私の選んだ人 第7話 「天にて諮る者」


長門さんが本を閉じると、「今日は用事あるから先に行くわね!」と言いながら、涼宮さんが部室から勢い良く飛び出して行った。その溌剌とした満面の笑顔には「悪くないけど、やっぱり女物じゃイマイチだわ」と書かれていた。

今日も持てる限りの能力を投入して自然な連敗を心掛けたテーブルゲームの後片付けをする僕を尻目に、女性用の香水ではあるものの、柑橘系主体の若々しい香りを漂わせる彼と、長門さんが並んで部室を出て行く。とても涼宮さんらしい、清々しく爽やかな香りだ。

ところで、どうも彼は今日は全く落ち着きが無かった。
「僕」がしつこく香水の件で彼をからかっていたからだ。というのは否定しない。「僕」が何か口を開く度に、「涼宮さん」「わざわざ家から」「持ってくる」「良い香り」「お気に入り」の内から1つないし複数が必ず文章に入っていた為、彼はすぐに口を閉ざした。

しかし透視で得た情報によると、彼がソワソワしていた最大の理由は、今朝どうやら彼の靴箱に未来の朝比奈さんからの長門さんに関するメッセージが入っていたが、どうも具体的には書かれていなかったから。らしい。
十分不安は掻き立てる物なのにも関わらず、かなり曖昧な内容だった模様だが、僕にもそれ以上は解らなかった。

心を読んでいる事を知られる訳にも行かない。こういう時は彼が相談してくるのを待つ他無く非常に歯痒い。まぁ、何か僕の助けが必要なら知らされるだろう。……そう願おう。

それにしても、彼が今日一日あからさまに長門さんに向け視線を送らなかったのは、彼が涼宮さんの扱いが上手になって来ていると言うよりも、昨日の事が響いていたみたいだ。涼宮さんは漠然と「何か違う雰囲気」は察した様子だったけど、結局機嫌を損ねる事は無かった。助かった。いつもこうだと良いんだけど。


片付けを終えた僕は、これから着替えをする筈の朝比奈さんに挨拶を済ませ、帰途に付く。
玄関のロッカーに着いた僕は靴を履き替える。
僕の靴箱には彼の靴箱の様に面白い物が入っていた例は無い。いつもなるべく相手を傷つけない断り方を考えるのに苦労するラブレターが、稀に入っていて困るぐらいだ。

僕も1度ぐらいは未来の朝比奈さんに会ってみたいものだけど、その頃の彼女は既に僕の「透視」技術について知らされているだろう。
『禁則』処理された情報ならば、意識的にも無意識的にも全くアウトプット出来ない為に、透視ですら絶対に読み取る事はできないのだが、未来の彼女は『禁則』が緩和されているそうだし会ってはくれないだろうな。サングラスでもしてくれれば僕からはほぼ安全なのに。

ちなみに、長門さんは他人の記憶を操作できる程だから、『禁則事項』の内容も当然読む。朝比奈さんが長門さんを怖がるのも無理はない。まあ、長門さんや僕に知られてまずい事は朝比奈さん自身教えられて居ない筈だし、朝比奈さんが長門さんを苦手なのはそれだけが理由には見えない。しかし、それもハッキリした所は『禁則』処理されていて解らない。

記憶の本当に知られるとまずい部分だけを『禁則』処理した場合、何が重要なのか、又、その内容は何なのかを、僕ら『現地時間人』が穴埋めパズル的推理で推測できてしまう可能性がある。だから朝比奈さんの様な未来人には、重要性の低い記憶にも所々『禁則』処理されている模様で、これもその一つなのかもしれない。

などと考えながら玄関を出ようとすると、珍しい人物と目が合った。
喜緑江美里。……長門さんの同胞。
彼女の優しげな微笑と、柔らかく物静かな物腰、丁寧過ぎる言葉遣いは正直僕の擬態を想起させるが、そんな目でしか彼女を見られない自分自身の空虚な砂漠の様な内面を、乾いた風が吹き抜ける。

静かに一礼した彼女は、僕の目に視線をまた合わせると、聞き覚えのある控えめな声でこう言った。

「古泉一樹様。折り入ってご相談したい事がございます」

喜緑江美里が僕に「相談」?……恐らく長門さんの事だ。思ったより深刻な事態らしい。
彼女の柔和な笑顔の裏に、強い決意を感じる。胸騒ぎがする。

「長門さんに関する事ですね?」
「はい。とりあえず歩きながらお話しましょう。今日ばかりは、あなた様が何も無い場所で止まっていらっしゃると、長門さんが確認しに来るかもしれませんから」
「とりあえず、分かりました」

喜緑江美里は僕が歩き出すのに合わせて横に並び、歩き出す。彼女の歩むペースに合わせ、僕は少しいつもより歩くスピードを緩める。
「分かった」とは返事したが、僕は歩きながら話す部分に同意しただけ。何故、何を、長門さんが確認に来るのかはまだ解らない。来たらまずい理由も解らない。でも、これから聞かされるのだろう。

「それで、喜緑さん。その相談と言うのは?」
「あまり時間がございません。単刀直入に申し上げます。主流派様が再び長門さんの処分をご検討されている模様です」

……処分……

「……どういった理由で、でしょうか」

これは、……もう「その時」が来たのか?……いや、覚悟なら出来ている。喜緑江美里が僕の所へ「相談」を持って来たのなら、僕ならば長門さんを助ける事が可能だという意味だろう。
ただ、自らの「覚悟」を心に再確認すると、答えの代わりに俯いた森さんの姿、青褪めた顔が、順に脳裏をよぎった。

「昨日長門さんがあなた様のお命を救ったそうですが、主流派様としては、その際の報告に整合性が期待値を下回る点がある。と、仰られているそうです。つまり、主流派様は長門さんが事実を正確に報告していないのではないか。裏切ったのではないか。と、お疑いのご様子らしいのです。……昨日、主流派様は長門さんを通してあなた様の上司であられる森様に対し、あなた様の肉体を修復するに当たって交換条件を2つ提示されたらしいのですが、…それについてお聞き及びではいらっしゃらない様ですね」

なんて事だ。長門さんが僕の命を救った事。それが原因で今度は彼女の命が危ないのか……。

しかし喜緑江美里、僕の記憶を読んだな。
会ったばかりの頃の長門さんと会話している様な感覚だ。最近の彼女はどうしてもその必要が無い限り、直接記憶を読まない。

「すみません。本当は余りこんな時にこんな事を言いたくはないのですが、話を続ける前に、ですね。僕達が「この会話」をしている所を機関の人間に見られるだけで、僕は少しばかり厄介な事になります。あなた方は機関が常にマークさせて頂いておりますので、今もどこかから監視されている筈です」

「それにつきましてはご安心ください」

真っ直ぐ前を見据えたまま、喜緑江美里は物静かな声で答える。名前の通りに黄緑色の髪が、歩を進める度にフワリ、フワリ、と揺れている。恐らく彼女が地球上に派遣され、最初に目にした新緑に萌える植物達に心奪われでもしたのだろう。
彼女の周囲の人間の記憶や、学校、市の記録によると、北高にもちゃんと1年生の春から通っている事になっているし、その時分にこの地域に転入して来た事になっている。だが「衛星」に残る記録によると、少なくとも彼女が僕達の前に現れたのは朝倉涼子が『転校』した日だ。

「今私達の唇の動きを読まれましても、差し障りの無い文芸部室の明け渡しについての交渉に見える筈です。それに、私達に対していかなる盗聴器も意味を成さない事は、あなた様にはご説明差し上げるまでも無いでしょう?」
ええ。知っています。窓ガラスの振動を拾うタイプの盗聴すらも通用しなかったそうだし。でも、だからこそ機関は彼女達を常に監視し続ける必要がある訳だけど……。

ちなみに、機関が今までに得た情報を総合すると、喜緑江美里は朝倉涼子が消えた直後から長門さんのメイン・バックアップを務めている。喜緑江美里の所属するだろうと思われている穏健派は、情報統合思念体の中ではかなりの少数派であり、恐らく主流派と長門さんの力添えにより、これ程までに涼宮さんに近い位置に居るのだろうと考えられている。
長門さんは主流派から派遣されてはいるが、今日までの紆余曲折を経てSOS団員という立場の割合を強くして来ているようだし、穏健派と今の長門さんには、お互いの求めるものに重なる部分が多いのではないだろうか。

