+ クチコミ検索 #bf
+ ブログサーチ #blogsearch
+ ニュースサーチ
● 球根栽培法〔Wikipedia〕
火炎瓶闘争など日本共産党の武装方針について示した秘密出版物。正しくは『内外評論』という機関誌であるが、『球根栽培法』は、これを擬装するための書名である。ガリ版で複数回発刊された。また、後に新左翼諸セクト内でも『球根栽培法』のコピー版が出回り、1974年の東アジア反日武装戦線による『腹腹時計』登場まで武装闘争の指針となっていた。



■ 日本共産党のテロ教本「球根栽培法」見っけ! やっぱり「共産党は確かなテロ政党」? 「なでしこりん(2016.3.21)」より
/
「革命のためなら反対者は殺す」という考えに同調できる?
.........共産党の議員が増えたら、いずれ日本には血の雨が降るのかな?

.....なでしこりんです。ブログを継続してやっていると、「こんな写真があるよ」とメールしてくださる方もおいでです。今日はそんな写真のご紹介。皆様、こんな資料があったことをご存知でしたか? 表には「球根栽培法」・・・なんかガーデニングの教本みたいですね。さっそくウィキペディアで調べてみましょう。

.....球根栽培法・・・・火炎瓶闘争など日本共産党の武装方針について示した秘密出版物。正しくは『内外評論』という機関誌であるが、『球根栽培法』は、これを擬装するための書名である。ガリ版で複数回発刊された。また、後に新左翼諸セクト内でも『球根栽培法』のコピー版が出回り、1974年の東アジア反日武装戦線による『腹腹時計』登場まで武装闘争の指針となっていた。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9D%91%E5%B7%A5%E4%BD%9C%E9%9A%8A

.....このブログ では、日本共産党が「戦前前後も反戦平和の党」というのは完全なウソと指摘してきました。戦前の日本共産党はソ連共産党の日本支部でしたし、実際、戦後、日本共産党の名誉議長になった野坂参三はソ連で活動しており、日本共産党員であった山本懸蔵(やまもと けんぞう)をソ連の秘密警察に殺させています。この事実は日本共産党も認めているんですよ。

(※mono.--以下略)


● 日本共産党第6回全国協議会 「Wikipedia」より
/
日本共産党 第6回全国協議会(にほんきょうさんとうだい6かいぜんこくきょうぎかい)とは、1955年7月27~29日に行われた、日本共産党がそれまでの中国革命に影響を受けた「農村から都市を包囲する」式の武装闘争方針の放棄を決議した会議である。「六全協」(ろくぜんきょう)と略して呼ばれることも多い。
概要[編集]
この六全協で北京にいた徳田球一書記長が2年前の1953年に死亡していたことが発表され、第一書記に野坂参三、書記局員に紺野与次郎・志田重男・宮本顕治を選任した。共産党はこれまでの山村工作隊など武装闘争路線に完全に終止符を打った。
志賀義雄、宮本顕治ら旧国際派は、この会議をもって主導権を奪還するが旧所感派についていた野坂を第一書記、1958年に議長に据えることで、「統一」を印象付けた。六全協は、のちの「議会闘争を通じて幅広い国民の支持を得られる党」へと作り変える一つの契機となったが、この時点では「農村から都市を包囲する」というそれまでの中国革命方式の武装闘争方針を放棄したのであって、「暴力革命」路線全般を完全に放棄したわけではない。新指導部のもとで、新しい綱領と明確な路線を確定するまでには、あと数年を要した。

山村工作隊などの活動に参加していた学生党員は、突然の路線転換に衝撃を受け、党を去った者も少なくない。あるいは、失意のうちに自殺した党員もいる。また、「武装闘争」路線を信奉する急進的な学生党員は、新指導部への不信を募らせ、その後のスターリン批判やハンガリー動乱などによって、共産党を「スターリン主義」として批判する傾向が強まり、のちの共産主義者同盟結成や新左翼運動誕生へと向かう種が、この六全協によって蒔かれたといえる。
その後、第7回大会を準備する過程で、6全協自身が不正規の会議の流れをついでいることが確認され、6回大会選出の中央委員会と6全協選出の役員との合同での拡大会議が開かれ、五〇年問題に関しての総括も、そこでおこなわれた。
柴田翔の芥川賞を受賞した小説『されどわれらが日々-』は、六全協決定以後の左翼学生たちの敗北感を描いている。


■ 党の戦後の歴史から――「50年問題」と「軍事方針」 「日本共産党創立78周年記念講演会:日本共産党の歴史と綱領を語る:幹部会委員長 不破哲三(2000.7.20)」より
/
 日本共産党を「暴力革命の党」と中傷するため、1950年代のあれこれの事件をとりあげた攻撃もありました。しかし、日本共産党の正規の機関が「暴力革命」などの方針を決めたことは一度もありません。

 この問題の本質は、ソ連・中国からの干渉にありました。1950年に日本共産党を分裂させた「徳田・野坂分派」を使って、ソ連・中国流の武装闘争方針を持ち込もうとしたのです。それとのたたかいを通 じて、今日の党があり、綱領があるというのが、もっとも重要なことです。

 日本共産党は、1946年の第五回党大会で「平和的かつ民主主義的方法」で社会の変革をめざすという方針を決めました。これにたいし、1950年、コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)から、「アメリカ占領下での『平和革命』論は間違っている」と突然の「批判」がありました。この「批判」は、当時の徳田球一書記長ではなく、政治局員だった野坂参三だけを名指しで問題にしたものでした。これは、ソ連の情報機関につながる秘密工作者となっていた野坂に、新方針を伝えるためのメッセージだったとみられます。そのいきさつについては、不破委員長の著作『干渉と内通 の記録』がソ連秘密文書をもとに明らかにしています。徳田、野坂は、党を破壊し、北京に亡命して勝手につくった「北京機関」を党の指導機関と称して、ソ連・中国じこみの方針を日本に持ち込んだのです。

 「徳田・野坂分派」の行動は、党の決定に根本的にそむいたもので、日本共産党の大会や中央委員会とはなんの関係もありません。

 当然、この路線は破たんしました。そして、日本共産党が統一を回復した第七回党大会(1958年)、現在の綱領を確定した第八回党大会(1961年)にすすむ過程で、(1)徳田、野坂らが党を分裂させたことの誤り、(2)ソ連・中国などの干渉に追随したことの誤り、(3)武装闘争路線を持ち込んだことの誤り――を明確にし、それを根本的に克服するなかで、今日の党の路線が確定したのです。

 不破委員長は、「反共派が『火炎瓶闘争』などといって問題にしているのは、ソ連・中国の言いなりになって党を分裂させ、北京に拠点をかまえた徳田・野坂分派が、党の決定にそむいてやったこと、今日の日本共産党が、この分派の後継ぎであるかのようにいいたてるのは、歴史を無視したまったくのいいがかりにすぎない。日本共産党の今日の路線は、この干渉をうちやぶるたたかいのなかで築かれたものだ」と強調しました。
















.
最終更新:2016年03月21日 20:13