私の選んだ人 第8話 「オセロ」


「今から約19分前、古泉一樹が、情報統合思念体と『機関』の間で半ば暗黙の了解的に認知されている停戦協定に於ける、現時点で設定されている有効期限以後に、わたしの自律行動を停止させようとする情報統合思念体内部での動きを取り消させた。それを受け、『機関』は今回の古泉一樹の行動を明確な叛逆行為であると結論付け、ルーチンに従い今夜12時0分0秒にその処分命令を下す事を予定している」

状況が把握できていない俺、心なしか怒っている風な長門、先程から落ち着きも無く血の気の失せた白い顔の朝比奈さん、珍しく笑顔のストックを切らせているらしい古泉の4人は、長門の部屋のリビングで布団を外されたコタツテーブルを囲み座らされている。
配置は俺の正面が長門、右側が朝比奈さん、左側に古泉。っとまあ、一応参考までにな。

んで、最初に口を開いたのがこの会の主催である長門。そしてその主催者による開会の挨拶が、今のだ。

そもそも俺達が今こうしてハルヒを蚊帳の外にした鬱パーティを開催している理由も俺にはサッパリ見当が付かんのだが、今の長門の発言の意味もまるで解らん。長門にしては長台詞で、1つ1つは辞書がなくとも一応理解できる単語で構成されていた。これは恐らく俺にも解るように説明しようとしているんだろうが。……ははは。誰か解るなら教えてくれ。礼と言っては何だが長門手ずから淹れた煎茶の残りぐらいならやるぞ。どうだ?俺の飲み残しでよければ、だが。
……ああ悪い。前言撤回だ。一滴も無かった。今飲んじまったからな。

喉もほどよく潤った所で、とりあえずこうなった経緯を説明しておこう。

今朝登校した俺に例によって懸案事項が降りかかった。敢て説明するのも煩わしいが、朝比奈さん(大)が俺の下駄箱に直接投函した手紙だ。いや、投下されたと言ったほうがしっくりくるか。

どうせ知りたくもない内容であろう事は、マイ上履き上に設置された異物を目撃した瞬間から予感していたが、まあ、目に入っちまった物は仕方ない。まさか便箋ごと破って捨てたり、下駄箱ごと爆破したりする訳にも行かないだろ?迷わず俺はその淡いピンク色の爆弾をブレザーの内ポケットに捩じ込み、爆弾処理場、もとい学校唯一のプライベートスペースへと足を向けた。

そして、男子トイレ個室のドアをロックした俺が投げ遣りに開封したその手紙には、既に見慣れた丸っこい文字でこう書かれていた。

『今日はSOS団にとって、本当に大変な1日になると思います。
長門さんを気にかけてあげてください。
例によって詳しい事情は書けません。ごめんなさい。
でもキョン君なら大丈夫だと信じてます。  みくる』

……またですか。また、肝心の部分が何も解らない、当てる気のない占い師が書いた風合いの怪文書ですか。ここまで予定通りだと実は俺の方が未来人なんじゃないかと思うぜ。
大体こんな説明にもなっていない情報だけ押し付けられ闇雲に「信じてます」と云われましても。嬉しくも無ければ荷が重いだけで、結局俺の頭、肩、気分、授業中限定で瞼(ってそりゃいつもか)、を重くさせる効果しか生じないのですが。……相変わらず、可愛らしいのはレターセットと丸文字と本人のお姿だけで、書かれている内容は俺を心底不安にさせてくれる。


それでも、未来の彼女もまだSOS団を心配してくれているらしい事も伝わってくる文面ではある事だし、長門に気を遣えと言われ俺に否やは無い。むしろこれ以上どう気を遣えばいいのやら分からん程なのだ。少なくとも自分ではそのつもりだが……。まあやってみるか。と、そう思った。


授業も終わり、文芸部室での平穏無事ならぬ平穏無為なる時間が過ぎ……とも言い切れない個人的で些細な事件に見舞われたりもしたのだが主旨から著しく外れるため割愛する……団長閣下様によるありがた~い本日解散命令が下知された後、俺はタイミングを見計らって部室を辞する事で、要領良く長門と並んで下校する事ができた……のだが、そこからが良くなかった。
何しろ、よくある星座占いの「今日の運勢」と似たり寄ったりな内容の手紙一枚を読んだだけで十を知る事が出来る程には俺の頭は出来が良くない。仕方もなしに「最近どうだ」やら「何も問題無いか」など、要領を得ない事この上ない質問を投げ掛けるしか無かった俺は、予想通り、何の目新しい情報も獲得するには至らなかった。

その時の俺に対する長門の返答は、一貫して「普通」「問題無い」「大丈夫」「そう」「……」の5択で、それ自体は長門のステータスがノーマルである事を示すハズなのだが、俺はどうにも心に引っかかるものを感じていた。長門が何か俺に隠している様な気がしてな。それも「本当は言いたいのだが禁止されている」といった雰囲気に感じられ、どうにも収まりが付かず、そのまま長門と俺の帰路の分岐点に到達してしまった俺は、理屈の説明できない焦燥感に捉えられ別れそびれていたのだが……。

立ち去ろうとする長門を引き留めて無意味な質問を繰り返すこと数度、長門から「来る?」との提案を受け、それを「帰る前に、自分の家に寄って行くか?」というセンテンスの長門風省略形だと解釈した俺は、二つ返事でそれに同意し、図々しくも無理やり引き摺り出した感のある招待に甘える事にした。

んでまあ、長門の部屋に上げて貰ったはいいが、特に気の利いた質問を考え付きもしなかった俺は、なんら進展無く、何ひとつ聞き出せぬまま徒に時間を過ごし、煎茶を振舞われ、あまつさえ夕食まで馳走になってしまった。

ちなみにその夕食の献立は、何故か塩コショウのみで味付けされた骨付きステーキ2枚(1人前が2枚だ)と、ライス大盛、巨大な皿に威風堂々と聳え立つキャベツ千切りの山(標高20cm超)と、ナノグラム単位で均等に4等分されているであろうトマト1つという、大胆、且つ、局所的に精密極まりない物で、今回は一応長門の手料理というのもあり、俺の感動がスパイスになっていた為か、長門が上手に焼いたのか、世辞ではなくかなりうまかった。量については流石に「異議あり」だったが、結局俺はどうにか全てを腹に収め、結果として胃腸が突然の暴食に対する囂々たる非難を強い圧迫感を以って表明している。が、馳走になって置いてそんな事を云うとは、無礼者め。……帰宅した暁には必ずや胃散攻めにしてくれよう。覚悟しておけ。


まぁそんなこんなで、結局俺は長門に気を遣うどころか逆に世話になりっぱなしな上、どうも長門の俺を観察する目付きが、何年か前に妹が夏休みに育てていた朝顔を監視していた時の目に酷似している事に気付き、落ち着かない気分になり始めた頃合だったか。突然立ち上がった長門が「帰らないで待っていて」と、不可解な発言を残してトイレの方角へと消え、待つ事おおよそ12分。俺がそろそろ不安を感じ始めた辺りで、トイレへ向かったハズの長門が玄関から古泉を連れて戻って来た時には驚いたね。……1つだけ確かなのは、少なくともトイレではなかったって事だ。

突然古泉を連れ戻った理由に関しても一言の釈明も無く、しかも何やら謎に重苦しい雰囲気の中、「もう少し」とだけ言われた俺であったが、流石に何かが起きたって事ぐらいは察した。まあ、朝比奈さん(大)の手紙もあったしな。
そして待つ事更に数分。俺がなんとなく思っていた通りに朝比奈さんが到着し、今に至る。以上、説明終わり!


