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第 二 章


 とにかく時間移動距離を伸ばす必要がある。
たった一ヶ月間の時間移動でハルヒを救えるとは思えない。
俺には協力者が必要だ。朝比奈さんは言った。今までのヒントをよく思い出して、と。
俺はすぐに、命を救い亀を与えたあの少年のことに思い至った。

この時代でタイムトラベルに関する話を切り出せるのは、彼しか思い当たらない。
彼に接触を試み、協力を仰がなければならない。

ハルヒは少年が近所に住んでおり、たまに勉強を教えていると言っていた。
ならばハルヒの母親に聞けばおそらく住所は解る。そしてそれはその通りだった。

 少年の家を訪ね、少年の部屋に通された俺は、ストレートに接触を試みることにした。
俺の外見は高校生の頃に比べて多少は背が伸びていたものの、顔つきなどはあまり変わっていない。だが念のために俺は、以前君を交通事故から救った者だと告げた。

少年はすぐに思い出したようで、
「あのときはありがとうございました。当時は僕もまだ子供で、ロクなお礼も言えませんでしたから。あらためてお礼申し上げます」
 いかにも聡明そうな態度で深々と頭を下げた。
「礼は別にいいんだ。俺は今日、君にあるお願いをするためにやってきた」
「それはどういったことですか?」
「君にタイムトラベルに関する助言を得たい」
 俺の言葉に、少年は少なからず驚いた表情を見せた。今の少年は俺が初めて長門から電波話を聞かされたときのような気分なんだろうな、と推測した。

だが、少年の反応は予想とは異なっていた。
「あなたはなぜ僕が時間移動の研究をしていることをご存知なのですか?」
 既に研究に着手しているということか。ならば話は早い。

「もしかして、あなたが亀を川に投げ込んだことや、あの記憶媒体もそれと関係があるのですか?」
 記憶媒体の住所はこの家ではなかったはずだ。そう言う前に少年が解答をくれた。
「記憶媒体はご存知ないですか? 僕は友人からそれを譲り受けたのですが、もしやあなたが手配してくれたのかと」
 なるほど、巡り巡って結局はこの少年の手に渡っていたわけか。確かに辻褄は合う。
さらに言えば、朝比奈さん曰く時間平面理論の基礎中の基礎だという、ハルヒが書いたわけの解らん論文めいたものも大いに関係があるんだが。

「涼宮さんの論文は僕が時間移動の研究を始めるきっかけになりました。そして今も時間移動に関するインスピレーションを与え続けてくれています。それに亀が投げ込まれたときの波紋のイメージが合わさって、さらに論文の理解度が強化されています。時間の流れと水の流れというものは、次元こそ違えど共通する部分は多いですからね」
 そんなものなのか?

「ええ。また、あの記憶媒体ですが、あれは現存するいかなる電子的記憶媒体のフォーマットとも異なっていて、正しいデータの読み出しすら困難です。現在のところ、データのパターン分析をおこなっているところで、それによればかなりの部分のデータが破損しています。しかしながら、これは偶然に発見したのですが、破損していないデータの構成パターンが、実は涼宮さんの論文のデータと一致するんです。おそらく今とは異なるデータの扱い方をすれば、パターンではなく詳細な情報まで全て一致すると考えられます。ところであなたは涼宮さんのこともご存知なんですか?」
 俺はそれには答えず、話を続けた。
「それで、俺の助けには応えられそうか?」
「タイムトラベルに関する助言とおっしゃいましたよね。正直なところそれは出来ません。したくないと言うことではなく、物理的に無理だという意味です。現状ではタイムトラベルは理論上可能とされていますが、それをどうやって実現するのか、全く解っていない状態ですから」
 現時点では確かにそうだろうな。ならば俺は賭けに出るしかない。

「実は、その論文や記憶媒体よりももっと重要なデータ、それはタイムトラベルの理論の核心と言ってもいい。それを俺は持ってるんだ。それを知りたいとは思わないか?」

 その重要なデータとは、言うまでもなく俺の頭の中に存在するSTC理論そのものだ。
これは歴史改変にあたることなのかもしれない。もしかすれば、本来ならもっと後になるS
TC理論の発見を前倒しすることになるからだ。

だが、俺は疑問に思っていることもある。
STC理論について、以前朝比奈さんは言語では伝えられない概念だと言った。ではそれを人類はどうやって獲得し普及させたのか。
また朝比奈さんは、未来の人類は今で言うコンピュータネットワークのようなものは使用せず、それは人間の脳内に無形で存在する、とも言った。
つまり、未来の人類は言語を用いずに人間の脳から脳に直接情報を伝達する術を得たということだ。朝比奈さんが時空を越えたテレパシーのようなもので未来と連絡を取り合っていたこととも符合する。
つまり人類はSTC理論よりも先に言語ではないコミュニケーションの手段を完成させたと
いうことなのかもしれない。

だが俺はひとつの仮説を立てた。それは人類の中の一人が偶発的にSTC理論とTPDDを手に入れ、それが次第に波及したのが未来の姿ではないのだろうか、と。
そして、その一人というのが実は俺のことなんだと。
もっとも、そんな仮説をあれこれもてあそんでいる暇はない。俺は古泉とは違う。
俺は朝比奈さんの言葉に素直に従うことにした。俺は俺の信じる道を進むしかない。
「あなたがそれほど重要なデータを持っているのであれば、僕の助言など必要ないように思えますが」
「その問いには正直うまく答えられないんだが……俺にはその理論をいまひとつ理解しきれないんだ。君がもしそれを得ればきっと俺以上に理解出来るように思う」

これは全くの本心だ。俺はSTC理論を得た今でさえ、ハルヒの論文を読み返してもさっぱ
り理解出来なかったからな。
「なるほど。ではよろしければそれを僕に見せていただけますか?」
「それを伝えるのには条件がある」
 少年はやや躊躇したが、その条件を教えてくれと言った。

