っていたので当然のことである。それでも、肺やら足やらが痛くなろうと、一向に構わずに走り続けた。
 
 道中に何があるとかそういうのは一切お構いなしだった。もはや異形共に俺を止めることなど出来なかった。
 
 
 
 
 
 
「嘘だろ」
 
 全力疾走で部室に戻った俺は、その光景を見て、激しい運動によって温まっていたはずの血液が一気に冷えてしまっていた。
 
「どうなってんだよ、これ……」
 
 俺はその変わり果てた部室を見回しながらそう呟いた。
 トンネルを抜けて戻って来た部室の状況を簡単に言うと、「最悪」だ。
 
 あの地獄のような裏世界の如く、あちこちが真っ赤に染まった室内。
 そして、いつか見た夕日に照らされた教室にいた時のような……いや、そんなきれいな赤ではなく、どす黒い赤、すなわち血まみれになって倒れている朝倉の姿があった。
 
「あ、朝倉……」
 懐中電灯の光にも、瞳孔は反応しない。大きく開いたままのその目は、もう俺を見ていなかった。
 怖かっただろうに。一人この部屋に残されて、言いようも無い恐怖の中で……。
「一人にして、すまなかった」
 伝わらないとしても、謝罪すべきだと思った。確かに朝倉はここに残りたいと言った、だがあの時に一人は危険だというその一言を言っていれば良かった。
 相手はとことん手加減なしで俺達に襲いかかってきた。結果として朝倉は犠牲になってしまった。
 
 陽は眠り、月明かりだけが大地を照らす。勿論、電灯がついていない校舎の中もかなり暗く、うっすらと影が出来る程度の明かりしかない。
 数日間に匹敵するような体感時間をここで過ごした俺は、もうふらふらになっていた。
 少しの水しか摂取していない(それ以上の水分が冷や汗として出ていったが)身体は、がむしゃらな戦闘や度々起こる恐怖によって疲労困憊であった。ゲームでいえば体力ゲージは赤になって点滅しているだろう。それは簡単にいえば「死にかけ」と、そう表現してしまうだろう。極限状態だ。
 赤黒い汚れも気にせずに、崩れるようにパイプ椅子に座り、錆びた金属に身体を預けた。
 連続する地獄の光景に身心共に疲れ果て、朝倉が殺されてしまったことに絶望し、全く動く気力がなかった。
 どうしてだ、どうしてここまでもが地獄に染まってしまったのか。唯一、俺を現実へと繋ぎ、生還への道筋であった筈の部室が、こんなことになってしまったのか。
 現実世界までもが汚染されてしまっているのだろうか。そんな最悪の展開だけは起こってほしくないが、防ぎようが無い。事実俺は原因を探そうとはしているものの、そのヒントのほとんどは相手から与えられているようなものであった。自力では何もできていないような気がしてたまらなかった。
 もう、このまま眠ってしまいたかった。目が覚めたらみんなのいる部室に戻っていて、こんな地獄とはおさらば出来る、そういうものであってほしかった。しかし俺は眠ることすらできなかった。地獄はそれも許してはくれなかったのだ。
 
 俺が完全に思考停止に陥っていたその時、チャイムが鳴った。また次の地獄へ向かわなければならない合図のようだ。
「…………」
 もうそれに対するリアクションも無かった。
 
 再び静けさが戻った瞬間、がちゃりと鍵が開く音がした。
 
 そして扉がわずかに開いた。びくともしなかったあの扉が開いたのだ。遂に封印が解かれたのである。
 
「誰か、いるのか」
 ここで俺はようやく動いた。立ち上がり、ゆっくりと扉に近づく。
 
 ついに、部室から出られるのだ。
 だが、あの少女の正体も、あの惨劇の真相も分からぬまま脱出を許すことがあるのだろうか。現に、部室は見て分かる通りの惨劇を映しており、俺は血で汚れた鉄パイプやら拳銃やらの武器を持ったままなのである。
 拳銃を構えノブを掴むと、思いきり引いた。
 
