● 伊藤博文〔Wikipedia〕
アジア最初の立憲体制の生みの親であり、その立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、高い評価を得ている。1909年、ハルビンで朝鮮民族主義活動家の安重根に暗殺された。



★■ 【ニッポンの新常識】英雄視する前に韓国人が知っておくべき安重根の真実 K・ギルバート氏 「zakzak(2015.2.18)」より
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 韓国では、安重根(アン・ジュングン)が英雄視されている。彼は1909年に、日本の初代内閣総理大臣で、初代韓国統監である伊藤博文を暗殺した人物である。

 韓国では「反日」が国是なので、日本の重要人物を暗殺した安重根は英雄とされる。一方、保守的な日本人はおそらく、「反日思想のテロリスト」として捉えている。

 日本でも、幕末に数多くの暗殺を行った新選組を英雄視する人は多い。倫理面から、暗殺犯はすべてテロリストだと断じることも可能だ。だから、「安重根は英雄か、テロリストか?」という日韓対決に結論が出る見込みは永遠にない。

 しかし、少し調べてみると、安重根は反日思想の持ち主ではないことが分かる。彼は平和を望んだクリスチャンであり、日本という国や明治天皇に敬意と感謝の念を持っていた。日韓問わず安重根を「反日の象徴」として捉えている人は、史実を調べていない。
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 例えば、安重根は暗殺事件の裁判で、日本が、大韓帝国(=李氏朝鮮が1897年から1910年まで使っていた国号)の皇太子、李垠(イ・ウン)の教育に尽力したことに触れ、国民が感謝していると述べている。日清・日露戦争を通じて、日本が朝鮮半島を含む東洋の平和を守ったことも評価している。明治天皇が韓国の独立をはかり、平和の維持に努めたことも理解している。

 問題は、安重根が、伊藤のことを「明治天皇の意向に反した政策を朝鮮半島で行う逆臣」と思い込んだ点にある。現実には、伊藤こそが李垠を日本に招いて教育した張本人である。しかも日韓併合反対派の中心人物だった。

 3発の銃弾を受けた後も、伊藤にはしばらく意識があり、犯人が朝鮮人であることを聞くと「バカな奴だ」とつぶやいた。日韓併合に反対ならば、伊藤暗殺は犯しうる最大の過ちだった。

 日韓併合で朝鮮半島は日本の一部となり、朝鮮人は日本国籍となった。大日本帝国は国家の威信にかけて、朝鮮半島の衛生改善やインフラ整備、産業育成、教育レベル引き上げに取り組んだ。朝鮮民族の独自性も尊重し、ハングルを普及させた。

 反日でも構わないが、歴史的事実は知るべきだ。結局、安重根による伊藤暗殺が日韓併合を招き、韓国近代化を加速させた。結果から見れば、皮肉にも彼は間違いなく韓国を救った英雄である。

 安重根は何者かに嘘の情報を吹き込まれ、それをかたくなに信じたせいで、祖国の大恩人を暗殺する過ちを犯した。そして、韓国は今、安重根が犯したのとまったく同じ過ちを、国単位で行っている。

 悪質な嘘を吹き込んだ「無責任な新聞」は、某船長のごとく見苦しく逃げ出した。韓国人は最新情報を調査し、各自が冷静に判断して行動しなければ、この先に待ち構えるのは悲劇のみである。

 ■ケント・ギルバート 米カリフォルニア州弁護士、タレント。1952年、米アイダホ州生まれ。71年に初来日。80年、法学博士号・経営学修士号を取得し、国際法律事務所に就職。83年、テレビ番組「世界まるごとHOWマッチ」にレギュラー出演し、一躍人気タレントとなる。現在は講演活動や企業経営を行っている。最新刊は『不死鳥の国・ニッポン』(日新報道)。


◆ 英雄視する前に韓国人が知っておくべき安重根の真実 K・ギルバート氏 「ネトウヨにゅーす(2015.2.18)」より
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2: 名無しさん@おーぷん 2015/02/18(水)13:56:31 ID:Ake
ギルさんどんどん辛口になって行くなw

3: 名無しさん@おーぷん 2015/02/18(水)14:22:48 ID:HOm
THE・真実

4: 名無しさん@おーぷん 2015/02/18(水)14:29:29 ID:bMk
英語でもお願いします。

19: 名無しさん@おーぷん 2015/02/18(水)16:59:39 ID:qiq
K・ギルさん 朝日慰安婦問題 以降キレキレだな。

<>4
ホント英語で発信してほしい。

24: 名無しさん@おーぷん 2015/02/18(水)17:20:05 ID:Hsq
<>19
本人のブログで英語で書いてるね

大日本帝国の擁護を展開することは、
WW2における戦勝国すなわちアメリカの「正義」を否定することに繋がりかねないから
いかに親日でもなかなか言いにくいもんだと思うけど
それだけにありがたい話だね

5: 名無しさん@おーぷん 2015/02/18(水)14:31:25 ID:tlB
ケントさんのおっしゃる通り。

■ 伊藤博文と日韓併合 「池田信夫 blog(2013.11.19)」より
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ニューズウィークの記事のおまけ。伊藤博文と朝鮮の関係については、テロリストの記念碑を建てようとする愚かな大統領は論外として、日本でも「伊藤は日韓併合に反対した」とか「暗殺事件が併合の引き金になった」とかいう話があるが、それも間違いである。

そもそも憲法を制定して初代の首相をつとめた伊藤のような「大物」が、問題ばかり多くてメリットのない韓国統監などという仕事を引き受けたのが奇妙である。1906年当時は、まだ国内でも立憲政友会を立ち上げたばかりで、山県有朋との権力闘争もあり、朝鮮などに行く状況ではなかったはずだ。
著者は、伊藤のねらいは「憲法改革」にあったという。藩閥政治の妥協によってできた明治憲法は、天皇と内閣の二元支配で分裂した統治機構を抱えていた。特に「天皇の軍隊」と自負する軍の自律性が強まり、それを基盤とする山県は二元支配を守ろうとした。これに対して伊藤は帝室制度調査局を創設し、憲法改正をはかる。

伊藤が改革のモデルケースとしたのが朝鮮だった。彼は文官でありながら軍を統括する統監に就任し、西洋でも中国でも当たり前の文民統制を初めて実行したのだ。これは現地軍の反発をまねき、日韓併合論が盛り上がったため、伊藤はハーグ密使事件をきっかけに大韓帝国の皇帝、高宗を退位させ、韓国の軍隊も解散して、1907年の第3次日韓協約で実質的に韓国を併合した。1910年の条約はそれを追認しただけだ。

これが抗日闘争の激化をまねいて暗殺事件に至るのだが、伊藤の真意は朝鮮半島の経営ではなく、朝鮮を足場にして満州侵略をねらう日本軍の阻止だった、というのが著者の見立てである。このため伊藤はロシアと和平を結び、国境を画定した。これによって軍は朝鮮半島に釘付けにされ、満州に出て行くまでにあと20年かかった。
(※mono.--以下略、詳細はブログ記事で)














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最終更新:2015年02月18日 20:39