私の選んだ人 第3話 「古泉一樹の告白」


「赤、黄、ピンク、青。でどうだ」
「お見事。4回目にして的中です。先程僕が6回目でしたので、あなたにプラス2点ですね」
「お前、よもや手を抜いてはいないだろうな。この手の理論ずくのゲームで、9組のお前に俺が勝つ理由が見当たらんのだが」


現在僕は、文芸部室にてテーブル越しに彼と向かい合い、かなり古いボードゲームに独自の得点加算方法を加えた勝負に興じている所です。
朝比奈さんはいつものコスチュームに身を包み、テーブルの反対側の端で雑誌を広げ熱心にご覧になられています。

少しでも彼のストレス発散になれば。と、ゲームではいつも必ず負けるようにしているのですが、既に17点差ですか。今日は少しやりすぎたかもしれません。僕が手加減している事を彼に勘付かれました。とりあえず適当に誤魔化す事に致しましょう。

「まさか。あなたの勘が鋭いと云うだけの事です。このゲームは4回以内のトライで、合わせて6種類ある色の内から4種類の色と、その場所を毎回確実に的中させる事は理論上不可能です。平均して最小の回数で確定できる方法論を取った場合、5回から7回までの間にほぼ必ず当てる事が出来る反面、4回以下で確定できる確立は非常に下がってしまいますので、僕の場合……」

「ああもういい。次は俺の番だな。セットするから後ろ向いてろ」
「分かりました」

僕は椅子から立ち上がり、暫くの間本棚を眺める事にします。
長門さんもいつもの席で読書中ですね。
何も問題が無いこうした時間は、僕にとっては至福の時です。


「暇ねぇ」
と、団長席から涼宮さん。
彼女が暇を感じてしまわれると、総じて機関の人間は忙しくなりがちですし、彼女を暇にさせないで置く。と云うのも僕の重要な任務の内の1つですから、そう彼女が仰る度に焦燥感が募ります。

「ねえ、古泉君」
おや、こういう場合最初にお声を掛けられるのは彼と相場が決まっているのですが、珍しいですね。正直、あまり歓迎できません。
「はい、なんでしょうか」

「古泉君って、なんで彼女居ないの?」

相変わらず唐突です。
「なんで、と仰られましても。淋しい事に、居ないからだと答える他ありません」

「嘘ね」
嫌な展開です。勘が非常に鋭い彼女に明確な虚偽を騙るのは下策です。ここはなんとか彼女の興味を逸らすか、うやむやにする他ありません。彼女の良心に訴えるのは最終手段ですね。その事で彼が意地になり、結局涼宮さんと言い争いになる可能性が高いので。

「古泉君、モテるでしょ?学園祭の後、同じ学年の女子の間で古泉一樹ファンクラブみたいなのが出来たらしいじゃない」
「なんだそりゃ。本当か?古泉。初耳だが」

ああっと、彼まで食いついてしまいましたか。
しかし困ったな。「いっきー・すたー」とかいうあの隠れ団体、僕は全然嬉しくないし大体その名称から推測すると、っと、いけませんね。思わず素に切り替わってしまいました。しかし弱りましたね。平穏に目立たず忘れられずぐらいのポジションが、僕としては理想的なのですが。

「もうこっち向いてもいいぞ」

あまり向き直りたくもないですが、仕方ありません、振り返ります。ただその前に僕が透視している事が露見しないよう、いつもの笑顔で目を細めて置く事にしましょう。

涼宮さんは、少々意外な事に「SOS団に気を遣ってたりしたら嫌だし、確認しよう」と、お考えなご様子です。……お心遣いはありがたいのですが。
彼の顔には「やっぱりコイツ気に食わねぇ」でしょうか。寂しい限りです。
朝比奈さんまで、心なしか顔を赤らめ、目を見張っておいでです。「興味津々」だそうです。
長門さんは今僕の背中側なので見えません。どちらにせよ彼女は森さんと同じぐらい透視できませんし、僕のファンクラブ等に興味を示される事はありませんので、影響ありません。
とりあえず、ここは知らぬ存ぜぬの一手です。


