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「前回までの粗筋。
始めはさながらヒーローの如く現れ、この私を身を呈して守った古泉一樹だが、
物語の進行と共にヘタレ化が進んでいる」
「それでは粗筋にしても粗過ぎます。やり直す必要があるでしょう。
…ヘタレ化は否めませんが……」
「了解した。やり直す。否、物語の進展云々についてはこの際問題にしない」
「もはや粗筋ですらありませんね」
「問題視すべきは…」
「…すべきは?」
「イ・イ・イツキン イツキンキン」
「また!?止め――」
「以上。自転車の上からお送りした」
「え!?マジでずっと乗ってたんですか、自転車に!?ぼくた――
――えええこれ浮いてる!?凍死とか補導どころじゃねええ!!」
「ペダルを踏み続ける行動が余りに単調だったため、この前に見た映画のワンシーンを再現した。
かごに、あなたのシャミセン二号を乗せれば完璧。
前フリが長い上に粗筋の役割を果していないので、早急に本筋に入ることが望ましい。
続々々・花嫁修行危機一髪、スタート」
「ぞくぞくぞく!?語呂悪っ!
ちょ、始まる前に降ろして下さいい!」
「ヘタレ」
「くっ…!
ああっ、前向いて下さい、でっででで電柱がっ!」

 家に着いて、冷蔵庫に買った物を詰め込んで、ソファに突っ伏す。
今日も疲れた…
長門さんは口をもごもごと動かして、十八番の情報操作だろう、
ぐちゃぐちゃに混ざった黄身と白身に沈む、砕けた殻を取り除いていた。
少しの間休んだおかげで復活した僕も、彼女と並んで台所に立つ。
「何か僕に手伝えることは」
「無い」
にべもなく長門さんはそう言って、フライパンに卵を流す。
卵が焼けるいい匂いが部屋に立ち込めた頃、
彼女のお腹から、くうくうとかわいらしい音がして、思わずへらっと笑うと、
「恥ずかしい」
と菜箸で居間を指した。
何もできないくせにぼさっと突っ立ってないで、
さっさと向こうに行け…と言う訳ではないのだろう。
今は、あの炭水化物ダイエットの時とは違い、はっきりと恥ずかしいと言っている。
ですが、長門さん。
室内に入った今でもニット帽を被っている方が恥ずかしいのでは…?
「気に入った。
次の市内探索はこの服装で臨む」
うーん…それは…
僕が選んだ服を気に入ってくれたのは素直に嬉しい。
嬉しいが、その服を着た長門さんを見て、
それも僕が買った物だとばれたら、涼宮さん達がどう思うか…

「あたしは人の趣味に難癖をつける気は無いわ……
有希がいいんなら、まあ、別に構わない、わ…よ」
「へ、へええー。
古泉くんって、そういう趣味があったんですか~。
あっ、別に軽蔑なんてしてませんよ!
かわいいですね~、長門さん。確かに似合ってます~…」
「お前…
いや俺は何も言わん何も聞かんお前の趣味なんて知りたく無い。
長門がいいならそれでいい。
お前が無理矢理着せたっつうんなら話は別だけどな。
とりあえず…俺の妹には手え出すなよ……」
ありありと残りの団員の反応が見えて、僕は乾いた笑い声を漏らした。
どーしよー…
僕が選んだことを、長門さんが黙っていてくれれば問題はそこまで大きく無いのだが…
「できた。オムカレー」
どん、と皿がふたつ机の上に置かれる。
「召し上がれ」
「あ、いただきます」
豊かな匂いと鮮やかな彩色が思考を遮ったのをいいことに、
心配は後回しにして、スプーンを手に取った。

それまでずっと続いていた、スプーンと皿の底がぶつかる軽い音が止まった。
長門さんの分だけ。
しかし、彼女の皿には、まだ黄色と茶色の固まりが半分ほど残っている。
「あなたは」

ぽつり、と彼女は言葉を落とした。
「目の前に危機が迫っている人間がいたら、
利害の有無に関わらず、その人間の安全の為に動く、と。
あなたはそう言った」
一昨日の僕が言ったことを彼女は反復した。
今の状態に発展する羽目になった、今思えば小っ恥ずかしい台詞。
そしてこの騒動が起こる、全て引き金となった台詞。
「危機と呼べるレベルには至らない。
しかしそれはあくまで、私から見た彼女の状況。実際に彼女が感じていた不安は私には計り知れない。
私は母を見失い、泣いていたあの子の為に、行動を取ったつもりだった」
長門さんはここで言葉を切り、僕を見つめた。
僕のスプーンを運ぶ手も、もうとっくの前に止まっていた。
「あなたが私にそうしたように」
沈黙は数秒程だった。
「成長、されましたね…本当に」

