新たな年が開けてから、もうすぐ丸一ヶ月が経とうとしている。
 一年の締めくくりの十二月と、新たな希望の月である一月という二ヶ月間。俺たちは、雪山で遭難することも無ければ何処ぞの誰かの作り出したたら・ればの世界に迷い込んでしまうことも無く、見ようによってはそれなりに平和な時間を送る事が出来た。
 ただしかし。それはこの世界そのものという大前提的な箇所に決定的な非現実的要素を抱え込んでいる上での、ごくごく表面的な平和っぽさでしかない。実質的な現状を言葉にするのならこうだ。

 
 神様の力で異界と化したこの学校、この街から、俺たちはまだ抜け出せないまま、違和感でデコレーションされたパラレルDaysを送っていたのである……と。
 

 具体的に言うと。あれ以降、俺たちに近い位置で、これといった噂の現実化は確認できていない。しかしそれはあくまで俺たちSOS団の目の届く範囲には存在しないというだけであり、俺たちの知らないところでは、いったいどんな荒唐無稽な与太話が現実にされてしまっているのか分からないのだが。(そもそも、噂が現実になると言われて真っ先にSOS団のメンバーに異変が起きる辺り、俺たちがどれだけ噂の的になっているのかが伺える)
 

 さて。改変されたSOS団のメンバーだが……
 

 あの雑誌の表紙を飾ってからというもの、古泉の人気は鰻上りで、ミニアルバムなんぞをひっさげて歌手デビューまでするという。先日そのデモCDが、レコード会社のステッカー付きで、俺たちSOS団の四人に配られた。曰く、高らかに叫べ、ダイツキだと……意味は分からん。春には学園ドラマの主役級の役まで決まっているらしい。正月などは新年番組やらかくし芸やらへの出演で忙しく、SOS団の活動にはあまり顔を出さなかった。
 どう考えても、超能力戦隊時代よりも忙しいはずだが、それでも古泉はなかなか楽しそうで、充実した日々を送っているようだった。あいつはなんだかんだ言って何でも楽しめるらしい。いつきは無敵だ。

 次に。新生長門の感情表現の豊かさに、俺たちはようやく慣れてきていた。
 以前ならば決してありえなかったであろう、長門からのハルヒへのツッコミ(と言うか、指摘か)などという新鮮な光景も拝めたりして、この長門の変化に関してのみ言うならば、俺は想像力に長けた世間様と、それを現実化させたハルヒに感謝なんかをしたりなんかしてみてもいいかなあ。などと思えなくもなかったりする。(しかし、以前よりも瞳に生気が備わっている分だけ、真っ直ぐに見つめられた際、その人間味故に何か深い意図がありそうで緊張する。といったデメリットもあるのだが)
 

 だが待て。長門に関してはよくぞやってくれたが、朝比奈さんの事がある以上、やはりこの世界を認めるわけにはいかない。
 朝比奈さんのこの時代での生活にかかる費用は、未来が保障してくれる範囲には含まれていないために、彼女が学生の身空で一人きりで生きて行く事を強いられており、家もなく、夜間営業の飲食店を泊まり歩き生活する……と言う、美しきこの国の最先端を行く若者達の地獄に身を落していると知った時には、俺は家族をなげうった上で住む場所を確保し、朝比奈さんと二人で貧しくても心温かな生活を築いて行こうかなどと、一瞬本気で考えてしまった。
  

 深夜のメイドカフェでバイトをし、夜勤明けで登校。放課後はネットカフェに寄り、アルバイトの時間まで仮眠を取る……朝比奈さんのような、もしかして五割くらい天使? 疑惑のある御方が送っていい生活じゃない。断じてない。
 朝比奈さんの事情を知っている数少ない人物の一人である鶴屋さんが、時折そういった面での援助もしてくれていたのだが、このごろはそれでも徐々に生活が厳しくなってきており、仕方なくアルバイトの時間を延ばしたために、団活に顔を出す余裕がなくなってしまっていたのだ……と、彼女は結果的にバイト先まで押しかけてしまった俺たちに向かって、頭を下げながら説明して下さった。
 