なにやら前置きがやたら長くなっちまったな。つーことで、ここいらで恐らく多分重要らしい気がする最初の長門の長台詞を改めて思い起こしたい。……所なのだが、理解していない物は当然覚えられないというこの歴然たる事実。テスト期間の都度思い知らされている身である。無理なものは無理だ。無理が通らなければ道理のみが有効性を持つのだ。しかし言ってる本人もよく意味が解らん言い草だね、これは。

今回の長門の説明は、朝比奈さんの反応を見る限り、俺以外には十分理解できる内容だったらしい。先程の長門の第一声を聞いた途端、ここへ来た時から既に不安げに眉を寄せ俯き加減だったその愛らしいお顔が、みるみる内に真っ白になった。心配なのだが、声を掛けるのを躊躇わせる重苦しい雰囲気が朝比奈さん自身を含めたこのリビングを押し包んでいる。


「あー。長門?悪い。さっきのは一体どういう意味だ?もう少し俺にも分かる様に説明してくれ。頼む」

完璧なフォームで正座した長門の白い顔だけが廻り俺を捉えると、薄い唇を小さく開き、
「古泉一樹が、『機関』の意向に反し、未来のわたしに対して延命措置を施した。このままでは今夜12時に古泉一樹は処分される」
と、断言した。
……ありがとう、長門。今度は判ったぞ。……俺には全く解らないって事がな。

「すまんがまるで解らない。意向とはなんの事だ?んで、未来の長門の延命措置?それから処分だったか」

「彼らが自らを指し『機関』と呼称するその組織は、わたし、あなた、涼宮ハルヒ、古泉一樹が、現在持つ高校生というステータスから開放された後の未来のわたしが自律行動を維持できないのならば、それは彼らに取ってプラスに働くと判断している。古泉一樹はその『機関』の意向を知りながら、意図的にわたしが自律行動を維持不可能になる予定を打ち消す作用を及ぼす行動を取った。それは『機関』への叛逆行為に当たる」

ううむ。これではどうにも。……と、俺を見兼ねたのか助け舟を出してくれたのは、いつものスマイリング・ウンチク垂れ流し野郎ではなく、セラフィック・スマイルの持ち主、朝比奈さんの暗く沈んだ声だった。

「長門さんが、みんなの卒業後に、そのぅ、……統合思念体に……される予定を、古泉くんがキャンセルさせたんです。でもそれは、『機関』を……裏切る事で……」
天界から追放されたばかりの堕天使的な顔付きをして、俯き、ボソボソと喋る朝比奈さんは、まるでアルマゲドンの到来を知らされた様な雰囲気を体現している。これは本気でタダ事ではないらしい。……やっと俺の危機管理ゲージの針が、イエローゾーンからレッドゾーンに入る。

「長門を処分だと?……だが、それはもう解決した。んで、長門を『助けちまった』古泉に、『機関』がケチをつけている。と……。何もかも納得できんのだが」

俺の知らない間に何やら大変な事があった様だ。が、俺が何を言わずとも、古泉の奴、長門を助けたって事らしい。「長門さんが窮地に陥った場合は、一度だけあなたの肩を持つ」とかなんとか、勿体付けやがった癖にな。まあ、そんな所だろうとは思っていたが。
そこまではいい。見直したぞ古泉。……だが、そもそもが長門を処分される予定ってのも納得いかんし、それを助けた古泉が『機関』に処分を受ける?なんだそりゃ?

「先ず確認するが、なんでまた長門は処分とやらをされる予定だったんだ?」

「わたしが犯した失敗が原因。それより今問題にすべき事は他にある」
「僕が原因です。長門さんは僕を助けて、その様な窮地に」
……長門と古泉が全く同時に、正反対の答えを返した。
おいおい。噛み合ってないな。だが、責任の引き受け合いか。……長門と古泉の親玉共にも、この2人を見習って欲しいもんだ。

自分が喋りながら同時に発言した奴の言葉を理解するという、当然今更驚きはしないがこれまた器用な事をやって退けた長門は、いつものスマイルの代わりに穏やかな真面目顔を晒す古泉へと向き直り、淡々と話し始めた。
「……古泉一樹。わたしはさっきも言った筈。それは直接的な原因ではない。根源的要因は情報統合思念体の対有機生命体インターフェースとしてのわたしに対する不信に因る物であり、直接的にはわたしが森園生の思考速度を見誤った事に起因する」

しかし、先程から長門が苛立ちを抑えている様に感じられるのだが……。いや、気のせいでも無さそうだな。だが何故ここで森さんが登場するのだ?

「それでしたら、長門さんの確実に僕の命を助けたいというお気持ちが判断力を鈍らせたとも……。こう言っては自意識過剰と受け取られるかもしれませんが。それに森さんはああいう方ですし、予測出来ませんよ」
「どちらにせよわたしのミス。あなたが責任を感じるべき事ではない」

森さんはああいう方ってのが、一体どういう方なのかが非常に気になる所ではあるが、それ以前にもっと気になる事がある。
「あー。取り込み中の所悪いんだが、待ってくれ。命を救われるには、順番としてまず死ぬ様な目に合わなければいかんと思うのだが?そりゃ何か?比喩的な物か?」

「いえ、喩えでもなんでもありませんよ。実際に僕は死ぬところでした。長門さんが助けて下さらなければ、僕は今ここに居なかったでしょう」

……おいおいおい。また「冗談です」とか言うんだろ?大体なんで死に掛けたり…………って、まさか!?
「そう。そのまさか。昨日の閉鎖空間内での負傷が原因で、古泉一樹の肉体は多くの器官が機能を停止、又は機能不全に陥っていた。わたしが情報統合思念体の指示を受け、元通りの状態にまで修正不可能になる寸前に、肉体の損傷を修復した」

それを聞いた朝比奈さんが、自分の膝を見つめたまま小さく「やっぱり」と呟いた。
……昨日の閉鎖空間って事は俺のせいか?やはり、それは。いや、完全に俺の責任だよな。……すまん。古泉。謝って済む事でも無いが……どう言ったらいいか解らん。

「いえ。怪我をしたのは僕の責任ですから」
「……指輪という物の重要性について認識が不足していたわたしの責任は看過すべきではない。あなたの働きが無ければ、この世界が崩壊し、涼宮ハルヒを消失していた可能性もあった。それを未然に防ぐのはわたしの役目でもある」

どうだかな。長門よ、お前さっきから全部自分の責任だと言っているぞ。少し気負い過ぎてやしないか?もう少し仲間を信じろ……と言いたい所なのだが、実際俺は何かあった事すら気付かなかったし、それどころかどうやら全ての問題の原因、即ち昨日の閉鎖空間の原因すら作っちまってた。とてもじゃないがそんな偉振った上に無責任な口は利けん。……悪いのは俺だ。

しかし確かに、昨日の古泉の電話はかなり変だった。……古泉らしくないと言うべきか。いや、逆に「らしい」って言えば「らしい」んだけどな。……あー。自分でもよく分からなくなって来たぜ。まあいい。
とにかく、あの電話の後俺も不安になってハルヒの機嫌を取っちまったぐらいだしな。何かがいつもと違った事だけは確かだ。ハルヒの機嫌取りだけで言えば、どちらにせよ俺も言い過ぎだったってのもあるし、結局電話はしていたかもしれんが……。言い争いしたままってのはどうにも寝付きが悪いからな。相手が誰にしろ。

だが、まさか古泉が俺とハルヒの諍いのトバッチリを食って死ぬ様な大怪我をしていたとは、な。

……ハルヒの奴。何があっても死人を出す様な事だけは絶対に無いと俺は思っていたのだが。そう信じていたと言ってもいい。……それを、指輪がどうとかなんとか、そんな下らねえ事で古泉を殺しでもしてみろ。死ぬまで許さねぇぞ。……一生長門に感謝しろ。
しかし実際に感謝も謝罪もさられないのは、やりきれん。クソッ。早く帰ってシャワーでも浴びたいぜ。胸糞悪い。

「ところでな、長門。お前が消されでもしたら俺が何をするって言ったか、お前の親玉は忘れちまったのか?それについては何か聞いてないか?」

……ギリリッ

突然大粒の飴を噛み砕いたような音が、俺の発言に因って静寂に支配されたらしいリビングに響き渡った。
音の出所、古泉の顔を見た俺は驚いた。どう見ても、今のコイツの顔に浮かんでいる感情は、怒りだ。いや、激怒と言うべきかもしれない。
しかもそれだけに留まらなかった。言葉を絞り出すようにして話し始めた古泉の顎が小刻みに震え、内側で荒れ狂う感情の揺らぎが見え隠れすらしている。古泉がこれ程までに露骨に感情を顕わにするのは初めて見た。2重の驚きだ。

「僕からあなたに……。一生のお願いがあります。これだけは、どうかよく覚えて置いて下さい。もし今後、長門さんが急に普遍的な人間の様に振舞い始める事があったら……、それは喜ぶべき前兆では無いかもしれない。覚えて置いて下さい。……どうやっても消す事ができない程に」

……は?
ええと?まてまてまて、まて。
普遍的人類の様に振舞う長門ってのは、正に俺が選択しなかった世界の、あの長門だよな?