「それならば、ひとまずは安心ですね。では話を戻しましょう。その森さんが提示を受けた2つの交換条件とは、一体どういった物だったのですか?」

「長門さんが主流派様と協議した後に、森様へと提示されたその2つの交換条件は、1つが無理難題、もう1つは受諾可能な物で、あなた様の存在が消失寸前な状況下で提示するには、主流派様としても十分に合理的な物だったそうです」

なるほど。情報統合思念体もえげつない事をしたものだな。判断を狂わせる為の精神攻撃か。タイムリミットの迫る状況下で、受諾不可能な選択肢とギリギリ受諾可能な選択肢を与える事で、3つ目以降の提示されていない選択肢について咄嗟に考えが及ばない様に仕向ける。……普通の人間相手ならそれなりに効果的だった事だろう。どこでそんな汚いやり口を覚えたのだろうか。まさか、情報統合思念体内部の派閥争いでは役に立たないだろうし。
……まぁとりあえず、続きを聞くか。
「お続け下さい。2つの交換条件の内容は情報統合思念体に取っては合理的に見えた……しかし?」

「しかし森様は長門さんからその提案をお受けになると、あなた様が涼宮様の周囲から消えてしまわれる事態は、情報統合思念体に取っても避けなければならないのだとほぼ即断され、あなた様が手遅れになる寸前まで平常時の心拍数を維持したままお待ちになられたそうです」

流石、森さん。まあ、森さんならいつでもそれぐらいはやって退けるだろう。

「……主流派様のお考えでは、あなた様方が所属されていらっしゃる組織に取って、森様の方があなた様よりも地位が高く、また、失礼ながら多くの面で有能である事を差し引いても、あなた様が今いらっしゃらなくなれば致命的な問題を引き起こす事は容易に計算できますから、森様のご判断とその速度の理由が理解できないのです。感情という現象については、その概念を知識として保持しているに過ぎませんから」

これだけ聞けばどんな提案だったのか容易に想像が付く。森さんと僕の命の交換だったのだ。但し、交換後の僕の感情を冷静に考えればその交換が最悪の選択である事は明らかだ。
情報統合思念体、つまりTFEIが、僕の中から森さんの記憶だけを完全に消す事は、多分できない筈だから。
恐らく、強い感情を持っている相手に対するヒトの脳細胞の働きが、それを物理的に不可能にしているのではないかな。
もしそれが可能ならば、情報統合思念体は大分前に長門さんの彼に対する想いを消し、SOS団への愛着慈悲心を消して、より従順な傀儡と化す事を図るか、僕ら全員の長門さんに関する記憶を消した後、長門さん自身を扱い易い他の『端末』と摩り替えている筈だと思うし。
ほぼ万能な彼らにも出来ない事はある。まあ、そうでなくては涼宮さんの力を求めたりはしないだろう。って今更言う事でもないか。

……しかし情報統合思念体も、最初はうまく長門さんを潜入させたつもりで居たのが、逆に僕達の結束が固まり過ぎて手が出せなくなったと云う訳だ。でも今、喜緑江美里は長門さんが処分を検討されていると言っている。実はまだ1つ心に引っかかる事があって、どうにも現実味が無いけど。

それにしても森さんが森さんで本当に良かった。もし彼女の命の重荷を背負わされてしまっていたら、僕にはこれから長門さんを助ける選択肢を取る事は出来なくなっていた。


「……続けてよろしいでしょうか?」
歩きながら横目で僕を見ている喜緑江美里の顔を見ると、彼女の普段の微笑は影を潜め、緊張と憂いの表情を形作り、目は曇っている。そして、それを見た僕にもまた緊張感が伝染する。

彼女の今の表情は、最初に部室へ来た時の物とは違って演技では無い。と、直感した僕は、真剣に長門さんの身を案じているであろうこの来訪者に好感を持った。彼女も長門さんに対しては好意を持っているのだろう。同胞の同胞だ。今回は信じよう。
……もしこれが演技ならば騙された僕が悪い。

「すみません。どうぞお続けになって下さい」

「はい。主流派様はそれらの長門さんから報告された情報を総合して、長門さんが情報統合思念体より「交渉の成功失敗に関わらず、手遅れになる前に修復せよ」との指令を受けている旨を、森様へ何らかの直接的手段にてお伝えし、それら事実を正しく報告していない可能性が最も高いと結論付けたそうです。交渉の失敗自体は想定されていた結果の最有力候補だったそうですが、長門さんの取ったとされる行動は明確な造反に当たりますので、処分を検討されているのです。……森様の非人類的な思考速度と危機的状況における非人間的冷静さが仇となりました。……あの、どうかお気を悪くなされないでください。私としてはこれは賞賛のつもりだったのです」

え?僕は何も怒ってなどおりませんよ。……大体僕自身その通りに考えていたし。
……それにしても、昨日僕が死ぬような怪我をしなければ……。長門さんが窮地に陥る事も無かった。

「ところで、1つ気になる事があるのですが。どちらにせよ急に長門さんを消してしまうと、彼が昨年12月にあなた方に対し宣言した事を実行するのでは?今回それは充分な抑止力にはならなかったのですか?その場合には、僕も個人的に彼を応援します。まあ、実際にはただ傍観する事になりますが……?」

当然の疑問を投げ掛けると、喜緑江美里はゆっくりと立ち止まり、消え入りそうな声で答えた。

「……当然その点は考慮されています」
僕から顔を背け、地面に視線を落とした彼女は、躊躇いがちに続きを吐露する。

「……長門さんの……処分が決定された場合、非常に高い確率で、今夜は崩壊因子を組み込むに留め、……実際のタイミングは皆様の高校卒業直後に設定されると思われます。それも「鍵」様がご納得せざるを得ない形になるでしょう。……直接的な手段による消去は「鍵」様の反発も予想され危険ですし、涼宮様がご執心される物を突然取り上げるのは得策ではないとの理解が、情報統合思念体の意識の大部分に浸透しておりますから。「準備」無しでの消去を敢行した場合、長門さんを知る地球人類全ての記憶を改竄したと仮定しても、……危険がゼロになる事は無いとの計算結果が……出ています……」


…………え?
なんだって?

俄かには理解できなかった。
僕の全身全霊が、その言葉に潜む闇を直視する事を避けた。
でも心の奥底では、僕が既に理解に達している事を、否定し続ける事もまた、出来なかった。

……まさか?

理解は少しずつ重みを増して、現実との均衡を取ってしまう。

……そういう事なのか?それは、僕が今考えた様な事なのか?まさか!

まさかっ!?

情報統合思念体は、彼の…………
彼の、純粋に長門さんの幸せを願う気持ちを、利用しようと云うのか?安全な「手段」が見つかったから?碌に事実確認すらせず、一応、大事を取って、長門さんを切り捨てようと云うのか!?

……ただの有機生命なら死ねる。だから?
だから……だから彼が望む通りに、彼女を一度生身の人間に仕立て上げ、それを殺害しようと云うのかっ!!!

無力な人間となった長門さんを、偶然を装って殺すと、そう云うのかっっ!?

背中と後頭部の皮膚から、ビリビリと静電気が放電された様な感覚に襲われる。
腹の底から湧き上がる、冥く熱い激情が僕の殻を内側から喰い破り噴出しようと暴れ、目が眩み、景色が歪み赤く滲む。
体中が戦慄き出し、三半規管が茫然自失してしまった僕は、ただ立って居る事すらままならず、右手で近くにあったポールにしがみつき、左手でズキンズキンと拍動に合わせて痛むこめかみを押さえる。
……激昂した食道が痙攣し逆流させた胃液を無理に飲み下すと、酷い憤怒の味が口中に広がった。

『古泉一樹様?お体の状態が……』
耳が拾ったそのシグナルを熔解した脳が一応受信したが、全然意味が判らない。


ああ。……確かに僕達は、貴様らから見れば塵の如き存在だろう。

そして貴様らは自分で作った「物」が期待通りの成果を上げないのならば、他の「パーツ」に取り替える事が一番効率的だと「計算」しているのだろう。……しかし、計算ぐらいなら半導体にすら出来るぞ。
……形すら持たず、命の価値すら理解できない「モノ」の分際で……!

何が、『進化の可能性』 だ?


ふ ふざけんなあああああーーーッ!!!


まるで笑えない冗談だッ!!貴様らは外道鬼畜の類ですらないぞ!!無駄だ無駄だっ!!長門さんを置いて失せろ!消えちまえ!彼女も…本心では…グ…それを、ゲホッ!う…ゲホッゴホッ!