 「ちゃんと説明はしなくちゃと思っていたんですが……涼宮さんにあたしの身の上の事を追及されたら、どう説明したらいいかわからなくて」
 
 バイト先に乗り込んで行った翌日、彼女はハルヒの居ない部室で、俺に向かってそう言った。朝比奈さんはこの時代に単身放り込まれた未来の人間なのだから、当然この時代に親戚などは居ない。(綿密に言えば、血の繋がった人間と言うならどこかしらにいるのだろうが、そんなのはノーカウントである)ハルヒが朝比奈さんの生活を知り、誰か頼れる相手はいないのか、親は助けてくれないのか。などと疑問を持てば、そこから隠し事が解れ始め、禁則事項にぶち当たってしまう……などという可能性は無きにしも非ずと言った所だろうか。
 しかし現実には、ハルヒは思いのほか大人しく、その場で朝比奈さんの身の上を聞きだそうとする事も無く自分の暴走を恥じたのか、帰りの電車の中では一丁前に気を落したりなどもしていたようだった。
 
 「みくるちゃんがそんなに苦労人だったなんて、知らなかったわよ」
 
 そりゃ、教える義務があるわけじゃあないからな
 
 「仲間なんだから、教えてくれたっていいじゃない」
 
 それは……朝比奈さんの自由なのだから仕方ない。
 
 と、いうわけで、朝比奈さんのSOS団活動への出席率は、ハルヒ公認の上で減少した。俺としても朝比奈さんのお茶の飲める回数が少なくなってしまい、この件に関しては非常に残念に思っているのだが、大体が活動時間の九割が時間の浪費でしかないこの団活のために、生活の掛かっているアルバイトをおろそかにしていいはずがない。 それでも、すこしでも重要なイベントの日には、朝比奈さんはけなげに出席してくれたし、その際には、普段の苦労など微塵も感じさせない、菩薩のような微笑でお茶を淹れて下さった。ありがたいことである。
 

 さて、話は戻り、現在は一月も終わりに近づいた冬のど真ん中。
 噂によって姿を変えられながらも、俺たちがまだ日常と見間違う事の出来るレベルの中に居られたのは……残念ながらここまでだったようで。凍結状態にあった事態が再び渦を巻き始めたのは、忘れもしない。ある週明けの月曜日の事だった。
 
 
     ◆
 
 
 教室に入った俺の視界に最初に飛び込んできたのは、俺の机の周りに囲碁盤の上で黒石を囲おうと間合いをつめている白石の如く配置された、漏れなく仮死状態の人間を一人づつ抱え込んだ二つの学習机だった。俺の机の背後を狙う金将、涼宮ハルヒ。斜め前から振り向き様に首を取ろうとしている銀将、谷口。……これは将棋か。二名は俺が机に腰を掛けても一切反応をせず、まるで本当の仮死状態の人間のように(ややこしい)机に顔を伏せ、全身から、俺・私に構うな。とでも言いたげなオーラを溢れさせていた。一体この二人に何があったと言うのだ。
 
 「お前ら……俺に何か言いたい事があるなら、態度でなく口で言え」
 「キョンよ……お前はいいよなあ、気楽で」
 
 堪えかねた俺が、どちらの死体にとも無く呟くと、斜め前の死体がぐるりと首を動かし、机と顔との最低限の空間から魚のような目を覗かせ、俺を睨みつけて来た。やめてくれ。ただ単純に気持ちが悪い。こいつが死にそうな理由は、俺の背後で死んでいる人物が涼宮ハルヒである事を考えれば大体予想は付く。おそらく、ハルヒの不調によって月末セールを開催しだした閉鎖空間に忙殺されそうになっているといったところだろう。古泉とは実力の差が有るためか、はたまた疲労を覆い隠す精神力に欠けているためなのかわからないが閉鎖空間で戦っていた頃の古泉と比べて、こいつは毎度毎度分かりやすいほどに疲弊して学校に現れる。そんなにつらいなら休めばいいのに。
 
