『梅雨空に舞う雪』
○ 第4章:ゆく河の流れは絶えずして……
期末試験が始まった。
今更慌ててもどうしようもないし、ここまできて後悔するぐらいなら、とっくの昔に何とかしようとしている。
今回は、試験直前に液体宇宙人が現れたおかげで、いつも以上にどたばたしたが、結局その液体宇宙人からも心優しいご指導をいただくことができた。俺はなんて幸せなんだろう。
試験期間中もとりあえず部室に寄って、ハルヒと長門とこゆきによる特訓を受け、翌日のテストのヤマカケをお願いし、最低限ここだけは押さえておく様に、というハルヒたちの言いつけを守っている。そのおかげで、低空飛行ながらも、離陸して途中で墜落することもなく、ちゃんと着陸できることはほぼ確実な状況だ。
「毎日すまんな」
「ほんとよ、感謝しなさい」
「あぁ、感謝してるさ」
「感謝の気持ちは行動で示すようにね」
一言多いのは仕方ないが、ハルヒもいやな顔もせず俺に付き合ってくれている。長門も無表情ながらも、黙々とポイントを指摘し続けてくれている。そんな試験も明日で終わりだ。
最終日の試験科目のヤマカケが終了し、俺とハルヒと長門とこゆきという、ここ数日の固定メンバで坂道を下りながら、俺はハルヒに話しかけた。
「明日で試験は終わりだが、やるのか、あれ」
「当然よ。覚悟しなさい!」
何をどう覚悟すればいいんだろうね。俺としちゃ遥か昔に諸々含めて包括的に覚悟済みなんだけどさ。
あれ? そうあれ。 SOS団プレゼンツ、メイドコスプレパーティー。
翌日。
終わった、終わった。後は試験休みに夏休みだ。終わったことはすっかりきれいに忘れる。そう、それが健康のために一番。振り返らず、泣かないで、歩くんだ、どこまでも。
晴れやかな気持ちで、文芸部室の扉を開けると、いつものように窓辺で読書に励む長門と、窓の外を眺めていたこゆきの後姿が目に入った。
「よお」
「キョンくん、お疲れ様」
振り返ったこゆきは、にこやかにねぎらいの言葉を掛けてくれた。
「やっと終わったよ、世話になったな」
そういいながら、部室に足を踏み入れた俺は、いつもの朝比奈さんのメイド服の隣に、五着のどんぐりメイド服と、二着の執事服がハンガーに掛けられているのに気づいた。
「それ、今日着るんですよね、楽しみー」
液体宇宙人もコスプレ好きなんだね。有機アンドロイドの長門はどうだろう?
かばんを置いていつものパイプ椅子に座ると、今度は鶴屋さんと朝比奈さんが到着した。
「こんにちはー」
「やっほー、きたよっ」
「どうも、鶴屋さん」
「お、あちらが噂に聞く長門っちのいとこちゃんだね」
「こんにちは、こゆきです」
「ども、鶴屋だ。うんうん、かっわいいねー」
そういって鶴屋さんはこゆきの顔を覗き込むと、
「うん、みくるが言ってた様に、確かに口元はキョンくんだ。長門っちと足して二で割ったみたいだね。こりゃ二人の娘って言ってもおかしくない、あははは」
と豪快に笑って、こゆきの隣に腰掛けた。
最初のうちはあっけに取られているこゆきだったが、鶴屋さんが身振り手振りを交えていろいろと話しかけていくにつれて、すっかり打ち解けて行き、最後には鶴屋さんと一緒に大笑いして盛り上がっていた。
その後古泉が来て、最後にハルヒがなにやら紙袋をぶら下げて到着した。
「みんな揃ってるみたいね。じゃ、始めるわよ」