「俺が持っているデータだが、もしかしたら君にうまく伝わらないかもしれない。その場合はこの話はなかったことにして、今日起こったことはすっかり忘れて欲しい。また、伝えるのに成功した場合もそうだが、今日のことは誰にも話さないで欲しい。それを約束出来るか?」
 もしうまく伝えられなかった場合、今回の試みは明らかに失敗に終わる。少年には今日のことは全て忘れて今までどおりの生活を送ってもらわなければならない。

「なるほど。それがそれだけ重要なデータなのだということは理解しました。ですが伝わらないかもしれないとはどういうことでしょうか。そのデータを紙でも電子媒体でもいいのですが、何らかの方法でいただけさえすれば、僕はなんとかそれを読み取る努力をしますが」
 少年の疑問はもっともだった。だが、何しろそれを伝達出来るかどうかは、俺にだって解らない。それは言葉で伝えられるものではない。
言葉を用いない概念は、言葉以外のものでしか伝えられないのだ。

「今は残念ながらその疑問には答えられない。だがさっきの約束を守ると言ってくれれば、今すぐにでもそのデータを伝える努力はする。君に伝わるかどうかは、さっき言ったように俺にも保障は出来ないんだが」
 少年はしばらく迷う素振りを見せたが、
「解りました。先ほどの条件、お約束します」

どうやら不安よりも学者的好奇心が勝ったようだった。
俺は少年の目を見て、おそらく大丈夫だろうと予想した。
「では、まず今の時刻を覚えてくれ。ああ、腕時計はダメだ。部屋の時計を見てくれ。そうだ。忘れないでくれ」
 少年は意味が解らないという表情をしていたが、一応は素直に従ってくれた。
俺は少年の手を取り部屋の隅の方に移動させ、朝比奈さんに連れられて初めて時間移動したときのことを思い出しながら言った。
「肩の力を抜いてリラックスして、そして目を閉じてくれ」

五分後のこの部屋の同じ位置に時空間座標を設定し、時間移動を開始する。
そして体がグラっとする感覚がきた。
五分後の世界には五分後の俺と少年がいて、何やら話し込んでいた。
少年は到着するなり、体全体の力が抜けたようにその場に座り込んだ。

俺は少年が、いきなり別の俺たちが目の前に現れたことに対して驚きのあまり腰を抜かしたのだろうと思った。
が、少年はすぐさま部屋の時計に目をやり、さらに驚愕の表情を顔に浮かべてこう言った。
「こ、こんなことって……これが時間移動……今までの僕の理解なんて、ほんの氷山の一角の、そのさらに欠片のようなものだったなんて……」

どうやら俺とは根本的に頭の出来が違っているらしい。少年は今まさに自分がタイムトラベルをおこなったということをたちどころに理解したようだった。
何はともあれ、目的は無事達成されたようだ。あとは少年次第だ。俺たちは元の時間平面に戻った。

少年は、興奮しつつも、ゆっくりとした口調で語りだした。
「涼宮さんの論文は、時間移動の基礎の理論と言えます。時間はアナログではなくデジタル情報であり、それらのデジタル情報を平面に例えて、積み重なったその平面をY軸方向に移動することで時間移動を可能にする、という理論です。今言ったのは言語化可能なレベルでのモデルを用いた説明であり、時間移動の本質は人間の脳内に存在する時空間の知覚システムを追及しないと解明出来ないと考えられます」

脳内システムはともかくとして、前半の話は今まで俺が散々色んな人から聞かされてきた内容と同じだ。
「今の時間移動をとおして、僕は時間移動の基礎理論を得たとともに、僕の脳内の知覚システムが改変されたのだと思います。おそらくですが、これは言語で概念を説明出来るものではなく、実際に体験を通してでしか得ることが出来ないものだと推測します」
 まさにその通りだ。どうやら少年は時間移動の刹那に、ハルヒの論文、つまり時間平面移動理論の基礎を完全に理解したようだった。

「早速で恐縮なんだが、ひとつ教えて欲しいことがある。仮説でもなんでも構わない。俺は時間移動を最大で一ヶ月間しか出来ないんだ。例えば一ヶ月前からさらに一ヶ月遡ろうとしてもダメだった。その理由が解るか?」
 俺は正直なところ明確な答えが返ってくることは期待していなかった。
だがそれに対して少年は即答した。
「あなたの脳内における時空間の知覚システムがまだ開発されきっていないことが原因だと考えられます」
 知覚システムの開発? それはどういうことだ?
「これは少し実際の概念とは異なるかもしれませんが、イメージで説明すれば、あなたはまだ時間移動に慣れていないのだと思います」
 なるほど、そういうことか。では時間移動距離を伸ばすためにはどうすればいい?

「時間移動の回数を重ねることです。要するに訓練ですね。そうすればいずれ時間移動距離は伸び、飛び石的な移動、つまり同一方向への連続的な時間移動も可能になると思います」
 時間移動に訓練が必要だとは。実は案外大変なことだったんだな。
 朝比奈さん(小)は正直に言って頼りない人だったが、実はそういった訓練を充分に積んだエキスパートだったってことだ。
話しているうちに五分はゆうに過ぎていた。どうやら話し込むあまり、俺たちは五分前から移動してきた俺たちの姿に気づかなかったようだ。
さらに少年は話を続けた。

「この理論をベースに、今後人間の脳の機能、特に知覚機能をさらに発展させる研究が可能になると思います。例えば言語を用いずに意思をコミュニケート出来るような、そういったことが実現するかもしれません」

なるほど。やはり全ては今このとき、この場所から始まったのかもしれない。
「研究には長い時間が掛かると思われます。脳医学の分野からのアプローチもさることながら、おそらくあの記憶媒体のデータを解析することから始めるのが近道のように思われます。あのデータの出所は不明ですので不安はありますが、それでもデータの一部が涼宮さんの論文と一致するという点を考えれば、試してみる価値は大いにあります」

少年はなおも続ける。
「破損していないデータは、涼宮さんの論文と共通する箇所を基に、情報の変換パターンを解析すれば、比較的すぐに読み解けると思います。破損したデータを解析するのは、これは一朝一夕では出来ません。少なくとも破損していないデータを全て読み解き、その内容を完全に理解することによりそれらの中から本来のデータ部分と冗長データ部分を確実に切り分け、データの解読方法を確定させることによって初めて破損部分のデータの伸張・復号が可能になります。さらに、その中で冗長データでは補えない部分を、別の理論で補完する必要性もあります。つまりは復元の糸口を得るためだけにもそれなりの時間がかかり、全てのデータを復元するのにはさらに時間が必要だということです」