 「で、お前はどうしたんだハルヒ」
 
 谷口は一先ず置いておき、気になるのはこちらだ。
 実を言うとこの二ヶ月間、ハルヒの微妙な不調は途絶えることなくずっと続いていた。その理由は、この俺にでさえ少し考えれば予測できるものだった。
 
 「……しょっちゅう世界を改変してれば、流石の神様も疲れるってわけか」
 「お分かりですか。流石ですね」
 
 この会話を交わしたのは、年明け前、冬休みに入ってすぐの時だっただろうか。
 
 「涼宮さんが能力を発揮するのに一体どれだけの精神力と体力を要するのかは、予測するだけの材料がありません。しかし常識で考えて、力を使うのにはその代価が必要なはずです。神様ともなれば、何の消費も無く無尽蔵に力を使うことも出来そうなものですが……少なくとも、自分の力を制御し切れない程度の神様には、そんな芸当は不可能なのではないかと」
 「お前、さてはハルヒの事が嫌いだろ」
 「あまりにも長期にわたるようでしたら、我々も何らかの対処を考えなくてはなりませんが、今のところは、ちょっとした寝不足が続いている程度で済んでいるようですので。機関としては、現段階で涼宮さんの体調を重要視はしていません。元来タフでいらっしゃいますしね。問題があるとするなら……不調に伴う苛立ちの所為で、谷口君の仕事量が増えることぐらいでしょうか」
 
 あの会話から早ひと月。現在のハルヒの様子を見る限り……どうも俺には、あまりにも長期にわたる、軽視してはいけない事態であるように思えて仕方ないのだが。しかし、その件を訴えようにも、古泉はドラマの撮影が始まっただとかで、なかなか学校に顔を出しやがらない。メールをした所で帰ってくるのは五本に一本と来たものだ。それも、詳しくは後日。みたいな語句が無愛想に並べられただけの、短く中身のない返信ばかりだ。
 諸君。もし諸君の近くに、諸君がさまざまな分野に関して頼りをかけている人物が居たとして、その人物が芸能界デビューを企てていたとしたら、今のうちに体を張ってでも制止する事をオススメする。そいつが腹の立つほどイケメンだったらなおさらだ。ちょっと鹿に似ていてもポイントが高い。
 
 ……さて、肝心のハルヒだが。
 
 「べっつに、ただちょっと疲れてるだけよ……寝不足で」
 「気のせいか、俺は昨日も一昨日も、その前もそのずっと前も、同じセリフを聞いた気がするぞ」
 「……」
 
 ハルヒは机に顔を伏せたまま、よりいっそう俺から遠ざかるように、頭を窓の方向に向ける。
 
 「一体何をして寝不足になっているんだ? 言えないような事か? そうでないなら、ちゃんと話せ」
 「うるさいわね、話したって無駄よ」
 「わからんだろうが。何か悩みでもあるのか、体調でも悪いのか?」
 「……なんか最近夢見が悪くて、気分がよくないだけよ。大丈夫」
 
 あまりしつこくすると怒鳴られるかとも思ったが、意外なことにハルヒはしおらしく、俺の問いかけに対して誠意的に返答をしてくれた。最も、俺をうざったがる気力も残っていないだけかもしれないが。
 
 「それより、今日もみくるちゃん、バイトだって」
 「今日もか、まあ、仕方ないな」
 
 朝比奈さんはこのところ特に忙しいのか、先週一杯はお顔を拝見する事が出来なかった。そして、週明けの今日も。
 仕方ないと言うのは分かっていても、古泉と朝比奈さんの欠けた部室というのはなかなか寂しげなもので、この俺でさえ、つい、昔のような馬鹿騒ぎがしたい。などと危なげな考えに襲われてしまうほどなのだ。
 俺たちはやはり、全員そろってこそのSOS団なのである。近頃はそれを痛感していた。
 
 「オマケに有希まで今日も休むらしいし……」
 「長門もか? 先週の終りからだったよな?」
 「そうよ。メールで訊いたら、風邪だっていうんだけど……キョン、あんた、放課後空いてる?
 
