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 その身を淡い桃色に染めていた木々は、今は打って変わって鮮やかなディープグリーンで辺りを支配している。枯れた木が寒々しく連なっていた山々も、見違えるほど隆々活々としてこの町に鎮座していた。
「ふう……」
自然界では様々な移り変わりがある一方、しかし俺はいつもと変わらず早朝ハイキングに精を出していた。そう、今年で3年目となる通学路でのワンシーンである。
しかし、慣れとは怖いものである。入学当初はこの坂を見て、後3年近くもこの坂を上ったり降りたりしなければいけないのかとただひたすら鬱な気分で俺のハートは溢れかえっていたのだが、いつの間にやらそれが苦にはならなくなっているのだから。
それどころかこの坂を上らないと半分寝ている脳が活性化しないらしく、最近では休日にどこかへ遊びに行ったところで、どこか間の抜けた一日を過ごすことになってしまうのである。
おかげでハルヒに何度叱られたことか……これは余談だったな。

慣れといえば、俺はこの2年間でSFともホラーともつかぬ、常識を逸脱した体験をしてきたものだ。しかも幾度と無く、である。
宇宙人同士の闘争、未来人とのミッション遂行、超能力者達がしでかした偽殺人事件……人間の範疇に止まらないことから3歳児でもわかる稚拙なことまで、ありとあらゆる事象に身を費やし、そして現在に至っている。
確かに希少価値の高く、2度と経験できないようなことばっかりだった。正直それらに巻き込まれながらも自分が五体満足でいること自体奇跡に近いと思う。ああ、でもナイフで脇腹をグリグリされたときはさすがに死ぬかと思ったけどな。
だが、そんな珍事件ですら霞ませるようなことがここ一年で発生していた。

……そう、珍事である。決して人知を越えた展開が発生するわけではないのだが、少しおつむが足りなくてとってもKYなある一人のサイキック少女によって、俺の人生はより波瀾万丈なものへとシフトしている。
彼女はアクシデントを発生させる特技を持っていた。しかも見ず知らずのうちに、である。
そして困ったことに、その件に関して自覚を全く持っていないのである。
まるでハルヒが持つ能力を、本人が自覚していないのと同様に。
……以前もこんな事があった。
詳細は省かせてもらうが、あいつがあらぬ事をしでかしたおかげで、俺はハルヒと佐々木、そしてなぜか谷口にボッコボコのけちょんけちょんにされたのだ。
言われの無い行い、冤罪だと主張したのだが聞き入れてもらえず、俺の内に秘める憤りを打ち払おうと、諸悪の根源である橘京子を呼び出した。
そしてどういう事だちゃんと説明しろと問いつめると、奴は
『あたし何にも変なことはしてません! キョンくんの迷惑になるようなことなんてしてないのです! 誓ってもいいのです!』
等と言い張りやがった。
『お前以上に俺に迷惑をかける奴なんざいないんだよ。最近はハルヒの方がよっぽど大人しいんだ』
みたいなことを言ったら今度は
『違うもん違うもん!』
と大声を上げて泣きだしやがったのだ。
公衆の面前で女の子に泣かれると分が悪いのはこちらだ。俺は観客と化した通りすがりの皆様に白い目を向けられ、仕方なく橘をあやしながらその場を後にした。どうやってこいつに言い聞かせてやろうかと腹の中で考えつつ。
だがしかし確たる物的証拠が見つからない以上、問いつめてもしかないと思い、せいぜい自重するようにとしか言えなかったのである。
……たく、本気で勘弁してもらいたいね。機関で引き取ってもらって矯正したらいいんじゃないかと思うんだがどうだろうか? 森さんに教育指導をしてもらったら、一週間くらいで常人の半分くらいのマナーを身につけて戻ってくるかもしれない。
しかし、そんな痛い少女に対して、最近では逆に皆が慣れてきたらしく、事あるごとに原因は彼女と決めつけるようになってきた。そのため最近ではそのようなトラブルは無くなってきた。あの時の一回を除いて。
その件に関しては……どうせそのうちトラブルが発生すれば話さなければいけないから、今回は省略。