まるで、今まで遠目にしか見ていなかった幼い子の格段の成長を目の当たりにしたような気分で、
多分穏やかなものになっているであろう目線を暫く注いでいると。
長門さんはニット帽を更に深く深く被った。
前が見えないんじゃないのか、と思うくらいに。
夕食も、その後片付けも終えて、まあ、また抵抗虚しく脱がされ、
浴槽に突っ込まれたりした。
長門さん、あなたはもう少し恥じらいを持ちましょう…
婿にいけない…え、お前がいくの?来てもらえよ、
と、どうだっていいことを一人で悶々と考えて、続けて入浴している長門さんを待つ。
しばらくして、脱衣所の扉が開いた。
よほど気に入ったのか、僕が貸そうとしたラフな服を彼女は受け取らず、
今日買った服をもう一度着ていた。
帰宅してパジャマなりに着替えると思うので、僕がとやかく言うことではない。
「忘れていた」
開口一番、彼女はそう言って、居間の床に正座した。
「何をですか?」
「耳掻き」

ぽんぽん、と彼女は太股を軽く叩き、こちらを見上げた。
片手には耳掻きが握られている。
……できればそのまま、ずっと忘れていて欲しかった…
ではお言葉に甘えて、と言う訳にもいかないので、
首をひたすら左右に振ることに専念する。
「結構です」
「良くない」
「いりません」
「いる」
素早く伸びた長門さんの手が、ぐっ、と僕の右手の中指を強く握った。
そこに巻かれていた包帯は、入浴前に解かれていて、今はむき出しだ。
そこっ、腫れてるとこだって!ワザとやってるだろ!!
「いた、い、です」
「耳掻き」
「いりません…っ」
ぎゅうううう
「すみません嘘つきましたー!
やっぱりお願いします!!」
「そう」
指を握る力が弱くなり、そのまま手を引かれ、彼女の太股に顔の側面を預けることになる。
なんだこれは。
彼女が無頓着でも、こっちはそうにもいかないのだから、
やっていいことと悪いことがあるだろう。
なんでスカート選んだんだよ…
と数時間前の自分を呪う。
知らねえよ、こんなことになるなんて普通思わないだろ。
と数時間前の自分は言った。

普通、なんて言葉は三年半程前に見限ったつもりだったのだが、そう言い訳せずにはいられない。
あーあーあー、早く終われー、と呪文のように口の中だけで呟く。
「終わり」
その甲斐あってか、意外と早く耳から棒が抜き出された。
しかし、ほっ、と息を吐いた途端、
「次、反対向いて」
ごもっとも…耳はふたつあるんだよな…
一度起き上がり、反対側の耳が上を向くように動く。
これはどこの少女漫画だ、と眉が寄る。
どこの誰だ、僕の忍耐力やら精神力やら理性やらその他諸々を試しているのは。
受けて立とうじゃないか、とひとりで意気込んでいると、耳から違和感が消えた。
「終わりましたか?」
そう聞いても、長門さんは黙ったままだ。
頭を持ち上げたが、彼女に手の平でこめかみを押さえつけられ、さっきと同じ体勢のままで動けない。
「寂しい」
僕は真上を向いた。
「ひとりは寂しい」
彼女は僕を覗き込んでいる。
今日会ったあの女の子の目は、母とはぐれたと気付いた時、きっとこんな風に揺れていたのではないのか。
もしかしたら、長門さんは、今、彼女自身を迷子の女の子に重ねているのかもしれない。