あの、恥かしがり屋で、はにかんだ微笑を浮かべながら俺に入部届を差し出した長門。いいじゃないか。この部屋と朝倉から逃げ出そうとした俺を、引っ込み思案過ぎて声も出せず、後ろからちんまりと制服をつまんで引き留めた長門。いいじゃないか。長門自身もそうありたいと願ったからこそ存在したんだろ?俺もあの長門は正直本気で魅力的だと思ったぜ。いや、今が魅力に欠けるなどとは決して言っていないが……。とにかく、それが、喜ぶべきではない?何故だ?抑圧された感情を今より表現出来る様になる事の、何が悪いんだ?人間らしい長門の何が。

長門が普通の人間らしくなったら、確かに今ほど諸々のピンチは凌ぎ易く無くなるだろうが、そん時は俺達みんなで一緒に問題にブチ当たり、一緒に悩んで、一緒に乗り越えりゃいい。乗り越えられなければ慰め合えばいい。それの何が悪いんだ?
そりゃあ、辛い思いをして泣く事もあるかもしれない。挫折を味わうかもしれない。人間ならな。でも、俺は長門も笑ってもいいと思うんだ。それの何がいけない?いや、何がそれ程までに古泉の怒りを掻き立てているんだ?

普通の人間なら、笑い、泣き、悲しみ、喜び、そしてまあ確かにいつかは……いつかは……?
そして、そうなる?……のか?つまりその…………マジか!?
お、おい。……それってつまり!?冗談じゃ……ねぇぞ!?オイッ!?

ズバァァン!!!!!

その時、長門が思い切りテーブルをぶっ叩いた。無表情のまま。
TVドラマでだってテーブルを叩くのにあんな効果音は付けないだろう。これはむしろショットガン用の効果音だ。テーブル上の急須と湯飲みが跳ね上がった程だ。今のが無ければ、古泉の言葉の意味を理解した俺は完全に怒りに飲まれていただろう。
朝比奈さんも体全体をビクッと震わせ、手と腰を浮かせて今にも泣き出しそうにオロオロしているし、古泉だって怒りの形相を消して瞠目している。俺?なんとかギリギリ漏らしはしなかったが……。

「今は優先すべき問題がある。わたしの話はもういい。済んだ事」
「そうは言ってもだな……」
「わたしはもういいと言った。時間が無い」

淡々とそう言う長門の顔を見ると、一見いつもと変わらない無表情をキープしているのだが、その目の奥で何かが波立っている。静かに見える水面下で猛然と逆巻く荒波の様相だ。いや、これは誰だって判る。先程のテーブル平手打ちが無くとも、シャミセンだってこの雰囲気は察するだろう。明らかに長門が今、激昂している事ぐらいは。
なんだなんだ。どうしたんだ?こいつら揃って怒りウイルスにでも感染したのか?

「……解った。長門。とりあえず今は古泉がまずいんだったよな。良ければ長門の話についてはまたその内教えてくれ。で、古泉はどうヤバいんだ?こう言っちゃなんだが、長門の協力があれば大抵の事はなんとかなる様に思うのだが」

「あなたは理解していない。『機関』は、あなたの考えている様な組織ではない。わたしの能力に関する知識も対抗策も持っている」
「俺の考えている様な組織ではない?長門、度々すまんが具体的に説明してくれ」
「長門さん、その話を彼にする必要は」
「必要」
「……そうですか」

俺はどうやら古泉が隠して置きたかった何かをこれから知らされるらしい。落胆した古泉を見るにそれはかなり深刻な事柄なのだろう。俺はまだよく解っていないなりに緊張し生唾を飲み込んだ。

「おい、何の話だ?『機関』とかいう超能力者の元締め連中の事ならば、金が捨てるほどあるってな事と、あまり信用できん事ぐらいなら俺だって知っているぞ。まぁ、古泉は信用してやらなくもない。この際、森さんと新川さん、多丸圭一さん裕さんも一応信用する側にカウントしてもいい。だが、古泉が長門を助けたってのは、それとは直接関係ないだろ?」

「創設以来、『機関』は有機生命に取って最も根源的とされる恐怖に依って統率されている。問題は、彼らが裏切り行為を許容しない事、有機インターフェースの能力と限界をかなり正確に把握し、対策を持つ事」

……おいおいマジでか?どうやってただの人間が長門に対抗するってんだ?だがまあ、長門がそんな嘘は言わんだろう。で、恐怖?……益々『機関』が解らなくなって来たぜ。それにしても裏切りやら叛逆やら、さっきからその様な意味合いの言葉を何度か聞かされているが……。
「……裏切りとな?だがな、聞けばそもそも古泉は長門に命の借りがあるんだろう?いかな『機関』だろうと、その個人的な借りを返したぐらいで裏切り者呼ばわりはないだろう」

「情報統合思念体が渇望するデータを涼宮ハルヒから抽出する過程に於ける状況が、『機関』の存在理由と衝突する可能性が高い。情報統合思念体と『機関』は共生不可能な存在であり、貸し借りといった概念は適用外」

長門と俺の言葉の遣り取りを、当事者の古泉と、予備知識がありそうな朝比奈さんは無言でただ見守っている。
片や、冷静に、どこか達観した様な雰囲気で。
片や、見る見る内に憔悴して行き、正視できない様な状態で。
その様子が目の端に映り、俺はかなり本気で焦り始めていた。こめかみの辺りから汗が一筋、顎に向かって流れる。

「ええとだな、つまりあれだろ?長門の親玉はハルヒのイカレパワーを見たがっているが、『機関』としてはそんな事で世界がイカレちまったら困る。だから貸し借りを作らないって事か?悪い、長門。俺が今言いたいのは、情報統合思念体と『機関』の話ではなくてだな、今回はお前達2人の間の問題だろうって事なんだが」

それまで黙って俺と長門とのやり取りを聞いていた古泉が、諦めた様に口を挟んだ。
「……僕も、そう話が単純ならばどれ程良かったかと思います。しかし、長門さんと僕は、それぞれの組織の思惑を背負い、言うなれば最前線へ派遣された身です。『機関』と情報統合思念体は、今は互いの利害が一致している部分もあり、一時的な停戦協定を一応結んではいますが、それも協議の末正式に締結したような類の物ではなく、口約束に近いものですし、その関係性は信頼を基にした物ではなく、互いに協力した場合の利益と敵対した場合の損害を計算しているからに過ぎません」

「……だが、お前らの親玉達がどう考えていようと、その前に、お前ら自身は、お前ら自身だろ」
「僕達からしてみれば、仰る通りです。ですが、僕らの『親玉達』からして見れば、それは全く逆です」
「つまり、個人を尊重しねぇって事か。組織の方が大事だっつぅ事か」
「そうです。大義の前には多少の犠牲も止む無し、です」
「なんだそりゃ。戦争映画の見過ぎか?」

「そして今日、古泉一樹は、停戦協定失効後のわたしの自律行動を守った。わたしの場合とは根源的意味合いに差異がある」
「いいえ。根本的には、同じです」
「……」

なんとなく、俺の理解力ですら事の次第のヤバさが解り始め、今まで散々韜晦していた身でありながら、逆に古泉がどうしてこうも悠長な事を言っていられるのか不審に思い始めた。……お前自身の事なんだろ?
古泉が処分を受けたらどうなるんだ?コイツの態度から察するに転校…いや、もっとこう、ロクでもない罰則があるのかもしれん。いきなり副団長が転校するってのはハルヒとしても許さないだろうな。俺も許さん。コイツの独善的推論ショーは2度と聴講できなかろうが喜ばしいのみだが、いきなり賭けゲームで小遣い稼ぎする相手が居なくなるのは困るからな。