後半の用語は全く理解出来なかったが、それは結局のところどれくらいの時間がかかるものなんだ?
「おそらくは、破損していない部分におよそ三十年、破損している部分におよそ二百年、といったところだと思います」
 軽いめまいを覚えた。どうも学者様の時間感覚は、常人とは少し違うらしい。
「それは大勢で手分けすれば時間が短縮出来るものでもないのか?」
「今ざっと算出した所要時間は、脳内に時間移動の基礎理論が出来上がっている人間が解析することを前提にしています。つまり僕のような、時間移動をおこなったことにより時間移動理論を獲得した者が研究に従事したとして、それだけの時間がかかるということです。大量の人間に時間移動を経験させ、それらの人たちが研究をすれば、あるいは研究に要する時間は短縮可能でしょう。しかしながらそのような方法は極めてリスクが高いと考えます」

それはなぜだ?
「時間移動によって一体何%の人が時間移動理論を得られるのか、僕にもそれは解りません。理論を得られなかった人には、あなたがさっき僕に念押ししたように、時間移動の事実を隠してもらわなくてはならないでしょう。ですが情報というのは確実に漏洩し拡散するものです。いたずらにそういった実験を繰り返して、時間移動を経験した人が増え続け、その情報がどんどん広まっていくような世界は、僕にとっては非常に恐ろしいものに思えます」
 確かにその通りだ。さすがに頭がいい。
つまりはそういった事情により、信頼のおける人間のみで構成され、機密を守りつつ、実験や研究を続けているのが未来人組織ということになるんだろうな、と俺は想像した。
それであれば、やたらに禁則事項が多いという組織の方針にもなんとなく納得がいく。

「この時間平面上の人類で時間移動の経験があるのは、おそらく俺たち二人だけだと思って間違いない。君は今までどおり、時間移動に関する研究を続けてくれ。そうして何か有益な情報が得られたら俺に教えて欲しい。時間移動距離に関することは可能であれば今すぐにでも情報が欲しい」
「解りました」
俺は自分の連絡先を伝え、少年の携帯番号と、念のために記憶媒体を入手した人物の住所を手帳に記した。
「最後にひとつだけ教えてください。これは個人的な興味からなのですが。あなたは未来人に会ったことがあるんですか?」
 ある、と俺は正直に答えた。
「そうすると、あのときあなたが僕を交通事故から守ってくれたのは、もしかしたら未来人が関係しているのですね」
 重ねていうがさすがだ。甚だしく勘がいい。
こうして少年は、将来的に未来人組織が発足するための基礎となる研究を始めた。
なんとなくではあるが、これはきっと既定事項なんだろう。
そうなんですよね、朝比奈さん?

 やれやれ、まさか俺が未来人組織に一枚噛んでいたとはな。

 俺は今後のハルヒ救出活動にあたってとりあえずの難題を抱えることになった。
俺はすぐにでも仕事を辞めて、救出活動に専念するつもりだ。
まず俺は、家族に何と言うべきかについて悩んだ。当然ながら、正直に理由を話すわけにはいかない。
あれこれ悩んだが、結局俺はしばらく旅に出るとでも言っておくのがいいのだろうと考えた。
きっと家族は俺のことを心配するだろうが、今の俺にとってはハルヒ救出が最優先事項だ。
そしてもうひとつは極めて現実的な問題。具体的に言えば、どうしても金銭面で抜き差しならない状態になることが容易に想像出来る。
何しろ俺は就職後間もなく貯金も少ない状態でハルヒと結婚しちまったんだからな。
結婚ってのが披露宴なんかしなくても充分金のかかるものなんだと俺はそのとき初めて知った。
そして、言うまでもなく貯金は既に使い果たしている。
ただでさえこれから心配をかけるであろう家族に、事情も説明せずに金銭面の援助を申し出るわけにもいかない。
せっかく時間移動が出来るようになったんだからギャンブルで一気に稼いだらどうだ、とも考えたが、その案は俺自身が即座に却下した。
たった一分間の時間移動、それですら俺は既定事項の遵守ということに神経を尖らせるようになった。

 仮に俺が競馬で不当に儲けたとする。そうすることによって、俺が儲けた金額の分だけ確実に他の誰かの取り分が減るのだ。それが一体どれだけ歴史に影響を及ぼすのか、俺には全く予想不可能だった。
たとえ朝比奈さんが言う閉ざされた歴史だとはいえ、そのことで知らない誰かを不幸にするのはさすがに躊躇われる。

 ならば古泉経由で元機関に金銭面の援助を得ることが出来ないか?
やはり古泉であっても事情を説明するわけにはいかない。STC理論やTPDDの存在をむやみに拡散させるのが正しいことでないのは明らかだ。
古泉は未来人の存在を知ってはいるが、具体的な時間移動の方法についての知識を持っているわけではないだろう。
そして、古泉の性格からすれば援助の理由を聞きたがるに違いなく、俺にはそれを黙りとおす自信はなかった。
おまけにハルヒの入院費用についても、古泉が立て替えてくれている。
返済はいつでも構わないと古泉は言ってくれた。
そんな状態でさらに資金援助を依頼するのはさすがに虫のいい話だった。
そして、そういった理由以上に、俺はこれ以上古泉や元機関の人たちを巻き込むわけにはいかないと考えていた。
過去の戦友を俺の個人的な都合で再び戦場に赴かせるようなことは、俺には出来なかった。

 事情を説明しなくとも、快く助けになってくれそうな人。
そうだ、俺には思い当たる人物がいるじゃないか。
朝比奈さんの同級生で、朝比奈さんが未来に帰ってしまった後もハルヒや俺とつきあいのある、元SOS団の名誉顧問のあの人が。
俺はダメ元で鶴屋さんにアポイントメントを取り付けた。