気のせいかもしれないが、もしそうだったら、いつもの笑顔になればいい。
「寂しい、ですか」
「そう」
「あなたにも、そんな感情があるんですね」
「そう。一人暮らしは寂しい」
「僕も寂しいです」
「泊めて」
またえらい所に話が飛ぶものだ。
「駄目?」
「駄目です」
「私はひとり。あなたもひとり。あわせてふたり」
「それはそうですけれど」
「なら決定」
どうやら僕に拒否権は無いらしい。
この強引さ、涼宮さんの影響だろうか。
「歯磨き」
やっと起き上がることができた僕に、歯ブラシが突き付けられる。
はいはい、ともう抵抗する気力も失せて、僕は口を開いた。
「長門さんはどうぞベッドでお休み下さい」
その格好のままで寝るのは窮屈だろうと、長門さんに簡単な服を手渡すと、
脱衣所に入ってあっさりと着替えてしまった。
耳掻きをする前にそのジャージを履いて欲しかった。
「あなたはどこで寝るの?」
「ソファで寝ます」
「押し入れの方が安眠できると思われる。
私はそこを寝床にしているロボットを知っている」
「いえ…あんな、尚更ネズミが出てきそうな所では落ち着いて眠れません」

「確かに…では何故?
何故彼は、彼の畏怖の対象であるネズミがより出現しやすい押し入れで眠るの?」
「さあ…直接、その猫型ロボットに聞いて下さいとしか」
押し入れから毛布と掛け布団を引っ張り出して、ソファに被せる。
その際、長門さんは押し入れの上の段に登って、二分程そこに寝転がってから、また直ぐに下りた。
「今度、自宅の押し入れで寝てみる」
好奇心旺盛だ。けれど、隠れ家みたいで少し面白そうかもしれない。…やらないよ。
「そこでいいの?」
ベッドに飛び乗った長門さんが聞いた。
「僕のことはお構いなく」
ソファと布団の間に潜る。
「一緒にベッドで寝たとしても、私は構わない」
「僕が構います」
そんなことをして、何かあってからでは遅い。
遅いって何が?いや別に何も。
「そう」
長門さんはこちらを見て、
「おやすみ」
と壁に張り付いた電灯の電源を切った。
「おやすみなさい」
ここで寝返りをうったら転げ落ちるな。
「古泉一樹?もう寝たの?」
「起きてますよ」
「そう」
夏ならともかく、冬だと少し冷えてしまう。
「古泉一樹、寝た?」
「起きてます…」
「そう」

仮眠だとそこまで気にならないが、長い時間寝るとなるとソファは少し固い。
「古泉一樹?眠った?」
「………」
「古泉一樹?」
「起きてますけど…」
「そう」
「あの、あまり声を掛けられると、ちょっと…」
控え目にそう言うと、しばらくの間沈黙が流れた。
「眠れないんですか?」
「違う。
あなたがそこにいるということを、あなたの声がすることで確認したかっただけ」
「そうですか…」
「そう」
閉鎖空間でも発生しない限り、一度床に就いてから家を抜け出すことはなかなか無いのだが。
きっと長門さんに備わっているであろう、サーモグラフィティ等の機能を使用せず、声での存在確認。
…そうだ。
「寝物語りをしましょうか」
「お話?」
「そうです。
おとぎ話とか、童話とか…怪談や、本当は恐ろしいグリム童話等はできませんが。
あなたが寝付くまでお話しでも」
「金太郎がいい」
「日本人の殆どが完璧に説明できないで有名な話できましたね…
えーと、昔々ある所に金太郎という名前の男の子が…」
「ある所ではない。物語の序盤の舞台は足柄山の山奥」
「ご存じでしたら僕が話す必要は無いのでは…」
「ある」

どこにその必要があるのやら毛頭見当つかぬまま、そこからは殆ど長門さんが物語の語り手になっていた。
これでは僕の方が先に眠ってしまいそうだ。
「そうして、坂田金時は酒呑童子を無事に退治した。と言い伝えられている」
「それで源頼光に褒美を頂いて、めでたしめでたし、ですか…」
「そう」
「そうですか…金太郎ってそんな話だったんですね…
眠い、です…」
「そう。私も」
「寝てもいいですか」
「いい。私も寝る」
その言葉に僕は目を閉じる。するとそのまま、くたっ、と眠れた。
色々と疲労が溜まっていたからだろう。その疲れが取れる筈の入浴が一番気苦労が絶えなかったから。

朝に強いとも弱いとも言えない僕を起こしたのは、先に目覚まし時計を止めた長門さんだった。
「起きて」
「ん」
「起きて」
「あーい…」
は、の発音ができず、それでもまだ布団の中でまんじりとしていると。
「起き――て!」
そう言いながら、助走をつけて腹に飛び乗られた。