 放課後は、お前と部室に行くつもりだったのだが。
 
 「じゃ、それキャンセル。有希のお見舞いに行くわよ」
 「お見舞い? また、いきなりだな」
 「二人で部室に行ったって、やることないでしょ? だったら、有希を元気付けてあげに行ったほうが、ずっと建設的よ」
 
 渋るようなセリフを口にしながらも、俺はハルヒの誘いを断るつもりは無かった。長門有希が風邪を引いた。少なくとも以前の長門であれば、絶対にありえないと言っても過言ではないほどありえない組み合わせだ。今の長門はいくらか人間味を帯びている分、風邪ぐらいは引くのかもしれない。しかし、俺は長門が風邪で寝込んでいる姿を想像することができなかった。もし見せてもらえるなら、ぜひとも一度目にしてみたい。
 
 「まあ、わかったよ」
 「じゃ、授業が終わったら……あ、あたし掃除当番だから。じゃあ、校門で待っててくれる?」
 「分かったよ。っつうか、でも、お前大丈夫なのか? 弱ってる時には伝染されやすいんじゃないか?」
 「大丈夫よ、そんなヤワじゃないわ」
 
 あれこれと押し問答を行っている内に、いつの間にか時間はいい頃合となっており、黒板の前には岡部先生が到着なさっていた。前方に向き直った俺の事を、谷口がまだ睨み続けていたのには驚いた。しかも、怨恨と羨望と殺意と、なんかそんなようなものを一纏めにした谷口の目からは、その目と同じ幅ぐらいの涙が、壊れた蛇口からしたたる水のように溢れ出していたのだから、これはもう一種のホラーだ。
 なんだ。俺がなんか悪い事をしたのか。
 
 「お前はいいよなあ、キョン……」知らん、分からん、理解できん。いいから前を向け。
 
 
     ◆
 
 
 時は流れ。気分なだけでなく、名実共にどう見ても放課後である。
 俺とハルヒは下駄箱で落ち合い、ハルヒの用意したノートのコピーなどを手土産に、長門亭を目指して歩いた。予想通り、俺が田園の広がる方角を目指して歩きだすと、ハルヒは首をかしげながら俺を呼び止めたりした。俺が長門の本宅は別にある事を説明すると、ハルヒは『行った事あるの?』と俺に訊ねたきり、膨れた表情でそっぽを向いてしまった。
 なんだ。俺がなんか悪い事をしたのか。
 
 
     ◆
 
 
 長門邸の前へとたどり着いたハルヒは、手始めに何やら人を舐めたニヤケ面になり、オイオイこんなでかい釣り針には引っ掛からないぜ。とでも言いたげに俺の顔を睨みつけた後、暫く待っても俺が何の反応も示さないことから、徐々に空気を読み取り始め、終いには豆板醤を塗りたくられた鳩のような呆け面となり、行く手に聳えるご立派な邸宅を眺めたまま動くなくなってしまった。(恐らく、二月前の俺も似たような反応をしていたのだろう)
 そんなハルヒの隣で、勝手を知ったようにインターホンを鳴らすのは、なかなか気分が良かった。
 
 『はい』
 
 鐘の音の鳴るインターホンを鳴らしてから、十数秒の時間を置いた後で、スピーカーから女性の声が聞こえてきた。
 
 「えーっと、すみません。僕たち、有希さんの友人で、彼女のお見舞いに来たんですが……」
 
 門柱の天辺近くに取り付けられたカメラが、グインと音を立てて向きを変え、俺とハルヒを映す。
 
 『まあ、どうも……わざわざありがとうございます。……玄関は開いておりますので、どうぞ』
 
 スピーカーの声は、長門の名前を出すと、ほんの少し口篭ったような気がした。声が途切れると共に、俺たちの背丈よりも遥かに高い鉄の門が、機械音を立てながら内側に開く。
 
 「ほら、ハルヒ、行くぞ」
 
 ハルヒは未だに呆然としていたが、俺が声をかけると、我に返ったように目を瞬かせた後で、すぐに俺より前に出て、長門邸の門へと向かうちょっとした散歩道を歩き始めた。

 「は、初めまして。有希の友達の、涼宮です。……こっちは、キョンです」
 「どうも、わざわざごめんなさいね、有希の為に」
 
 大構えの扉を開き、例の広大な玄関に足を踏み入れると、すぐに奥から長門の母が出て来る。ハルヒと長門の母の挨拶が済むと(何か余計な紹介も入っていたようだが)、俺は早々に本題を切り出した。
 
