★■ 終戦の日にナチス・ドイツ誕生の経緯を振り返る:いま、私たちが同じ過ちを繰り返す危険性は本当にないか? 「JB Press(2013.8.15)」より
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私たち人間は「正義」が好きです。どこの国の伝承や神話を見ても英雄、正義の味方が登場しないものはありません。人間は「正義」とともに生きてきたと言ってもよいかもしれません。

 そして、その「正義」こそが、あらゆる戦争や残虐行為の源泉でもあるという冷静な事実を、終戦の日の週に振り返っておくことには意味があると思うのです。

憲法は「正義」ではなく「正義のストッパー」

ヒトラーがベンツの値引きを頼んだ手紙、オークションに ドイツ


 このところ「憲法」が社会的に議論に上ることが少なくありません。ここでちょっと変わった質問をしてみましょう。

 皆さんは「憲法」は「正義」だとお考えになりますか?

 「何を言っているんだ、憲法は正義に決まっているじゃないか」という声が聞こえてきそうですが、実は私はそうは思わないのです。この確信を私は、刑事罰を巡るEU本部とドイツ連邦共和国の合同プログラムを通じて強く持つようになりました。

 そもそも「正義」とは何か・・・?

 これ自体が難しい問題です。しかし、いま私たちが通常の社会で生活していて、何か争いがあるとき、何が正義で何が不正であると判断するかと言えば、マスコミの不正確な報道などは別として、筋道としては裁判所、つまり法廷が、その別を決定しているはずです。

 これは法律的な意味での「正義」「不正」であって、法廷の決定、つまり「判決」が字義としては「正義」を表すはずです。が、実際にはあらゆる判決に不服や不平はつき物です。日本では裁判は3審制で、自らに有利な「正義」が争われる。

 つまるところ、法的な「正義」というのは、実は相対的なものでしかありません。

 憲法というのは、そういう「個別の正義」を代表するようなものであってよいのか・・・? もちろん「否」と言わねばならないでしょう。

 むろん、憲法の内容が「不正義」であってはなりません。その意味では憲法もまた「不正」の反対側に立つものですが、憲法は単に「個別の正義」を実践するものではない。

 既存の法律に従って、裁判所が下す「個別の正義」、あるいは政府が実施する「個別の政策」や立法府が新たに定める「個別の法律」、こうしたもの全体をチェックする役割、もっと言えば、それら「正義の暴走」に対するストッパーというのが、憲法という法律、つまり国の基本法典が持つべき、最も重要な役割であると思うのです。

 司法、立法、行政という、一つの国が持つ3つの主要な国権。これらが独立せず、わがまま勝手な国の経営が許されれば、民主的な社会を築くことはできません。これらがきちんと動くことが、普通の意味での「正義」に必ず求められます。

 これが少しでも狂うとどういうことになるか、という実例として、ナチス・ドイツを見てみましょう。実際に狂ったのは本当に「少し」の部分でした。そして、それは十分ドイツのみならず全欧州、全世界を壊滅的危機にまで追い込むものでした。

「ナチス憲法」なんてものはない

 どこかで不勉強な政治家が「ナチス憲法」とかいう言葉を使っていましたが、ナチスに憲法、つまり国権の制限する基本法典がなかったから、ああいうことになってしまった。その本質を理解していない時点で、まじめな議論が基本的に成立していません。

 実際にあったのは以下のような出来事です。

 1932年、ワイマール共和国大統領選挙でアドルフ・ヒトラー候補はパウル・フォン・ヒンデンブルク候補に次いで次点となります。同年7月31日、11月6日の国会議員選挙でナチス・ドイツは相次いで第1党の地位を占め、翌1933年1月30日ヒンデンブルク大統領はヒトラーを「首相」に任命します。

 次いで連邦各州内閣の権限が「国家弁務官」に譲渡される権力の集中が始まりますが、決定的だったのは2月27日、ベルリンの国会議事堂が放火される「ライヒスタークスブラント」事件が発生、これを「共産主義者による反乱計画の一部」と見なしたナチス政権は事件を政治的に徹底的に利用しました。

 実際、つい十数年前にロシア革命によってソ連が誕生していたため「共産主義者の反乱」という言葉は一定以上の説得力を持っていたのも事実でしょう。

 ヒトラーはまず緊急事態を宣言する大統領令を発布、ワイマール共和国憲法で定められていた基本的人権や労働者の諸権利を停止します。

 「誰も気がつかないうちにいつの間にか憲法が変わっていた」なんて推移ではありません。誰もが「国家の危機」と思い込んだ瞬間に、物事はさっさと、公然と進められていきました。
3月5日、国会議員選挙で4割以上の得票を得たナチスは連立を組んだ国家人民党とともに議席の過半数を得、ヒトラー内閣は実権掌握へと具体的な動きを進めます。

 3月12日には悪名高い「ハーケンクロイツ」を伝統的なドイツ帝国の旗とともに国旗に制定。3月21日の新国会開会時にワイマール共和国の制度継承否定を非常事態に乗じて勝手に宣言、2日後の23日にいわゆる「全権委任法」を内閣から議会提出、過半数を制する国会でこれが成立して、アドルフ・ヒトラーによるナチス・ドイツの独裁体制が確立してしまいました。

 実に国会議事堂・ライヒスタークの火事からたった24日、3週間と少しの間に、ほぼクーデターのような形でワイマール共和国憲法は無効化され、「憲法改正的立法」として「全権委任法」が成立してしまったことになります。

 この「全権委任法」あるいは「授権法」とも訳される悪法の中身を具体的に確認してみましょう。

「正義ストッパー」の失効:行政が立法権を持てばナチス

 「全権委任法」と訳されるこの法律は正確には「民族および国家の危難を除去するための法律」(Gesetz zur Behebung der Not von Volk und Reich)と呼ばれるものです。

