「どうしたのよ、キョン。窮鼠猫を噛むをリアルタイムで見たような顔しちゃって」
 どちらかというと豚もおだてりゃ木に登るを見た、って言う方が今の俺の心境に適っているな。
 ……などと心の中のどこか冷静な部分が眼下に広がるそいつに対してツッコミ返そうとしていた。人間、非常識にも度が過ぎると呆れかえって何も言い返せなくなると言うが、恐らくその類であろう。
「ったく、あんたも相当おかしいわね。一回精神科医に頭の中を見てもらった方が良いわ」
 Sure, That's good idea, I think so, too……
 うん、大っ嫌いな英語で返答できる。むしろ頭の中は正常だ。だから言ってやる。
「橘。お前こんなところで何をやっている?」
「はあ?」
「お前はこの学校の生徒じゃないだろ?」
「キョン、からかってるの?」
 口を曲げて橘は言った。本物のハルヒがそうするかのように。
「からかってなどはない。お前は橘京子だろうが」
「あたしのどこを見たら橘さんだっていうのよ?」
 右のツインテールの毛先から、左のツインテールの毛先までだ。
「本気で大丈夫なのあんた……? ちょっと、頭かしなさい」
 ハルヒの口調を真似ている橘は徐に俺の顔に接近して……って、ちょっと待て!


「……ふーむ、熱は無いようね……」
「…………」
 絶句。
 あまりの出来事に、俺は沈黙せざるを得なかった。というか、身動き一つすることができなかった。
 まさか、この場所このタイミングでこんなことをしでかすとは……さすがはKY代表橘京子。いや、これはむしろハルヒの行動そのものと言っても良いが……この際どっちだっていい。大事なのは誰がやったかではなく、その場の雰囲気とプロセスだ。
 ――少々勿体ぶって話しすぎたかな? 失敬。俺も突然のことで混乱気味なんだ。察して欲しい。それはさておき、今ここで何が行われたのか赤裸々に語ろうではないか。とは言っても、賢明且つ博識な諸兄は既にお分かりかもしれないが……
 そう、橘は自分の額を俺の額にくっつけて熱を測り始めたのだ。HRが始まる寸前の教室。クラスの9割方が揃った、その目の前で。


『…………』


 静寂を司る闇が辺りを支配した。時計の針ですら沈黙を保っている、そんな気がした。
 時間が分からない。どのくらい経っただろうか? 数秒と経って無いような気もするし、かと思えば丸一日このまま過ごしている錯覚にすら陥る。正確な時間を判断する知識も理性も家に忘れてきましたって感じだ。
 そんな中、クラス全員による一点集中の視線。俺のこめかみ辺りに感じる人肌のぬくもり。そしてそれらが入り交じって形成された、得も言われぬシンクロニシティ。それらだけは鋭敏に感じ取ることができていた。
「よしっ!」
 掛け声が一閃した。同時に橘の顔が一気に離脱し――俺の感覚神経が正常に戻った。
「でも、大事をとって大人しく寝てた方がいいわね。今日のあんた、おかしさが#20000くらいでポリッシュしたくらいに磨きかかってるから。保健室で寝てなさい。あたしが許可するわ!」
 カラッとした笑顔で言い放つ。自分の行動に、一点の曇りもない。そんな表情。
 もう呆然とするしかない。こいつは何で公衆の面前でこんなことを……もう少し節操があるやつだとは思っていたのだが。
 それより何故橘がハルヒの席に座って、そしてハルヒみたいな行動をとっているというのだ? どうしてクラスの奴は誰も突っ込まない? ネッシーの出現やミステリーサークルの発生以上に奇怪な出来事だぞこれは?
 そして。これだけ奇々怪々なフェノミナが起きているというのに、それを待ち望んでいた奴がいない。一体……


 一体、ハルヒはどこへ行ったというのだ?





「おい、キョン」
 何だ谷口。まだ頭の中が固結び状態なんだ。話しかけないでくれ。
「涼宮もああいっていることだし、保健室に行けって。担任には話してやっとくからさ」
「そうね。キョンくん少し調子悪そうだから、そのほうがいいわ」
「涼宮さんがそう言っているんだし、そうした方がいいんじゃないかな? 例の部活の妨げになって不味いだろ?」
 谷口を始め、クラスの皆が俺にこぞって意見を申し上げる。その全てが、こいつの……橘の意見に賛成するものであった。橘はそれ見たことかと言わんばかりの、得意げ且つ不適な笑い顔を浮かべ、俺を睨め付けている。あの表情はまるで……
「なるほどな」
 ある結論に達した。2回目ともなると悟るのが早くて助かる。もっとも、普通の人は一生に一回も経験することはないだろうと考えると、思いっきり損をしたような感覚に陥るが、そこは深く考えても仕方あるまい。
 それはさておき、俺が出した結論。それは、またへんちくりんな世界にワープしてしまった。それだけは揺るぐことのない事実である。
 理由は簡単。どこからどう見たって『橘京子』であるこいつを、クラスの連中が『涼宮ハルヒ』であると認識しているからだ。この世界ではこの『涼宮ハルヒ』がデフォルトであり、それこそがこの世界での常識である。
 同時に、俺にとっては非常識でもある。
「ははははは……」
 笑いが止まらねえぜ。これで人生二度目の異世界旅行だ。こんな貴重な経験をできるのは、世界広しといえども俺くらいのモンだろうな。はははは……
 ……ぜんぜんく嬉しくねえ。


「あんたの負けよ、キョン。大人しく保健室に行きなさい」
 声は『橘京子』、口調は『涼宮ハルヒ』である彼女は勝ち誇った顔で言い寄る。俺が知っている、あの涼宮ハルヒと同じ……いや違う。これはハルヒじゃない。性格はあの涼宮ハルヒそのものかもしれないが、これは『涼宮ハルヒ』であって涼宮ハルヒじゃない。
 粗悪な偽物だ。贋作だ。失敗作だ。これならまだ黒いブレザーを着た、ポニーテールが異様に似合うあの涼宮ハルヒの方がよっぽど涼宮ハルヒだ。認めんぞ、キメラ合成に失敗したこの『涼宮ハルヒ』を涼宮ハルヒと認識することなんざ、できるわけがない。
 俺の知る涼宮ハルヒはな、『涼宮ハルヒ』と違ってもっと涼宮ハルヒっぽいんだ。どこがって言われても、涼宮ハルヒは涼宮ハルヒであって、『涼宮ハルヒ』とは悉く違って……
「……キョン、ちょっと聞いてるの? キョン!?」
「――!? な、なんだいきなり……」
「いきなりじゃないでしょうが。ずっと呼びかけているのに全く……ともかく、あんた顔が白いわ。それに顔中に大粒の汗をびっしり並べてるわよ。そんなんじゃ健全とは言えないじゃん。悪いことは言わないわ。休んできなさい」
 ハルヒの……いや、『涼宮ハルヒ』の指摘に、俺は顔を拭った。確かに汗をかいていたようだ。暑くはないのだが、噴き出す汗はべっとりと粘つき、しかも止まる気配がない。
「いや……これはなんというか、その……」
「キョン。授業の遅れなんて後からでも取り戻せるけど、団活はその日その一瞬しか体験できない貴重な活動なのよ。だから時間を無駄にしちゃ駄目。放課後までには完全復活しなさい。いいわね、団長命令にしてあげる」
「団長……命令……?」
「そうよ。団員たるもの、団長の命令には絶対服従しなさい。今までだってそうじゃない。未来永劫この方針を変更するつもりはないわ。トップが才色兼備溢れるこのあたしだからこそなせる方針ね。暫くは団長の職を辞する考えはないから」
「…………」
 俺はしばし沈黙し……
「……ふっ、馬鹿言え。お前は高校にずっと住み着く気か?」
 そして、少しではあるが理性を取り戻した。



 ――前回は、ハルヒと俺が相まみえることが無く、そしてSOS団の能力が存在しない世界だった。
 基本は俺が知っている世界と同じだが、肝心要な部分では全く異なる、未曾有の世界。
 例えて言うなら、アドベンチャーゲームでありがちな、主人公のセリフ選択による世界観のずれ。あるいは、某もしもボックスにより与えられた、パラレルワールドの一種。
 そんな世界に飛ばされてしまった。
 そして今回も――
 実感した。俺の住む世界と、この世界の違いを。
 そして同時に共通点も。
 ここにいる『橘京子』は、この世界では『涼宮ハルヒ』その人である。先ほどから様子を見る限り、この『橘京子』は外見を除いて俺の知る『涼宮ハルヒ』と全く同じ性質を持っている。
 気分屋で、周りの事なと全く気にせず自由気侭に振る舞うその言動。そして、実は意外に他人思いである一面。これら全てハルヒの性格と一致している。
 『橘京子』が『涼宮ハルヒ』の演技をしているって可能性もあるが、あいつはそんなに芸達者じゃないし考えていることが直ぐに顔に出るタイプだ。ボロがでたら直ぐに分かる。だから『橘京子の姿をした涼宮ハルヒ』と考えた方がしっくりとくる。
 そう、『橘京子の姿をした涼宮ハルヒ』である。
 恐らくこの世界では、橘とハルヒの姿が逆転しているんだ。
 どうしてこんな世界へと変貌を遂げてしまったのか……推測ではあるが、おそらくハルヒのせいだろう。前回のように、長門の暴走というわけではないだろう。このような珍事を長門が望んでいるとは思えないってのが一番の要因だ。
 まあ、ハルヒが望んでいるとも思えないが、あいつの場合、思いつきで変な妄想を実現したいと考えることがあるからな。可能性からしてみれば、長門が起こしたと考えるより、ハルヒが起こしたと考えた方が辻褄があう。
 ここのところ安定だったハルヒが、また暴走しだした。……うん、冷静に判断したら少し楽になった。こんがらかっていた神経細胞が解きほぐれてきたようだ。それに、
「そういえば……そうだったな…………」
 長くて深い溜息をついた。危惧というよりはむしろ安堵を全面的に押し出しながら、全音符よりも長く息継ぎをした。
 俺の住まう世界と9割9部同じながらも、決定的な違いがあるのは前回も今回も同じである。しかし同時に前回と今回とで大きく異なる点があるのも事実であり、それこそがこの世界から脱出できる鍵であると確信したのだ。
 その鍵とは、SOS団のメンツがいること。
 確認もしてないのに、何故分かるのか? って思うかもしれないが、俺は先ほどの会話を聞きそびれる程老いぼれてはいない。
 ハルヒ――『橘京子』の姿をした『涼宮ハルヒ』は、『みくるちゃんと同じ大学に行けないわよ』『SOS団の活動は、場所を移して更に隆盛を極めるんだから』と言った。
 俺の母親と同様の口調で口を酸っぱくして発言するその様は、俺の記憶と……俺が知っているハルヒとピッタリ一致している。つまり俺が元の世界で経験した高校生活は、この世界と全く同じなのである。
 それは結局、SOS団の存在……もっと正確に言うのであれば、団員の存在を仄めかしているのと同義である。

 ……俺と同じ時間を過ごした団員がいる。
 古泉も、長門も、朝比奈さんだっているはずだ。
 そしてきっと、この状況の打開のために、手を貸してくれるに違いない。
「ふっ……」
 思わずにやけてしまった。解決の糸口を思いのほか早く発見してしまったことによる、薄気味悪い笑みだったと自覚した。
 後ろの席では、『何こいつ?』と言いたげな『涼宮ハルヒ』が、今まで一度も会ったことのない親族に仏壇を参らせてくれって言われたときのような顔をしている。
 すまんな、『ハルヒ』。だが許してくれ。お前が俺の知る涼宮ハルヒならば、俺の今の心境を理解してくれるはずだ。
 元の世界に帰りたいんだ。この世界も面白そうだが――俺の望む世界じゃない。俺が知る涼宮ハルヒの容姿は、その姿じゃないんだ。
 何としてでも元の世界に戻ってやる。そのためには他の3人にコンタクトを取らないといけない。幸い『ハルヒ』に保健室へ行くよう命じられている。その間に他の奴に連絡を取って、今後の方針を決めることにしよう。
「スマン、分かった。じゃあ少し寝てくるよ。団活までには復活するからな。……ハルヒ」
 俺がそう言うと、橘の容貌をした『ハルヒ』は不適な笑みを見せた。まるで本物のハルヒがそうするように。