 この世界では、何か新たな展開がある時に、期待してはならない。
 
 それは、いとも簡単に打ち砕かれる仕様なのだ。
 
 
 『校舎』
 
 
 扉の向こうには誰もいなかった。
 
 その代わり、とんでもなく真っ赤な世界が俺を待ち構えていた。
 
 そうだ、結局、脱出した先も地獄だったのだ。
 
 脱出しようと必死にもがいていたしていた俺が愚かだったのだ。
 
 俺がいくらあがいても無駄なのだ。
 
 ここも結局は、あいつの鳥籠の中だったのだ。
 
 どこまでも、あいつは俺を弄ぶのだ。
 
「う……ぐっ……」
 その光景を目にした瞬間、戦慄したと同時に胃が痙攣を起こした。思わず持っていた拳銃を放し口を押さえた。視覚的なもので吐き気を催したのは久々だ。異形共も気持ち悪いが、あの時は恐怖が先行したからな。
 廊下一面が窓以外、真っ赤になっていた。しかも血じゃない、もっと気持ちの悪いグチャグチャの物体がびっしりとだ。どういう表現が一番端的なのだろうか、粘菌のようなものといっても粘菌自体がそれほど有名とは思えないので別の例えを使うのならば、どう形容すればいいのだろうか。まるで生き物であるかのように、それらはカビとかコケのように隙間なく群生して全てを真っ赤に染め上げている。
「こんなところを進めってか……?」
 しかし、新たに出来たルートがここである以上、進むしかない。あのトンネルの中に入ったらどうかと考えたが、振り返った瞬間にあの穴から赤い液体が締まりの悪い水道のように流れていたので断念せざるを得なかった。
「ああ……」
 部室に横たわっている朝倉の身体に、あの汚い液体が染み込んでいくのが見える。だが、もうどうすることも出来なかった。もう見ていたくなかったので、申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらもそれに背を向け、残された道が前進しかないことを改めて心に叩きこんだ。
 
「……進めっていうんだから、とんでもない罠があるってことはないよな」
 ゆっくりと、ナマケモノにも負けず劣らずの遅さで廊下への一歩を踏み出す。
 震えるつま先がわずかに触れた瞬間、足を戻してしまった。決して厚くはない靴底を通して、なにか柔らかさを感じたのだ。俺が乗ったらぶちゃぶちゃと潰れるなんてことになったら、精神的に耐えられない。しかし、背後では赤い水たまりがその大きさを増して徐々に俺の足元に迫っている。
 もう一回、右足を持ち上げる。どうか何も起きませんように。ゆっくりとその上に足をのせ、少しずつ力をかけてみる。
「……よし」
 大丈夫、潰れたりはしないようだ。それが分かると左足も踏み入れた。
 足を踏み入れて分かったのは、このグチャグチャは案外弾力性があり滑り止めのような効果があることだ。まあ、ゴムだと考えればなんともない、なんともないだろう。
 歩いてみる。薄い上履きの底から妙な感覚が伝わってくるがそれほど気になるものでもないだろう。だがその滑り止めのお陰で足音さえも聞こえなくなった。かろうじて服が擦れる音がするだけで、呼吸がはっきりと聞こえる程になっていた。
 横を向いて、懐中電灯で廊下を照らしてみる。見えるのは赤いグチャグチャだけである。
 
 どこを目指せばいいのか、ある程度の見当は付いている。まずは俺のクラスの教室に行くことにした。
 というわけで教室を目指して真っ赤な廊下を進んでいく。赤いゴム状の物体は窓ガラス以外の全てを覆い尽くしていた。壁を埋め尽くすそれを触ってみようと思ったが、手を伸ばすまでいかなかった。嫌な予感がしてならなかったので、余計なことはしたくないという意思が働いたのだ。
 