『みくるちゃん、また、胸おっきくなったんじゃないの?』
『えぇー、そんなことないですぅ』
『そうなんだ、みくるはまだ成長期なんだよ、あっはっは』
部屋の中からは、わいわい言いながら着替えている女性陣の声が聞こえてくる。
先に着替え終わった俺と古泉は、ドアの外に立ってお互いの姿を眺めていた。華やかなメイド服とは違って、執事服といってもダークカラーの燕尾服なので特別なことはなにもない。
「俺たちみたいな若造が着ても似合わんな」
俺は上着の裾のところをピンピンと引っ張りながら、
「こういうのは新川さんぐらいに、人生経験を積んで貫禄をつけないと、サマにならん」
「そうですね」
古泉も照れ笑いをしている。
「やはりロマンスグレーのオジサマのイメージでしょうか」
「そうだな」
「次はカツラも借りる様にしましょう」
「『次』はもういい、これっきりにして欲しいね」
「否定はしませんけど」
そういって古泉はネクタイを直していた。
「おや?」
「どうかしましたか?」
普段は静かな部室棟三階の廊下に、今日はぱらぱらと人影が目に付く。それも九割がた男で、一部にはデジカメをぶら下げていたり、でっかいレンズの付いた一眼レフを構えているやつもいる。そして、みんな一様に俺たちの立っている文芸部室の方にちらちらと視線を送ってきている。
「どうやら、今日のイベントの事を知っているようですね」
廊下を一瞥した古泉が、俺の耳元でささやいた。
「顔近いって。俺たちだってこんな格好で突っ立っているんだ、バレバレだぜ。たぶん、ハルヒか鶴屋さんが触れ回ったんだろうな」
「そんなところですね」
「やっぱ、整理券でも前売りしておいた方がよかったかなぁ」
ドアの前で待っている間にも、ギャラリーの数は少しずつ増えていた。試験も終わったからみんな暇なんだな。
しばらくすると、
『いいわよー』
という声がしたので、俺たちは、廊下で待機している男子生徒に覗き込まれないよう注意しながら室内に滑り込んだ。
「おぉー」
「これはこれは……」
壮観だ。SOS団の三人に鶴屋さんとこゆきを加えた最強クィンテットが繰り広げる華麗なるメイドワールド。
「どう、似合うでしょ?」
真新しい衣装に身を包んだハルヒは、椅子に座っている長門の頭の上のカチューシャの位置を調整している。
バニー以外のコスプレ姿はめったに見たことがないハルヒだが、もともと顔とスタイルは抜群なわけだから、メイド姿だって必要かつ十分なぐらい似合っている。ただし、朝比奈さんや森さんに代表されるような、メイドさんらしいちょっと控えめな態度をとることは決してないだろうが。
一方、ハルヒの前に座っている長門は、いつものように無表情ではあったが、漆黒の瞳が普段より輝いているようだった。これで軽く首をかしげてにっこり微笑まれたら、谷口ランクも赤丸急上昇間違いなしなんだがね。
鶴屋さんと朝比奈さんは半年ぶりのメイド姿だが、相変わらず見目麗しいお姿で、お互いにポーズを取り合ってはしゃいでいる。
そしてこゆき。長門の隣にちょこんと座って、襟元のリボンの位置を手直ししているが、その姿も仕草も、他の四人とは少し異なる可憐さを持っていた。なんだろう、よりピュアな純真さが湧き出ているという感じだ。
「どうだい、キョンくんに古泉くん、めがっさ似合ってるだろ、どうにょろ」
