奇跡の先に

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 絶対に失いたくないものは誰にだってある。
 だが、それは俺個人の中の問題だ。外側――例えば赤の他人や動物、偶然、不幸、地球的災害を含めて
そんな事なんてお構いなしに、好き勝手に振る舞おうとする。そして、それは結果として俺の大切なものを奪ったり、
怖そうとするときがあるんだ。
 俺はあの冬の日、身の毛のよだつような喪失感を味わって以降、どうにかして守り抜きたいと思っていた。
そのためにどれだけの努力をしたのかと問われれば、うーんとうなってしまうかも知れないが、
それでも俺は俺なりにSOS団ってものを大切にしてきたつもりさ。
 
 ――でも、それはやっぱりやって来た。俺のいるべき、ずっといたいと願っている場所を地表どころか
マントルごとめくり上げて持って行こうとしやがった。
 
 その日の放課後もいつものようにSOS団の部室へやってきた。そういや、すっかり俺たちが巣くう根城と化してしまったが、
ここも一応文芸部室だったんだよな。
 俺は間違っても朝比奈さんの着替えをのぞかないよう――たまに忘れたくなる衝動に駆られるが、理性で乗り切っている――に
コンコンとノックする。
「……どうぞ」
 返ってきたのは、長門の透き通ったガラス細工のような声だった。あいつが返事をするとは珍しい……
 それを認知した瞬間、俺の背筋に恐ろしく嫌なものが流れていった。
 長門が返事をするだと? いや、確かにあいつは以前に比べてどちらかというと人間らしい反応を見せるようになってきている。
挨拶の一つや二つ返したところで何がおかしいんだ? 
 すぐに俺は背中をはたいて、薄気味悪い感触を消した。
 そして、扉を開ける。
 
 部室内を見たとたん、いつの間にか浮いていた汗が俺の額から頬を伝って落ちていった。
 そこには、返事をした長門だけではなく、古泉・朝比奈さんのいたからだ。なぜだ? 部室の扉をノックされたとして、
まず返事をしようとするのは誰だ? 当然、愛しき朝比奈さんのはぁいという癒し声だ。次に来るべきなのは、
扉の向こうから返ってくる声としてはいささか問題があるが、古泉だろう。にもかかわらず、二人は黙りで長門が返事をしただと?
 さらに俺の不安を煽るのが、部室内の空気だ。古泉と朝比奈さんはうつむいたまま、こちらを見ようともしない。
逆に長門は部室では必ず膝の上に置いていた本を持たず、じっと俺の方を見つめていた。おいおい、どうして逆になっているんだ?
「よ、よう。どうかしたのか、空気が悪いみたいだが……」
 不安丸出しの言葉を吐きながら、俺はいつもの椅子に座る。だが、古泉はじっと難しい目をしたまま、
テーブルを見つめているだけで反応すらしない。朝比奈さんは俺が椅子を引いた音に一瞬びくっと反応したが、
決してこちらに視線を向けようとはしなかった。なんなんだ。
 …………
 …………
 …………
 部室内に長く続く沈黙。さすがに我慢強い俺もいらついてきたぞ。
「おい。何かあったんならしゃべれよ。特に古泉。お前は俺が聞きたくないことでも、いつもべらべらしゃべるじゃねえか。
こんな時だけ黙りを決め込みやがって」
 俺の罵声に近い声に、古泉はちらりと視線だけをこちらに向けてきた。それは……何というか哀れみに満ちたものに見えたが、
すぐに動揺ものへと変化していく。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさいっ……!」
 唐突に声を上げ始めたのは朝比奈さんだった。頭を振って、しきりに謝罪の言葉を並べていく。
長い髪が拡散するように揺れるのに合わせて、多量の涙が机の上にまき散らされていった。
 俺は朝比奈さんを驚かせてしまったかと後悔し、
「いえ! 違うんです。ただなんかあったなら話して欲しかっただけで、別に朝比奈さんに怒っていたわけではありませんから!」
 そう肩をつかんで弁明し続けるが、朝比奈さんの口は止まらない。
「違うんですっ……違うんですっ……! あたしが何もできないからこんな事に……!」
 謝罪の内容が変化していくたびに、俺は朝比奈さんの動揺が別のところにあることを理解した。俺が怒鳴った事じゃない。
もっと根幹的な部分で彼女は謝罪の言葉を並べている。
 一向に口を止めない朝比奈さんに、俺はただオロオロすることしかできない。古泉にフォローを求めようとも、
またもやこいつは難しい顔つきでテーブルに視線を向けた状態に戻っている。
 ……もう何が何だかわからん! 誰か説明してくれ!
 
 俺の言葉が届いたのか、背後に誰かが立っていることに気がついた。
「これから説明する」
 それを告げてきたのは、唯一俺の視線を向け続けた長門だった。
 
 
 
「ふ……ふざけんなっ!」
 長門からの説明を聞いた後、俺は荒れ狂っていた。掃除用具入れのモップを取り出し、そこら中のあらゆるものを殴りつける。
団長席のパソコン、コンピ研からの戦利品であるノートPC、黒板、ホワイトボード、朝比奈さんのコスプレ衣装……
目に見えるものはとにかく殴りつけていた。
 俺に冷酷非情としか言えない通告をした長門は、ただそれを黙って見ているだけだ。古泉の野郎も長門と同様。
朝比奈さんは顔を塞いでただ泣きじゃくるのみ。
「くそっ! 何で俺なんだ!? どうして俺なんだ!? おかしいだろっ! なんでなんだよ!」
 俺の情動は止まる気配すら見えない。一度破壊して残骸と化したポットを見ても、それをさらに粉砕すべくひたすら殴り続ける。
 どうしてだ。なぜなんだ。俺が一体何をしたってんだ? 確かにSOS団に入って以降いろいろあったさ。
それこそ死ぬような目にだってあった。だが、それでも健全に生きてきたつもりだ。そんな俺が……
「やめて! もうやめてくださいっ!」
 唐突に俺の背中に、暖かな感触が広がる。振り返ってみれば、朝比奈さんが涙を流しながら、
俺を制止すべく抱きついてきていた。
 ひたすら額を俺の背中に押しつけ、やめてやめてと頭を振る朝比奈さんに俺はようやく我を取り戻した。
 なんてバカなことをやっているんだ、俺は。物に当たって何の意味がある?
ひたすら自分の醜い醜態をさらすだけじゃないか。
 俺はモップを床に落とし、自身の身体も無造作に投げ出すように壁により掛かった。
 
 茫然自失の状態がしばらく続くが、ふと部室内の状況が全て俺の乱心前に戻っていることに気がついた。
長門がやったのか? いや、さっきの話だとできないはずだ。なら……喜緑さんの仕業か。
さっき限定的ながら協力してくれていると長門が言っていたからな。
理由は掃除当番をすませたハルヒがもうすぐここに現れるからだろう。
 