数年ぶりに鶴屋家の屋敷に足を運んだ。
既に鶴屋さんは鶴屋家の新しい当主となっていた。
「ハルにゃんはほんとに悔やまれるね……」
 と言ってくれた鶴屋さんに、俺は深々と頭を下げた。
「話があって来たんでしょ。まあ上がんなよ」
 いつか、朝比奈さん(みちる)が寝泊りした離れに通された。
 俺はどう話を切り出そうかとしばし逡巡したが、思い切って単刀直入に要件を伝えることにした。
「申し訳ないです。理由は詳しくは話せないんですが」

と前置きしたうえで、
とある事情のため仕事を辞めないといけなくなり、またしばらく仕事に就くことも出来ず、
とても厚かましいお願いですがしばらくの間金銭的な援助をお願い出来ないでしょうか、と。

 ひと通り聞き終えた鶴屋さんは、いつもの調子で、
「いいよっ」
 と、俺の身勝手な要望を驚くほど簡単に受け入れてくれた。

それどころか、鶴屋さんはこんなことを言い始めた。
「そろそろ来る頃じゃないかと思ってたんだっ、キョン君。いや、ジョン・スミスと呼んだ方
がいいのかなっ」
その言葉に俺は意表をつかれた。
ジョン・スミスという名前を知り得るのは、俺とハルヒと未来人以外ありえない。
長門ですら知っているかどうか確証はない。
その単語がどうして鶴屋さんから出てくるんだ?
「あれれ? この話はまだ言っちゃいけないことだったのかな?」
 鶴屋さんが実は未来人だったのか、あるいはTFEI端末だったのか、などと疑っている俺に、鶴屋さんはその理由を語り始めた。
「古泉君が所属していた機関については知ってるよね?」
 肯く。
「あたしんちが、その機関のスポンサーになってたことも古泉君から聞いてるよね?」
「ええ、聞いてます」
 鶴屋さんは俺と古泉のヒソヒソ話の内容まで知っているのか?
 などと訝しげな表情を見せていたであろう俺に、鶴屋さんは驚愕の事実を告げた。

「古泉君の所属する機関の創設者。それがキミ、ジョン・スミスさっ!」

 文字どおり、俺は腰を抜かした。
それを見て控え目に笑う鶴屋さんの話を総合すると、こういうことだった。
とある理由で鶴屋家に出入りするようになったジョン・スミスは、当時の当主であった鶴屋
さんの父親の助力を得て機関を作り上げたのだそうだ。
鶴屋さんがまだ中学生だった頃だ。
「その頃のことはよく覚えてるよ」
 と鶴屋さんは言った。
「ジョンはしばらくこの部屋で寝泊りしてたしねっ」
 それから数年後、俺が高校一年だった頃の初夏、草野球大会で俺と鶴屋さんは出会った。そのとき鶴屋さんは俺にジョン・スミスの面影を見出し、俺とジョンが同一人物ではないかということに思い至ったのだという。

「でも鶴屋さんは、俺のこと普通の人間だって言ってたじゃないですか」
「当時のキョン君はまだ普通の人間だったしさっ」
 確かに。今ではすっかり未来人という立場に片足くらいは突っ込んでる状態だけどな。

「まぁからかい半分で色々とキミに口滑らしちゃったりはしたけどさっ。でも、先に口滑らし
たのはジョンの方なのだっ!」
 今思い起こせば、俺に地球の未来がかかってるとか、未来人と宇宙人のどちらを取るか決めとくようにとか、そんなことを言われたな。
鶴屋さんによれば、これから過去に行くことになる未来の俺――ええい、ややこしい――は、どうやら過去の鶴屋さんに色々と情報を漏らしているようだ。

そんな鶴屋さんの話に驚きつつも、俺はこの先に待っている、かなり真剣に取り組まなくてはならない事態について考える羽目になった。
俺があの構成メンバーの解らない、いや構成人数すらも解らない謎めいた、と言うよりほとんど謎ばかりの超能力者機関なんてものを立ち上げなきゃならんのか?
いずれ過去に行って、どこにいるのか、それどころか古泉以外は誰なのかも解らない超能力者たちを探し出さなくちゃならんのか?
これも既定事項なんですか、朝比奈さん?

やれやれ、まさか俺が超能力者機関に一枚噛んでいた……どころか首謀者だったとはな。

 そういうわけで、俺は鶴屋さんから金銭的援助を受けることになった。
恐縮しきりの俺に対して鶴屋さんは、
「キミがこれから作る機関とやらに、鶴屋家は一体どれだけ投資したか知ってるかい? それに比べれば、当面キョン君を食べさせるくらい全然わけないさっ!」
 ほんとに、何から何までお世話になりっぱなしです。鶴屋さん。
「いやー、実はジョン・スミスには、私もかなり世話になってるのさっ!」
 今日一番の疑問だ。俺がこの鶴屋さんに対して出来る世話なんて、一体この世の中のどこにあるというのだろうか?
「キョン君、がんばんなよっ。キミにハルにゃんと地球の運命がかかってるんだからねっ!」
 これから俺が何をしようとしているのかさえも、鶴屋さんはお見通しのようだった。

 鶴屋家を訪問してからしばらくの間、俺は時間移動の訓練に明け暮れた。
少年が言うように、時間移動の回数を重ねるたびに、少しずつではあるが、時間移動距離は伸びていた。
そして、それを三日くらい続けた後、俺はその事実に呆然とした。
ほぼ休憩なしに訓練をおこなって、一日あたりに二十分程度伸びることが解った。
計算してみると、時間移動距離を一ヶ月から一年に伸ばすために24120日かかる計算だ。 ……おい待てよ、これってどんどん過去が遠ざかってないか?