 「いえ……えーと、それで、有希さんの様子は? たしか、風邪だって聞いたんですが」
 「え、ええ」
 
 俺の言葉を聴き、長門の母が言葉を詰まらせる。先ほど、インターホン越しに会話した時と同じだ。
 一体、どうしたと言うのだ? ……もしかして
 「……おい、ハルヒ」俺はハルヒの耳元で訊ねた。
 
 「え、な、何よ?」
 「お前、お見舞いに行くって事、長門に話さなかったのかよ?」
 「え……だって、家の電話番号、知らなかったし。携帯にメールは入れておいたけど」
 「返事はあったのか」
 「無かったわ」
 
 来たこれ、予想斜め上。こういう場合はちゃんと、お邪魔していいかどうか、先方に断りを入れてから訪ねるべきだろうが。俺はすぐさま長門の母に頭を下げ、無礼を詫びた。
 
 「す、すいません。連絡をしたつもりだったんですが、こいつ、ちょっとアレなもので……ご迷惑でしたか?」
 「いえ、それはいいのだけど、有希が二人に会ってくれるかが……」
 「え……有希は、そんなに悪いの? ……ですか?」
 「えっと……とりあえず、有希の部屋に行きましょう。もしも有希が二人に会えないと言ったら、ごめんなさいね」
 
 長門の母はすこし困ったような表情を浮かべた後で、俺たちを引き連れて、長門の部屋を目指し始めた。俺はその道すがら、オノボリさんよろしく室内を忙しなく見回すハルヒに、小声で話しかけた。
 
 「おい、長門はメールでなんて言ってたんだ? 朝にはメールが返ってきたんだろ?」
 「へ? ……いや、今日はメール帰ってきてないのよ。風邪だって言ってたのは、先週の終わりの話」
 
 何たる事だ。こいつは朝から全く反応のない、或いは家にいるかどうかも分からない相手を抜き打ちでお見舞いに来たと言うのか。
 
 「そこは流石に遠慮しろよ……もしかしたら、何か深い事情があって、メールを返せないのかも知れないじゃないか」
 「はあ? それ、どんな事情よ。それに、有希がもしメールも出来ないような危ない状態に陥ってるんだったら、あたし達が飛んでって助けてあげないでどうするのよ、何言ってんの?」
 
 疲労していようと何だろうと、こいつのこの行動力と想像力は健在である。
 ハルヒの礼儀が今ひとつなっていないのは、後でみっちりと話し合いの時間を取るべきであるが、一先ず押しかけてしまったものは仕方がない。俺は諦めて、どうせなのだから邪魔をしない程度に見舞いを済ませ、さっさと退散することを腹に決めた。
 
 「有希……起きている? 涼宮さんとキョン君が……お見舞いに来てくれたわよ」
 
 長門の母は、やはりところどころで迷うように言葉を詰まらせながら、長門の部屋のドアをノックし、ドアに向けてそう呼びかけた。すると、ドアの向こうで何やらごそごそと音がし、長門の声がした。
 
 「……お見舞い?」
 「そうよ、有希。風邪引いてるって言ってたから……体、大丈夫? ノート持ってきてあげたわよ」
 「……」
 
 扉の向こうで無言を発する長門の幻が見えた気がする。ドアの向こうの長門は、何かを迷うように沈黙を泳がせている。ふと長門の母を見ると、まるで背後から迫りくる何かを気にしているかのような、切り詰められた表情をしていた。なんだ? この二人に一体、何があったんだ?
 