 ほどなくして、やーほー!と元気はつらつな声でハルヒの奴が部室に飛び込んできた。
 
 ……どうしてこんなことになっちまったんだ。
 
 
▽▽▽▽▽
 
 その日も何にも変わらない日だった。朝起きて、学校に来て、キョンやSOS団のみんなと遊ぶ。
昔みたいに何やってもつまらなかった日々とは違い、今あたしの毎日はとても充実していた。
 ――だけど、たまに不安になることもあった。楽しすぎることへの恐怖心。
 今は楽しい。でも、ひょっとしたら、今の楽しさはほんの一本の糸が切れただけで壊れてしまうのではないか。
そんな不安が常につきまとった。
 だから、あたしはSOS団を引っ張り続けた。いろいろなところへ行き、イベントをこなした。
ここにいる全員が決して飽きないように。
 
 でも、やっぱりそんなときが来てしまった。
 あまりに酷い現実が。
 
「今……なんて言ったの?」
 SOS団――文芸部の部室。あたしは団長席に飛んできた言葉に耳を疑った。
 いや、それを発したキョンの奴は、うつむいてもごもご口を動かしているだけのせいで全然聞き取れない。
きっとあたしの聞き間違いだろう。
「何よ、今の。あたしの聞き間違えじゃなければ、全くおもしろくないジョークが聞こえたような気がするんだけど。
ほらキョン、言いたいことがあるならはっきりと言いなさい。そんな思春期か、部屋に閉じこもって1年のヒキコモリのような
しゃべり方じゃ、SOS団団員はつとまらないわよ」
 あたしは諭すように指をさして、キョンに再度答えるよう促す。
 しばらくキョンは沈黙を保ったままだったが、やがてうつろな目であたしに告げた。
 
「……俺、24時間後に死ぬんだ」
 
 
 スパァン!
 あたしがキョンの背中に振り下ろしたメガホンが、妙に透き通った音を鳴らした。部屋中にその音がこだまする中、
それでも微動だにしないキョンを、あたしは睨みつけながら、
「つまんないわ! 最低のギャグね。0点よ。いや、マイナスだわ。テストの点にマイナスってのはあり得ないって言うつもり
かもしれないけど、テストの点は与えられるものだから、それがマイナスになれば逆に与えるものになるってわけ。
つまり罰金よ罰金! でも、すぐに反省して撤回するなら、一時の気の迷いって事で罰金はなかったことにしてあげる。
ほらっ! とっとと言い直しなさい!」
 あたしは自分の頭の隅にすらなかったキョンの言葉に怒りを覚えていた。何を言っているのだろうか。
確かに、SOS団たるもの常におもしろいことを言えるようにしておくという心構えが必要なのは当然。
でも、よりによってキョンが死ぬって? こんなもの冗談っていえないわ。悪質な嫌がらせよ!
 すぐにあたしは腕を組んで目を瞑り、キョンからいつもの中途半端な笑みと声で訂正の言葉が返ってくるのを待った。
だが、一分二分経っても返ってこない。どうして訂正しないのっ!?
 あたしは目を開き、キョンのネクタイをつかみ上げて、強引に立ち上がらせる。
「何で訂正しないのよっ! あんたが死ぬって? そんなばかげたことあるわけないじゃない。
どうしてそんなことが言えるのかっていいたそうね。だって、今日の朝からあんたの間抜け面をずっと見てきたけど、
全然そんな素振り見せなかったじゃない! 明日死ぬ人間がそんな平然としているわけないわ!」
 あたしは盛んにネクタイを揺さぶって、キョンの口を動かそうとする。だけど、うつろな瞳をキョンは見せるだけで
こちらに視線すら向けようとしなかった。
「訂正しなさいっ! 団長命令よっ! 聞いてんのキョンっ!」
「……ふえええぇぇぇ」
 ここで突然みくるちゃんが泣き出した。ちょっとちょっと、どうしてみくるちゃんが泣くのよ。
「ほらっ、キョン。あんたがばかげたことを言うからみくるちゃんが泣いちゃったじゃない! 早く訂正しないと
本気で承知しないわよ!」
 さらにキョンを締め上げにかかるあたしだったが、みくるちゃんは首を振って、
「違うんです……キョンくんの言っていること……本当なんですっ……」
 そう言ってテーブルに突っ伏して泣き始めてしまった。
 
 ……何言ってんのよ、みくるちゃんまで。そんなことをあるわけないじゃない。ねえ古泉くん?
 
 みくるちゃんまで言い出したキョンの死亡宣告に、あたしは思わず古泉くんへ助け船を出させようとするが、
「残念ですが……彼の言っていることは本当です……」
 そう力なく言った――言ってしまった。
 
 それでもあたしは信じない。最後に、この一部始終を黙ってみていた有希に答えを求める。
 その答えは冷酷非道と言えるぐらいに落ち着いたものだった。
 
「彼の言っていることは本当。否定できない事実」
 
 有希の言葉を聞いたとたん、世界が回った。
 今まで味わったことのないようなめまいで足がふらつき、そのままキョンのネクタイから手を離して団長席に座り込んだ。
 キョンが死ぬ? そんな……どうして?
 