しばし頭の中が真っ白になっていた俺に少年から連絡があった。渡りに船だ。
「お話ししたいことがあります。今から僕の家にご足労願えますか?」
 少年の家に着くなり彼はこう話を切り出した。
「良い報せが一つあります。もう一つは私からの質問です。よろしいですか?」
 頷いて、続きを促した。
「まず良い報せのほうです。訓練のことについてですが、あなたの時間移動距離は伸び悩んでいませんか?」
 まさにその通り。それもかなり絶望的に。
「一般的に人間の脳が何かを学習するとき、その学習効果は大まかに言うと連続的な伸びを示すものと非連続的な伸びを示すものの二種類に分けられます」

それはなんとなくだが俺にも理解出来る。学習によって少しずつしか効果の上がらないようなものもあれば、ある日を突然効果が飛躍的に上がるようなものもある。
「その通りです。脳内における、時間移動に関する知覚分野の位置からの推測ですが、時間移動距離を伸ばすための学習効果は、後者に該当すると考えられます」

要するに、あきらめずに訓練を継続すればいずれ効果は飛躍的に伸びるということだな。
「そういうことです。おそらく飛び石的時間移動もある日突然出来るようになると思います」
 なるほど。でもどうしてそれが解るんだ?
「先日の出来事以来、僕は自分の脳内の働きを直感的に理解出来るようになりました。例えばこうしてあなたと話している今も、僕の脳内でどの部分が積極的に働いているかを感じ取れるんです。現代科学では脳の活動を厳密に測定するのは不可能なのですが、今の僕にはそれが手に取るように解ります」
 たった一度の時間移動で、少年の脳内は著しい発達を遂げたようだった。俺は何かすごく大それたことをしてしまったような気がした。

少年は一呼吸おいて、
「続いて、質問させてください」
 そろそろ来るか? と思っていた俺に予想通りの質問が飛んできた。
「あなたがどうやって時間移動を出来るようになったのか、そしてこれから何をやろうとしているのか、それを教えてください」
 やはり来たか。
 これは一体どこまで話していいものやら。真相を説明するためには、ハルヒのことだけではなく、未来人、宇宙人、果ては超能力者のことまで話さないといけないかもしれない。
どうしたものかと考えあぐねる。
「話しにくいのであれば、僕の推論を聞いたうえで、答えてください。イエス、ノーで構いま
せん」
「解った」
「あなたがタイムトラベルについての助力が欲しいと言ったとき、僕はあなたが歴史を改変するつもりなのではないかと推測しました。違いますか?」
 少し迷ったが、
「そうだ」
 正直に答えた。
「僕はまず悪用の可能性を考えました。あなたの一挙手一投足によって歴史は変わります。あなたが望み、あなたがそれを実現するために行動すれば、あなたは歴史を自由に変えることが出来るでしょう。そしてそれが世界にとって悪い方向に進む可能性があったとすれば……。その内容次第では、僕はこれ以上あなたに協力することは出来ません」

真っ当な意見だ。少年には当然そうする権利がある。
彼が正義感の強い人物だということは、短いつきあいだが俺にだって解る。
「あなたに悪意がなくとも、あなたの取った行動が未来の人類に悪影響を及ぼす可能性も当然考えられます。どのような結末になるかは僕にもあなたにも解りません。ですがあなたに協力することは、すなわち僕はそれに加担するということです」

俺が言葉を発する余裕もなく彼は話を続けた。
「失礼ながらあなたと涼宮さんのことを調べさせてもらいました。あなたが涼宮さんのご主人であることを知り、僕はある結論に至りました。言ってもいいですか?」
「言ってくれ」

「あなたは、涼宮さんによってタイムトラベルの能力を与えられた。そしてあなたの目的は涼宮さんを死なせない歴史を作ることです。違いますか?」
 推理の矢は見事に核心に突き刺さっていた。

「その通りだ。だがなぜそれが解る?」
「僕も涼宮さんとはそれなりに長いつきあいです。彼女が普通の人間とは違う存在だということくらいは僕にも解ります」
 俺は想像した。もしかしたらこの少年もハルヒによって何らかの能力を与えられた存在なのではないかと。古泉のそれは目的を失い消滅したが、この少年の能力は今も生き続けているのではないか、と。

「僕は、涼宮姉さんには本当によくしていただきました。また、あなたと一緒におられた女性と交わした約束は今もずっと忘れていません。何よりもあなたには感謝の言葉もないくらいです。僕が今こうして生きていられるのは、間違いなくあなたのおかげです。これが偶然なのか必然なのかは解りませんが、僕はあなたたちに賭けてみようと思います」

彼は、俺の目を見つめて、
「覚悟を決めました。あなたに救っていただいた命です。たとえその結果、最悪の結末を招こうとも」
 そして、こう宣言した。
「僕はあなたを信じます」

 俺はその後も引き続き、食事も睡眠もほとんど取らず訓練に明け暮れた。
一ヶ月あまりをそのように過ごし、昨日の訓練により今までおよそ一年だった時間移動距離が一気に六年に達したのだった。
これでも朝比奈さんにはまだまだ遠く及ばない。朝比奈さんは今より何十年、何百年先かも解らない時間平面から俺たちが中学生だった頃まで時間を遡っていたんだからな。
ハルヒは原因不明の難病で命を落とした。

であればハルヒを蘇らせるための手段は二つしか思いつかない。
難病を治すか、難病にかからないようにするかだ。
だが、その原因がウィルスによるものなのか、病原菌によるものなのか、あるいはハルヒ自身の内部的な要因なのか、そんなことすら俺には解らないのだ。
俺はこういうケースに力を発揮する奴を知っている。むしろそいつにしか解決出来ないことは明らかだった。
長門、頼れるのはお前しかいない。

今の時代の長門は情報統合思念体の本体に戻っていて、自律進化のきっかけを基に進化の可能性を探求し続けているんだろう。
この時間平面上で長門とコンタクトを取ることは不可能だ。
ならば俺が最後に長門に会ったあの日に行くしかない。だからこそ俺はそこまで時間を遡る能力を身につけるために、必死になって努力したのだ。
実は日々の訓練と同時に俺は長門を探し続けていた。
そして昨日までの一年間の時間移動で
は、ついに長門を見つられなかった。

だがそれも終わりだ。いよいよ今日の時間遡行で間違いなく長門に会える。
俺はようやくハルヒを蘇らせる手がかりを得られるのだ。

時間移動の準備を開始する。財布の中から身元が割れるようなものは全て取り除く。
うっかり落としでもしたら大変だ。誰かが気を利かせて未来の俺に届けてくれればありがたいが、それは間違いなく過去の俺に届き、過去の俺は混乱することになる。
混乱だけならいいのだが、俺の記憶によれば未来の俺の財布が俺に届いたことは一度もない。なるべく既定事項を破るリスクは避けなければならない。