「さぁ、僕自身初耳でして。それが本当ならば身に余る光栄であると言えます。しかし学園祭で僕のクラスが上演した舞台上での僕を、現実の僕と混同されているようならば、余り嬉しくもありませんね」

「それがね、なんかその劇の中の古泉君は『実際の古泉君と同じぐらいカッコ良かった』。っていう事になってるらしいわよ。すごい人気じゃない。あたしは見れなかったから知らないんだけど」
「……ほう。良かったな古泉」

「そうなのですか。では、純粋に身に余る光栄ですね。しかし特に変わった事もありませんでしたが」

「フ~ン?でも、バレンタインデー当日は私達で山に行ったし休日だったから何も無いのも解るけど、その後の登校日に本命チョコレートを貰ったりとか、クリスマス前に呼び出されて告白されたりとかそういうの、本当に何も無かったの?」
「いえ、まあ……」

と、そこに彼がフォローに見せかけた横槍を。
「まあ、SOS団なんかに入ってるからだろ」
「ちょっとキョン。それって一体全体、どういう意味よっ!」

しかし彼の狙いは悪い方向に外れたようです。ここは僕が少し話を逸らさないといけませんね。
「ええ。そうですね」
「えっ?」
と、涼宮さん、とても不安そうなお顔です。ここで間を取ったほうが効果的とは言え、少し胸の奥が痛みます。
「いえ、SOS団の副団長として、僕も非常に楽しく充実した毎日を過ごさせて頂いておりますので、今は交際相手が欲しい等という考えは全く起きないもので。現状に満足し過ぎているとでも言いましょうか」
「あっと。……そういう事なの?」

彼の顔には「納得行かない」と、書いてあります。ですので彼に目配せいたしますと、僕の意図を瞬時に理解されたご様子。
そして理解できてしまった事で余計にご立腹のようです。これもまた寂しい限りです。
そして、涼宮さんはまだ僕がSOS団に対して遠慮しているというお考えは、完全に捨て切ってはいないようです。

「ん~。でも、じゃあやっぱり、告白されたりチョコレートを受け取ったりはしてるのよね」
「ええと、まあ。人並みには」

そう言った直後、彼から怒気が放たれました。ハァ。面倒な事になりました。

「その中に好みのタイプの子が居なかったの?それとも……うん、まあいいわ。この辺にしておきましょう」

そう仰られた涼宮さんを透視していた所、「SOS団に遠慮してるとかじゃなくて、きっと片想いしてるのね。だとすると、相手はヤッパリ森さんな気がするんだけど、変ね。いつもずっとここに居て、そんなに会う機会あるのかしら」と、お考えのように見えました。ハァ……。参りました。

彼女の中では、森さんは多丸さんのメイドという事になっておりますし、夏と冬の合宿で会っただけですから常人であれば辿り着かない筈の考えですが、流石は涼宮さんと言いましょうか。相変わらず畏敬に値する勘の鋭さです。
そして僕に取っては不幸にもありがたい事に、彼女を透視する事は非常に簡単でして。技術がまだまだ未熟な僕ですら、この通りです。まあ、透視技術は技術の中では割と得意な方ですが。ちなみに、彼も、朝比奈さんも、普段は同程度に楽に透視可能です。

そして、こと恋愛に関しては恐怖に値するまでの勘の鈍さを誇る上、今はご機嫌宜しくない彼には、これでは納得して頂けないでしょう。

「つまり、お前には本命が居る。って事か」
やはり、ね。

「もうやめやめ。キョン、人の心に土足で上がるもんじゃないわよ」
「お前が、始めたんだろうが」
「あたしはちゃ~んと引き際って言うモノが分かってるわよ。アンタと違ってねっ!」
まずいですね。このまま彼が反論すると閉鎖空間事態です。