「ああ、もう面倒くせえな!さっきも言ったが、個人的に恩を返す事のどこが悪いんだ?俺は今回ばかりは古泉の肩を持つぜ」
「だから、わたしはあなたは理解していない。と言った。『機関』はそもそも敵に救われた事自体認知しない。わたしの利益になり、『機関』の利益を損なう行動を古泉一樹が取ったならば、それは単に1つの叛逆行為でしか無い」

「だがな、長門。お前がお前の親玉に消されちまうかもしれなかったんだろ?それを、古泉が少し助けてくれた所でまさか命までは取られないだろう?」

「取られる。『機関』に反逆者と判定された人間が、その後生命活動を継続維持した平均時間は約1分17秒」

「…………は?」
……いや、だが、長門がこんな愚にも付かない冗談や、間違った事を言うハズが無い。俺はとりあえず自分の耳を疑った。次に頭を疑った。

「最短0秒。これは予め本人が自殺するケースと、正式に判定が下された時点で『処分』が完了していたケース。92%がこれに当たる。最長生命活動維持記録は29分32秒。全て事故死とされている。その情報はメディアを通して意図的に拡散させられ、他の構成員が同様の行為を繰り返さない為の心理的な枷の役割を果たしている。黎明期の『機関』は非常に混乱しており、このような人類社会学的に原始的と分類される手段を採らざるを得なかった。最近では全く叛逆者判定を受ける人員は出ていない事から、彼らの期待通りの効果を上げていると言える。また、『機関』の体制が確立された今、既に不要な罰則であるとの意見も多いが、『機関』の構造的にも軌道修正が難しく、技術的な問題もあり、今日までその規則は生き続け、構成員の生命を奪い続けている」

真っ直ぐ俺を見ながら話す長門の目は、俺が見ても真剣そのものだ。だが、すんなり受け容れられる話でもない。

「冗談……だろ?おい、古泉?」
驚愕する俺を余所に、冷静に聞いていた古泉はやがてゆっくりと口を開く。俺の中にはもう朝比奈さんの顔色を気に掛ける心の余裕はもうどこにもない。
「流石、長門さんですね。そこまでの詳細もご存知でしたか。……僕としては、彼には最後まで隠し通すつもりだったのですが」

「そりゃ、マジで言ってんのか……古泉」
頭がクラクラしてきやがった。

「残念ながら、本当です」
今日こそコイツ、一発殴っとくか。

「テメェ……。だから、アン時1回だけつったのか?長門を助けて自分は死ぬってか?……お前、そんなつもりで助けられて長門が感謝するとでも思ってんのか?長門を何だと思ってんだ?……俺達を何だと思ってやがるんだ?」

ここまでは感情を抑えて言った俺はしかし、既に爆発寸前だった。古泉がいつもの調子で「スミマセン」なんて軽く謝りやがったら、本気でブン殴ってやるつもりだった。理不尽なのは百も承知だ。だが、どうしても許せなかった。特に長門の気持ちを考えてねぇ事、事前に俺達に何の相談も無かった事は許せなかった。
ところが、俺に向け静かな視線を注いだ古泉は、どこか諭す様な響きのある口調で、俺の質問に質問で返すという無礼を敢て犯した。

「ならばあなたは、命の危険に晒された涼宮さんが、あなたの犠牲でのみ、しかし確実に命を取り留めると判っていたら、どうなさいますか?」

「なっ……」
それは酷く物静かな口調だったのにも拘らず、俺は物理的に頭部を殴打されたかのような衝撃を受けた。

「実際その時になってみなければ判りませんか?ですが、僕にはそのような悠長な事を言える時間も、他に選べる選択肢もありませんでした。僕は確かに、『機関』の人間です。SOS団へも『機関』から派遣され、潜入しました。しかしあなたの仰る様に、それ以前に僕は僕だ。SOS団の皆さんは既に、僕に取っては嘘偽りなく掛替えの無い友人なんです。自分を犠牲にしてでも助けたいと思える程度には。……それにあなただって本当はその時ご自分がどうされるか、理解されていらっしゃるのではないですか?」

俺はうろたえた。コイツが言っている事に、俺には反論の言葉の持ち合わせが無いってのもある。
しかし、主にはさっきから古泉が平然としていた理由がやっと判ったからだ。
古泉は……コイツは諦めの境地に居やがる。……この野郎、マジでもう死んだつもりで居やがんだ。

「ただ確かに、僕は1つあなたに謝罪しなければなりません。僕が「1回だけあなたの肩を持ちます」と宣言した時、確かに僕はあなたが仰ったように、自己犠牲により長門さんを救うといった独善的で自己陶酔的な考えも持っていました。ですが僕はその頃から少し変わりました。……今更こう言っても信じては頂けないかもしれませんが、僕も決して無為に死にたい訳ではありませんし、今回の件も、うまく行けば何の問題も残さず全てが丸く収まる予定ですらあったのですが、力及ばず……申し訳ありません。長門さん」

「まだ諦めるのは早いだろうが。……ならば、こういうのは」
「無駄」
長門が鋭く俺の言葉を遮った。
「……まだ何も言ってないのだが」
しかし続く長門の言葉は、正に俺が云わんとしていた事に対する回答だった。

「今のわたしのいかなる能力を使用しても、『機関』を完全に出し抜く事は不可能。『機関』は我々有機ヒューマノイドインターフェースの解析を行い、我々のいかなる情報操作に依っても改竄不可能なデータベースを、2年前の11月に完成させた。衛星間リンクを使用し、地球周回軌道上に12基ある完全コピーが相互を監視している。『機関』がその方針の変更が出来ない事態に陥っているのも、昨年5月からその衛星の持つ情報が改変を受け付けない状態で固定化されているから。わたしには、涼宮ハルヒの力を利用する他にそれらを同時に改竄する方法が無い。しかし、今のわたしは暴走でその能力を行使してしまわないように封印している上、平常時のわたしは情報統合思念体の許可無くして涼宮ハルヒの能力を利用した情報改変を行えない。……許可は下りない」

『機関』の連中は、長門達の干渉を恐れて自ら自分らの首を絞めたって事か?なんつー間抜けな話だ……。
ん?何やら古泉の野郎が驚いた顔になっているが、まさか、コイツも知らなかったんだったりしてな。……と、思ったらどうやら図星だった様だ。あろう事か古泉は、対長門用衛星についての情報を、その長門自身に質問し始めた。情報統合思念体もだが、『機関』も大概狂ってやがるな。

「……全く変更はできないんですか?」
「今は。最初からその様に設計されていた訳ではない。元々情報通信プログラム内に存在したバグと人為的ミスが重なって現在の状態になった」
「そんな……それでは余りにも。全てが解決されるまで、彼らが希望を持つ事は許されないのですか?」

「『機関』の衛星情報システムは、過半数が動作不良に陥った場合は全基が地上からの直接操作を待機するよう設計されている。そして今から68時間後、比較的小規模な太陽嵐のコロナ質量放出の影響で、12基ある衛星の内、8基までがその情報通信機能を停止する。それを修復する際に同時にバグも修正される公算が高い。あなたも安心していい」

「太陽嵐が起きるんですか?それは大変だ。……衛星については安心しましたけど。しかし、皮肉ですね。なにせ一度完全に壊れる事でやっと正しい状態に復旧できる訳ですし、TFEIからの情報改竄を恐れて作られたシステムなのに、僕よりあなたの方が余程詳しい」

コイツも自覚はあるんだな。

「……我々が生きる事自体、皮肉であるとも言える」
「フフッ。そうですね」

しかし何をどう安心すりゃいいんだ?なんの事やらさっぱりだ。何やら人生哲学について話し合う時だったか?何を心底楽しそうに笑ってやがるんだ?コイツは。おい古泉。お前の事だ。今は笑うのをやめろ。俺が余計不安になるだろうが。

「その衛星とやらに、古泉の処罰が記録されてるって事なのか?」
「そう。正確には、『機関』の規則、古泉一樹が取った行動の概要、判定結果」

「じゃあいっそ情報統合思念体にやらせるってのはどうだ。それぐらい朝飯前だろ」
「キョン君!ダメです!それは……」

俺の考え無しの発言を遮る様に、何事か思案していた朝比奈さんが慌てて声を上げたが、憔悴し切った彼女のか細い声では全く俺の声を掻き消すには至らなかった。……しかも、長門の事だ。どちらにせよ聞こえていただろう。
俺の発言を聞いた長門の目の中を、なんとも言えない自己嫌悪、苦悩、迷い、そういった全ての負の感情の固まりが通り過ぎ、それを見た俺は、猛烈に自分の間抜けさを悔やんだ。
……この目は見たことがある。朝比奈さんがあの公園のベンチで、溜め込んだ苦悩を俺に告白した時の目だ。自らの無力さに打ちひしがれ、懊悩している目だ……畜生っ!