手帳も同様で、俺の身元やハルヒを連想させるようなことは一切書いていない。
念には念を入れなくてはならない。
向こうでうっかり知り合いに出くわしたときのことを考えて、俺はサングラスをかけておく
ことにした。

ハルヒとつきあい出して、初めて二人だけで行った海。
絵に書いたようなどこまでも続く青い空
地平線が彼方に見える青い海、白い砂浜。
ハルヒがプレゼントにとくれたサングラス。
「あんまり似合わないわね」
なんて言ってたハルヒの笑顔を思い出す。

静かに時空間座標を念じる。北高の卒業式当日、長門と最後に会話を交わした直後。
長門のマンション。708号室前。
例の感覚の後、時間遡行は完全におこなわれた。

朝比奈さんから譲り受けた電波時計がその確かさを俺に告げている。
長門は寄り道をせずにまっすぐここに帰ってくるだろうか。
コンビニで弁当くらいは買ってくるかもな。お別れパーティーで俺たちはさんざん飲み食いしたが、長門ならまだまだ食べられそうだ。

そんなことを考えていると、エレベーターホールの方から見慣れた人影が現れた。
それはまさに、あのとき最後に会話を交わした長門の姿だった。
俺からすれば、四年七ヶ月ぶりに会う長門。
意外にも長門はその表情に驚きの様子が隠せなかった。

「久しぶりだな長門。ああ、お前はこの時間平面上の俺たちと別れたばかりか」
半径十メートルくらいなら幽霊すら含む全ての存在を感知しそうな奴が、俺の存在に気づかなかったとも思えないが。考え事でもしてたのか?
「入って」
 俺たちはいつものリビングの、いつものコタツ机に、各々いつもの位置に座った。

 俺はここに何度訪れているんだろう。そのたびに俺は長門に迷惑をかけた。
そして、今回も俺は身勝手な頼み事をするためにやってきたのだ。
事情を説明した。俺がTPDDを得て自力でここまで時間遡行をしたこと、今から四年と六
ヶ月後の未来にハルヒが死んだこと、その原因が解らず助けを得たいということ。

「あなたがTPDDを得ることは解っていた。でもあなたがここに来ることは想定していなか
った」
「なぜ俺が時間移動を出来るようになることを知っていたんだ?」
「おそらくそれはいずれ解るはず」
 長門がそう言うのならそうなんだろうな。それよりもハルヒを救うことの方が先決だ。
ハルヒが難病にかかった頃、長門は一体どこにいたのかは解らない。
それでも長門なら何らかの手段を講じて調べてくれるんじゃないか、と期待していた。
長門が世界改変事件以来、未来の自分と同期することを自ら制限したことはもちろん覚えている。だから俺はその制限を曲げてでも、なんとか原因をつきとめてくれないかと思っていた。いや、同期が出来なくても俺が長門を未来に連れて行けばいい。

だが返ってきた答えは意外なものだった。
「その時間平面上に私は存在しない」
「それって、情報統合思念体に戻ったということか?」
「ちがう」
 だったら何だ?
「わたしのメモリに蓄積されている情報には、地球上での生活が原因で多くのノイズが含まれている。情報統合思念体は不確かな情報を何よりも瑕疵とする。わたしは情報統合思念体への回帰を拒否された。つまりわたしは全ての役割を終え、存在価値を失った」
「…………」
 言葉が出なかった。
 長門は情報統合思念体のために六年もの間任務を続け多大な貢献を果たした。
少なくとも俺が知る限りTFEI端末の中で最も活躍したのは間違いなく長門だ。
そして長門は地球人の持つ感情を得ることになり、それが原因で情報統合思念体から拒絶されたということか。それってあまりにもひどい話じゃないか。
「私にはもう行くべきところも帰るべきところもない」
 ただでさえ重苦しい雰囲気の部屋がさらに重苦しい空気で占められていた。

 長門は立ち上がると俺に背を向け、
「さっき、この時間のあなたに別れを言った。今からわたしは、わたし自身の情報連結を解除する予定だった。これは決まっていたことのはずだった」
 俺は反射的に立ち上がり、長門に怒鳴った。
「自分を消すなんて言うんじゃねぇ!」
 こちらを振り返った長門を見て、俺は驚きを通り越して世界が暗転するような衝撃を受けた。

 長門の頬を一筋、大粒の涙がつたっていた。

「もう一度あなたに会えるとは思っていなかった。わたしは今、自分自身の思考が理解できない」
 長門は振り絞るような声で言った。
「わたしは消えたくない」
 声が全然震えていない。声だけ聞けば、いつもの長門だと思えた。静かな涙だった。俺を見据える瞳には涙とともに固い決意のようなものがうかがえた。
「長門、俺がお前を地球でずっと生きていけるように努力する。いいか、どこにも行くところがないなんて二度と言うんじゃないぞ」
 長門は目を閉じゆっくりと肯いた。涙が両方の頬を伝い、あごから落ちた。その涙は床にポツポツと花を咲かせた。

 ようやく落ち着きを取り戻した長門が口を開いた。
「涼宮ハルヒのことを詳しく聞きたい」
 俺はハルヒが突然倒れたこと、断続的に意識を失っていたこと、人類の医学レベルでは原因が解らなかったこと、倒れてから一週間足らずで命を落としたこと、などを話した。

「ハルヒを救ってやることが出来そうか?」
「それが可能かどうかは、実際に涼宮ハルヒが病気にかかった状態を見てみないと解らない」
「じゃあ今から行こう」
 俺は長門を連れてハルヒの元へと向かった。
ハルヒが命を落とす前日。
俺と長門は知覚遮蔽モードでハルヒの病室へと赴いた。