 非常事態を理由に行政府に立法権を認めさせるもので、ナチス政府が決定する法律は仮に国会が反対したりワイマール共和国憲法に違反しても有効であるとするもので、実質的な憲法改正の内容を持つものです。

 ワイマール共和国憲法は「憲法改正には議員の3分の2の賛成を必要」と定めていました。そのため、議席の半分は占めていたものの3分の2には達していないナチス連合与党は憲法改正ができません。

 そこで議院運用規則を「修正」して、欠席議席数を分母から取り除き、より容易な実質的な「憲法改正」を実現しようとします。

 どこかの国でも似たような改正手続きからの再検討が机上に乗っているような気がしますが・・・。

 そして、実際に運用規則を「修正」し、非常事態を理由に「円満に」ナチス政権、内閣・行政府が立法権を掌握する「「民族および国家の危難を除去するための法律」を成立させてしまいます。

 「民族および国家の危難を除去するための法律」この扇情的なネーミングに注意しておく必要があります。後年、専門家はそんな名前は使わず「全権委任法」という露骨な呼称でのみ、これを呼ぶようになります。

 実際の「全権委任法」は5カ条から成っていました。要旨を抜き出すと、

1 ヒトラー内閣は「(憲法以外のあらゆる)立法権」を有する。
2 政府立法は憲法に優越する。ただし国会、第二院と国家元首である大統領には権限が留保される。
3 法令の承認権を国家元首である大統領ではなく行政の長である首相に掌握させる。
4 外交条約の締結に議会の承認は必要ない。
5 この法律は非常事態対応のもので、時限立法である。

 このような形で立法権とその法律の承認権を内閣と首相が独占し、政府が内政外交両面で議会を一切気にする必要がなくなれば、確かに物事は「早く」動くでしょう。

 「ねじれ国会」のような形で審議が止まるようなこともない。非常事態であれば速やかな意思決定が可能で、かつ時限立法だからという言い訳を含め、良いことのようにも見える。

 でもその実、この法案を成立させた議場の周囲はナチスの民兵である突撃隊と親衛隊が取り囲み、ハーケンクロイツの旗だらけの会議場で強行採決されたというのが実のところでした。

ヒトラーは「正義」になってしまった:独裁体制はこうして完成された

 上の「全権委任法」では、首相と内閣は憲法に違反する法律をいくら作っても大丈夫と定めるものでしたが、大統領はこれに対して留保の権限を持っていました。

 ところが法案成立の時点でヒンデンブルク大統領は85歳の高齢で、かつ前立腺などの疾病のため、すでにまともに公務が執行できる体調ではなかった。当然ながらそれを織り込んでの「大統領権限留保」でした。

 果たして、と言うべきか、それからたった1年4カ月後の翌1934年7月、86歳のヒンデンブルク大統領が危篤に陥ると、ヒトラー内閣は「大統領が死去した場合は首相がその任を兼ねる」とする内容の「ドイツ国家元首法」を内閣立法で作ってしまいます。

 そしてこの8月1日の「元首法」制定を待っていたかのように8月2日ヒンデンブルク大統領は死去し、その追悼のマスメディアに乗せて「後継者はヒトラー」という既定路線が情宣され、8月19日には国民投票が行われ、実に9割近い賛成票を得てアドルフ・ヒトラーはドイツの国家元首として認められてしまいました。

 このとき「首相兼大統領」という呼称の代わりに用いられるようになったのが「総統(Führer und Reichskanzler)」国家指導者兼内閣総理大臣という呼び名でした。

 全権を持った時点で、ヒトラーは定義に従って「正義」になってしまったのです。国家元首、内閣総理大臣件国家指導者のヒトラーこそが、憲法に優越してすべての国の「正義」そのものになった。

 彼が法であり、彼が正しい。ヒトラーは英雄であり、彼の考えに従って国は指導されていきます。その果てにいったい何が待っていたか・・・。

 今さら言うまでもないでしょう。「ヒトラーの戦争」を許容してしまった体制の変化が、実際どのように発生してしまったか、今日という日に振り返るのは日本人にとって参考になる部分があると思います。

 元来、彼を牽制するためにあったはずのメカニズムを、彼自身が兼任したことで、三権分立という近代法治国家の原則は溶解し、ここに「全体主義国家」という化け物が生まれてしまった。

 この「兼」というのが一番いけないことが、いまさらながらによく分かります。

 「全権委任法」では、憲法ですら抑止することができない首相の暴走への唯一のストッパーが大統領権限だったのに、その大統領を首相が兼ねることになってしまったら、もう誰も国家の「正義」に「待った」をかけることができません。

 そうやって出来上がってしまったのが「ヒトラー総統」という化け物であり、ナチス・ドイツ、つまり「神聖ローマ帝国」「ドイツ帝国」に続く「第三帝国」と呼ばれた全体主義国家、ファシズムの体制にほかなりませんでした。

 いま21世紀の私たち日本社会で、個別の選挙の際、有権者は公約の具体的内容にどれくらい真剣な考慮を払っているでしょうか?

 憲法を論点に据えても、選挙民の関心は全く高まらず、より生活に直結した争点の方がはるかに集票に直結すること・・・これは1933年のドイツも21世紀の日本も、あまり違いがない可能性があります。

 そんな中で、法律条文のほんの少しの改変が、国の大本をすっかり様変わりさせてしまうこと。元来は相互監視やストッパーの役割にあったものを「兼任」などしてしまうことで、誰も暴走を止めることができない機構の怪物を生み出すことが可能であること・・・。

 歴史の事例から、私たちが学ぶべきものは、決して少なくないのではないでしょうか?












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最終更新:2013年08月16日 20:47