ハルヒを駅まで送り届ける為に、途中自宅に立ち寄って自転車を回収した俺は、駅にてハルヒを見送った後、長門の母の話を聴く為に、長門邸まで引き返した。その後長門邸を後にしたのが午後七時。古泉に電話を入れたのもちょうどその頃だ。再び駅前に到着したのはそれから約二十五分後。示した待ち合わせ場所に古泉の姿はまだなかった。電話では一時間は掛からない程度で到着できると言っていたので、そもそも時間には余裕があったのだ。とは言え、俺の精神状態は切迫しており、古泉の到着にあわせて、此方もノンビリ自転車を走らせる……などと言う精神的な余裕は持てなかった。真冬だと言うのにじっとりと汗ばんでしまったシャツのボタンを一つ開け、上がった息を整える。流石に長門の家から此処までの距離を立ち漕ぎはつらい。
 一息を付いた後で、俺は携帯電話を取り出し、家に連絡を入れることにした。このところ頻繁に帰りが遅くなってしまい、母親に不審がられているかもしれない。ついでに、この件についての言い訳も古泉に考えてもらうとするか?
 メールを打つのはなんとなくかったるく、俺は電話帳から自宅に電話を掛けた。程なくして、妹の声が電話口に登場する。
 
 『はーい、キョン君?』
 「お前か。母さんはいるか?」
 「うとね、今いそがしーって。キョン君、今日も遅いの?」
 「ああ、実はもうちょっと掛かりそうなんだ。まあ、いつだかほどには――」
 
 ちなみにいつだかというのは、結局帰りが十時過ぎにもなってしまった、いつぞやの朝比奈さんを尾行した際の事だ。
 それは兎も角、俺が言葉を終えないうちに黙り込んでしまった原因を説明すべきだな。
 携帯電話を耳に当てながら、ふと周囲に視線を泳がせたその時。俺の視界に、見覚えのあるコートを着た後姿が入ってきたのだ。北校指定の学生用コートを着込み、ふらふらと頼りなげに揺れながら歩く女性。その長いブラウンの髪の毛と、華奢で弱々しい体躯が俺の頭の中で結びつき、その人物が一体誰であるのかを直感的に察知する。その人物は、間違いなく朝比奈さんだった。アルバイトへ向かう途中なのだろうか。しかし、歩いて行く先は駅も方向ではなく、その足並みは、ロータリーの外れへと向けられている。アルバイト先を変えたのだろうか?
 ……そう考えた直後、俺の頭の中で強烈な音を立て、二月前に耳にした、あの噂話が蘇ってきた。
 
 ―――あー、ありそう。なーんかこそこそしてるし。貧乏そうじゃない? いけないバイトでも―――
 
 「わるい、やっぱ何時になるかわからん」電話の向こうで妹が何かを行った気がしたが、構わず電話を切ってしまう。
 まさかそんな筈が。そう思いたい。しかし、先ほど聞かされた長門の父親の事も噂の力による物だとしたら、あの朝比奈さんの噂も……
 携帯電話をポケットにねじ込むと、俺は朝比奈さんの歩いて行った方向に向けて駆け出した。汗など気にしている場合じゃない。
 運の悪いことに、俺は何度か赤信号に阻まれてしまい、なかなか朝比奈さんに追いつく事が出来なかった。途中何度か、半ばヤケクソになって朝比奈さんの名前を読んでみたりもしたのだが、周囲の人々からの煩わしげな視線を集めてしまうのみで、何かに操られているかの様な朝比奈さんの足取りを止める事は出来なかった。
 やがて朝比奈さんはロータリーの最果ての一角。我々健全な学生達には縁遠い、近くてはいけない歓楽地帯へと足を踏み入れて行った。俺は背中一面に汗をかきながら、猥雑なネオンに飾られた門をくぐり、泥のような人ごみを掻き分けながら朝比奈さんを探す。この人ごみの中で、朝比奈さんの姿を見失ってしまわずに済んだのは軽い奇跡と呼んでもいいだろう。
 朝比奈さんは通りに入って間も無くのうちに、以前のアルバイト先とちょうど似たようなビルの前で立ち止まり。暫く迷うように制止した後、そのビルの裏手へと入って行ってしまった。俺は出来るだけ人畜無害そうな人のいる場所を選びながら人ごみを泳ぎ切り、朝比奈さんの消えたビルの前にたどり着くと、其処が何のビルであるかもまともに見ないまま内部へと侵入し、コンクリートの階段を駆け上がった。一階と二階には怪しげな点はない。俺が足を止めたのはビルの三階、いかにもと行った風な電飾の看板を掲げた扉の前だった。
 どう見てもそういうお店です。本当にありがとう御座いました。これが女帝か嬢王の舞台にでもなりそうな空間なら、まだ救いようがある(のか?)のだが、それよりももう一回りイケナイ、申請上は公衆浴場とされているような類いの店であったのだから、これはもうどうしようもない。
 入り口の扉に体当たりをするようにして桃色の照明に照らされた店内に侵入する。目の前に狭いカウンターがあり、法被を着た男が、驚いた表情で俺を見ている。
 