 
「ん」
 廊下の先に、一瞬何かの影が見えた。誰かいるらしい。あいつか、少女か、それとも新たな異形か。
 ゆっくりと近づいてみると、その正体は朝比奈さんであった。
 俺の気配に気づいたのか。こちらを振り返った。やはり着ている制服は赤黒く汚れている。やはりゴーストなのだ、そう思わせるような、寒気のする負のオーラを漂わせていた。力無く口を半開きにしたまま、その艶消しの瞳でこちらを見つめている。
 しかし、違和感があった。今までのゴーストとははっきりと違う。長門も古泉も、ワイヤーでつりさげられたような不自然な格好で浮かんでいたが、朝比奈さんは床に足をついてしっかりと立っているのである。それに、こちらを見るその表情も、恨むのではなくどこか悲しげであった。
「朝比奈さん?」
 すると、朝比奈さんは俺の声に反応すると背を向けて走って逃げてしまったのだ。何をそんなに恐れているのだろうか。
「待って下さい!」
 朝比奈さんはそれを聞き入れようとせず、ゴーストだから走る必要はないはずなのに走って逃げていく。
 まさか、本当にゴーストではないのだろうか。
 何か新たな展開があるのかもしれない。そう思った俺は追いかけることにした。とはいえ、床がこの状態なので走ることは出来ず、早歩きで追いかけていった。
 何かの罠であるという可能性を捨てたわけではない。今までに遭遇したゴーストである長門と古泉は明確な殺意を持って襲いかかってきたからな。だが、警戒ばかりしていても、この世界で身動きが取れなくなったらおしまいである。
 
 しばらくの逃走の後、朝比奈さん(ゴースト?)はとある教室に入った。
 逃げ込んだということは、そこに朝比奈さん以外の誰かもいるのだろう。もしかするとハルヒがいるのかもしれない。いるならば展開は大きく好転するはずだ。
 そうすれば、そうすれば……、興奮しつつある精神を落ち着かせてから、教室へと歩んでいった。
 その教室を覗きこみ、懐中電灯の明かりを向けると、そこには他の姿があった。
 照らされた三つの影。教室に入って行った朝比奈さんの横には、鶴屋さんと『俺』がいた。
 皆が汚れた制服を着て、力の無い、暗い表情をしている。
 
 ハルヒがいない。
 その事実によって、事態はさらに悪い方向へと進んだ気がした。今までの幻覚を第三者的に見るならば、ゴーストになった人物は全て被害者に当たる。ゴーストになっていない、かつ俺の前に何度も姿を見せるハルヒこそ、この地獄の元凶であるという可能性が、100%に近づきつつあった。
 
 
 そして、「俺」がいる。ということは、あれはゴーストなのか、あの世界の俺も死んだということで確定か。
 朝比奈さんも、鶴屋さんも、俺も、ハルヒによって……そうなのか。
 それにしても、ゴースト達は俺の姿を認めたというのに、こちらを見るだけで何もしようとしない。俺は逃げようと思っただけに拍子抜けした。
「どうしてだ? どうして攻撃しないんだ?」
 答える者はいなかった。ゴースト同士、顔を見合わせてからまたこちらを見る。
 
 俺(ゴースト)は何か抱えている。
 あれは……妹……だ。妹がこちらをぼんやりと見つめている。その目には(ゴーストだから当然なのかもしれないが)生気がない。
 
 4人は悲しげな視線を投げかけてくる。
 
 まるで俺の行く末を憐れむように。
 
 
 マンションで殺された長門はマンションでゴーストになっていた。朝比奈さんは学校で殺されたからここにいるのだろう。つまり、ここにいる4人のゴースト全員が、ここで最期を遂げたってことか。それが分かったとしても、事態が好転しそうにないが。
 
 朝比奈さんは妹の髪を撫でている。その表情は悲しげであるものの優しさも見える。ここのゴーストは恨みの感情は持っていないのだろうか。
 長門や古泉とは何が違うのだろうか。学校で死んだのかそれ以外の場所で死んだのかによって違うのだろうか、いや、そんな簡単な分け方でこうも変わってしまうものだろうか。
 
 ゴーストは俺に何もすることはなく、かといって俺が近付いても長門や古泉のゴースト同様に頭が痛くなるだけだったので、これ以上関わらないことにしてその先に進むことにした。
 
