『梅雨空に舞う雪』
○ 第3章:水入らずの……
「大丈夫なのか?」
「たぶん」
そう言う長門の視線の先には、和室の布団で静かに寝息を立てているこゆきの姿があった。
突然倒れてしまったこゆきを抱きかかえて飛び込んだ長門のマンションの和室には、俺と朝比奈さんが3年間眠っていた時のように、二組の布団が敷かれていた。おそらくここで長門とこゆきは毎日枕を並べて寝ていたのだろう。
「しばらく寝かしておく」
長門は振り返ると、リビングに戻りつつ、
「座って。お茶を淹れるから」
と言ってキッチンの方に向かった。俺は、コタツ机の定位置にそっと座ると、ふぅーっとひとつ大きなため息をついた。
いつも元気いっぱいの笑顔を振りまいていたこゆきが突然倒れるなんて思いもしなかった。よっぽど疲れていたのだろうか。
ぼんやりとベランダ越しに梅雨空を眺めていると、長門がお茶を運んできてくれた。
「飲んで」
「うん、ありがとう」
あたたかいほうじ茶を飲んで一息つくと、長門が静かに話し出した。
「こゆきの、彼女たち液状化分散集合生命体のふるさとの惑星は、遥か昔に滅びてしまった」
「えっ?」
「この地球のように銀河の辺境に位置していた彼女たちの惑星は、多くの水に恵まれた豊かな星だった。しかし、ある時、すぐ近くの星系の主星が超新星爆発を起こした」
「…………」
「事前に危険を察知した彼女たちは、銀河のあちこちに点在する水の惑星に分散して生存することとし、彼女が含まれる分散集合体は遠い昔にこの地球にやって来た」
そういえば、最初の日にもそんなようなことを言っていたな。
「やがて、彼女たちの生存に適した惑星が発見される日が来るまで、地球上の水循環系の中で静かに待機していた。ところが……」
「ハルヒか……」
「そう。涼宮ハルヒの願いにより、一時的に分散体が集合し、人間の姿となった。分散体にとって、このような形で集合状態を保ち、かつ、わたしたちと共に生活することは、かなりのエネルギーを消耗し、激しいストレス下におかれることと同義」
「そうか、それで……」
俺は、和室の方に振り返った。まだこゆきは眠っているようだった。
おそらく、ここ数日の間、枕をならべて布団に入った長門とこゆきは、今長門が話してくれたような会話をしながら、眠りについていたのだろう。
「明日は学校を休み、終日集合状態を解いて液体状で休息させる」
「そうだな、そうしてやってくれ」
空になった俺の湯飲みに長門はおかわりを注いでくれた。外ではまた雨が降っているのだろうか、少し雨音が響いている。
「なぁ、長門、お前の親玉に頼んで、こゆきたちが暮らしていけそうな惑星を見つけられないだろうか」
「…………」
「あっちこっちの惑星に散らばった仲間も集めて、昔みたいに一緒に暮らせるように。どうだ?」
「一度、統合思念体に要請してみる」
「頼む」
長門は両手で持った湯のみで、そっとお茶を飲みながら、小さく頷いた。
ハルヒの妙な願望により、こゆき、いや正確には液状化分散集合生命体たちは不本意ながらこのような状況に陥ったわけだが、幸いにも、長門を通して情報統合思念体という最強の知り合いができた。せっかくだから長門の親玉に一仕事してもらってもバチはあたるまい。
「じゃ、俺、帰るわ」
冷めてしまった湯飲みのお茶を飲み干して、俺が立ち上がろうとすると、
「待って」
と長門に呼び止められた。
「もうすぐこゆきが目を覚ます。その時、そばにいてあげて欲しい」
「……そうか」
「お願い」
「わかったよ。こゆきにとって俺は父親らしいから」
俺は和室で寝ているこゆきの枕元に座ると、長門似の少女の寝顔をじっと見つめていた。こうしていると本当にこゆきの父親になった様な気がしてくる。
静かに暮らしていたはずの地球上で、突然集合体としてたった一人きりで俺たちの前に引っ張り出されたわけで、何かと心細いこともあったんだろうな。
やがて湯飲みを片付けてきた長門も俺の隣に座った。
しばらくそうしていると、こゆきが静かに目を開けた。
「あ、キョンくん」
ひょっとして『おとうさん』と呼ばれたらどうしようか、と考えていたが『キョンくん』だった。少しばかり残念な気持ちを心の中にしまいつつ、
「大丈夫か? こゆき」
と言って、体を起こそうとしているこゆきの背中に手を回した。
「あ、ありがとうございます。私、倒れてしまったんですね」
「そうなんだ、驚いたぜ」
「心配かけてごめんなさい。でももう大丈夫です」
そういってこゆきは微笑んだが、いつもの程の輝くパワーは感じられなかった。
「もう少し横になっていた方がいい」
長門がそう言ったので、こゆきは再び布団に横になった。
「手を……」
布団から手を出したこゆきは、そっと続けた。
「しばらく手を握っていてください」
「うん、わかった」
俺は、こゆきの小さくて少しひんやりした手を両手で包み込んだ。安心したように目を閉じたこゆきは、やがて小さな寝息を立て始めた。
「どうして、そんな大切なことをすぐに知らせないのよ!」
ハルヒは椅子から立ち上がって、俺のことを見おろしながら叫んだ。
こゆきが下校時に倒れた翌日の朝、ハルヒより少し送れて席に着いた俺が、昨日の事を説明した時だった。
「いや、しばらく様子を見ていたんだが、長門ももう大丈夫だというし……」
「それでも、連絡ぐらいしなさい。ほうれんそうよ」
「なんだ、それ?」
「報告・連絡・相談。とにかく、こゆきちゃんはSOS団の大切な準団員なんだからね、なんかあったときは団長のあたしに知らせなさい」
「いつの間に準団員になったんだ?」
「こゆきちゃんなら、あんたより上の地位にしてもいいぐらいなんだから」
やっと落ち着いたハルヒは、椅子に座りなおして腕組みをしている。
こういうところはハルヒらしい。団員であろうが準団員であろうが、なにかトラブルがあった場合には、全力でフォローしてくれるような親分肌なところがある。それが暴走する時もあるんだが。というか暴走する時の方が多い?