 席を立ち、教室の外に出るところで担任(余談ではあるが、3年次の担任はなんと岡部である。これで3年間全く同じ担任だ……)とばったり会い、事情を話して保健室に行く事を告げた。
 意外にもあっさりと承諾してくれた我が高校時代唯一の担任はそのまま教室の中に入り、ルーティーンワークでもある体育教師特有の大声を張り上げていた。
 皆が担任に注目している頃、俺は目的地へと向かった。
 保健室……ではない、その真逆の位置にある、とあるクラスの元へ。



(たしか……このクラスだったか……)
 足音を立てず、ガラス窓付きのドアの前ではしゃがみ込ながら歩くという、隠密並の行動力を見せつつ、俺は目的の教室の前に立った。
「…………」
 額に一筋の汗が流れる。初夏の陽気のためか、授業中にかくれんぼをしているためか。
 ……いや、違う。面と向かって会うのを恐れているのだ。彼女――宇宙で生きる情報の礎が生み出した媒体端末、長門有希がただの人間に成り下がってしまっている姿を、二度も見たくないから。
 教室を飛び出した後、俺はまず長門にコンタクトを取ることにした。先ほどはああは言ったものの、長門がこの事件を発生させている可能性は否定できないし、疑わししきものから調査するのが事件解決の糸口であることは素人の俺だって心得ている。
 あ、いや……あいつを信頼していないわけではないが、長門は必要以上のコミュニケーションを取らないわけで、俺の想像以上にストレスを抱え込んでいるかもしれないし、それが原因であいつはまた……いや、考え過ぎだったな、スマン。
 それはともかく、彼女にコンタクトを取れば何かしらのヒントが得られるはずだ。加えて、俺に危機が迫ったとき助けてくれたのはいつも長門だった。
 同胞の宇宙人の襲撃に2度に渡って救ってくれたのも、タイムマシンを無くしたドジッ子未来人に力を貸したのも、冬山の異質なペンションに閉じこめられ、高熱を出しながらも脱出する鍵を与えたのも、全て長門である。
 そして、あの時の改変世界ですら文芸部室の本棚にヒントを残してくれていたんだ。ややもすれば見落としがちになるヒントだったが、長門は俺を窮地から救ってくれた。
 しかし……結局、今回もまた長門に頼む訳か。長門の負担が増えないよう、気を使ってきたはずなのに、肝心なところでは長門頼みとはな……やれやれ。これじゃ長門のエラーはいつまで経っても改善されないぜ。
 元の世界に戻ったら、ちゃんとしたお礼をすることにしよう。
 廊下を見渡し、他に誰も歩いてこないことを確認した後、教室のドアの近くに寄りかかる。生徒と教師の死角になるよう、教室後方ドアの隙間から目配せをしながら。
(長門……あいつの席は……っと)
 俺は一人窓側最後尾の席(俺のクラスだとハルヒの席になる)から順番に長門の姿を追いかけた。ショートボブの髪型をした彼女の姿を見つけるために、隈無く見渡した。
 だが。
(おかしい……いないぞ……?)
 彼女の姿は見あたらなかった。
 まさか、今度は長門がいなくなったのか……? いや、そんなはずは……もう一度……そうだ、見落としがあったんだ。もう一度順番に探そう。
 きっと。きっといるはずだ。授業中、教科書を黙読している長門がいるはずなんだ。
 俺は再び窓側最後方の席に目を移し、そしてゆっくりと視線をスライドさせていった。


 2回目。3回目。4回目――
 そのルーチンを何度行っただろうか? 数えるのはその辺でやめたから覚えていない。
 静まりかえっていた不安がまた再び再燃し、それどころじゃなかった。


 そこ――俺の世界では長門がいるはずの教室――では、彼女の姿を発見することができなかったのだ。


(まじかよ……)
 俺はがっくりとうなだれ、軽い焦燥感がこめかみにまで浮かび上がっていた。
 何故だ……何故長門がいないんだ? 今回長門の力が及んでいないとでもいうのか……? だがそれならばなおのこと、このクラスに居てもいいはずだ。特殊な力は無くなってしまったとはしても、存在自身は合って然るべきだ。
 このクラスではなく、他のクラスに移ったのか……あるいは、前回のハルヒの様に、他の学校に飛ばされてしまったのか? それとも……まさか……存在そのものが消失してしまったとでもいうのか?
(……だめだ、ここで考えていても埒があかない)
 長門がここにいない理由を考えるだけ無駄だ。他の情報を探ることにしよう。
 ……大丈夫。長門も、そして他の面子だってちゃんと存在するはずだ。姿を変えたとはいえ、ハルヒはこの世界に存在したんだ。
 必ずいるはずなんだ。
 探し出してやる。きっとこの近辺の高校にいるはずだ……
 俺はそう心で叫び、一瞬教室を見た後、きびすを返して廊下を走り抜け――


『――!?』


 ――違和感を、感じた。
 先ほど、自分の教室で感じた違和感と同一のものを、ここでも感じ取った。


 その違和感は、この教室の中。ある一人の生徒から感じることができた。
 ――まさか……そんなことが……あるはずが……


 必死に否定したい。そんなことなどあり得ないはずだ。
 ――そうだ、もう一度確認すればいい。そうすれば嘘か本当かわかるはずだ。


 きっと俺の見間違いだ。多分似たような奴が、たまたまこの教室にいただけさ。それだけのことなんだ。
 ――ははははは、お笑い種だぜ。


 ――ほら、ちゃんと見るが良い、俺。よーく見ろ、俺。
 ――そんなことは万に一つもあり得ないんだから。


 しかし、俺のそんな思いとは裏腹に、自身の体は硬直していた。
 ――一万分の一以下の確率が、俺の違和感を正当化するものが現実となった場合、それに対処することができるのか?
 そんな考えが頭に過ぎったから。
 ……ええい、忌々しい。これは二回目なんだ。同じ事は一度経験済みだ。また帰ってこられる。そう確信している。
 今回は一日で鍵をそろえてやる。それにまだそう決まった訳じゃないんだ。俺の勘違いの可能性だってあるんだ。

 自分を必死に奮い立たせ、俺は教室の前側のドアから、違和感を感じた方を見据えた。



 前から3番目、一番窓側の席。
 そこには、ある女子生徒が座ってた。
 古文の教科書を読みふける、一人の女子生徒が。


『…………』


 女子生徒は暫く本と対話するかのように眺めていた。
 人形並みに乏しいその表情は、誰であろう長門有希のものに間違いない。見間違えるはずはない。
 だが……ならば何故、長門を認識できなかったのか。何故気づくのが遅れたのだろうか?
 それこそが違和感の正体である。
 長門と同じく無表情な彼女は、俺の知っている長門ではなかったのだ。
 その代わり、その外見が長門ではない、とある俺の知り合いの、とある女に酷似していた。



 ――即ち、橘京子。



「…………」
 ――刹那。彼女はこちらを見つめてきた。
 まるで、俺が見ていることを、ハナッから知っていたかのように。
 ――本物の長門以上に、冷徹な瞳で。

 ゴクリ。
 俺の喉が鳴った。
 同時に、言いようのない恐怖が全身を覆い始め――



 ――気づいたときには、その場から離れていた。



 なんだこれは。何故橘があの教室にいるんだ? あいつはさっきまで俺の教室にいたはずだ。いつの間に移動した?
 既に授業は始まっていて、普通ならば立ち上がって外出することも許されないはずだ。
 黙って教室を出て行こうもんなら絶対に呼び止められる。
 トイレに行くとか言って、別の道から回り込む……これも論外だ。
 俺は自分の教室から長門がいるはずの教室までは一本道かつ最短ルートだ。階段を使用して回り込むことは可能かもしれないが、廊下は曲がり角などなく一直線。仮に俺より早く回り込んだとしても絶対目に入る。
 事実、俺が自分の教室を出て長門の教室に向かうまで誰の姿も見ることはなかったし、ましてやすれ違うこともなかった。
 まさか……まさかあいつは……。
 いや、それはない。常識的に考えて、それはあり得るわけがない。……ならば、橘に変な能力が付加されたとでも言うのか?
 ああ、そちらの方が可能性として考えられる。元々超能力者でもあるし、別にあの空間内だけ自身の能力が発揮されているとは限らない。
 俺は以前、古泉や橘の能力を見せてもらったことがある。ハルヒや佐々木が発生した閉鎖空間の中で、巨人たちを倒すその能力を。
 しかし、奴等の能力があれだけだという保証もない。自分たちの都合でその能力を暗にしている可能性もある。
 古泉は言った。『冷えたコーヒーを温めなおすといったようなわかりやすい能力ではない』と。あいつの言葉を信じるなら、わかりにくい能力が他にあるかもしれないんだ。
 例えば、今から10年後における周辺スーパーの大根一本の平均金額を当てる能力だとか、光触媒の励起波長を10nm程短波長側にシフトさせる能力だとか、世界人類を赤球に変えてしまう能力とか……

 ……まさか!!


 ある考えが、俺の脳裏によぎった。
 そしてそれを確かめるべく、走り出した。


 ――古泉のいる、9組の元へ。



 特別クラスは、俺たちの教室とは違う場所に存在している。特進生ゆえのまさしく特別扱いである。
 そこまで行くのには少々時間がかかる上に、何個かのクラスを横切ることになる。しかし幸運なことにそこまで誰ともめぐり合うこともなく到着することができた。結構な速さで突っ走ったのにもかかわらず、教師陣からの叱責を受けることもなかった。
 そして断言するが、俺はここに来るまで最短ルートを走ってきた。これ以上の最短ルートはない。このルート以外の道を使おうとすれば、時間にして3倍以上かかってしまうはずだ。
 壁をすり抜けて、外を浮遊してくるればもっと早いが……そんな人間離れした能力が仮にあったとしても、そんなことをしたら全校生徒の注目の的。この閑散とした廊下は過去のものとなってしまう。
 それに球体になる能力は、現実世界では使用できないはずだ。
 だから、ここに橘が存在しない筈だ。俺の推測が間違っていれば。
 ……『間違っていれば』である。
 頼む。頼むから間違っていてくれ。
 これだけ神頼みをしたのは、高校受験前日、近くの神社でした以来かもしれない。
 もし、俺の推理が当たっていた場合は……その時はかなりやばいことになりそうだ。


 教室の位置はともかく、造りはどのクラスも同じである。特進だからといっても変わりはない。俺や長門のクラスと同様、前後のドアの中央部分にガラス製の覗き窓がある。
 そっとドアに寄りかかり、そしてのぞき窓からある生徒を探す。
 古泉――ではない。恐らく、あいつを探したほうが早いだろう。
 ――ドキン…… ドキン……――
 胸が高鳴っているのは、全速力で走ってきたせいか。それとも……

 そして、俺は見た。いや、見つけてしまった。



 ――このクラスにいる、3人目の橘京子を。



「はあ……はあ……一体なんだってんだよ……畜生が……」
 階段の踊り場。俺は息を切らしながらそう呟いた。
 あの栗色のツインテールを見つけた瞬間、一目散に駆け、そして座り込んだあとの行動である。同時に吐き気にも似た気持ち悪さがこみ上げてくる。
 ――息が荒い。
 ――目が霞む。
 ――耳が鳴る。
 ――腹が軋む。
 様々な器官にありとあらゆる異常が発生している。こんな事が起きようとは思っても見なかったから当然だ。ここでの俺は、胡亥やマリーアントワネット並に世界情勢に疎いかもしれない。それくらいイカレた世界だ。
 当初、この世界はハルヒの外見と橘の外見が入れ変わった世界であると考えていた。この2人に限定された、変化量の少ない改変世界であると思っていた……いいや、思い込んでいた。
 だが、事実は異なっていた。
 ハルヒだけではない。長門も、古泉も、その姿を橘京子のものへと変化させていたのだ。
 橘が瞬間的に移動した――さっきまではそんなことも考えていたが、それよりも、全員が橘京子と入れ替わったと考えた方がしっくりとくる。しかし、どうして……
 どうして、橘京子になったというのだ?こういう時は一対一で入れ替わるのが相場だろうが。何で一対三なんてアンバランスな入れ替えをしてんだ?
 入れ替わった3人はどこに行ってしまったというのだ? それ以前に、橘京子は何故こんなにも繁殖してしまったのだ?
「ちくしょう」
 俺はありとあらゆる推測と妄想で、今朝以上に頭がこんがらがってきた。くそ、どうすればいい? こんなとき、誰を頼ったらいいんだ?
 ――よく考えろ。以前だって絶望的になったけど、挽回したじゃないか。あの時と同じように行動すればいいんだ。
 あの時は一体どうしたんだったか……ハルヒも古泉もいないってわかって、朝比奈さんはいたけど、俺を全然知らなくて……長門はいつもどおり、文芸部室で本を読んでて……
「そうだ、文芸部室! あそこなら!」
 一縷の希望を見出した俺は、全身を襲っていた不快感を全て吹き飛ばすが如く部室棟へと向かっていった。