「このあと午後10時から3時間、情報統合思念体はわたしに対してスキャンを実行する予定。……わたしは、情報統合思念体主流派に信用されていない。わたしには説得できない。……わたしが…………すまない」

俺は、自分のバカさ加減にはいい加減うんざりしている。だが、今のは本気で頭にキた。長門に辛い思いをさせる奴が居たら躊躇なくぶん殴る予定だったが、俺はどうやら自分に対してそれをやらなければならんらしい。
大体俺が言った事がもしできたのなら、そもそも最初から長門はそうしていたに決まっている。俺が今やったのは、俺が長門を信じていないと言ったも同然な事だ。何度も何度も俺の命を救ってくれた長門に、それこそ俺が命を賭けて信じるべき長門に対してだ。それなのに長門は自分だけを責めて俺に謝った。……俺は、最低、最悪の、クソ間抜けのクズ野郎だ!!自分では何もできねぇクセに文句だけは十人前に吐くウジ以下のカスだ……!

しかし猛省の甲斐も無く、俺はこの後、あろうことか更に自ら墓穴を掘り進めてしまった。

「スマン、長門。考えが足りなかった。俺が悪かった。あー。だから頼む。自分だけを責めるのは止めてくれ。その、なんだ。俺達みんなで知恵を絞ればまだきっと古泉が助かる方法は見つかるさ。例えば、そうだな。ハルヒに全部本当の事をブチまけてみたらどうだ?古泉の問題も一気に解決するかもしれんし、情報統合思念体が欲しがっているデータとやらも案外簡単に手に入るかもしれん。それに古泉やお前が面倒な事をせずとも、解ってりゃハルヒだって直接頼めば閉鎖空間を消すと思うが」

「……わたしにそれを止める権利は無い。しかし、……」
長門が心なしか普段より小さい気のする声で答える。
それとは対照的に、古泉はあからさまに大きく溜息を吐くと、先程までとは打って変わり、舌鋒鋭く辛辣で鋭利な正論で、俺の思い付きによる軽はずみな発言を容赦無く滅多斬った。

「申し訳ありませんが、非常に、心外ですね。落胆していると言ってもいいかもしれません。あなたは、『機関』の人間が好き好んで閉鎖空間で遊んでいるとでもお考えなのですか?その様な安易な解決策があるのならば、何故僕達が命を賭してまで戦うと?……では仮に、涼宮さんに全てを暴露し、完全にご納得頂けたと仮定しましょう。しかし、その後に彼女の力を行使できるのが彼女の『無意識』だけだと判明した場合、一体あなたはどうやって責任をお取りになるおつもりですか?もしそうであれば彼女の自我は自らの御し切れない『感情』や『潜在意識』が持った無闇に強大な力を恐れるようになり、その力が他者を傷つける様な事態になれば、彼女の精神は完全に崩壊してしまうかもしれません。運が悪ければそれだけに留まらず、全世界も運命を共にする事になるでしょうね。もし彼女が能力を意識的に使いこなせたとしても、無意識的にも引き続き力は発現する訳ですから同様の危険があります。それに現在長門さんを守っている物が何なのか、よもやお忘れでは無いでしょうね?ここまでハッキリ申し上げなくても、容易に推測可能なだけのヒントは出してきたつもりだったのですが。目先の問題としましても、あなたは涼宮さんになんとご説明なさるおつもりですか?まさか『お前のせいで古泉が死にそうだ。なんとかしろ!』とでも仰るおつもりなのですか?」

むぅ……それは…………。言葉もない。
確かに、ハルヒは別に古泉に恨みがあって怪我をさせたんじゃない。どうしようもない刹那の感情で他人を傷つける可能性があると知ったらあいつは……。元々あいつを責めても仕方なかったんだよな。それなのに、どうやって説明するんだ。これを。それに長門の事もある。
悔しいが、全て古泉の言う通りだ。いや、解っていた。……そのハズなのだが。……だが。

だが。

ふと、俺を見ていた古泉が元の穏やかな口調に戻って言った。
「すみません。言葉が過ぎました。あなたが僕を救おうとして下さっているお心には、感謝を表現する言葉が見つからない程です。ですが……」

「いや、悪りィのは俺だ。古泉も、長門も。スマン。……本当にすまなかった。謝る」

「……いい」
「いえ」
「……」

しかし俺は内心、古泉にフォローされた惨めさを感じる以前に、猛然と腹を立てていた。自分自身と、古泉に対してだ。

「だが古泉。1つ確認するが、もし今のお前の立場に居るのが長門でも、それでもお前は俺を止めたのか?」
「いいえ。もしそうならば、むしろ応援させて頂きました」

そう来ると思ったぜ……このクソ野郎……。

「確かに、涼宮さんがご自分の能力を知る事には大きなリスクが伴います。ですが、長門さんがご健在ならばまだ対処も可能でしょう。その上、長門さんが今の僕の立場にあるのならば、その時には統合思念体に対する『もう一人の貴方』の抑止力は既に効力を失っている筈です。ならば、賭けに出てみるというのも、悪くない。個人として何の能力も無い僕の場合とは、全く前提が違うんですよ。残念ながら僕にはそのリスクを冒すに見合うだけの価値が無いんです」

「…………」
納得できねえ。まるで納得いかねえぜ。長門も俺と同意見らしいぞ?古泉。
お前のクソッタレな理論は、いつもながら少し聞いた限りでは何も間違っちゃいねえ。すぐには反論も思いつかねえ。だがな、正しい事だけが常に正しいと言えるか?常に最善を選択し続けたら、結局やってる事は機械みてぇな情報統合思念体やケッタクソ悪い『機関』と何も変わらねえんじゃねえのか?その方がベターだからなんつう理由で、お前を見棄てろってのか?ふざけんな。寝言は寝てから言え。
俺だってお前を助けるのにリスクを冒すぐらいはしてやる。でもな、全員無事なハッピーエンドを目標にするのが前提だ。ああそうさ、確かに奇麗事かもしれん。でも俺はそうする。ハルヒだって間違いなくそうするぜ。

「それでも、今回涼宮さんに対しまともに説明できない以上、そもそも涼宮さんのお力に縋るのは無理があるでしょう。遠まわしの手法、例えば、僕が転校させられそうだという嘘などを並べ立てたとしても即効性も期待できませんし、もし全てを暴露してしまえば最悪の結末を迎える可能性が一番高いですよ。結局、涼宮さんがご自分が僕を殺してしまったと思い込まれるだけです。まあ、あなたが今から涼宮さんに会いに行くと仰るならば、僕が命に代えてでも絶対に止めさせて頂きますが」

既に死んだ気で居る奴に、「命に代えてでも」なんて言葉で凄まれるとはな。……汚ねえぞ。古泉。

「本当にそうなのか?長門。コイツが言う様に、そうなっちまう可能性が一番高いのか?」
俺が藁をも掴む思いで問いかけると、
「………………そう」
かなりの間を取って、長門が静かに呟いた。

……クソッ!どうにか、なんとかなんねえのか?本当にどうしようもねえのか?
畜生!お前の事なんだぞ?古泉!俺とタメの癖に全てを悟った様な顔してんじゃねえ!……駄目だ。今こいつの顔を見ていると、いつもにも増してイライラしてきやがる。……ダメだ。耐えらんねえ。

「よし、俺の出した結論を言うぞ。ふざけんな、だ。俺は諦めねぇ。俺のこの1年を通じて得た経験から1つだけ確実に解った事がある。「諦めが肝心」なんて言うがな、あれは、戯言だ。俺は諦めねえからな。んで、必ず助けてやる。必ずだ。お前はもう諦めたんなら寝っ転がって果報でも待ってろ」


俺はそう言い捨て、長門の部屋を飛び出した。
アテは無い。解決策など見当も付かん。ただ、諦めちまった奴と一緒に居ても、脳がネガティブになって行くだけだと思ったからだ。無駄に格好つけちまった手前、なんとしてでも方法を見つけ出さなければなるまい。いや、そんなもの関係無しにそもそも全力は尽くすけどな。

ああ、クソッ!無性に腹が立つ!何もかもだ!