「ぐあ!」
膝立てることねーだろ!!
と叫ぶのもままならなず、自由な上半身のみで飛び起きれば、
僕に跨がっている長門さんのドアップで、うわうわ言いながら背中がソファに逆戻り。
コントか、コントがしたいのか一樹。
「起きた?」
「ええもう最高の目覚めです。誰かさんのおかげで」
体の上から退いた長門さんに、いつもの笑顔で痛むお腹を押さえ、ほんの少しの嫌味を垂れる。
「あなたは痛くされるのを好むの?」
嫌味は通じなかった。
「なんでそう話がぶっ飛ぶんですか」
「好き?」
「違います!」
何時何処でどんな状況で誰からそういう知識を得ているんだ。
朝っぱらからなんて会話だ、と洗面所に向かおうとすると、
『ラジオ体操第一!』
全部やってたら確実に遅刻しますよそれ。

結局遅刻は免れた。
体操は昨日のものを全てやったので、
終わった頃には徒歩では到底間に合わないであろう時間だったのだが、
ここでもう一度自転車に出番が与えられた。
「早く乗って」
「ふたり乗りで登校はちょっと…教師の目もありますし」
「遅刻したいの?」
「そういう訳では…」

自転車置場でもたもたする僕を見兼ねてか、
長門さんはさっさとスタンドを撥ね上げてサドルに腰掛け、こちらを振り返って言い放った。
「乗らないと置いて行く」

チリンチリン
「おはよう」
「あら有希、おはよ!…え?古泉くん?」
「お、おはようございます」
チリーン
「おはよう」
「おう、はよっす長門…はあ?古泉?」
「おはようございまーす…」
チリンチリーン
「おはよう」
「あ、おはようございますー長門さ……ふえ?こいず…」
「おはようございま、す…」
恥ずかしい恥ずかしい目茶苦茶恥ずかしい。
こっち見ないで欲しい、っていうか、なんで今日に限って登校中のSOS団全員に会わなきゃならない。
それになんで今日に限って長門さんは全員に挨拶するんだ。
わざわざベルまで鳴らして。
長門さんは三人ともすいすい追い抜かしたが、荷台で僕が縮こまっていた事に関して、
必ず後で涼宮さん達に追及されるんだろうな、今から頭が痛い。
とひとりで思い悩んでいると、坂のふもとの自転車置場に着いた。
「ありがとうございました…」
「いい」

見上げただけでうんざりとする坂を徒歩で登る。
「今日の僕の下駄箱には何が入っているんでしょうね」
昨日の剣山を思い返す。画鋲どころでは無かったな…
「さあ。ちなみに昨日の私の下駄箱には消しゴムのかすが隅に置いてあった。
恐らくは、あなたに好意を寄せている女子生徒の仕業」
うん…なんてコメントしよう……。
長門さんは、怒らせたら恐そうな人学年第一位に輝いてるから…当然と言えば当然か。
「ショボい」
うん…。
その日の僕の下駄箱には、いや、上履きの中には、良く練られた納豆が入っていた。
ちょ、たんま。ほんのちょっとでいいから暴言吐かせて…一言で済むから。
せーの、
「食べ物に罪はないでしょうが!!」
「そっち?」
と、下駄箱から丸められた紙屑を取り出しながら言う長門さんを尻目に、
僕はあらん限りの力で上履きを廊下に叩き付けた。
ああ、むしゃくしゃする。こんな扱いを受けた納豆の気持ちを考えてもみろ。
誰のために美味しく加工されたと思っているんだ。
買ったお前のためだろう!?
「いや、ツッコミ所が違う」
長門さんはそう言い、廊下に転がった上履きを拾い、口をもごもごとさせた。
復活の上履き。

さて、特筆すべきは全ての授業が終わった放課後、文芸部室にての事だ。
今朝の件についての、他の団員からの追及どころでは無かった。
いや、追及はされるにはされた。一時間目が始まる前の休み時間、教室に襲撃しに来た涼宮さんに。
なので、長門さんが昨日に限り僕の家に泊まったことや、
晩ご飯を作りに来てくれていることは勿論伏せて涼宮さんには寝坊して遅刻か、
と慌てて僕がマンションを飛び出した所でたまたま長門さんが通りかかり、
彼女の善意による思い付きで一諸に自転車で登校することになった、と説明した。
今の状況に至った経緯を順に追って説明するのももどかしいので、過程は省かせて頂こう。
僕は両肩に物凄く強い力を加えられ、腰を掛けた姿勢のままパイプ椅子に押さえ付けられていた。
その力は長門さんの両手に込められていて、彼女は僕の目の前で仁王立ちをかましていた。
「えー…と」
「却下」
「まだ何も言っていませんが…」
「あなたが、先程私があなたについて指摘し、
そして今から私が、あなたに実行しようとしている事から逃げようとしているのは明らか」
「いや、そりゃ、逃げもしますって」
「遠慮は無用」