結局何が言いたいかというと、俺もハルヒも佐々木も、勿論長門や朝比奈さんや古泉……多分九曜や藤原だって、橘京子の奇行に慣れてきたってことだ。
俺がこの通学路を苦渋と思わなくなってきたと同様に。
古泉曰く、ハルヒの閉鎖空間の発生は、佐々木達に出会ってから一時的に増えたものの、それでも減少の一途を辿っているそうだ。
佐々木に対して当初戸惑いみたいなものがあったようだが、それと同じだ。ハルヒは持ち前のパワーで佐々木にはすぐ慣れてしまった。
橘に対してもそれは同じ。時間が経つにつれてハルヒは平常心を取り戻しつつあるようだ。
……ま、佐々木よりはかなり時間がかかっているみたいだけどな。
そのため、以前は橘が奇行を起こすたびに閉鎖空間がひっきりなしに出現してきたが、ここ最近では橘のせいで閉鎖空間が発生することは極めて希になってきているという。
これもひとえに、『橘だからしょうがないか』という、ハルヒの諦めにも似た感情がそうさせているのだという。
佐々木の方も同感で、以前のように紅い巨人が発生しなくなってきているのだという。橘が残念そうに話してくれた。
だがな橘。お前は佐々木の心を平穏にするのが使命だろうが。なぜ波風たたせるようなことを望む?




そんなわけで、多少の不確定要素はあるものの、世界は往々にして平和であった。
しかし、平和な世の中を嫌う我が団長様はここ最近つまんないを連発しており、俺に何かイベントをせがむのがここ数日の既定事項となりつつあった。
その姿に内心慌てているのは言わずもがな古泉と機関であり、姑息ではあるが何やら面白いイベントを計画敢行中だという話は聞いている。
全く、機関の仕事も楽じゃないよな。将来仕事に困っても、いくら給料がいいからといっても、機関にだけは出稼ぎに行きたくはないね。
ともあれ、そんなわがままっぷりを全開にしているハルヒであったが、しかしここ最近は少々考えが変わっていた。
自分の興味の対象が「不思議なこと」から、「『橘京子以外』で不思議なこと」に変更していたのだ。
これを聞いたとき、俺は鷹揚に頷き、ああようやくハルヒも人並み程度のインターレストを持つ風になったんだなって、しみじみ思ったよ。
もしかしたら、『人の振り見て我が振り直せ』っていう言葉を肌で実感したのかもしれない。ある意味、橘の本来の目的を達成させているのではないかと思うな。
まあ、少々違うかもしれないが、橘のおかげで、世界は崩壊せず安定な方向へ向かっているといってもいいだろう。
だが、喉元過ぎれば熱さを忘れるとはよく言ったもので、ハルヒだけでなく、俺もこの平和な日常に食傷気味になっていたのだ。
だからあんなことをふと思いついたんだろうな。『何か面白いことはないかな』って。
橘が巻き起こすのでなければ、別に少々の事件が起きても構わない。ちょっとした事件があって、それに俺たちが卵の薄皮一枚くらい関わっている程度であればじゃんじゃん起きてほしいという、不埒な考えが沸いてきたのだ。
我が校が見え始めた、いつもの通学途上の坂の上で、そんなことを考えながら歩いていた。