 「い、いらっしゃいま……な、なんだ君、此処は大人の……」
 そういえば俺は制服を着ていたんだった。でもそんなの関係ねえ。
 「朝比奈さんはどこにいる!」
 「あ、朝比奈さん? ……ああ、ひょっとして、あの新人のコの話を聞きつけて来たのかい? ダメだよ、今日は大事なお客さんの予約が入ってて、それにそもそも君、学生じゃ……」
 
 ビンゴ。俺はカウンターから視線を逸らし、室内を見渡した。待合のソファに座る何人かの男たちが、何事かと俺を見ている。そのソファの脇に、恐らく店内へと続くのであろう扉があった。
 
 「ちょ、ちょっと、ダメだって! 何なんだアンタ……な、ちょっと、誰か来て!」
 
 俺が扉に近づくと、法被の男がカウンターから飛び出してきて、俺の行く手を阻み、声を上げた。すると、カウンターの脇から……もう見るからに近寄りがたい、まるで映画に出てくるヤクザ物のような男が数人現れる。……流石にまずいか?
 
 「ちょっと兄ちゃん、うちの店で何やってくれとんの?」
 「あ、い、いや、俺はその、朝比奈さんをですね……」
 
 先ほどまでの威勢は何処に行ったのか、この俺にも分からない。心臓がすっかり萎縮してしまっている。ぶっちゃけ怖い。
 
 「うちの女の娘たちに用があるんか? ほーそうかそうか、とりあえず、奥行って話そか?」
 「え、いや……すいません、あの、すぐ済みますんで、ちょっと会わせてもらえたら帰りますんで……」
 「店に殴りこんできてちっとで帰りますってなんじゃ? 冗談はスパッツだけにしてくれんかのう?」
 
 俺はあっという間に男たちに取り囲まれてしまい、身動きが取れなくなってしまう。うん、これ無理。ゲームオーバー。一介の男子高校生である俺に切り抜けられるレベルじゃねえぞ。
 俺の脳ミソが本格的にコンクリート詰めにされる可能性を考え始めた時。入り口のドアが音を立てて開き、聴き覚えのある救いの声が飛び込んできた。
 
 「ちょっと待ってください!」
 
 俺を取り囲む男たちが一斉に音の方向を振り返る、ドアを開いた手を此方に向けたまま、颯爽とポーズを決めるイケメンが立っていた。
 
 「こ、古泉!」
 「なんやお前……あっ、こいつ……」
 「……社長のところの若手や」
 
 急に男たちがどよめきだす。何事だ? 俺が何も理解出来ないまま立ち尽くしていると、古泉は例の笑顔を浮かべながら俺の傍までやってきて、言った。

 「彼は僕の友人です。……すみませんが、こちらの従業員の方に、ちょっとした手違いで、我々の学友が紛れ込んでしまっておりまして。彼女を連れて帰るために参上したのです」
 「は、はあ……でも、そんな事を言われても……ちょっと待って、なんだって、学友?」
 
 古泉の言葉に、法被の男が青ざめる。
 
 「はい、学友です。一年先輩です。分かりますね、店長さん? 今、なかなかまずいことをやってしまっているんですよ」
 「そ、そんな……」
 「ご安心を。大人しく引き渡していただければ、この件は内密にしておきます。社長に話しておきますので、今回の件の穴埋めも必ずいたします……その代わり、決して彼女の事を口外なさらないように……よろしいですね?」
 