「ええ。実はそうなんですよ。僕には心の底から恋して止まない方が居りますもので」
とりあえず、皆さんの注目は僕に集中しましたが、さて、この後どう致しましょうか。
「実は、僕、前から朝比奈さんの事を」

「え?でも、……じゃなくて、ホントに?」
「お前!?」
「・・・・・・」
「ふぇ?あっ、あたし、ですか?そそ、そんな、ダメですよぅ!だ、だってあたしは、ええと、でもあの、そのぅ」

「済みません。冗談です」
『ねえ、ちょっと!』
「おい古泉!言って良い冗談と悪い冗談があるぞ!」
『ちょっとアンタ』
「えっ?あ!そ、そうですよね、そうだと思いました。ああ、ビックリしましたぁ~」
「申し訳ありません。朝比奈さん。今度何か美味しい物でもご馳走させて頂きます」
『一樹!』
「なーんだ。ヤッパリそうよね。ま、この話はこれでおしまい。なんか悪い事をしちゃったわね、古泉君」

『……ねえアンタ、ちょっと。聞いてるの?一樹!』


我に返ると、ドイツ語の女声歌曲をBGMに風景が後方に流れる車上で、運転中の森さんが怒っていた。
これから彼女にさせられる強制告白について考えている内に、過去へと逃避していたようだ。

「あ、ええと、ごめん。森さん。今少し考え事をしていたみたいで」
「アンタ、告白ならいくらシミュレートしたって無駄よ?心構えさえして置けば、後は私が心の底までちゃんと読み取ってあげるから安心なさい。フフ。大体アンタ、シミュレートするって言っても、本気を出した私の魅力を計算できるのかしら?って、なんだ。現実逃避してただけなの。つまんないわね」

え?
本気出すってなんですか?初耳ですが、空耳の方が望ましいって、ああ、もう、いいや……。はい。

「さっきの私の話は聞いてなかったみたいだけど。ま、いいわ。ホテルまであと少しよ」


とりあえずさっきの続きでもシミュレートして、森さんを知る方々に僕は今の状況にどう対応するべきか、意見を求めてみるか。頭の中で。いや、実際に聞く訳にもいかないし。
仮想人格を僕の中で作って、質問し、返答を得る。主に涼宮さんと彼の反応を考察するのにいつも使う技術なんだけど。

森さんに会った事があるのは、SOS団以外では鶴屋さんと彼の妹さんか。妹さんは流石に外そう。後は「僕」を入れてもいいんだけど、どうせロクな事は言わないだろうし止めておこう。
溺れる者は藁をも掴む。……か。

まず、場所は先程と同じ文芸部室で、僕、涼宮さん、彼、長門さん、朝比奈さん、そして鶴屋さん。と。心理状態は全員「平常」でいいかな。
まあ、やるだけやってみるか…………。

………………。

「…………ですよ。僕には心の底から恋して止まない方が居りますもので」
とりあえず、皆さんの注目は僕に集中しましたが、さて、この後どう致しましょうか。
「実は、僕、前から森さんの事を……」

「ヤッパリね。そうじゃないかと思ってたのよ!古泉君、[そんな事ここでウダウダ言ってないでチャッチャと告白でもなんでもやっちゃいな]さい!大丈夫。あなたならきっとやり遂げると信じてるわ!私達で力になれる事ならなんでも言うのよ?[SOS団が総力を挙げてバックアップする]から!」

「は?あ~。[悪りぃ]。そうだったのか。[まぁその、なんだ。頑張れ、な]。ところでハルヒ。古泉だって今すぐどうこうしようってつもりじゃないだろう。とりあえずだな、お祭り騒ぎに仕立て上げるような無粋な真似は止せ。大体お前、[駄目だった時の事まで考えてないだろう]」