……しかし、首尾良く解決方法を見つけたとしても、SOS団の誰かの力が必要なのは間違い無いだろう。そしてその誰かから自分の足で遠ざかっている俺。どうすんだ?この後。

丁度1階から上がって来たエレベーターに乗った時、息を切らせた朝比奈さんが駆け込んで来た。大した距離では無いが、見るからに体調が悪そうだ。肩で息をしているのは、それが原因だろう。
「……待って。キョンくん。待って下さい。ふぁ、はぁ、ふぅ」

もうエレベーターの中だ。待つも何も無いのだが、ここでそんな事を言う奴が居るなら出て来い。殴ってやる。虫の居所が悪いんでな。……だがその前に、俺は俺自身に1発分貸しがあるんだったな。2発か。いやいっその事、将来を見越して5発ぐらいやっとくか。

「キョンくん」
「どうしました?朝比奈さん。それより大丈夫ですか?」
「あたしの事は、ふぅ、いいんです」
彼女はそう言って、大きく深呼吸……少々目のやり場に困る……した。

「……それより、さっき長門さんの言ってた事を聞いてて、あたし、気付いた事があったんですけど……それに長門さんが、」

「何ですか?何か妙案が?」
1階に向け移動を始めた密室の中で、俺は思わず勢い込んで朝比奈さんに詰め寄り、肩を掴んでしまった。……慌てて直ぐに離したが。
しかし、朝比奈さんはそれを恐れるでもなく、怒るでもなく、青白い顔を真っ直ぐ俺に向けて、言葉を続けた。

「長門さん、『機関』の衛星を使ったデータベースが完成したのは、2年前の11月って言ってましたよね」
「ええ……。ああ……!と言う事は、もしかして?」

「はい。2年前の10月以前なら、まだそれって無いんですよね。それに長門さん「今のわたしは無理」とも言ってましたから」
「そうか。その時より前の長門なら、何かを変える事が出来るかも知れない!」

「でも、それだけではダメなんです。古泉くんが今日取った行動は全く関係ないですから、変更できるとしても、長門さんの言ってた『機関』の規則だけなんですけど……」
「……その時から今までの間の歴史が食い違う」

「そうなの。だから、断裂した時間平面に置ける変更という事になっちゃいますから、この時間平面には影響が出ません。でも、長門さんのあの言い方、何かあるはずなんです。あたしが今キョンくんを追いかけて出てくる時に、長門さんから暗号化された情報ファイルを受け取ったんです。時間も無かったし、長門さん何も教えてくれませんでしたけど、あたしの考えはきっと、ううん、必ず、半分は当たってるはずなんです」

早速、希望が見えてきたって事だな。見たか古泉!んで、ありがとうよ、長門。さっきは本当にすまなかった。そして、こう言っては悪いですけど、つまりその、見直しました。朝比奈さん。
あんな啖呵を切った割に、俺だけが全く何もしてないのが恥ずかしいやら情けないやらだが、まあなんだろうと細かい事を気にしている場合では無い。既にあって無い様な俺の体面などどうでもいい。

「それから、古泉くんから、あの、伝言が。……『ありがとう、ギリギリまで果報を待たせて頂きます。どうか、助けて下さい。お願いです』……だそうです」

……何を言ってやがるんだ。アホか?いや、完全にアホだな。今更殊勝な態度を見せたって遅せえぞ。俺は許さん。絶対にな。とりあえず明日は1ゲーム300、いや、500円は取ってやる。財布でも洗って待ってろ。

「よし。行きましょう。とにかく、それから考えればいい。解らない事は向こうの長門に聞けばいいですし」
「はい……あ、許可下りました。2年前の7月7日で良かったですよね?一応、余裕を見ておきました。七夕なのには深い意味はありませんけど、ほら、長門さんも、あの、2年間も、その、逢えなかったら、寂しかったんじゃないかなって。だからちょっとだけ早めに……」

「はい……?ってあれ?今、朝比奈さん、俺が何も言う前に、許可を?」
「えぇ?……あっ!」
朝比奈さん、唖然。どうやら無我夢中で自覚が無かったらしい。
俺もつられて呆然。

1階に到着したエレベーターのドアが開き、誰も乗り降りしないまま、また閉じた。

唖然呆然が見詰め合う事しばし。少しだけ湧いて来た希望と、初めて自分の考えで申請した時間遡行の許可が下りた事による自信で、顔色も大分良くなり輝くような笑みになった朝比奈さんが、感極まったのか俺の手を取って小さく数回ピョンピョンと跳ねた後、なんと抱きついていらっしゃった。

それに対する俺の反応はと言えば、何も無し。一足早い太陽嵐とやらにやられたのか、彼女が余りにも可愛らしい挙動を始めた辺りでショートした俺の脳の回路は、その時の感触すら記録し損ねやがった。なんと勿体無ない!
すぐに我に返った朝比奈さんが慌てて身を離し、頬を赤らめつつ、顔を少し背け、可憐に俯く。
そのポジションからの上目遣いミクルビームの追撃で、完全にトドメを喰らった俺は、頭の中まで白旗で一杯だ。先程までのイライラも一発で吹き飛んじまった。……なんつぅ破壊力だ。このお人は天然でここまでやるのだ。全力でお守り致します、マム!と、やおら叫んで最敬礼したい気持ちにもなるだろ?いやいや、実際にはやらん。流石にな。

完全に思考がフリーズしていた俺は、はにかんだ天使の微笑を浮かべ俺を見る朝比奈さんの言葉、
「うふっ。キョンくん、いい匂いがしました!」
で、ハルヒの往復平手打ちを喰らったかの様に覚醒した。

うむ。こんな時は何と返答すればいいのだ?誰かアドバイスしてくれ。俺にはレベルの高過ぎる設問だ。この場合、誉められているのはやはりハルヒなんだろうな?俺は一体どうすればいいのだ?
ああ、そうか、しまった。先程説明を割愛したのだった。失念していた。是非、忘れてくれ。なに、全然大した事じゃない。

しかし折角のチャンスだったものを、抱きしめ返すというキザで甘美なアイデアにも全く思い至らず、実に勿体無い事をした。古泉の野郎ならそつなく自然に抱き返しやがるんだろうな。不愉快な奴だが、だからと言って死んでいいハズがない。

アイツは、仲間だ。アイツ自身も俺達の事をそう思っている事だけは認めてやる。やり方は全く納得できねえがな。長門も、朝比奈さんも、当然の様に古泉を仲間と認めているし、ハルヒだってもし全てを知らせてやる事ができるならば、迷わず古泉を助ける為に奔走した事だろう。

とりあえず明日アイツに嫌味の一つも言ってやらんと気が済まねえ。戻って来るまで生きてろよ?勝手に死んでたら今度こそ本気で殴ってやるからな。

「よし、行きましょう!」
「はい!」

目を瞑った俺は、即座に無重力空間に放り出され「ああ、エレベーター内だけは止めて置けば良かった」と、込み上げる吐き気に翻弄されつつ大後悔した。体感的には、エレベーターシャフトをまっさかさまに落ちて行くのとなんら変わりない。

…………。
っつうか、食い過ぎがこんな形で祟るとはね。……うっぷ……こりゃ、マジでヤバい。




機関法 [規律] 第4章 機関への忠誠
第55条 機関への叛逆行為に対する処遇
故意により機関の存在理由[憲法1章1~18条]を害した機関員、及び準機関員、もしくは過失により同条項を著しく害した機関員、及び準機関員は
一.行為が明らかな故意に因る物であると現場指揮者が判断した場合、直ちに叛逆行為と看做し、対象の処分に際しては召喚、査問の手順を経る必要を認めない。
一.行為が明らかな故意に因る物であると現場指揮者が判断できない場合、又は現場指揮者が判断できる状態に無い場合、零時会議を召集し、多数決に拠り判定を下す。対象の処分に際しては召喚、査問の手順を経る必要を認めない。