 古泉は法被の男と顔を近づけ合わせ、薄ら笑いを浮かべながら耳元で何やらを囁いている。さぞかし気色悪いことだろう。法被の男は冷や汗を浮かべながら、俺を取り囲んでいた男たちに向けて、店の奥へと戻るように手で合図をした。男たちは俺を睨みつけながら、渋々といった様子でカウンターの奥へともどって行く。古泉は笑顔で俺を見つめながら、手のひらを上に向けて、店の奥へ続く扉の方向を示している。
 
 「芸能界というのは、案外つながりが広いものでして……ちょっとしたコネと言うやつです」
 
 ……業界のウラ、というヤツか。
 
 「朝比奈さんは何処にいる?」
 「は、え、えーと……この時間なんで、もう部屋のほうに……入って右側の、一番奥の突き当たりの部屋、です」
 男の説明を聞き、俺は古泉と顔を見合わせて頷き合うと、扉を開け、法被に言われたとおりに右に折れ、部屋の突き当りを目指した。狭い廊下を抜けた先に、高級な部屋なのであろうか、周囲の部屋よりも一段と豪華に装飾されたドアが有った。
 
 「朝比奈さん!」
 「え……ふぇっ、キョンく……え、ええええ!?」
 
 音を立てて扉を開き、室内に駆け込む。探すまでも無く、朝比奈さんは壁際のベッドに腰を掛けていた。以前不思議探索の際に着ているのを観た事がある、ワンピースにブラウスを羽織った姿だ。
 ……本当に居た。分かっていたことなのだが、こうして実際に目の当たりにすると、正直言ってかなりショックだった。噂の力とは言え、朝比奈さんがこんなところに来てしまうなんて……
 
 「朝比奈さん!」
 「ひ、ひぃっ!」
 
 思わず怒鳴ってしまった俺を、朝比奈さんは、恐怖と驚愕の涙をいっぱいに溜めた大きな瞳で見返し、肩をすくめて小さくなった。俺はそんな朝比奈さんに駆け寄り、ブラウス越しの両肩に掴みかかる。
 
 「朝比奈さん、どうして……一体、何が会ったって言うんですか!」
 「ひ、ご、ごめんな……さい」
 
 突然の事態に頭が回っていないのだろうか。可愛い朝比奈さんを慌てさせるのは偲びないが、状況が状況だ、仕方ない。
 
 「喫茶店のアルバイトは、どうしたんですか!?」
 「あ、あの……わたし、どじ、しちゃって、クビに……」
 
 今にも涙が零れ落ちそうな目が、俺の顔から逸らされる。
 
 「俺を見て答えてください、朝比奈さん」
 「は、はいっ! ……そ、れで、わたし、戸籍が無くて、なかなかバイトが……そしたら昨日、このお店の方にスカウトされて……すごくお金が良くて、すぐもっともらえるようになるって……それで、おもわず……」
 
 なんてこった。涙ながらに話す朝比奈さんを見て、俺の胸は怒りなのか悲しみなのかわからない、泥水のような感情で満たされた。
 
 「なんて馬鹿な……一言でも、相談してくれれば、何かしてあげられたかもしれないのに!」
 「ご……めん、なさい……わたし、ごめいわくかけたくなくて……」
 
 本当なら、或いはここで、頬の一つでも叩くべきなんだろうか。しかし、俺にそんな事は出来ない。そう。わかっているのだ。悪いのは朝比奈さんじゃあない。
 全ては噂が悪いんだ。誰かの軽率で、心無い噂話のために、朝比奈さんは、ここまで追い詰められてしまった。
 俺は頬を叩く代わりに、朝比奈さんの震える体を抱き締めた。香水の甘ったるい匂いと、朝比奈さんの髪から漂う太陽のような匂いが鼻に触れる。
 朝比奈さんは想像以上に細く、か弱く、儚げだった。この小さな体で味わった絶望の事を思うと、俺の胸は、まるで妹を抱き締めているかのようないとおしさでいっぱいになった。
 