「やっぱり……」
 俺は安堵の息を付いた。
 表向きは文芸部室。実質SOS団の根城と化しているこの部屋は、俺の知っている部屋と何も変わりなかった。
 様々なコスプレ衣装が並ぶハンガーラック。みすぼらしい教室に花を添える家電製品やアナログゲームの数々。壁一面にビッシリ整列したハードカバー。
 雑多に並ぶ物品は、SOS団が存在していることの証でもある。そしてとりもなおさず、SOS団のメンバー全員が存在していることは間違いない。俺の予想通りだ、ここまでは。
 しかしどこに行ったというのだ?
 SOS団のメンバーが全員入れ替わったのは分かった。存在していることも明らかになった。だがその行方だけが分からない。代わりに橘京子が鎮座している理由も不明である。だが。
「ここにヒントがあるはずだ」
 目前に迫る本棚をきっと睨む。あの時と同じように、この中に答えがあるはずだ。
 俺は自分の身長よりも高く、部屋の一面を埋め尽くすこの本棚を見上げた。俺がピンチになったとき、あいつはいつもヒントを出してくれた。俺の進むべき道を示してくれていた。今回だってきっと……
 見てろよ。今回は一日で脱出してやるからな。こんなけったいな世界はな。


 ――その思いを胸に馳せ、身近にあった一冊の本を手に取った。



「見つからねえ……」
 それから数十分、早速の決意を挫いてしまった。
 長門のヒント――栞を見つけるために、俺はここの本棚にある全ての本をしらみつぶしに探した。分厚いハードカバーのページ一枚一枚を綺麗に撓らせた。ブックカバーのある本に至ってはカバーを取り外してまで調べ尽くした。
 しかし、そこまでしてもなお、それらしきものを見つけ出すことができなかった。
「本棚にはないのか? となると……」
 無意識のうちに視線を移した。
 目線の先には、団長席に鎮座する部室専用パーソナルコンピュータ。表向きはハルヒのネットサーフィン専用マシン。しかし俺にとっては栞に続く重要物件である。これを起動すれば、何かしらのヒントがあるかも知れない。
 このパーソナルコンピュータは、眼鏡をかけた少女が使用していた旧式のPCではなく、ハルヒがコンピ研に無茶を言って最新パーツを定期的に装着している、今でも最新鋭のPCだ。
 長門のヒントは何も栞だけとは限らない。以前ハルヒとあの空間に閉じこめられたときは、パーソナルコンピュータからヒントを教えてくれていた。今回の一件も、どちらかというとあの時の状況に近い。
 それ以外にするべき事が見つからない以上、これに賭けるしかない。
「後生だから正解であってくれよ」
 団長席に座り、パーソナルコンピュータの電源ボタンを押す。PCは英文字が並ぶBIOS画面を映し出し、一瞬ブラックアウト。ハードディスクのアクセスランプが暫く点滅する。
「これが違ったら、打つ手なしだな……」
 誰に向かってでもなく、俺は一人つぶやいた。
 カリカリと音を立てるシーク音。画面のポツンと佇むカーソル。以前はこの後長門のメッセージが流暢に表れたのだが……頼む。元の世界との繋がりを絶たないでくれ。
 カーソルの点滅がいつ文字を発生させるかをやきもきしながらも待ち続ける俺の目の前に映し出されたのは――


 ――映し出されたのは、OSの起動画面だった。



『ようこそ』
 ウェルカム画面が、これ程までに憎たらしいと思ったことは無かった。コンピ研からパーツを渡され、PCに増設した際はこの画面が拝めず、ハルヒに何度も罵声を浴びさせながら、組みなおしたものだった。
 起動して欲しいときに起動しなくて、起動して欲しくないときに起動するとは……
「ははは、流石は我が団長様のPCでいらっしゃる」
 天邪鬼もここに極まれりだ。だがな。
「中のデータにヒントがあるはずだ」
 俺も相当未練がましい奴なんでな。少々諦めの悪い行動を取らせてもらう。PC内のデータには、何か隠されているはずだ。元の世界に戻るためのヒントが。きっと必ず。
 マウスを手に取った俺はエクスプローラを起動し、SOS団のウェブページのフォルダ、予定表や良くわからないフリーソフトがぎっしり詰まったフォルダ、ハルヒの私事フォルダ……それら全てのデータの閲覧を開始した。
 最近使ったファイルや、インストールされたプログラム、果てはSOS団のホームページに異常が無いか隈無く調べ上げた。
 しかし、これといって手がかりになりそうなものは無かった。
 ……やっぱり駄目か……
 俺は目頭を押さえ、パイプ椅子にもたれかかった。
 くそ……手がかりはなしか。これだけSOS団が存在する証拠があるのに、なぜ元の世界に戻るヒントは一つとしてないんだ?
 おかしい。こんな世界になることを、ハルヒが望んだとでも言うのか? いや、ハルヒだけでない。朝比奈さんも、古泉も、長門も、みんな望んだというのか?
 絶対違うはずだ。これは既定事項へと進む世界じゃない。
 だってそうだろ? 灰色の世界で2人きりになった時は、朝比奈さん(大)と長門が元に戻るための方針を打ち出してくれたじゃないか。2年前の冬の事件だって、長門はどの世界を望むか俺に判断を委ね――そして、あの世界を選んだ。
 皆が望む世界と同じ世界を。
 今回だって元の世界に戻る方法があるはずなんだ。いや、ある。間違いなくある。
 探し方を間違っただけに過ぎない。よくよく考えたら、今までと同じ方法でヒントが得られるとは限らない。他にも溢れかえるほどの手段で俺にヒントを与えることも可能だ。この余事象の中に、必ず正解がある。確率はゼロじゃない。
 よし、こうなったら部屋中を虱潰しに探してやる。
 ネズミが食べこぼしたパンの欠片程度の希望を握りしめ、俺は席を立ち――
「……ん? そう言えば、隠しフォルダの設定もしていたな」
 ――ふと、思い出した。
 朝比奈さんのコスプレ写真や、文芸部の機関誌を発行する際に用いた忌々しい小説の草案、等々。それらが詰まった、俺の秘蔵フォルダにはまだ手を付けていなかった。
「一応ここも見ておくか……」
 再び座り、フォルダの設定を変更し、隠しフォルダを露わにした。
 そして現れる俺の個人フォルダ。
 元々全てを調べるつもりだったから、どのフォルダから順番に見ていくなんて決め手はいなかった。
 だが気づいたときには『mikuru』フォルダを開いていた。そこにヒントが隠されていると思ったからか、はたまたただ単に趣味の問題なのか……それはわからない。
 そして、ウィンドウに広がる朝比奈さんのコスプレ写真集……


「……馬鹿な!」


 思わず叫んでしまった。
 驚愕は何度もした。重要人物が橘とすり替わって戦々恐々となったのも、もはや何度目かも分からない。
 だが、そこにあった写真は、俺の今まで感じた驚きとは全く別次元であった。
 それは恐怖といっても良い。
 今回の改変世界の全貌は、俺の知る主要人物が橘と入れ替わり、他の皆はどこか違うところに飛ばされてしまった。そう考えていた。
 SOS団の存在は明白なのだから、そう思うのも当然だろう。
 そしてこのフォルダ。俺の予想が正しいことを裏付けるように、朝比奈さんのメイド姿、バニーガール姿、ナース姿、そして制服姿……それを拝めると思っていた。
 しかし、俺の予想は全く違っていた。


 俺が何となく開いた一枚の画像ファイル。
 そこには、SOS団結成初期の写真。通販で買ったメイド服を無理矢理着させられ、当時まだ装着していた長門の眼鏡をこれまた無理矢理装着させられた、一人の少女の姿。
 俺が知る限り、その少女とは朝比奈みくるさん。その人であった。
 しかし、映っていたのは、朝比奈さんではなかった。


 ――メイド服に身を包んでいたのは、橘京子の姿だった。



「どういう……ことだ……これは……?」
 恐らくそんな言葉を声に出していただろう。しかしきちんと発音できていたかは、残念ながら自身がない。
 違いすぎる。何もかもが違いすぎる。今回の一件は俺の予想を遙か上回っている。
 こんな過去の写真に何故橘京子が写っているのだ? こんなの撮った覚えすらないぞ俺は。第一この時代は橘京子と知り会う以前のことだ。
 それとも何か? 俺の知らないところで隠し撮りをして俺をビックリさせようとする誰かの悪巧みか? いや、それもない。偽造に偽造を重ねたmikuruフォルダだ。易々と見つかってたまるか。
 写真のプロパティを見る。作成日は2年前の5月のまま。Exifデータもそれを示している。
「誰だ、こんな手の込んだいたずらをしやがるのは?」
 いたずらと決めつけた。ここまで精巧に偽造できる奴を一人知っている。
 ハルヒはPC管理や構成に興味がないから、フォルダの解析やファイルの偽造に関する知識があるとは思えない。朝比奈さんは教えてもできそうにない。古泉なら可能かもしれないが、あいつの下手な演技のせいで偽造していることがバレバレだ。
「長門よ……こんな時に気の利かないギャグはやめてくれ。状況が状況なんだからよ。頼むぜ……」
 ――誰もいないこの部屋で、ポツリとつぶやいた。
(……違う。そうじゃないだろ?)
 どうせ他の写真も同じ小細工がしてあるんだろうな?
(……ばか、何言ってんだ!?)
 どれどれ。おおっ、やっぱり予想通りだ。
(……気づいているはずだ。お前だってその結論に)
 しかし、見事なまでのアイコラ写真だよな……
(……その結論を認めたくないから、逃げの口上、舌先三寸で誤魔化そうとしてるんだろ?)
 こ、これからは、長門に作ってもらうかな……アイコラ写真……
(……いい加減にしろ! 長門がそんなことする訳ない! 目を覚ましやがれこの根暗男!)