 あたしは思わず手で顔を覆ってしまう。おかしい……おかしいわよ。昨日まで――それどころか、さっき一旦教室で別れるまで
全然そんな感じじゃなかったじゃない。いつものようにキョンはあたしの前の席に座っていて、途中で居眠りを初めて
宿題を忘れて後頭部をかいて困って、たまにあたしにわからないところを聞いてきたりしていたじゃない。
 それが何でこんな突然? 理解できない。納得できない。受け入れられるわけがないじゃない。
「その点については僕の方から説明をしたいと思うんですが」
 古泉くんの声が聞こえ、あたしは顔から手を離した。強く目を押さえつけてしまっていたせいか、視界がぼんやりとしている。
徐々に明朗になっていく視界に、あたしはこれが夢ではなく現実であることを再認識させられた。
テーブルにつっぷはしないていないもののしゃくり上げ続けるみくるちゃん、いつもは本をずっと読み続けているのに
今日はこちらをじっと見つめている有希、いつもにこやかな笑顔を見せているはずの古泉くんの苦悶の表情、
そして、あの間抜け面はどこへやら呆然とだらしなく椅子に座り、じっと天井を眺めているキョン……
「何があったのか教えて」
 あたしは覚悟を決めて、古泉くんからの説明に耳を傾けることにした。これは現実なのだ。
そして、24時間というあまりに短いタイムリミット。あたしの中の神経がわめき始めた。時間は戻らない、先に進めと。
 古泉くんが沈痛な表情で口を開き始める。
「実は数週間前に彼から相談を受けていまして。最近どうも物忘れが酷くなっているような気がすると。
ただの気のせいだと言ってみたんですが、少々彼も気にしていたみたいだったので、僕の――そう親戚が経営している病院に
ちょっとした検査を受けに行ったんですよ。そんな大規模なものではなく、レントゲンや血液検査程度のものです」
「ちょっと初耳よ。どうしてあたしにいわなかったわけ?」
 あたしは抗議の声をキョンに向ける。だが、じっと天井を眺めたまま答えようともしない。
代わりに古泉くんがフォローするように、
「彼もあまり大事には捉えていなかったんでしょう。ちょっと気になるからという程度で検査を受けたのだと思います。
で、それ以降彼の物忘れも気にならなくなり、検査のこともすっかり忘れてしまっていたようですね。
今日、その結果が返ってきたのですが、自分でそれを受けたことも忘れていたほどですよ」
 ――古泉くんは一旦話を途切り、あたしの様子をうかがった。恐らくあたしが動揺していないか、見ているんだろう。
「構わないわ。続けて」
「……わかりました。そして、その検査の結果ですが、その……何というか大変まずい結果が出まして」
「まずい病気だったって訳ね。病名は?」
「……ええと……」
 古泉くんはどういう訳だか答えに困ったような表情を浮かべて、有希の方に振り返った。なぜ有希なのだろうか。
ひょっとしてその病気について何か知っている?
 有希は話が回ってきたと理解したのか、小さく頷き、
「彼が発症している病気は極めて症例の少ないもの。全世界を探しても、同様の症状は数十例しか存在していない上、
それらが全て共通のものであるという確証も得られていない。そのためはっきりとした病名もない。当然治療法も。
彼がどうしてその病気に罹っているのか分かった理由は、その症例のうち一つと完全に一致しているものだから」
「病名がないって……そんなことがあり得るの?」
 あたしの疑問符に、有希はただ頷くだけだった。
 そんな。治療法どころか病名すら存在しない病気だなんて。
「具体的な症状は?」
「症状は次第に記憶と失われていく。物忘れが激しくなるのはその前兆。やがて思考能力の衰退していき、
最後には脳の機能が停止してしまう」
「アルツハイマー病みたいなものなの?」
「似ているが異なる。この病気の決定的な特徴は個人差が極めて少ないことにある。最終段階の発症から急速なスピードで
病状が進行し、ほぼ24時間後に生命活動が停止する。症例は少ないが、その誤差は数分程度のものしか確認されていない。
そして、先ほど彼に確認したところ、36分前の15時ちょうどにその最終段階の発症が起きていることがわかった。
だから、あと23時間24分で彼の命は尽きると思われる」
「……そう」
 あたしは頭を抱えてしまった。もうそれが始まっている? なら一刻の猶予もない状況じゃない。
 同時に、そんな大事を淡々と語る有希に怒りもわいてきていた。なんなの、その平然な態度は。キョンが死んでもいいって事?
それともどうでもいいって言いたいの?
 だけど、あたしはすぐに思い直した。有希はそんな子じゃない。感情を表に出さないのはいつものことじゃない。
それにこんなに饒舌にしゃべる有希は初めて見た。いつも必要最低限の言葉しか口にしなかったんだから。
「……なにか手だてはないの?」
 あたしは途方にくれて、周りに問いかける。だが、こればかりには有希も何も答えなかった。
古泉くんもみくるちゃんもただ黙ったまま。
 ここでふと気がつく。当事者であるキョン。さっきから呆然と天井を眺めたままで何一言も答えようとしない。
 
 あたしはそれを理解したとたん、頭の血管が切れるんじゃないかと思うほどの怒りがわいてきた。
そして、椅子を蹴飛ばして立ち上がると、再びキョンのネクタイを締め上げ、
「あんた! さっきから何一人だけ蚊帳の外でのほほんとしてんのよ! あんたのことでしょ!
もっとしっかりしなさいよ! それとももう諦めたってわけ!?」
「……もういい」
 キョンがようやく口にしたのは、絶望に染まった言葉だった。それがさらにあたしの頭に血が集結させる。
「ふざけないでよ! まだ24時間近くあるのよ! 何でそんなに簡単に諦められるわけ!?
SOS団団員としてそんな風に教育した憶えはないんだから!」
「もういいって言ってんだろ!」
 キョンがあたしに向けて怒鳴った。あまりの口調にあたしはネクタイを話して、数歩距離をとってしまう。
「お前に何が分かる――おまえに何が分かるって言うんだよ! もうどうやってもたすかりっこねえんだ!
どんなにあがいても、努力しても無駄なんだよ!」
 錯乱を始めたキョンをあたしは呆然と見つめることしかできなかった。頭を抱え、身をよじり、つばを飛ばして
絶望の雄叫びを続ける。そんな彼を見たのは初めてだった。
 
 あたしは。
 
「どうにでもなればいいんだっ! 俺はどうせもうすぐ死ぬんだからな! いっそここで殺してくれたっていいぞ!
くそったれが! おわっちまえ、こんな理不尽な世界なんて今すぐほろんじまえばいいんだっ!」
 
 バカだ。
 
 あたしは錯乱して腕を振り回すキョンの前に立った。そして、彼の顔を両手でしっかりとつかんだ。
 全身の震えがあたしの手を通して感じられた。
 そう、怖いに決まっている、訳の分からない病気に突然かかり、あまつさえ余命24時間ですなんていわれれば、
想像を絶するほどのショックを受けるだろう。そんなこともあたしは理解できないって言うの?
 あたしはキョンの顔をつかんだまま、あたしの顔の前に持ってくる。荒い吐息があたしの顔に降りかかってきた。
「いいキョン。あたしは絶対に諦めないから。あんたが患った病気がどんな難病だろうが知ったこっちゃないわ。
約束する、どんな手段を使っても、絶対にあんたを助ける。あたしは最後の一秒まで諦めるつもりはないんだから。
だからあんたも戦いなさい。最期の最期の最期まで!」
 そして、キョンの反応も確かめずに、周囲の団員たちを一瞥し、
「みんなも異論はないわよね。あるなら邪魔だから今すぐここから出て行ってもらうわよ」
 そのあたしの言葉に誰一人反論するものはいなかった。
 あたしは決まりねと言うと、キョンの腕をつかんで外に出ようとする。
「とにかく、あんたの病気がホンモノかどうか、もう一度調べてもらう必要があるわ。
最近じゃセカンドオピニオンなんていう言葉もあるぐらいよ。別の病院で調べれば、誤診だったっていう可能性もあるんだから」
 と、ここでようやく平静さを取り戻したらしいキョンが口を開く。
「……なあハルヒ。一つだけ聞きたいんだが」
「なによ」
 キョンはしばらく言いづらそうにしていたが、やがてあたしの目をまっすぐ見つめて、
「おまえが俺を助けようとしているのは、SOS団団長だからか?」
 その言葉を聞いて、あたしもしっかりとキョンを見つめ返し、
「SOS団団長として、ここにいる涼宮ハルヒとして、あたしの全立場を賭けてあんたを助けたい。それだけよ」
 