ベッドに横たわるハルヒと傍に付き添う過去の俺がいる。

「どうだ、原因は解るか?」
 長門は無言でハルヒの顔を覗き込んだ。表情が少しこわばったように思えた。
一分ほどそうした後、長門はようやく顔を上げた。
「…………」
 しばらくの沈黙の後、
「……怒らないで聞いて欲しい」
「どういうことだ?」
「…………」
 俺が承諾するまでは話しそうになかった。
「解った。言ってくれ」
「……原因は」
 長門は言葉を区切りながら話し始めた。ひどく話しづらそうだ。
「……情報統合思念体。急進派によるもの」
「なんだって?」
 急進派とは、朝倉のいた物騒な派閥のことか?
「情報統合思念体は混乱している。各派閥の間で激しい駆け引きがおこなわれている。今では、元の急進派が主流派となりつつある。おそらくは……」
 と前置きしたうえで、
「自律進化の可能性を得たがゆえに、未来との同期の制限を受けることになった情報統合思念体急進派は、さらなる制限を受けることに対する予防措置を講じたと考えられる」

「結局のところ、自律進化の可能性っていうのは何だったんだ?」
「情報統合思念体が得た自律進化の可能性とは、時間次元上の制限を課せられることと同義だった。つまり時間の概念を得ることが自律進化のきっかけだと情報統合思念体は判断した」
「つまり、未来が解らなくなることが、進化にとって重要だったってことか?」
「そう」
「それは解った。結局ハルヒが死んだ原因は何なんだ?」
「これは涼宮ハルヒに起こる身体的変化をトリガーとした時限装置。変化が起こった瞬間に涼宮ハルヒの生命活動が停止するように仕組まれていた。今こうして生命活動を維持し続けているのは本来ならあり得ないこと」

身体的変化? ハルヒに何があったんだ?
「涼宮ハルヒの能力は既にそのほとんどが失われている。急進派は第二の涼宮ハルヒの出現を危惧し、涼宮ハルヒの系譜を一切断ち切るための措置を施した。つまり……」
 長門はためらいがちに言葉を継いだ。
「トリガーは涼宮ハルヒの懐妊」

 一瞬思考が停止した。
「…………」
 長門は目を閉じ俺の反応を待っている。
「懐妊って……まさか……、俺とハルヒの子か?」
「……そう」
 血の気が引いた。頭の中が真っ白になる。
次の瞬間には、俺は全身の震えを感じていた。
体温が急速に上昇する。拳を握る。掌が熱い。
さっきの長門との約束など、俺は既に忘れていた。
俺は怒りにまかせて叫んでいた。この病院の防音設備のよさに感心する。この後、当直の看護婦の一人でも文句を言いに来るだろうと思っていたが誰も来なかったからな。
知覚遮蔽がされていなければ、おそらく病院中に響き渡る声で。
今までの人生でこれほどの強烈な怒りを覚えたことはなかった。
頭がどうにかなりそうだった。
ひとしきり叫び続けた俺は、糸の切れた操り人形のように、病院の冷たい床に崩れ落ちた。
まだ息が荒い。
「ごめんなさい……」
 長門、お前が謝ることじゃないんだ。頼むから謝らないでくれ。でないと、俺はお前まで憎んでしまいそうになる。
長門は目を閉じたままうつむいていた。微かにだが長門が震えて、また涙を流したのが解った。
俺には長門が長門なりに、俺への謝罪と思念体への怒りを表現してるように思えた。

 俺は長門を自分の住まいに連れて行き、作戦を練った。
「ハルヒの死を回避するためにはどうすればいい?」
「涼宮ハルヒへの時限装置が仕掛けられたのは第二の情報爆発のおよそ一ヵ月後。涼宮ハルヒから時限装置を取り除くのは私の能力では不可能。巧妙な仕掛け。取り除こうとした時点で涼宮ハルヒの生命活動は停止する」
「情報改変能力で、未来のハルヒの病気をなかったことには出来ないのか?」
「私の能力では涼宮ハルヒの能力を借りたとしても、一年以内の改変しか出来ない。その範囲内で原因を取り除いたとしても、急進派はもう一度時限装置を仕掛けることを試みるはず」
「他に方法はないのか?」
「原因を作り出さないようにするのが最も確実であり、それしか方法はないと思われる。時限装置を取り付けさせないようにする。つまり」
 長門は俺が想像もしていなかったことを淡々と言った。でも、北極海の氷よりも冷たそうな瞳からは、涙がどんどんあふれて、あごからぽつりぽつりと静かに落ちていた。

「涼宮ハルヒの情報改変能力を使って、情報統合思念体を消滅させる」
 そう言えば長門は以前世界を再構築したときにも同じことをやった。
「お前、それでいいのか? 情報統合思念体はお前のお仲間じゃないのか?」
 長門は言い切った。
「既に私は情報統合思念体と決別する覚悟は出来ている」

 卒業式の三日前に起こった第二の情報爆発。春先を思わせる季節外れの暖かさが不穏な空気をことさらに際立たせていたあの日に俺たちは飛んだ。
「侵入する」
 モノクロームの世界のあの場所で、今まさにハルヒによる第二の情報爆発が始まろうとしていた。それは俺とハルヒの二度目のキスにより起こったのだ。
長門のプランは、この情報爆発の瞬間のハルヒの力を借りて、時空改変により情報統合思念体を消滅させることだった。
「もうすぐ始まる」
 長門の言葉の直後に俺は激しい振動を感じた。情報爆発が始まったのだ。
TPDDを得た今なら解る。この時空振動がいかに大規模かということを。
長門が情報統合思念体の抹消作業に入る。

片手を上げ、空間を掴み取るような動作をした。

「お待ちなさい」

 俺たちの背後から、声が聞こえた。振り返る。
そこには明らかにこの場所には似つかわしくない姿の老人が笑みを浮かべていた。
「危ないところでした。あと数秒発見が遅れていたら、取り返しのつかないことになっていましたな」
「誰だお前は」
「長門君、説明してさしあげなさい」
 長門を見た。長門の無表情の中に驚きの色が見える。
「……情報統合思念体主流派の指導者であり、情報統合思念体の全てを司る統括者。わたしの創造主」
 なんだって?
「そう言うあなたこそどなたですかな? 朝倉君の報告とも少々違うようですが……まあよいでしょう」
 何のことだ?
「どちらにせよ、涼宮さんを殺したことであなたが動くのは想定外でした。あれは誠に申し訳なかった。私どもの急進派の勇み足でしてね」