 しかし、その教室の先には机が山のように積み重なリ天井まで達し、完全に封鎖していた。
「行き止まり、か」
 意図的に進路がふさがれているのも、最初に図書館まで行った時以来である。こうなれば仕方ない、順路に従って進むしかない。
 
 だが、ゴースト達がいる教室を過ぎたあたりで異変に気付いた。さっき通ってきたはずの廊下の様子がおかしい。
 天井から、液体が膿のようにゆっくりと流れ出ていた。
 ゴーストとにらめっこしていた間に、恐ろしい異変が始まっていたのだ。
 それでも、残された道はこれしかないのだ。
 
 
 何かが見えた。
 
 それをもう一度照らしてよく見たのは果たして正解だったのだろうか。
 
 床から手が[以外省略]
 
 
 
 
 
 余りに狂っていることはもう分かるだろ? その後の描写は避けたい。意識したくない。つまり、このゴム状の物体は元々……。
「う……ごほぉっ……」
 止める間もなく嘔吐した。昼食は既に消化されていて胃袋には何も入っていないから、吐き出されるのは胃液だけだった。
「ぅええええ……げほっ……」
 口の中に胃酸の味が広がっていく。ケイレンが止まらない胃袋はそのまま裏返って丸ごと出てきそうだった。
 逆流を抑え、暴れる胃を落ち着かせようとする。だが、涙でゆがむ視界には相変わらずの地獄が広がっている。その場に座り込もうとしたが、そこにあったものを目にした瞬間に身体が反射的にそれを否定した。
 あれは義手だ、あれは義足だ、そう考えようとしても既に遅かった。胃がねじ切れそうなほどに暴れている。
 パニック状態になっているのに動けない、逃げることすら許されない。
「これは……ダメだ……」
 とうとう立つ力を失い、とうとう真っ赤な肉片絨毯の上に手をついてしまった。その感触がさらに吐き気を助長していった。
 呼吸は不規則で、次第に酸素が足りなくなっていくのが分かった。
 こんなところで、こんなことで、死ぬ……?
 
 
 その時、視界にノイズが走った。
 
 目の奥に針を刺されたような鋭い痛みが走った。だがそのおかげで胃の苦しみが紛らわされたことは有難かった。
 
 両手から、あのぬめぬめとした感触がなくなり、代わりに無機質な冷たい感触に変わっていた。
 
 顔を上げると、廊下は元に戻っていた。結局赤黒く汚れてはいたが、さっきまでに比べればこんな汚れなんて無いも同然であった。
 
 自分の吐瀉物だけが、この廊下にもともとなかった汚れであろう。
 
「助かった……」
 
 俺は胃袋やら心臓やらが落ち着くまでの間、薄汚れただけで十分綺麗な床に横たわっていた。
 
 額は冷や汗でベタベタになっていた。
 
 疲れているはずなのに、眠気はなかった。眠る体力すら、残っていないのか。
 
 
 数分間、そのままの状態でいた。何も襲ってこない。
 
 汗を拭い、ハルヒを探した。
 
 
 
 俺は部室の前に戻っていた。
 
 
 どうやら俺の推測は正しかったようで、開け放しにしてきたはずの部室の扉が、わずかな隙間を残して閉まっていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
───
 
 現れたのはまたあの廊下だったが、血痕がないどころか、やけに綺麗だ。
 今度は部室に更に近く、もうドアの目の前にいた。遂にこの空間のハルヒと対面するのか。
 ゆっくりとドアに近づいていくと、教室から口論が聞こえる。
「ハルヒ! いい加減止めてくれ!」
 
 って、この声は……俺じゃないか?
 