 
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 今から語るのは、ハルヒがまだ部室に来る前の事だ。初めて俺が24時間後に死ぬと言われたときの。
 
 最初は長門。
 昨日、あなたに何からの情報生命体が介入を行ったことが確認された。
 目的はあなたの生命活動の停止。
 それはわたしの警戒網をくぐり抜け、あなたの脳組織に障害を起こすプログラムを埋め込んだ。
 48時間後かけてじっくりと意識を消失させていく、自我崩壊プログラム。
 わたしがその存在を察知したとき、すでにそのプログラムは稼働状態に入り、どんな情報操作も受け付けなかった。
 最初の24時間は潜伏状態となり、あなたの身体組織になんら影響を及ぼさない。
 だが、残り24時間になると稼働を開始し、まずあなたの記憶媒体への攻撃を始める。
 時期にあなたの記憶に混乱と混濁が生じ始めるだろう。
 わたしは情報統合思念体へあなたの内部にいる破壊プログラムを停止させるべく、あらゆる申請を行った。
 だが、一つとして許可されていない。
 何度もわたしは申請を行ったが、最後には情報統合思念体はわたしを切り離した。
 今ではわたしは何の情報操作もできない通常の有機生命体と変わらない。
 情報操作という点については喜緑江美里が協力してくれているが、極めて限定的。
 今のわたしにあなたを助けることはできない。
 ……ごめんなさい。
 
 次に朝比奈さん。
 未来からは何も聞かされていません。
 長門さんからその――プログラムというものについての話を聞いたので、未来へすぐに対処方法がないか問い合わせました。
 でもダメ。
 長門さんが無理なら未来でも対処のしようがないって一点張り。
 ならTPDDでキョンくんに侵入する前にもどったらって申請してみたの。
 それもダメでした。
 理由は、そのぅ……禁則事項……です。
 ごめんなさい……あたし何もできなくて……
 
 最後に古泉。
 今回の件に関しては機関の力を持ってもどうしようもありませんでした。
 長門さんから初めてその話を聞かされたとき、ただ呆然とすることしか。
 腹立たしい。
 超能力者なんて結局は涼宮さんの精神安定の役割しかこなせないんですから。
 あなたの何の助けにもなれない。
 正直、屈辱的です。
 こんな状況をただ指をくわえて見ていることしかできないことに。
 申し訳ない……今僕から言えるのはそれだけです。
 
 
 ま、さっき長門と古泉が説明したのは、大体あっているってわけだ。
 ただここで情報なんたらとか言ってもハルヒが信じないだろうと思って、脚色したんだろう。
 どのみち俺の命はあと24時間というのは変わりないんだ。
 
 
 長門もダメ、朝比奈さんもダメ、古泉もダメ。もう俺が助かる可能性は万に一つすら残っていない。
 絶望的な状況ってわけだ。
 
 俺はどうすればいいんだ? ハルヒ、俺は……
 
 
▽▽▽▽▽
 
 あたしは校舎の外に飛び出すと、職員用の駐車場に置かれている自転車に飛び乗った。
これは無断で自転車登校した生徒から没収されて、長らく鍵も付けずにここに放置状態にされていたものだ。
最初はタクシーに飛び乗って、病院に向かおうかと思ったけど、この辺りにタクシーがやってくるのには時間がかかりそうだし、
そもそも学校にタクシーを呼び出したら教師がうるさい。かといって説明している時間もない。
それならいっそ自転車で行った方が早いはず。
「ほら、キョン。早く後ろに乗りなさい」
「お、おい、二人乗りは……」
「あんたの命がかかってんのよ! そんなこと気にしている場合!?」
 あたしはキョンを後部に載せると、猛スピードで学校の校門から飛び出した。どこからか、教師の怒鳴り声が聞こえてきたけど
無視よ無視。
 そのまま、ブレーキもかけずに一気に坂を駆け下りる。一分一秒も無駄にできない。
 次第に日が傾き、街並みが赤く模様替えを始めつつあった。時計をちらりと見れば、もう残り23時間になろうとしている。
このままでは明日のこのくらいの時刻に命が尽きてしまう。
 ふと、後ろからあたしをつかんでいるキョンの手がまだ小刻みに震えていることに気がついた。
 ……大丈夫。絶対にあたしはあんたを見捨てたりはしないから。
 
 しばらくすると上り坂にさしかかる。さすがに二人分の重量となると、かなり厳しい。
ぜいぜいと息を切らせながら、ただひたすらにペダルを踏み込み続けるが、一向にスピードが上がらない。
「……おい、無理するな。ここは一旦俺が降りて――」
「病人っ……は、黙って後ろに乗ってなさいっ……!」
 足が痙攣を始め、全身に汗が噴き出るが、それでもあたしは立ち止まる気にはなれなかった。
 だが、邪魔は別のところから入った。
『そこの二人乗り。止まりなさい』
 背後からスピーカー越しの声。振り返ってみれば、いつの間にか現れたパトカーがこちらを呼び止めようとしている。
「無視して突っ走るわよっ……」
「無茶言うなよ」
「うっさい! 止まっている時間なんてないんだから!」
 あたしは振り切るべくさらにペダルに力を込めるが、
「ハルヒ。気持ちは分かるし、俺は感謝しているぞ。だが、ここで警察にとっつかまったら意味ねえじゃねえか。
事情さえ説明すればわかってくれる。お前も無理しすぎだ。だから、ここで一旦止まれ。な?」
 そう身を乗り出して、あたしを制止し始めた。
 