 落ち着いた口調で老人は続けた。
「急進派は、どうやらあなた自身には何の力もないということで見逃したようですが、かえって仇になりましたな。まあ彼らも必死でしてね。どうかご理解いただきたい」

「てめぇ、人一人、いや二人殺しておいて、なんていい草だ!」
「おやおや、あなたがたも私どもの朝倉を自分達の都合で亡き者にしたはずですが」
「それとこれとは話が違うだろうが!」
「まあ、あなたと罪の定義について話しても詮無きことです」
「何しにきやがった」
「私がやって来た理由は当然お解りのはずですが。もったいぶってもしょうがありませんな。もちろん、あなたがたがやろうとしていることの阻止です」
「元はと言えば、お前らが蒔いた種じゃねぇか!」
「議論の余地はありませんな。ではそろそろ始めさせていただきましょう」
 老人が、先ほどの長門と同じように右手を上げた。
「まずい」
 長門が呟くように言った。
「どうした長門」
「涼宮ハルヒの力を逆用される。止められない」
 次の瞬間、俺は全身でその意味を知った。
「これは……」
 俺は戦慄していた。これから起こることは、今ハルヒがおこなっている時空改変ともまるで桁が違う。
過去一年間の時空改変なんていう生半可なものじゃない。全宇宙の、遠い未来の歴史までもが一気に塗り替えられるような、超弩級の時空振動を俺は感じていた。
「これは我々にとっても大きな代償を伴うこと。これから涼宮さんの第一の情報爆発がなかった世界に改変し、我々が持つ涼宮さんに関係する記憶を一切抹消します。我々はこれが最善の策だと考えました。我々は自律進化の可能性よりも現状維持を選んだということです」
「お前らは……あれだけ自律進化の可能性を待望してたじゃねぇか」
「自律進化の可能性を得ることで、我々の存続自体が危ぶまれました。皮肉なものです。我々があれだけ望んだことが、逆に我々をここまで混乱に陥れることになるとはね」

 老人は片手を上げたまま、話を続けた。
「あなたがたのように涼宮さんの力を利用し我々に危害を及ぼす存在がいる以上、本来であれば過去の涼宮さんを亡き者にすべきなのですが、あいにくそれはあまりにも危険でしてね。第一の情報爆発から能力を失うまでの涼宮さんには迂闊に手は出せません。それによって何が起こるか全く予想出来ませんからね。最悪の場合この宇宙が終わることも充分あり得ます。ならば、情報爆発以前の涼宮さんを消滅させればよいのですが、残念ながら恒久的時間断層のおかげで我々は一切手を出せません。涼宮さんも、無意識とはいえ見事な防御策を考えたものです。そういったわけで私どもは第一の情報爆発発生と同時にそれ以降の歴史を全て書き換えることにしました。涼宮さんの第二の情報爆発、つまり今ですな、この瞬間の涼宮さんの力を利用し世界を改変するのが最良だと判断したわけです」

 どこまでも勝手なことを言いやがって。
「第一の情報爆発の発生過程は私どもにも全く解りません。とはいえ、それは元々超自然的かつ奇跡的な確率でおこなわれたことと推測しています。おそらくはもう二度と情報爆発は起こらんでしょうな。ですが唯一懸念すべき存在、無視出来ない不確定因子について我々は検討しました。あらゆる可能性を考慮し、何事も一部の怠りなく遂行するのが我々の常でしてな。私どもの長門もあなたには大変お世話になりました。ですのでこれは非常に残念なことなのですが」
 老人はおだやかな笑みを崩さずにこう言った。

「あなたには今ここで消えてもらいましょう」
 老人が口元をわずかに動かしたその瞬間、突然俺の両腕が指先の方から輝きとともに粒子となって崩れ落ち始めた。朝倉のときに見た情報連結解除ってやつだ。
それがまさか俺の身に降りかかろうとは。不思議と痛みは全くない。
足元に目をやると、両足も同様の状態になっていた。

しばし呆然として両手を眺めている俺と老人の間に長門が割って入り、俺の腕の残っている部分を手に取るといきなり歯を立てた。
以前に噛まれたときとは違う。なぜなら普通に痛い。
そのおかげか崩壊のスピードが幾分遅くなった。が、いまだに崩壊は収まらない。
「間に合わない」
長門は俺の腕の、まさに崩壊最前線の部分に自分の手を差し出し、呪文の高速詠唱を始めた。
今度は成功したのだろう。崩壊のときとは逆再生のように手足が情報連結されていく。
だがそれで俺は全く安心出来なかった。
俺の手足が再生されるのと同時に、今度は長門の手足が崩壊しはじめたからだ。

「おやおや長門君。君は我々を裏切り、自らの身を呈してまで彼を救おうというのですか。私には君の行動が理解出来ませんな。やはり君を思念体に回帰させなかったのは正解だったようですね」
 老人の微笑みがいまいましい。くそっ。
「逃げて。出来るだけ遠くの時空間へ。あなたが今ここで消えれば涼宮ハルヒが蘇る歴史は永遠にやってこない」
 身代わりになったお前を残して、俺だけ逃げるなんてことが出来るか。
長門は既に両手両足はおろか、胸のあたりまで崩壊が進んでいる。朝倉のときとは崩壊のスピードがまるで違う。
「早く!」
 長門が今まで聞いたこともない大声で叫んだ。

俺は覚悟を決めた。
「長門、俺は必ずお前を復活させる。もちろんハルヒもな。そして俺は必ず戻ってくる!」
 どこでもいい。こことは違う、なるべく遠くの時空へ。座標設定なんぞしてる暇はない。
例のグラっとする感覚がきた。時間移動の開始。
そして、長門はついに俺の目の前で完全に消滅した。
「長門!」
 そう叫んだ瞬間、突然の閃光に目を閉じる。
「あなたを消し去るのは残念ながら失敗のようですね。ですがせめてこれくらいの対処はさせていただきましょう」

老人の言葉とともに頭が割れるような痛みを感じ、そして俺は意識を失った。