「な……誰が根暗だ!!」


『……? 今声が……?』
『……わけ……!? ……ろ?』


「――!」
 つい声を荒げてしまった! 誰か来る。やばい……隠れなきゃ。 どこだ……どこに隠れればいい……? 時間がない、隠れやすくて見つかりにくいところは……ここか!?
 気が動転しつつも、俺はソコに隠れ込んだ――


『……さん、……ましょうよ。怖い……』
『はははっ、……いいねぇ。……さあた……』
『ひゃ…………さい……』
『……さ、いくよ…………』


「…………」
 ソコから気配を伺った。滅多に人前に現れない、絶滅危機種に指定されている臆病な動物をそのカメラに納める写真家の様に、声も物音もそして気配も消し去って隠れていたところ、人の話声が聞こえ始めた。
 声からして若い女性。談笑しながら廊下を歩いている。察するに、何らかの理由でこの部室棟に来た女子生徒が、俺の叫び声を聞きつけて近くまで来た……そんな感じだろう。
 このままスルーして部屋を抜けてくれれば問題ないのだが……しかし、何故この時間、一体何の用があって部室棟に来たというのだ?
 通常、部室棟での授業は無く、放課後でもなければここに人が来ることなど皆無だ。部室の座敷童とも言える長門ですら、授業中はここに居ない。
『もしかして、OBの人か?』
 なるほど、それならあり得るかもしれない。昔懐かしの校舎を思い起こすため、ここに来たってことか。あり得えない話じゃない。
『なるほど……だがそれなら一安心だ』
 もし部室を懐かしむためにOBが来訪したならば、この部室に入ってくることなどあり得ないだろう。
 この部室は2年前からSOS団が占拠している。その間の卒業生は朝比奈さん一人だけ。だがその彼女も毎日この部室に来ているわけだし、わざわざ講義を抜け出してこの時間ここに来る必要性は全く以てない。
 それに会話をするような声が聞こえてきたことから、二人以上でこちらに向かっていることが示唆される。先にも言ったとおり、OBは朝比奈さん一人であり、二人以上が連れ立ってこの部室に来ることなどまず無いだろう。
 朝比奈さんが誰かを連れてきたって可能性もあるが、それはそれで問題ない。話が通じる人が介在してくれればこっちも助かる。それに朝比奈さんならきっと今の俺の心境を分かってくれるはずだ。
 結論。オールグリーン。心配のしの字も思い浮かべる必要はない。
『やれやれ』
 俺はほっと胸をなで下ろし、目線を逸らした。視線の先には……本棚。
『待て、そう言えばこの部室は……』
 思い出した。
 この部室は元(正確には現在もだが)文芸部室だ。それを俺たちが不法占拠し、シマにしているんだった。
 OBは去年の卒業生だけではない。勿論一昨年の卒業生だけでもない。何年、何十年前だろうと、この学校を卒業した生徒はOBだ。
 昔の記憶を呼び戻す。俺たちの入れ替わりで出て行った卒業生、その中には文芸部員が居たはずだ。その時の文芸部員が何人だったかまでは覚えていないが、それ以前の卒業生だっているわけで。
 つまり、その人達が大挙してここに集結したって事もなきにしもあらずで、さもありなん……
 いや、まさか……な……違うよな……?


 コツ――コツ――
 足音は次第に大きくなり、そして。
『…………』
 俺の期待を裏切るべく、リズミカルな音はこの部室の前で止まった。
『これは……マジでやばいぞ……どうすりゃいいんだ……?』
 ソレに身を覆い潜め、早る心臓を押さえつけていた。
『取りあえず……じっと隠れていよう……』
 そう思った矢先、ドアノブが回り――


 バァーン!
 ――勢いよく、ドアが開かれた。


「やっぽーい! 誰かいるのっかな? この部屋に不法侵入すると、あたしとハルにゃんが許さないんだからねっ!」
 特徴ある喋り方とその声は、俺の知っているものだった。
「つ、鶴屋さん!?」
「おろ? その声はキョンくんかい? めがっさ久しぶりっ! けど、姿が見えないね……? まさか透明人間にでもなったのかな?」
「今でますからちょっと待ってください」
 そう言ってゴソゴソとソレから顔を引きずり出して――


「……キョンくん、なかなかいいコーディネイト、だね」
 ――カエルの着ぐるみに身を包んだ俺の姿を見て、鶴屋さんは口をひくつかせていた。
 心持ち誹り顔だった気がするが……気のせいに違いない。



「いやぁ、ほんっと久しぶりだねっ、キョンくん。うんうん、より一層男前に磨きがかかってるんじゃないっかな? お姉さん成長が楽しみで楽しみで破裂しそうっさ!! ほんっと、暫く見ないうちに男の子ってのは立派になるもんだねっ!」
「先週会ったばっかりじゃないですか」
「それはそれ、これはこれって事で勘弁!」
 まあ、どうでも良いですけどね。名誉顧問様には逆らえませんし。
 鶴屋さんは相変わらずのハイテンションで、周りの状況など微塵も気にせずマシンガンのように言葉を続けた。
 ――他の人に見つかるのを恐れて縮みこんでいる俺とは対照的に。



 鶴屋さんは高校卒業後もちょくちょく俺たちの部室へと遊びに来ていた。曰く、『家にいても暇だから』である。
 何故家にいるのかは……そうそう、鶴屋さんの卒業後の進路の説明がまだだったな。別に他言無用って訳でもないが、別段話す必要もなかったから今まで何もしなかったわけだが。でもまあ発表しないと話がややこしくなりそうなので、いまここに宣言しよう。
 鶴屋さんは現在のところ学校にも行かず、家で家事手伝いをしている。『プー太郎且つニートだねっ』とは鶴屋さん自身が仰った言葉だが……現実は少し違う。
 決して鶴屋さんは進路放棄をしたわけではない。俺は『現在のところ』って言ったんだ。でも浪人しているわけでもないぜ。どうだ? 分かるかな? 少しシンキングタイムをあげよう…………はい時間切れ。それじゃあ発表する。
 なんと鶴屋さんは、海外の大学に入学するのだ。
 いつ受験していつ合格通知が来たか、なんて事は知らない。ただ卒業式の際、進路について未だ何の発表も無かった鶴屋さんに何気なく質問したところ、あっさりと白状した。ハルヒもそんな話は聞いてなかったらしく、30秒くらい釈迦無尼仏の如く固まっていた。まあその後は賛辞を浴びせまくっていたけどな。うちの高校から海外の大学へ行くのは初めてのことで、先生陣も大いに喜んでいた。
 しかし、よく海外の大学に行こうなんて考えたよな。それに一発で合格するなんて、凄すぎるぜ、鶴屋さん。
 もしかして、鶴屋家の権力によるものか、はたまたハルヒがそう願ったからなのか……いや、どちらでもない。鶴屋さん本人の実力だ。このお方に関してはそれで納得できる。
 つまりはそんなわけで、鶴屋さんは大学が始まるまでの間、暇を持て余したのだ。聞いたところによると、海外では9月から授業が始まるのが普通らしく、それまでは特に何もすることが無いらしい。だからこうして我が団の名誉顧問職を粛々と執り行うためにやって来ているのだ。いいよな、受験戦争が終結した人は。
(ふふふ、本当は暇じゃないんですよ、鶴屋さん。9月までは、鶴屋家の次期頭首としてのお稽古や習い事が毎日朝から夜まであるんだから)
 そう漏らしたのは朝比奈さん。しかし、鶴屋さんはほぼ毎週1回か2回はこの部室に顔を出している。全然忙しそうには見えない。
 それに毎日稽古や習い事があるならば疲れてヘトヘトになってるだろうし、その上ようやく解放された早朝山登りを好きこのんでやろうって気にはならないと思う。普通。
 だが元気という要素から9割以上構成されている鶴屋さんの事だ。習い事を全て受けた上で、なおかつ部室にお邪魔するくらいのエネルギーは常に持ち続けているだろう。
 それくらいのパワーが無ければハルヒとうまくやっていけるとは思えないし、それに将来鶴屋家を引っ張っていく存在だ。別段おかしい事じゃない。
 しかし……正直なところ、あまり鶴屋さんには頑張ってもらいたくないね。そのうちハルヒが全世界にSOS団の存在団の支部を作り兼ねない。この前も希望に満ちあふれた目で、その話を鶴屋さんに振っていたからな。
 俺たちや佐々木を各国の支部長に任命して……って話を聞いた時点で俺は寒気がしてその場を退散したんだが、その話、どこまで本気なのか。今度進捗状況を聞いてみよう。



「そう言えばキョンくん、こんな時間にそんなところに隠れて何をしてたんだいっ!? まだ団活を始める時間には早いっさね。まさかハルにゃんにおいたをしすぎて教室に帰れなくなったとかかいっ!?」
 そんな訳ないでしょ。むしろおいたをしているのはハルヒの方でして……
「……って思い出した。こんな事している場合じゃなかったんだ。鶴屋さん……あなたは鶴屋さんですよね?」
「どうしたんだいキョンくん。藪から棒に。あたしはこのとおり」と、くるっと一回転。ロングヘアーが綺麗にはためく。「いっつも元気いっぱいお腹いっぱいの鶴にゃんっさ!」
 よかった。鶴屋さんは無事だったらしい。
「いえ、ちょっとした確認を取りたかったんです。実は……実は、ハルヒ達の姿が朝から見あたらないんです」
「へえ!? どういうことだいっ、それは!?」
「ハルヒだけじゃないんです。長門も、古泉も。いなくなってしまったんです」
「ええええ!? そりゃめがっさ大変なことになってないかい!? 皆で盛大にかくれんぼしちゃったってわけ!?」
「あるいは、そうかもしれませんが……そしてもう一つ不思議なことがあるんです。各々の教室で、3人の席に座ってた人物が橘……鶴屋さんは知らないか……とある女の子だったんです」
「ほえええー。こりゃー不思議なことこの上ないね。ハルにゃんに連絡しなきゃ!」
「そのハルヒの姿が見えないんです。鶴屋さん、何か知ってませんか?」
「うーん。あたしは何も知らされてないけどね。っと、そうだ。あの子なら知ってるかも」
「あの子!?」
「うん。相変わらず臆病でさ。さっきも誰かの声を聞いて、怖いからって遠巻きに隠れているのさ。今でも。ちょろーんと待っててくれないかい? 今呼んでくるよ!」
 言うや否や、鶴屋さんはドタドタ足音を立てて廊下の彼方へと消えていった。



 部室のガラス越しに見える雲が俺の視界から5cm程移動した後、辺りを揺るがす振動が再び起こり始めた。
「おっまちー! 連れて来たっさ!」
 もちろん鶴屋さんの登場である。誰かを連れてきたのだろう。その手に他の誰かの手が握られていることが確認できた。
 そう言えば、俺が聞いた声も一人ではなく二人だったな。となれば、鶴屋さんの知り合い……朝比奈さんか? でもこの時間は大学生といえども講義中だと思うのだが……
「……、こわがんなくても大丈夫よっ! あの声の正体はキョンくんだったからさ!」
『本当、ですか……?』
 廊下の外で声が聞こえる。鶴屋さんが連れてきたお客さんはかなり臆病らしく、未だ俺とご対面願っていない。一体誰を連れてきたのだろうか? 会話からして、俺のことを知っているような感じなのだが。
「さっ、入るよ!」
「きゃっ!!」
 鶴屋さんは片手にしたその少女を無理矢理引っ張り――そして、俺は硬直した。


「あ、あの……おはようございます、キョンくん……」
「……お、お前……」


 硬直したままではあったが、頭の中ではむしろ冷静な判断を下していた。
 ――こんなに早く姿を現すとは、こっちが思っても見なかったぜ。
「……ご、ご機嫌……いかが、ですか……?」
 少女は震えながらも会話を続けていた。恐らく、俺の機嫌伺いをしているのだろう。彼女の言葉通りに。
 ふふふ、ご機嫌、か……さっきまで冷たい雨が降る夜道を延々と歩かされるような心境だったが、ようやく雨がやんで日が差し始めた、っていう心境だぜ。ったく……こいつのせいでいっつもいっつも被害にあってんだから、勘弁して欲しいモンだぜ。
 だが、今度はこちらの番だ。俺以外に……SOS団のメンツにまで被害を拡大させた、お前の罪は相当重いぜ?
「ひっ……!」
 俺の心理状態が分かったのか、それとも厳しい目つきにびっくりしたのか……どっちだって構わん。
 少女は栗色の髪を震わせつつ、大きい瞳を潤ませながら、それでも俺を見据えていた。


 ……さて、洗いざらい吐いてもらうぜ。橘京子よ。



「聞きたいことは山ほどある」
 部室の入り口――鶴屋さんと橘。二人が立つその場所。そこに向かって一歩一歩踏みしめていった。
「一体これはどういう事だ? どうしてハルヒがお前の姿になっている?」
 本当は速攻走っていって、あいつに問いただしたい。言わなきゃ首を締め上げて、吐くまで吊し上げたいくらいだ。
「それに他の皆の姿も見えん。いるのはお前の姿だけだ……何をした?」
 だが、あえてそんなことはしない。牛歩の如く進むことによって、恐怖におびえる時間を少しでも長くしてやる。俺が今日一日感じた不安分は、きっちり落とし前をつけてやる。