 結局、キョンの言うように警察沙汰は最悪だし、あたしの体力も厳しくなってきていたから、一旦自転車を止めることにした。
全身に足りなくなった酸素を補給すべく、自転車をつかんだまま大きく呼吸を続ける。
 だが、背後からはパトカーから降りた警察官がこちらに向かってきていた。時間がないってのに。
「あー君たち。何を急いでいるのか知らないが、二人乗りはダメだよ」
「すみません……ちょっと急いでいて……」
 キョンはあたふたと警察官に話しかけているが、そんな悠長なことをやっている暇なんてない。
あたしはまだ酸素を吸引し続ける肺を黙らせつつ、
「……邪魔しないで……」
「ん? 何か言ったかい?」
 息切れに呑まれて警察官まで声が届かなかったらしい。あたしは一旦呼吸を止め、完全に肺を押さえ込むと警察官を睨みつけて、
「邪魔しないでっ!」
 続けてキョンを指差し、
「病気なの! 一刻を争う状況だから、すぐに病院に連れて行かないといけないのよ! だからお願い、あたしたちを通して!」
 気がつけば、あたしの声は怒鳴り声になってしまっていた。だが、構うもんか。今、キョンに残されている時間は少ない。
本来こんな事をやっている場合ではないんだ。もしこれ以上引き留めようとするなら、実力で……
 警察官はあたしの口調におどろいたのか、しばらく呆然としていたが、やがて帽子をかぶり直すと、
「何やら事情があるようだな。だが、それでも二人乗りは見過ごせないな」
 ……全く、官憲って奴は頭が固いんだから。避けたかったけどここは実力行使しかないようね。
 だが、次に警察官が口にした言葉は意外なものだった。
「病人を抱えているなら、なおさらだ。ちょうど病院前を通るから車で連れて行ってあげよう」
 思わぬ申し出にあたしはキョンに笑みを向けた。
 ――だが、彼はぎこちない作り笑顔を見せるだけ。
 
 理由はわからない。だけどキョンは完全に諦めてしまっているように見える。なぜ?
 
 
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 俺が連れて行かれた病院は、以前に入院したことのあるところだった。
 前に聞いた話だと、どうやら古泉の機関が一枚かんでいるらしい。その時点で腕は確かでも、、
何の期待もできないと言うことだ。もう機関には俺の状況が伝えられているだろうから、色々検査したところで回答は同じ。
そもそも現代医療では治療どころか発見もできないような病気だ。治療法なんて見つかるわけがない。
 俺は病院の待合室の椅子でだらんと力なく座り込んでいた。さっきまで感じていた恐怖による震えはすっかり収まり、
今ではただ呆然とするばかりになっている。おびえることにすらうんざりしてしまったのだろうか、
こんな時ばかりは、俺の事なかれ主義がいい具合に働いていると思ってしまう。
 ハルヒは最期まで諦めるなと言った。だが、無駄だ。長門すらダメだというのに、一体何に期待すればいい?
もうすぐ時間が過ぎて俺は死ぬ。これは――まあなんだ、規定事項ってやつだな。こんなんでどうやって諦めずにいろと?
 ふと、俺の両隣に誰かが座った。見回せば、長門と古泉が俺を挟むように座っている。
「なんだ、来たのか」
「ええ、黙って部室にいるのもあれですから」
 すっかりいつものさわやかスマイルが失せた表情で古泉。一方の長門は表情一つ変えずに俺をじっと見つめている。
 古泉は待合所を見渡して、
「ところで涼宮さんは?」
「さっきトイレに行った。汗をかいたから顔を洗ってくるって言っていたが」
「そうですか。ちょうど朝比奈さんも行ったので顔を合わせるかも知れません」
「そうかい」
 ――ここで沈黙がしばらく流れる――
「ん、ところでいつもの閉鎖空間はどうなんだ? ハルヒがあんな調子じゃドでかいのが発生しているんじゃ」
「その点については全く問題ありません。現在のところ、閉鎖空間の発生どころか、その予兆すらキャッチされていない状態です。
物を壊して暴れている時間なんてないと認識しているのでしょう。涼宮さんはそれだけあなたを助けることに夢中になっている」
 古泉は寂しげな笑顔を浮かべた。これ以上面倒事が起きて欲しくはないからな。とりあえず、そっちは一安心か。
 と、俺はこの病院で検査の受付の時の事を思い出し、
「そういや、病院の方はすっかり検査の準備をして待ち構えていたみたいだが、お前がやってくれたのか?」
「ええ、機関を経由してお願いしておきました。一通りそれっぽいことをしなければ、涼宮さんは納得しないでしょうから。
それに受付などで時間をかけてしまいますと、涼宮さんは別のところに駆け込みかねません。口裏を合わせるためにも、
ここで受けた方が何かと都合がいいですから」
「そうだな」
 古泉の答えを聞いて、俺はまた力なく床を見つめた。しゃべっている間に気がついたが、この他人事のような話しぶりは
何なのだろう。少なくともあと一日もしないうちに死ぬというのに。
「俺はもうすっかり自分の死を受け入れちまったみたいだよ。あがくとかそんな気持ちも一つとして出てきやしねえ。
自分で言うのも何だが、俺は相当冷淡な人間だったんだな」
 口から自虐的な笑みがこぼれる。
 だが、ここで長門が俺の顔をつかみ、
「それは違う。あなたがそう望んだから、死を受け入れたわけではない」
「……じゃあ何でなんだ?」
 俺の問いかけに、長門はただ瞬き一つせずに俺の目を見つめながら、
「自我崩壊プログラムの影響によるもの。初段階であなたの抵抗の意思を削除したものと思われる。
ただ時間から換算して、まだ浸食は大きくないはず。より大きいショックを受ければ、動揺や怒りの感情も出てくる」
「この妙に晴れやかな気分も、病気もどきのせいだってのか。全く苦痛を与えずに、じりじりと優しく締め上げてくるとは
やたらと陰湿なプログラムだな」
 あきれ気味に答える俺。
 長門は続けて、
「だからこそ、あなたは戦うべき。症状に身を任せてはいけない。希望を捨てないで」
 その声は凛として透き通っていた。俺の持ち合わせている長門感情探知レーダを確認する限り、こいつはまだ諦めていない。
 
 ……だが、どうしろと? 一体どんな奇跡が起これば俺は助かるって言うんだ?
 