腹が勝手に波打ち、僕は激しく咳き込んだ。……なんだか喉が痛い。胸が、息が苦しい。目が霞んで何も見えない。何故か手まで痛い。……いつの間にか、全力で怒鳴り散らしていたみたいだ。

感情に任せ激怒し、叫び、咽る。周りから見れば完全に危ない奴だ。なんだか他人事の様に感じる。……僕自身が今ゼエゼエ喘いでいて、胸と喉が非常に苦しい事を除けば……。


全速力で限界まで走り続けた後の様に乱れた呼吸が整うには、それなりの時間が掛かった。

こめかみから震える指を離し、光の眩しさに痛みを訴える目を強引に開く。
辺りを見回すと、数人の北高生達が僕を避けて足早に去りつつ、奇異の目を向けて行った。喜緑江美里は僕に向け右手を中途半端に上げかけたままの形で固まっていたが、それを諦めた様に下ろし、また地面を見つめながら言った。

「古泉一樹様。申し訳ありません……私にも、あなた様のお怒り、良く理解出来ます」
「あなたに、理解できるハズが無い!!」

思わずまた怒鳴った自分の声の大きさで、僕は冷水を浴びたようなショックを受け、今度こそ本物の冷静さを取り戻す。
違う。彼女に八つ当たりしても仕方が無いんだ。彼女は長門さんを助けようとしているのに。
僕は無意識の内にギリギリと歯噛みをしていた顎を、意識を総動員してなんとか開き、無理矢理震える息を吸い込むと、強張った舌を動かし、可能な限り感情を押し殺した声を絞り出す。

「いえ……申し訳ありません、でした。……あなたも……長門さんを助けたいと……思っていらっしゃるのに」

「お気になさらないで下さい。私も、同じ気持ちです……。本当はあってはならない事なんですけど」

……そうか。僕は、本当に酷い事を言ってしまった様だ。
いや、貴方は情報統合思念体とは違う。長門さんの身を案ずる心を持っている。そういう意味では無く、「SOS団に属さないあなたには、僕達の結び付きの強さは解らない。僕のこの気持ちは、到底理解できない」という意味だったのだが……。よく考えればそれも感情的でかなり勝手な言い分だ。

急に冷静になった僕は、強い無力感と脱力感に襲われた。

……怒りを感じても、その怒りに飲まれてはならない。責任や負い目を感じても、それに押し潰されてはならない。……例え自分が傷付いても、焦っては駄目だ。今こそ冷静になるべき時なんだ。喜緑江美里、いや、喜緑さんと僕が協力し合わなければ、長門さんは助けられないのに。……何をしているんだ。僕は。

「すみません。あなたのお気持ちを疑ってはいません。あなたに当たるつもりは無かったのですが」
「……はい。解っております」

そういえば。先程の北校生達は、どの辺りから僕の言葉を聞いていたのだろうか。まぁ、彼らは意味までは理解できなかっただろうから、もし彼らが透視されても問題ないだろう。

「……その「崩壊因子」が長門さんを高校卒業後に死に至らしめるのですね?そしてそれは当然、あなた方には除去できない……恐らく、彼女は少しずつ情報統合思念体のインターフェースとしての能力を制限され、それと反比例する様に感情表現の制限が緩和され、傍目には普遍的な人間らしくなって行く。但し、そのまま放置しては涼宮さんと彼の関係に対する不確定要素となってしまう為に……」

「その通りです。長門さんが一般的な人間へと近付く事。「鍵」様は、それを求めていらっしゃるそうですから。結果、完全な人間と化した長門さんは……不測の事態で……『死ぬ』事が可能になります……そして同時に観測を……。重ね重ね、本当に申し訳ありません。……こんな事では恐らく、彼らも何も得られませんのに」

いや、僕が、絶対にさせない。そんな事は許さない。
絶対に、長門有希さんは、殺させない。本当ならば僕が死ぬ筈だったのに。
でも長門さんの事だ。もし崩壊因子を組み込まれたら、消されるその日まで記憶操作で僕達からは隠し通すだろう。今日、今すぐなんとかしなければ手遅れになる事は間違いない。

……目眩が舞い戻って来た。駄目だ。話題を変えなければ。冷静を保たなければ。


「あなたは僕に何を求めていらっしゃるのです?一体僕が何をすれば、彼女を救えると?」
ただ立っている事がどうにも苦痛で、僕は重くなった足を前に進める作業を再開した。

「私が、森様の当該記憶を抽出し、情報統合思念体に報告致します。それだけで主流派様は自らの判断の間違いをご理解なされ、長門さんの処分を撤回するでしょう。そのお手伝いをお願いしたいのです」
彼女は少し遅れて付いて来る。

長門さんを窮地から救えるのなら、今すぐ何でもする。僕の心情的には、もうそれは決まり切った事だ。
だが待て。落ち着け。残される森さんの事を考えると……それに長門さんだって、僕の命の重荷を押し付けられるのは迷惑だろう。その最終手段を選ぶのは、先ずは機関を裏切らずに済む方法、次に裏切っても気付かれない方法を、模索した後だ。

「……そういう事でしたら、僕としましては、できれば貴方お一人で森さんを探し出し、記憶を読んで頂きたいのですが」
こう言ってはみたものの本当は解っている。もしそれが出来るのならば最初から彼女は僕の所へ来ていない。でも今はとにかく情報を集めなければ。

「あなた様の所属する組織は、私達の能力を知り過ぎています。森様も、私一人では現在位置を特定できないばかりか、もしお呼び出しできても私の情報操作圏内に入って頂き、該当する記憶を抽出する事は難しいでしょう。先程も申し上げましたが、あまり時間がございません。あなた様のご協力無くしては間に合わない可能性が非常に高くなります。私が情報統合思念体の制約を破り手段を選ばなければ独力でも可能ですが、その場合情報統合思念体は私の報告が不正確であると見なすでしょう。エラーを起した端末が齎す情報ですから」

確かに、機関のTFEI対抗マニュアルは一定の効果を上げる事が立証されている。携帯電話などの電波を使用する機器類は、特に数多くのギリギリ合法ではない仕掛けが施されている。幾ら喜緑さんでも相手が森さんともなれば簡単には行かないだろう。

「ところで喜緑さん。具体的にはリミットはいつなのですか?」

「長門さんへの処遇が実行されるのは今夜0時です。ですが20時から長門さんは拘束され、有機由来部分が耐えられる程度に制御された段階的スキャンが実行されます。スキャンを受ける間の長門さんをお守りする為にも私はそれに立ち会わなければなりません。そして、もしこのまま私達が座視すれば、長門さんは0時に崩壊因子を組み込まれてしまいます。……今日は私、今まで単独で森様の現在位置特定を試みていたのですけど、いつもの様にダミーの情報ばかりで……。長門さんは主流派様に監視され身動きが取れませんし。もし私があなた様の声色を拝借させて頂いたとしても、昨日の長門さんの報告から推測しますと、森様に気付かれてしまい事態を悪化させる可能性が最も高いですし……」

なるほど。時間がもう少しあれば彼女にも問題無いだろうし、森さんに直接会った事のある長門さんが動ければ簡単に探し出せるのかも知れないが。

しかしよりにもよって、「設定される『処分』の時期」は僕達が高校卒業してからだと彼女は言っていた。機関と情報統合思念体は一時的な休戦協定を結んでいる。でもその期限は丁度僕達の高校卒業日までだ。つまりその時期設定は機関に取っては渡りに船だ。少なくとも今の所はそう判断されている。

「私の所属する派閥といたしましても、長門さんが他の個体に置き換わるのはマイナス要素でしかありません。主流派様に属する長門さんがあの様な立場を取っているからこそ、私は今ここに居られる訳ですから。私としても長門さんとはもう少し長いお付き合いを希望しています。それに、私が古泉一樹様のお力をお借りして森様の記憶を抽出する未来は、私の記憶では、既に決まった事です」

喜緑さんは『異時間同位体』との同期が可能だからか。
だとすると、次は「僕が裏切った事を機関に気付かれない方法」を模索する番だ。とにかく足掻けるだけ足掻く。だから僕の未来については彼女には訊かないで置こう。どちらにせよ最善の努力はするつもりだし、その意思を持ち続ける為にも。そうでなければ僕を守ってくれた人達に申し訳が立たない。森さんや長門さんに、合わせる顔が無い。訊いてしまって僕が助かると言われても、助からないと言われても、必ず心に隙が出来る。