 「……折角きてくれたのに悪いのだけど……今は、会う事が出来ない」
 
 やがて、ドアはそう告げた。
 
 「え……ど、どういう事? 有希、あんた、どうしたのよ? ……何か、あったの? 悩みでもあるの?」
 
 数秒、隙を突かれたように硬直した後で、ハルヒは目を瞬かせながら、ドアに向かって訪ねかけた。
 
 「ねえ、何かあるなら、あたしたちに話してよ。本当に、ただの風邪なの?」
 「……大丈夫。ただの風邪」
 「だったら、どうして――」
 「ハルヒ!」
 
 ハルヒにまずいスイッチが入ってしまっている。見かねた俺は、後ろからハルヒの肩をつかみ、言葉で制した。
 ハルヒははたと我に返ったように俺の顔を見上げ、閉ざされたドアと、俺の顔を見比べながら、なんとか落ち着きを取り戻したようで、まだ何かを言いたげではあったが、一先ず口を閉ざした。
 俺は長門の母の表情を確認した後――やはり、先ほどの表情のままである――言葉を捜しながら、閉ざされたドアに話しかけた。
 
 「長門、その……いきなり訪ねて悪かった。すまないな」
 「……いい」
 
 てっきり黙殺されるかと思ったが、ドアの向こうの長門は、以外にも俺に言葉を返してくれた。長門の声は、普段よりいくらか掠れており、それは確かに、風邪を引いた人間の声で有るようにも聞こえた。
 話かけたはいいものの、俺は何を話すべきなのか分からず、口篭ってしまう。一体、ドアの向こうの長門に何があったと言うのだろうか?
 
 「許してやってくれ、ハルヒはお前が心配だったんだ。お前が俺たちに会いたくないなら、これで帰るよ」
 「……ごめんなさい」
 「いや、俺たちこそ、悪かった。……どうもすみませんでした、お母さん」
 
 俺が声をかけると、長門の母は、ようやく俺の存在に気付いたかのように俺に視線を向け
 「いえ……ごめんなさいね、折角来てくれたのに」と、決まり文句のような返事をくれた。
 
 煮え切らない、この世の終わりのような表情を浮かべるハルヒを連れて、俺たち三人は今来た道を引き返し、長門邸を後にした。
 
 「少し熱が高くて……もしかしたら、もうしばらく学校に行けないかもしれないの。……ごめんなさいね」
 「いえ。こちらこそ、急に押しかけてすみませんでした」
 
 ハルヒが先に玄関を出てしまった後、俺は迷ったのだが、意を決して、長門の母に向かって訊ねた。
 
 「あの……こんな事をお聞きするのは失礼かもしれませんが……有希さんは、本当に風邪を引いただけなんですか?」
 
 長門の母の表情があからさまに変化するのを見て、俺はやはり、この人が俺に何かを隠している事を確信した。まるで何か、変えられない運命の象徴を前にして閉口する、どこかの小説の登場人物のような表情になった長門の母は、しばらく沈黙した後に
 
 「……ごめんなさい、私には……私には、どうしたらいいのか」
 
 と、今にも泣き出してしまいそうなはかなげな口調でそう言った。何だ。一体何だと言うんだ。何だ。と、何かに対して疑問を持つのは、今日何度目だろうか。
 
 「……あなたは、キョン君……ね」
 
 不意に訊ねられる。違います。と言うことも出来ず、咄嗟に肯定してしまう自分が情けない。
 
 「有希から、あなたの事は聞いているの。それに、あの、涼宮さんの事も……詳しい事は知らないけれど、有希やあなたにとって、彼女はとても大事な……大切である以上に、大事な存在なんですってね」
 「……そう、ですね」
 
 俺の返答を聴き、長門の母は暫く考えるような素振りを見せた後、吹っ切れた強い表情になり、俺を真っ直ぐに見つめて来た。――長門によく似ている。
 
 「貴方には……有希が信頼している貴方には、話しておいたほうがいいわね」
 
 
 
 つづく


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