- 今日14日発売の週刊文春は、和子夫人(67)が岩手県内の支援者に出した手紙の全文を公表。小沢元代表が震災後、福島第1原発から拡散した放射能を恐れ、地元の被災地を訪問しなかったことに和子夫人が失望。離婚したことを報告する内容だった。
小沢一郎 妻からの「離縁状」全文公開
「愛人」「隠し子」も綴られた便箋11枚の衝撃 緊急特集 政局動乱
ジャーナリスト 松田賢弥+本誌取材班
政局がにわかに緊迫してきた―。野田首相が政治生命を賭ける消費増税法案の採決が迫り、小澤グループの動向が最大の焦点となっている。そんな中、小誌は小沢氏の政治姿勢に決定的な疑問符を突きつける文書を入手した。和子夫人が支援者に充てた悲痛な手紙を公開する!(週間文春2012.6.21号)
【離縁状全文】
まだ強い余震がある中、お変わりございませんか。
この度の大震災ではさぞご苦労がご家族・ご親類はご無事でいらっしゃたでしょうか。何のお手伝いも出来ず申し訳ありません。被害の余りの大きさに胸がつぶれる思いです。長年お世話になった方々のご不幸を知り、何もできない自分を情なく思っています(管理人注記 情けではないです)。
このような未曾有の大災害にあって本来、政治家が真っ先に立ち上がらなければならない筈ですが、実は小沢は放射能が怖くて秘書と一緒に逃げ出しました。岩手で長年お世話になった方々が一番苦しい時に見捨てて逃げ出した小沢を見て、岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました。お礼の手紙にこのようなことを申しあげるのは大変申し訳なくショックを受けられると思いますが、いずれお話しなければと思っていましたのでこの手紙を差し上げました。お聞き苦しいと思いますが今迄のことを申し上げます。
八年前小沢の隠し子の存在が明らかになりました。 ●●●●●といい、もう二十才をすぎました。三年つきあった女性との間の子で、その人が別の人と結婚するから引きとれといわれたそうです。それで私との結婚前からつき合っていた●●●●という女性に一生毎月金銭を払う約束で養子にさせたということです。小沢が言うには、この●●●●という人と結婚するつもりだったが水商売の女は選挙に向かないと反対され、誰れ(管理人注記 本文のまま掲載)でも金のある女と結婚することにしたところが、たまたま田中角栄先生が紹介したから私と結婚したというのです。そして「どうせ、お前も地位が欲しかっただけだろう」と言い、謝るどころかお前に選挙を手つだってもらった覚えはない。何もしていないのにうぬぼれるな」と言われてました。あげく「あいつ(●●●●)とは別れられないが、お前となら別れられるからいつでも離婚してやる」とまで言われました。
その言葉で、三十年間皆様に支えられ頑張ってきたという自負心が粉々になり、一時は自殺まで考えました。息子達に支えられ何とか現在までやってきましたが、今でも、悔しさと空しさに心が乱れることがあります。
お世話になった方々に申し訳なく、又、説明もできず、もしお会いしてやさしい言葉をかけていただ(本文 旧字体)いたら、自分が抑えられず涙が止まらなくなるのがわかり岩手に帰れなくなりました。選挙のときには、皆さんがご苦労されているのに、どうしても「小沢をお願いします」とは言えず、申し訳なさに歯をくいしばって耐えていました。
隠し子がわかって以来、別棟を建てて別居しています。S.Pさんや秘書の手前、料理や洗濯は変わらずやっていました。用事の時は、小沢は私に直接言わず、秘書が出入りしていました。
それでも離婚しなかったのは、小沢が政治家としていざという時には、郷里と日本の為に役立つかもしれないのに、私が水をさすようなことをしていいのかという思いがあり、私自身が我慢すればと、ずっと耐えてきました。
ところが三月十一日、大震災の後、小沢の行動を見て岩手、国の為になるどころか害になることがはっきりわかりました。
三月十一日、あの大震災の中で、お世話になった方々の無事もわからず、岩手にいたら何かできることがあったのではと何一つできない自分が情けなく仕方がありませんでした。
そんな中、三月十六日の朝、北上出身の第一秘書の川辺が私の所へ来て、「内内の放射能の情報を得たので、先生の命令で秘書達を逃がしました。私の家族も既に大阪に逃がしました」と胸をはって言うのです。あげく、「先生も逃げますので、奥さんも息子さん達もどこか逃げる所を考えて下さい」と言うのです。
福島ですら原発周辺のみの避難勧告しかでていないのに、政治家が東京から真っ先に逃げるというのです。私は仰天して「国会議員が真っ先に逃げてどうするの”なですぐ岩手に帰らないのか!内々の情報があるならなぜ国民に知らせないか」と聞きました。