「うるさいわよ……」
 それに対するのはハルヒだ。
 ドアがわずかに開いている。息を殺して隙間からそっと覗く。その二人は「俺」と「ハルヒ」だった。「俺」はハルヒに対して説得でもしているかのような口調であった。ハルヒは俯いたまま、こぶしを握って震えていた。
「ハルヒ、まだ間に合う、世界を元通りに……」
「うるさい……」
「ハルヒ……」
「うるさい!!!」
 
 ばしゃ
 
 ハルヒが叫んだその時、赤い煙が立った。そして隙間から飛沫が飛び散って俺の顔を濡らした。それはやけにべとべとしていて、鉄の味がした。
 
 部屋中が真っ赤になり、「俺」が立っていた場所には骨しか残っていなかった。
 ぽたぽたという音がする。それは天井に飛び散った血が滴る音だ。
 
 ゴーストがいた時点で分かってはいたが、やはり「俺」も殺されたのだ。
 確定してしまった。長門も、朝比奈さんも、「俺」と同様にハルヒによって殺されたのだ。
 ついに至近距離ではっきりと見てしまった。
 
「あ………ああ………」
 ハルヒが呆然としている。震えていた足は立つ力を失い、ぺたりと床に座り込んだ。
「い……いや………嘘…………」
 腕を伸ばして「俺」の遺骨に触れt
 
 !!!!
 真っ赤になった部室に座り込んでいたハルヒが、突然こっちを見た。
 
 目が合った、
 
 そして
 
「………………誰?」
 
 怯えながらも威嚇する、折れた針のような視線がこちらに向いていた。
 
「誰がいるの!?」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
───
 
 その瞬間、幻覚から覚めて暗闇に戻った。瞳孔が暗闇に慣れてくると、ようやく辺りが見えるようになった。部室の前にいるのに変わりはないが、扉は閉まっているし中に誰かがいる気配はない。
 あのままハルヒがこっちに来ていたらどうなっていたことか。やれやれ、危ない危ない…。
 
 キィィ
 
 目の前の、本当に目の前のドアが開いた。
 
 下を向いていた懐中電灯のわずかな明かりに、それが照らしだされた。
 
 暗闇から、赤黒く汚れた腕が生えてきたのが見えた。
 
 泥人形が立っていた。
 
 もう1メートルもない、至近距離にいた。
 
 またしても薄らと笑みを浮かべていて
 
 
 
 
 
 
 
 肺が潰れた。
 
 心臓が石になった。
 
 全身を流れていたはずの温かい血液が凍りついた。
 
 
 
 
 
 
 
「キョン……」
 
 そいつの手が、肩にのせられた。
 これは幻覚じゃない、消えたりしない、今目の前で起こっていることは逃げようのない現実のことであって今俺は最大の危機を迎えていて
 
「待ってたわよ……」
 
 俺は糸の切れた操り人形のようにどさっと腰を抜かしてしまっていた。それでも震える足を暴れさせてハルヒから数センチでも遠ざかろうとしていた。そのままの状態で少しずつでも部室から離れて行った。それでもハルヒは相変わらず微笑みながらこちらへと歩いてくる。俺は必死に逃げた。しかし目の前には、その先まであるはずの廊下が無かった。
 どうしてだ!? どうしてこんな所に壁があるんだ!? さっきまで普通に通ってきた廊下がどうしてなくなっているんだ!? その壁を思いきり押してみたがそれはまるで最初からあったかのように立ちはだかって俺の逃亡を拒んでいた。このままではハルヒに追いつかれてしまう。どうすればいいんだ! 急いでポケットから拳銃を引きずり出し、乱射に近いような精度の低さで何度も撃ったが当たっているはずなのに当たっていなかった。足止めにもならなかった。けんじゅうがだめならしょっとがんもこうかはない。てつぱいぷなんてわざわざはるひにちかづかないとつかえないようなものとてもじゃないが
 