しかし、罰当たりなことを願うもんじゃないな。
俺が願ったからかどうかは知らないが、このとき既に『不埒な考え』というのは渦を巻いて発生していたのだ。




予兆は確かにあった。
昨日――週明けの月曜日のこと。その日も今日と、そしていつもと同じようにこの坂道を上って登校していた。
朝とはいえ、日差しは結構暖かい。いや、暑い。この坂を上るのには慣れたと入ったものの、これだけお天道様が出しゃばってくるとさすがに堪える。
そう言えばハルヒの思いつきで、なんだか良くわからない同好会未満のこのサークルを立ち上げたのもこんな天気だったか。……そうか、もうすぐ2年がたつというのか。
ふと思い返す。去年はこの時期に『SOS団創立一周年記念パーティ』と称して、どんちゃん騒ぎをしたんだったな。鶴屋家所有の山荘で山桜を鑑賞しながら。
……そうそう、思い出した。去年のリベンジも忘れず執り行わなければならない。半強制的にやらされたとはいえ、ちょっと自信があった岡部のモノマネがあまりにも不評だったから、見返してやらないとな。

……うむ、正直それは今回の件とは関係ない話だ。スマン。
つまりはそんな事を思いながら丘の上の学校を目指していたのだ。



ようやく校門までたどり着き下駄箱から内履きを取り出して履き替えようとすると、ある人の姿が目に入った。
「よう」
「…………」
クールビューティならぬサイレントビューティを絵に書いたかのような表情で、彼女――長門有希は玄関の前に突っ立ったまま俺を凝視していた。
「長門、お前はいつもこんな時間に登校しているのか?」
「……違う。今日は特別。少し遅れた」
だよな。俺は長門と登校時間に出くわしたことなんて一度も無かったし、長門ならもっと早くに登校しているだろうと思っていたさ。
余談ではあるが、俺は登校時に他のSOS団の面子と顔を合わせたことがない。もしこれがいつもの土曜日と同じなら、俺は毎日ハルヒの昼食分のジュースを奢る羽目になってしまうかもしれない。
……いや、それは無いか。稀に俺より遅く登校してくるときもあるからな。ハルヒは。本当に稀だけど。
「昨日」
ん?
「何かあった」
長門の、いつもにもまして文節区切りの口調が印象的だった。
「何か――とは、何だ?」
「…………」
長門はしばし沈黙し、
「何か、あった」
間に句読点を挟む程度の違いを見せつつ、そう囁いた。
何かあった、というのは昨日の日報を俺に報告してくれているのだろうか? それとも俺が昨日朝起きて夜寝るまでの一日を、長門に報告すべきなのだろうか?
語尾の口調のイントネーションだけはつけて欲しいものである。日本語でも英語でも、肯定文を尻上がり口調にするだけで疑問文として捕らえてくれるんだ。それくらいのことをしてくれても罰は当たらないぜ。
「………………」
だがしかし、長門は更に集光点を3平方マイクロメートル程狭めて俺を見つめたのみであった。
殆ど変化していないその表情だが、しかし俺は感じ取っていた。長門がこれだけ表情を露にしているのは珍しいと。
そして、何故かは知らないが、長門は不機嫌な態度を俺に示している、と。
「どうした長門。昨日何かあったのか?」
「……別に」
長門の声は、振動数こそいつもと同じであったが、その内なるものは間違いなく1オクターブ低かった。できれば腕組みしてそのセリフを放って欲しかったぜ。あの芸能人みたく。
「そうかい……俺のほうは取り立てて何も無かったけどな」
「そう……」
俺が昨日の出来事を一文で簡潔に述べると、長門は燕返しを切り返すが如く素早い動作で靴を履き替え、エミューの如くスタスタとその場を走り去った……いや、歩き去っていった。
「おい、長門?」
「なに」
「俺に何か聞きたいことがあるんじゃないのか?」
「聞きたいことは、聞いた」
はて……俺は何か重要なことを暴露したのだろうか? 特になんて事のない会話をしただけのような気がするが……あれでもう全て分かってしまったのだろうか?
「そうじゃない。あなたから聞くことは、もうない」
少し距離が離れたためであろうか。自位置から寸分違わずコリメートさせたその視線は、某スーパーロボットの冷凍ビームも凍らせるような冷たいものであった。
長門、もしかしてお前怒っているのか? そのような雰囲気を感じざるを得ない。
だが、何故? 何故長門は怒っているのだ?
会話からして、『その原因は、あなた』とでも言いたげな表情なのだが、まかり間違っても俺は長門を怒らせるようなことをしてはいない。
第一長門と最後に会ったあの日だって……