「何をしたんだ……何を吹き込んだんだ……言え」
「ひぇぇ……あ、あの……キョンくん……」
「っさい!! 黙れ!!」
 ――我慢の限界だった。俺はあと一歩のところまで近づいた後、橘を引き摺り寄せた。
「言えってんだろうが!!!」
「ご、ごめ……ううっ!!」
「お前のせいでこんな事になったんだ! わかってんのか!」
「……ぐぅ……!」
「俺だってこんな事はしたくないんだ! 頼むから早く……ぐおっ!!」
 突如。俺の右肘に鈍い痺れが奔った。右手に力が入らない。そして……
 ――トスン――
 橘は、軽い音をたててその間に座り込んだ。
「ちょっとぉ、どうしたんだい、キョンくん。いきなり女の子に乱暴するなんて、キョンくんらしくないっさ」
 俺の右腕が突然痺れた正体。それは直ぐに分かった。ここにいたもう一人の人物、即ち鶴屋さんがやったのだ。女の人とは思えない握力で肘の部分を掴み、締め上げ、そして橘を解放したのだ。
「いくらキョンくんとはでも、これ以上のおいたはさすがに許せないね、お姉さんはっ!」
 努めていつも通りの口調をしているつもりなのだろうが、むしろそれが鶴屋さんの怒りを露骨に示していた。これほど激怒している鶴屋さんは見たことがない。
 ……違う。正確には昔に一度だけある。それも今と同じように、自分とは違う世界に飛ばされた時だったか。あの時は……
「キョンくんは男の子なんだからさ、やさしくエスコートしてあげなきゃ。そんなんじゃいつまで経っても想いの彼女をゲットできないさ!」
 いや、違う。あの時の鶴屋さんは、もっと厳しい表情をしていた。朝比奈さんを外敵から守るボディーガードの様に、容赦なく鋭い眼光を携えて、俺を牽制していた。それもそのはず、鶴屋さんは俺のことを知らないのだから。
 だが、今ここにいる鶴屋さんは違った。
 厳粛な表情を示しつつも、優しく諭す聖母マリアのような慈悲の心が表れていた。まるで、俺にアドバイスをするかのように。
 ――ああ、そうだった。この人は異世界在住の、俺の存在を知らぬ鶴屋さんではない。
 ハルヒを含むSOS団全員のよき理解者、ハイテンションな名誉顧問の鶴屋さんだ。

 俺の、記憶通りの。


「申し訳、ありませんでした」
 素直に謝った。いくら諸悪の根源とはいえ、いくら俺の気が立っていたとはいえ、女の子に手をあげたのは事実だ。
 鶴屋さんは正しい。俺が悪かった。そう自分でも思ったから。
 しかし……格好悪いな、俺。
「うん。よし! 許そうじゃないか!」
 自責の念に駆られる俺に対し、首を縦に振り、鷹揚に頷く名誉顧問。さすが鶴屋さんだ。器量のよさ、器の大きさは財閥の跡取りの証拠かもしれない。
「ありがとうござます、鶴屋さん。ただ……」
「ん?」
「一つ教えてください。鶴屋さんは何故、橘と一緒にここに来たんですか?」
「へっ? たちばな??」
 鶴屋さんが間の抜けた返答をした。
「何を言ってるんですか。彼女ですよ、彼女」
 未だ床に蹲っている彼女を指さした。
「橘……? それはコードネームか何か、かなっ?」
「へ?」
 今度は俺が声を上げた。
「あの……鶴屋さん、少し会話が食い違っているみたいですね。お互い」
「うーん。そうっさね……もう一度、最初から話してみようか?」
「え、ええ。鶴屋さん。彼女……ここにいるこの人は、橘京子さんで間違いないですよね?」
「ええっと……そこから既にあたしの記憶と違うんだけど……」
「あの……では一体この人は誰ですか?」
「ええと、キョンくん、もしかして忘れちゃったのかな……昨日会ったばっかりだと思ったんだけどな。違うのかい?」
 記憶を呼び戻す。普通に学校に来て、普通に勉強して、普通に団活に参加して、そして帰った。橘と会った記憶は金輪際無い。
「もしかして、記憶喪失ってやつかな? そう言えばさっきから少し態度がおかしいし……今から病院にいってみるかい? おじきの経営している総合病院なら、脳外科でもイの一番に見てもらえるよ!」
「い、いえ……多分大丈夫です。皆の記憶はちゃんと残っていますから」
「そうかい? でも無理しちゃいけないっさ。いつでもベッドは空けとくからさ、気兼ね無く寄ってってよ! 毎日来ても構わないから!」
 ベッドが必要なほど重患でもないですし、毎日通うほど老いぶれてもないです。だから勘弁してください。
「それじゃあ、彼女の名前を教えてください。鶴屋さんの記憶の中にある、彼女の名を」
「わかったよ。言ったら思い出してくれるかもしれないしね。彼女は……」


「なっ……」
 ――さしもの俺も絶句した。
「どうだい、キョンくん。思い出したっかな?」
 いえ……その名自身は俺だって覚えていますが……いくら何でもそれはあり得ませんよ。第一顔と名前が一致しません!
「うーん、やっぱり記憶喪失かもしれないねえ……もしかしたら、あたしが記憶喪失になっちゃったの、かな?」
「う……」
「おや……本人が目を覚まし始めたね! キョンくん、あたし達であーだこーだ言っても埒があかないっさ! ここは一つ、本人に聞いてみることにしようよっ。今度は襲っちゃダメだからねっ! 大丈夫かい!?」
「ええ……大丈夫です……ごめんなさい、心配かけちゃって……」
 言って鶴屋さんは、『彼女』を起こし――
「キョンくん。わたしが悪いんです。ごめんなさい」
 『彼女』は、いきなり謝り始めた。
「鶴屋さんも、ごめんなさい。迷惑かけちゃって。キョンくんがあんな態度をとったのは、仕方ないんです。わたしが悪いんですから」
「そうだったのかい? あたし何にも知らなかったよー。こっちこそメンゴっさ!! それよりさ、どうもあたしとキョンくんの記憶に食い違いがあるみたいなんだ。ちょっち教えてくれないかなっ、あなたのお名前を」
「はい、分かりました……」
 『彼女』は俺を見て、申し訳なさそうに目線を落とした。しかし、すぐさま俺の顔を毅然とした態度で見つめて、そしてこう言った。


「わたしは……わたしの名前は、朝比奈みくるです」


 ……な、何を言ってるんだ……?
 声も引きつって出すことができない。俺の五感は著しく低下しているようだ。
「キョンくん……」
 橘が――朝比奈さんを名乗った橘が、俺を心配そうに見つめていた。
 馬鹿橘、そんな顔をするんじゃない。そんな顔して許されるのは朝比奈さんだけだ。本物のな。いくら真似をしたからって、お前は朝比奈さんとは似てもにつかないんだよ。
「ショックが大きいかもしれませんが、これは本当なんです。わたしは朝比奈みくるなんです」
 口調まで似せやがって……手の込んだことが好きな奴だ。ハルヒのモノマネもそっくりだったしな。
「お願い。分かってください。こんな姿じゃ信じられないかもしれないけど、お願い……」
 この腰の低さ、そして保護欲をそそるその仕草。完璧に朝比奈さんだな……いや、本当に上手なモノマネだ。いつの間にこんな芸を仕込んだんだ。今度俺の代わりにハルヒに見せてやってくれ。
「ええと、その……キョンくんは今キョンくんが抱えている事実が判断できなくて、ここに来たんじゃないかと思うの」
 何を言い出すんだ、橘、突然……?
「恐らく、それを必死で否定しているの。だから、わたしの存在を否定したり、わたしにあんなことを……」
 何が言いたいんだ……さっぱりわからん……
(さっきの写真をよく思い出すんだ)
「でも、逃げちゃダメ。あなた自身、その結論に達しているはず」
(その通りだ)電波な事を言い出しやがって……
「今日、教室で涼宮さんとお会いになったでしょ? 涼宮さんを見て、その考えは浮かばなかったのですか?」
(ああ、浮かんだとも)…………。
「他のメンバー、古泉くんや長門さんはまだ見ていないですか? もし見ていないのなら見に行きませんか?」
 やだ! 何が楽しくて授業中に尾行しなきゃいけないんだ! (いや、もう見た。4人が4人とも)
「それで結論が出るはずです」


(……ああ、もう出てる。あいつらは……)
(……いや、まだ出ていない! あいつらは……)
 ――俺の、二つの意見。
 朝比奈さんの考えを肯定する意見と、そして否定する意見。
 相反するもの同士。お互いに受け入れられることはなく、鬩ぎ合い、鎬を削って再び対峙する。
 そんなことがどの位続いたのだろうか。
 この全面戦争は、突如として終止符が打たれた。

 ――混乱の絶頂にあった俺の意識が、ブラックアウトすることによって。



 消毒薬の匂いが気になって目を覚ました。
 視界に入ってきたのは白い天井、そしてベージュの遮光カーテン。
 何度も何度もお世話になったことは無いが、これだけの条件で思い浮かぶところは他にない。
「そうか……気を失ってここに……」
 分裂症まであと一歩と迫った俺は、突如として意識を失った。多重人格者になるためには脳みその容量が不足していたのかもしれない。今でも頭がボーッとしているからな。
「あ、気がつきました? キョンくん」
 カーテンの向こう。うっすらと透けて見える影が動いた。影を司る張本人はこちらに近づき、そしてカーテンを開けた。
「ごめんなさい、大丈夫?」
 早春の息吹を感じさせる声。縮みこまった心を綻ばせるその仕草。俺に希望と安らぎを与えてくれるそのお方は――
「ええ、あなたが運んでくれたんですね。申し訳ありません、……朝比奈さん」
「えっ?」
 声の主は、驚いたような声を上げた。そして。
「……ううっ]
「あ、あの……朝比奈さん?」
「うっ……よかったぁ……」
「あの、俺は大丈夫ですから。そんなに泣かないでください」
「ううん、違うの……キョンくんが分かってくれて嬉しかったから……このまま信じてくれなかったらどうしようかと……うぐっ……」
「すみません、もう大丈夫です。ご迷惑をおかけ致しました」
「よかった……よかった……」
 俺は泣きじゃくる少女……とても大学生とは思えない風貌を漂わせるツインテール姿の『彼女』を賢明にあやした。親戚の子供にそうするように。
 やれやれ、これじゃ俺の見舞いに来たと言うより、見舞われに来たって感じだぜ。でも、それだけ心配してくれてるって事だ。あんな事をしたっていうのに、この橘は本物の朝比奈さんっぽい。
 ――いや、訂正しよう。間違いなく朝比奈さんだ。
 気を失う前までは、予想を覆す出来事に精神がかなり高ぶっていたらしく、この世界の朝比奈さんである『彼女』に対して手を出してしまった。
 メイド姿のあの写真を見たときには既に気づいていた。自分の中にある、『4人が橘の姿に変わってしまった』という事実に。しかしそのことを否定し続けるもう一つの自分が、その感情を押し殺して先走ってしまった。
 本来なら、あるいはこれが初めての経験と言うことであればこんなに憤怒することも無かったと思う。しかし以前の事件でSOS団が、メンバーの存在が消失してしまうことにショックを受けた俺は、一段と皆に気をかけるようになってきた。
 ハルヒがネットサーフィンをしている傍ら、朝比奈さんのお茶で一日の疲れを癒やし、古泉と勝負にならないカードゲームをし、片手間に長門の読書姿を見る。
 こんなたわいもない生活が、俺は好きになっていたのだ。だから、この関係を崩す奴が現れたら機関だろうが朝比奈さん(大)だろうが宇宙人の親玉だろうが、もちろん橘であろうと許す気は無かった。
 だから、橘の姿を捕らえたとき、あんな事をしてしまったのだ。事実を把握することなく、俺の主観的軽率的な行動で。
 だけど今は違う。気を失って少し眠ったからすっきりしたというのもあるが、この橘(朝比奈さん)を見れば分かるし、鶴屋さんだって俺の知っている鶴屋さんと変わりなかったから、俺は早く立ち直ることができたのかもしれない。
「っと、そう言えば鶴屋さんはどうしたんですか?」
 ここに来て鶴屋さんの姿が無いことに気がついた。考えてみれば、女の子一人がで男一人を背負って離れの棟からここまで運んで来たとは思えない。こと朝比奈さんと同等能力をもつ『彼女』であれば余計そう思う。
 鶴屋さんと二人で一緒に運んだって考えるのが普通なのだが、保健室にいるのは俺と橘(朝比奈さん)以外の姿は見えない。
「あ、鶴屋さんは部室にいます」と橘(朝比奈さん)。「わたし達があの時間、部室に行ったのは理由があるの」
 どんな理由なんですか?
「あ……えと、それはごめんなさい。今は言えないです。禁則事項じゃないんだけど、鶴屋さんに怒られちゃう」
 きっと鶴屋さんが何か企んでて、それに橘(朝比奈さん)も巻き添えを喰らった。恐らくそんなところだろうか? でもそれなら鶴屋さん一人で行動すれば良いんじゃないですかね。朝比奈さんは大学の講義もあるでしょうに。
「今日の講義は休講なの。先生の都合でね。他の講義もあったけど、出席取らないし、レポートだけだしてさぼっちゃった」
 ペロッと舌をだし、自分の頭を軽く小突く橘(朝比奈さん)。仕草の可愛さとは裏腹に、俺はやや面食らっていた。やたらと生真面目気質の朝比奈さんが講義をさぼるなんて思っても見なかったんで、つい。
「いつもさぼってません」慌てて言い繕う。「今回は、本当に特別です。鶴屋さんのお手伝いをしたかったから、頑張って講義をさぼったんです」
 それは分かる。朝比奈さんは大学生だというのに、朝から夕方までキッツキツに授業を入れているし、その上ハルヒに言われてSOS団の団活まで参加しているくらいだからな。講義をさぼるための言い訳を最低126回はシミュレートしただろう。
「でも鶴屋さんに悪いことしちゃったな。キョンくんをここまで運んだ後、一人で部室に戻っていったの。『キョンくんがめがっさ心配だから、みくるが付き添ってあげてよっ』って言って」
 なんと。これは鶴屋さんに感謝しないといけないな。朝比奈さんに見守られて寝てられるなんて、幸せなことこの上ない。そうだと分かったらもう暫く寝たふりをするべきだった。
 ……まあ、少々欲を言うと容姿は橘ではなく朝比奈さん本来のものがよかったが……仕方あるまい。
「でも、キョンくんが苦しんでいたあの時、キョンくんの首に手刃を当てて失神させたのも鶴屋さん。実は」
「えっ? そうなんですか?」
 そう言えばあの瞬間、首に何か違和感を感じたような気がしたが……
「うん。わたしが一方的にやられているのと、そして苦しんでいるキョンくんを見ているのは忍びないって言って。それでね、運び終えた後、わたしとキョンくんを二人きりにさせたの。まるで、言いたいことはここで話しなさいって言う感じで」
 恐らく鶴屋さんが気を利かせてくれたのだろう。俺の様子を見て、朝比奈さんと何か歪みが生じているのを察知し、そして二人で会話させるために俺を気絶させ、そしてここに運んだ。
 多分俺が正気を取り戻すのを見越しての処置だろう。でなければ二人っきりにするはずがない。橘(朝比奈さん)を手にかけたのは紛れもない事実なのだから。
 相変わらず素晴らしいまでのカンの鋭さだ。いろんな事を見越して道標を記してくれる。鶴屋さんがいる限り、鶴屋家は栄華を極めそうだ。
「でも、キョンくんはこの世界の存在を受け入れてくれました。わたしが呈する前に。よかった。あまり厳しいこと言いたくないもの」
「この世界の存在って、それはつまり……」
 いよいよ話の核心へと迫ろうとしたその時、しかし俺の発言は掻き消された。
 ――勢いよく開く扉の音によって。