 「きょ、キョン君……う、ううぇ……ぐず、ごめんなさい、あたし……あう、あ……ぐすっ、ふえ、ふえぇ……」
 
 
    ◆
 
 
 「とりあえず。彼女の面倒は我々機関が見ます。衣食住に困ることはないくらいの待遇はしてくれるはずです。このままずっと、と言うわけには行きませんが……とりあえず、当面の間は保障いたしますよ」
 「すまなかったな」
 
 歓楽街の出口で待っていたタクシーに朝比奈さんを託した後。ようやく俺と古泉は対面する事が出来た。俺の家へと向かう機関の車の中、一先ず、この一件の礼を述べた後で、俺は本題に入る。
 
 「長門に続き、朝比奈さんもだ。古泉、まさかハルヒのやつが、こんなのを望んでいた……とか言うつもりじゃないだろうな?」
 「言いませんね」
 
 常に回りくどい古泉が、珍しく断言した。こういうときは大概、こいつは真顔なのだ。
 
 「率直に申しますと……この世界、少なくともこの街は、既に涼宮さんの手に負える領域ではなくなっています」
 
 古泉は語りだした。
 
 「人の噂というものは、途絶える事がありません。毎日毎日、どこからか現れた小さな噂が現れては消え、現れては消え。其処には或いは、目を被いたくなるような人の業(ごう)……欲望や悋気。他者の不幸を喜ぶ心……それらは少なからず、誰の心の中にでもあるのです。僕のなかや、あなたの中にもね。噂とはそんな業を糧に燃え上がる炎のようなものです。そして、糧となった業の強さだけ、醜く姿を変えて行く。涼宮さんはそんな噂の一つ一つを、心の奥底で察知し続けていたのです。この数ヶ月の間、ずっと、休むことなく。常人なら一週間でノイローゼになるでしょうね。無意識とは言え、それは間違いなく涼宮さんの精神のなしている業(わざ)なのですから」
 
 古泉はそこで一度息をついた。俺が何か相槌の言葉を捜しているうちに、再び話し出す。

 「彼女の精神が参ってしまい、力に支障が現れ、噂を司る機能が壊れてしまったのも、仕方ないことなのかもしれません。しかし、涼宮さんの精神がいくら疲弊しても、噂は止まらない。まさに炎のように、強さを増し、彼女を襲い続ける。噂は涼宮さんの力を贄に、事実と言う魔物になってこの街を舞い踊る……いまやこの街は、彼女の意思とは関係なく、全ての噂が現実化する魔界と化した。……以上が、我々の見解です」
 
 ……悪夢だ。悪夢以外の何者でもない。どんな奇天烈だこれは。
 
 「校内にて流布している有名な噂話については、北校内の機関に所属している生徒達によって調査されています。さすがに昨日今日で生まれたものまではサポートしきれていませんが……長門有希、朝比奈みくる……両名について、今回の事件と概ね一致する内容の噂が流れています。……胸糞が悪くなりますね、正直」
 「まったく同感だ」
 
 こんなものをいくつもいくつも、毎晩夢に見せられる……馬鹿な。冗談はスパッツだけにしてくれ。三日で可笑しくなっちまう。
 
 「危ないのは、噂の被害者だけではありません。涼宮さん自身も……まあ、最早彼女も、噂の被害者であると言っていいかもしれませんが。自らの力を制御することもままならぬほど疲労しながら、今もなお噂を現実化しつづけているのです。このままでは彼女の心身が保ちません。……それに今日、長門さんの様子が可笑しい点と実際に対面してしまったのが、少々効いているかもしれませんね」
 
 俺は長門とドア越しに会話をしてからの、ハルヒのテンションの下がりようを思い出した。
 
 「現在、現状をどう対処したら良いか、機関で緊急の会議が行われています。こういった事態に陥る事の予想はされていたのですが、想像以上に展開が早かったもので……申し訳ありません」
 「お前の所為じゃないだろう」
 「今日は随分とお優しいんですね?」
 