「遠慮だとか言う問題では無くてですね…」
「私は有機生命体で言う所の雌に分類される。あなたは雄。
よって私には、あなたが今置かれている状況を完全に理解する事は不可能」
「はあ、まあ、長門さんには無縁でしょうねえ…」
「しかし、今のあなたは辛そうに見える」
「別に、あなたが思っていらっしゃる程問題は…」
「ある。あなたのそれは痩せ我慢」
「我慢、って…」
「間違ってはいない筈。私は私の発言に責任を持つ。
『あなたの手が完治するまで私があなたの生活をサポートする』」
「はあ、まあ、そんな台詞もありましたね…」
「それはこうとも言える。あなたの手が完治するまで私があなたの右手の役割を担う、と」
「だからって、何もこんなことまで…」
「恐らく、あなたの右手が正常に使えたのであれば、
あなたはこの様に追い込まれるまで放置しなかった筈」
「ええ、まあ、それは確かに」
「しかし、あなたのその不快感も今日で終わり。私がその始末をする」
「いや、マジでいいです、って!僕はそこまで気にしていませんから!」

「あなたが気にせずとも、私が気になる。もう限界」
「どうかお気になさらないでく――なんて物ポケットに入れていらっしゃるんですかあなたは!?」
「これは使用しないの?」
「しませんしません!
あなたは、何か大きな勘違いをされているようですね、止めておきましょう!ね!!」
「却下」
「却下って!あなたにこういった経験があるとは思えません!」
「確かに、経験は皆無」
「なら!」
「やる気があれば何でもできる。これは名言。偉大な人の言葉」
「ひっ、人には努力や根性のみで出来ることと出来ないことが…
とにかく一旦離して下さい」
「暴れないで」
「お断り、しますっ…手を退けて頂けませんか!」
「却下。これ以上は私が見ていられない」
「たんま!待った!結局それ使うおつもりですか!?」
「そう」
「いや、そんなの使ってやったら死にますよ!殺す気ですか!」
「男が細かい事でごちゃごちゃと…」
「男だからです!」
「わかった、文句は後程受け付ける」
「後では遅――」
「力、抜いて…」
「ちょ、わ、やめ、ぎゃああああ!!」

ひゅっ、と長門さんの右手が振り上がり、僕は彼女の手の中にあるカッターナイフの刃先を避けるべく、
渾身の力で彼女の左手を肩から払い、椅子から転げ落ちた。
しかし、無様に尻餅をついた体勢の僕が立ち上がるよりも先に、彼女のカッターが頬にぴたりと添えられる。
「あなたに無精髭は似合わない」
「ひ……!」
皮膚に、刃の冷たく固い感触を感じ、さーっ、と血の気が引く。
カッターで、髭は、剃れません…!!
そう言おうとするが、後ちょっとでも刃が深く入れば、
間違いなく流血沙汰なこの状況に対する恐怖からか、
口がぱくぱくと空気を噛むだけで全く声にならない。
怪しげな機関に所属しているせいで、恐い目や痛い目には割と遭い慣れている筈なのだが、
それらと決定的に違っているのは、今の彼女に悪意は、それはもう全く、全然、これっぽっちも無く、
だからこそ、これ位で許してやらあ、ここまでやったら十分だろ、というラインが彼女には存在せず、
それがより恐怖を倍増させる。
更に、あんなに必死になって身に付けた護身術は、彼女相手には無効と来ている。
カッターとのゼロ距離に鳥肌を立て、僕は首をカッターから逃れる為に横に向けた。