「キョーン! 起きなさぁーい!!!」
 その後に続く橘(ハルヒ)のモーニングコール……正確にはアフタヌーンコールによって、この話は完全に後回しになってしまった。



 時計を見ると、既に放課後の時間になっていた。俺は飯も食わず、昼前から昏々と眠り続けていたようだ。そりゃ頭もすっきりするし、気力も復活するってわけだ。
 ハルヒはHR終了後、直ちにここに駆けつけて俺をたたき起こしに来たようだったが、予想外の客……橘(朝比奈さん)を見て、しばしぽかーんとしていたようだ。
 変なことを言い出す前に俺が『保健室に行く途中に会って、無理を言って看病してもらった。鶴屋さんも一緒だった』と事実を改竄した報告をすることでその場を水際で凌ぎきった。
 橘(ハルヒ)は微妙に目を細め、信頼していいのかどうなのか迷うなー、って感じの視線を送り続けていたが、それもつかの間のことで、『ま、いっか』の一言で全てを一蹴してくれた。
 念のため、鶴屋さんに会ったら口裏を合わせた方がいいかもしれない。ああ、でもあの人なら俺が何も言わなくても察してくれるだろうからあまり心配しなくてもいいか。
 つまりはそんなわけで、俺は起きあがってブレザーを着込み、部室へと向かっていった。そこまではよかったのだが……
「ねえみくるちゃん、実はこの前場末にある怪しさ大爆発って感じのカレーショップに行ったんだけど、実はすっごく美味しかったのよ! 店の人もすっごくいい人で、大盛り無料にしてくれたの。不思議なことこの上なかったわ。今度一緒に行ってみない!?」
「ふええええ、あ、怪しさ大爆発ってのは何だか嫌な気がしますぅ……」
「大丈夫よ。気さくないいおっちゃんだったから。それに今度また行くって約束したのよ。お店の宣伝に最適な女の子を紹介するから、って言ってきたの。だからみくるちゃん、行くわよ!?」
「あのあの……まさか、お店の宣伝って、またぁ……」
「毎回バニーガールってのも芸がないし、今度は違う服装で行くわよ。カレーだからインド。インドといえばサリー姿が基本ね。でもスリランカやモルディブは暑いから、水着姿が良いかもね。うん、サリーと際どい水着のコラボで行きましょ!」
「ええっ、そんなぁ……」
「サリーはスッケスケの方が良いわね。ネグリジェみたいなエロエロなやつ。みくるちゃん目当てで入店する人が続出するわ。そして売り上げ倍増、お店の人も喜ぶしあたしも報酬がもらえるし、何よりSOS団の宣伝にもなるわ。我ながら素晴らしいアイデアね!」
「わひゃ! ダメです……」
 馬鹿かお前は。朝比奈さんに多大なる迷惑がかかるだろ。やるんなら自分一人でやれ。
 ……などといつもなら突っ込むのだが、今回はそれすらできず、二人の会話を見守っていた。北高の制服を着た橘が淡いベージュのワンピースを着こなした橘に抱きついてムニムニとしているのを見れば誰だって意気消沈するに違いない。
 逆に考えたら千載一遇且つレアな光景かもしれない。双子でもここまで似てないだろう。まだ服装が違うから良いものの、もし同じ格好で黙って立たされたら見分けなどつくはずもない。
 ったく、何で橘がこんなに増殖してしまったんだ? これ以上増殖したら泣くぜ俺は。
「みんなぁー、おっ待たせぇー!!」
 そうこう考えている内に部室棟へとたどり着き、橘(ハルヒ)の恒例行事の如くドアを勢いよく開けて……
「やっぽーい、ハルにゃん! お邪魔してるっさ!」
「…………」
「お待ちしておりました。おや、朝比奈さんもご一緒でしたか」

 ……異様な光景は、輪をかけて大きくなった。どのくらいの輪かと言うと、恐らく土星の衛星軌道上にあるリングくらいじゃないかと思うんだがどうだろうか。もしかしたらハレー彗星の軌道の輪くらいかもしれない。
 だいぶ大きさが違うという意見もあるかもしれないが誤差の範囲だ。文句は一切受け付けない。
 クールダウンしていた俺の脳みそが再びヒートアップし始めたような気がするが、冷静に冷静に。ひとまず俺の今の状況をおさらいしようではないか。
 まず、俺の目の前には橘京子の姿をした二人がいる。今まで俺と一緒に廊下を歩いていた、橘(ハルヒ)と橘(朝比奈さん)の二人だ。これは既にお分かりの通りであろう。
 しかし目線の奥、長机の上に置かれた将棋盤の横と窓側の隅にそれぞれ腰掛けた二人は、どこかの約二名と全く同じ容貌をしているのだ。