川辺が言うには、岩手に行かないのは知事から来るなと言われたからで、国民に知らせないのは大混乱を起こすからだというのです。
国民の生命を守る筈の国会議員が国民を見捨てて放射能怖さに逃げるというのです。何十年もお世話になっている地元を見捨てて逃げるというのです。
私は激怒して「私は逃げません。政治家が真っ先に逃げ出すとは何事ですか」と怒鳴りました。川辺はあわてて男達は逃げませんと言いつくろい、小沢に報告に行きました。
小沢は「じゃあしょうがない。食糧の備蓄はあるから塩を買い占めるように」と言って書生に買いに行かせました。その後は家に鍵をかけて閉じこもり全く外に出なくなりました。二日遅れで届いた岩手日日には三月十五日国会議員六人が県庁に行き、知事と会談したとありました。
彼らに一緒に岩手に行こうと誘われても党員資格停止処分を理由に断っていたこともわかりました。知事に止められたのではなく放射能がこわくて行かなかったのです。
三月二十一日、「東京の水道は汚染されているので料理は買った水でやって下さいと書生がいいに来ました。しかしそのような情報は一切発表されていませんでしたので、私が「他の人と同じ様に」水道水を使いますと言いましたら、それなら先生のご飯は僕達で作りますと断ってきました。
それ以来、書生達が料理をし、洗濯まで買った水でやろうとしていました。東京都が乳幼児にはなるべく水道水を避けるようにと指示したのはその二日後です。すぐにそれは解除になりました。
(管理人注記 3月18日には放射性ヨウ素検出となっています)
三月二十五日になってついに小沢は耐えれなくなったようで旅行カバンを持ってどこかに逃げ出しました。去年、京都の土地を探していたようですのでそこに逃げたのかもしれません。
その直後、テレビやマスコミが小沢はどこに行った?こんな時に何をしているかと騒ぎだし、自宅前にテレビカメラが三、四台置かれ、二十人位のマスコミが押しかけました。それで、あわてて避難先から三月二十八日に岩手県庁に行ったのです。ご存知のように被災地には行っていません。四月に入ってからも家に閉じこもり連日、夜若手議員を集めて酒をのみながら菅内閣打倒計画をたて始めました。菅さんが放射能の情報を隠していると思ったらしく相談を始めました。自衛隊幹部や文科省の役人に情報収集をしたようですが、発表以外の事実は得られず、それなら菅内閣を倒し、誰でもいいから首相にすえて情報を入手しようと考えたようです。この結果、不信任決議がだされ政治が停滞したことはご存知と思います。
この大震災の中にあって何ら復興の手助けもせず、放射能の情報だけが欲しいというのです。
本当に情けなく強い憤りを感じておりました。実は小沢は、数年前から京都から出馬したいと言い出しており後援会長にまで相談していました。
もう岩手のことは頭になかったのでしょう。
こんな人間を後援会の皆さんにお願いしていたのかと思うと申し訳なく恥づかしく思っています。
更に五月には長野の別荘地に土地を買い設計図を書いています。
多くの方々が大切なご家族を失い何もかも流され仮設住宅すら十分でなく不自由な避難生活を送られているときに、何ら痛痒を感じず、自分の為の避難場所の設計をしています。●●●という建設会社の話ではオフィスO(0?)という会社名義で土地を買い、秘書の中里が担当しているということでした。
天皇・皇后両陛下が岩手に入られた日には、千葉に風評被害の視察と称して釣りに出かけました。
千葉の漁協で風評がひどいと陳情を受けると「放射能はどんどんひどくなる」と発言し、釣りを中止し、漁協からもらった魚も捨てさせたそうです。風評で苦しむ産地から届いた野菜も放射能をおそれて鳥の餌にする他は捨てたそうです。
かつてない国難の中で放射能が怖いと逃げたあげく、お世話になった方々のご不幸を悼む気も、郷土の復興を手助けする気もなく、自分の保身の為に国政を動かそうとするこんな男を国政に送る手伝いをしてきたことを深く恥じています。
長い間お世話になった皆さんにご恩返しができないかと考えています。せめて離婚の慰謝料を受け取ったら岩手に義捐金として送るつもりです。今岩手で頑張っている方々がすばらしい岩手を作ってくれることを信じています。
ご一家には、本当に長い間お励ましお支えを頂きましたこと心から感謝しております。ありがとうございました。
七月には別の所に住所を移しました。
ご一家のご多幸を心より祈り上げております。
小澤和子
(注・受取人が特定される記述は一部省略。伏せ字は原文では実名である)
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