 古泉が微妙な笑顔を浮かべ、俺の顔を覗き込む。
 勘違いしないでくれ。あまりにも疲れていて、頭が追いついていないだけだ。
 
 「長門さんの件は……もうしわけないのですが、我々にどうこうできる問題ではありません」
 
 まるで腫れ物に触るような様子で、古泉は言った。
 
 「ただ、少なくとも彼女のお父さんは今週一杯お帰りになられないようです。少なくとも、その間は安全かと」
 「……その間に、何もかもが解決すればいいんだがな」
 
 古泉は少し考えるように沈黙した後
 
 「正直……現段階で、確実な打開策を考え付く事は、我々には不可能だと思われます。もしも……長門さんに。彼女たちに協力していただければ、事態はもう少し順調に進むのかもしれませんが」
 
 と、呟くように言った。
 ああ、確かにそうだな。……でもな、古泉。今だけは許してやってくれないか。
 今の長門は……本当に普通の、か弱い女の子なんだ。かわいそうなくらいにな。
 
 
    ◆
 
 
 翌日。昨日教室に転がっていたはずの死体は綺麗に片付けられていた。二人仲良く欠席。ハルヒがどうしたかは分からないが、谷口は恐らくいつものやつだろう。朝からお勤めご苦労様です。最初はどうでもよかったが、今となってはすこし同情する。谷口、頑張ってくれ。
 砂利粒のような些末な時間が過ぎ去り、時は放課後。文芸部室にて、俺は古泉と向かい合っている。いつものように。
 
 「このところの寝不足と疲労が一度に出たらしく、朝比奈さんは、数日間学校を休んで療養なさるそうですよ。
  緊張の糸が解けて、昨晩はとても良く眠られたようです」
 
 古泉は俺の入れたお茶を前に、嫌に機嫌よく話した。ちなみに、このお茶は、俺の親切心からのもてなしなどではない。断じてない。ただ俺が一人でお茶を淹れていたら、古泉のやつが現れ、さも当然のように空の湯飲みを差し出してきたのだ。あまりの自然さに、俺は思わずそこにお茶を注いでしまった。と言うわけだ。失態である。これは大失態である。
 それにしても古泉。この一大事に、何がそんなにお前のテンションを上げていると言うのだ?
 
 「涼宮さんについては……恐らく昨日、長門さんの家での事を引き摺っているのでしょう。彼女自身精神が脆くなっていたところに、長門さんに拒絶され、ショックを受けているご様子で。現に、昨晩から閉鎖空間が多発していると聴きます。そして、谷口君がその対処に向かわれているようです」
 
 ハルヒより先に谷口がくたばるかもしれないな。……いや、ハルヒにくたばってもらっては困るのだが。
 
 「ハルヒは、大丈夫なのか?」
 「閉鎖空間が出現している限りは、精神状態はどうあれ、この世界に留まってくれてはいるわけですから。……しかし、可能ならフォローに向かったほうが良いでしょうね。とにかく、できるだけ涼宮さんの気を紛らわせて差し上げる事が先決です。僕なりにそのための準備をしてきたんですが、無駄になってしまいましたね」
 
 そう言った古泉の傍らには、ボードゲームやらなにやらが大量に詰められた巨大なトートバッグが寝そべっている。やめとけ。どうせ鬱陶しいと一蹴されるだけだ。機関の企画ならまだしも、古泉個人の思いつく遊び事は、ハルヒには退屈すぎるんだ。
 
 「とりあえず、放課後だな。……そうだな、ハルヒの家に行ってみるか」
 「……悪くない思いますよ。あなたが顔を見せることで、涼宮さんが悪い気になると言う事はないでしょうから。……そうですね。仕方ありません、放課後は涼宮さんに譲るとしましょうか」
 は? 何だって?
 「失礼。何でもありません……さて、どうですかひとつ。どれかで対戦でも……」
 「古泉、キョン! 此処かぁ!?」
 
 古泉がトートバッグに手を突っ込み、その中から何やらを取り出そうとした矢先。部室の扉が音を立てて弾け飛び(大丈夫。蝶番は繋がっている。そういう比喩だ)、現れるは我らがわすれものばんちょう、谷口だ。
 
 「……谷口君、どうかされたのですか? 血相を変えて」
 
 古泉は訝しげな表情で、現れた谷口を見て――今、一瞬舌を鳴らさなかったか?――取り出しかけた何かをバッグの中にしまった。谷口は肩で息をしながら部室内に入り、俺たちが挟んでいたテーブルに両手をつく。ドシン。と、耳障りな音がする。
 
 「なんだ、どうした、何事だ。お前、閉鎖空間は一段落着いたのか?」
 「そ、それだ。閉鎖空間、が、だな」
 
 俺が口にした閉鎖空間と言う言葉を聴き、谷口は魚が食いつくように身を乗り出し、俺に顔を近づける。何だ? 機関の人間はみんな、顔を近づける癖があるのか?
 