「今日行くわよ」
「どこに?」
「お見舞いに決まってるじゃない、有希んち」
長門は、今日一日こゆきを液体状に戻して休養させるって言ってたな。そんなところにハルヒが行ったら休養にならないので、俺はなんとかごまかそうとした。
「まぁ、昨日の様子だとちょっと疲れているだけみたいだったし、今日は長門がついていてくれるから、そっとしておいた方がいいと思うが」
「うーん、そうね」
「後で電話でもしてみればどうだ?」
「わかったわ、あんたがそこまで言うなら……」
よかった、なんとかなりそうだ。それにしてもハルヒとの付き合いも長くなったが、相変わらず扱いが難しいやつだ。
「でもつまんないわ、今日はみんなで一緒にメイド服着ようと楽しみしてたのに」
はぁ、何だって?
「今日?」
「そうよ、サイズ直しもできたし、あんたたちの執事服も届いたし。試験前の景気づけに、ぱぁーっと騒ごうと思ってたのに」
「なんで試験前なんだよ、終わってからでいいだろうが」
「この重い雰囲気を吹き飛ばすにはもってこいなの!」
「だから、逆に騒ぐ気分じゃなかろうが」
「もう、根性ないわね」
「根性問題ではない。とにかく、来週だ、来週。試験終わってからだ」
「わかったわよ、試験終わってからね。その代わり気合入れていくわよ」
そういってハルヒはグーにした右手で力こぶしを作ると、二カッと笑った。
だから、どこでなんの代わりなんだよ、もう。
ふぅー、朝から疲れた……。
お昼休みに、ハルヒが長門のところに電話を入れて様子を聞いたところ、こゆきも元気にしているとのことだったので、ハルヒも完全に納得したようだ。実際、液体状になったこゆきはどんな風に元気だったのか気になるのではあるが、今度長門に直接聞いてみよう。
今週も、やっぱりいろいろあった1週間だった。
土曜日の昼下がり、ハルヒに教えられた数学の問題を見直しながら、どうしてもこゆきのことが気になって仕方なかった。
夕方前になって、俺は、「友達のところで勉強してくる」と言って家を出た。とりあえずこう言っておけば親はそれ以上何も言わないし。
長門には、「数学教えて欲しいから行っていいか?」と携帯で電話したが、口実であることはおそらくバレバレだな。電話を切る前に、『こゆきも待っているから』と言ってたし。ハルヒ同様、長門にも隠し事が通ることはないのだ。
「よお、すまんな、突然押しかけて」
「いい、入って」
そういって長門は玄関から俺を迎え入れてくれた。通されたリビングのコタツ机のところで長門のように本を読んでいたこゆきは、俺に気づくと、
「あ、キョンくん、こんにちは」
といって微笑んでくれた。
「元気そうでよかった」
「ほんとうにごめんなさい、心配かけて」
いつもの場所に座った俺は、すっかり回復しているようで、以前のように輝きあふれる笑顔のこゆきの姿を見て、ひと安心することができた。
「お見舞いに来てくれてありがとう」
そう言うと長門は机の上に各自の湯飲みを配ると、自分の場所に座った。
「いや、ちょっと数学を……」
「それは口実。素直になるべき」
「長門には敵わんなぁ」
「ふふ、あんまりキョンくんのこと、いじめないで下さいね」
「こゆきは優しいね」
「……」
あれ、ちょっと長門がすねてる? まさかね。
口実であろうがなかろうが、来週の数学の試験に備えて、長門の教えを請わなければならないことは言うまでもない。あらためて長門にいくつかポイントを教えてもらっていると、
「えーっと、そこは……、こうですよね」
と、こゆきまでもが噛み砕いて教えてくれたのには驚いた。
「え、だって、数学とか物理とか自然科学系の法則は、この辺りの宇宙では共通ですから」
「その割には、宇宙人とか未来人とか超能力者とか、説明できない存在がこの辺りに多いのだが……」
という俺に対して、長門は、
「それは、現在の地球人が、それらを理解できるレベルに至っていないから」
と、ぴしゃりと言った。
「解説は必要?」
「いいよ、いらない。それより当面の問題を片付けたい」
「それがいい」
そうしてしばらくは長門とこゆきにいろいろ指導を受けていたのだが、