「どうにょろ」と言われても、そりゃもう、文化祭の時と同じように言葉を失うぐらいにお見事です。
「よし、できた」
長門のカチューシャの微調整が終わったハルヒは、両手を腰に当てて、勝ち誇ったように言った。
「気分いいわねぇ、我がSOS団は無敵よね」
五人五様のメイドさんを順々に眺めながら、ハルヒの言葉に俺は大きく肯いた。確かにこの五人にかなうものはいない。
団長机の引き出しからデジカメを取り出したハルヒは、
「キョン、ほら、写真撮りたいでしょ? カメラマンを命じるわ、写しなさい」
「おうよ」
今日だけは喜んで命じられてやる。この役目だけは古泉にも譲ってやらん。
「古泉くんはビデオ係りね」
「わかりました」
そうか、ビデオもあったのか……。
それからしばらくは、部室内で撮影大会が繰り広げられた。
五人並んでポーズを決めたり、一人ずつちょっと格好をつけてすましてみたり。また、俺も五人のメイド一人ずつとのツーショットを撮影した。こりゃ家宝だな。あとで谷口に自慢してやろう。古泉とのツーショットも合ったが、それはどうでもいい。
ひとしきり撮影が終わると、
「じゃ、行くわよ」
といって、ハルヒはさっきの紙袋を持って立ち上がった。
「何を始めるんだ?」
「ほら、これ」
といってハルヒが差し出した紙には、
『さぁ夏休み! この世の不思議を募集中!!』
と、でっかくプリントされていた。いつの間にこんなものを……。
「これから、このビラ配ってまわるの。夏はね、お化けや幽霊の季節だからね、今から募集しておけばきっと何かあるはずよ、ね、みくるちゃん」
「えぇー、幽霊はちょっと……」
「団員が何言ってるの、さ、しゅっぱーつ!」
ハルヒは、バーンと部室のドアを開けると、廊下に飛び出した。そのすぐ後を鶴屋さんとこゆきが続いた。廊下からは、「おぉー」とか「すげー」とかいう声と、カメラのシャッター音が響いている。そのシャッター音をかき消すように、ハルヒの怒鳴り声が響いてきた。
『こらこら、あんたたちねー、あたしたちの写真ばっかり撮ってないで、心霊写真でも撮ってきなさーい!』
その後、五人のメイドと二人の執事が、多くの男子生徒を引き連れながら部室棟やら中庭を練り歩いて、さっきのビラを配ってまわった。
時間が経つにつれ、グランドの運動部の連中も騒ぎを聞きつけて練習そっちのけで見学にきている。教師はハルヒが先頭を歩いているのを見かけると、あきらめたように遠巻きに様子を伺うだけだった。
「これはやっかいなことになった」
もはや執事と言うより警備員と言う感じで、群集からSOS団メイドご一行様をガードする役に徹している俺と古泉は、必死だった。
「もうどうしようもありません。とにかくできるだけのことをしましょう」
「おう、そうだな」
中庭でハルヒ達がなにやら叫びながら例のビラを配っているのを見ていると、後ろから声を掛けられた。
「すみません、古泉先輩、一緒に写真撮ってもらってもいいですか?」
振り返ると一年生の女子が三人立っていた。
「僕ですか? いいですよ」
小さく「やったぁ」「きゃぁ」とか言いながら三人が顔を合わせて喜んでいる。
「よかったらそちらの方もいっしょに……」
『よかったらそちらの方も』、ですか、そうですか……。別にいいですよ、カメラマン、しましょうか……?