「ならば、僕が森さんと待ち合わせの場所と時間を決めて呼び出しますから、あなたは僕の記憶を操作して、今教えて下さった情報を消して下さいませんか?そうすれば、僕はただあなたに気付かなかった事による処分を受けるだけで済むかもしれない」

「すみません。それは出来ないのです。SOS団の皆様に対して情報改変するには、先ず長門さんが皆様お一人ずつに施した厳重なプロテクトと追跡用マーカーを破らなければなりません。そもそも、私が今何らかの情報改変を行えば長門さんは直ちにそれに気付き、必ず私の前に現れます。長門さんはあなた様が長門さんを救う事で犠牲になる事を恐れておりますので、私が森様の記憶を無事抽出するまでは長門さんに気付かれる訳には参りません。その上、先程のあなた様の反応を拝見した限り、その記憶を完全に消して差し上げられるかどうかも、私にはあまり自信がございません。ですから、私に出来る事は不可視遮音モードで存在的に透明になる事ぐらいの物だと、申し上げる他ありません。助力を請う身でありながら余りお力にもなれず、大変申し訳なく思います」

やはり、強い感情と結び付いた記憶は改竄できないのか。まあ裏づけが取れた程度の事だが。

「では何故、今僕とあなたがこうして会話しているというのに、長門さんは来ないのでしょうか?」
「私が長門さんに私の位置情報を誤認識させた上で、私の持つ処理能力の殆どを割いて私自身の周囲に情報封鎖フィルターを展開している事に加え、長門さんは現在他に意識を向けざるを得ない状況にあるからです」

まだ長門さんは彼と一緒なのか。……だとすると、急がなければ彼女の『エラー』も心配だ。想いの受け容れられる事の無い相手に優しくされる辛さは、僕にも良く解る。……だから森さんは僕に優しく接しないけど。

「その『情報封鎖フィルター』と言うのは、恐らく、あなた方が検知できる情報の波を遮断する物ですね?但し、完全にシャットアウトするのではなく、平常時に観測される部分の情報は通す」
「概ねその通りです」
「情報封鎖フィルターに加え、透明化しながら、森さんの記憶を抽出できますか?」
「可能です。ただ、その状態下での私の能力は非常に制限されますので、予めご了承下さい。……長門さんは私共の中でも特に能力が高いのです。私が気付かれない為に必要なだけの情報封鎖フィルターへの情報操作能力の割り当てを減らせば、局所的時空間凍結の実行に処理能力を回すという愚挙を犯した朝倉涼子の様に、即座に気付かれてしまいます。ただ、それも長門さんを過小評価したのではなく、介入を恐れる余り急いたからでしょうけど」

とにかく、姿を消したままで森さんの記憶の抽出が可能なら、うまく行けば機関には全く気取られずに今回の件を処理できる。でも楽観視は出来ない。彼女は森さんの記憶を抽出するまでは殆ど助けにならない様だし。とにかく、機関の人間は技術に程度の差こそあるが、それぞれ透視技術の遣い手だ。森さんは上部に報告したりはしないだろう。でも、他の機関員に僕の真意を読み取られ、「衛星」に報告を送られたらアウトだ。


おや?さっきから「衛星」とは何だ?ですか。これはとんだ失礼を。説明がまだでしたね。
機関の対TFEI情報改竄の切り札、「The Halo(ヘイロゥ)」の事です。まぁ切り札と言っても、単に改変されない記録媒体程度の物なのですが、これが無ければ、機関自体がいつの間にかTFEIの手によって改変されていたとしても誰も気付く事ができませんので、今や機関に取って必須のアイテムです。

簡単に概要を説明させて頂きます。
「The Halo」とは、幾つかの衛星が全く同じ情報を持ち、互いが互いの変更部分を監視し合うシステムです。今までの所完全に機能しておりまして、情報改竄からもクラッキングからも問題になる程の影響を受けた事はありません。まあ、流石に人工衛星はTFEIの情報改竄の射程圏外ですので、問題とされるのはクラッキングのみですが。ちなみに、情報統合思念体が直々に動いた場合については全く考慮されておりません。対策を練っても無駄でしょう。

構造的に改竄に対しては非常に強いシステムですが、覗き見に侵入される事に対しては脆弱で、長門さん程のハッカーの手による侵入の前には無防備です。手持ちのPCのスペックも改竄できるでしょうし。ただ、それ以前に彼女には読むだけならば侵入する必要が余りありません。直接僕達の記憶を読めますから。

ちなみに、僕の知る限りでは誰もその倒錯した正式名称では呼んではいません。ただ「衛星」とだけ呼んでいます。機関は決して後光(Halo)が射す様な代物ではありませんし、増してや、その衛星が『神』であるとされる涼宮さんを照らす後光そのものなどではありません。

その「衛星」を利用するには、電子手帳ライクな携帯機器を使います。それを媒体として、機関法や、与えられた権限に応じて参照できる膨大な資料をダウンロードする事と、TFEIに改竄されると困る情報を一時的に報告用スペースにアップロードする事ができます。
その端末の正式名称はただ「ガジェット」なのですが、僕達の多くは時折「バイブル」と呼びます。ええ。皮肉です。機関法もヒトが書いたモノですから。

ちなみに「ガジェット」では一時的な情報のアップロードはできても、書かれた内容を削除・改変する事は出来ません。それ以上の変更を加える方法は、例の如く僕は知らされていません。このシステムがいつから存在するのかも知りません。その衛星が何基あるのか、地上に中継地点が存在するのかすらも、知らされていません。

……ですが、色々と推測する事は可能です。例えば、「衛星自体は、恐らく某国の通信衛星に間借りしている」などですね。幾ら機関が潤沢な資金を持つにしろ、独自に衛星を打ち上げる訳がありませんので。無駄ですから。……いえ、あなたの身の安全の為にも、これ以上は教えられません。ただの推測であっても。


さて、状況は解った。彼女が僕の立場を理解してくれている事も解った。それに、どうやら僕には選択肢が他に無い。
「解りました。手伝います」
「はい。そう仰って下さると存じておりました」

時間も無いそうだし、早速森さんへ電話するか。
……余り使う事のない番号を呼び出し、発信する。
僕から森さんに直接電話する事は殆ど無い。僕の森さんに対する「感情」は、機関に疑われている筈だから。

森さんはたった3コールで出たが、僕にはその時間がとても長く感じられた。

『どうした?古泉』
……苗字で呼ばれた。森さんは今機関の人間と居る様だ。でも、今何も言わずに後で掛け直したりすれば、怪しいと自ら公表する様な物だ。そもそも、僕は機関員の携帯は全て盗聴されていると考えている。

「夕食でもご一緒にどうかと思いまして」
『ふぅん?珍しいわね。私、今日あんまり暇じゃないんだけど。……何か問題でもあったのならそっちが優先されるわね。いいわ、7時半にアンタの家の近くの、あの白い屋根のカフェで会いましょう』
「了解です。それではその時に」
『ん。』
彼女との通話はいつもの様に、挨拶無しでそのまま切れた。

確実に機関の人間が内偵に来るだろうな。喜緑さんと会話している所を目撃されている上、僕の森さんに対する行動までも、こうも通常のパターンと違っていては。

「……と、言う事になりました」
「はい。私はこれより一度帰宅して、透明化してから向かいます。その前にもう一つだけ、記憶の抽出を確実に成功させる為のお願いがあります」

「なんでしょうか?」
「あなた様から森様に「昨日の交換条件」に関連する話題を振って頂きたいのです。森様の脳内シナプスの発火現象が目標の記憶を保持している細胞へとリンクしている状態でしたら、記憶の抽出は即座に完了しますから。そうして頂く事で、失敗の可能性をほぼゼロに出来ます」

「解りました。では、機関の人間になるべく不審感を抱かせない様に注意しつつ、森さんにキーワードを投げ掛けます」
「よろしくお願いします。それから、もし万が一気付かれた場合には出来る限りの対処はさせて頂きます。私共としましても、あなた様を今日死なせる訳には参りません」
「その時は、よろしくお願いします」
「では、後ほど。恐らくお目には掛かりませんですけど」


……とりあえず、森さんにキーワードを投げ掛ける直前までは、なんとか僕の真意を誤魔化す事ができる。
森さんの透視に対抗する最良の手段は目や顔の表情を全く見られない様にする事だが、他に全く手段が無い訳ではない。思考透視は長門さんや喜緑さんの能力の様に記憶を直接読む訳ではなく、心理と思考を追って読んでいる訳だから、読まれたくない記憶は絶対に思い出さなければいい。