ぎぎぎ、と効果音を付けても良さそうな程ぎこちなく。
今の今まで長門さんの説得に必死(しかもその説得も失敗への道まっしぐらだ)だったせいで全く描写していなかったが、
涼宮さん達も既にこの部室に居て、先程から僕達の会話を目の当たりにしているのだ。
そろそろ危険だ、と助太刀をしてくれても良さそうだと言うのに、しかし一向に誰も動く気配を見せない。
は、薄情者…。
傍観を決め込んでいる三人に、アイコンタクトで助けを求める。
S!
「しっかし、さっきの有希と古泉くん、会話だけ聞いてたらどえらい勘違いしそうだわ。
ね、みくるちゃーん」
O!
「ふえ?勘違いですかあ?別に何も…
ああ、長門さん、カッター振り回しちゃ、危ないですよぉ…でもわたしじゃ止められないし…
あれ?キョンくん、なんで震えてるんですか?」
S!
「刃物持った女子恐い腹えぐられるえぐられる朝倉止めて助けて嫌だ助けて助けて」
SOS送信ミス
………どっ、どいつもこいつも…!!
僕のSOS信号は誰にも届かなかったようだ。
いや、届くには届いたが、長門さんプラスカッターのコンボに立ち向かう勇気が無いのかもしれない。
僕だってそんな勇気は微塵も無い。

が、このまま大人しくしていると輪をかけてとんでもない事態に陥りそうなので、
ていうか、高々無精髭くらいで一々血の海に沈んでいては、この先命がいくつあっても足りない。
「ああっ、あんな所にキュアブラックがっ!!」
「なぎさ!?」
この部室のある校舎とは反対側に建っている校舎の屋上を指差す。
長門さんがプリキュア好きだというのは初詣の際に知ったことだ。
窓の方へ、足はその場に貼り付けたまま、上半身のみを大きく後ろに捻った長門さんから隙をついて飛び退き、
ドアノブに手を掛ける。この部室から逃げた所で彼女が諦めてくれるとは思わないが、ここはすったもんだをするには狭すぎる。
しかし、こんな見え見えの嘘に上手いこと引っかかってくれたな…
「この様に」
「え?」
「私が騙されるとでも」
長門さんはこちらを振り返ることすら無く、刃物を握った右手を肩越しに覗かせただけだった。
…僕の目には少なくとも、そうとしか映らなかった。
次の瞬間には、すかーん!と音を立て、扉にカッターが突き刺さった。僕のブレザーの裾を巻き込んで。
「な……!」

手裏剣!?あんたは忍者か!とか、ぶっちゃけありえなーい、とか、言いたいことは無限にあったが、
歯の根が噛み合わず、かちかちと音を立てただけだった。
あれ、僕ここまでビビりだったっけ…?
あ…ヘタレ化……?
でもこれだと、どちらかと言うとヘボ化では…?
頭がぐるぐるになっている僕を当然無視して、長門さんはすたすたと近付き、カッターを扉とブレザーから引き抜いた。
大きく切れ目が入ってしまったブレザーを見て、長門さんは、
「後程修正を施す」
と言い、またも刃物を構えた。
それなら無精髭をきれいさっぱり取り除いて下さい。
長門さんの右腕が、再び大きく振り上がって、風を切り裂きながら僕の顔面目掛けて迫って来た。
もう、それ、殺ろうとしているようにしか見えない。とても髭を剃ろうとする動作ではない。
腰が抜ける要領で、足の力を一気に抜き、扉にもたれ掛かって背中を落とし、危機一髪で逃れる。体育座りの姿勢だ。
が、それも虚しく、すぱっ、ぱさっ、と嫌な音が続いた。
「あ」
カッターを手にした、通り魔予備軍の少女の唇から小さく声が漏れた。
はらはら、と僕の肩に何かが降り懸かる。
なんだこれ…血、ではないな…

「ストップ、ストーップ!有希、やり過ぎやり過ぎ!!」
涼宮さんが、がらくたの山から美術に使う画板を引っ張り出し、盾にするように僕と長門さんの間に差し込んだ。
肩に落ちた、細い糸のような物を摘む。髪の毛だった。
どうやら、体を落としたはいいものの、髪が体について来れず、逃げ遅れてしまったようだ、
と、そこまで考えて、僕は卒倒こそはしなかったが、へなへな、と体育座りから、
内股を床にべったり付ける体勢になり、今度こそ腰が抜けた。
「大丈夫か古泉くたばってないか古泉チビってないか古泉立てるか古泉」
彼が、彼なりに心配してくれている顔で僕の前に立つ。
トラウマのせいか、まだ些か混乱気味のように、僕の名前を連呼している。
てか、チビってはない!!ないったらないからな!そこだけは絶対譲れない!!
「ななな、長門さん…カッター、わたしに預けてもらっても…?」
朝比奈さんまでおどおどしながらも心配してくれている。
……みんな、ありがたいのだが、できればもう少し早い段階で助けて欲しかった…
びくつく朝比奈さんに、刃をしまったカッターを渡した長門さんは、
彼に並んで僕の前に屈んだ。
「済まない」