 
▽▽▽▽▽
 
 あたしは洗面所でひたすら顔を洗い続けていた。
 最初は汗を流すだけのつもりだったが、冷たい水に意識が引き締まることを感じると、
ひょっとしたら今あたしは悪夢を見ているだけであって、顔を洗えば目が覚めるかも知れないという淡い期待が生まれてきた。
 数十回続けた洗顔を終え、あたしは正面の鏡を見つめた。顔どころか髪の毛までずぶぬれになり、
頬や首筋にまとわりついている。こびりついた水滴は重力に引かれて髪を伝い、あたしの肩に降りかかっていった。
 ――やっぱりこれは悪夢なんかじゃない。現実に起こっていることだ。
 あたしはそう認識して、二、三度頬を叩いた。まだ残っていた水滴が当たりに飛散する。
 しっかりしなさい。こんな時に現実逃避してどうする。そんな時間なんて一分一秒もないんだから、
しっかり前を見つめて進むのよ。
 ふと、出入り口の扉が開き、ちょうどかがみにみくるちゃんの姿が映し出された。
 あたしはその姿に驚き、
「みくるちゃん。来たんだ」
「あ、はい。部室にいても仕方ないですし、キョンくんのことも心配だから……」
 不安と困惑の入り交じった表情で答えるみくるちゃん。さっきまで泣いていたせいか、目がすっかり充血し、
目元が汚れてしまっている。全く可愛い顔が台無しじゃない。
「えっ、あ、はい。そうですね」
 みくるちゃんは鏡をのぞきこみ、自分の顔を確認してからおずおずと顔を洗い始めた。
 あたしはすぐにキョンの元に戻ろうとするが、
「あ、あの……涼宮さん」
 そう唐突に呼び止められた。振り返ってみれば、みくるちゃんがさかんに顔をハンカチでぬぐいながら、
あたしを止めるように手をこちらに向けている。
「なに? 早くキョンのところに行かないといけないから、手短にね」
「えっとですね……」
 みくるちゃんは顔を一通り拭き終えると、あたしに顔を近づけてきて、
「涼宮さんは、キョンくんのことを助けたいんですよね?」
 至極当然すぎることを言われて、一瞬あたしは戸惑ってしまったが、
「当然よ。自分が団長だとかそんなことは関係ないわ。あたしはキョンを助けたい。ただそれだけよ」
「そ、そうですか……」
 あたしは断言するように答えたつもりだったが、みくるちゃんの表情が曇っていくのを見て、彼女が望んだ答えを
あたしは答えられなかったことに気がつく。
 このみくるちゃんの反応に、正直あたしは困惑した。
「ごめん、みくるちゃん、わかんない。あたしはキョンを助けたいの。他に何の雑念もないわ。
そのためならどんなことをでもやるつもりよ。それにどんなことがあっても諦めるつもりはない。
それに何か問題があるって言うの?」
「……ええと、それは涼宮さんらしくて、いいことだし間違っていないと思います。けど……」
 みくるちゃんはまるで答えを選ぶように慎重な口調で、
「涼宮さんはまだ――その、キョンくんに遠慮しているんじゃないかって。そんな感じがするんです」
 この指摘にあたしは困惑を越えて、動揺が生まれた。
 
 この期に及んで、まだあたしが何かに遠慮している? そんなバカな。あたしはキョンのことを最優先に考えて、
キョンが助かるために必死にやっているのに。
 
 
▼▼▼▼▼
 
 結局、その後ハルヒに連れられて片っ端から検査しまくったが、診断結果は変わらなかった。
いや、検査する前から答えは決まっていたんだから当然なんだけどな。
 24時間後に命が尽きる。いや、もう20時間を切ったか。残り時間が短いせいか、入院の必要性すら言われなかった。
助かる見込みがない状態で集中治療室とかに入っても何の意味もないから、当然か。
 変化なしの現状に、ハルヒは一瞬いらだった仕草を見せたものの、すぐにいつもの強気の姿勢に戻り、
「仕方がないわ。医者の診断を受け入れましょう。でも、これで終わりじゃないわ。今度は治療法――最悪でも、
症状を遅延させる方法を見つける。キョンを自宅に送り届けたら、あたしは図書館に行って調べるつもりよ」
 そう言ってタクシーの手配を始めた。全くどこからそんな行動力が生まれてくるんだ。
生まれたときもお腹から発射されるかのように飛び出てきたんじゃないか?
 ハルヒは病院入り口前に、一旦SOS団を集合させ、
「みんな聞いて。あたし一人だけじゃ時間がなさ過ぎるから、手分けして動こうと思う。古泉くんは先に図書館に行って、
事情を説明して今夜一晩中借りられるようにお願いしてほしいの。無茶な頼みだと思うけど、人一人の命がかかっているんだから、
どんな嘘を言っても納得させて。有希とみくるちゃんは自宅に戻って、何か手だてがないか考えてほしい。
手だてすら見つからない状況だから、全員で図書館に籠もるのは発想を拘束してしまうから、他の視点で何か無いか探って」
 ハルヒの言葉に、俺以外のSOS団団員たちがうなずく。
 外はすっかり薄暗くなり、俺の余命も19時間を切ろうとしていた。明日のこの時間には
俺はもうこの世に存在していないってわけか。明日がないというのも、何か現実感がない微妙な気分だ。
 ほどなくして、古泉たちが別々にタクシーに乗ってそれぞれの目的地に向かっていった。
それを見送った後、俺とハルヒもタクシーに乗り込み、俺の家へと向かう。
 検査結果で何の変化がないことを認識した辺りから、ハルヒはしきりに時計を確認するようになっていた。
一秒も無駄にはできない。ハルヒの思いが俺にひしひしと伝わってくる。
 ……だが、そんなハルヒを見ても、俺は何とも思わなくなっていた。普段なら、感激するなり感謝の余り涙するぐらいの
人並みの感情は持ち合わせていたはずだ。なのに、今の俺はそんな感情どころか、ただ呆然とハルヒの行動を
見ているだけで何の感情もわき起こってこない。そして、そんなふがいない俺に怒りすら起きてもいなかった。
やれやれ、次第に人間らしい感情を失いつつあることが、手に取るようにわかるな。
 長門は言った。これは全て病気――プログラムのせいだと。
 そうだな、全部病気のせいだ。俺が悪いんじゃない。だから自分に絶望する必要はないんだ。
 車通りの多い県道を走り、自動車のライトや街の明かりが俺たちを照らす。ハルヒは難しい顔をしたまま、
俺とは目を合わせず外を見つめていた。
 ふと、ここで家のことを思い出した。そういや、こんなに遅くなるって言うのに、連絡一つすらしていなかったな。
今更かも知れないが、念のため電話ぐらいして――
 …………
 …………
 …………
 俺の呼吸が激しく乱れた。何だか長らく忘れていた動揺、そして絶望感。動いてもいないのに、
まるで100メートル無呼吸で泳いだほどに心臓の鼓動が速まる。さっきまで一つとして浮いていなかった汗が、
全身に浮き上がり瞬時に服を湿らせた。
 長門が言っていた。俺の感情は次第になくなってきていると。だが、ぎりぎりのところでまだ理性らしき物は残っていたようだ。
「――キョン? 大丈夫? どうかしたの?」
 気がつけば、俺の異変を察知したハルヒが肩をさすってきている。だが、俺はそれを感じる余裕がないほどの
ショック状態に陥っていた。
「わからねえんだ……」
 俺の口からこぼれ落ちる。ハルヒは困惑した視線を向け、
「なにが?」
「俺の家族って誰だ……?」
 俺の言葉を聞いたとたん、ハルヒの可愛らしい顔が絶望的なまでゆがんだ。
 思い出せない。
 自分の家族のことが。オフクロや妹のことが。
 外見も思い出せず、名前も思い出せない。だが、俺には確実に帰るべき家があって、そこには家族がいたはずだ。
それはわかっているのに――なのに、そこにいた人たちが全く思い出せねえ。
 いや、もっと悪いことに家族と一緒にした記憶が全くない。俺が認識できるのは、家族がいたという点だけで、
それ以外の記憶が全くなくなっていた。
 それを認識したとたん、俺は悲鳴と嗚咽が混じった奇声が喉から飛び出始める。
そして、言いようのない喪失感が頭の中を見たし、無我夢中でハルヒの身体に抱きついた。
「落ち――落ち着いてキョン! 大丈夫、大丈夫だから……っね!」
 ハルヒは俺をしっかりと抱きしめて背中をさすってくれた。だが、俺は奇声を上げることを止められない。
狭い車内の中に、自分の声が幾十にも乱反射され、さらに頭がおかしくなりそうになる。
「あんたのせいじゃない……あんたのせいじゃないのよ! 全部、みんな病気が悪いの! だから落ち着いて。
あたしが、あたしが絶対にキョンを助けて上がるからっ……」
 ハルヒの言葉も虚しく感じられた。
 病気? そうかもしれない。だが、一番世話をしてくれて、一番身近にあった家族のことを俺は忘れてしまっている。
 言い訳のしようがない。
 俺は最低だ。
 