・・・・・

……土曜日の不思議探索の日だって、長門はいつもと変わらぬ無表情を醸し出していた。
いや、午後の組み分けで俺と一緒になって行動していたときは、むしろ良い意味で感情が豊かになったといっても差し支えない。
午後に俺たちの二人組となったその日、俺は新装開店のマンガ喫茶に行った。そら難しい本を読むのもいいが、たまには息抜きで簡単なものを読むのもいいんじゃないかと思っての措置だ。首を傾げていた長門を少々強引に連れて行ったのはご愛敬だ。
手続きを済ませて足を伸ばせてリクライニングのできる席を確保し、長門をコミックコーナーに立たせ、『好きな本を読んで良いぞ』と言い残し、俺は一冊のマンガを手に取って自分の席へと戻った。
長門は暫く本棚とにらめっこしていたようだが、暫く経つと他称本の虫が正常動作をし始めた。
そう、恐ろしい勢いでマンガを読み漁っていったのだ。
せっかく確保した席にも座らず、笑い声も上げず。マンガを手に取り、同じテンポでページを捲り、そして本棚に返す。まるでマンガ一冊一冊と対話するように、長門のコミック黙読は行われた。
図書館と違ってそこそこ五月蠅い店舗内にもかかわらず、長門は初めからそこにあった花瓶の如く身動き一つとらない。
……そういや、初めて図書館の存在を教えてやったときと同じ反応だったな……
その時俺はそんな事を思い出していた。
読み終えたマンガを顔に乗せて居眠りモードに入っていると、いきなりその本を取って『これ、読んでいないなら読ませてもらう』とって搾取したのには少し驚いたけどな。

結局、集合時間間際になってもぴくりとも動かず、俺が説得してようやく帰らせ、その日の不思議探索は幕を閉じたのだった。

・・・・・

もしかしてあの時、無理矢理帰らせたことを根に持っているのか……いや違う。あの時の長門はむしろ上機嫌だったといってもいい。人一倍長門の表情に詳しい俺が断言する。
また一緒にここに来るか? との問いに、『行く』と、レスポンスをした事を覚えている。いつもの長門とは段違いに力強い声だった。たとえるなら、蚊の鳴くような声が鳩が鳴くような声に変わったくらいの変化だ。
そう。確かにその時までの長門は気分上々だったはずだ。
しかし。
今の長門はそれとは真逆。無表情の長門よりも厳しい表情をしていた。表情が無いというわけではない。以前より数ミクロンのオーダーで喜怒哀楽に溢れてきているその表情は、『怒』を表しているのだ。
これだけ怒りの表情を露わにしているのは、コンピ研とのゲーム勝負の一件以来かもしれない。
しかし、何故……?

「…………」
俺の中の意見が固結びをし始め、エンドレスループに突入していようとしていた矢先、長門は振り返り自分の教室の方へと歩き始めた。
俺は何も声をかけなかった。いや、できなかった。
一人廊下をぽつぽつと歩く長門の背中に、『喋りかけないで』という張り紙がしてあるように見えた。




頭をポリポリ掻きながら、俺はやや上の空状態で教室へと向かっていった。先ほどの長門の態度が妙に気になって、そこはかとなく呆然としながら歩いていた。俺が膨らませた風船を、自身の爪で割ってしまった時のシャミセンくらい惚けていただろう。
暫く長門が怒っている理由を、幾度となく模索し反芻し――
「……何だかわからないが、また後から謝っておこう」
その結論に達したとき、自分の教室のドアが寸前に迫っていた。
気分を入れ替え、ドアを開き自分の席へと進み……