「・・・・・・」

「そ、そうなんですか?応援してます!古泉君、ふぁいっと~!そっかぁ。森さんかぁ。[でも]、真面目でイイ人そうですよねっ!」

「[へ?ぶっ。ぶわ~~~はっはっはっはっは!ぷぅ~ふふふ!くっくっくうあはははははは!ひ~ひ~あーー]……。[がぷっふふあははははははは!が、ふふふふ。がんばって。くくくく。な、なるようになるっさ。うわっははははははっはっはっは!もっもっもりさんってくっくっくっるっしいっひーひーいあははっはっはっはっはっはっは]」


「着いたわ」

森さんの声と共に、車は小さな機械音を立てながらそのルーフを閉じつつ、地下駐車場へのトンネルへと入り込む。
街を覆い茫洋と広がっていた青空は暗転し、閉鎖的な空間を照らす無機質な蛍光灯の光がそれに取って代わる。
コンクリートの壁に反響する、タイヤが排水溝の蓋を踏むたびに鳴る金属音と、エンジン音が、圧倒的現実感を持つリアルの世界に僕の心を引き戻す。

しかし、我ながら最悪な選択をしたようだ。心構えするどころか、僕の心は無駄に傷付いてしまった。……特に、朝比奈さんと鶴屋さんのは激痛だった。
はぁ。溺れる者は藁をも掴む。というよりも、溺れる猫に小判。だった。
誰の、どの言葉で僕が[傷付いた]かは……もうお解りでしょう。

はぁ。

気を取り直そう。
気を取り直さないと。



僕達がエレベーターに乗ると、森さんは階数のボタンを押す代わりに、財布を取り出しボタンの下にあるプレートに近づける。
するとエレベーターは滑るように上昇を始めた。今モニターに表示されている行き先の「最上階 VIPルーム 直通」のボタンは当然見当たらない。
流石と言うか、ここまで来ると怖いな、なんかもう。


エレベーターのドアが開くと、そこはもう巨大なL字型の客室だった。
2面の外壁は大きなガラスで出来ており、青空から昼下がりの陽光が差し込んでいる。

「すごい開放感ですね。でも、僕は少し落ち着かないな」
「マジックミラーになってるから裸になっても大丈夫よ。安心なさい。あ、靴は一応脱いでスリッパ履いて。靴のままでもいいんだけど、足が楽だからそうしてるの」

ここはスルーだ。そうしよう。森さんは僕にプレッシャーを与えて楽しんでいるんだ。人が悪い……。大体、僕が落ち着かない理由は、外から丸見えに感じるという事だけではないんだけど。

しかしホテルの密室で告白。という僕の想像は少し違っていたけど、まあ大差はないか。


「とりあえず、そこの椅子に座ってて」
「はい」

柔らかい感触のスリッパに履き替え、言われた通り、割と大きい6角形の白いテーブルとセットのデザインの、6つある椅子の1つに座る。テーブルの中心にはフルーツのバスケットが置かれている。
森さんは僕からは死角になる方へ歩いて行った。他にする事も無いので、周りを見回す。

床は一面ベージュの絨毯。
部屋のL字の内側の頂点は3角に削られていて、そこに置かれた大きな美しい花瓶に華やかな色彩の花が活けてある。
僕から少し離れて白い革製のソファとフットレスト、液晶の大画面TV、高さの低いテーブルと新聞が見える。
その奥にはキッチンすらあるようだ。
本当にホテルの部屋なのか?ここは。

スーツの上着を脱いで現れた森さんが今度はキッチンの方へ向かいつつ、
「何か飲む?トイレ行きたかったら勝手に使って。そっち側の奥にバスルームのドアがあるから」
と言った。
先程飲んだコーヒーで、丁度行きたくなっていた所だ。
「ではお借りします」

壁に嵌めこまれたクローゼットの横を通り過ぎ、バスルームへ向かう。
クイーンサイズのベッドと、その前にもまた1つ液晶の大画面TV。他には、壁に掛けられた2人の英国人ゴルフプレイヤーが描かれたアクリル画が目に付いた。