 
「ふふっ」
 
 いや、無理だ。
 
 もう俺に逃げ場はない。
 
 逃げられない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ハルヒはゆっくりと、ぺたぺたという足音を立てながら俺に近づいてくる。
 そしてとうとう、俺の目の前にまで来て、そこで足を止めた。
 俺の心臓はあまりの拍動の速さにそのまま張り裂けてしまいそうだった。
 月明かりに照らされた狂おしい世界にたたずむ全裸の女性。そこに俺は官能も芸術も感じられない。あるのは最高の恐怖だけだった。
 もう一度、ハルヒの胸に拳銃を向けた。その手は恐ろしいほどに震えていて、標準など定まる状態ではなかったが、構わず発砲した。しかし弾丸はハルヒの身体をすりぬけて天井に穴を開けただけだった。
 もう二度と炸裂音がしなくなった拳銃の引き金を、それでも引き続けた。
「あ、はははは……、こ、殺せば……? そうだ、ひ、一思いに、殺せよ…」
 俺はとうとう壊れていた。この状況になって笑っていたのだから。
 ハルヒは全く動じない。ただただ、微笑むだけだった。
 ハルヒはいとも簡単に俺の震える手から拳銃を奪い取ると床に置いた。そしてその細い手がゆっくりと伸びて、俺の頬に触れた。冷たく、ざらざらした感触が伝わる。ハルヒの血まみれの笑顔が目に焼き付く。
 その赤黒く汚れた指が頬に痕を残しながらすべり、ゆっくりゆっくりと首筋へと下りていき、また頬へと戻ってきて、それを何度も繰り返す。
 ハルヒはいとおしそうな表情を浮かべて、何やら囁きながら俺の頬を撫で続ける。
 
 突然、その手が、俺の後ろにのびていく。俺の頭が、引き寄せられていく。ハルヒの顔がどんどん大きくなっていく。
 
 もう俺は、一切抵抗していなかった。
 
 
 
 
 全てが止まった。
 
 
 
 
 なぜ、こんな所で、こんな場面で、キスをすることになってしまったのか。
 
 なぜ、それによって不規則に震えていた心臓が一定のリズム(ただし異常に早い)で動くようになっていたのか。
 
 なんなんだ、一体。
 
 俺は酷く混乱して、ぐるぐるとまわっていた。
 
 どういうことだ。
 
 俺はどうすればいいんだ。
 
 血まみれになって微笑んでいるこいつを受け入れろというのか。
 
 この世界の主を、受け入れろというのか。
 
 地獄でこいつと一生を過ごせというのか。
 
 
 
 
 俺は震える腕を半ば無理矢理動かして、その手を払い退けた。
「え……………?」
 ハルヒの表情は、突如として驚愕に染まった。
「ああ………」
 ハルヒは立ち上がると、後退りをしている。その表情はまるで俺を恐れるかのようであった。理由は分からないが、ともかく逃げるチャンスであることは確かだ。
「嫌……嫌あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
 ハルヒはふらつきながら、顔を覆って細い悲鳴を上げ続けている。俺はハルヒに背を向けないようにしながらゆっくり移動し、その後全力で走り出した。
 
 その途端、鈍器で殴られたような痛みに襲われた。
「ぐぁっ…………!」
 その痛みで転んでしまった。それでもハルヒから逃れようと必死だった。頭の中を激痛が蠢くのに耐えながら腕を前方に伸ばして這い進んだ。痛みは更に激しくなり、頭の中を熊手で掻きまわしているような、経験したことのない前代未聞の頭痛になっていた。だが、この痛みは死どころか気絶すら許してはくれなかった。とんでもない苦痛が、幻覚の世界に俺が到達するまで続くのだ。
 誰かの足が見える。
 見上げると、逆さままになっている少女の姿が見えた。天井に立っていた。
 俺は苦悶に顔を埋めながらも、わずかに自由の利く思考を全て少女への失望に徹した。そうか、やっぱりお前もグルだったのか。お前には失望したよ。てっきり助けてくれるのかと思っていたのにな。ずっと、ハルヒのために俺を誘導し続けていたのか。がっかりだよ、全く。
「貴方は真実を知らなければいけないんです」
 俺は悲鳴のようなうめき声をあげていたにもかかわらず、その声ははっきりと聞こえた。
「だから……」
 真実か。知りたいがもうこれ以上知りたくない。そう思いながら俺の意識は真っ白な幻覚へと沈んでいった。

 

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