「…………」

……いや、もうね。何と説明したらいいんだろうか。まあ、状況を説明することはそんなに難しくないし、結論だけを言うのであれば至極簡単だ。生卵を握りつぶすよりもな。
だが、何故かどうしてだと、理由を聞かれると俺は答える術を持っていない。そりゃあそうだろう。その理由を知っているのは当の本人――涼宮ハルヒ以外あり得ないだろうからな。
「……なによ」
俺が達磨のように沈黙を続けていると、ガラス越しに映った俺に気づいたのか、そう声をかけてきた。
だが俺はかける言葉が見つからない。
必死になって脳内活性物質を注入するように脳に命じ、妹が自分の手の爪を切り終わるくらいの時間をかけて慎重に言葉を選んだ。
「……今日は、水曜日だったか?」
「ばっかじゃないの? 月曜に決まってんじゃない」
完全に侮辱した声でやる気なく喋るハルヒ。表情は窓の向こうを向いたままなのでわからない。
それは奇遇だ。実は俺もそう思っていたんだ。昨日はシャミセンとどっちが多く寝ていられるか勝負した覚えがあったし、もしかしたら月曜じゃないかと9割9分9厘くらいはそう考えていたんだ。
だがお前のことだから、もしかして曜日を変更してしまった可能性も否定できなかったっていうわけで……
「いつまでそんなところでボーッっと突っ立ってんのよ」
うるさい。全部お前のせいだろうが。
……等とは言えず、適当な言葉を模索する。
「ああ、ちょっと空気になってみたくてな。空気は自由でいいな、って考えてて」
「何馬鹿なこと行ってるのよ。空気だって実際は常温常圧で一秒間に数億回衝突し合っているわ。あんたみたいにふらふらしてたら生きていけないわよ、空気の世の中は」
そう言うものなのか……
「そう言うもんよ」
俺は諦めて自分の席に着く。ハルヒは未だ空を眺めていた。
「…………」
言わねばならない、のだろう。しかし、なんと言うべきか……
「ハルヒ。もう一度聞くが、今日は水曜日か?」
「……あんた、頭大丈夫?」
正直自信はない。
「勉強ってやりすぎると痴呆になるのかしら? なかなか面白そうな研究内容ね。調べて文化祭で発表しようかしら?」
嫌だ。誰が調べるんだ……って、このままハルヒのペースに巻き込まれててもしょうがない。
「話がある。真剣な話だ」
「何よ。藪から棒に」
俺は自らを奮い立たせて、ハルヒの目元から口先までをじっと見据え、そして言い放った。



――お前、その髪型……そのツインテールはいったい何だ?――



「いいじゃない。別に」
あっけらかんと言うハルヒ。
「あたしだって女の子なんだし、たまにはいつもとは違う髪型にしたい日もあるわよ。それとも何? あたしのこの髪型は似合わないとでも言うの?」
「い、いや……決してそう言うわけではないが……」
正直に言うと、似合っていない。あのちょんまげライクのポニーテールもそうだったが、それに輪をかけてひどい。
「もう少し髪を伸ばしてからの方がいいかな、なんて個人的に思ったりするわけでしてね……」
「橘さん、みたいに?」
「は?」
「ツインテールは橘さんの専売特許って訳ね。……わかったわよ。やめれば良いんでしょ、やめれば」
何をどう理解したのかはわからないが、ハルヒはそう言って自らのツインテールを解いた。ハルヒ独特の、鳥類系の唇を形成しつつ。
「ほら、これでいいんでしょ? ……ふんっ」
いつもの髪型に戻ったハルヒは、不機嫌レベルを2ポイントほど上げてまた空の彼方へと視線を戻していった。

……ホント、つまんないわね……

ハルヒがそうつぶやいたのは、気のせいだったのだろうか?




その後のハルヒは、いつにも増して不機嫌であった。そして不思議なほど俺にちょっかいをかけてくると事もなかった。
珍しい日もあるもんだなと振り返ってみると、そこには口の中に銀紙と鷹の爪を放り込んだようなハルヒの顔。
なんだかその表情が俺の瞼の裏にこびりついて離れない。何故だろうか?