バスルームも予想通り清潔で広々としていた。バスタブは回り込まないと擦りガラスで見えないが、どうせ巨大なジャグジーか何かだろう。
用を足し、シミ一つ無い大きな鏡の前の洗面台で備え付けのソープを使い手を洗うと、来た道を引き返す。


戻る途中、先程は見逃したドレッサーに目が止まった。バスルームから出て来ると丁度目に付く位置にあるからだ。そして奇妙な事に、理路整然と整頓されているこの空間にあって、ドレッサーの上のピンク色の液体が入った香水瓶1本だけがその完璧さを乱している。と言うより、これは僕の目に付くようにわざと他の瓶から外れて置いてあると考えた方が納得が行く。

僕の中で「止めておけ」と、ハザードを知らせる警鐘が鳴り響くが、僕は興味を抑えられない。手に取って見てみる事にする。

「F for fascinating」。そう書いてある。森さんの仕掛けたバンカーだ。

『本気を出した私の魅力を計算できるのかしら?』

しまった。彼女の狙い通り、見事にトラップに掛かった。
僕の心臓が全力疾走を始める。


夢遊病者になったような感覚で元の椅子に戻ろうとすると、白いソファの真ん中に座った森さんが、
「一樹、こっちにいらっしゃい」
と、手招きした。

「あ、ええ。わかりました」
近づくと、彼女は右手で彼女の隣をポンポンと叩き、
「ホラ、ここ。座りなさい」
と、言った。
言われた通りに座ると、彼女がテーブルに置かれた二つのシャンパングラスを手に取り、片方を僕に差し出す。グラスの中で薄い黄色の液体が泡立っている。

「ただのスパークリング・ホワイトグレープジュースよ。まあ、言わなくても私が飲まないの知ってるでしょ?」
「まあ、はい」
「フフ。どうしたの?なんだかカチカチねぇ」
……しらばっくれている。


「まあ、とりあえず乾杯しましょう」
彼女は今、仕掛けた悪戯に相手が引っかかるのを待つ子供めいた表情をしている。
「はぁ」
「じゃあ、一樹の可愛らしさに」
と言って、グラスを掲げる森さん。ちょっと!なんですかそれ?いえ、解っております。僕からも、森さんへの自分の気持ちを形容しろという強要ですよね。仕方がありません。
「森さんの美貌に」
それを聞いた森さんは、即座に目を細め、
「ちょっと一樹。擬態するなって言ってるでしょう。やりなおし」
と言う。

……ですよね。

でも、擬態無しでこんな全ての歯が虫歯になるような台詞言えない。どうすれば……。
「ほら、同じ台詞で構わないから。早く。……あ~腕が疲れるなァ~。なんか痺れてきちゃったわぁ~。後でお風呂上りにマッサージして貰わないといけなくなりそうよ。一樹?……あ、お風呂のな」
「も、もりさんのビボウにっ!」
「ぷっ!乾杯」
「か……乾杯」

グラスのカチ合う音は、僕の鼓膜が圧迫されている為か、変にくぐもった音に聞こえた。
森さんはグラスに口を付ける間もクスクス笑っている。
僕は必死に自分の顔色を制御している。


「さて、解ってるわよね」
そう言って身体を折り、手を伸ばしてテーブルにグラスを置いた森さんは、ソファーに戻ると何故か先程より僕に近づいている。
僕も同じ手で反対方向へ逃げようとしたのだが、反対側には肘掛がありスペースが無い。
その上、身体を伸ばしかけた所で彼女の手がグラスを持つ僕の手を押さえ、そのグラスを取ると、先程と同じ事をした。
つまり、余計に近づいてきた。……この人の思い通りにならない事って、世の中に何かあるのかな。怖すぎます。


