胸を張り、腰に両手をあてて、空を見上げながら、二度、深呼吸をする。
 走り出す前はいつも同じ。
 一度目は、目を開けたまま。二度目は、目を閉じて。
 一度目は必ず口で呼吸する。二度目から、鼻でする。
 喉と鼻の両方からいっぱいに取り込んだ空気の新鮮さで、体の中だけじゃなく、頭の中まで空気と同じ、風に乗った軽い羽根みたいな、そんな感じがして、私は最後、目を閉じる前に見た青を、真っ暗闇の中に思い出す。
 違う。こんな色じゃない。こんな平坦な青じゃない。
 もっと突き抜けるような冴えた色をして、もっと、空を構成する青白二つの粒子まで、くっきり判る、震えたくなるほどの空だったはずだ。
 私が見た、私が飛びたいと、初めて思ったあの日の、あの空は――――。

「ミハネ、時間」

 隣で誰かが呼んだ。
 私と同じ、ジャージ姿に黒スパッツの格好をした彼女の手の中から、滑り落ちて、握り止められた鎖で揺れる、古風な丸い金時計の、振り子運動の開始に合わせ、瞬間、心持ち伸び上がっていた私の体は、リズムを作るように肩から沈み込む。
 軌跡が弧を描くようにして走り出す。
 最初は徐々に、そして助走の軌道が緩やかなカーヴのピークに達した点から一気に加速をつけて、走りこんでいく。

「――――!」

 赤いマットな質感のする、人工の競技用トラック、緑色の大きなマット、どこかで走る競技者仲間の姿、全部の風景が一瞬のうちに私の前を駆け抜けて、足元に、目印に置いた自分用の踏切マーカーが来た、と、思った、瞬く暇もない瞬間。
 息つく間もない一瞬間。
 踏み切った。
 カメラをひっくり返したみたいに、すべてが私の視界から消えて、もう一度、見上げるまでもなく視界いっぱいに飛び込んでくる空の青を、跳んだ背中で思いっきりブリッジを作りながら、私は感じていた。

 思い出すんだ、あの空の青を――――!

「ふぁーる」

 ぽすん、と、引っ掛けてしまったバーを下敷きにしながらマットに落ちて、無情にも気の抜けた声で宣告する仲間の判定を聞く。
 当然、見たかったあの青は、私の中に戻って来てはいなかった。

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 レンジャー連邦に大学未満の学校はない。
 むかーしもむかし、まだレンジャー連邦がレンジャー連邦になる前のことだ。
 海原に浮かぶ砂漠の島に、互いの器量の小ささで、狭い浮き世にひしめき浮かぶようにして競い合っていた四つの王国があって、この名残りが今の東西南北、俗に言う四大学のハシりとなった。
 そうは言っても世のお父さんお母さんがみんな博識だったり、そうとはいかないまでも、始終近所にいてくれたりするわけじゃないので、レンジャー連邦に、大学以下の学校はなくても、大学に付属する形で、様々な形態を採る、私塾のような教育機関は存在していて、私、卯ノ花(うのはな)ミハネも、その一つに通っていたりするのでした。

「にゃっはっは、さしもの新堂塾期待の星も、弘法も筆の誤りと言ったところですかにゃ?」

 そんなことを言いながら一緒に着替えるのは、今日、そのために練習していた陸上競技会を通じて知り合った、同じ走高跳の選手の友達で、水ノ戸ルリハちゃん。ちなみに着替えシーンの描写自体は割愛です、期待した人はご愁傷さま。まあ、狭いところにひしめく鉄製の武骨なロッカーや、プラスチックのやっすいベンチ、お洒落た感じの何もしない癖に、中学高校のような学校制がないものだから、統一された購買部なんかもないせいで、バリエーションだけはやたらに豊富なスポーツバッグの群れが、貴重品以外は「持ってけドロボー!」と言わんばかりの乱雑さで放り出されている様子の中でのやりとりだと想像すれば、きっと幸せになれると思うよ!
 そうそう、なんでこんなに設備が整っていないかという話だけど、所詮私塾の系列の卒業生が集まって寄付金で設けたものなので、自然、どちらかというと近代的な軍が多くて、同じ体育会系でも、いわゆるファンタジーの戦士的な「肉こそすべて! むふぅん!」といったノリが存在しないレンジャー連邦では、陸上系の競技の扱いなんて、こんなものだったりする。跳んだり走ったりする際に、土より踏みしめがよくて安全な、専門のトラックがあるだけ立派なもん、なのである。

「うーん、どうなんだろうね。ところで弘法って誰さん?」
「頭のお出来も筆の誤りクラス!?」

 私が通っている新堂塾というのは、諸学ある中でもとりわけ「やればわかるさ、ありがとー!」という、実践体験至上主義なところで、塾というより学校っぽい雰囲気のある、藩都大学の系列に当たる、小さな塾なんだけれど、今の発言で分かるように、学をつけるには大変向いていないところでもあったりする。
 いや、ことわざの意味するところぐらいは文脈でなんとなくわかるけども。

「なんとなくわかる、で、なんでも押し通るところが新堂塾生のオソロシイところだよね……」

 自主独立の奨励されるレンジャー連邦においては、学校のありようもやっぱり同じで、ありがたくもツッコミを入れてくれたこの子と知り合うきっかけになった、陸上競技会自体も、国からの教育支援はなんだかんだで出ているみたいだけれど、公立の組織じゃあなくて、学生会連邦、っていう、有志の集いで催されている、学閥交流の一環だったりする。
 むかしは競い合えども分かり合わずの四王国は、今では競い合うことでわかりあおー、な、健康精神を持つようになったというお話。

「いまどきセーラー服っていうのも珍しいしねー」
「うん。新堂塾、海軍系だから」

 競技会用のジャージから着替えたところでルリハちゃんが私の服装を見てつっこんだ。
 学校っぽさとはなんぞやという論になると、色々言いたいこともみなさんあると思いますが、とりあえず、日本人としては制服だよねーという流れで、新堂塾は制服制度を採用している。あ、まだこれ着替えシーンだから描写は割愛中です。私たちの姿格好についてはもうちょっと待ってー。

「塾長さんが海軍出身なんだっけ?」
「です」
「ふーん。どうでもいいけどへそ出しセーラーの丈の短さには、おじさんめまいがしちゃうにゃー……」
「そ、そう?」
「こう、あちこち際どい感じがたまらないです!」
「見えてないと思ってひどい表現の仕方はやめて!?」

 レンジャー連邦では、若者のへそ出し、普通ですよ、普通。
 ……そんなに短いかなあ、丈。確かにみぞおちのあたりまでしかないけど。デザイン的に変にならないよう、ちゃんと工夫されてるんだよ?

「ねーねー、帰りどこか寄らない?」
「あ、ごめんね。今日は寄るところがあるから」
「門限厳しいんだっけ?」
「それもあるけど、ちょっと」

 ちょっと、と、指先でジェスチャーする私。
 ふーむと腕組みしながら、なにやら疑わしげな様子でじろじろ見てくるルリハちゃん。

「な、なんですか?」
「なーんでもー。
 さっ、出よっか!」

 にひひ、と笑ったあたり、既に気づかれているのかもしれない。
 かくして私とルリハちゃんは、誰かにのぞかれることもなく(もちろん、視覚的にだけじゃなく、情報的に……つまり描写されることもなく、っていうわけ。アイドレスらしいでしょ)、着替えを無事終えて、スポーツバッグを片手で担ぎながらロッカールームを後にしたのだった。


(城 華一郎)

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最終更新:2010年08月04日 21:03