とはいえ、ハルヒが放つ不機嫌オーラの量が著しく増加していることを除けば、至って普通の一日であった。
授業もハルヒに邪魔されることなく、飯時も誰かに呼び出されることもなく、平穏に過ぎ去っていった。
放課後の団活だってそうだ。いつもの如く愛くるしい振る舞いで俺にお茶を給仕してくれる小柄なメイドさん(毎日毎日大学から来なくても良いのに……ご苦労様です)、薄いスマイルを浮かべてボードゲームに興じる理系特進組生徒。
そして何があろうと無表情で黙読する文芸部員……
「…………なに」
「いや、何でもない。すまない」
……そうだった。そう言えば長門も朝から不機嫌だった。いつもなら俺の視線に気づくことなく読書にふけっているのだろうが、今日に限っては俺が長門に視線を向けると、キッとした表情で睨み返してくるのだった。
こりゃ、機嫌が直るまでまだまだ相当時間がかかるな。暫くは大人しくしておくことにしよう。
機嫌が悪いと言えば、ハルヒも朝からずっとそうなんだが、こちらはいつもの如く団長専用席に座ってネットサーフィンに興じている。
面白いページでも見つけたのか、たまに見せるニヤケ顔がハルヒの機嫌を底上げしているようにも見えた。
俺はそんな中、珍しく朝比奈さんが仕入れてきたカードゲーム(。大学で流行っているカードゲームらしいが、名前は忘れた)に興を注ぎ、その一日は過ぎ去っていった。




「よっ、キョン。どうしたんだ? 難しい顔して。何か考え事か?」
ここでようやく冒頭に戻る。右斜め後方から、我が悪友の参上だ。
「……いや、そんな大それたものじゃない。昨日の行いを鑑みて、今日に活かそうと瞑想していたんだ」
「そう言う事は寝る前にやるもんだ。通学途中になるなんざ、お前もとうとうイカれてきたな。だからあいつとつるむのは止めとけってったんだよ、俺は」
うるさい。後者はまだ検討の余地はあるが、前者は真っ向から否定してやる。俺はいたってまともな精神を有している。それはハルヒと会う前からだって変わりないと自負している。
「キョン。確かにお前の自由意志を尊重したいが……あいつの対応には、誰もが手に余る。巻き添えを食らわないようにもっと離れたほうがいいぜ。……ま、すぐ後ろの席だからそれも叶わないか」
ああ、そうだな。だが流石にもう慣れてきたぜ。
「いいや……あいつの本性はあんなもんじゃない。いいから深い関わりを持つなよ。分かったな?」
谷口は、2つ前の席のヤツが発表している傍ら、必死に英和辞書をめくるリーディングの授業時の如く険しい顔で俺に迫ってきた。
はて……少し様子がおかしい。何故谷口は今更そんなことを言い出すのだ? そんなことは2年前からの既定事項だ。
それにハルヒの異常行動は大人しくなってはいるものの、相変わらず健在であるし、谷口だってそんな事は百も承知のはずだ。