彼女が無言で僕を見つめている。

はぁ。仕方が無い。
もう、覚悟を決めるしかない。
ああ、心臓が煩い。少し黙っててくれないか。
ふうっ。
いや、完全に黙ったら余計に困る。というより困りようも無くなる訳だけど。


恐る恐る、ソファーの上で半身を捩り、彼女と向き合う。

森さんが、真っ直ぐ僕の目を見つめたまま、ソファーの上をグッと身を乗り出し近づき、自分でも気付かない内に固く握り締めていた僕の拳の上に、そっと、そのひんやりとした手を乗せる。
彼女の重心の移動に合わせ、革製のソファーがグググと音を立てる。
ああ、近い。近すぎる。

身長差がある為、近づく事によって当然顎を上げる事になる彼女は、その上少し上目使いになり、僕からは少し見下ろす形になる。
そして、非の打ち所がない程完全に手入れの行き届いた、彼女の美しい顎から耳へのラインと、麗しい首筋のライン、V字に開いたシャツの隙間から覗く繊細な肩甲骨、そして、そしてその、グランド・キャニオンのような……むむ。逆に比喩表現は卑猥に感じてしまうか……ええと、た、谷間が鮮明になる。反則だ!

皆さんはご存知だろうか。彼女は腰や手足、肩の線は細く、柔道などの鍛錬で引き締まった身体をしているのにも拘らず、出るべき場所は、その……とても豊満なのだ。1度是非、皆さんにも彼女のメイド擬態姿をお見せしたい所だ。いや、見せたくないような気も。

更に、彼女の首筋の辺りからほんのりと漂ってくる、先程ドレッサーの上で見た「F for fascinating」とか云う危険極まりない名称の香水瓶の物と思われる香りによる刺激が、僕の嗅覚と理性を容赦なく攻撃する。
最初の「F」が「Female=女性」と「Fragrance=香水」の両方の意味を併せ持つとすると、「男を魅了する女の為の香水」というような意味になってしまう。……僕の心臓にも、ご共感頂ける事と思う。

そして髪の毛からもまた少し異なる芳しい香りがして、香水の芳香と合わさる事で効果が倍増している。
これは、相乗効果になるよう、間違いなく計算されている……。
ただでさえ良い香りなのに、自分の恋する女性から漂ってくるのだから堪らない。しかも、全く濃すぎずギリギリ感じられる程度で、嗅覚をくすぐられた僕の本能がもっとハッキリ解る様に吸い込めと云っている。そしてその為には、より一層彼女に近づかなければならない。
そうして葛藤している間にも、僕の理性が吹き飛びそうになる……。これは反則だ。


いや、だめだ。
そう。これは、本気じゃないんだ。
少なくとも、森さんにとっては、ただの罰ゲームなんだ。
そう自分に言い聞かせながら、指示通り、僕の拳の上に置かれた森さんの手を取る。


僕の右手に、彼女の左手を。
彼女の右手に、僕の左手を。
すると彼女の指達が、艶めかしく僕の指と指の間に割り込んできた。
彼女のひやっとした感触の掌と、僕の掌が合わさる。
突然香水の香りが一段と強くなる。
僕の背筋をゾワゾワと何かが這う。
僕の意識がフワフワし始める。

彼女は今、僕に向け優しく微笑んでいる。
騙されてはいけない。
彼女の表情は自由自在なんだ。
これは演技なんだ。
フリなんだ。


彼女の形の整った少し薄めの唇は、口紅によって赤ともピンクとも見えるつややかな光沢を放っていて、思わず目が吸い寄せられる。

それに、近くで見ると、睫毛、長いんだな。
いや、マスカラで長く見せているんだ。そう。

……彼女の肌はとても肌理が細かく白くて柔らかそうだ。化粧は薄いように見える。
いや、これは生理学的な事だ。
継続する努力によって肌理の細かい肌を保ち、研究した化粧の技術でこう見せているのだろう。
でも、綺麗なんだから、いいじゃないか。
いや違う。そうじゃなくて。いや、勿論いいんだけど。