ただ、人間の脳はそれ程単純に出来ていない。放置して置けば機能を維持するために色々な情報を適当に処理して暇を潰す。それを読まれてしまう。だから、他の考えを強く意識し思考を埋める必要があり、かなり疲れる。何しろ「~については考えてはいけない」とすら、考えてはならないのだ。

そういう理由で、僕の彼女に対する想いは尊敬の念で塗り潰して隠していた訳だが、それが逆にあの日の一件を引き起こした。
皮肉な事に、長い間森さんに対して感情を隠蔽していた事が実地訓練となり、透視に対抗する技術に関しては、今ではかなり自信がある。
ただ、それだけで本当にあの森さんに対して長い間隠し切れていたとも思えない。実際に勘違いされていたのは、彼女自身もそうであって欲しいと強く願う気持ちがあった為だろう。今なら良く解る。

とにかく森さん以外の人間の透視になら、相手がどんな熟練者でも僕が相当気を抜いていて1秒以上目を合わせ続けたりしなければ、まず大丈夫だろう。森さん相手よりもずっと楽なはず。

うまく森さんにキーワードを投げ掛けたら、次は長門さんに会って森さんと僕の記憶を消してもらう。それで大丈夫だ。

……大丈夫だ。



家に戻った僕は、私服に着替える前にシャワーを浴びる事にした。
長い一日になる。……身体を洗うチャンスが、2度とは来ない可能性もある。
疲労を訴える身体を覚醒させる必要もある。

万一機関の手から逃れなければならない場合の事を考えて、熱めの湯で流すだけに留める。匂いのする物は使わない。
清潔なバスタオルで身体を拭き、ドライヤーで髪を乾かし、無香料ワックスを使いセットする。

卸したてのシャツの胸ポケットに、希望と闇をセットで移し、忍ばせる。
その上に着るジャケットで、それの存在を覆い隠す。

あまり使わない腕時計を手に取り、時刻が正確である事を確認し、身に着ける。
更に、携帯、生徒手帳、充電されている事を確認した「バイブル」を、身に帯びる。

財布を手に取り、小銭を取り出し、机の上に置く。
キーホルダーから家の鍵を抜き取る。
歩く時、音がしないように。

……ふぅ。

よし。心機一転。準備万端だ。
少し早いが、本を1冊持って待ち合わせ場所に行こう。普段の僕ならそうする。普段しない事をしてはならない。腕時計は今日は必要だし、たまには使っているから問題無いだろう。カフェの壁時計を何度も見ていては、怪し過ぎる。

家を出て、ドアをロックし、鍵は財布の小銭入れに仕舞った。


段差を降り、道へ出た僕は、思わぬ夕焼けの美しさに心打たれ、天を仰ぐ。

赤からオレンジへのグラデーションに彩られ、空で燃える雲達。
黄金色に輝く太陽と、その光を受け黄色に染まる街。
長く伸びる建物の影達。

穏やかな風が髪を弄び、肌をくすぐる。
呼吸する度、体の内が洗われる。
日暮れ時の埃の匂いすら、芳しく感じる。

耳を澄ませば色々な音が聞こえる。
犬の鳴き声、人の話し声、車のタイヤの音。

……ああ、僕は生きている。

長門さんを守るのは、僕の周りの世界を守る為だ。
何の事は無い。僕自身の為だ。
神人達と戦うのと、同じ理由だ。
僕自身を守ろうとするのと、全く同じ理由だ。

……さあ、行こう。

意志の力が抗う為にあり、
信じる心が受け容れる為にあるならば、

今こそ、僕の意思の力が試される時だ。




歩いて10分程で、森さん指定のカフェに到着した。時刻は6時24分。待ち合わせの時刻まで、まだ1時間6分もある。

ガラス戸を押して店内に入り辺りを見渡すと、ちらほらと客の姿が見える。
……どれも怪しい。どれも内偵に派遣された機関の人間に見える。


レジの横で待機していた20代後半の男性店員が、僕に気付くと営業スマイルを浮かべながら言った。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「ええ、1時間後に人と待ち合わせてはいるのですが、今は1人です」
「かしこまりました。おタバコはお吸いになられますか?」
「……いえ」
「ではこちらへどうぞ」

まあ私服だし、20歳以上に見えたのかもしれない。……いや、喜んでる場合じゃないな。

店の長方形の壁は、2辺までが大きなガラス張りになっていて、屋外にもほんの少し席がある。
後は、ファミリーレストランに近い構造。と言えば解りやすいだろうか。テーブルとテーブルの間には間仕切りがあり、隣の席の客と目が合う事は無い。
観葉植物が所々に配置されていて、カラーリングは白とクリーム色で統一されており明るい雰囲気だ。のんびりと読書をするのには向いている店だろう。まあ、店員に覚えられない為にも僕にはそんな事は出来ない。森さんと待ち合わせる場所すら毎回違うぐらいだ。機関の息がかかった店ならば話は別だけど、別の意味で落ち着かない。

この店のメニューには飲み物やケーキの他に、ちょっとした軽食もあるようだ。3人組の女子高生が、明るく会話しながらスパゲッティやサンドウィッチを頬張っている。

案内する店員に付いて行く途中、コーヒーを前にノートパソコンを睨んでいる30歳前後のスーツ姿の男性、子供を2人連れた30代中盤の疲れた感じの女性、20代中盤の並んで座ったカップルの横を通り過ぎ、最後に、2面がガラスの角の席で文庫本を熱心に読んでいる老人の手前のテーブルまで来た所で、「こちらのお席にどうぞ」と、窓際の席をあてがわれた。

大人しく言われた通りに座り、とりあえずアイスコーヒーを注文した。
視界の範囲を見渡してみたが、自然に目が合ってしまう位置には席が無い。窓の外は道路に面しておらずちょっとした庭になっていて、窓からは少し離れてテーブルが置かれているが、今は客は居ない。そのまた奥は植込みになっている。悪くない位置だ。店員の目を見ない様に注意すれば大丈夫だな。

とりあえず、必死に「リラックスして本を読んでいる」振りを始めたが、すぐに先程とは違う店員がアイスコーヒーと伝票を運んで来た。20代前半の女性。……いえ、解っています。細かく観察してしまうのは僕が疑心暗鬼に陥っているだけの事です。

もう少し機関の訓練を受ける時間があれば。もう少し緊張しないで済んだのかもしれないのに。
いっそ「僕」と交代してやりたくなるが、こんな所で擬態なんて、普段の僕なら絶対にしない。

アイスコーヒーを一口飲んでみる。……味が全く分からない。とりあえず、シロップとミルクを適当に入れ、ストローでかき回す。

本を読む振りに戻る。全く内容が頭に入らないが、とにかく自然な速度で目を進ませ続けページを繰る。後で読み直しておかなければ。探りを入れられるとまずい。

30分程すると、子供2人連れの女性とカップルは出て行った。
代わりに夫婦風な男女が入って来た様だが、よくは見えなかった。
……そろそろ喜緑さんは来ているだろうか。いや、もう大分前から来ているだろう。


ああ、それにしても時間が経つのが遅い。時間はどうしてこうも僕らを目の敵にするのだろうか。
至福の時間はすぐに過ぎ、苦痛な時間はいつまでも長い。いかにも「僕」の好みそうな話題だが、そんな話をグダグダ聞かされたらそれこそ時間が経つのが遅くなる。変な話だが、時折僕は「彼」に同情する。


アイスコーヒーの氷がすっかり溶け、2層に分かれた。……もう飲みたくない。
先程から腕時計を見たくて仕方が無いのだけど、見た所で何かが進展する訳でもないし、普段森さんを待つ間に見ていないような気がするので、なんとか我慢している。森さんは遅刻する時は必ず連絡をくれるし。


今度は3人組の女子高生達が出て行った様だ。
代わりに誰かが入って来た。
と、思うと女性の足音が近づいてきた。森さんの通常時の足音のパターンだ。正念場だ。

「待たせたわね。一樹」
至近距離から森さんの声。当然名前で呼ばれた。森さんも周囲に機関の人間が居る可能性を考慮しているのだとしても、普段2人の時は名前で呼ぶ訳だから、そうしなければ不自然だ。腕時計を確認すると7時27分。