 すっかり忘れてた。鶴屋さん以外のメンツが、全員橘京子の姿をしているんだった。
 さっきの言葉は訂正する。泣くのはもう少し後回しにさせてくれ。



「で、これは一体どういう事なんだ?」
 橘(朝比奈さん)が「着替えますね」とやんわりと話しかけられ、俺は途方に暮れるまもなく廊下へと歩き出した。何となく目に入ったグラウンドではサッカー部の奴らがまさに部活を開始しようとしていた。
 それぞれがグラウンドに散っていったところで橘(古泉)が俺と同じく部室から追い出され、そして第一声にその言葉をかけたのだ。
「さあて、どういう事でしょうかね。困ったことになりましたね」
 全然困ったとは思えないような薄笑いを浮かべる橘(古泉)。感情を表さず微笑むその面は、あの時の誘拐事件を思い出してしまう。あまりそんな顔をしているとそのうち殴ってしまうかもしれないからそこんところどうかご了承いただきたい。
「相手の同意を得ない暴力は得策とは言えませんね。例え橘京子だとしても。逆に傷害罪でこちらの立場が悪くなってしまいます」
 相手の同意を得られる暴力なんてあり得ないだろ。
「それもそうですね」そんなことはどうでもいい。なんでお前ら全員が橘京子の姿をしているんだ? それともこれは改変された世界なのか?
「前者も然り、後者も然り、と言ったところだと思います。そして、どちらも非なることも考えられます」
 姿が変わっても回りくどいなお前は。もっと簡潔に、俺の妹でも分かるように説明しろ。
「僕の言語能力ではあなたの寵愛なさる妹君にうまく説明できるかどうか……できる限りやってみましょう。さて、今回の件を簡単に説明致しますと、世界が改変されたのは間違いないと思います。しかしごく一部の改変にしか過ぎませんが」
 ごく一部の改変……お前達の外見がそのツインテールになってしまった。それだけなのか?
「はい。僕はこのSOS団に入団し、そして副団長として涼宮さんの助けをしてきたことを明確に覚えています。そして自分の能力、機関についてもまた同様です。恐らく朝比奈さんや長門さんも、そしてあなたも同様なのでしょう」
「ああ」確かに。外見以外は俺の記憶と一致しているようだ。
「しかし、奇特な点も見受けられます。僕はこの姿に改変されたことを明確に覚えているんです。元々所有していた、オリジナルの姿の記憶はきちんと残っています。普通世界が改変されたとしても、自身がその改変に気づくことなどあり得ません」
 午前中の部室での1シーンを思い出す。朝比奈さんもそんな事を匂わせていた気がする。
「不思議なことに、僕――恐らく長門さんや朝比奈さんもそうでしょうが、姿が改変されることのなかった僕達以外の人間は、この姿を見ても何とも思っていないようなのです。まるでそれが当然であるかのように」
 またも記憶を遡る。教室にいた橘(ハルヒ)を見ても、クラスの奴は確かに無反応だった。
「ってことは、ハルヒも自分の姿が変わったことに気づいているのか?」
「いえ……それがそうでもないようです。先ほどご要望のことに関してそれとなく聞いてみましたが、いぶかしげな顔をされました。まるでこの姿を持って生まれたとでも言いたげな、そんな口調で仰っておりました」
「ちょっと待て。それはおかしい」手を出して制止する。朝比奈さんだって自分の姿が改変されたことを覚えていたんだ。何故ハルヒだけが自分の姿が改変されたことに気づかないんだ?
「気づかない、と言うよりは気づこうとしない、と申した方が正しいのかもしれません」と古泉。「言うなれば、涼宮さんが橘京子の姿でいることを望んだ、とでも申しましょうか」
 何でそうなる?
「涼宮さんがあなたに好意を寄せているのは既に自明となっていますが、なのにあなたは一向にその想いに答えようとはしていない。それは何故か。ここで、ある結論に達するのです」
 古泉――頭から2つの尻尾を伸ばした愛らしい顔立ちの彼は、自信に満ちた表情で朗々と答えた。。
「涼宮さんは、あなたが橘京子に惹かれている、そう結論づけたのでしょう」
「はあ……何でそんな結論になるんだ」
 俺はがっくりと項垂れた。古泉。お前は考え違いをしている。俺は真性電波とよろしくつきあう気はさらさら無い。ハルヒとどっちか選べと言われれば間違いなくハルヒを選ぶぞ。
「ならば選んでください」
 なっ……
「二者択一で涼宮さんを選ばれるならば、どうぞ選んでくださいと申し上げたのです」
 中に古泉が敷き詰められた橘は冷たく言い放った。
「どうしました? あなたが今すぐにでも彼女にアイラブユーと申し上げれば、あなたの元にいた世界に戻れるでしょう。ささ、早く」
「ぐ……さすがに今すぐって訳には……」
 俺の態度を見るなり、両手をあげて「やれやれ」と宣う。あからさまに侮蔑した態度だ。
「あなたがそのような関係をとり続けているから涼宮さんは不審に思っているんですよ。自分よりも橘京子の方がいいんじゃないか、そう思い始めているんです」
 俺のハルヒに対する対応が何で橘の好き嫌いに関係してくるんだ?
「本気で仰っているんですか? だとしたらあなたにもう一度情操教育を施さなければいけませんね」
 そう言って橘(古泉)は有能な部下に嫉妬するしがない中間管理職のような眼差しを向けた。
「傍から見ていると、あなたと橘さん程仲むつまじく見えるものはありませんよ」
 呆然としている俺を無視し、橘(古泉)は言葉を続けた。
「中学生の時には佐々木さんと、高校に入学して橘さんと出会うまでは涼宮さんと。あなたがどう感じているか分かりませんが、他人の目からは恋人同士としか思えない関係に見て取れるんです」
 ――中学時代のご友人が、あなたと佐々木さんを見てそのように捕らえられるのは当然だと思いますし、実際僕もこの高校生活において、涼宮さんとあなたは校内No.1カップルと言っても過言ではなかったと捕らえていました――
 ここまで言って言葉を止め、ちらりと俺を見て更に言葉を続けた。
「しかし。ここ一年程であなたを取り巻く環境は劇的な変化を見せました。橘京子の存在です。彼女のあの性格に加え、お人好しのあなたが首を突っ込むことによって、その関係を誤解させるのを助長しているんです。気持ちは分からなくもないですが……」
 今度は完全に振り向いて、俺に目線を合わせた。橘の特徴である、大きい瞳に吸い込まれそうになる。
「いいですか。今回の一件、あなたの態度次第で世界が大きく変化してしまう可能性があります。恐らく、涼宮さんの望み通りに。そしてその鍵を握るのはあなたです。もし、この世界を受け入れられないのであれば、即否定してください。涼宮さんの前で」
 それはつまり、ハルヒに告白しろと。そう言いたいのか?
「そう思ってもらっても差し支えありません。そうすることによって、あなたが……すみません、正直に申し上げます。僕が望まない世界に進行していくのが妨げられます。それにこの姿、男性の僕にとってはあまり居心地の良い物ではありませんので」
 確かに。俺だけでなく、古泉もそうだろうし、恐らく長門や朝比奈さんだってこの世界を望んではないだろう。告白とまではいかないでも前向きに検討しておくよ。元の世界に戻れるようにな。
「ありがとうございます。今すぐに、とは申しません。僕たちの能力は健在ですし、多少の猶予はあるでしょう。宜しくお願いしますす」
 橘(古泉)は微笑んで首を傾げた。顔が顔だけにドキッとする。だがこいつは……
「おや? どうされましたか? 虚ろな表情が漂っていますよ」
「うるさい。黙れ。お前の姿を見て疑問に思うことがあるんだよ」
 話を逸らすことにした。実際聞きたいこともあったし。橘(古泉)の姿は、ある意味異質なものだった。お目々パッチリのツインテールは皆と同じなのだが、着ているものが女性陣と異なっている。つまり、女子の制服ではなく、男子の制服を着ているのだ。
「ドラマなんかで男装した女子高校生が男子校に潜入しているってのは見たことがあるが……お前の場合どうなんだ?」
「僕はこう見えても一応男性と言うことになっているようです。そうでなければ先ほど朝比奈さんの着替えの際、外に追い出されたりはしませんよ」
 なるほどな……ならば一つ聞いて良いか?
「なんでしょうか?」
「お前……外見は橘京子なんだろ?」
「ええ。ご覧のとおり」
「なら、当然疑問として浮かび上がってくるんだが……実際のところ、アレはついているのか?」


 ――数秒間の沈黙の後、橘(古泉)はいつもの薄笑いを浮かべてこう言った。
「よかったら、触ってみますか?」

 ……丁重にお断りさせていただきます。



 そんな話をしていると、『お待たせ致しましたぁ~』という舌足らずの朝比奈ボイス(いや、声は橘なんだが)が耳に届いたため、俺たちは部室の中に入り、本日の団活に精をあげることと相成った。



 パチン
 将棋の駒の音が鳴り響く。俺の棒銀が、相手の矢倉囲いを崩すべく奮闘している音だ。
 コポポポポ……
 急須にお湯が注がれる。もうすぐおろし立ての新茶を味わえるだろう。
 カチッ カチッ
 どこかの団長さんが、またネットサーフィンで怪しげなページを見ているのだろう。
 ペラッ
 紙が擦れるような音がした。まるでページを捲ったときに鳴るような、微かな音だ。
 いつもと変わらぬ行動、音、匂い、風景。
 そう、俺たちSOS団はいつもと変わらない時間を過ごしている。
 ただし――それは目をつむった場合だと付け加えさせてもらおう。
 俺の必勝手に全然困ってないような顔をして将棋盤を見ているのが橘京子だったり、お茶配りをしているのが橘京子だったり、そのお茶をガバッと一秒で飲み干したのが橘京子だったり、無表情で本を読んでいるのが橘京子だったりすると状況は一変する。
 あっちを見ても、そっちを見ても、まっすぐ前を見ても橘京子。
 正直に言おう。気持ち悪い。
 ここまでくるとドッペルゲンガーもしっぽを巻いて逃げ出すだろう。なるほど、橘京子があれだけ凄惨な目にあっても死なないのは死神にすら嫌われているからだろう。納得納得。
 さっきまでこの部室にいた唯一まともな外見を持つ鶴屋さんも、用事が終わるや否やカテゴリ5並の風速を伴ったハリケーンみたいに部室から消え去っていた。相変わらず素晴らしいまでの勢力だ。
 近くにいるとそれほど感じないが、少し離れるとそのパワーをまざまざと実感する。まさしく台風の如きお方だ。良い意味で。
 それに普通の台風は過ぎ去った後は被害しか残していかないが、鶴屋ハリケーンに関しては全くそんなことはなく、むしろ素晴らしいものを残していってくれることの方が多い。例えば――
「んぐっ、んぐんぐ……けふっ。めっちゃうまいじゃないの!」
「本当ですか? 初めて作ってみたんだけど、少し自身がなかったんだけどな……」
「いえいえ、秀麗なる出来映えです。店頭に並べて販売したとしても、誰もクレームをつけることのないくらいの逸品かと」
「うふっ……ありがとうございます」
 ――俺たちが今口にしている、このストロベリーパイはその典型だ。
 本日鶴屋さんと橘(朝比奈さん)が早い時間に部室に現れたのは、このパイを焼くためだったらしい。以前SOS団+鶴屋さんとでイチゴ狩りに行った際、取りすぎて余ったイチゴを部室の冷蔵庫に保管していたのだが、困ったことについ最近まで皆忘れていた。
 それにいち早く気づいた鶴屋さんが皆に秘密でパイを焼こうと考えついたらしく、朝比奈さんを連れ出して本日パイを焼くことに決めた。もちろん、俺たちに内緒で。
 とどのつまり、皆に衝撃と驚愕を与えようとする、鶴屋さんの陰謀だったのだ。
『あ……えと、それはごめんなさい。今は言えないです。鶴屋さんに怒られちゃう』
 保健室で、俺が意識を取り戻した後にした会話の一部から引用。なるほど、そう言うことだったのか。今になってようやく分かった。鶴屋さんにしてやられたのは本日何回目だろうか。
 もっとも、様々な特殊勢力が蔓延るSOS団のメンツ全員を出し抜くなんて、鶴屋さんにしかできないがな。
「みくるちゃん! ストロベリーパイにはストロベリーティーが必要じゃないの? ダメダメ、お茶なんて。やっぱりこういうのはマッチングが大切なのよ。いい? SOS団にメイドさんが必要なのと一緒なの。だいたい……」
 そんな中、鶴屋さんに負けず劣らずのハイテンションで理解不能のマッチングとやらを力説するのが約一名。そして、よせばいいのに三文の得にもならない演説に耳を傾けるのもまた一人。
 外見は同じであるものの、性格には何ら疑問を感じ得ない。他の二人に関しても、また同じ事である。
 だがそれが一番の懸念事項であることも確か。早く、元の姿を取り戻し、俺の杞憂を絶ちたい。
 ここは俺の居るべき世界じゃない。

 パタン。

 そうこう考えている内に、時報よりも正確な時を告げる音が鳴り響いた。



 夕暮れ時の帰路。先頭で楽しそうに会話をしている橘(ハルヒ)と橘(朝比奈さん)を余所に、俺は無口なツインテールに接近した。あと話をすべき人物は彼女しか残っていない。
「今回のタイムリミットは、いつまでだ?」
 しかし、返答は帰ってこず、アメジストのように光るその瞳はまっすぐ前を見据えていた。
「おい、どうした長門?」
 聞こえてないのだろうか? だがあまり大声を出すのも気が引ける。何となくだが、ハルヒに聞かれても不味い気がする。だがしかしこのまま靴が大地を蹴る音だけを残すのはあまりにも忍びない。
「教えることは、ない」
 え?
「その件に関して、あなたに正答を伝える必要性がない。根拠がない。義務がない」
 戦慄を覚えるような冷徹な声が、俺の耳元に届いた。
「まだ怒ってんのか……」
 そう言えば、長門は昨日からずっと機嫌が悪かった。
「どうしたんだ長門。お前昨日からえらく俺にあたっている気がするんだが、俺が何かしたか? いや、すまない。悪い事したんなら謝るからさ。そうつっけんとんにしないでくれよ」
 しかし、長門は態度を崩さない。少々悪いことをしたからといっても、一日経てば少しは軟化するのが人間だ。それが叶わないと言うことは、長門が根に持つタイプの性格を有しているのか、それとも……
「長門さんは少々おかんむりのようですね。機嫌を損ねることをされたのですか?」
 耳元で囁くな。お前の意見なんぞ求めてない。
「この姿なら少しはご寛容なさると思ったのですが」
 思わん。止めろ。姿が少女でも中身がお前である以上は気持ち悪いんだ。
「くくく、それもそうですね」
 苦笑し出す橘(古泉)。いつの間にか話し相手が変わってしまったが、特に断る必要も無かったためととりとめのない会話をしながら、俺と橘の風貌をした4人の団体は沈みゆく太陽を追いかけるかの如くその道を歩いていた。


 一抹の不安が過ぎっていた。
 『直ぐにこの世界から抜け出してやる』という初志は、団活中ストロベリーパイを頬張る時点で45%程減少していた。
 決してこの世界の住み心地が良い、というわけではない。できることなら早く脱出したい。里心とかUターンてのを肌で感じている。
 だが、姿は変わったものの、それ以外に大きく改変された訳ではない。橘(古泉)のその言葉に、安心しきっていたのだ。
 だからこそかもしれない。橘(長門)の態度に不安を感じてしまったのは。
 そしてその不安は、この世界からの脱出不可能という俺にとって最凶最悪なパターンとなって、先ほどから何度も頭の中で再生しているのだ。
 先にも言ったが、俺は今まで起きた騒動で長門の世話にならなかったということはほとんど無い。
 時空だとか別次元だとか、良くわからない空間にかれこれ何回も飛ばされているが、その空間から脱出できたのは直接的にしろ間接的にしろ全て長門のおかげだと言っても過言ではない。
 それだけ、長門の力に頼ってきたと言うことだ。
 しかし、今回の一件に関しては、長門が全く力を行使してくれない。姿が変わり、能力が消失したため力を行使できない……わけでは無いと思う。橘(古泉)の話を信用するならば。実際のところ、俺もそんな風に感じている。
 長門の能力がなくなったわけではない。これは予想だが、俺に力を貸そうとしてくれないのだ。時間が経てば自然と許してくれるとは思ったのだが……中々そうもいかないらしい。
 仕方ない。現状では姿形がオリジナルの状態から消え失せただけで、さしたる被害は見あたらない。それよりも根気よく長門に謝罪して、許してもらった後に元の世界に戻る方法を教えてもらう他なさそうだ。
 だから。皆との別れ際。
「すまん、長門」
 俺は謝った。
「…………」
 その言葉に、橘(長門)はぴくりともせず、双子のように和気藹々と語り合う他の女性陣をじっと見つめていた。