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20時18分

……はぁ~。

暗い闇の中、私は今自分が無意識にした事に驚いた。
演技でもなんでもなく、本物の溜息を吐くなんて何年ぶりだろう。
強いストレス。まあ、それでいいわ。それぐらいで。私だって人間だから。
できるだけフィルターは使わないでおこう。そんなの、悪いもの。……今更、悪いも何もあったものじゃないけど。とんだ偽善ね。

私は今、長門さんのマンションの裏手で、壁に背をもたれさせている。
控えめに虫の音が聞こえる。こうもあちこち舗装されていては、それほど多くは生き残らない。感傷的になっている私は少し共感してしまう。
見晴らしの良くない場所に隠れている為、空は余り見えない。星が出ているのは判るけど。
風は無い。とても静かな夜。このまま何も無ければ、ただの平穏な一夜。

背後の壁から、ヒソヒソと囁く声が聞こえる。でもそれに耳は貸さない。


トッ

壁の上から地面へと、なるべく音を立てない様に誰かが飛び降りた。見なくても、誰だかなんて決まってる。

やっぱり来ちゃったのね。一樹。
もう……。詰めが甘いのよ。アンタ。逃げるつもりならちゃんと逃げ切ってよ。

私は音を立てずに、その背後に素早く忍び寄る。
驚いた事に、一樹は私に背中を向けたまま気付いたらしく、動きを止めて、肩を落とした。
私はそのまま近付いて、背中側から、腕をその身体に廻す。

……捕まえた。温かい背中。匂いはしない。何も。

一樹の身体は触った瞬間すらも全く緊張しなかった。彼はもう、全てを受け容れてしまっている。……彼の背中に押し付けた胸が苦しい。

「普段の僕なら、裏を掻いて、表から出るんだけど……」
「だから、ここで待ってたのよ」
「……はは。そうかぁ」
そう言う一樹の声は、とても穏やか。

「どこへ行くつもりだったの?」
「解らないけど。……どこか、遠くへ」
「……そう」

胸が、苦しい。背後の囁き声が大きくなる。

私は腕を解き、一樹の前に回る。でも、顔は見ない。目を合わせたくない。頭を彼の胸に押し当てる。……私、なんて勝手なんだろう。一樹は絶対にそうしなかったのに。
でも、あの時みたいに一樹の想いが直接流れ込んで来たら、きっと私耐えられない。少しぐらいフィルターしても、無駄。全部の感情を殺すぐらいしないと、駄目。彼の目を見るのが、……怖い。
やっぱり、こんな能力、欲しくなかった。でもそれは一樹も同じ。

涼宮さんが本物の『神』だったら、絶対に一樹にこんな結末は用意しない。
どうしよう。私の中の機関への忠誠心が急激に冷めて行くのを感じる。

でも、駄目。私は死ねない。
大切な人が居るのは一樹だけじゃない。居なくなっていい人なんて1人も居ない。
私が、守らないと。みんなを。

でも、一樹を生贄に捧げたのは、私。
守れなかったんじゃない。私が……。私が。
それなのに、一樹の目は語る。
私を、愛しているって。……私、壊れそう。

償いようなんて無い。今の彼に効くモルヒネも無い。それに、彼はもう痛みを感じてすらいない。私には彼にしてあげられる事が無い。
本当は1つだけあるけど…………

「ねえ、一樹」
「はい」

「私と、寝たい?」

「……いえ」
「そう」

そう言うと思った。……胸がキリキリと締め付けられる。

「行くわよ、来なさい」
「……はい」
私は一樹の手を取る。すると驚いたみたいだった。


21時~22時

私の部屋に着いた後、一樹のリクエストで私が簡単な食事を作った。
私は食欲が無かった。

彼は「とてもおいしい」と言って食べた。
残さずに食べた。
そんな彼を見ていると、食欲がある事が哀れで、痛々しくて。胸が一杯になった。私は一口も食べる事が出来なかった。
込み上げてくる涙を抑えるので精一杯だった。必死に顔の表情を消した。
私が苦しんでると知ったら、彼は余計に辛くなる。私のせいなのに。

耳元で囁く声は、もう何を言っているか聞き取れる程に鮮明になっている。

……来た その日が来た その日が来た その日が来た その……

判ってる。解ってる。もうやめて。
私は、少しだけ、耐え難い心の痛みをフィルターした。

こっそり確認した「バイブル」の予定表に変化は無い。


23時

窓を通して見上げる夜空に浮かぶ、血の色をした不気味に大きな満月。それはまるで天蓋に穿たれた冥い宇宙からの覗き穴。そこから赤い目をした何かが私達を見下ろしている。いや、あの向こうは地獄なのかもしれない。
その周りでは星共まで一緒にザワザワと揺らぎ、矮小な存在が演じる悲劇の出来映えを嘲笑している。
……強い寒気を感じて、私は身体を抱く様に両腕を組み合わせた。

それなのに、
「綺麗だなぁ」
私と同じ物を見上げている筈の一樹が言った。

「……そうね」
私は一体、彼にいくつの嘘を重ねて来たのだろう。知らない。覚えていたくない。

心が乱れる。フィルターする。


無言で一樹の手を引き、ソファに座らせる。
私はその左隣に座り、寄り添う。
彼は慌てて何か言ってた。
私は耳を貸さなかった。

「泣きたかったら、胸を貸すわよ」
「……いや。大丈夫。かな」

彼の左太腿を、左手で強く擦り上げてみる。彼の全身に電流が奔ったのを感じて、私はもう一度だけ訊いてみる事にする。
彼の耳朶に唇を当て、囁く。……目を見たくないから。

本当に、いいの?

すると、彼は、困惑した様な表情で、
「……僕は……僕の気持ちは、そんないい加減なものでは……。逃避主義的な理由から森さんを利用するなんて、絶対したくない。できない」
って言った。

どっちが、私が楽になるかなんて、やっぱりあなたには解らないのね。……でも、あなたのそういう所、好きかな。

だから私は、「好き」をフィルターした。


23時53分

「では、行ってきます」
一樹が言った。
「ダメ」
私は即答する。彼の顔には「筋弛緩による失禁を防ぐためにトイレへ行く」と書いてあるけど、嘘。彼はアレを使うつもり。

驚く一樹に身体を圧し付け、その背中に左手を回すと、彼は一瞬身体を強張らせた。
その隙に右手で左胸ポケットを探る。……彼は、諦めた。脱力する。

思った通り、ポケットにはソレが入っていた。

手に取って黒を押し出す。
白が残ったケースは、一樹のポケットに戻す。そうして置かないと、他の誰かが白の可能性を考慮して「念を押す」かもしれない。それは許さない。私には、彼を背負う義務がある。

彼の身体には、誰にも、指一本、触れさせない。

決意が揺らがないように、私は自分の弱さをフィルターする。


23時54分

「バイブル」を確認。遂に最後の1行が消される事はなかった。
囁き声は、一段と大きくなり、少し言葉を変えた。

……その時が来た その時が来た……
うるさい!誰も頼んでない!こんな機能要らない!


一樹はまだ、私の手の中の物を取り返す方法を考えているみたい。
……バカねぇ。フフ。そんな事、させる訳ないでしょう?