 ほどなくして、俺は奇声を上げることもできなくなり、ハルヒに抱きついたまま身動きできなくなった。
限界を超えた声量で叫び続けたため、喉あたりから出血が起きているのか、口の中が嫌な味で汚染されていく。
「ほらっ……キョン、家に着いたわよ」
 ハルヒに促されて、俺はタクシーの窓から外を見回した。
 目の前にはごく平凡な一軒家が建っている。どうやらこれが俺の自宅のようだ。
 だが、どれだけ記憶の糸をほじくり返しても、それは見知らぬ他人の家にしか見えない。
 今まで俺が住んでいたという記憶どころか感覚すら生まれてこず、子供が親戚の家に初めて訪ねたときに感じる新鮮さのような
気分になった。
「まだ思い出せないの?」
 ハルヒは恐る恐る俺の顔をのぞき込む。俺は首を二、三度横に振り、
「ダメだよ。全く思い出せない。どこをどう見ても他人の家にしか見えねえ……」
 そう肩を落とした。
 正直、このままこの家の中に入って家族といつものように会話ができるかと聞かれれば、無理だと答えるしかない。
恐らく初めて会う人と話すようなたどたどしいやり取りしかできないだろう。
 ハルヒは必死に、痛々しいまでに取り繕った笑顔を俺に近づけ、
「どうしようか。あんたの好きにしていいわよ。このまま家に帰りたいって言うなら、すぐに戻ってもいいし、
どこか別のところへ行きたいなら、どこにでも連れて行ってあげる。言ってみて」
 俺の行きたい場所。本当ならこの家なのだろうが。ダメだ、どうしてもそんな気にはならない。
 ならどこがいい? 俺が少しでも安心できる場所は……
「部室がいい」
 すぐさま俺の頭に浮かんできたのは、あの旧館の文芸部室だった。古びて、わけのわからんものがたくさん置かれている
SOS団の根城。俺の高校生活の大半が詰まっていると思っていい。
「わかったわ。部室ね。それで本当にいいのね? 他に行きたいところがあるなら遠慮なく言ってもいいわよ。
物理的に難しいところはできないけど、あんたの行きたいところならどこにでも……」
「いいんだ。部室がいい」
 俺はそうきっぱりと答え、さらに続ける。
「もう部室以外の場所をほとんど憶えてないんだよ……」
 
 
▽▽▽▽▽
 
 あたしはキョンの要望通り、北高へ向かった。
 この間に見たキョンの絶望と雄叫びを見て、あたしはまだ自分がこの病気が嘘か間違いならいいと思っていたことを恥じていた。
しかし、キョンが家族のことを忘れてしまったということ、そして、それを心底苦痛に思っている彼を見て、
もう言い逃れも現実逃避もできない状況だと確信させられた。
 同時に、あたしの脳裏に不安も過ぎる。キョンの症状は深刻だ。あたしは必ず助けると大見得を切ったが、
本当にできるのだろうか? そもそも専門である医者ですらさじを投げているのに、あたしなんかに何ができる?
あの症状を見せつけられてから、ついさっきまでの自信がすっかり消え失せかけていた。
 ようやく北高前につき、あたしたちはタクシーを待たせた状態で校門を乗り越えて学校の敷地内に入った。
 あたしはふとキョンの顔を見た。さっきまで不安で染まっていた表情だったが、学校に来てある程度の安堵感を見せていた。
よかった。まだここのことは憶えているみたい。
 時間は午後8時。校舎は明かり一つなく、部室のある旧館も闇に染まっていた。
 しまった。この時間では旧館の入り口が開いているわけがない。中にはいるためにはどこかの窓を割って……
「待っていたよ」
 唐突にかけられた声。あたしたちがそちらに振り返ると、そこにはあのいけ好かない生徒会長と喜緑さんの姿があった。
何よ、こんな時に。まさかこんな時間に部室を使うのは風紀の乱れの原因になるとかいうんじゃないでしょうね。
言っておくけど、今のあたしはあんたの下らない説教なんて聞いている暇はないんだから。
本気で阻止するつもりなら、こっちも容赦しないわよ。
 だが、生徒会長は予想外の言葉を告げてきた。
「話は聞いている。場合によっては学校に来るかもしれないと思っていたが、予想通りだったな。
彼はこちらで面倒を見よう。部室にきちんと連れて行くから安心したまえ。君は行かないとならない場所があるのだろう?」
 あまりに物わかりのいい生徒会長にあたしは一瞬警戒心を憶えるが、すぐに考え直す。
いくらこいつがむかつく石頭とは言え、キョンの命がかかっている状態でSOS団の存続うんぬん言ってくるほど、
頭がおかしいとは思わない。今までやり取りした中の情報を総合すれば、常識的な判断ができる奴だと思うし。
 あたしはキョンの腕をつかんで、生徒会長の方に渡すように近づいた。
「今はどうこうやるつもりはないわ。そんな状況でもないから。悪いけど、キョンをお願い」
「任せてくれ。彼は私が責任を持って面倒を見る。喜緑くんも最大限サポートしてくれるそうだ」
「はい、生徒会長」
 喜緑さんも軽くうなずいた。
 あたしはキョンの腕をつかんだまま、じっとキョンの顔を見つめて、
「ごめん、キョン。本当は一緒にいてあげたいけど、それじゃ何も変わらないから。
いい? 部室に入ったらじっとしてそこから動かないこと。喜緑さんたちもキョンがどこかに行っちゃったりしないか、
ちゃんと見ておいて」
「わかりました」
 そう言って喜緑さんはキョンの隣に立った。
 そして、あたしはキョンから手を離すと、そのまま校門前のタクシーに向かって走り出す――が、一旦足を止めて
再度キョンを見つめながら、
「あたし、何度も言ったけど諦めないから。最期の最期まで絶対に諦めないから。だから――あんたも諦めないで」
 そう宣言する。
 そんなあたしにキョンはただただ中途半端な笑みを浮かべるだけだった……
 