自然な動作で僕の向かいのシートに座った森さんは、チラッと2層に分かれたアイスコーヒーを見たが、ぬるくなった僕のグラスの水の方に手を伸ばし、一口啜って喉を潤すと、伝票に手を伸ばしながら言った。
「アンタの方から私を呼び出すなんて、今日部室で何かあったの?」
「ええ。少々興味深い事が」
涼宮さんと香水の事件で思考を満たし、森さんと目を合わせる。
僕の緊張感を読み取った森さんの伝票を掴んだ手が一瞬引き締まるが、すぐ元に戻る。それ以上はまだ読まれていない筈だ。いつも通り、その綺麗な顔からは何も読み取れない。

「じゃあ詳しく聞かせて。とりあえず夕食に行くわよ、出ましょう。私お腹すいちゃった。今日実はロクな物食べれてないのよ」
早速腰を浮かせる森さんに、僕は言った。
「ええ。ところで、何もここの代金まで払って頂かなくても……」

森さんが目にした僕の伝票は絶対に払わせて貰えない。待ち合わせ時間までの物もだ。だから僕は彼女が来る予定時間の15分前に精算しようとした事がある。するとレジの前で突然現れた森さんに伝票をひったくられ、
「やめてよね。結局私は待ち合わせの何時間前に来なきゃいけなくなるのかしら?暇じゃないのよ」
と、言われ、その後法外に高いフレンチレストランに連行され、追加分だけで2人前はありそうなフルコースを残さず食べろと厳命された。だから森さんの前では何であろうと支払おうとするのは諦めた。ちなみに、その一件以来フレンチは少しトラウマになっている。払わせて貰える彼が心から羨ましい。
それを、あえて今更言った意味は一つ。まだ僕はここを離れられない事を森さんに知らせる為だ。

「なぁに?アンタ、上司である私の厚意が不服なのかしらね?度胸だけは1人前になって来たかしら?でも、誰がボスだかもう一度キッチリ解らせて置く必要がありそうね……」
彼女はそう言いつつスッと片眉を吊り上げ、座り直す。
「いえいえ、そんなつもりはありません。いつもとても助かっています。昨日は命まで助けて頂いた程ですし。森さんに対して不服な事など何もありません。とんでもない事です」

森さんがその美しい眉根を寄せる。僕が真意を読まれない様に抵抗しているからだ。
「言ったでしょ。私は何も大した事はしてないわ」
「僕は交換条件などに乗らないで頂けた事が、とても嬉しいんですよ」

森さんの顔から表情が消えた。僕の思考が喜緑さんとの会話と繋がった事で、彼女も僕の真意を読み取ったのだ。そして、それは同時に近くに隠れている筈の喜緑さんも、森さんの記憶を確実に読み取った事を意味する。これで情報統合思念体も納得し、長門さんは危機から解放された筈。……良かった。ここまでは順調だ。ふぅ……。根本的な解決にはならないけど。


後は誰にも目を合わせないよう注意して長門さんと会えばいい。彼女に僕の記憶を読むよう促すだけで、全てを正しく処理してくれるだろう。処理された後は、問題があった事すら僕と森さんは覚えていない筈だ。まだそれまで気を抜く訳には行かない。

ここで喜緑さんに改竄して貰っても良いが、彼女の言う事が正しいならすぐに長門さんが現れるだろうし、そうなると機関の内偵者が益々不審がるだろう。僕と森さんにも常にマークが付くようになるかもしれない。それは願い下げだ。常にマークされている長門さんと喜緑さんには悪いけど……。

また立ち上がりながら、森さんが言う。
「マアいいわ。とりあえず食事に行くわよ。あ!そうだ。長門さんも誘いなさいよ。それぐらいの礼をしても咎められる様な事はないし」

……森さん。やはり、あなたは素晴らしい。この彼女の透視と機転で、機関の連中から見てもあまりおかしくない流れで長門さんに会える。

「それならば、今日ばかりは僕が……!?」
突然、ゴン!という大きな音が、僕の横、大きな1枚ガラスのウィンドウの方向から響き、森さんを追って立ち上がろうとする僕の動きと言葉を遮った。
僕は緊張し、シートに一度腰を下ろすと、思考を今の物音で埋めてから、ゆっくりと振り向く。

ガラスの音がした辺りには外側からベットリと泥が付き、コンクリートの上にたっぷりと水分を含んだテニスボールが転がり、カタツムリの様に地面に道標を付けている。
ふぅ。……なんだ。子供の悪戯か。驚かさないでくれ。心臓に悪い。しかし内心の安堵を表に出さない様にしなければ。
それにしてもわざわざ泥だらけにしたボールを用意してまで、嫌がらせをしたいものかな。全く、悪ガキはこれだから……。
 

今度こそ立ち上がろうと机に手をつきながら、ズルズルと滑り落ちゆく窓ガラスに付いた泥に目を戻すと、誰も居ない筈の方向、ガラスの中で誰かと目が合った。
間仕切りの向こう側に座った老人が、僕と同じように泥を見ているのだ。夜の暗闇と店内の煌々たる明かりが、いつの間にか透明なガラスを鏡に変えていたのだ。ウィンドウの中の背中を丸めた老人は僕と目が合うと、顔を皺だらけにして笑った。

ただその笑顔、口も、目尻も、持ち上げられた眉も、どう見ても笑みの形なのだが、二つの洞穴の様な目だけが全く笑っていない。その暗い目の淵から漆黒の闇を垣間見てしまった僕の背筋に、ゾクりと、冷たい抜き身の日本刀をピッタリと押し付けられたような悪寒が走る。
目を逸らさなければと解ってはいるのだが、その異様な表情に思考も身体も凍りついた。

老人の表情が再び一変する。

……新川さんの顔に。それに釣られ、恐怖で張り詰めていた僕の緊張の糸がブツッと切れた。
 
……僕は何を……しまった……新川さんは……既に1秒……まずい!喜緑さん!記憶を
 
僕が考えるのより早く喜緑さんが彼の記憶を改竄したのか、立ち上がり掛けた新川さんの表情が空虚になる。
しかし、口を手で覆った森さんが怖いような早口で言った。
「遅かった!新川…「アイツ」の口が動いていた!既にバックアップに伝わった!」
新川さんの顔に生気が戻り、恐ろしく慣れた手付きで左胸の内ポケットに右手を入れる。が、その手を出そうとした新川さんの表情が再び消え、彼の左耳の辺りで何かがパチッ!と小さく弾けた。
喜緑さんが再び彼の記憶を改竄し、彼に指示を伝えた通信機を破壊したのだ。

通路を見ると、僕を席へ案内した男性店員が営業スマイルを浮かべいつの間にか近付いて来ていた。森さんが瞬速の動作で振り向きざまにその男のみぞおちへ肘打ちを一閃させると、男は声も上げず悶絶し崩れ落ちる。それを一瞥した森さんが唇を全く動かさずに押し殺した声で言う。

「とにかくここは私に任せて行け!見つけたタクシーの最初の2台は絶対に使うなっ!」

と、とにかく、今は森さんの指示に従おう。
僕は急いで立ち上がった。状況が理解できず呆然とした新川さんは、僕が立ち上がるのと反対にシートに身を沈める。
彼の方を見ると、今まで見えなかった位置、座った新川さんの背中側のガラスに、薄黄色をした幅広のクリアテープが十字に貼られている!あれは衝撃分散の……!狙撃され──

「伏せてっ!一樹っ!」

森さんの声と同時に、テープの十字の交差位置を透かして空気が動いたように感じ、
ガラス全体に映った店内がブレた。

ダメだ 間に合わな──

その四半瞬後、先程まで森さんの座っていた場所に、忽然と蜃気楼の様な人影が浮かび上がる。
自分の移動速度で北高のセーラー服を翻し、ショートヘアーをなびかせたその影は、素早く突き出した右腕を折り曲げ、逆手に何かを掴んだ。

ゥゥンギュルルム

異様な音と皮膚の焦げる悪臭が、耳と鼻を抜け、銃弾の代わりに僕の脳に届く。

テープの交差位置にガラスを貫通して小さな丸い穴が開いているが、テープの効果でガラスにヒビは入っていない。
スナイパーライフルに取り付けられているであろうサプレッサーにより、夜の闇の中で目立つ筈だったマズルフラッシュと、発砲音の高音域は消され、微かな低音だけが辛うじて聞こえた。