……彼女の漆黒の闇夜のような瞳の奥で、瞳孔が大きく開かれている。
好意を持つ対象を見る時、人間の瞳孔は無意識的に大きく広がる。逆に嫌いな物を見る時は絞られる。
但し、森さんはそれすら意識して制御できる。
騙されてはいけない。
そう、これは、フリなんだ。
本気じゃないんだ。


「森さん」
「今は、園生。って呼んで……」
あでやかな唇がしとやかに言葉を綴る。
彼女の吐息が、僕の首に僅かな温もりを伝える。

ああっ。森さん……それも、反則です……。
いつもの命令口調では、ないのですか。
そんな、……まるで映画のラブシーンの様な甘い声を出さないで下さい……。
勝手に僕の喉が鳴る。


「そっ。その、うっ、ぐ」
「……」
「森さん、やはり名前は……」
「呼んで。……おねがい」

ぁぁ。至近距離からの甘い音色に意識が遠のく……。
彼女が口を開く度、甘い香りの吐息が僕の首筋を撫でる……。
思わずまた唾を飲み込む。
僕の技術では、自分の顔色の制御もとっくに限界を超え、もう大分前から火照り出してしまった。
早く、しないと。


「ソノウ」
「……なぁに?」

実はこうしている間も、彼女の指達はじっとしていない。
夜の浜辺へ打ち上げるさざなみの様に微かに身動ぎし、僕の手の末梢神経を間断なく愛撫し続けているんだよ!
腰が砕け膝が笑う。腹筋も爆笑している。
もし座っていなければ、無様に尻餅を付いていただろう。
これはもう、本当に耐えられない。……全て反則過ぎる。
本当に早く終らせないと。
……色々、持たない。

「園生、好きだ」
「本当に?」

「う。……本当に」
「私のどこが好きなの?」

彼女はそう言いながら更に身を寄せ、僕にその身体を預ける。ソファが、ググ。と軋む。

至近距離にある彼女の顔は、まるでウットリとしているかのような表情を作っている。
彼女の全身の筋肉は悉く弛緩していて、彼女の身体が完全にリラックスしている事を示している。

彼女の白い右太腿と、僕の左太腿は今やピッタリと寄り添っている。温かいし、酷く柔らかい。
そして、彼女の、それ以上に柔らかい部分もまた、僕の二の腕に押し付けられる。
衣服と下着越しなのに、こんなにも柔らかいモノか……。

彼女の体温が、衣服越しに伝わってくる。
彼女の指達は相変わらず、僕の指先の敏感な神経を愛撫し続けている。
喋らずとも、その呼吸が肌に触れる。……気が遠のく。
香水の香りが一層強くなる。
いや、これは媚薬に違いない。

僕の、少しは自信のあった理性も、そろそろ負けを認めてしまいそうだ。
でも、思わず抱きしめようなどとしたら、一瞬で壁まで投げ飛ばされるだろう。
そうだ、耐えるんだ。
耐えて、早く言ってしまえ。……そして振られて楽になれ。

……しかしこれはなんて酷い罰ゲームなんだ。酷すぎる。
同じ罰ゲームでも、彼が涼宮さんから受ける物は、これよりは余程可愛気がある……。


「ねぇ一樹?私のどこが好きなの?」

「あ……知的で美しいから」
「他には?」
そう言う彼女の顔は、少し嬉しそうだ。

「……人として成熟していて奥深さを感じさせられるから」
「他は?」
彼女は今度は少しニヤっとする。
いつもに近い雰囲気を感じ、僕は少しだけ自分を取り戻す。

「僕を理解してくれているから」
そう言うと、彼女の顔の表情が薄れた。彼女の手が固まる。
「……まだあるの?」

「見返りを求めず、他者に優しさを与えられる人だから」
「やめて!もう解ったから……やめて」

彼女は突然手を離し立ち上がると、窓際に歩み去った。
先程までの雰囲気は完全に消え、外を眺める彼女の背中からは哀愁が立ち昇っている。
これも演技なのだろうか。
森さんが自分の本当の感情を、これほど露にするとは思えない。