 
▼▼▼▼▼
 
 俺は暗い旧館の廊下を抜け、文芸部室に入った――戻ってきた。
 家族や自宅という存在が俺の中から消え去ってしまった以上、今の俺の心のよりどころはここにしかない。
まるでゆりかごに入れられたかのような安堵感が、俺を包んでいくのを感じた。
「毛布と食料、水ぐらいは用意しておいた。ゆっくりくつろいでくれ」
 その言葉通り、部室内には一晩ぐらいは簡単に明かせるだけのものがそろっていた。パソコンもあるから、
予定時刻が来るまで退屈することもないだろう。
 俺はこんな配慮をしてくれた二人に深々とお辞儀する。いい人たちだな。俺のためにこんなことまでしてくれるなんて。
 一方で、感謝に反比例して罪悪感も募った。なぜなら、俺はこの二人が一体誰なのかわからないんだから。
恐らく何らかの形で知り合った仲なのだろう。だが、やはり俺の記憶にはこの二人の情報はいくら探っても出てこなかった。
この数時間で俺は一体どれだけの記憶を欠落させたのだろうか。
 部室内には言った俺は、せっかくだからと団長席に座った。そういや、ここに座ったのも久しぶりな気がする。
おっとこういったことの記憶はまだ残っているんだな。
 と、ここで喜緑さんという少女が俺のすぐそばに立ち、
「生徒会長。申し訳ありませんが、彼と二人で話させてもらえないでしょうか」
「わかった。外で待っている」
 そう言って生徒会長と呼ばれるめがねの男は部室から出て行った。
 喜緑さんは俺のそばに、清楚な振る舞いで立ったまま、
「今回のことについては、わたしとしても大変残念に思っています。こちらとしましても、全力であなたの問題点を解消しようと
試みましたが、上の方の動きが大変鈍いというのが実情です」
「……ああ、あなたも長門と同じ――えーっと何でしたっけ」
「対有機生命体ヒューマノイドインターフェース、です。人によってはTFEI端末と称される場合もあります」
「それそれ。あなたも長門と同じなんですか」
 初耳の情報だったが、恐らくこのふざけた病気にかかるまえの俺はそのことを知っていたんだろうなと、
自嘲ぎみに考えてしまった。
「その通りです。今回の一件につきましても、大方の情報は入手しています」
「……何とかならないもんですかね。何だかどうでもいいような気分になってきているんですけど、
はっきり言ってしまえば、俺もこの若さで他界なんてしたくないんで」
「現在のところ、手だては何もないと考えています。先ほども申し上げましたが、情報統合思念体は今回の一件の発覚以降、
大変緊迫した状態が続いています。かすめ取った情報の断片を解析しましたところ、どうやら内部で――言語に当てはめるには
いささか齟齬が生じるかも知れませんが、『交渉』が頻繁に行われているようですね。細部の情報は、
わたしや長門さんのような端末レベルまでは伝達されていません」
「つまりできることは何もないって事ですか」
「その通りですね」
 喜緑さんはにこやかな笑顔を浮かべたまま答えた。恐らく数時間前の俺だったら、人の不幸を見て楽しいかとか言い出して
暴れていたかも知れないが、今はただただどうでもいいと思ってしまうのみである。
 俺は結局何も変わらないと自覚し、だらしなく椅子の背もたれに寄りかかった。
 と、ここで長門があのパトロンから切り離されたという話を思い出し、
「長門はいろいろ上に申請して、その結果親玉から切り離されたって言っていましたが、あなたは違うんですか?」
「わたしも申請自体は行いましたが、そういった強制措置は執られていません。長門さんが切り離されたのは、
3度エラー蓄積が原因の暴走事故を起こしたからです」
 暴走事故――俺は喜緑さんの言葉に目を丸くした。あの長門が3回も暴走しただと?
 喜緑さんは続ける。
「最初の二回は抗議程度のものでした。その位ならエラー訂正など軽処置で対応できますが、
3度目は涼宮さんの能力を使って世界の改変まで行おうとしたのです。事態を重く見た情報統合思念体は
長門さんから情報操作能力を抹消して切り離しました」
 世界の改変って……ええと具体的に思い出せねえが、確か冬の時に同じ事があったよな。
長門……お前また同じ事をやろうとしたのか? あの時は様々なことが重なった上で長門自身も不可避にやってしまったはずだが。
「長門さんは今回は意図的に実行しようとしました。どんな手段を使用してもあなたを救おうとしたようです」
 にこやかな笑みを継続しつつ、喜緑さん。
 ……バカ野郎。俺なんかのためにまたあんなことをやるなんて。だけど、嬉しいよ。あんな風に平然としているように見えて、
俺のためにできることは徹底的にやろうとしてくれたんだから。
 
 その後、話を終えた喜緑さんは部室から出て行った。蛍光灯が照らす部室の中、俺だけになり、寂寥感がじわりじわりと
首筋から頭に上ってくる。
 俺は椅子に座ってしばらくぼけっとしていたが、ふと壁に貼ってある写真が目にとまる。
 それは見るまで忘れかけていたが、去年の夏に合宿に言ったときの物だった。まだぎりぎりこの時のことは憶えている。
どうやら記憶の欠落は、古い新しいにかかわらず虫食いのようにランダムに進んでいるらしい。
 俺は立ち上がり、それを壁からはがして手に取る。
 心底そこ楽しそうな笑顔を見せるSOS団のメンバーに、この時はまだこんなに平和で楽しかったんだなと思う。
いや、つい十数時間前まではこんな感じだったはずなんだけどな。
 しばらくすると俺の記憶から、この事も消え失せるのだろう。ほどなくして、家族のことが分からなくなったように、
長門・朝比奈さん・古泉――そして、ハルヒのことも忘れてしまうのだろうか。まるで俺の元から一人ずつ去っておくかのように
消えてしまうのだろうか。
 ぽたっ。
 手に持っていた写真に水滴が落ちた。知らぬ間に、俺の目から止めどなく涙が流れ落ち始め、次々と写真をぬらしていく。
 
 ……忘れたくねえ、忘れたくねえよ。もうこれ以上誰のことも……
 
 

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最終更新:2008年06月22日 02:19