私は、彼の見ている前で、黒いカプセルを、自分の口に含む。

彼の目が驚愕に見開かれる。
「森、さん?何を……一体……」

恐怖に青褪める彼の顔。

私の選んだ人の顔。

散々ヒヨコなんて言って、ごめんね。私、間違ってた。
……ううん。本当は最初から解ってた。
私、嘘ばっかり。

何も正しくない。私は、何ひとつ、彼に対して正しい事をしてない。

でも、これからする事が、きっと一番間違ってる。
ただ、こうするしか、思いつかない。
こうする事でしか、表現出来ない。
……それだけ。


「一樹。大丈夫よ。飲んでない。でも、このままじゃ、あと5分で溶けて、私、死んじゃうわ。だから……」

私は少し背伸びをして、彼の肩に両手を置き、目を瞑る。

「……奪って」


彼が躊躇いがちに合わせた唇は、細かく震えていた。

彼の舌が恐る恐る、コレを探しに来る。
でも、私はまだ渡さない。自分の舌の裏側に挿んで隠す。

一樹、怖いのね。水溶性カプセルって、唾液の中でもどんどん脆くなるの、あなたも知っているものね。
私がああすれば、あなたは、こうするしかない。

……ごめんね。辛い思いばかりさせて。

私は表面が既にベトつき始めたカプセルを転がし、わざと彼の舌に触れさせる。
彼の舌が、彼の焦燥を反映して必死さを増す。
歯と歯がカチカチ当たる。

……ごめんね。一樹。……ごめんね。

こんなの、嫌よね。あなたのファーストキスが、こんなだなんて。

それなのに、あなたは文句の一つも言わない。
ただ黙って、愚直に薬を探しに来る。
言葉遣いも直させてたのに、気を抜いて思わず愚痴の一つを溢したりもしなかった。
いつも黙って、私を見ていた。……その目で。

ねぇ、恨んでよ。……嫌ってよ。
私、こんなに酷い事してるのに。

彼の舌をわざと邪魔する様に、舌を動かす。絡ませる。
でも、彼はカプセルを探す事に必死。他には何も考えてない。

……そのまま、私を置いて行くつもりなの?
私、どうすればいいの?
私、あなたが思ってる程には、強くないのよ?

彼がカプセルを探し当て、持って行こうとする。
私はギリギリでそれを取り返す。

イヤ……。
こんな結末。

ねぇ、助けて……誰でも、何でもいい。
神でも仏でも思念体でも悪魔でもいい。
……お願い。……助けて。
魂だって身体だって命だって差し出します。
だからお願い。せめて、私を身替りにさせて……お願いです。お願いします!

ガツガツと乱暴に歯が当たり出す

助けて! 誰か!

衝撃で頭が痺れた様になる

いやだ! とめて!

それでも私はこれを放さない

やめてっ! お願い……。

なんでこんな事に?
この人が何をしたって言うの?

世界の安定を守る為に戦う。
それは、誰だってやってる事。「世界」の規模が違うだけ。
この人がやった事も、同じ事。
機関がやっている事と同じ事なのに。

平和を守るなんておこがましい事は言ってない。
ただ、大切な物を守っただけなのに。

……私も一緒に狙ってくれたら。
この人と一緒に逃げたのに。

彼は自分から探すのを諦めた。強引にしたらもう崩れるかもしれないから。息も苦しそう。見てみると顔も真っ青。

いっそ、コレを噛んでしまおうか。2人分なんて余裕で足りる。
そうすれば一緒に逃げられる。……ずっと一緒に。

……そうしようかな。

……うん。そうしよう。

心が軽くなった私は、最後に彼の目を見る。
彼の瞼もまた開き、間近で視線が溶け合った。
滲む視界を通して、彼の思念が押し寄せて来る。

許してください 生きてください 忘れてください

できない!全部、無理よっ!
私はソレを噛もうとした。一樹の舌が邪魔をした。

私が選んだからなのよ?
解ってるのに、なんで?
……どうして?

あなたが死んでしまったら どうなりますか

知らない!

どうなりますか

やめて!考えたくない!

土台は盤面 あなたはカド

お願い。一緒に行かせて。私だけ置いていかないで……。

カドが崩れて ピースが割れる
1列 そして2列 さらに3列

やめて!イヤッ!知らない!

カドは取られて ピースが返る
割れたピースは 除かれる
新たなピースが また割れる
タテ ヨコ ナナメ ……みな 割れる

……私が居なくなったら、残るのは白い残骸の山……。

あなたは それを 許せない

……そう。私は、死ぬことも許されない。
……そうだった。一樹の身替りになんて、なれないんだった。
ごめん。……ごめんね。一樹。……最初からこうなるって、判ってたのに。

私は彼の弛緩した舌を吸い、愛撫した後、最後に下唇を強く引っ張ってから、…………それをそのまま渡した。
受け取った一樹はすぐに口を離し、テーブルの上からグラスを取ると、一気に呷った。


煩かった囁き声が、静かになった。


彼は私の方を向かずに、動揺し切った声で言う。
「……すみませんでした。探すのに必死で。……歯を立てたりしてないと良いけど」

やめてよ。この期に及んで、私の心配?言ったじゃない。傷なんて生きていれば治るのよ。一樹。……傷なんて。

「酷かったですよね。すみません。もし…………いえ、忘れてください。では、行ってきます」
「良かったらもう一度って?フフ……。それも悪くないかもね。でも、ダメ。恋愛は『禁則事項』でしょ。どっちにしろ私はアンタじゃダメ……」

レストルームへ行こうと背を向けた一樹に、私はそんな残酷極まりない言葉を投げ付ける。
それを、立ち止まり黙って聴いていた彼は、振り向きもせず、何の反応も示さずに立ち去ろうとする。

「……なんとか言ったらどうなのよ」
「いえ。安心しました」
彼はそれだけ言って、私の視界から消えた。


独り残された私はまた夜空を見上げる。
相変わらず赤い月。相変わらず明滅する星達。

……そうね。悪くもないかもしれない。綺麗と言えなくもないかもしれない。

覚えて置こう。あの色を。

胸がまた激しく痛み出したから、フィルターをまた強くした。


23時57分

一樹を連れ寝室へ入り、私のベッドに寝かせて、自分もその隣に寄り添う。
耳を彼の胸に押し当てると、その中にある心臓が、心地よく愛らしい音を立てて鼓動している。
彼は、空いた腕をどうしたらいいか少し逡巡した後、私の身体には廻さず、自分の身体の前で手を組んだ。

『森さん。どうか、僕の分まで』

その様な意味の篭った低い音が、頭を乗せた胸から聴こえた。
自分の心臓が壊れた早鐘の様に打ち始めたから、「未来」をフィルターしてみたら、収まった。


23時58分

トクン トクン トクン
とくん とくん とくん

トクン トクン トクン
とくん とくん とくん

トクン トクン ト……。
とくん とくん と……?


23時59分

私は呼吸の止まったソレから身体を離す。
1が0になっただけ。よくある事。大した事じゃない。

ほら、手も震えてない。
涙も出ない。
全然悲しくないし、
辛くも苦しくもない。

孤独には慣れてる。だから大丈夫。ちっとも寂しくなんてない。

鬼には感情なんて無い。そう。
もっとフィルターを。
全部フィルターを。


0時00分

ベッドの影が魔物の様に動き出し、アイツになった。

ソイツは、慎重さも丁重さも荒っぽさも無い、何の感慨も無い機械の様な手でソレの脈拍を計り、素早くポケットを調べ、割れたピースを取り出しながら、天気の話をするかのような感情を交えない声で言った。

「悲劇にしては半分残ったな」

……どうでもいい

私が何も言わずに見ていると、ソイツは手にした薬のケースにぼんやりした白い光を放つペンを向けて、浮かび上がったIDを読む。そのついでに、ソレの網膜も調べる。

「念を押す必要も無さそうだが、念を押すと言うのはそもそもこの様な場合の為の言葉だろう」

……好きにすれば

私が何の反応も示さないで居ると、ソイツはゆっくりと私に向き直り、言った。

「いや、残ったのは4分の1以下だった様だ。無駄をしたものだ。……まあいい。お前の行動が予測できない。一応念を押すのは止めておこう。どうやらその必要も無い」

ソイツは歩いて出て行き、玄関のドアが開き、閉まった音が聞こえた。

ガチャン
一緒に、色々な物が閉ざされた。

寝室の窓際に立ち、もう1度、天を見上げる。

そうよね。月は、やはり白がいい。
大分暗い白だけど。

窓に少し被る様に伸びる灰色の植物の葉先に触れると、指先に小さな黒い点が生まれ、大きく、大きく、膨らんで行く。
じっと見ていると、表面張力の臨界を超えたそれは、やがて一筋の黒い流れとなって零れ落ち、黒い絨毯に吸われて見えなくなる。

私は鬼。
鬼に種類なんてない。みんな同じ灰色。
それだけ。

私はまだ死ねないから。
この閉鎖空間が崩壊するまでは、我慢する。

いつ?……知らない。
今だけ考えてればいい。そうすればいつか終る。
今を我慢すればいい。そうすればいつか終る。

大丈夫。きっとすぐに終る。



第9話「秤で量れん物」へつづく

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