 「その閉鎖空間が、消えちまったんだよ。俺たちがまだ戦ってる途中だったってのに、突然神人が消え出して……ただの時間切れかと思ったんだが、違うんだ。それが二時間前のことだったんだが、それっきり閉鎖空間が一切現れなくなったんだ。何かあるんじゃないかと思って……古泉、お前なんでケータイの電源切ってるんだよ? 通じないから、慌てて戻ってきたんだ」
 「ああ、すみません……邪魔をされたくなかったものでして」
 
 ポケットから赤い携帯電話を取り出し、微笑みながら言い放つ古泉。邪魔? ……何を言ってるんだ、こいつは?
 まあいい、それよりハルヒの事だ。
 
 「単にハルヒが落ち着いたって訳じゃないのか?」
 「まあ、その可能性もあるんだが……念のため、何があるか分からないから、確認がしたかったんだが涼宮のヤツ、部屋に篭ってるらしくて、機関からもどうなってるか分からないらしいんだよ。キョン、お前、試してみてくれないか」
 
 谷口に言われるままに、俺は携帯電話を取り出す。胸の奥底で、嫌な予感の灯かりが生まれていた。
 妙な緊張を覚えながら、俺はハルヒの番号へと電話を掛けてみる。しかし、電話はコールされることさえ無く途切れてしまう。
   ―――お客様のお掛けになった電話番号は、現在使われて―――
 俺は眩暈を覚えながら、二人を振り返る。
 
 「これはどういう事だろうな、古泉?」
 「持って行ってしまわれた……と、言うところでしょうか」古泉は真顔だ。
 「持って行った? ……まさか、五月の時みたいに、か?」
 「はい。閉鎖空間の消滅に、涼宮さんの携帯電話の消滅……それも、データごとです。これは……恐れていた事態が発生してしまったのかもしれません」
 古泉は立ち上がり、胸の前で腕を組み、何やらを考え出した。
 
 「……涼宮さんの精神状態が良い状態でなくなって来ていると知った時から、最終的に、涼宮さんが以前のように新たな世界を作ろうとするのではないか。という可能性は、考えていました。ですが、もし涼宮さんが、我々にも観測出来ない次元上に世界を作ったとなると……最悪の状況かもしれません」
 一人で分かったような口ぶりをされても、さっぱりわからん。俺にわかるように説明してくれないか。
 「涼宮さんが新世界の創造を開始したとして、我々は、その新世界の設立先に成り得る次元を、あらかじめチェックしてあります。それがは即ち、普段の閉鎖空間が発生するのと同じ異次元空間なのですが……もしも涼宮さんが、我々に観測の出来ない次元に新たな世界を創造したのだとしたら。我々には太刀打ちできなくなってしまいます」
 馬鹿な。まさか、考えすぎだろう。ただ携帯電話が通じなくなっているだけで、そんな……
 「ただ携帯電話が通じないだけなら、涼宮さんの携帯の番号が、存在しない番号であると言うようにはなりません。それに加え、絶え間なく発生していた閉鎖空間が前触れも無く途絶えた……涼宮さんが消滅したとする判断材料は十分だと思われますが」
 
 数秒の沈黙。その後で、俺は鞄を引っつかみ、コートを肩に掛け、谷口が開け放ったままのドアへと向かった。馬鹿な。そんな事がある訳が無い。ハルヒはちゃんとこの世界にいる筈だ。自分の目で確かめなければ気がすまなかった。心臓が痛い。
 しかし。今まさに部屋を飛び出そうとした時、突然現れた小柄な体躯によって阻まれ、俺は再び室内へと押し戻されてしまう。
 
 「……確認の必要はない。涼宮ハルヒは、既にこの世界には存在していない」

 見ると、包帯の隙間から覗くフォノスコープの瞳が、真っ直ぐに俺を見つめていた。
 
 
 
 つづく


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