「まぁまぁ、そうおっしゃらずに」
古泉は苦笑いをしながら、俺も被写体として迎え入れてくれた。
そんな混乱した状況でもハルヒはすこぶる機嫌がいいようで、写真撮影の男子生徒の求めに応じてポーズまで取ってやがる。こゆきも楽しそうにビラを配ったり、握手したりと、すっかり人気者になっていた。この騒ぎでは、誰もこゆきの存在を不思議に思うこともないみたいだ。しかし、どんな時もしっかりと長門がそばについて睨みを利かせていたようだったが。
その長門も、時折、衣装のカフスのところを直すとか、ハルヒが頭に載せてくれたカチューシャを調整するとか、メイド姿がまんざらでもないようだった。写真撮影にも応じていたようだが、微笑んでいる様子はなかったな。仏頂面のメイドってどうなんだろうね。
校内のあちらこちらで、臨時の撮影会を開催しつつ、最後は講堂の舞台の上に七人全員で並んだ。中央にハルヒ、舞台上手側に朝比奈さんと鶴屋さんと古泉、下手側に長門にこゆきに俺、という順に立ち、女性陣はにこやかに観客に手を振っている。
講堂内には、おそらくは全校生徒の半分ぐらい集まっているんじゃないだろうか。勝手に講堂まで占拠してしまって、教師はともかく、また後で生徒会が何か言ってくるかもしれないな。
「すまんな、大騒ぎになった」
俺は隣で観客に手を振っているこゆきに話しかけた。
「いいんです、すっごく楽しくて。こんな経験なかなかできないし」
「そうだな」
そう返答しながらも、これからSOS団と行動を共にしていると、こんな経験ぐらい何度でもできるさ、と俺はしみじみと思っていた。
「みんなー、今日はありがとー」
『うぉー』
ハルヒが何か言うたびに地響きのような歓声が講堂を満たす。
「これで、明日は梅雨明けよー!」
『うぉー』
なんと、この騒ぎはハルヒが前に言っていた梅雨明けを祈る儀式だったのか!? 結局、こんなに多くの生徒まで巻き込んで実現しやがった。なんて奴だよ、まったく。
「今後とも、SOS団をよろしくねー!」
大歓声と拍手喝采だった。
こうして、期末試験後の特大イベントが終わった。SOS団はまたひとつ伝説を打ち立てたわけだ。
その夜、晩飯を食った後でベッドの上で横になり、今日一日のエキサイティングな出来事を振り返りながら、俺は食後のまどろみを楽しんでいた。昼間に撮ったデジカメのデータが早く欲しいなぁ、などとシャミセンのしっぽをもてあそんでいた。
楽しかったのは、今日一日だけではないな。液体宇宙人のこゆきが空から降ってきてからというもの、それが呼び水となったのか、ハルヒとやっぱり愉快な仲間たちとの日々は充実していた。そう、魔法以上に愉快な毎日だった。
そんなことに想いを巡らせていると、机の上の携帯が鳴った。
携帯の小窓には『長門有希』と表示されている。
「今日はお疲れだったな。どうした、長門?」
『緊急事態』
何、また緊急事態だって?
「今度はどうした?」
『こゆきが出発することになった。見送ってあげて欲しい』
「ちょ、ちょっと待て! どういうことだ?」
一瞬で目が覚めた。あまりに驚いたので、もてあそんでいたシャミセンのしっぽを力いっぱい握ってしまった。シャミセンは「ぶぎゃ」と叫んでベッドから飛び降りて行ってしまった。すまん、シャミ。
『とにかく来て。十分以内』
「おい!」
……切れた。
こゆきを見送り、だって?
俺は玄関の傘たての傘を一本つかんで、いまにも降り出しそうな夜空の下、長門のマンションまで自転車を飛ばした。
案内されたリビングでは、制服姿のままのこゆきが神妙な顔をして座っていた。
「……キョンくん」
「どうしたんだ、いったい」
「ここを離れることになりました」
「……」
「液状化分散集合生命体にとって生存に適した惑星が見つかった、と先ほど統合思念体から連絡が入った」
そう言いながら長門は、いつもの場所に座り、いつものほうじ茶を淹れてくれた。
「そうか」
「地球上の他の分散体の状況、地球と移住先の惑星の相対的・絶対的位置関係などの条件などにより、今から出発することになる」
「今から? そんな急に……」
「仕方ない」
「待てよ、少しぐらいは……」
「時間はあまりない」
「……最後にみなさんにご挨拶したかったんですが……」
そう言ってこゆきは、うつむいて右手で目頭を押さえている。
「ハルヒに説明するのはちょっと難しいが、せめて朝比奈さんと古泉には連絡をしてすぐに……」