 自宅にたどり着いた後、俺は直ぐさま橘の元に電話をかけた。もちろん本家本元のKYっ子の橘にである。
 コールした後、最初に聞こえたのは女性の声。しかし彼女の声ではなく、機械的に喋るオペレータのそれだった。
「電波の届かないところにおられるか、電源が入っていないため、かかりません、だとよ……」
 電波の届かないところ? あいつ自身が電波を発生しているからそれはないな。となれば電源が入っていない可能性……どこかで携帯を落としたか、洗濯してしまったか、あるいはお魚くわえたどら猫にひったくられたか……そんなところだろう。
 ったく。要らないときにはバンバン電話がかかってくるのに、こっちが必要とする時には連絡をよこさない。本当に使えない奴だな。佐々木もその取り巻きどもも、さぞかし苦労していることだろう。
「やれやれ」
 一通り悪態をつき、溜息を一つついた後にベッドの上にゴロンとなって寝そべった。
 今回の事件の鍵となりうる人物に対してかなりひどい扱いをしていると思われるかもしれないが、それはそれ。あいつは悪態をついてナンボだ。むしろ俺がいじってやらない限り誰も構ってくれないからかわいそうな奴なんだよ。
 それに、あいつの携帯電話にアクセスできた本世界を評価してやりたい。以前ハルヒが消えた際、ハルヒの携帯に電話したときはこの番号は現在使われておりません、だったからな。アレと比べれば五十歩も百歩も前進している。
 まあ、この世界の別人に繋がる可能性もなきにしもあらずなんだが、それは実際のところ無いだろう。根拠はないが、そんな気がする。
 ともあれ、もう少し経ってからかけ直すことにするか。それでも出ないようであれば佐々木に直接連絡を取って橘の行方を探査しよう。
「にゃあ」
 俺がそんな結論に達し始めた頃、いつの間にか俺のベッドに上がり込んでいたシャミセンが俺の枕を独占しようとしていた。申し訳ないが、今から俺が使用するのでシャミセンには代わりに座布団でも進呈することにする。
 シャミセンを抱えてベッドから下ろし、座布団と夏用に取ってあったタオルケットのおまけ付きの簡易寝床に招待してあげた。最初は嫌がっていたようにも見えたが、次第に慣れたのかその場に蹲り、やがて夢の世界へと旅だって行ったようだった。
 寝付きの早さは俺の妹とどっちが早いかな。これくらい早く寝られれば、もしかして俺も寝坊せずにすむのかもしれない。今度コツを聞いてみよう。また喋ることがあったらの話だが。
「キョンくん、電話ですよ~リンリンリン~」
 一寝入りしようとしたその時、妹がの声が聞こえてきた。音楽の先生に褒められたとかで、最近作詞作曲に填っている俺の妹作、『お電話リンリンリン』を口ずさみながらその声はますます近づき、そして俺の部屋へとやってきた。
「誰からだ?」
 ベッドから起き上がってドアの前に立ち、妹から受話器を受け取る。
「えへへへ。秘密だよ~」
 無垢とも含んだともとれる笑顔を振りまきながら、意味深な発言を交える中学一年生。もう少し大きくなれば男を惑わすことができるかもしれない。自作の歌を歌わなければの話だが。
「リンリンリン、もしもしもし、はろーはろーはろー……」
 訂正。自作ではなくパクリである。音楽の道を進むのは構わないが、その前に著作権という物を勉強する必要があるかもしれない。うちの妹の場合。
『……ン! ……るの!?』
 手にした子機が震えた。
 もしかしたらこのままでも十分な音量が得られそうな気がするが、怒鳴っているようにも聞こえる。ちゃんと聞かないとまずいような気がしたので、子機を耳元まで持ってくる。
『あんた受け取ったんなら早く出なさいよ! 電話代だってただじゃないんだからね。あんまり遅いようだったら、これからコレクトコールでかけることにするわよ!』
 開口一番に響く怒鳴り声。声は違えどあいつ以外には考えられない。
「ならこっちから拒否することにする。それでハルヒ。一体何の用だ? 俺に雑用を申し込むために電話でもかけてきたのか?」
『ふふん』
 何故か得意げな鼻歌交じりの相づちを送り、
『良くわかってるじゃない。2年目にしてようやく雑用係としての自覚ができてきたって訳ね。関心関心』
「できるかそんなもん。それよりも電話をよこすなら携帯電話にしてくれ。妹の意味不明な言動と歌が頭から離れないんだ」
『良いじゃないそれくらい別に。それにさっきあんたの携帯に掛けたけど、話し中だったからしょうがないじゃない。誰に掛けてたの?』
 ああ、それはな。
「たっ……にぐち、にな、丁度電話しててな。ちょっと用事があってな」
『…………』
「おい、どうしたハルヒ?」
『ふーん、まあいいわ。それより、明日持ってきて欲しい物があるの。いっぱいあるからメモしておきなさい。あんたの頭じゃいっぺんに覚えるのは無理でしょうからね』
 機嫌が良くなったかと思えば、急に毒を吐くような物言いに態度を改め、俺が明日持参すべき物を大外から駆けてくる本命馬に絶叫するアナウンサーの様にまくし立てたのだった――



「ったく、何を考えているんだあいつは」
 俺に二の句を告げさせない、疾風怒濤矢継早に流れる単語の数々が耳に入っては出て行き入っては出ていきした後『わかったわね、一つでも忘れたら罰金だかんね』と宣言し、俺の了承も聞かずに電話を切った声の主を憂う俺のファーストインプレッションである。
 橘の声帯を借りたハルヒのその口調は、いつにも増して攻撃的だった事が印象深い。俺はその口調を目の前にして、表向きお代官様に媚びを売る材木問屋のようにはいはいと頷き、そして心の中では一人砂漠の中を歩く行商人のような気分に陥っていたのだ。
 何で俺がそんなことを、ってな。正面切って文句を言えるような雰囲気じゃなかったし、それどころか言わせてもらえさえしなかっただろうからな。
 ただ……なぜだろうか。先の電話によるハルヒの口調に、俺の心の桶に、言いようのない不安が滾ってきはじめていたのだ。下校中に感じた、あれと同等の不安が増幅し始めていたのだ。
 何故か、といわれればうまく説明できない。攻撃的な口調が原因だといえばそうだと言えるが、それだけが原因じゃないような気がしている。
 長門が未だ不機嫌を露わにしている事もその一員だろうし、朝比奈さんの諭すような口調、古泉のやや見下した感のある笑いも俺の不安の一部として構成していると言ってもあながち間違いではない。
 一体、この世界では何が起きようとしているんだ? 俺の知っている奴らを橘の姿に差し替える……こんなことをして、一体誰が得をするというのだ?
 この事件を起こした張本人は、一体何を考えているというのだ?
「明日、もう少し捜査範囲を広げよう」
 今日はもう遅い。ただ闇雲に行動しても無駄な労力を使うだけだ。キーとなる橘との連絡も取れない。今日はゆっくり休んで、明日に備えたほうがいい。
 再びゴロンとベッドに寝そべり、読みかけだった推理小説を手に取った。


 しかし、その時の俺は気づいてなかった。今にして思えば、長門に土下座してでも許してもらい、古泉や朝比奈さんと連絡をとり、元の世界に戻る方法を模索すべきだった。あるいは、佐々木や九曜達にも相談すべきだったのかもしれない。
 この時の俺の何気ない行動が、更に事態を混乱させる元となってしまったのだ。



 そして次の日。
 あれ以降、何度か橘の元に電話を掛けては見たものの、やっぱり電話に出ることはなく、仕方なしに留守電に連絡を入れるように言づてをしたのだが、暫く経っても何のリアクションも帰ってくることはなかった。
 このままぼーっとしていてもしょうがないので、俺はハルヒに言われた物を用意し、そして念のため橘にメールを入れて床についたのだ。結局、朝起きても連絡が来ることはなかったけどな。
 そそくさと準備をすませ、俺に覆い被さりそうな荷物を自転車に括り付け、行ってきますと自宅を後にしたのがついさっき。
 生命の画竜点睛なるお天道様は、止せばいいのに昨日より120%放射強度を上げ(俺感覚比)、坂道を登る北高生の背中を汗で滲ませようと躍起になってる。マジで夏服が恋しいね。
 そんな中、俺は昨日団長様に命じられた荷物を抱えてこの坂道をいつも以上に体力を浪費しながら登っていた。マジできつい。暇な奴がいたら手伝って欲しい。特に太陽。じりじり照りつけるだけなんだから暇だろう。
 いや、やっぱり止めておこう。あんなのが俺の近くで手伝おうモンなら俺の方が焼けこげてしまう。その有り余るパワーは、俺の荷物運びなど身分不相応であろう。
 手伝わせるならば、太陽と同じエネルギーを持ちつつ、近寄ってもあまり熱くないあいつにしてもらったほうがよさそうだが、教室内ならばともかく、登校中にばったり出くわすことなどこの2年以上でほんの数回しかない。あまり期待しないほうがいいかもな。
 いや、ちょっと待て。 そもそも俺がたくさんの荷物を抱えているシーンでハルヒに出くわしたとしても、だ。
 ハルヒならば『ようやく雑用係っぽくなってきたじゃない、感心感心』とほざいたあげく、『もう一個くらい荷物が増えても構わないでしょ』と言って、自分の鞄を俺が苦労して運んでいる荷物に挟み込んだりするような輩だ。
 期待するだけ無駄か。さっさと学校に向かった方が吉。
 頭の中でうじゃうじゃ考えている暇があったら、あいつに出くわさないようにした方が一億六千五百万倍くらいマシ……
「何やってるんですか、キョンくん」
 へ……?
 声は後ろから聞こえた。聞き覚えのあるこのしゃべり方は……
「そんなペースじゃ遅刻してしまうのです。早く行きますよ!」
「よう」
 俺は振り向きもせず挨拶を交わした。
「どうしたんだこんなところで。いや、やっぱりそれはいい」
 連絡が取れなかったから、少々危惧していたのだが、この世界に存在はしてたのか。……正直、安心した。
「何で昨日連絡をよこさなかったのだ?」
「へ? 何の話ですか?」
「とぼけるな。あれだけ電話したじゃないか。留守電まで入れて」
「うーん、記憶がちょっとないのです。だれかと間違えていませんか?」
 お前以外の誰と間違えるというのだ。
「例えば、佐々木さんとか」
 そう言えば佐々木に連絡を取ってなかったな。こっちに連絡した方が早く動向をつかめたかもしれなかったのに。
「そうそう、佐々木さんには連絡入れておきましたよ。今日の鶴屋さんの家でのパーティ、佐々木さんも呼んでおきましたから」
 ふーん、そうか……って、
「ちょっと待て。なんでお前が今日の事を知っているんだ?」
「え? 何を言ってるんですかキョンくん。あたしがあなたに伝えたんじゃないんですか」
 間違っても俺は橘から今日の内容を聞いたわけではない。
「へへへ、おかしなキョンくんですね。当たり前じゃないですか。橘さんからそんな情報を伝えられるわけないじゃないですか」
 ……橘? お前何を言ってるんだ?
「いやいや、おとぼけもそこまでにしてください。あたしは橘さんじゃないのです。だってそうでしょ? あたしは――」
 俺はここで、ようやく後ろを振り向いた――


 ――目にしたのは、俺の知っているツインテール。昨日俺が目にした4人と同じ姿。しかしその4人とは異なる。
 それを決定づけるのは、その喋り方。独特なプロナンシエーションは、他の誰でもない、橘京子本人が持っているものである。


 しかし、この橘京子の姿をした人物は、驚くべき事を口にした。



「あたしこそ、涼宮ハルヒなのです!」


橘京子の分裂(中編)に続く


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