振り向きながら一瞬何もない方向へ視線を結んだ長門さんは軽く頷き、次に森さんで目を止め、最後に僕と目を合わせると、掌の中の未だ赤熱している弾頭をテーブルの上にポトリと落とし、二言だけ発した。

「来て。今度は私の番」

長門さんは有無を言わさずサッと手を伸ばし僕の右手を強く握ると、突然もの凄い勢いで走り始めた。森さんの感情の表れない目が遠ざかる。ガラスの扉が前もって勝手に開き僕達を通す。店員と他の客達が驚いた表情を形作るより早く、僕達は道路に飛び出した。

僕も足には自信はある方だが、今までこれほど速く走った覚えは無い。恐らく、他のどんな人類の記憶にも無いだろう。長門さんが何かした以外に無い。
風も、走行する車すらも追い抜く程の速度で引っ張られている為に、呼吸もままならず、このままでは酸欠で倒れる!丁度僕がそう思った時、長門さんが急停止して僕の手を離し、右手を僕に向け突き出して何事か聞き取れない声で呟く。
忽ち僕の呼吸が正常に戻り、頭がスッキリしてきた。

僕へ向けられた彼女のその掌には、バーナーで真っ赤になるまで熱した回転中の電動ドリルを強引に握力で止めたかの様な、凄まじい痕が残っている。……僕の呼吸など、どうでもいい。その手を先に治して欲しかった。

しかし、反射的にそう言おうとした僕が目を合わせた彼女の瞳には、明確に不思議な感情が浮かび上がっていて、話かける事を躊躇わせた。

そのまま道路へ向き直った長門さんがその手を真っ直ぐに挙げていると、すぐに流しのタクシーがウィンカーを光らせながら停まり、オートドアを開く。車内灯が光る。
思った通り、その頃にはもう長門さんの手の傷跡は綺麗に消えていた。

「大丈夫。これは4台目。後部座席の下に圧縮ガス噴霧装置は無い。毒物を塗布された針、銃、刃物の類も確認できない」
……ガス?機関の……いや、そうだ。今はそんな事より重要な事が……!
「長門さん。しかし、森さんが!」
「安心して。喜緑江美里が現場を制圧する。森園生や私があなたの逃走を幇助した形跡と記憶は残らない。周辺に存在する衛星への通信機器も一時的に使用不能にした。早く乗って。私に対するスキャンの予定はキャンセルされていない。時間が無い」

僕は長門さんに促されるまま、タクシーへと乗り込む。
彼女は僕が奥につめるのと同時に乗り込み、シートに腰掛けた。
「お客さん、どちらまで?」
運転手の問い掛けに、長門さんが半ば被る程に即答する。
「光陽園駅前公園へ」
「こんな時間に公園?ああ、もしかしてあの駅前の大きなマンションですかね?」
「そう」
「あれね。分かりました。エントランス側に行きますよ」
小さな音を立ててドアが閉まり、車内が暗くなると、タクシーはエンジンを静かに唸らせて走り出す。

「今直ぐ朝比奈みくるを呼び出して欲しい。私が交渉した場合と比較して、説得に必要とされる時間が短い事が推測される」
長門さんが言った。唐突だ。
「わ、分かりました」
有無を言わせない彼女の雰囲気に気圧された僕は、素直に従うしか無かった。

僕が朝比奈さんに電話すると、すぐに長門さんのマンションへ向かうと約束してくれた。どうせならタクシーで拾いましょうか?と訊いて見たが、彼女はどうやら、丁度今日は学校帰りに食事を済ませて買い物をしていたらしく、15分強で到着するとの事だ。

ところで、すごく気懸りな事がある。
「何故、情報統合思念体は、まだ長門さんをスキャンするつもりなのですか?まだ完全には納得していないのですか?」
「整合性を確認する。私はそう伝えられている」
「なるほど……」
これは、本当の所は彼女にも解らない。そういう意味だ。でも、長門さんが僕を助けに現れる事が出来たという事実が、彼女への冤罪の疑いが晴れた事を示している。崩壊因子さえ組み込まれなければ何も問題はない。まあ喜緑さんを全面的に信用したら。という前提ではあるけど。

それにしても、あの時長門さんが来てくれなかったら、僕は確実に脳を撃ち抜かれていただろう。もう半瞬遅いだけで間に合わなかった。
しかし機関も、数多くの面で情報統合思念体と大差無い。あんな人目のある場所で額に銃創を負って即死した僕の体を、どうやって事後処理だけで「事故」に見せ掛けるつもりだったのか知らないが、叛逆行為が発覚した直後に狙撃だ。一応その冷酷さを知っていたつもりだったが、知識と実体験は違うな。

はぁ……。
考えたく無い事だが、喜緑さんが現場の機関員の記憶を全て書き換えたとしても、既に「衛星」に情報が残されていると考えなければならない。TFEIの介入が予想される場合、いかなる場合も行動に移る前に必ずそうする事が義務付けられている。つまり、新川さんが最初に記憶を失い呆然とした後に、指令を受け胸の内ポケットに手を入れた時には、既に何らかのメッセージがアップロードされていた筈。……だが、それまでの時間は非常に短かった。

「バイブル」を取り出し、電源を入れ、IDとパスワードを入力し、更新ボタンを押す。
……まだ、僕の権限で閲覧できる階層には、直接僕に関するメッセージは無い。

だが確実に、先程のカフェの隣のビルにでも、新川さんを読唇か盗聴して即、衛星にメッセージを送信、同時に狙撃手と店内の機関員に処分命令を出した機関幹部が居た筈だ。恐らく新川さんの変化を見てTFEIの情報操作を受ける前に「衛星」にメッセージを送るには、メッセージを簡略化して幾つかの単語をアップロードする時間しか無いと判断したのだろう。
……森さんと同程度の処理判断力だ。
となると、そのメッセージが解読不能であるとは考えられない。

恐る恐る、予定表ページを見てみる。すると予想通り、僕に諦めさせるに足る言葉が、今日の予定の最後の行に追加されていた。

・2400 零時会議

それは反逆者判定を下す会議。
名前の通り、0時丁度に開会する。閉会するのも0時。いや、24時間続く訳ではない。判定が既に決定された状態で、形式的に開催されるだけだからだ。
そして、処分命令が下されない事に決定した場合は、この予定ごと削除される。つまりこれは実質死の宣告であり、大抵の場合本人は死ぬのが誰だか分かる。だから、諦めて先に自殺するケースが多い。
そして機関の人間は皆、寝不足になる。もしかしたら実は自分かもしれない。よく知るあの人かもしれない。そういった恐怖に苛まれ眠れなくなってしまうからだ。

でも僕は、今夜は睡眠不足になる事は無い。……2度と不足する事は無いな。

これが、機関員間での恋愛が禁止された主な理由だ。機関は、構成員を「処分」する度に、貴重な人材を2人ずつ失いたく無いからだ。


僕はもう一度ポケットから携帯を取り出し、電源を切った。
機関からの呼び出しに応じる訳には行かない。無視するのも面倒ではあるが、静かな場所で位置特定の為に鳴らされる危険がある。

……何より、森さんとは、もう会えない。言うべき言葉も、見つからない。

あの時、長門さんに手を引かれ走り出す瞬間、森さんと目が合った。
その目は喜緑さんに記憶を消された直後の新川さんの目とそっくりだった。
彼女も喜緑さんの情報操作を受けたのだろうか。
……それとも、僕の未来を予測したのか。

機関の追跡から逃れるのはTFEIでもなければ不可能だ。匂いを消し、音を消したぐらいでは何も変わらない。もし長門さんに僕の外見を別人に変えて貰っても多分駄目だろう。……客観的に見て、僕はもう絶対に助からない。奇跡でも起きない限りは……。

……いや、涼宮さんの力は絶対に借りられない。ジョンは必ず止めなければならない。
強大すぎる自らの力の存在を知った涼宮さんの精神が崩壊する可能性がある。わが身可愛さに、涼宮さんを危険に晒すなんて事は出来ない。それに僕らの今までの努力を全て否定する事にもなる。

これは、僕の失敗がそもそもの原因だ。身から出た錆だ。覚悟は出来ている。

そういえば、長門さんに崩壊因子が組み込まれる予定だった時間も、今夜0時だったな。やはり、運命の転機点は重なり易い物らしい。
ふぅ。
思ったより僕は冷静だな。でもその代わりに、僕の隣に座っている彼女が、普段平静を貫き通し感情を殆ど顕にしない彼女が、今は冷静には程遠いピリピリとした威圧感を纏っている。……でも、僕は不思議とそれを怖いとは感じない。