「そろそろ夕食の準備をしたい。よかったら食べていって」
と長門が提案してくれた。そういえば少し腹も減ってきた。慣れない頭を酷使すると、エネルギー消費が早いようだ。
「そうだな、せっかくだからご相伴に預かろうかな」
「では、残りの問題はこゆきに任せる」
といって長門はキッチンに入っていった。
その姿を見送りながら、俺はちょっと気になって小声でこゆきに聞いてみた。
「なぁ、ひょっとして毎日カレーだったりしたのか?」
「いえ、毎日ではなかったです。二日に1回ぐらいかな。そういえば、おでんもおいしかったんですよ」
ほぉ、カレーとおでんはヒューマノイドインターフェースの定番メニューのようだな。
そう思って振り返ると、キッチンのカウンターの向こう側で、でっかい業務用のカレーの缶を戸棚から出している長門の姿が目に入った。
「ごちそうさま」
「おいしかったな」
業務用カレーの味は流石に平均以上ではあった。食べているときに、「何か隠し味でも入れてるのか」、と聞くと、長門は「秘密」とか言っていたが、たぶん、長門なりにひと工夫しているのだろう。あまり変なもの入れていないと信じたいね。
勉強も終わり、食事も終わり、普通ならテレビでも見てくつろぐところだが、残念ながらこのリビングにはテレビと言うものが存在しない。お茶を飲みながら一息ついていたが、手持ち無沙汰になってきたので、そろそろ帰るわ、と言おうとした瞬間、
「お風呂」
何?
「お風呂にしますか?」
何だって?
「よかったらこゆきと一緒に」
「ちょっと待て」
「いきましょう、キョンくん」
「いや、だからちょっと待て」
「私、液体人間ですけど、お風呂に入っても平気なんですよ」
「違う違う、そういう問題じゃない」
うちにはこゆきとほぼ同い年に見える妹がいるが、もう何年も一緒に風呂なんか入ったことはない。そっちが問題じゃなくても、俺の方が問題だ。
「なーんだ、そういうことなら……」
納得した様にうなずいたこゆきは、静かに目を閉じた。そして、初めてこゆきが浴槽から現れた直後、長門そのものから長門と俺をミックスした顔の造りにじわーっと変わったように、また、こゆきの顔が変化し始めた。しかも今度は体つきも微妙に変化している。
そして現れたのは長門の顔をした少年だった。
「男同士なら問題ないでしょ?」
結局、俺は長門の顔をした男の子と風呂に入っている。これはこれで絶対的に変だ、何かおかしい。長門と風呂に入っているようで落ち着かない。
「キョンくん、どうしたの?」
いや、どうにかなりそうです、マジで。
さらに追い討ちを掛けるように、風呂のすりガラスのドアの向こう側で、服を脱いでいる長門のシルエットが見えるではないか。
「お、おい、長門! 何をしている?」
『わたしも入る』
「待て、それはだめだ」
『どうして? 家族が一緒に入ってもおかしくない』
「俺がおかしくなる。た、頼む、もう勘弁してくれ」
『だめ?』
「だめ」
『そう、残念』
そう、残念、確かに残念さ。でも、もう、いろんな意味でのぼせる一歩手前だ、体が持たん……。
「大丈夫? キョンくん」
風呂から出た俺は、氷をたっぷり入れたお茶をたて続けに3杯飲んで何とか落ち着いた。こゆきは長門にバスタオルで体を拭いてもらっているうちに、また元の女の子の姿に戻った。頼む、すぐ服を着てくれ……。
本当はもう少し休憩したかったが、このままここにいると、次は風呂上りの長門が、ほんのり上気した白い肌を桜色に染め、バスタオルを巻いただけの姿でリビングに現れるような気がして、俺は、今度こそ帰ることにした。
何? 根性なし? どうとでも好きに言ってくれ。
「え、帰るんですか? キョンくん」
「いや、世話になった」
「よかったら三人で川の字に……」
「すまん、あとは二人で水入らずにしてくれ」
「わかった、では、また来週」
「おう、ありがとな、長門」
「試験がんばってくださいね」
やっと解放されたが、せっかく覚えた数学の解法が、二つ三つ抜けてしまった気がする。俺は九時過ぎの夜道を湯冷めしないように家路を急いだ。