……いや。
前にも谷口の調子がおかしいことがあったが、あの時は……
「谷口」
「何だ? 改まって?」
「俺のクラスには、涼宮ハルヒなる人物が存在していたか? そんな人物は聞いたことが無いんだが?」
「ははは、何言ってんだキョン。俺をハメようたって無駄だぜ。涼宮の存在をお前が忘れるわけがない。かれこれ2年もあいつの変な思いつきに付き合ってて、お人よしにも程があるぜ」
とんち合戦に勝負した高僧のような表情をした谷口が若干嘲り口調で喋るのを尻目に、俺は安堵の溜息をついた。
……大丈夫。ハルヒは存在している。また皆が消えた世界に逆戻りしたかと冷や冷やしたぜ。
「……キョン、おまえやっぱおかしいぞ。やっぱり俺の言ったとおり、症状が出てきたんだよ」
いや、単なる確認だ。これが夢かどうか確かめるためのな。あの悪夢とはもう金輪際付き合いたくないからな。
ハルヒが存在する……即ちこれは悪夢じゃない。俺が知っている、傍若無人で猪突猛進、そして妄想を既定にしてしまう、凡庸ならぬ能力を備え付けたあの涼宮ハルヒは、この世界に光臨しているのだ。教室の最後方の席に鎮座しながら。
加えて可愛いだけの元上級生も、他校に追いやられた超能力の使えない男子生徒も、そして何の特別な力を持たない、読書好きの内気な少女も存在しない。
そう、存在しないんだ。
ここは俺が望んだ世界なんだ。あいつの申し出を断ってまで居る事を望んだ、俺が楽しいと思ったこの世界なんだ。
「ちっ、長生きするぜお前は……」
賛辞とも侮蔑ともつかぬ言葉を吐く谷口を無視し、俺はそう再確認していた。



しかし、俺を嘲け笑うかの如く、運命は俺の望みを瓦解したのだった。



取り留めの無い話をしながら、俺と谷口は教室までやってきた。
幸か不幸か、俺は3年になっても谷口と同じクラスであった。これも悪友の成せる業とっても差し支えないのかもしれない。
もちろんハルヒも同じクラスで、ポジションも変わらず俺の後ろである。こちらもやはりというかなんというか……いやはや、これだけ同じだと逆に怪しまれる気がするのだが……何故誰も怪しまないのだろうか?
とは言え、2年時と全く同じではない。大凡の奴が同じクラスなのも確かなのだが、それでも数人は別のクラスに鞍替えとなっている。
例えば……元々理系希望であった国木田とか。
国木田がいなくなったお陰で、俺は谷口と共に宿題写しをさせるくれる人員確保に錯綜するハメになったのだが、それはご愛嬌である。
ハルヒに聞けばミッチリと教えてくれるのだが、受験生ともなって、あたりに陰湿な空気を漂わせたくは無いため自重している。
ま、そんなこんなで、これが俺の今のクラスだ。何だかんだと説明したが、結局のところ、さして大きな変更点は無い。3年になったとはいえ。
それが証拠に、俺がこのドアを開けると、ガラス越しに空を見上げるハルヒの姿が見えるのさ。ほら、こうやってドアを開くと――


ガラガラガラ……


「よっ、ハルヒ。元気……か……??」
――違和感が、あった。



「遅いじゃない、キョン」
――いつもとは異なる違和感が。見ただけで分かった。



「谷口なんかとつるんでちゃ、何時までたってもみくるちゃんと同じ大学にはいけないわよ」
――喋り方は、涼宮ハルヒ。その人に相違ない。



「あんただけ違う大学に入学するのは許されないわ」
――しかし、その声は……一体……?



「浪人も勿論ボツ。予備校に行くだけでどれだけ金がかかるかわかってんの?」
――いや、それ以前に、お前は黒髪だったはず……どうして栗色の髪になってるんだ……?



「自宅で勉強するってのもダメよ。あんた自ら進んで勉強するタイプじゃないんだから」
――長さだって、昨日よりもあからさまに長い……一日でそれだけ伸びるはずは無い……



「SOS団の活動は、場所を移して更に隆盛を極めるんだから」
――何よりその髪型。……それはまるで……



「分かってるの、キョン!!」



空を向いていたその顔は、くるりと反転、廊下側へと……俺の方に向けられた。

俺の瞳に入ったのは、俺の知る涼宮ハルヒではなかった。
2つに束ねた栗色の髪、ぱっちりと見開いた瞳、幼げな顔。
そう、それはまさしく――


――北高の制服を着た橘京子が、ハルヒの席に陣取っていたのだ――


橘京子の分裂(前編)に続く
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