「喜緑さんの新川さんに対する情報操作で、お気付きになられたのですか?長門さん」
僕が訊くと、彼女は真っ直ぐ前を向いたまま答える。

「そう。既に状況は喜緑江美里から伝達され把握している。説明の必要は無い」
少なくとも、彼女の口調はいつもと同じだ。それにしても、彼を介さずにこうもマトモな返事が貰えるのは、初めてではないだろうか。
「喜緑江美里が、記憶の改変が間に合わなかった事について、あなたに謝罪したいとの事だった。ただ、その瞬間喜緑江美里は他に優先度の高い3つの状況に対応していた。記憶改変が間に合わなかった事自体は仕方が無かった。喜緑江美里の責任は、私を騙した事と、密かにあなたに協力させた事」

「ですが、僕が協力しなければ長門さんが。喜緑さんも長門さんに好意を持っている様ですし、助けたかったのでしょう。僕も、同じです」
「……」
長門さんは納得していない様だ。威圧感がピリピリからビリビリに変わった様に感じる。
……そう考えていると、突然彼女が言った。

「あなたの組織の戦略と戦術は、大抵の場合に於いて合理的且つ効果的」
確かに。
「……そうですね。そうあなたが言ったと上層部が聞いたら、最高の賛辞と受け取るでしょう」
「そうじゃない。私は誉めていない」

そういう意味か……。僕の胸に熱い物が込み上げてくる。彼女は、機関の冷酷さ、理不尽さに対して憤っているんだ。……僕のために。
少しの驚きと、諦観に裏打ちされた喜びを以って彼女を見ていると、彼女は彼女にしては大きく、しかし客観的に見て微かに俯き、その後少しだけ僕の目に目を合わせ、
「……礼を、言う」
ポツリと言った。
狭い空間を圧倒していた彼女の怒りが、引き潮の様に感じられなくなって行く。走行中のタクシーのタイヤの音が、急に大きく、耳に響く。

「やめてください。そもそも全ては僕が招いた事で、僕があなたを巻き込んでしまっただけです。……僕があんな怪我さえしなければ……」

「私の処分が検討された事に関し、私があなたの肉体を修復した事実は間接的要素でしかない。その上あなたはあなたの責務を果たそうとして負傷した。その責任の一端は私にもある。私が事前に彼らの諍いの原因の重要性を正しく理解していれば、あの様な事態には陥らなかった」

こんな話をしていても、運転手はまるで耳が聞こえないかの様に関心を示さない。実際に聞こえていないのかもしれない。

「長門さん。どうか、ご自分を責めないでください。長門さんは出来る限りの事を僕にして下さいました。喜緑さんも。……不甲斐無いのは僕の方です」
「違う。個が対抗出来得るならば、組織に存在価値など無い。あなたこそ出来る限りの事をしてくれた。それに、私の番はまだ終っていない」

長門さんが言うと、重い説得力を孕む言葉だ……。というか、気を遣ってくれているのか。長門さんが、僕に。……。

「では、僕は僕のしたいことをしただけです。あなたが昨日今日と僕を助けてくださったのと、同じで。更に言えば借りは僕の方が1つ多い……最早この借りを返せるかどうか、分かりませんが」

「……私はただ、指示に従っただけ」
「いいえ。あなた自身も僕を助けたかった。そうでもなければ、特に先程のは絶対に間に合っていない。ですから僕もあなたに礼を言います。ありがとう。長門さん、嬉しかった。……でも、本当はこんな言葉、足しにもならない。言語では表現の深度に限度がありますからね。あなたには釈迦に説法でしょうけど」

「……」
彼女が僕を見た。透視できなくても、これぐらいなら彼でなくても分かる。
ならば、言葉はもう必要ない。……だ。
これは彼に向けられる無言と同質の物だ。根源となる感情は別種だけど。

とても嬉しいけど、僕に残された時間は余りに短い。
ここに来て、この長門さんの意思表示は、ただ僕の喪失感を強くさせた。


「ところで、何故朝比奈さんを?」
「……私の部屋には今、彼も居る」
「僕もこれからそこへ?」
「……」
「何故です?」
誰にも、無駄に辛い思いはさせたくない。

「…………」
彼女はまた無言になった。
ただ今度のは、何だか僕が話し掛けるのを拒絶する雰囲気だ。

……困ったな。
彼らが僕を助けようとしてくれたら、それは、まあ確かに、嬉しい。
でも、ダメだ。どう考えても、無理だ。
彼らが僕を助けようとしても、失敗して余計に傷付くだけだろう。

今、僕が出来る事は2つしかない。
この運命を受け容れず、否定し、目を背け、自分を貶めるか、
全てを受け容れ、静かに待つか。


……しかしまさか、あの老人が新川さんの変装だったとは。全く気付かなかった。
それに、あの目。ウィンドウに映った、彼のブラックホールの様な目。あんな物は今まで見た事が無い。
その後の彼の行動を見ていても、命令に従い僕を「処分」するのに一片の躊躇も無い様子だった。

……そう言えば、森さんからこんな話を聞かされた事がある。

僕達が擬態の人格を作る時、鏡の部屋の中で1週間から1ヶ月間という長い時間を掛け、自らに一種のマインドコントロールをする。そうして本来の自分の性格では「なり切れないもの」、「嫌いなもの」にもなれる、本来の自分とは違う嗜好と性格を持った擬似人格を作り出すのだ。それが擬態だ。
でも、擬態中も本来の自分がそれを俯瞰で見ている様な感覚が常にあり、あまり本来の自分と価値観の掛け離れた行動は、やはりできない。

そしてここからが本題だ。以前に、薬物を使って人によっては長過ぎるその擬態作成に必要な期間を、強引に短縮しようという研究があったそうだ。
成功例もあったらしい。しかしその薬物は、人によって効果に顕著な差が生じた事と、その薬物に依って生まれた擬態は完全に本人の精神から乖離し、本物の多重人格者になってしまう危険が付き纏う事が判明した為、その研究の継続は機関の中でも表向き禁止された事になっている。

その乖離した人格は普段の記憶も全て持っているが、元来の人格はその乖離人格で居る間の記憶が全く無い事と、本人はその人格の存在を感じ取れない事から「上位人格」と呼ばれる。
そして、上位人格を持つ人間は、他の擬態も徐々に差別化が進み個性的になり、本物の多重人格者に近付いて行く。

森さんはそう言っていた。

そういえば新川さんの擬態は音楽の趣味、食べ物の好みまで違う。能力まで。全て彼が意識してやっているのだと思っていたけど。ただ、今考えてみれば、どうして森さんがそんな話を僕にしたのか。ガラスに映ったあの彼がその上位人格だったと考えれば、辻褄が合う。彼女は先程「新川」と呼んだ後、「アイツ」と言い直していた。
つまり、森さんは知っていたのだ。新川さんの上位人格を。そしてアレは、恐らく新川という名前ですらないのだろう。

機関が今まで、新川さんの上位人格に何をやらせていたのか。考えなくても判る。
……なんと云う惨い事を。普段の新川さんは根っからの善人なのに。
確かに、奇麗事だけではどうにもならない物事は存在する。創設当初の機関の混乱を収めるには他に方法が無かった事も理解できる。しかし……。

あの目は……。機関の闇そのものだった。
簡単に透視できた。簡単に透視できたが、何も読み取れなかった。全く感情のある生き物には見えなかった。……目を逸らせなかった。虎と目が合ってしまった野兎の様に、目を逸らした瞬間狩られるのではないかという恐怖に捉えられ、身動き一つ出来なかった。
何の感情も持たず、指令を受けたら直ちにそれを実行する。ただそれだけだった。あれこそ正に情報統合思念体が求めている「人材」かもしれない。
だから平時の新川さんの表情を一瞬見せられた時、不覚にも安堵して自分の置かれた状況を全て忘れ、我に返って、見せてはならない記憶を思い出してしまった。

悔しい。

……ごめん。森さん。僕はどうやら一番肝心な所で失敗してしまったよ。

ごめん。僕の意志力では運命に抗うには足りなかった。

僕は残された時間、なんとしてでもあなたを避けなければならない。
あなたが何をしようとするかぐらい、見当が付くんだ。

さようなら。森さん。出来る限り早く忘れて下さい。


僕が全てを受け容れると、胸ポケットの中身が、僅かにその重さを増した。



第8話「オセロ」へつづく

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