「ごめんなさい。私勘違いしてた。私、あなたに酷い事をした。謝っても許されない事をした」

今更だけど、確かに酷かったです。
でも、彼女の雰囲気も、口調も、何やら只事ではない。
体に残った彼女の温もりが、香りが、次第に薄れていく。
それにしても、森さんが勘違い?とは、何の事だろう。

彼女は僕から何を読み取ったんだろう。


「……あなたの私に対する想いは、英雄崇拝の一種なのだと思ってた。そうである事を期待してた。だから…………。でも、やっぱり違うのね。私に対する想いだけは、今まで本気で隠していたのね」
そう言って振り返る彼女の目は、悲しみに満ちていた。

「どうして私を?言ったじゃない。機関の人間同士の恋愛は『禁則事項』だって。私は理性で自分の感情を抑え切れるし、あなたを愛したりなんてしない」
彼女は少し深く息を吸い、続ける。
「機関法が禁じている以上、あなたがどんなに私を想ってくれても、それに応える事はできないわ」


「だからお願い。忘れて。私の事を、忘れて。……私も、」
「無理です」

「じゃあ、命令」
「聞けません!」

僕は怒っていた。本気で腹が立った。
森さんの「お願い」より、機関の上司としての「命令」の方が僕の想いに対して効果があると思われた事に。
酷く、悔しかった。

「なんで……」
「あなたが他人に直接的な優しさを見せないのは、そして相手に気付かれないように優しくするのは、怖いからでしょう?」
「やめて!私は優しくなんてない!現に今だって、」

「やめません。あなたは人から慕われるのが怖いんだ。上の命令1つでその相手を見棄てなければならない可能性だってある。あなたは優しすぎて、そうなった時の事を考えると耐えられないんだ。自分がいくら傷付いても、他人が傷付くのだけは見ていられないんだ」
「……やめて。聞きたくない」

「だからあなたは陰で鬼などと呼ばれても、それを受け入れて孤独に生き、隠れてひっそりと皆を支えているんだ。機関に尽くす事が世界の為になると信じて。……皆あなたに助けられている癖に、そのあなたを指して『鬼』などと呼んでいる、恩知らずなのに!!!」
「……」

「……あなたは全てに一人で耐えて、そんな素振りは全く見せようとしない。辛くない筈が無いのに。そんなあなたを理解してしまった僕は、もうどうしようもなくあなたを好きになってしまった。他にどうしようもないじゃないですか。本気で好きになるより他に、どうしようもないじゃないですか。もう遅い。変われないんです。命令違反と取られてもいい。規律違反と取られてもいい。でも僕はあなたを想い続けます」

「……もし僕が機関に切り捨てられるような事があっても、僕はあなたを信じ続けます。……その……瞬間まで慕い続けます。だから、そんな『お願い』は聞けません。それが『命令』であるのなら、耳を貸す事すら、絶対にお断りします」


彼女は暫く放心していたが、僕が、
「勝手な事を言って、済みません」
と言うと、すぐ我に返り表情を消してこう言った。

「そうね、あなたも勝手だわ。……でも、私も同じ。……安心なさい、報告はしないから」

そして彼女はまた僕に背を向け、窓から外を眺める。
「……バカね」
彼女が小さく呟いた。

彼女の背中からは、もう何の気配も感じない。
読み取れない。
彼女の巨大な意思力が、感情の揺らぎを全て止めたのだ。


でも、僕には解った。
彼女は、今、何かを決意した。
何故解るのかは判らない。何を決意したのかも解らない。

ただなんとなく、そう思った。

 

 

 

幕間劇3 1/2へつづく

 

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最終更新:2020年06月10日 02:46