長門さんは淡々と言葉を紡ぐ。
「あなたがなぎさをだしに、私から逃れようとたのに憤りを感じ、
少しばかりの制裁を与えようとした。が、度を越してしまった」
ほんとにな。
…そこまでなぎさを使われたのが頭に来たのか…
ここで、彼女はひょこんと頭を下げた。
「…ごめんなさい」
「そうね、有希も反省していることだし、悪気があった訳じゃないし。
ね、古泉くん、許してあげて!」
全く、この人は寛大と言うべきか、大雑把と言うべきか…
実際、彼女がカッターで髪をちょんぎられたら、多分相手が誰であれ一生涯許さないだろうに。
はあー、と盛大に溜息をついて(それ位は優等生演技中の今でも許されるだろう)僕は力無く笑った。
「帰りに床屋に寄って、髪も髭も見れるようにします…
美容院だと、髭剃りは無理でしょうから」
「そうした方がいいわ。
古泉くんは爽やか美少年ポジションであって、無精髭が似合うワイルドタイプじゃないしね」
そう言って、涼宮さんは彼を暫くじっと見て、あんたも似合わないわね、きっと、と呟いた。
「立てる?」
長門さんが手を差し出す。

あっさりとその手に頼るのも情けないので、ぐっ、と力を入れて立ち上がろうと試みる。
が、腰が全く持ち上がってくれない。
「ちょっとキョン、古泉くんに肩貸しなさい」
「なんで俺が」
「あたしやみくるちゃんや有希じゃ力が足りないでしょ!」
「朝比奈さんはともかく、お前と長門はいけるだろ」
「はあ!?ふざけ――」
「私の責任。手出しは無用」
軽く口喧嘩になりかけていたふたりを長門さんが遮る。
そのまま彼女は強引に僕の膝を立てて体育座りにさせ、手を僕の肩と膝の裏に添える。
おいおいおいおいおいおい、これってまさか…
「世間一般で呼ぶ所の、お姫様抱っこに該当される」
「いやいやいや!何をさらっと!」
彼女の手を引き離し、そのままその手を押さえ付け、
足に力を入れると、火事場の馬鹿力か、ふらつきながらもなんとか立てた。
はー、危機一髪…
もう少しで男の面目丸潰れだった…
で、
「………」
なんで睨むんですか長門さん。

その日の団活動は、床屋が閉まらない内にと涼宮さんが僕に帰るように言い、
その途端、長門さんが本を閉じたので、じゃあ今日はこれでお開きね!といつもより早い時間で終わった。

「という訳で」
最後尾を、今日だけは長門さんと並んで歩き、僕は前の三人に聞こえないように少し声を落とした。
「帰りに床屋に寄るので、先に帰っていて下さい」
ポケットから部屋の鍵を出し、長門さんに手渡す。
ピッキングの現場を住人に目撃されるのは、なんとしても避けたい。
こく、と彼女は小さく頷いて、ポケットに鍵を滑り込ませた。
そのまま彼女は僕のブレザーの裾に手をかざし、その手が離れると、切り込みは塞がっていた。

「あいよ、坊や。お疲れさん」
そこまで髪が悲惨な目に遭っていた訳でもなく、ほんの少し鋏を入れただけで、元通りとはいかなくとも、
自分から言わなくては、切ったことすら団員以外は誰も気付かないと思われる程変化は見られなかった。
顎を支配していた不快感ともおさらばできて、
安堵と共にそのまま床屋の椅子に深く腰掛けたままでいたかったが、
携帯が着信音1を奏でたので、慌てて会計を済ませた。
Eメール一件受信。
定期報告せよ、とのことだった。


続く
「次回、花嫁修行危機一髪・完、お楽しみに」
「あ?坊や、誰に話し掛けてんだ?」
「…あ、いえ、ひ、独り言です…どうかお気になさらず…」

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