「それも考えたんですが、皆さんにお会いすると、やっぱりちょっとお別れするのがつらくなりそうで」
「…………」
「だからキョンくんだけって」
こゆきは顔を上げると、無理やり笑顔を作りながら、
「私のこと、忘れないでくださいね」
「わ、忘れるもんか」
「私も忘れません」
そう言うこゆきの笑顔はやっぱり輝いていた。
「それにしても……あっという間だった」
「私がこのように『こゆき』として集合するまでは……」
机の上においた白い手のほっそりとした指先を見つめながら、こゆきはゆっくりと言った。
「とっても長い間、分散体の状態で地球上の水分といっしょに世界中を巡っていました。それと比べると本当に一瞬のことでしたが、充実していました」
組んだ両手の指の上にあごを乗せて、こゆきは思い出にふけるように目を閉じている。その姿を見ながら、俺はつぶやくように言った。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず……」
「淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と、栖(すみか)とまたかくのごとし」
長門が後を続けてくれた。流石は元祖文芸部員だ。
「久しくとどまりたるためしなし、か、そうだな…………、新しい星でも元気でな」
「はい」
「では、そろそろ、光陽園駅前公園へ」
じっと湯飲みを見つめていた長門が顔を上げて静かに言った。
「ハルヒにはなんて言おうか?」
マンションのエレベータの中で俺は長門に話しかけた。
「急遽ご両親の元に帰ることになった」
「まぁそうなんだが、大事なことは報・連・相しろって言われているし」
「わたしからも涼宮ハルヒに謝罪する」
「おまえからも謝ってくれればハルヒも納得してくれるな」
「たぶん」
その後はほとんど会話を交わすこともなく、俺たち三人は光陽園駅前公園にやってきた。また少しだけ降り出した雨が、木々の葉っぱを静かに叩いている夜の公園を、俺たちは傘もささずに歩いていた。
やがて、以前に本の栞の呼び出し文で俺が駆けつけた時に、長門が腰掛けていたベンチの前までたどり着くと、こゆきは立ち止まって振り返った。
「いろいろとありがとうございました。わずかの間だったけれど、とても楽しかったです」
そう言うとこゆきはそっと頭を下げた。
「行くのか」
「はい……」
「心配することはない、あなたたちの仲間の分散体も別途集合することになっている。一緒に新天地に向かうことができる」
淡々と、でもはっきりとした口調で長門はこゆきに話しかけた。
こゆきはただじっと長門の目を見つめていた。言葉にはならないが、なにか二人の間では多くの想いが行き来していたのだろう。
ラジオの雑音のような、木々の葉を打つ雨音が少しだけ強くなった気がする。
「キョンくん、有希さん、お世話になりました。最後に……」
こゆきは並んで立っていた俺と長門の間に飛び込んでくると、両手で俺たち二人に抱きついて、一言一句をかみしめる様に、
「おとうさん、おかあさん、いつまでもお元気で」
と、言って長門の胸元に顔をうずめた。
しばらくの間、俺と長門で包み込むようにこゆきを抱きしめていたが、やがて俺たちから数歩さがった所に立つと、こゆきは空を見上げて静かに言った。
「じゃあ、行きます」
街灯の明かりに照らされたこゆきの白い肌の色が薄く透明になっていき、やがて人の形をした水の塊になった。先ほどまで着ていた北高の制服がぱさりと足元に落ちた。
その水の塊が球体になったかと思うと、一瞬のうちに夜空高く舞い上がって行った。
俺は、その球体が夜空の向こうに見えなくなるまで、雨粒の落ちてくる空を見上げ続けた。ふと隣を見ると、長門も同じように見上げていた。その頬を流れているのは雨だけではないはずだ……。
「あれ、雪……?」
いつの間にか降ってくる雨粒が雪に変わっている。
「わたしたちの周囲、半径百メートルの範囲で雪が降っている」
「…………」
やってきた時と同じ様に、こゆきは時間と空間を限定して奇跡を起こしてくれているようだ。
そうしてしばらくの間、梅雨の夜空に静かに雪が舞っていた。
やがて再び雪から雨に変わると、今度は先ほどより大粒で激しく降り始めた。遠くでは雷も鳴っているようだ。
持っていたことも忘れていた傘をやっと開いた俺は、木々の上の遥か彼方の夜空を眺め続けている長門に、そっと傘を差しかけた。
翌日、平年より少し早めの梅雨明け宣言が出された。